半分だけの物語(後編)ヘンリー・ヴァン・ダイク 山田由香里訳

半分だけの物語
ヘンリー・ヴァン・ダイク 作
山田由香里 訳

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気晴らし

 ある村に三つの家族が隣り合って住んでいた。それぞれ裏庭が接し、玄関は同じ向きに並び、おまけに税金、水道料金、かさむ生活費にはみな同じように不満をもらしていた。だが、意見の食い違うところもあった。一軒目は神秘主義、もう一軒は無神論、そしてもう一軒の主は自分を「ぜん息もち」だと言っているが、実は消化不良も抱えているのだった。
 この三家族は互いに隣人をとても大事にし、夫同士は顔をあわせれば様々な話題で大いに論じ合っては盛りあがる、というつきあいをしながら友情を育んできた。それにくらべて三人の妻たちは、こうした議論を好まなかった。もちろん彼女たちもうまくつきあいたいと考えていた。そして実際に、私的なこと以外では意見が食い違うことなどありえなかった。互いをクララ、キャロライン、キャサリンと名前で呼び合い、顔をあわせると頬ずりをした。ただし、たとえば厚かましいメイドに対する苛立ちなどのように、誰もが賛成する話題しか持ちださぬよう気をつかっていた。
 しかし夫たちは、妻も仲間に入れてなごやかに過ごそうなどとは考えもせず、集まりたいときに集まって互いの生活の中に問題点を見つけては、愉快な残酷さをまじえて議論をした。特に将来のことについて論じ合うことが多かった。このようにみなで楽しく過ごし、友情は日に日に深まった。
「君の視点はわかったよ」と、明らかに悪意のない主張が述べられたあと、誰かの口から決まってこういう言葉が出たものだ。「多分その通りかもしれない。でも君は正しく理解していない」と相手は、先に意見を言ったものに理がある、とばかりにしつこく食い下がる。すると三人目は、どちらも自分が何を言っているのか分かっていないことを露呈している様子を眺めて面白がる、という具合だ。
 この議論は多くの場合、傍観者に得をさせまい、と残りの二人が結束して戦うという形で終わるのだった。というのも、二人の言い争いが矛盾している、と残るひとりが面白がって高見の見物をするのが常だからだ。
 しかし「この世のどんな楽しみも、いつかは飽きてしまうときがくる」というサンチョ・パンサ(1)の言葉は正しい。面白おかしい日々の論争も、数年続けばいつしか覇気も活気も失せ、やがて平穏なだけの日常がやってくるという不安が三人を襲った。議論もしだいに単調で味気なく、同じことの繰り返しになっていった。そしてただ自分の立場を主張するだけになった。「俺はこう思う」「彼はあんなふうに思う」「だったら、話し合って何になる?」という具合に。塩と胡椒というスパイスは会話の食卓からすっかり姿を消し、みなが黙々と自分の好きなシリアルを噛んでいた。ごちそうが並ぶ日々は過ぎ去り、相手に「年をとったら、もう来ないでくれ。最悪のときがもうすぐやってくる」と言わねばならないときが近づいた。
 ある日、深夜までにはまだ間があったが、激しい言い合いもないままお開きになろうとしていた。まるで共通の不幸が迫りくるのを感じているように、互いに悲しげな目で見つめ合ったまま。
 孤独が何よりも嫌いな神秘主義者が口を開いた。「我々の思慮が浅かったことが問題だ。大霊からのひらめきの泉は涸れてしまったんだ」
 教義そのものよりも、むしろ教義的なものに疑いをもっている無神論者は言った。「問題は、我々の固定化した考え方のせいで心のパイプが詰まっていることだ」
 消化不良のくせに実は大変食欲旺盛なぜん息もちは、ゼーゼーと喉を鳴らしながら言った。「問題は、現代の生活が士気を失わせることにある。メイドを雇うことなど、特にそうだ。先月はうちで五人のメイドが料理を作っていた。そのせいで妻は今では料理もしなくなったよ。もちろん静かに思索にふけるには、家中をきれいに掃除しなければならないから仕方ないがね」
 こんな話をしているうちに不意に活気がもどり、思いがけず論争をする喜びがよみがえった。数時間論じ合い、いつものようにそれぞれがまったく異なる考え方をしても同じ結論にたどりついたのだ。
 みな、「問題はこれだ」と認めた。
 これを解決するには気分を変えるのが一番、というわけで三人はしばらく旅に出ることに決めた。
 まずニューヨークへ向かった。この町の巨大さに、彼らは圧倒された。無神論者は聖ヨハネの聖堂を見て感動し、これは紛れもなく人間のものだ、と言った。神秘主義者は劇場に感激し、芝居はほとんどどれも神業のように見えた、と言った。ぜん息もちは地下鉄に大いに喜び、換気が申し分ない、と言った。それは蒸気船に乗ってパンプディングを食べるようなもの、つまり、自分が今何を食べているのかちゃんとわかるほど空気がきれいだ、ということなのだ。細菌はすべてきれいに混ざり合って中和されていた。
 次に訪ねたのはシカゴだった。そこでは、新しい文芸運動が雷のような大音響とともに湖から立ち現われた、と聞かされた。彼らはたくさんの文芸講座を聞き、すぐれた同人の集まりなどを急いで見て回り、最後は解散した場所に集まった。
「ここは退屈だ。大霊はここにはいない」と神秘主義者は言った。
「ここは窮屈だ。ここの人たちは、今まで見た中で一番頑固な不信心者だ」と無神論者は言った。
「ここは健康によくない。もっと楽に呼吸をできさえすれば、あのくだらない考えを消化できると思うんだが。とにかく、この町は風が強過ぎる」と、ぜん息もちは言った。
 そこで三人は、気分転換にフィラデルフィアへ行くことにした。彼らが訪ねた植民地時代から続くホテルの執事は言った。「ただいま満室ですが、唯一談話室があいておりますので、そこでよろしければベッドを三つご用意いたしますが」と。
 通されたのは広くて古めかしい部屋だった。ガラスの扉がついた背の高い本箱があった。三つのベッドは部屋の中央に並べられた。「我が家のようだ」と、みな言い、横になると夜更けまでベンジャミン・フランクリンの道徳感について、楽しくも残酷な論争を繰り広げた。
 眠りについてから二・三時間たったとき、ぜん息もちは恐ろしい呼吸困難に襲われて目を覚まし、喘ぎながら言った。 
「窓を開けてくれ。苦しくて死にそうだ」
 神秘主義者は飛び起きて、壁づたいに手探りで進み、電燈のスイッチを探したが見つからなかった。そこで、窓を開けようと手探りしていると、ガラスに手が触れた。
「閉まっている。掛け金はどこだ。下ろすことも、上げることもできない」
「死んでしまう。早く窓をこわせ!」
 神秘主義者は、足のせ台に爪先をぶつけたのでそれを持ち上げ、角でガラスを叩き割った。
「あー、楽になった。新鮮な空気さえあれば大丈夫だ」とぜん息もちは、大きく息をついた。
 そして彼らは再び眠りについた。
 翌朝は、みな遅くまで寝ていた。目覚めてベッドの上から部屋を見まわすと、窓は閉まっており、日よけもおろされたままだった。
 だが本箱のガラス扉が割れて、大きな穴があいていた。
「なるほど、これは信仰による治療だったわけか。大霊が治してくれたのさ」と神秘主義者は言った。
「まさか。これは疑うことによる治療だよ。ぜん息を直したければ、まずはぜん息かどうか疑ってみることだ」と無神論者は言った。
 そして、ぜん息もちは言った。「きっと、これは悪夢だったんだ。不幸になりたくなければ、同じ場所で同じものを食べていたほうがいいんだよ。我々は十分に旅行を楽しんだが、故郷よりうまい空気を吸えるところはとうとう見つからなかったな」
 こうして彼らは自分たちの村に帰り、その後の人生を幸せに、言い争いをしながら過ごした。

