須川邦彦 無人島に生きる十六人




無人島に生きる十六人


須川邦彦











中川船長の話


 これは、今から四十六年前、私が、東京高等商船学校の実習学生として、練習帆船琴(こと)ノ緒(お)(まる)に乗り組んでいたとき、私たちの教官であった、中川倉吉(なかがわくらきち)先生からきいた、先生の体験談で、私が、腹のそこからかんげきした、一生わすれられない話である。
 四十六年前といえば、明治三十六年、五月だった。私たちの琴ノ緒丸は、千葉県の館山湾(たてやまわん)に碇泊(ていはく)していた。
 この船は、大きさ八百トンのシップ型で、甲板から、空高くつき立った、三本の太い帆柱には、五本ずつの長い帆桁(ほげた)が、とりつけてあった。
 見あげる頭の上には、五本の帆桁が、一本に見えるほど、きちんとならんでいて、その先は、舷(げん)のそとに出ている。
 船の後部に立っている、三木めの帆柱のねもとの、上甲板に、折椅子(おりいす)に腰かけた中川教官が、その前に、白い作業服をきて、甲板にあぐらを組んで、いっしんこめて聞きいる私たちに、東北なまりで熱心に話されたすがたが、いまでも目にうかぶ。
 中川教官は、丈(たけ)は高くはないが、がっちりしたからだつき、日やけした顔。鼻下(びか)のまっ黒い太い八文字のひげは、まるで帆桁のように、いきおいよく左右にはりだしている。らんらんたる眼光。ときどき見えるまっ白い歯なみ。
 いかめしい中に、あたたかい心があふれ出ていて、はなはだ失礼なたとえだが、かくばった顔の偉大なオットセイが、ゆうぜんと、岩に腰かけているのを思わせる。
 そういえば、ねずみ色になった白の作業服で、甲板にあぐらを組み、息をつめて聞きいる、私たち三人の学生は、小さなアザラシのように見えたであろう。
 中川教官は、青年時代、アメリカ捕鯨帆船(ほげいはんせん)に乗り組んで、鯨(くじら)を追い、帰朝後、ラッコ船の船長となって、北方の海に、オットセイやラッコをとり、それから、報効義会(ほうこうぎかい)の小帆船、龍睡丸(りゅうすいまる)の船長となられた。
 この、報効義会というのは、郡司成忠(ぐんじしげただ)会長のもとに、会員は、日本の北のはて、千島列島先端の、占守(しゅむしゅ)島に住んで、千島の開拓につとめる団体で、龍睡丸は、占守島と、内地との連絡船として、島の人たちに、糧食その他(た)、必要品を送り、島でとれた産物を、内地に運びだす任務の船であった。
 龍睡丸が、南の海で難破(なんぱ)してから、中川船長は、練習船琴ノ緒丸の、一等運転士となり、私たち海の青年に、猛訓練をあたえていられたのである。
 私は、中川教官に、龍睡丸が遭難して、太平洋のまんなかの無人島に漂着(ひょうちゃく)したときの話をしていただきたいと、たびたびお願いをしていたが、それが、今やっとかなったのであった。
 日はもう海にしずんで、館山湾も、夕もやにつつまれてしまった。ほかの学生は休日で、ほとんど上陸している、船内には、物音ひとつきこえない。

 以下物語に、「私」とあるのは、中川教官のことである。


龍睡丸(りゅうすいまる)出動の目的


 須川(すがわ)君には、長い間、無人島の話をしてくれと、せめられたね。今日はその約束をはたそう。
 問題の龍睡丸というのは、七十六トン、二本マストのスクーナー型帆船で、占守島と内地との、連絡船であった。
 占守島が、雪と氷にうずもれている冬の間は、島と内地との交通は、とだえてしまう。それで、秋から翌年(よくねん)の春まで、龍睡丸は、東京の大川口につないでおくのだった。これは、まったくむだなことで、そのうえ、船の番人だけをのこして、うでまえの達者な乗組員は、みな船からおろしてしまっていた。
 だから、春になって、船がまた出動しようとして、急に乗組員をあつめても、なかなか思うような人は集められない。これは、龍睡丸にかぎらず、北日本の漁船や小帆船は、みな、こんなありさまであった。
 そこで、船が、この冬ごもりをしている間に、南方の暖かい海、新鳥島(しんとりしま)から、小笠原(おがさわら)諸島方面に出かけて行って、漁業を調査し、春になって、日本に帰ってくる計画をたてた。
 もしこの結果がよければ、冬中つないでおく帆船や漁船が、二百隻(せき)もあったから、その船が、南方に出かけて働くことができる、これは、日本のために、ほんとにいいことだ。まず龍睡丸が、その糸口をさがしてこよう。こうして、私は立ちあがったのだ。それは、明治三十一年の秋であった。
 私は、また、こんなことも考えていた。
 日本の南東の端にある、新鳥島(この島は、北緯二十五度、東経百五十三度にあったのだが、火山島であるから、たぶん、噴火か何かで海底にしずんだのだろうといわれている)の近くに、グランパス島という島がある。これは昔、海賊(かいぞく)の基地であって、そんな島は、ないという捕鯨船の船長もあるし、いや、あるという船長もあって、めったに船の行かないところであるが、この方面の海に注目している人々の間には、問題となっていた島である。
 ともかくも、この島を見つけたら、日本のためにたいへんいいことになる。そればかりか、海賊の秘密の基地であるから、運がよければ、かれらが、うずめてかくしておいた宝物(たからもの)を、発見できるかもしれない。
 この海賊島を発見したら、私はここを基地として、島も、まわりの海も、思うぞんぶん調査しよう。そうして、この島に畑を作って、新しい野菜をとり、昔から帆船航海者が苦しめられた、野菜の不足からおこる、おそろしい壊血病を、予防しよう。こう考えて、野菜の種を、たくさんに用意した。
 それからもう一つ、南の海には、龍涎香(りゅうぜんこう)といって、大きなくらげのようなかたまりが、海にういているのを拾うことがある。また、無人島の海岸に打ちあげられているのを、発見することもあるのだ。
 これは、まっこう鯨の体内から出るもので、香水の原料となる。それが、たいへん高価なもので、品質によっては、一グラムの価(あたい)が、金一グラムにひとしいものもある。そして、百キログラムぐらいの大きなかたまりもあった。
 こんなのを、二つ三つ拾えるかもしれない、と、こんなことも考えていた。じっさい、昔から、大きなかたまりをひろった話は、すくなくないのだ。


