転向 和辻哲郎









 過去の生活が突然新しい意義を帯びて力強く現在の生活を動かし初めることがある。その時には生のリズムや転向が著しく過去の生活に刺激され導かれている。そうしてすべての過去が「過ぎ去って」はいないことを思わせる。機縁の成熟は「過去」が現在を姙まし、「過去」が現在の内に成長することにほかならなかった。今にして私は「過去を改造する意欲」の意味がようやくわかりかけたように思う。「過去」の重荷に押しつぶされるような人間は、畢竟(ひっきょう)滅ぶべき運命を担っているのであった。忘却の甘みに救われるような人間は、「生きた死骸」になるはずの頽廃者に過ぎなかった。潰滅よりもさらに烈しい苦痛を忍び、忘却が到底企て及ばざる突破の歓喜を追い求むる者こそ、真に生き真に成長する者と呼ばるべきであった。心が永遠の現在であり、意識の流れに永遠が刻みつけられていることを、ただこの種の人のみがその生活によって証明するだろう。





 かつて親しくIやJやKなどに友情を注いだという記憶が私を苦しめる。彼らを「愛した」ゆえに悔やむのではない。「彼らの内に」自分を見いだしたことがたまらなくいやなのである。しかし私は自分の内に彼らと共鳴するもののあったことを――今なおあることを拒むことができない。それゆえになおさらその記憶が私を苦しめる。かつて私はあの傾向に全然打ち敗けていたに相違なかった。
 けれどもまた彼らから断然冷ややかに遠のいた記憶が同じように私を苦しめる。(もちろんその苦しみはこの転向の二三年後に初まった。そうして恐らく新しい転向を準備してくれるのだろう。私はそれを望む。)――とにかく私は自分の愛があまりに狭く、あまりに主我的ではなかったかを疑い始めた。私は彼らの「傾向」を憎んでも人間を憎むべきではなかった。彼らの傾向を捨てても人間を捨てるべきではなかった。私は道を求めつつ道に迷ったように思う。
 私は徹底を欲して断然身を処した。そうして今はその徹底のなかから不徹底の生まれ出たのを見まもっている。私は二つの苦しみのいずれからも脱れることができない。





 何ゆえに私は彼らを愛したか。
 第一の理由は直接的である。私は彼らが好きであった。彼らの顔を見、彼らと語ることが限りなく嬉しかった。そうして私は彼らの内に勇ましい生活の戦士を見、生の意義を追い求める青年の焦燥をともにし得ると思った。彼らの雰囲気が青春に充ち、極度に自由であることをも感じた。彼らの粗暴な無道徳な行為も、因襲の圧迫を恐れない真実の生の冒険心――大胆に生の渦巻に飛び込み、死を賭して生の核実に迫って行く男らしい勇気の発現として私の眼に映った。かくて私は彼らの人格と行為とのすべてに愛着を持ち続けた。
 私は私の心を常に彼らの心に触れ合わせようと欲した。しかし時のたつとともに、私は彼らがシンミリした愛情を求めていないのに気づいた。彼らが尚ぶのは酔歓であった、狂気であった、機智であった、露骨であった。すべて陽気と名の付かないものは、彼らの心を喜ばせるに足りなかった。彼らは胸に沁み入る静かな愛の代わりに、感覚を揺り動かす騒々しい情調を欲した。こうして私はただひとり取り残された。私の愛は心の奥に秘められて、ついに出ることができなかった。
 この隙に第二の理由が匐い込んだ。私の内の Aesthet はそこにきわめて好都合な成長の地盤を見いだしたのである。私の Aesthet は Sollen を肩からはずして、地に投げつけて、朗らかに哄笑した。私は手先が自由になったことを感じた。一夜の内に世界は形を変えた。新しい曙光は擅(ほしいまま)な美と享楽とに充ちた世界を照らし初めた。かくて私は彼らの生活に Aesthet らしい共鳴を感じ得るようになった。
 そこで私は彼らを彼らの世界の内で愛した。それは共犯者の愛着に過ぎなかったが、しかし私はそれを秘められた人間的な愛の代償として快く迎えた。その世界では彼らは皆私の先達であった。彼らは私の眼に、世界と人間とが尽くることなき享楽の対象であることの、具体的な証左であった。そのころの私には Sollen の重荷に苦しむ人が笑うべく怯懦に見えた。享楽に飽満しない人が恐ろしく貧弱に見えた。IやJやKが真に愛着に価する人間に見えたのも不思議ではない。





 何ゆえに私は彼らを憎んだか。