(1)スペインのミゲル・デ・セルバンテス(一五四七〜一六一六年)の小説『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の登場人物。

   

戻ってきたお守り
   
第一部
「僕も文無しさ」ジョン・ハーコートはそう言って、銀色の月明かりの中で馬をとめ、ポケットを叩いた。「銀貨は一枚もない! いや、待て。キング・ジェームズのひん曲がった六ペンス銀貨ならある。しかし、こんなもの欲しがるのは愚か者だけだ。気のきいた泥棒なら、お情けに残して行ってくれるだろう」
 ディック・バートンは馬の向きを変えながら、唸った。「うーむ。だったら、いとこの家まで馬を走らせて、いくらか都合してもらうしかないな。無一文の客では、宿にも迷惑をかける」
「尻が痛くて、今夜はもう走れない。月の中にカササギの絵が描いてあるあの看板を見ろよ。あの宿に泊まろう。ファーボロー・クロスのごろつきどもには、まんまと巻き上げられたが、町の善良な人々はきっと何か食べさせてくれるだろう」
「ひん曲がった六ペンスで何ができるって言うんだ! 二人で浮浪者のように施しを乞うのか? それとも追いはぎみたいに脅して居直るとでもいうのか?」バートンはぶつぶつと異議を唱えた。
「どっちでもないさ。紳士らしいやり方で行こう。堂々とした態度、明るい話し方、立派な上着、これさえそろっていればうまくいく。忘れるな、ディック。顔を上げろ。めそめそするな! 君の不幸な話でも加えれば、もっと歓迎されるさ。いつも酒場で幅を利かせているのは、そうした小粋な男たちなんだ」と、ハーコートは言った。
 彼らが大きな声で呼んだので、馬丁は飛び出してくるなり湯気をたてている二頭の馬を繋ぎ、宿の主人は扉を開けてニコニコして待っていた。この堂々とした客を歓迎しているようだった。二人は平然と中へ入り、ごくあたりまえのように、一番上等な料理を注文した。この客がやってきたとたんに、宿はいっせいに息を吹き返し、動き出した。女中は微笑みを浮かべて走り回り、広間にいた田舎の客たちは目を見はったり、見とれたりしていた。食卓のうえには真っ白なテーブルクロスが広げられ、できたての料理が並べられた。そのあと、みなに飲み物がふるまわれ、宴が繰りひろげられた。宿の主人はチョッキの袖口に親指を入れて自らの胸を叩き、このにぎやかなもてなしに我ながら満悦していた。だが女主人は、ときどきドアのところにやってきて、不安そうな目でこちらをのぞいていた。
「奥さんを見ろよ。何か疑っているぞ」とバートンは囁いた。
「心配事でもあるんだろう。食事はおいしかっただろうか、とか。僕らのまわりはみな楽しくなければいけない。気持ちが沈めば、この計画も失敗する。彼女と話してみよう」とハーコートは言った。
 彼は女主人を手招きし、恭しく自分の隣に座らせた。
「素晴らしい食事でしたよ、奥様。あんなにおいしいごちそうを振舞われたのに、ひどく浮かない顔をしていらっしゃる。何かご心配でも?」
「よく聞いてくださいました。子供のことなのです。娘のフェイス(「誠実」の意)が熱に苦しんでいます。お医者様は一回分のお薬をくださると、別の患者さんの往診に行ってしまわれました。熱はますます上がってきて、娘は眠れません。どうしたらよいでしょう?」
 ハーコートは自信たっぷりに答えた。「こう見えても私はこの若さで、世界一古い医学校を出た開業医です。ガレノス(1)のお祖父さんの弟子なのです。お子さんのところへ案内してください」
 狭い部屋の中で、小さな女の子が横たわっていた。巻き毛は枕の上でもつれ、細い小麦色の腕は暖かいベッドカバーの上に投げ出されていた。枕元には黒っぽい薬ビンが置かれている。見知らぬ人を見つめる少女の黒い瞳は、熱っぽさよりも反発の色を帯びていた。
 ハーコートは微笑みながら少女の上にかがみこむと、手首を軽くゆっくりとなでながら、耳元で何か囁いた。少し開いたドアからは、階下の歌声が聞こえてきた。少女は面白い話でも聞いているように、彼の声に聴き入っていた。
「窓を開けて」としばらくしてから、彼は母親に言った。そして布団を少女の肩のところまでしずかに引き上げながら「夜気の中にある銀の糸は、熱を取り去ってくれるでしょう」と言った。
 そしてハーコートが黒い薬を窓の外に投げ捨てると、少女は彼を見つめて少し笑った。
「これは悪い薬だ。さて、紙とペンを持ってきてください」と彼は言った。
 ゆらめく蝋燭の光に照らされながら、彼は片方の手で文字を覆いながら『幸運の女神はフェイスを愛している』と書いた。
 すると、曲がった六ペンス銀貨を紙の中にするりと忍ばせて丁寧に包み、紙の端を互い違いに折り込んだ。そしてそこに、十字のしるしをつけた。
「しっかり握って」と彼は少女に言い、その小さな包みを右手の指で握らせた。「これで楽しい夢の庭に行けるよ。今、その切符が準備できたからね。ほら、お馬さんが白い月の道を、静かに、静かに、速く、やさしく眠りの世界に走り出すよ。さあ、走るかな、今走っているかな、もう走ったかな?」
 少女の瞼は次第に重くなり、やがて閉じられた。そしてため息とともに寝返りをうつと、枕の下に小麦色の握りこぶしを押し込むようにした。ハーコートは母親をドアのところに連れて行った。
「しぃー。窓はこのまま開けておいてください。フェイスは何千年も前の、古いよく効くお守りを握っています。それはどんな薬よりも効き目がある。ただしこれは誰にも喋らないこと。もし、喋ってしまえば、効き目はなくなってしまいます。だから、このまま眠らせておきましょう。明日、私に返してくださればいいですから」
 翌朝は、主人自ら彼らの食事の世話をした。ハーコートが平然と清算を願い出たので、バートンは目を見はった。ところが、主人はそれを拒んだ。
「妻が」と、彼は口ごもりながら話しはじめた。「大変ご迷惑をおかけしました。恐縮ですが、お勘定のことで妻とじかにお話しいただけませんか? 今、呼んでまいります」
 彼女は娘を連れて、喜びに輝く表情であらわれた。少女は左の手で母親のスカートの襞をしっかり握っていたが、もう一方の小麦色の手は固く握り締めて首のそばにしっかりと押しつけられていた。
「ご覧ください。この子はよくなりました! フェイス、走っていっておじさんの手にキスをおし。どうか、お勘定の話はなさらないでください。こんなにお世話になったのですから。ところで、この古いお守りをこの子にくださるわけにはいかないでしょうか?」
 彼女はその答えを待っていた。ハーコートは、しばし迷っているような素振りを見せたが、やがて、微笑みながら答えた。
「それを手放すのは嫌ですが、フェイスによく効くのならあげましょう。それをもっていればよいことが起こる、決して悪いことなんか起こらない、と信じてください。おいで、可愛いフェイス。さよならのキスをしておくれ」
 二人だけになったとき、バートンは咎めるような目で相棒に食ってかかった。
「その、お守りってのは何だ?」彼は聞いた。
「秘密だよ」と、そっけなくハーコートは答えた。
「気に入らないな。君はやり過ぎだよ。あんな素朴な人たちをペテンにかけるなんて」と、バートンは首を振りながら言った。
「ばれるもんか。少なくとも、あの人たちに危害は加えていない。しあわせにしてあげたのさ。さぁ行こう。一番近いいとこの家まで、どのくらいあるんだ?」