探検船の準備


 船が、大洋に乗りだしたら、何ヵ月も陸地につかず、また、どんな大しけにあっても、それにたえて行かなければならない。出船の準備は、第一に、船体を丈夫に修繕し、船具は強いものと取りかえた。
 ひろい海を航海するのに、なくてはならぬ海図と、海や島や海流のことなど、くわしく説明してある海の案内書、すなわち水路誌。船の位置を計る、各種の航海用精密機械は、外国からも取りよせたり、海軍や商船学校からも借りた。六分儀(ろくぶんぎ)が三個。経線儀(けいせんぎ)(精確な時計)が二個。羅針儀(らしんぎ)も、すばらしいものをすえつけた。みな、漁船にはりっぱすぎるものばかりであった。
 乗組員は、いずれも一つぶよりの海の勇士である。運転士、榊原(さかきばら)作太郎。この人は、十何年も遠洋漁業に力をつくしていて、船長をしたり、運転士をしたり、またある時は、水夫長もしたことのある、めずらしい経験家である。そのうえ、品行の正しい、りっぱな人格者。まったく、たよりになる参謀であった。
 漁業長の鈴木孝吉郎。この人は、伊豆(いず)七島から、小笠原(おがさわら)諸島にかけて、漁業には深い経験のある漁夫出身者で、いくどか難船したこともあり、いつも新しいことを工夫する、遠洋漁業調査には、なくてはならぬ、第一線の部隊長であった。
 それから、実地の経験からきたえあげた、人なみはずれた腕まえを持ちながら、温厚な水夫長。
 このほか、報効義会(ほうこうぎかい)の会員四名。この人たちは、占守(しゅむしゅ)島に何年か冬ごもりをして、多くの艱難辛苦(かんなんしんく)をなめて、漁業には、りっぱな体験をもった人々。
 二名の練習生は、水産講習所出身で、これから、海上の実習と研究とをつんで、将来は、水産日本に大きな働きをみせようとこころざす、けなげな青年。
 小笠原島の帰化人が三名。この人たちは、昔のアメリカ捕鯨船員の血をうけていて、無人島小笠原が、外国捕鯨船の基地となってから、上陸して住んでいたが、明治八年に、小笠原島が日本の領土となった後も、日本をしたって、心から日本人となった、生まれながらの海の男。
 このほかに、水夫と漁夫が三人。この十五人の人たちは、真心をつくして、私の手足となって働いてくれた。

 船には、お医者が乗っていないのがふつうであった。それで、遠洋航海の帆船には、ときどき恐しいことがあった。
 日の出丸という、オットセイ猟船は、船員が、一人残らず天然痘(てんねんとう)にかかって、全滅というときに、運よくも海岸に流れついて助かった。
 また、松坂丸という、南洋賢易の帆船は、乗組員が、みんな脚気(かっけ)になって、動けなくなり、やっと三人だけが、どうやら甲板をはいまわって働き、小笠原島へ流れついた。これににた船の話は、たくさんにある。
 日本の船の人は、白米のご飯をたべるから、脚気になって、海のまん中で、ひどい目にあうことが多かった。
 そこで龍睡丸(りゅうすいまる)では、このおそろしい脚気を予防するため、全員、麦飯をたべることを約束した。
 麦飯はまずい。しかし、国家のため、遠く黒潮に乗りだして行くのだ。麦飯は、からだを強くする薬と思ってたべよう。
 この意気ごみで、米と麦と、半々の飯をたべた。
 その他の糧食(りょうしょく)も、ぜいたくなものは、海の勇士にはふむきである。安くて、栄養が多くて、ながい月日、熱帯の航海にもたくわえられるものを、苦心してえらび、糧食庫につみこんだ。
 それから、思いきって実行したのは、
「けっして酒を飲みません」
 と、全員がかたくちかったことであった。
 お医者にたのんで、全員の健康診断をしてから、種痘(しゅとう)をしてもらった。船でお医者のかわりをするのは、船長の私だ。そこで、船で必要な薬品や、医療器具を、じゅうぶんにそなえつけた。
 海にうかぶ船の上では、命のつぎにかぞえられるのが、飲料水である。わるい飲み水は、病気のもとにもなる。
 それで、大小二個の清水(せいすい)タンクを造って、よい飲料水を、横須賀(よこすか)の海軍専用の水道から、分けてもらうことにした。
 衣服は、そまつなものでいいから、たくさんに用意させて、いつも、いちばんわるいものを着るようにさせた。
 寝具には、とくべつに注意して、全員毛布を用いることにした。これは、ふつう、ふとんを用いている漁船としては、めずらしいことで、衛生上の大改善であったのだ。

 この航海の目的は、漁業調査である。漁具の用意に力をいれたことは、いうまでもない。
 ふかつり道具と、ふかの油をしぼる道具を取りそろえた。ふかのつり針、つり糸、えさは、じっさいに研究しなければならないので、日本の沿岸で使うもの、小笠原島方面で使うもの、外国で使うものを、ひきくらべて研究するため、各国のものを集めた。
 海がめをとらえる道具も、小笠原島方面と、南洋原住民の使うものとを用意し、また、かめの油をしぼる釜(かま)もそなえた。
 鯨をとってやろうと、大きなまっこう鯨をめあてにして、捕鯨用具を一とおりそろえた。鯨を見つけたら、伝馬船(てんません)と漁船で、鯨に突進して、銛(もり)、手槍(てやり)、爆裂弾(ばくれつだん)をつけた銛を、鯨にうちこんで、鯨と白兵戦をやって、しとめるのである。
 船長の私は、鯨とりの経験がある。帰化人たちは、鯨とりの子孫だ。この人たちは、どうか大鯨に出あいますように、といいながら、銛の手入れをいつもしていた。