 それは私が彼らのごとき Aesthet ではなかったからである。私が Sollen を地に投げたと思ったのは錯覚に過ぎなかった。Sollen は私の内にあった。Sollen を投げ捨てるためには、私は私自身を投げ捨てなければならないのであった。私は自分の内に Aesthet のいるのを拒むことはできないけれども、私自身は Aesthet でなかった。かくて私は一年後に、Aesthet のごとくふるまったゆえをもって烈しく自己を苛責する人となった。
 私は彼らを愛した自分から腐敗の臭気を嗅ぐように思った。そこには生の真面目は枯れかかり、核心に迫る情熱は冷えかかっていた。生の冒険のごとく見えたのは、遊蕩者の気ままな無責任な移り気に過ぎなかった。生の意義への焦燥と見えたのは、虚名と喝采とへの焦燥に過ぎなかった。勇ましい戦士と見えたのは、強剛な意志を欠く所に生ずるだだッ児らしいわがままのゆえに過ぎなかった。私はその時までその臭気に気づかないでいた自分を呪った。道徳的には潔癖であるとさえ思い習わしていた自分が、汚穢に充ちた泥溝の内に晏如としてあった、という事実は、自分の人格に対する信頼を根本から揺り動かした。
 腐敗はそれのみにとどまらなかった。私はいつのまにか愛の心を軽んじ侮るようになっていたのである。私は人間を見ないで享楽の対象を見た。心の濃淡を感覚の上に移し、情の深さを味わいのこまやかさで量り、生の豊麗を肉感の豊麗に求めた。そうしてすべてを変化のゆえに、新味のゆえに尚んだ。こうして私は生の深秘をつかむと信じながら、常に核実を遠のいていたのであった。それゆえに私は真の勇気を怯懦と感じ、真の充溢を貧弱と感じた。それゆえに私は腐臭を帯びた人間を価値高きものとして尊敬した。ああ。何という自分だろう。私は何ものをも愛しないで、ただ冷ややかに(たとえ感傷的であったとしても)ただ無責任に(たとえ金と約束とにおいて責任を負ったとしても)すべてを味わって通ろうとした。そうして彼らが私の腐敗の具体的証左となった。
 私は自分を呪った。彼らをも憎んだ。彼らを愛することは、私には腐敗を愛することと同義になった。彼らを愛したという記憶は自分が腐敗したという記憶にほかならなくなった。この記憶ある限り私は、時々自分の人格を疑わないではいられない。腐敗を憎む限り私は、彼らをも憎まないではいられない。
 こうして私に一つの転向が起こった。





 しからば何ゆえに私は彼らを捨てたことを苦しむのか。
 私は自己の生を高める情熱に圧倒せられて、かつて嬉しかったものがいやでたまらなくなった。私はこの転向をどうすることもできなかった。親しく交わった彼らに対しても手加減をする余裕などはなかった。好きであった時に逢うことを好んだように、いやになった時には逢うことをいやがった。表面上には交誼を続けて薄情のそしりを避けるなどは、私には到底できないことであった。私は徹底を要求するために、態度の不純に堪え得ないがために、ついに彼らを捨てた。――それを何ゆえに苦しむのか。
 われわれのように小さい峠を乗り超えて来たものも、また自己を高める道の残酷であることを感じないではいられない。神の道は嶮しい、神は残酷だ、と言った哲人の言葉がしみじみと胸にこたえる。――もとよりこの場合に私は自分の行為が「大きい不幸」をかもしたとは思っていない。なぜなら、彼らの心はこの事によって痛みを感じるにはあまり不死身だからである。しかし私は彼らが不死身であるか否かを考量した後に彼らを捨てたのではなかった。私にとっては、彼らが痛みを感ずる程度よりも、「かつて親しかった者を捨てた」という行為そのものが問題になるのである。従って人を傷つけたか否かよりも、人を傷つける行為をしたか否かが問題になる。私はまさしく彼らの信頼を裏切った。私の心には裏切られた人の寂しさがしきりに思い浮かべられる。それだけで私には苦しむに十分である。