第二部
「次の審理はおかしなものだ」治安判事のリチャード・バートン卿はそう言いながら、友人の傍らに置いてある椅子に座った。友人とはファーボロー市場の法廷を司る有名な裁判官だ。
「どうおかしい?」と裁判官は尋ねた。その顔は白髪のカツラの下で赤らんで頼もしく見えた。
「魔術をつかったという告発で、ここ最近では深刻な訴えだ。しかし、訴えられた女性は善良で、何も悪いことはしていないらしい」
「ほぅ、魔術だって! それは実に珍しい。君はどう思う?」と裁判官は言った。
「僕は迷信を一切信じない。秩序を乱すだけだ。信仰なら聖職者、裁きなら法律家、病なら医者が扱う。それ以外の人がやれば、秩序が乱れて手に負えなくなる」と、リチャード卿はまじめな顔で言った。
「それ以外の人か……」と裁判官はつぶやいた。「だが、聖職者や法律家や医者にも説明できないことはある。この魔女を人々はどう思っているんだ? 教えてくれないか」
「厳格で信心深い人たちは、彼女を町の恥さらしだとか、信仰の敵などと思っている。彼女を追い出せ、と。絞首刑にしろ、水に沈めてしまえ、精神病院に閉じ込めろと言う人までいる。でも、彼女を愛している人たちもたくさんいる。なぜなら、彼女は彼らを助けたからだ」
「ところで君の意見は?」
 するとリチャード卿は、鋭いまなざしで裁判官を見つめて言った。「これ以上、僕が言えることはない。君自身で彼女を見て、彼女の話を聞いてみたまえ」
「もっともだ。事務官、次の被告を呼んでください」
 事務官が告発された人物の名前と、その罪状を読み上げている最中、裁判官は怪訝な顔をして被告席にいる罪人に見入っていた。まるで何かを思い出そうとしているかのように。
 日焼けした顔と物怖じしない目をした長身で色黒のその女性は、自分の遍歴、つまり両親を亡くしてからは町から離れたヒースの丘の田舎家に住んでいること、近所の人たちとの交流、動物の病気やおかしな病気、そして特に子供の病気を治す不思議な力があること、などが読み上げられている間、静かに立っていた。この女性の頑迷さと悪意を言い立てる者もいたが、彼らに主張できることと言えば、彼女が病気治しの力を隠しもっているということくらいだ。言ってみれば、それは彼女自身の力を越えたもののようだった。医者は、それは違法行為だとして彼女に恨みをもっていた。また、彼女は熱心に教会へ通っていたにも関わらず、厳しく非難する者たちもいた。「聖書にも『魔女を生かしておいてはならない』と書いてあるぞ」と、彼らはその理由を訴えるのだった。
 裁判官は困惑の表情を浮かべ「おしえてほしい。あなたは魔女なのか?」と身を乗り出し、まじめに尋ねた。
「いいえ、違います。けれど、人を癒す力があるのです」彼女は簡単に答えた。
「どのように癒すのですか? 子供には何をするのですか?」
「寝ている部屋の窓を開けてやります」
 裁判官の表情は緩み、目はやさしく輝いた。「それから?」
「黒い薬を窓の外に放り投げて、眠りの庭のお話しをしてあげます」
「それだけ?」裁判官は手で自分の顔を隠しながら言った。
「いいえ、裁判官様。子供がうとうとしているとき、その手に私のお守りを握らせます」
「そのお守りはどこで手に入れたんです? それは何ですか?」
「裁判官様、どうかお許しください。それだけは言えません」と、彼女は叫んだ。
「見せてくれませんか」と裁判官は微笑みながら言った。
 すると彼女は仕方なしに、震える手で胸元から真紅のリボンを引っ張り出した。その端には小さな麻の包みが白い絹の糸でしっかり結びつけられていた。彼女はそれを裁判官の前に置いた。裁判官が絹の糸をほどき、幾重にもくるんである麻の包みを開くと、最後に文字の書かれた黄ばんだ紙が出てきた。その紙の中には、曲がったキング・ジェームズの六ペンス銀貨があった。
 銀貨と包み紙を手の上にのせ、裁判官が目を上げると、リチャード卿のいたずらっぽいもの言いたげな視線とぶつかった。
「ところで、あなたはこの銀貨を以前に見たことがありませんか? この紙に何が書いてあるか、言えますか」と、ハーコート男爵はリチャード卿に低い声で尋ねた。
「もちろん、言えます。この女性のお守りは、四〇年前に子供だった彼女に与えたものです。そうでしょう? あれはペテンだった」リチャード卿は首を振りながら言った。
「ペテンなものか。今日まで誰ひとりだましていない。神はフェイスを愛しているんだ」とハーコート男爵は楽しそうに言った。
 彼は事務官の方を向いた。「この件は、被告人を有罪とする証拠が足りないので棄却する、と記録しておいてください。この女性は無罪です。閉廷します」
「すみませんが、お守りを。私のお守りを返していただけますか」と女性は真剣に訴えた。
「これは君のために秘密にしておかなくてはね」と男爵は子供に言うようにやさしく言った。「けれど、これからも窓を開けて、黒い薬を捨てていいんだよ。そして、眠りの庭の話を子供たちに聞かせてあげなさい。それが奇跡を起こしているんだ。きっと」