大西風


 すっかり用意ができて、明治三十一年十二月二十八日、東京の大川口を出帆して、翌日、横須賀軍港に入港。海軍の水道から、いのちの水をもらって、大小の水タンクをいっぱいにしてから、いよいよ、元気に帆をまきあげて、太平洋へ乗りだした。
 元旦(がんたん)の初日の出を、伊豆(いず)近海におがみ、青空に神々(こうごう)しくそびえる富士山を、見かえり見かえり、希望にもえる十六人をのせた龍睡丸(りゅうすいまる)は、追手(おいて)の風を帆にうけて、南へ南へと進んで行った。
 一日一日と航海をつづけて、一月十七日には、目的の、新鳥島(しんとりしま)付近にきていた。
 この日の朝は、濛気(もうき)が四方に立ちこめて、水平線ははっきり見えなかったが、海鳥は船のまわりを飛びかわし、その数は、だんだん多くなってきた。八時ごろになると、海水が、いままで、ききょう色の黒潮であったものが、急に緑白色にかわった。島が近くなったにちがいない。海の深さをはかってみると、十七尋(ひろ)(三十一メートル)。海底は、珊瑚質(さんごしつ)であることがわかった。
「島」
 見張当番が、大声でさけんで、右手を、力いっぱいのばして、指さしている。
 うすい牛乳のような濛気を通して、うす墨でかいた、岩のようなものが、ちらっと見えたと思ったら、もう何も見えない。
 私は、濛気が晴れるまで、錨(いかり)を入れて、碇泊(ていはく)する決心をし、小錨(しょうびょう)に太い索(つな)をつけて投げ入れた。
 ところが、海底は珊瑚質の岩で、錨の爪(つめ)がすべって船はとまらない。錨をがりがり引きずって、船は潮に流される。そこで、小錨を引きあげて、この索にもう一つ、小錨より大きな中錨をつけて、二ついっしょに投げこむと、二つの錨は海底をよく掻(か)いて、船は止った。
「さあ。ふかつりだ」
 船が碇泊すると、すぐにふかつりをはじめた。
 すると突然、つよく西風が吹きだした。びゅうびゅうと、帆柱や索具(さくぐ)にふきつけて、海面には白波がたちさわぎ、船体は、大西風に強くふかれて、錨索(いかりづな)がぴいんと張りきると、
 ぷつり。
 ぶきみな音がして、太い錨索は切れてしまった。すぐに、左舷(さげん)の、太い鎖のついた大錨が投げこまれて船は止った。
 そこですぐに、伝馬船(てんません)を、大風にさわぎだした海におろして、索の切れた錨の、引きあげ作業をはじめた。それは、錨には、大きな浮標(うき)のついた、丈夫な索がしばりつけてあって、錨索が切れても、この浮標の索を引っぱって、錨をあげられるようにしてあるのだ。
 伝馬船の人たちは、錨をあげようと、一生けんめいに働くけれども、あがらない。二つの錨は、岩のわれめにでも、しっかりとはさまっているのであろう。大西風は、いよいよふきすさんでくる。波がだんだん大きくなって、伝馬船の人たちは、波をあびどおしで、作業をつづけるのはあぶなくなったので、錨の引きあげは、とうとう中止した。
 しかし、ふかつりの方は成績がよく、三時間も錨作業をしているうちに、二メートルもある大ふか数十尾を甲板につみあげた。
 大西風のふきつづくうちに、時はすぎて、午後四時ごろとなると、どうしたことか、急に、船が流れ出した。
 錨の鎖をまきあげてみると、錨がない。鎖は、錨にちかいところから切れていた。なんという、錨に故障のある日であろう。七時間に、小、中、大、三個の錨をなくしてしまったのである。
 こうなってはしかたがない。帆をまきあげて、避難の帆走をはじめた。大風にくるいだした大波は、船をめちゃめちゃにゆり動かし、翌、十八日の夜明けごろには、前方の帆柱(ほばしら)の、太い支索(しさく)がゆるんでしまった。しかし、仮修繕はできた。
 大西風は、いよいよ猛烈にふきつづいて、その日の夜中に、前方の帆柱は、上の方が折れてしまった。そして、甲板の下では、飲料水タンクの大きいのがこわれて、水がすっかり流れ出して、小さなタンク一つの水が、十六人の、生命の泉となってしまったのである。
 総員は、ふきすさぶ大風と、大波にもまれながら、夜どおし、帆柱の仮修繕に働いて、夜明けに修繕はできあがったが、今はもう、追手に風をうけて走るより方法がない、そこで、東北東に向かって船を走らせた。
 大西風は、一週間もふきつづいて、二十四日正午には、新鳥島から、数百カイリも東の方、くわしくいえば、東経百七十度のあたりまで、ふき流されてしまった。
 もう、海賊(かいぞく)島の探検(たんけん)どころではない。日本へ帰ろうとすれば、この大西風にさからって、千カイリ以上も、大風と大波とをあいてに、折れた帆柱、ゆるんだ索具の小帆船が、戦わなければならない。遠いけれども、追手の風で、ハワイ諸島のホノルル港に避難して、修繕を完全にして、じゅうぶんの航海準備をととのえて、日本へ帰るのが、いちばんたしかな方法だ。急がばまわれとは、このことだ。
 また、ホノルルに向かえば、途中は島づたいに行ける。まんいち、食糧がなくなっても、魚をつってたべ、島にあがって清水(せいすい)もくめよう。いよいよ水がなくなったら、この島々にたくさんいる、海がめの水を飲もう。海がめは、腹のなかに、一リットルから二リットルぐらいの、清水を持っているのだ。
 この島々の付近には、北東貿易風(ぼうえきふう)(一年中、きまって北東からふいている風)がふいている。もし、大西風がやんで、反対に北東貿易風がふきだしても、この風になら、さからって船を進めることができる。こう決心して、ホノルルに針路を向けた。
 しかし、できるだけ早く飲料水(いんりょうすい)がほしいので、いちばん近い島、すなわち、ハワイ諸島のミッドウェー島に行こうとした。
 ミッドウェー島は、ホノルル港から、約千カイリ、ハワイ諸島の西端の島で、島は、海面から、約十二メートルの高さであるが、すこしほれば清水(しみず)がわきでるから、この島で、まず飲料水をつみこむことを考えた。だが、大西風が強すぎて、とても行けない。しかたがないからあきらめて、ホノルルに向かった。