 私は近ごろT氏がすべての訪客を拒絶するという記事にたびたび出逢う。私はあれほど親切で優しかったT氏がそのような残酷をあえてし得るのかと不思議に思っている。なぜなら、私はT氏を訪ねて行く若い人たちのまじめに道を求める心持ちに、今なおある種の同感を持ち得るからである。しかしまた私は、愛することを欲しているT氏が好んで残酷を選んだ苦しさをも理解し得るように思う。そうしてT氏をその心持ちに押しつけて行った責任を自分もまた別たなければならないと感ずる。T氏に訪客と逢うことのはかなさを経験させたのは訪客自身であった。私たちは病人が医薬を求めるようにT氏から愛と智とを求めながら、やがて路傍の人のように冷淡になった。時おりなつかしい心でT氏のことを思い出しても、それを伝えるだけの熱心がない。それがいかにT氏の心を傷つけたかについては、私たちはあまりに無知であった。T氏もまた弱い所の多い求道者であることを、与うるとともに受けなければならない乏しい愛の蔵であることを、私たちはあまりに知らなさ過ぎた。私はT氏に対して済まないという思いを禁ずることができない。
 わずかに三四度逢ったT氏に対してさえそうである。まして彼らの場合は。――何といってもIやKは寂しいだろう。私を失ったためよりも、私の別離が凶兆として響いたために。――こう私は考える。私は薄情であった。そうしてただ一つの薄情でも、人生のはかなさを思わせるには十分であった。彼らの鼻っぱしの強い誇り心は恐らくこの事実を認めまいとするだろうが、彼らの認めると否とにかかわらず、私は彼らを傷つけたことを信じ、そうして絶えず済まないと思う。
 私は自己を高めるために薄情を避けなかった。しかしどんな背景があろうとも、薄情であったことは苦しい。私はどうにかして彼らを愛し続けたかったと思う。彼らの内にも愛らしい所がひそんでいたろうにと思う。私にそれが不可能であったことは私の愛の弱小を証明するに過ぎないだろう。私は彼らをも同胞として抱擁し得るような大きい愛をはぐくみたい。私はそういう愛の芽ばえが力強く三月の土を撞げかかっているように感ずる。
 春が来た。春が来た。真実の生の春が来た。すべてはこれからだ。





 私は彼らを再び愛し得るようになっても、彼らを動かしている傾向を再び愛することは、決してあるまい。
 この傾向を焦点として見れば、彼らは享楽のほかに生活を持っていない。彼らはともに全身をもって、全生活をもって享楽しようとする。彼らは内面外面のあらゆる道徳を振り捨てて人の恐れる「底」に沈淪する事を喜ぶ。聖人が悪とする所は彼らには善である。しかもそれは悪と呼ばれるゆえに一層味わいが深い。真情、誠実、生の貴さ、緊張した意志、運命の愛、――これらは彼らが唾棄して惜しまない所である。個性が何だ、自己が何だ、永遠の生が何だ、それらはふくよかな女の乳房一つにも価しない。乾物のような思想と言葉とを振り捨てて、汝の心奥の声を聞け。汝の核実は、汝の本能は、生の美しさをのみ求めているだろう。肉の delicacy 感覚と感情の酔歓、そこにのみ最高の美があるのだ。気ままな興奮と浮気な好奇心となげやりな勇気とがそれを汝に持ち来たすだろう。それをほかにしてどこに最もよく生きる道があるのだ。こう彼らは言う。
 これも一つの人生観である。一つの態度である。しかし私はそれを征服すべく努力するように運命づけられている。私にとっては生は精神的に無限に深い。生の美しさは個性と持続とのなかからのみ閃(ひら)めき出るように思える。断片的な享楽の美は私には迷わしにほかならない。
 またたとえそれを一つの態度として許しても、そこには内在的な批評の余地があろうと思う。すなわち彼らは果たしてその態度を徹底させているか。もしくは徹底させようという要求に燃えているか。――私は思うに、彼ら日本 Aesthet の危険は、Aesthet としてさえも徹底し得ない所にある。もしくは徹底しようと欲しない所にある。彼らはついにいかなる意味の生活をも築き得ない危険に瀕している。――たとえば彼らは嘘をつく。嘘は Aesthet にとって捨て難い味のある方法に相違ない。しかし彼らはともすれば嘘をもって社会と妥協しようとする。しかも驚くべきことには、彼らはその嘘を意識しないのである。彼らは時に情の厚い誠実な男としてふるまう。そうして自らそうだと信じている。そこへある事件が起こる。彼らは極度の不誠実を現わす。しかもなお自ら誠実な男だと信じている。最も徹底したように見えるJにおいてさえもそうである。彼はその全興味を注いで、享楽を尊重するために、人間の尊貴と美とを蹂躙するようなものを書く。そこでは彼は悪と醜の讃美者である。しかも彼を悪人と呼び醜怪と呼ぶ者に対して彼は怒る。製作の上では価値を倒換しても、日常生活においてはその倒換を欲しない。