(1)ローマ帝国時代のギリシャの医学者。古代における医学の集大成をなした。




聖なる香り

 身をひそめていた災いはついにアンジェロ伯爵に跳びかかり、快楽に満ちあふれた宴会広間から墓場へつづく暗い道へと彼を引きずっていた(彼を取りまく女性や気のあう仲間たちは、すでにモンテフェルトロ城の彼のまわりで息絶えていた)。そのとき、開きかけた扉ごしに『死』の顔が見えた。それは形のない恐怖で、あらゆる望みを石に変えてしまう。しかし、彼に噛みついていた黒い獣はやがてその力を失い、彼は這うようにして生還した。まるで遠い国から帰ってきた人のように。
 アンジェロ伯爵の城は、恐怖にとりつかれた数人の召使をのぞけば、空っぽだった。召使たちはどこへ逃げればよいかわからずに、ここに留まっているのだった。庭にはばらやゆりが世話もされず、摘まれもせぬまま枯れていた。友人たちが顔を並べていたソファや椅子に人影はなく、豪華なベッドの彼の隣の枕では金色の巻き毛や編んだ長い髪が朝日を浴びることはもはやなかった。
 アンジェロ伯爵が若さにまかせて浮かれ騒いだ世界は、空しいものだった。彼はいつしか見知らぬ世界に迷い込み、その戸口からは命からがら逃げてきたものの、どこへ戻ればよいのかわからなかった。こうして、ぞっとするような恐怖の中、彼は裁きを求めて生きるほかなかった。
 やがて、アンジェロ伯爵は正気をとりもどしたが、今まで彼を温め燃え立たせていた欲望や情熱はみな灰となり、燃えていた炎はすべて、ひとつの望みへと変わった。「聖なる香りに包まれて死にたい、安らかで恐れのない楽園に行きたい」という望みだ。
 そして召使が震えながら持ってきた美しい衣服を脇に押しやると、彼は粗布の衣をまとい、腰のまわりを紐でしばって身支度を整え、ダルノの谷の上にそびえる聖なる山ラ・ヴェルナのふもとへ出かけた。ここは、その昔モンテフェルトロ家のロランド伯爵が、神に仕える詩人聖フランチェスコ(1)とその弟子たちに、空に近い隠れ家、聖域として与えた場所だ。先祖の領地に建てられた僧院の前に立ち、アンジェロは乞食のようにみすぼらしい姿でその扉を叩いた。
「どなたです?」と、門番が穴からのぞいて言った。
「哀れな罪びとです。聖なる香りに包まれて死ぬことしか望みのない」と、アンジェロは答えた。
 門番はしぶしぶ扉を開けた。おおかた、どこかの宿無しが教会に最後の救いを求めてやってきたのだろう、と考えながら。しかしどこかの宿無しだと思った相手は、金持ちで羽振りのいいアンジェロ伯爵だと門番は気づいた。
「どうぞお入りください。どうぞ客間へ。聖フランチェスコの弟子たちはご領主のおいでを歓迎します」
「そういうことではないのだ。一番粗末な部屋に泊めてくれないか。私は施すために来たのではなく、施しを乞うために来たのだ。貧しい下僕の末端に私を加えてくれ」
 門番はひどく驚き、アンジェロを院長のところへ案内した。アンジェロは院長に、すべての財産や身の回りの品々を捨て、聖なる死を遂げるためにここで残りの人生を過ごさせてほしい、と告げた。院長たちはこの申し出を重く受けとめ、アンジェロの言う通りとはいかないまでも、告解者あるいは見習い修道士として受け入れることにした。
 見習いの一年目は家畜係を命じられ、家畜の世話や小屋の掃除をした。「牛やロバは飼い葉桶の中に神がいることを知っている。だが、私は城にいるとき神の声に耳を貸さなかった」と彼は言った。
 二年目は、台所で皿を洗ったり修道士たちの食事を作ったりして働いたが、自分は人が捨てるようなパンの皮やパンくずばかり食べて暮らした。「たくさんの貧しい人々にパンや魚を施す若い修道士にくらべたら、私など何の値打ちもない人間だ。だから残飯さえあれば十分だ」と言った。
 万事このように己を捨てて一心に働いたので、まわりの人々に大変尊敬され、三年目は祭壇をきれいに掃き清めるという名誉な仕事を与えられた。
 この任務においても、アンジェロは特別な貢献を果たしたが、それに満足することなく、過酷な苦行や断食を己に課した。土の上でしか眠らず、ひとつところに一時間と身を横たえることはなかった。四時に起きて、日に二四回の祈りをささげた。朝の礼拝から翌朝の礼拝までの断食を週に三回行い、六日間沈黙の規則を守り、口を開くのは七日目だけだった。また素肌の上に鉄の鎧を着け、腰のまわりには鋭い鋲が打ってある細い革のベルトを締め、腕には鉄の輪をはめた。それによって彼の肉体は、ぼろぼろの服に穴があくように、骨の上がすりむけてゆき血がにじんだ。顔には痛みのあまり悲しげな表情が浮かび、その苦悩はこの僧院や周囲の僧院でも評判となった。
 だが、表面に現れた悲しみや彼の敬虔さをたたえる評判とはうらはらに、アンジェロ自身に満足感はなかった。神の慰めというきらめく炎は、むしろ小さくなっていった。かつての家畜小屋の掃除、皿洗い、祭壇の清掃という任務は、体の衰えを考慮して今は免ぜられていたため、あの時のような喜びを感じることも、もはやなくなった。こんな苦行では過去の罪深い快楽三昧の日々を償い切れない、と彼は悩んだ。その忌まわしい記憶は彼の中で鮮やかによみがえり、自分は聖なる香りに包まれて死ぬことはできない運命なのではないか、という思いを拭うことができなかった。
 こうした苦悩を抱いて、ある日彼は僧院を見下ろすラ・ヴェルナ山の頂上にある森へ向かった。峰の登り降りを繰り返し、木の根につまづいては転び、彼はため息まじりに涙を流しながら大声で叫んだ。「哀れな奴。お前は見失った! 憎むべき罪びとアンジェロ。どうすればお前は聖なる死を見出せるのか?」
 錯乱状態に陥った彼のもとに、院長と三人の修道士がやってきて、何があったのかと尋ねた。
「罪を償えずに死ぬのは怖い」とアンジェロは叫んだ。
「福音書を読んで、慰めを得なさい」と院長は言った。
「そんなことではだめだ。私の享楽がどんなに罪深いものだったか、あなたは知らない」と、彼は傷だらけの胸をかきむしってむせび泣いた。