 それから毎日、龍睡丸は走りつづけて、十一日めの二月四日に、はじめてハワイ諸島の島を見てからは、三、四日めごとには島を見て、島づたいに進んだ。
 なによりも飲料水がほしいので、島の近くにくると漁船をおろして、水をさがしにでかけたが、波が荒くて、島に上陸ができず、また、上陸のできた島には、水がなかった。
 しかし、これらの無人島では、大きな海がめ、背の甲が一メートルぐらいの正覚坊(しょうがくぼう)(アオウミガメ)が手あたりしだいにとらえられ、おまけにその肉は、牛肉よりもおいしく、また、どの島のちかくでも、二メートル以上のふかが、いくらでもつれた。
 こうして、はてもない空と水ばかりを見て、帆走(はんそう)をつづけ、二月もすぎて、三月十五日となった。この日の午後二時、西北の水平線に、一筋たちのぼる黒煙をみとめた。
 汽船だ。
 万国信号旗を用意して、汽船の近づくのをまっていた。それには、わけがあるのだ。
 機械の力で走る汽船は、風や海流にかまわず、目的の方向に一直線に走れる。速力もわかっている。それだから、自分の船のいるところは、大洋のまん中でも、どこかわかっている。しかし帆船では、風を働かせて船を進めるのだから、風のふく方向や、風の強さ、それから海流などに、じゃまをされて、汽船のようには進めない。
 それで、大海原(おおうなばら)で、帆船が汽船に出あうと、
「ここはどこですか」
 と聞くのだ。これは、世界の海の人のならわしである。
 水平線の一筋の煙は、太く濃くなって、やがて、帆柱、煙突、船体が、だんだんに水平線からうきだしてきて、近くなった。私たちは、大きな日の丸の旗を、船尾にあげた。船は小さくとも、日本の船だ。十六人の乗組員は、日本国民を代表しているのだ。むこうの汽船では、アメリカの旗をあげた。
 午後三時四十分、両船の距離は八百メートルとなった。本船は、帆柱に万国信号旗をあげて、汽船に信号した。
「汝(なんじ)の経緯を示せ」
 汽船は、わが信号に応(こた)えて、多くの信号旗をあげた。その信号旗の意味をつづると、
「西経百六十五度、北緯二十五度」
 これで、本船のたしかな位置がわかった。
「汝に謝す」
 お礼の信号をすると、
「愉快なる航海を祈る」
 汽船はこの信号をあげつつ、ゆうゆう帆走する本船をおきざりにして、どんどん遠ざかり、やがて、水平線のあなたに、すがたをかくしてしまった。
 こうなると、汽船と帆船とは、うさぎとかめの競走である。かめの本船は、ここで、針路をまっすぐにホノルルに向けた。

 二十二日の朝、ホノルル沖についた。信号旗をあげて、港の水先案内人をよび、曳船(ひきぶね)にひかれて、龍睡丸は港内にはいって、碇泊した。
 私は上陸して、ホノルル日本領事館にいって、領事に、海難報告書を出して、避難のため、この港へ入港したわけを説明して、べつに英文の海難報告書を、領事の手をへて、ホノルルの役所へとどけてもらった。


世界の海員のお手本


 こうして龍睡丸(りゅうすいまる)は、ぶじに避難ができた。しかし、こまったことになった。船の大修繕をしなければならない。錨(いかり)を買い、糧食をつみこまなくてはならない。それだのに、龍睡丸には、準備金がないのだ。
 まさか、こんな外国の港で、大修繕をしたり、糧食を買い入れようとは、夢にも思わなかった。もともと、龍睡丸の持主の報効義金(ほうこうぎかい)は、貧乏な団体であるため、冬の間、南の海で、ふかや海がめ、海鳥をうんととらえて、できればまっこう鯨もとって、利益をえようというのが、この航海の目的であったのだ。
 ついに私は、ホノルルの在留日本人に、一文なしでこまっているのだと、うちあけて相談すると、
「御同情します。われらも日本人だ、なんとかしましょう」
 と、ありがたいことばである。そして、日本字新聞は、「龍睡丸義捐金(ぎえんきん)募集」をしてくれたが、このとき、ホノルルの外国人のあいだには、へんなうわさがひろがった。
「あの船を見ろ。日本の小さな帆船のくせに、あんな大きな日の丸の旗をあげたりして、なまいきなやつらだ。避難の入港だなぞといっているが、ホノルルへ入港するまえに、沿岸定期の小蒸気船を、追いこしたというではないか。大しけにあったなんて、税金のがれのうそつきだよ」
 ホノルルには、各国人がいて、こんなうわさをした。
 そしてやがて、港の役所から、
「至急、船長自身出頭せらるべし」
 という書面が、港に碇泊(ていはく)している龍睡丸に、とどいた。
 私が上陸して、役所に出かけて行くと、案内されたのは、大きなりっぱな部屋であった。正面に、太平洋の、大きな海図がかけてあって、その前の大テーブルに向かって、三人のアメリカ人の役人が、椅子(いす)に腰かけて、がんばっていた。
 私が、ずかずかと室にはいって行くと、役人は立ちあがって、握手をして、一とおりのあいさつがすむと、
「船長。さあ、おかけなさい」
 と、一つの椅子をすすめた。私は、それに腰かけて、三人の役人と、大テーブルをはさんで向かいあった。その大テーブルの上には、海図がひろげてあった。
 すぐに、役人の一人が、
「船長。あなたは、避難のため、ホノルルに入港したと、とどけ出ましたね」
 と、静かに、しかしきびしく、いいだした。そして、私の返事も待たず、テーブルの上の海図を指さして、
「しかし、この海図をどらんなさい。あなたの船は、ここで錨(いかり)を失い、大西風のため、帆柱が折れ、水タンクもやぶれて、ここまで流されたと、報告されているが、このへんから、海流は、北東から流れているし、北東貿易風もふいているはずだ。ぎゃくの海流と、風とを乗りきって、二千カイリにちかい航海のできる小帆船が、遭難(そうなん)船といえますか。それにまた、沿岸定期の蒸気船を、ホノルル入港まえに、追いこしたではありませんか。あなたの海難報告書は、うそだ。うその報告書は、受け取るわけにはいきません」
 と、さきに私が、日本領事館を通じてとどけておいた、英文の海難報告書を、私の前につきかえした。
 まったく、意外であった。そして、腹が立った。しかし、君らも、外国へ行く人だ、将来、これににたことに出あうだろうが、こんな時、おこったら負けだ。話せばわかることなのだ。
 そこで私は、遭難したありさまを、はじめから、ゆっくりと、くわしく説明した。いや、教えてやったのだ。ことは、全日本船の信用にかかわる大問題だ。いや、ハワイ在留の日本人の名誉と信用にかかわるのだ。私は、一生けんめい、真心をもって、事実をわからせようとした。そして最後に、
「これでもあなた方は、この海難報告書を、うそといわれるか」
 と、念をおした。
 誠は天に通ずるという。そのとおりだ。アメリカの役人は、三人とも、立ちあがった。そして、そのなかの一人は、大きな手をさしのべて、いきなり私の手を、かたくにぎって、強く動かしつつ、いった。
「船長。よくわかった」
 三人のいかめしい顔は、にこにこ顔になった。もう一人の役人がいった。
「よし、われわれは、船長の同情者になろう。そうだ、同情の手はじめに、入港税、碇泊船税、また、水先案内料と、曳船(ひきぶね)料金は、役所から寄付しよう。そのほか、なにか助力することはないか」
 私はそこで、
「さしあたって、よい飲料水がほしい」
 というと、
「なに、よい飲料水。たやすいことだ。水船(みずぶね)は、船長が船に帰るまえに、龍睡丸に横づけになっているだろう。電話で、すぐ命令を出すから……」
 といった。
 私は役所を出ると、すぐその足で、この始末を報告のため、日本領事館へ行った。領事は、
「それはよかった。それから、あなたの船の修繕費は、全部、在留日本人が、寄付することにきまりましたから、安心して、じゅうぶんに修繕してください」
 と、いわれた。これを聞いたときは、同胞のありがたさが、まったく骨身にしみた。そして、その金額は、一週間であつまった。