 視点を製作にのみ限る時には、事情はやや異なって来る。この範囲でJは態度の純一を欠かない。彼は官能享楽にのみ価値を認めて、誠実にそれを徹底させる。製作においては決して嘘をつかない。彼の製作の趣味が低劣だという批評は倫理的立場からくるのであって彼の態度の不純によるのではない。それに比べると趣味が上品できれいだとせられるIの製作は態度の不純のためにたまらなく愚劣に感じられる。彼は内心に喜んでいながら恥じたらしく装う。歓喜を苦痛として表現する。すべてが嘘である。――Kはその軟弱な意志のゆえに Aesthet として生きている。彼は他の世界にはいろうとしてつまずく。そうして常に官能の世界に帰って来る。しかしそこでも彼は落ちつくことができない。彼は絶えず自分を嘲っている。彼は Aesthet として徹底するには、あまりに精神的であり、またあまりに精神的でなさ過ぎる。もし彼に強い意志があったならば、そうして Aesthet となるべく運命づけられているならば、彼はまず精神的傾向を彼がなしたよりももっと深い所まで押し詰めるだろう、そうしてそれを地に打ち砕くだろう。それは Aesthet として徹底する道であるとともに、またさらにより高い世界へ転向する可能性を激成する道である。けれども彼にはそれがない。彼の製作はいかにも突き入って行く趣を欠いている。すべてが核心に触れていない。
 このような三人の相違は、ふと私に三つの連想を起こさせた。Jには Faun の面影がある。彼は自分の醜い姿を水鏡に映して見て、抑え難い歓喜を感じるらしい。彼はその歓喜を衆人の前に誇示して、Faun らしく無恥に有頂天に踊り回るのである。私たちに嘔吐を催させるものも、彼には Extase を起こす。私たちが赤面する場合に彼は哄笑する。彼は無恥を焦点とする現実主義者である。(私も一度はそれであった。しばらくの間はその中で快活に踊ることもできた。しかしその間に心の眼は根元の醜さを見た。私は一度ふりほどいた縄目の貴さをようやく悟って、再び自ら縛についた。私の羞ずかしさは無垢の羞ずかしさではなくて、懺悔の羞ずかしさである。)――Iには売女を思わせるものがある。おしろいの塗り方も髪の結いぶりも着物の着こなしもすべて隙がない。delicate な印象を与え清い美しさで人を魅しようとする注意も行きわたっている。しかもそこにすべてを裏切るある物の閃きがある。人は密室で本性を現わす無恥な女豚を感じないではいられない。――Kは生ぬるいメフィストを連想させた。彼は自己の醜さを嘲笑する。しかし醜さを焼き滅ぼそうとする熱欲があるからではない。彼は他人の弱所を突いて喜ぶ。しかし悪を憎む道徳的疳癪からではない。
 ――ここまで考えて来ると、ふと私は一つの危険を感じ出した。彼らの現わす傾向については、たとえ全然捨離し得たと言えないまでも、もはや自分に危険はあるまい。しかしこの敵と戦っている間に、他の敵が背後へ回っていた。私はそれを味方と信じていたが、しかしその味方のために足をさらわれることがないとは言えない。
 それは私の内のメフィストである。私は自分に浄化の熱欲と道徳的疳癪とがあるゆえをもって、自分のメフィストを跳躍させてよいものだろうか。それは自己と同胞とに対する愛の理想を傷つけはしないだろうか。私は彼らの弱所を気の済むまで解剖したところで、どれだけ自分の愛を進め得たろうか。怒りは怒りをあおる。嘲罵(ちょうば)は嘲罵を誘う。メフィストもまたメフィストを誘い出すだろう。
 私はまた事を誤ったのだろうか。





 私は人の長所を見たいと思っている。そうしてなるべく多くの人に愛を感じたいと思っている。しかし私には思うほどにそれができない。
 私が愛を感じている人の短所は、同情をもって見ることができる。時にはその短所のゆえに成長が早められているとさえも思う。しかし愛を感じない人の短所は、多くの場合致命的に見える。私はともすればそういう人の長所や苦しみや努力を見脱してしまう。そうしてその際、自欺の衣を剥ぎ偽善の面をもぐような、思い切った皮肉の矢を痛がる所へ射込む、ということに、知らず知らず興味を感じていないとは言えない。
 私はかつてこのような興味に強く支配されていたこともあった。そのころはすべての事物に醜い裏が見えて仕方がなかった。多くの人の言動には卑しい動機が見えすいて感じられた。風習と道徳には虚偽が匂った。私はそれを嘲笑せずにはいられない気持ちであった。そうして自分の態度の軽薄には気づかなかった。