 そして、そのまま再び森の中へと駆けだした。しかし、院長は彼を押しとどめ、なだめ、やさしく話しかけた。ついにアンジェロは自分の望みを口にした。この森の中の洞穴を己の棲み家とし、聖なる死のときが訪れるまで隠者としてそこに入りたいと。
「しかしあなたほど任務にひたすら献身している人はいません。我々はあなたという手本を失ったらどうすればいいのですか?」と、院長は反対した。
「では、みなさんのために祈りましょう。夜も昼も修道士たちの秩序のために、私は全身全霊で祈りましょう」と、アンジェロは言った。
 そこで院長も承知し、やがてアンジェロも納得した。
 さて、ラ・ヴェルナの山頂には、砕けた岩や鋭くとがった岩でできた荒々しい裂け目や洞穴が数多くあり、それは見るのさえ恐ろしい光景だった。しかし、岩の間にしっかりと根を張って成長した木々、やさしさと思いやりとおおらかさの象徴であるかのように岩を取り巻いて茂ったつる草、やさしい野生の花々、緑のシダ類だけは別だった。
 これらはみな聖フランチェスコに愛された。彼は、あらゆる創造物が「私たちはあなたのために、神によって作られました」と叫んでいる声を聞いた。彼はすべての創造物を深く愛していたため、弟子たちには薪をつくるときは木を全部伐らずに枝だけを伐るように言いつけたものだ。そうすれば、木は元気に伸びることができるから、と。また、畑に野菜だけを作らないように、必ず花のための場所を残しておくように教えた。それは、『シャロンのばら(2)』『野のゆり(3)』と呼ばれる花々をいとおしんだからだ。
 だが、アンジェロの心はこうしたこととは無縁だった。彼の早すぎる隠遁は失敗だった。アンジェロは自分の死のことしか考えなかったため、網の目のように美しく茂るつる草やかぐわしい香りを放つ花々に目もくれず、それを足で踏みつけてしまった。
 アンジェロは、聖フランチェスコが断食をした非常に神聖な洞穴の少し先にある洞穴を選んだ。そこには毎朝ハヤブサが訪れ、羽ばたきをして歌をうたい、彼に朝の礼拝を促した。やがて彼は、この洞穴で自らの体に聖痕(4)を認めた。
 洞穴は西の方角を見渡せる山の斜面にあり、そこへ行くには狭くて深い恐ろしい裂け目があって、それを渡るには丸太の橋を行くしかなかった。この洞穴は広くて実りの多いダルノの谷に面しており、そこから銀色の蒸気が渦をまいてあがってくるのが見えた。反対側に目を転じると、木に囲まれたヴァロンブローサとプラトマーニョの山々が見えた。 
 だがアンジェロは洞穴への橋を渡るとき、そのような景色には一切目を向けなかった。三人の修道士が彼とともにやってきて、入口を石の壁で埋めた(胸の高さののぞき穴を残して全部石でふさいだ)。彼らは帰るとき、丸太の橋を岩の裂け目に落として行くように、とアンジェロに言われた。食糧は裂け目ごしにのぞき穴から投げ入れられ、飲み物は岩と岩の隙間からぽたぽたとしたたる水が溜まってできた泉から飲んだ。こうして彼は、聖なる死をいかにして遂げるか、それだけを考えながら隠者として暮らした。
 アンジェロの考えは頑迷で自分中心で、あたかも自分の周囲には何も存在しないかのようだった。僧院でさえはるか遠い存在となり、ささげると約束した祈りも言葉だけの空しいものになっていった。そこには心がこもっていなかった。魂の炎はひとつの目的に燃え、彼を焼き尽くしていた。そして昼も夜もこう叫んだ。「何という忌まわしい人生! どうか私を聖なる死へおみちびきください!」
 しかし、アンジェロは目的に近づいていなかった。目的を成し遂げるために自分が選ばれているという確信も持てなかった。それどころか、不安がつのり、みじめさにつきまとわれるばかりだった。夢の中では過去の罪深い享楽のことばかり考えてますます責めさいなまれ、目覚めているときは自らの悔い改めの素晴らしさを繰り返し考えた。ところが、その二つが何とか釣り合っているという確信は、いまだに持てないのだった。
 ところで、アンジェロの過去の人生がたとえ空しく世俗的で悪の模様に彩られていたとしても、黒い糸一色だけで織られていたとは思えない。なぜなら彼は、いつでも人生の喜びを他人と分け合うような、明るくやさしい心をもっていたときがあったからだ。隣人に親切にすることに喜びを感じ、憐み深く穏やかな性質をもち、音楽や幼い子供を愛していた。つまり、若いころの彼は天真爛漫で陽気で誰に恥じることもなく、純真さとあふれるばかりの幸福を織りなす白と金の糸が、機(はた)から耐えることはなかった。
 ところが今では、後悔せずにはいられない罪深い日々のことしか思い出さず、幸せだったときのことなど考えもしなくなってしまった。嫌な思い出にばかりとらわれているため、夢にもそのことがよみがえった。昔は愛の光が彼の体にその手足を絡ませ、燃える唇を押し当てたというのに、今は目覚めると恐怖にとらわれ、償いのために自らが耐え忍んだ過酷な日々を数え上げ始めるのだった。だが、不思議とひどく愉快な夢を見ることもあった。そんなときは、妙に悲しい気持ちで目覚めた。この板挟みの中で、アンジェロは安らぐことを知らず、悩みや己への怒りから逃れることもできなかった。
 こうした暮らしが一年以上続いたのち、ある朝早く彼は恐ろしい夢を見て飛び起きた。そして、大声でうめいた。「俺は死んだら地獄に落ちる」
「なぜですか? 神の子羊よ」という声がすぐそばで聞こえた。「誰が汝を野に導いたのですか?」
 アンジェロ修道士は顔を上げのぞき穴を見たが、誰もいなかった。ぐるりと周囲を見回したが、やはり誰もいなかった。しかし、その声が大変はっきりと聞こえたため、じっとしていられなくなり、入口に行って穴から頭を出してみた。
 洞穴の前にある岩棚の上に、小柄な痩せた人の姿が見えた。その人は、修道士の衣を身にまとい、薄黒いひげに無邪気な黒い瞳をもち、心には静かな炎を燃え立たせているようだった。右手にもったヴィオール(5)の弓のような木の杖に左手を重ね、フランス語で喜びの讃美歌をうたっていた。それは兄弟である太陽と、仲間である風と、姉妹である水と、母である大地をたたえる讃美歌だった。