 こうして、ホノルルの役人の、思いちがいを正して以来、龍睡丸のひょうばんは、急によくなって、外国新聞が、毎日なにか、私たちをほめた記事を、のせはじめた。
 それは、龍睡丸の乗組員の、礼儀正しいこと、品行も規律も正しいこと、全乗組員が、一てきも酒を飲まぬことであった。
 世界中の海員の親友は、酒である。外国人は、みんなそう信じていた。ところが、龍睡丸の連中(れんじゅう)が、酒と絶交している事実を見せていたのだ。外国人は、このことに、まったくびっくりしてしまったのである。
 ちょうどこの時、ホノルルの港には、アメリカの耶蘇(ヤソ)教布教船が、碇泊していた。この船は、キリスト教をひろめるための船で、南洋方面へ行く用意をしていた。そして、船の仕事が仕事なので、品行の正しい、禁酒の海員をほしがっていた。しかし、世界中に、そんな海員がいるはずがない。こう思いこんでいるところへ、龍睡丸乗組員のひょうばんである。そこで布教船では、龍睡丸の乗組員の、運転士をはじめ、水夫、漁夫までも、じぶんの船へ引っぱろうとした。
 そしてかれらは、
「龍睡丸のような船では、また遭難するだろう。こんどは助からないぞ。月給は安いだろう。食物は麦飯か。気のどくなことだ。ところが布教船では、毎日、三度の飯は洋食だよ。月給はうんと高い。そのうえ、制服と靴と帽子が、年に四回もでる。船は大きくてきれいで、部屋は一人部屋だ。風呂(ふろ)は毎日はいれるし、水はふんだんに使えるんだ。航海は、しけ知らずの碇泊ばっかり。それに、お説教が毎日きかれる。どうだ、龍睡丸から下船してしまえ。こっちへ来れば、毎月、国もとへ送金ができる。親孝行になる」
 こんなことをいっては、龍睡丸乗組員の心を、動かそうとした。しかし、われら十六人の心は、びくともしなかった。
 これがまた、ひじょうに外国人を感動させ、「龍睡丸乗組員は、世界の海員のお手本だ」といって、日本領事館に、龍睡丸の義捐金を申しこんだり、品物の寄贈を申しこんできた。
 領事は、
「御好意はありがたいが、船の修繕は、日本人だけですることになっているから、金銭はお受けしません。品物だけは、龍睡丸へ送りましょう」
 と、外国人の義捐金は、きっぱりとことわった。
 こうして、船の修繕は、順調にすすんで、いよいよ四月四日、出帆ときまった。

 二週間まえの龍睡丸は、折れた帆柱、はさみをなくしたカニのように、錨をうしない、水タンクはこわれて、傷だらけな、みじめな船として、入港したのであったが、今は、新しい帆柱が高くたち、錨もそろった。何から何まで、丈夫に修繕ができあがり、生まれかわった元気なすがたになったのだ。
 四月四日の朝となった。龍睡丸には、水先案内人が乗り組み、港の曳船にひかれて、いよいよ港外に向かった。
 大日章旗(だいにっしょうき)が、船尾にひるがえっている。これもみな、兄弟である日本人と、友である外国人たちの、あたたかい心によるものだ。港に碇泊している外国船の人たちも、甲板に出て、曳船にひかれて出て行くわが龍睡丸へ、帽子をふり、手をあげて、見送ってくれるではないか。
 黒煙をあげて走る曳船は、港の口から外海(そとうみ)に、龍睡丸を、ひきだした。港外には、いい風がふいている。
 曳船と龍睡丸をつなぐ、曳索(ひきづな)をはなった。水先案内人は、それではと、私とかたい握手をして、
「では、ごきげんよう船長。愉快な航海をつづけて、たくさんのえものをつんで、日本に安着してください」
 といって、龍睡丸が舷側(げんそく)にひいてきた、水先ボートに、乗りうつろうとして、大きな声でさけんだ。
「郵便をだす人はないか。故郷へ、手紙を出す人はないか。これが最終便だよう――」
 しんせつな水先案内人のことばだ。もう龍睡丸は、日本につくまで、何ヵ月の間、手紙を出すてだてはないのだ。
「ありがとう。もう、みんな出しました」
 それでかれは、にっこりうなずいて、手をあげた。そして、曳船に、こんどは、自分の小さな水先ボートをひかせて、港へ帰っていった。
 見かえる港も、だんだん遠くなる。さらば、ホノルルの港よ。思いがけないことで、多くの内外人から受けた好意を、しみじみありがたいと思うにつけても、心にかかるのは、占守(しゅむしゅ)島の人たちだ。どんなに、龍睡丸を待っていることであろう。もう、矢のように飛んで帰らなくては――しかし、私たちのゆくてには、思いがけない運命が、待っていたのだ。


