寺田寅彦 KからQまで






KからQまで
寺田寅彦


         一

 電車停留場のプラットフォームに「安全地帯」と書いた建札が立っている。巌丈(がんじょう)な鉄棒の頂上に鉄の円盤を固定したもので、人の手の力くらいでは容易に曲げ動かすことが出来ないように出来ている。それが、どうしたのかひどく折れ曲って変態仮名の※[#変体仮名く、181-5]の字のようになっているのがある。トラックでも衝突したかと思われる。鉄棒がこんな目に遭うくらいだから人間にとってはあまり安全な地帯でないのである。従ってこの曲った標柱は天然自然の滑稽であり皮肉である。これをそっくり写真に取れば、立派な、高級な漫画になるであろう。しかし安全も危険も実は相対的の言葉である。安全地帯の危険率も、危険地帯の安全率もゼロではない。

         二

 ある会社のある工場に新たに就職した若い男が、就職後間もなく誰かから自分の前任者が二人まで夭死(ようし)をしたこと、その原因がその工場で発生する毒瓦斯(ガス)のためらしいという話を聞き込んで、ひどく驚きおびえて、少し神経衰弱のような状態になっていると聞いた。しかし前任者が果して瓦斯中毒で死んだかどうかも確実には分からないようである。一体どんな職業でも、丁度自分の前任者が引続いて二人死んだという場合を捜せばいくらも例があるかもしれない。また、前任者がみんな健康でぴちぴちしている、その後を受けた自分が明日死ぬかもしれない。また一方、毒瓦斯の出ない工場にはまた色々別の危険が潜伏していて、そうして密(ひそ)かに犠牲者の油断のすきを狙って爪を研(と)いでいるであろう。それで、用心のいい人は毒瓦斯に充ちた工場で平気で働き、不用心な人は大地で躓(つまず)いてすべって頭を割るのであろう。

         三

 「心境の変化」という言葉が近頃一時流行(はや)った。「気が変った」というのと大した変りはないが新しい言葉には現代の気分があると見える。「私の心境が変化した」というのは客観的な云い方であり、自分の心を一つの現象として記述するという点でともかくもいくらか科学的であるとT君がいう。なるほど、そう云えば「結婚をやめた」「中止した」というよりも「結婚が解消した」という云い方がやはり客観的現象的であり科学的であるかもしれない。「憂鬱になった私である」といったような不思議な表現の仕方も、そう考えるといくらか了解出来るようである。

         四

 流行言葉(はやりことば)の中でも「ソートーナモンジャ」と「ドーカと思うね」には、どこか科学的なスケプチシズムの匂いがある。円タクで白山坂上(はくさんさかうえ)にさしかかると、六十恰好の巌丈な仕事師上がりらしい爺さんが、浴衣(ゆかた)がけで車の前を蹣跚(まんさん)として歩いて行く。丁度安全地帯の脇の狭い処で、車をかわす余地がない。警笛を鳴らしても爺さんは知らぬ顔で一向によける意志はないようである。安全地帯に立って見ていた二、三人連れの大学生の一人が運転手の方を覗き込んで、大声で、「ソートーなもんじゃー」と云った。傍観者の立場からの批判を表明したのである。運転手は苦笑しながら、なおも、ゆるやかに警笛を鳴らした。乗客の自分も失笑したが、とにかくこの流行言葉にはどこか若干の「俳諧」がある。

         五

 盲や聾から考えると普通の人間は二重人格のように思われるかもしれない。性格分裂者のように見えるかもしれない。時によって「眼の人」になったり、また時によっては「耳の人」になる。そうして「眼の人」と「耳の人」とは、必ずしも矛盾しないとは限らないからである。

         六

 銀座四丁目から数寄屋橋(すきやばし)まで歩いて、それから廻れ右をして帰って来るとやはりもとの同じ銀座四丁目に帰って来る。廻れ右の代りに廻れ左をして帰っても同じである。これが物理的物質的の世界である。Aから出発してBへ行ってから廻れ右をして帰って来ると、もうAは消えてなくなってCになっている。廻れ左をして帰るとそれがDになっている。これが心の世界である。

         七

 ファシストはアルプスを愛し、リベラリストはラインやエルベの川の景色を、マルキシストはツンドラや砂漠の景色を好むかもしれない。松やもっこくやの庭木を愛するのがファシストならば、蔦(つた)や藤やまた朝貌(あさがお)、烏瓜(からすうり)のような蔓草を愛するのがリベラリストかもしれない。しかし草木を愛する限りの人でマルキシストになれる人があろうとは想われない。

         八

 防空演習の夜にとうとうおしまいまで燈火を消さなかったのが近所の風呂屋である。何度となく警告しに来た青年団員がおしまいに少し腹を立てたらその時だけ消した。しかし青年団員が一町も行過ぎるとまた点燈した。尤も電燈を消さなかったのは風呂屋の主人であるが、それを消させなかったのは浴客である。サイレンが鳴り、花火が上がり、半鐘が鳴っている最中に踵(きびす)を接して暖簾(のれん)を潜って這入(はい)って行く浴客の数は一人や二人ではなかったのである。風呂屋の主人は意外な機会に変った英雄主義を発揮して見せた訳である。尤も同時に若干の湯銭を獲得したことも事実ではあるが。