 これに気づいたのは私には一つの契機であった。私は自分の過去を恥じ、呪い、そうして捨てた。できるならば私はそれまでに書いたものをすべて人の記憶から消し去りたいとねがった。もう筆を取る勇気もなかった。私はその時に自己表現の情熱を中断されたように思う。そのころは知人と口をきくことさえも私を不安にした。私はできるだけ知人を避け、沈黙を守った。愛と誠実とに動かされない場合は何事も言わず何事も書くまいと誓った。
 こうして一年以上私は狭い自分の周囲以外に眼と口を向けなかった。その間に私は自分を鋳直すことができたつもりであった。
 しかしメフィストはなお自分の内に活きている。彼の根柢は意外に深い。事ごとに彼はピョイピョイ飛び出して来る。そうしてその瞬間に私は彼を喝采する心持ちになっている。たとえすぐそのあとでそれを後悔するとしても。
 私は二三日前に一人の女の不誠実と虚偽と浅薄と脆弱(ぜいじゃく)と浮誇(ふこ)とが露骨に現わされているのを見た。しかし私は、興奮して鼻の先を赤くしている彼女の前に立った時、憐愍(れんびん)と歯がゆさのみを感じていた。性格の弱さと浮誇の心とが彼女を無恥にし無道徳にしている。彼女の意志を強め、彼女に自信を獲得させることが、やがて彼女を救うことになるだろう。より強い力を内より湧き出させるのが、自欺を破ってやる最良の方法であるのだから。こうして私は彼女を優しくいたわることができた。――一時間たった。私はいつのまにかメフィストであった。女の心のすみずみから虚偽と悪徳とを掘り出し、それを容赦のない解剖刀で切り開いて見せる。私は熱して、力を集注して、それをやっていた。傷ついた女の誇り心の反撥が私をますます刺激した。女が最後の武器として無感動を装うのを、さらに摘発し覆さなければやまないほど私は残酷であった。――そうして結果はどうなるのか。女はますます無恥であるように努力するだろう。私にはただ後悔が残った。
 他人の製作に対する私の心持ちにも同じようなものがないとは言えない。たとえば私は四五日前に大家と称せらるるある人の感想を読んでその人の製作を考えてみた。彼は「事実」に即するつもりでいる。また実際「事実」を持っている。しかしそれは浅い生ぬるい事実に過ぎなかった。けれども彼はもっと深い事実を示す多くの思想や言葉を知っている。彼はそれを自分の浅い事実に引きつけて考える事によって、外形的に自分をそれらの思想の高さまで高めて行った。その結果として彼は自分の知らない事を描きまた論じている。彼は深い語を軽々しく使う。浅い事実を深そうに表現する。問題の入り口に停まっていながら問題を解決したつもりになっている。彼は身のほどを知らないのである。彼は虚偽を排する主義を奉じているが、それを徹底させるためにも浅い体験はただ浅いままに表現すべきであった。一切の借り物を捨て、自分の直視にのみ即して考えてみるべきであった。――こう考えている内に、彼の感想の内から二つの語が自分の批評の証明として心に浮かんだ。彼は「徹底」について語りながら言う、徹底を言う人が案外に徹底していない、言わぬ人にかえって徹底したのがある。これは事実である。問題にならないほどわかり切った事実である。しかも彼はこの語で徹底を説くものを論破したつもりになっている。これによっても彼がかつて「徹底」を問題としなかった事は明らかである。なぜなら彼の態度には、徹底を要求する者の苦しみと努力とに対するいささかの同情も同感も現われていないからである。徹底し切れない所に徹底を要求する者の種々な心持ちがある。それを見得ない人にどうして「徹底」を論ずる権利があろう。彼は自らを「徹底した人」に擬しているかも知れないが、そのような徹底は恐らく矛盾を意識しない無知な妥協の安逸か、あるいは物の見方や扱い方の凝固に過ぎないだろう。――彼はまた所有の欲望を嘲って、自分の家庭の経験より見ても所有は不可能だと言う。これがまた彼に所有の要求のないことを、従って所有の要求を解し得ないことを示している。真に所有の要求に燃えている者に(あるいは燃えていた所に)、どうしてそれが不可能だと言い切れるだろう。自分にそれほどの力がない(あるいはなかった)、とつぶやく心持ちにはなることもあるが、しかしそれは自己を嘲る根拠にはなっても、他人を嘲る根拠にはなり得ない。まさしく彼は自分の浅い生ぬるい経験から押して、自分の知らない世界のことを横柄に批評したのである。……