故国日本へ


 龍睡丸(りゅうすいまる)は、いまこそ、大自然のふところにいだかれて、大海原の波の上に勇ましくうかんだ。そして、気もちよくふく風に帆をはって、ハワイ諸島の無人の島々にそって進む航路に、船首を向けた。
 まっすぐに日本に向かうと、距離は近くなるが、とちゅう、海が深くて、魚がすくない。それで、まわりみちではあるが、島をつたって、進むことにしたのだ。
 それは、この島々のまわりには、魚や鳥が、多くいるにちがいないから、そのようすを、よく調査するのと、もう一つは、昔は、このへんの島近くに、まっこう鯨(くじら)が多くいた。それを追いかけた捕鯨船が、無人の小島を、発見したこともあったのだ。それだのに近ごろは、まっこう鯨が、いっこうにすがたを見せなくなってしまった。それはたぶん、鯨のたべものであるイカやタコが、このへんにいなくなったのであろう。
 あるいは、海流がかわると、鯨もいなくなることがあるから、海流がかわったのかもしれない。そういうことも調べてみたい。
 もし、鯨が見つかったら、どんなに勇ましい、鯨漁ができるであろう。たのしみの一つに、これが加えてあった。
 それから、飲料水についても、考えねばならなかった。タンクは、大小二個あるといっても、船が小さい。もし、飲料水がなくなった場合、どの島にも、水があるわけではない。ミッドウェー島に船をよせて、清水(せいすい)をくみこんで行こう。これも、島づたいに行く、理由の一つであった。
 しかし、島づたいといっても、一つの島からつぎの島へは、帆船であるから、風のつごうにもよるが、三日も四日もかかるのである。
 さて、どの島でも、近くに行くと、魚がたくさんいた。また、海鳥――アホウドリ――が、たいへんにむらがっていて、ふかもよくつれた。しかし、いくら漁があるからといっても、一つ島でぐずぐずしてはいられない。一日も早く帰らなければならない急ぎの航海だ。島々をしらべることも、適当にきりあげては進んだ。
 はじめに見たのが、ニイホウ島であった。荒れはてた、岩ばかりの島で、人は住んでいない。しかし、大昔には、人が住んでいたので、ひくい石の壁でかこまれた、式場らしいところや、たくさんの石像(せきぞう)が残っているし、また、昔、船で渡ってきた人たちが残していったものもあって、博物館のような島である。海鳥も、魚も、多かった。
 つぎに見たのは、海底火山(かいていかざん)がふきだした熔岩(ようがん)でできた、ごつごつの島であった。島の根は、海中にするどくつき立って、あくまで、波と戦っていた。
 大洋からおしよせる青い波の大軍は、一列横隊となって、規則正しく、間隔をおいて、あとからあとから、岩の城めがけて、突進し、すて身のたいあたりをする。そのひびきは、島をゆるがし、まっ白にくだけた波は、くずれ落ちて、岩の根にくいつく。また、はねあがるしぶきは、高い絶壁をおおい、熱帯の強い日光があたって、絶壁の肩に、七色の虹(にじ)をかけている。このたたかいは、はてもなく、くりかえされているのである。
 船の人たちは、ときどき、こんなことを、まのあたりに見て、今さらのように、大自然の力強さを、しみじみと教えられるのである。そうして、この自然の力にくらべれば、人間の力は、よわいものだとわかればこそ、かえって、精神力が、ふるいたつのであった。

 荒い岩山には、ぽかっと、まっ黒な岩窟(がんくつ)らしい穴が、あちこちに見える。たくさんの海鳥が、あやしい鳴声をして、みだれ飛んでいる。岩に、つばさを休めている海鳥のすがたも、やさしくは見えない。この島は、ネッカーとよぶ、無人島であった。
 それは午前十時ごろであった。つりをはじめると、ふかが大漁である。やつぎばやに、大きなのがつれる。
 三メートルもあるふかを、たくみに甲板にひきあげるのは、見ていても痛快だ。しかし、つり針を大きな口からはずすときの、手の用心。甲板にころがしてからは、足の用心。ちょっとのゆだんもできない。するどい歯でがぶりやられたら、手も足も、きれいに食い切られてしまう。魚つりというよりは、大きさといい、猛烈さといい、猛獣狩(もうじゅうがり)とでもいう気分である。
 帆柱の根もとで、甲板につまれたふかから、せっせと、ひれを切りとっていたのは、北海道国後(くなしり)島生まれの漁夫、国後であった。肩はばのひろい、太い手足、まる顔のわか者である。かれと向かいあって、ひれのしまつをしているのは、帰化人の小笠原(おがさわら)であった。青い目で、ひげむしゃの小笠原は、五十五歳の、老練な鯨とりで、この船のなかでは、最年長者。青年船員からは、父親のように親しまれて、「おやじさん」とか、「小笠原老人」とかよばれている、ほんとうの海の男である。