 これを見て、アンジェロ修道士はたいそう驚き、困惑した。というのも、このような賛美歌は長年僧院では歌われなくなっていたからだ。その人はあたかも、珍しい習慣をもつフランスの僧のようだった。だが、もっと近づいてよく見ると、小柄な僧のほっそりとした美しい手の、手のひらには穴があき、足は傷だらけで爪が肉に食い込んでいるようだった。アンジェロは、目の前にいるのが聖フランチェスコであることを知った。そして、自分が岩にへばりついたまま何も喋れないでいることが恥ずかしくもあり、怖くもあった。
 その小柄な僧はダルノの谷の朝を眺めていたが、アンジェロ修道士に目を転じた。長い沈黙のあと、ひどく静かに彼は言った。「穴の中で何をしているんですか?」
「はい。ここにひとりで暮らし、俗世での生活を償いながら聖なる死を捜し求めているのです」と、隠者は口ごもりながら言った。
「それはあなた自身のためでしょう。人のためには何をしていますか?」と、小柄な僧は日差しを浴びて尋ねた。
 アンジェロはしばらく考えてから謙虚に答えた。「懺悔の見本を示しました」
「彼らには、もっと欲しいものがあるはずです。それを与えてあげなければなりません」と、僧は微笑んだ。
「神父様、私にお命じくだされば、あなたに従います。あなたは天国からおいでになった。私は地獄に近いところにいます」
「聞きなさい、迷える子羊。道を示してあげましょう。壁を越えてゆきなさい。鎧を脱ぎ、鉄の輪をはずしなさい。それが邪魔をしているのです。ここにいらっしゃい。私の隣に。ある町に、未亡人がいます。彼女の子供は病で死にそうになっています。この舐め薬の入った箱をもって彼女を訪ね、それを子供に与えれば病は治るでしょう。私の言う通りにしなさい」
 そう言いながら、彼はアンジェロにオリーヴの木でできた箱をひとつ手渡した。そこにはとても甘い舐め薬が入っていて、その香りは森中にただよった。だが、アンジェロは困惑して尋ねた。
「どうすれば道がわかりますか? 私はその町を知りません」
「立ちなさい。しっかり目を閉じて。さぁ、子供がやるように、私がいいと言うまでぐるぐると回りなさい」と、傷だらけの手をした僧は言った。
 アンジェロ修道士は岩棚が狭かったので少々怖かったが、堅く目を閉じて両手を広げ、目が回るほどぐるぐると回った。やがて彼は地面に倒れた。目を開けて僧を見上げたが彼はもういなかった。
 だが、アンジェロ修道士の頭は、谷の反対側にあるポッピの町に向いていた。それが進む方向だと悟り、山から下りた。
 下りているとき、弱っていた肉体は力をとりもどし、痛みは消えた。彼はこの世の輝きを全身に受け止めた。フランチェスコが言っていたように、茂みの中でさえずる鳥たちは、風の子供たちだ。地面から飛び立つひばりはみなくすんだ色の服を着ているが、楽しい歌を歌っている。桜草、スミレ、シクラメンはどんな罪びとにも必ず美しい花を見せてくれ、そのすがすがしい芳香は喜びをもたらした。
 アンジェロ修道士は明るい気持ちで先を急ぎ、ポッピの町たどりついた。貧しい未亡人の死にかけている子供を見つけ出し、オリーヴの木箱を渡した。子供は夢中で薬を飲んだ。その薬が甘かったので、苦い薬よりも効き目があったと見え、間もなく熱は下がりはじめた。母親は喜び、聖フランチェスコとアンジェロ修道士をたたえたが彼は言った。「行かなければ」と。
 さて、アンジェロはラ・ヴェルナ山へ帰る途中に、ある村を通りかかった。村はずれの野原でたくさんの子供たちが喧嘩をしていた。
「なぜ喧嘩をしているんだ。遊びの最中に」と、アンジェロは手で彼らを制しながら言った。
「だって、どうやって遊べばいいのかわからないもん」と彼らは答え、ほかの者たちもみなそれぞれに叫んだ。
「大きい子たちは、『キツネと雁』をすればいいじゃないか。ほら、見てごらん。厚い板がある。これをこの大きな石の上に置いて、シーソーを作ろう。小さい子供たちはおいで」とアンジェロは言った。
 修道士がシーソーをしているのを見て子供たちはみな笑ったが、彼は楽しそうに上がったり、下がったりを繰り返した。そしてみな喜んで遊んだ。しばらくすると、子供たちはその遊びに飽きてきたので、アンジェロは次は何をしようかと尋ねた。
「踊ろうよ。ねぇ、踊ろう」とある子供が言った。
「でも、音楽は?」とアンジェロは言った。
 すると何人かの子供たちが家へ走って行き、大急ぎでヴィオールと弓をもって戻ってきた。アンジェロは音楽家のように、弦を指ではじき音を合わせた。
「さぁ、弾いてあげよう。今朝私が聞いた、とてもきれいな曲を。そして、私が教えるとおりに歌っておくれ。歌と歌の合間に手をとりあって踊ろう」
 彼が草の生えた小高い丘の上に腰をおろすと、子供たちはそのまわりに輪をつくり、歌を教わった。その歌はあの小柄な僧が歌っていた、太陽と風と水と鳥の歌だった。朝の光を浴びて洞穴にやってきた、あの神様のような詩人が歌っていたのと同じ歌だ。詩と詩のあい間に、子供たちは手をつなぎアンジェロ修道士のまわりを輪になって踊った。彼はヴィオールを弾き続けた。
 そのとき、誰かの手が肩にふれるのを感じた。おおかた子供がしているのだろう、と思い「自分の場所におもどり、いたずらっ子め。歌はまだ終わっていないよ」と彼は言った。
「終わったんだ。もうこれで終わりなんだ」という声が背後から聞こえてきた。
 アンジェロが驚いて見上げると、天使の顔が見えた。弓が彼の手から落ちた。
 音楽が止んだので、子供たちの輪はくずれ、みな草の上に横たわるアンジェロのもとに駆け寄った。彼の顔が青ざめているのを見て子供たちは怪訝な顔をしたが、その口元には微笑みが浮かんでいたので、誰も怖がらなかった。
「疲れたんだよ。やさしい神父様は眠っているんだ」「きっと目まいがしたのさ。助けを呼びに行こう」と子供たちは口々に言った。
 だが、死の天使が訪れて、聖なる香りの中でアンジェロを呼んだことを、子供たちは知らなかった。