         九

 今朝五時頃に眼が覚めて床の上でうとうとしているとき妙なことを思い出した。子供の時分に姉の家に庫次という眇目(すがめ)の年取った下男(げなん)が居た。それがある時台所で出入りの魚屋と世間話をしながら、刺身包丁を取り上げて魚屋の盤台の鰹(かつお)の片身から幅二分くらい長さ一尺近い細長い肉片を巧みにそぎ取った。そうしてその一端を指でつまんで高く空中に吊り下げた真下へ仰向(あおむ)いた自身の口をもって行って、見る間にぺろぺろと喰ってしまって、そうしてさもうまそうに舌鼓をつづけ打った。その時の庫次爺(じい)の顔を四十余年後の今朝ありありと思い浮べたのである。どうしてそんなことを想い出したかが分からない。その直前にどんなことを考えていたかと思って聊(いささ)か覚束(おぼつか)ない寝覚めの記憶を逆に追跡したが、どうもその前の連鎖が見付からない。しかし、その少し前にこの夏泊った沓掛(くつかけ)の温泉宿の池に居る家鴨(あひる)が大きな芋虫を丸呑みにしたことを想い出していた。それ以外にはどうしてもそれらしい聯想の鎖も見付からないのである。青い芋虫と真紅の肉片、家鴨と眇目の老人では心像の変形が少しひど過ぎるが、しかしこの偶然な一と朝の経験から推して考えてみるとフロイドの「夢判断」の学説も、そのことごとくが全くの故事付(こじつ)けではないかもしれないという気がして来るのである。

         十

 四、五月頃に新宿駅前から帝都座前までの片側の歩道にヨーヨーを売る老若男女の臨時商人が約二十人居た。それが、七月半ば頃にはもう全く一人も居なくなってしまった。そうしてその頃からマルキシストの転向が新聞紙上で続々として報道されている。後世の頭のいい史家でヨーヨーとマルクスの関係を論ずるものが出ないとも限らない。七月下旬に沓掛へ行ったときは時鳥(ほととぎす)が盛んに啼いたが、八月中旬に再び行ったときはもう時鳥を聴くことが出来なかった。すべては時の函数(かんすう)である。

         十一

 赤いカンナが色々咲いている。文字で書けば朱とか紅とかいうだけであるが、種類によってその赤い色がことごとくちがう。よく見ると花ばかりでなくそれぞれの葉の色も少しずつ違う。それが普通にはみんな赤いカンナと緑の葉で通るのである。人間の言葉の不完全なことがよく分かる。こんな不完全な言葉を使った「論理」などは当てになるはずがない。煽動者の利器とする詭弁(きべん)の手品の種はここから出て来るのである。

         十二

 一と頃、学生の観客の多い映画館で、ニュース映画の中にたまたまソビエトの赤旗の行列などがスクリーンに現われると、観客席の暗闇から盛んな拍手が起るのであった。ことによると、自分の中にもどこかに隠れているらしい日本人固有の一番みじめな弱点を曝露されるような気がして暗闇の中に慚愧(ざんき)と羞恥(しゅうち)の冷汗を流した。

         十三

 健康な人には病気になる心配があるが、病人には恢復するという楽しみがある。瀕死を自覚した病人が万一なおったらという楽しみほど深刻な強烈な楽しみがこの世にまたとあろうとは思われない。古来数知れぬ刑死者の中にもおそらくは万一の助命の急使を夢想してこの激烈な楽しみの一瞬間を味わった人が少なくないであろう。

         十四

 日本人の名前をローマ字で書くのにいろいろの流儀がある。しかしまだ誰も Toyo Tomi Hide Yosi という風に書く人はないようである。しかし、そう書いてはいけないという絶対的な理由はないようである。いわゆるイニシアルでも、T. T. とだけでは、例えば自分と同番地の町内につい近頃まで四人もいた。しかし、T. T. H. Y. という風に四字の組合せならば暗合のチャンスはずっと少なくなる。尤も大井愛といったような姓名だと Oo I Ai で少し短かすぎ、また Ty So Ga Be Ta R Za E Mon では少しごたごたし過ぎるかもしれない。但し、漢字でかくのと大した変りはない。それにしても日本の学者の論文が外国に紹介されるときに別人の仕事が同一人の仕事のように取扱われるような、よくある混同を避けるにはこういう新案もいいかもしれないのである。もう一歩進んで姓名の代りに囚人のように三一六五八九二四といったような番号をつけるのも最合理的な一方法であるかもしれないが、そうなるのはやはり悲しい。
(昭和八年十月『文芸評論』)




底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店


   1997(平成9)年6月5日発行

入力:Nana ohbe

校正:noriko saito

2004年11月24日作成

青空文庫作成ファイル:

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