 国後は、島を見ていたが、
「ねえ、おやじさん、あの島は、なんだかすごい島だね」
 というと、小笠原は、
「うん、ただの島じゃないよ。それについちゃあ、話があるんだよ」
 と、ひれをにぎったまま、島を見つめた。
 このことばを、通りがかった、浅野練習生と、秋田練習生が、聞きとがめた。二人の練習生は、いま、船長室で、午前の学科を終って、ノートと書籍をかかえて、船首の自室へ、ころがっているふかを、よけたり、またいだりしながら、帰るとちゅうであった。
「おやじさん。何か、わけがあるのかい、岩でごつごつのこの島には」
「そうだよ。わかい生徒さんなんかは、聞かないほうがいいんだ」
 浅野練習生は、首をつきだした。
「教えてくれたまえ。なんでも聞け、それが勉強だ。船長が、いつでもいわれるじゃないか。ねえ、おやじさん」
「そうだなあ――話しておくほうがいい、なあ」
 小笠原は、立ちあがって、島を指さした。
「いいかい、あの山は、八十四メートルの高さだ。無人島だが、大昔に、人が住んでいた跡があるんだ。それよりも、あの山に、三十いくつの墓石が、ならんでいるのだよ」
「三十いくつの墓石」
「それはね、昔、外国船の難破した人たちが、この無人島に流れついて、七年間も、岩窟(がんくつ)に住んでいた。そして、うえ死にしたということだ」
 浅野も、秋田も、国後も、あらためて、岩山のいただきを見つめた。
 南海の強い日光に、岩のかたまりは悪魔のような影がつけられ、そのあたりを、一陣のあらしのように飛びさる、海鳥の群。
 島の根もとに、がぶり、がぶり、とかみついている、波の白い牙(きば)
 故郷を遠く幾千カイリ、この無人の孤島に、三十いくつの立ちならぶ墓石となった人々のことを思って、秋田生徒は、うるんだ声でいった。
「七年も生きていて、うえ死にするなんて……魚がつれなくなったのかなあ――」
 このとき、とつぜん、だれかがうしろから、生徒二人の、肩をたたいた。二人は、びっくりして、ふりかえると、漁業長が立っていた。
 漁業長は、ポケットから、何枚かのビスケットをつかみ出して海へ投げた。
 船のまわりを飛んでいた海鳥の群が、もつれあって、さっと突進し、ビスケットを一枚のこさずくわえとり、舞いあがって、たべてしまった。
「どうして、鳥にえさをやるのですか」
 浅野生徒がきくと、漁業長は、目顔で島をさして、
「島のお墓へ、そなえたのだよ」
「でも、鳥が、横どりしてしまいました」
「鳥がとっても、心は通るさ」
 一同は、しんみりとして、島を見つめた。
 小笠原が大きな声で、
「だれだって、おしまいはお墓だよ。あたりまえのことだ。しかし、えらいもんだ、七年もがんばったのだよ。まったくえらい。どうだい、わかい連中は、がんばれるかい」
 三人の青年は、ほとんど同時に、
「がんばるとも、十年だって――」
「本船のわかい連中は、えらい。これで、おいらも安心したよ。あっはっはっは……」
 小笠原老人は、めいった気分を、笑いとばしてしまった。
 こういっているうちにも、船はよく走って、陰気な岩山も、怒濤(どとう)のひびきも、いつか後方はるか、水平線のかなたに、だんだん小さくなっていった。しかし、三人の青年船員の胸には、三十いくつの墓の話が、なかなか消えなかった。
 ――まさか、自分たちもそんなことに――
 と、思うのではなかったが……


海がめの島、海鳥の島


 いま、われらの龍睡丸(りゅうすいまる)は、波をけたてて、ハワイ諸島にそって、北西に進んで行く。
 ある日、夜が明けてみると、近くに、フレンチ・フリゲート礁(しょう)が見えるではないか。フレンチ・フリゲート礁とは三日月形をした大きな珊瑚礁(さんごしょう)で、この珊瑚礁のなかには、小さな砂の島が、いくつもならんでいた。私は、そのなかの一つの砂島をえらんで、龍睡丸を、その一カイリ沖に碇泊(ていはく)させた。
 さっそく、島をしらべる一隊を上陸させるため、漁船をおろし、漁業長が、水夫と漁夫五人をつれて、砂島に上陸した。
 漁船が、砂島につき、六人が上陸すると、黒い大きなものが、いくつも動いている。
 なんであろうかと近づいてみると、それは、甲羅の大きさが一メートルもある、海がめの正覚坊(しょうがくぼう)が、のそのそしているのであった。なかには、鼈甲(べっこう)がめ(タイマイ)もまじっていた。
「よし、みんなつかまえてしまえ」
 一同は、海がめをかたっぱしから、あおむけにひっくりかえした。
 これでかめは、重い甲羅を下にして、みじかい足や首を、ちゅうに動かすばかりで、どうすることもできないのだ。この大がめは、頭の方の力がたいへん強くて、頭の方からひっくりかえそうとすれば、大人が三、四人かかって、やっとだ。しかし、うしろの尾の方からなら、一人でころりとひっくりかえされるのだ。かめの重さは、百三十キログラムから、二百二十キログラムぐらいもあった。
 このかめを、もっこに入れて、
「えっさ。こらしょ」
 と、二人ずつでかついで、波うちぎわにつないである漁船に、つみこんだ。
 みんなは、大漁にすっかり喜んでしまって、どんどんかめを運んだので、浜の漁船は、あおむけのかめがもりあがって、かめでいっぱいとなり、船べりから、波がはいりそうだ。
 漁業長は、大声でどなった。
「もうたくさんだ。そんなにつむと、かめで船がしずむよ。なんべんにも、本船へ運べ」
 本船では、私を先頭に、るす番が総出で、漁船が運んでくるかめを受け取っては、甲板に、あおむけにつみかさねて、大漁に大まんぞくであった。
 この、海がめの珊瑚礁をあとに、本船はさらに北西に進んだ。
 三角形の島で、頂上がまっ白い島の近くを通った。この島は、ガードナー島といって、草も木も生えていないが、頂上がまっ白いのは、鳥のふんであった。
 海鳥の多いこと、まったく鳥の島だ。遠くから見ると、むれ飛ぶ鳥で、空が白がすり、そうして、島は霜ふりに見える。
 この島を通りこしてから、二日めのことである。ちょうど正午ごろ、水平線を見はっていた見張当番が、はるかな水平線に、髪の毛が二、三本生えているように見えるものを見つけた。これが、レサン島だ。
 ひくい珊瑚島で、白い砂の上には、緑のつる草や雑草が、いちめんにしげっていて美しい。二本の椰子(やし)の木と、一本のイヌシデの木が立っているのが、この島の特徴で、航海者のいい目じるしになる。この島には、十何年もまえから、アメリカ人が、たくさんの労働者をつれて渡ってきて、大がかりで鳥のふんを採取しては、ハワイ島へ送って、サトウキビの肥料にしていた。
 島のまわりの海には、魚がひじょうにたくさんいる。つまり、えさになる魚が多いから、鳥がむらがるのである。