(1)(一一八二〜一二二六年)フランシスコ修道会の創立者。聖人。イタリアのアッシジに生まれ、愛と清貧の生き方を徹底し、病の中、人と自然の共鳴を通して神を賛美する『太陽の賛歌』を創作。晩年に聖痕を受けたという。
(2)(3)旧約聖書の雅歌二章第一節「わたしはシャロンのばら、野のゆり」。純潔の象徴
(4)カトリックで、キリストが十字架刑で受けた傷が聖者の身体にあらわれるという超常現象。
(5)ヴィオラ(イタリア語)のフランス語読み。擦弦楽器の総称でヴァイオリンの原型と言われるが、実際は異なる系統の楽器。音が小さく、室内演奏向きの古楽器。



原始人とサンダル

 「何もかもうんざりだ」そう言って、偉大な作家は銀の食器がならぶ食卓を手で払うような格好をした。その仕草には、この家もそれを囲む広い敷地もすべて含まれているようだった。「まったくうんざりする。こんな生活がいいわけない」
 向かいに座っていた妻(彼女は胸もとや髪をダイヤモンドで飾り、襟の開いたドレスを着ていた)は、夫の気性をわかっていたので不安そうに身を乗り出した。
「まぁ、ニコラス。何を言うの? すべてはあなたが作家として成功したおかげよ。あなたはこの国で一番の作家なんだから、立派な家や広い土地を持つのは当然よ」と妻は言った。
 ニコラスは赤毛の大きな頭を重々しくうなずかせ、新しい煙草に火をつけた。
「その通りだよ。経済の問題なら、君の言う通りだ。でもこれは僕の芸術家としての問題なんだ。僕の本は写実的かつ過激なもので、人は人の上には立てない、という普遍的な教えを説いている。そこには、必ずしも受けはよくないだろうが、少なくともロマンチックとはかけ離れた貧困が描かれている。僕の話に登場する仇役はみな金持ちで、主人公はいつも貧乏。人々はこういう話を好むくせに、それを現実の問題だと信じること、そして信じ続けることは、なかなかできない。僕の作品が大衆を引きつけるためには、具体的に……たとえば映像などを使うといいんだ。 登場人物そのもののような! それは、この僕以外誰にもできないよ。だが、どんな宣伝よりも効果がある。僕は善良な田舎者に、農夫に、いや原始人になるよ」
 妻は、わずかに震える声で神経質に笑った。確かに、彼女は夫の性格を知ってはいたが、彼がどこまで本気なのかさっぱりわからなかった。
「あなたちょっと変だわ、ニコラス」と彼女は言った。
「ありがとう、アレキサンドラ。気をつかってくれて。君も「馬鹿と天才はなんとやら……」という諺くらい知っているだろう。なぜ、ズバリと言わないんだい? 『本当に馬鹿みたい』と」
「だって。あなたが何をしたいのか、はっきりわからないからよ。自分自身や家族みんなを貧乏にしたいの? 農場を愚かな農民たちに与えてしまいたいの? あの人たちは農場を雑草だらけにしてしまうわよ。財産を村の議会に譲ろうというの? どうせひと月の飲み代に化けてしまうのがオチよ。ピーターにどれほどお金が必要か、ご存じ? あの子は一二もの社交クラブに入っているのよ。それにオルガの夫もあまり稼ぎがよくないわ。あなたはわが子や孫たちを、芸術の一貫性などという考えのために飢えさせるつもり?」
 偉大な作家は今暖炉のそばに立って体を温め、パイプに煙草の葉を詰めていた。背後の炎が後輪のようになって、彼の立派な白髪と髭を浮かび上がらせていた。彼は微笑み、ゆっくりとパイプを吸った。それから口を開いた。
「アレキサンドラ、君は何とはやく、何と遠くに行ってしまったんだ。僕が夢中になりやすい性質だということはわかっているだろうが、愚か者だということは知っていたかな? だが、君や子供たちを苦しめることは、よくないだろう。僕にそんなことをする権利はない」
 彼女は深くうなずき、納得した表情が顔に広がった。
「たとえば、不動産と農場を君に譲るとしたらどうだい? 君は優秀な経営者だからね。そして、著作権も含む僕の個人的な財産を銀行に委託して、収入が君と子供たちに入るようにしたら、僕が原始的な生活をしていても世話をしてくれるかい?」
「もちろん、しますとも。でも、そんな生活ひどく不愉快じゃないかしら。だって私たちは、贅沢な暮らしを……」
「心配しなくていい」と彼は笑って遮った。「僕は自分のしたい贅沢をするから。息苦しいほど首を締めつけるシャツの代わりに、襟のゆったりしたフランネルのシャツを着る。こんなウェイターの制服みたいな服の代わりに、別珍のズボンをはく。そして天気のよい日には、裸足で歩くんだ。わかるかい? 夏の草の上で裸足になるなんて、気持ちがいいだろうな」
「でも、お食事は? 原始的なやり方だと、どうやって手に入れるの?」
「それは、君が何とかするのさ。僕はフランス料理よりもビフテキと玉ねぎの方が好きだということは知っているだろう。シャンペンも嫌いだ。炭酸の入っていない生のままの酒の方がいいよ」
「じゃあ、寝るときはどうするの? あなたは家を出ていくつもりなの? 私たちの寝室は原始的ではありませんもの」
「案ずることはない。風呂の向こうに小さな部屋があるだろう。あそこに鉄の折り畳み式ベッドを入れて、柔らかいマットレスと麻のシーツと軽い毛布があればいい。そして、撮影用に庭のポンプで朝の洗面をするよ。風呂に入りたくなったら、君が使っていないときに部屋のドアを開けておいてくれれば、自分で入るよ」
「ニコラス」と妻は微笑みながら言った。「あなたは作家として、ものごとを正しく判断する賢さを持っているわ。けれどお客様が訪ねてきたとき、汚い服と裸足では一緒にお食事もできないわよ」
「わかっている。だから、きれいなフランネルのシャツにきれいな別珍のズボン、そしてサンダルで迎えるさ」
「サンダル? サンダルで食事というのは、なかなかいいかもしれないわ。あなたは私が……」
「もういい。君には、今はやりのドレスという格好が驚くほどお似合いだよ。しかし、僕は原始的な生活をしなければならないただ一人の人間なんだ」
 こうして、すっかり手筈が整った。家を訪ねてきたインタビュアーは、ゆったりしたフランネルのシャツと別珍のズボンとサンダルに身を包んだ偉大な作家を、「畑仕事から帰ってきたところだ」と説明した。映像には、彼以外誰も映っていなかった。サンダルをはいた女性が隣にいたのに。原始的な食卓の一部には撮影許可がおりなかったのだ。