 こういう論証は私をよい気持ちにした。私は彼と彼の一味との浅薄な醜さを快げに見おろした。そうして彼の永い間の努力と苦心と功績とを一切看過した。私はそこに自分の愛の狭さを感じる。この種の心持ちがしばしば他人の製作に対して起こっているのではないかと、自分を憂えないではいられない。愛なき批評を呪うようになった私には、もはや気軽に他人を非難する度胸がなくなった。





 ショオとドストイェフスキイとに一種の類似がある。それは知的と心理的とに特色を有する表現法が因をなしているかも知れない。しかし私は特に彼らの内からメフィストが首を出している所にそれを認めたい。そうしてまたそこに彼らの大きい相違をも認めたい。
 ショオが社会に対して浴びせかける辛辣な皮肉の裏には、彼の理想の情熱と公憤とが燃え上がっている。しかし彼の製作にはしんみりした所がまるでない。彼は愛のあふれた人間をも、道に苦しむ人間をも、描くことができない。畢竟、彼は人類の姿を描き出すことができない。彼には悪を憎む心のみあって憐慰がない。この関係を彼のメフィストが示している。彼のメフィストは否定の矢をただ偽善者の上に――臭いものを覆うた蓋の上に――のみ向けるのである。彼は破壊を喜ぶが、しかし真に善きもの美しきものを破壊しようとはしない。いわば正義の騎士に商売換えをしたメフィストである。従ってこのメフィストはファウストを持っていないのである。そうしてまた、ショオ自身の内にも、ファウストは全然いないらしい。彼は善の塊のように、自己を築きおわった人のように、安固として動かない。彼は自己鍛錬の苦しい道を経ないで、社会救済の自信と力とを得た人のように見える。彼はその理想の情熱と公憤との権利をもって、何の遅疑する所もなく、大胆に満腹の嘲罵を社会の偽善と不徹底との上に注ぐのである。
 しかしドストイェフスキイのメフィストは常にファウストに添って現われて来る。真の生を求めて泣き、苦しみ、恐れ、絶望する「人間」の傍にのみ、メフィストはその意義を持つ。彼は社会の悪と人間の愚とを罵るが、しかしそれは社会を救済するためではなくて、ファウストを誘惑しファウストから「人間」に対する愛と信頼とを奪うためである。道を求むる人は必ず一度はこの試みに逢わねばならない。ファウストはこの誘惑を切り抜けて、社会と人間とを愛し続ける。そうしてドストイェフスキイは、この愛をもって人間を救済しようとするのである。彼の描くのは「個人」とその歩んで行く「道」とである。彼の努力の焦点は自己の永遠の生を築くことである。それはただ愛によってのみなされる。そうしてそこに人類の救済がある。彼は悪を罵っているのみには堪えられない。悪のゆえに人間を憐れみ、自ら苦しむ。大きい愛、宗教的な愛……
 ――ここにこそ自分の行くべき道があった。私は自分の内にメフィストが住むのもまた無意義でなかったと思う。メフィストがいなければ私の世界も寂しいだろう。メフィストは私の世界を押し広め、多くの心理や見方を教えてくれる。それを機縁として私のファウストが真の叡智を得て行くのである。……メフィストを跳梁させてはいけない。しかしメフィストのゆえに苦しむのはよいことだ。メフィストがあまりに早く離れ去らなかったことは、喜ばなくてはいけないだろう。メフィストのいることも私にはよい刺激になる。ショオのメフィストのようにならない限りは。
 ショオを離れることのできたのも私には一つの転向であった。








底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
   2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「新小説」
   1916(大正5)年5月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年5月7日作成
2012年3月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。








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