英雄とブリキの兵隊

 一九一八年一二月二五日。その小さな白い家はカルヴィントンでもっとも幸せな家だったに違いない。そこにはクリスマス気分が満ちていた。
 そう、この世で一番素晴らしい贈り物が届けられたからだ。驚きのあまり、みな涙と笑いに包まれた。ウォルター・メイン大佐がクリスマスイヴに帰還したのだ。
 少し前まで、彼はもう帰らない、と誰もが思っていた。フランスでひどい怪我を負った——ティエリー城の近くで隊を指揮していて砲撃を浴びた——という知らせが届いたからだ。彼の命は危険にさらされていた。だが妻のキャサリンは、夫は生き延びると信じていた。はたして、その通りになった。だが、任務によって彼の片足は失われ、右腕は使えなくなった。そして、体中に『凄まじい戦闘による様々な置き土産』が刻みつけられた。
 スタテン島の病院で応急処置をうけるためウォルターが他の負傷兵たちとともに送還される、という手紙が届いたので、キャサリンは面倒な役所の手続きをものともせず、夫の看病にかけつけた。さらに、あらゆる関係者に確実な方法で手を回し、夫の除隊と帰還を勝ち取った。何とかクリスマスまでに、と彼女は願っていたのだ。こうして、片足の英雄はクリスマスに帰還を果たし、みなが喜びに沸きかえるという運びになったのだった。
 さて、日も暮れかけて年老いた牧師が訪ねてきたとき、クリスマスツリーには灯がともり、子供たちがあちこちに群がったり騒いだりしていたので、牧師はしばらくぼんやりとたたずんでいた。そこには、ウォルターの母、叔母、義理の姉妹たち、たくさんの子供たち、そして声を上げている可愛い赤ん坊がいた。牧師はことの顛末をみな知っており、この日をうれしく思いながら、心の中で英雄のことを考えていた。
 キャサリンは牧師の気持ちを察して、そっと囁いた。「ウォルターが待っていますわ、牧師様。ホールを横切った書斎にいます」
 待っている? そうだ。彼に何ができるのだ? 右足の膝から下が切断されているのだから、待つこと以外に何ができるというのだ?
 書斎へ入ると薄暗い電灯が灯っていた。明るすぎるのは、怪我人の目によくない。ウォルターは隅に置いた長椅子に座っていた。顔はくすみ、痛みのために引きつってしわが寄っていたが、以前のように落ち着いていて元気だった。そして、熱意を秘めた表情は変わっていなかった。それは彼が英文学について話すとき、学生たちを惹きつけてやまないあの表情だ。
「やぁ、ウォルター。お帰り。帰還おめでとう。君をとても誇りに思う。我々の英雄だ」
「ありがとう。ここに戻れてとてもうれしいです。でも、英雄と呼ばれる理由はありません。僕はただ、戦争に行ったすべてのアメリカ人と同じことをしただけです。最善を尽くして、憎いドイツ人を相手に戦っただけです」
「しかし、その足は……」と、牧師は思わず口走った「失われた。そのことに怒りを感じないのか?」
 ウォルターはしばし沈黙していたが、やがて口を開いた。
「いえ、怒りという言葉は適切ではないと思います。独立戦争のときのネイサン・ヘイルの言葉を覚えていますか? 『この国にささげる命をひとつしか持っていないことが無念だ』という。そうです。僕はこの国にささげる足を二本持っていました。でも、一本で済んだことがとてもうれしいんです」
「戦闘のことを少し聞かせてくれないか。どんなふうだったか知りたいのだよ。英雄の戦いぶりを……、わかるだろう?」
「英雄とは僕のことではありません。それに、今は無理です。きっと、時間がたてば何か話せるでしょう。今日はクリスマスですよ。そんなときに戦争ですか? 牧師様、戦争は恐ろしいものです。信じてください。汚れ、痛み、狂気、苦悶、地獄、そんなあってはならないものであふれています。僕はそれを終わらせようと、仲間たちと一緒に戦いました。そして、今は……」
 そのときドアが開き、長男のサミーが得意気に入ってきた。
「見て、父さん。エミリー叔母さんのクリスマスプレゼントだよ。この箱にブリキの兵隊さんが入っているんだ!」
 ウォルターは、息子が膝の上に注意深く箱を置くのを、微笑みながら見ていた。だが、その目には苦悩の影がよぎった。ウォルターは少しの間目を閉じていた。まるで自分が遠いどこかへ引き戻されているかのように。やがて彼は優しく、しかし厳しい口調で言った。
「よかったね。ブリキの兵隊さんか。でも、これは父さんがもらったほうがいいと思わないか? お前は他にもたくさんのおもちゃを持っているだろう? この兵隊さんをくれないか」
 サミーは怪訝な顔で父親を見上げた。ややあって、はっと気づいたようにうなずいた。
「いいよ、父さん。父さんは大佐だから、兵隊をあずけるよ。僕はほかのおもちゃで遊ぶ」そう言うと、サミーはスキップで部屋を出ていった。
 ウォルターは、いとおしげに息子の後ろ姿を目で追った。それから牧師の方へ向き直ると、奇妙な表情を浮かべた。少しいたずらっぽく、少し残酷な。
「牧師様。僕の願いを聞いてくださいますか? 炎が上がるまで、火をつついてください。ありがとう。今度は、この箱を一番よく燃えているところへ置いてください。ありがとう。すぐに燃えてしまうでしょう」
 牧師は少々困惑しながらも、言われた通りにした。意味のない気紛れにつきあうかのように。彼はウォルターの高ぶる気持ちがまったくわからず、訝しんだ。ウォルターは火が蓋を呑み込み、箱全体を包むのをじっと見ていた。やがて、牧師の背中に向かって静かに話し出した。
「以前の僕なら、息子がブリキの兵隊で遊ぶのを見て、いきなり平手打ちにしていたでしょう。でも、それは正しいやり方ではありません。なぜそれで遊んではいけないのか、僕は彼に話そうと思います。きっとわかってもらえるでしょう」
 年老いた牧師は納得した。ウォルターはもうすっかり落ち着いていた。片足の英雄は戦争からようやく解き放たれ、静かな心を取り戻した。二人はクリスマスの火のそばに座り、ブリキの兵隊が溶けてゆくのを眺めていた。
 
 
 
 
底本:「半分だけの物語」明かりの本
   2013(平成25)年7月28日初版発行
翻訳:山田由香里
編集:明かりの本
書誌情報:
HALF-TOLD TALES by Henry Van Dyke
New York CHARLES SCRIBNER’S SONS 1926
(原書『HALF-TOLD TALES(ヘンリー・ヴァン・ダイク作)』は1926年にアメリ カのCHARLES SCRIBNER’S SONSから出版された。)
明かりの本作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、明かりの本で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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