 龍睡丸が、ホノルルを出帆してから、いつしか一ヵ月以上の日がすぎて、無人島のリシャンスキー島に近くなったときは、五月の中ごろになっていた。
 船を、リシャンスキー島の近くへよせて、錨(いかり)を入れ、ここで、船の位置を知るのに使う、精確な時計、経線儀が、正しいかどうかをしらべた。それは、午前、正午、午後に、太陽の高さを、六分儀ではかって、地球の緯度と経度とを計算して、しらべてみるのだが、われらの経線儀は、正確であった。
 リシャンスキー島は、ひくい砂の島で、草も、小さな木も生えていて、海鳥、海がめ、魚がたくさんいた。島のぬしのような、何頭かのアザラシが、海岸にいたが、上陸したわれわれのすがたをみると、みんな海へにげてしまった。
 この島の名まえは、ロシア語であって、西暦一八〇五年に、ロシアの帆船がこの島を発見した記念に、その船の船長の名まえを、島の名としたのだ。
 この島を調査してから、さらに北西方の、ハワイ諸島のいちばんしまいの島、水の出る、ミッドウェー島に龍睡丸が向かったのは、五月十七日であった。
 このとき、龍睡丸につんでいたえものは、ふか千尾、正覚坊三百二十頭、タイマイ二百頭と、たくさんの海鳥であった。

 海鳥のなかでも、アホウドリは、いちばん大きな鳥である。肉は食用になるが、おいしいものではない。卵も食用になる。大きな尾羽は、西洋婦人帽のかざりになり、胸のやわらかい羽は、婦人コートの裏につけるのによい。そのほかの羽は、枕(まくら)やふとんにいれる材料として、輸出されるのである。
 アホウドリが、海から飛びたつときは、風さえあれば、風に向かって、大きなつばさを左右にはっただけで、なんのぞうさもなく、ふわりと空中にうかびあがる。しかし、風のないときは、ほかの海鳥とおなじように、羽ばたきをつづけたり、足で水をかいて、水面を走るようなかっこうをして、飛びたつのである。
 アホウドリは、陸上で、歩いたり、走ったりすることは、たいへんへたで、人が正面から向かって行くと、ただつばさをひろげただけで、どうすることもできない。その名のとおりの「アホウ」で、たちまち人にとらえられてしまう。それで、無人島にむらがっているこの鳥の大群も、上陸した船の人の太いぼうで、じきにうちとられてしまうのだ。
 ともかくも、龍睡丸は大漁である。もうこれで、目的とする島々の調査もすんだ。成績は優だ。ミッドウェー島で飲料水をつみこんだら、それから先は、まっすぐに大洋を走って、日本へ帰るのだ。
 龍睡丸のみんなは、勇みたってきた。


パール・エンド・ハーミーズ礁(しょう)


 リシャンスキー島をあとに、ミッドウェー島に向けて出発したあくる日、すなわち、十八日の正午に、船の位置をはかってみると、予定の航路より、二十カイリも北の方に流されていることがわかった。このへんの潮は、北へ北へと流れている。その潮流が、思ったよりも強く、船がこんなに流されたのだ。
 ミッドウェー島に行くのには、パール・エンド・ハーミーズ礁という、いくつかの、小島と暗礁(あんしょう)のむれの、南の方を航海しなければならない。この暗礁にぶつかったら、たいへんなので、船がもっと北の方に流されても、パール・エンド・ハーミーズ礁の、いちばん南の方へ出っぱっている暗礁を十カイリはなれて通ることになるように、船の針路をきめた。
 龍睡丸(りゅうすいまる)は、ホノルルを出帆してから、ずっとふきつづいている北東貿易風を総帆にうけて、ここちよく帆走して行った。

 パール・エンド・ハーミーズ礁というのは、南北九カイリ半、東西十六カイリの、広い海面に散らばっている、いくつかのひくい珊瑚礁(さんごしょう)の小島と、暗礁の一群である。そして、この珊瑚礁には、昔から、たくさんの遭難談がつたわっている。そのなかの一つは――
 西暦一八二二年四月二十六日の晩に、英国の捕鯨帆船、パール号とハーミーズ号の二隻(せき)が、おたがいに十カイリをへだてた小島に乗りあげて、船をこわしてしまった。その後、この二隻の難破船の乗組員たちは、一つ島に集まって、無人島生活をやった。そして、乗りあげてこわれた二隻の船の木材や板、釘(くぎ)をあつめて、みんなで力をあわせて、約三十トンの船をつくり、それに乗って、やっとハワイ島に着くことができた。その時から、この二隻の船の名、パール号、ハーミーズ号を、この一群の珊瑚礁の名として、パール・エンド・ハーミーズ礁というようになったのだ。
 この二隻の捕鯨船が、木船であったから、こわれた船の木材で、小船をつくることができたが、もし鉄の船であったら、船をつくって、ハワイに行くことはできなかったろう。それに、昔の帆船の乗組員は、みんなきような人たちであって、たいがいの人は、大工の仕事ができたのである。

 その、パール・エンド・ハーミーズ礁を、ぶじに通りすぎようと、龍睡丸は、よい風に帆をいっぱいにふくらませて、ミッドウェー島へと進んでいた。
 やがて日がくれて、十八日の午後十時になった。そうすると、今までふいていた北東風が、急にばったり凪(な)いで、風がまったくなくなってしまった。
 風で走る帆船が、無風となっては、どうすることもできない。こういう時は、錨を(いかり)入れて碇泊(ていはく)すれば、いちばん安全である。
 それで、錨を入れようと思って、海の深さをはからせると、とても深い。百二十尋(ひろ)(二百十九メートル)の深さまではかれる測深線(そくしんせん)が、海のそこへとどかない。つまり、海はたいへん深くて、百二十尋以上もあるのだ。
 しかたなく、船を流しておくことにした。船は潮のまにまに、ぐんぐん流れて行く。
 そのうちに、波のうねりが高くなってきた。船は、ぐらんぐらんとゆれはじめた。まっくらやみの海は、動けなくなった船を、いじめるように、波の大きなうねりをだんだん大きくして、船をゆり動かす。
 当直を終って、一休みと、ねようとする人たちも、眠られないくらいに、船はゆれた。私は、たえず甲板に出ては、風がふいてはこないかと、空をながめた。
 こうして、いやな夜は明けて、十九日の朝になったが、きのうの夜、風がやんでから天候がかわって雲がいちめんに空をおおって、太陽を見せない。
 ちょっとでも太陽が見えたら、太陽をはかって船の位置を知ろうと、六分儀を用意して、私も運転士も、空ばかり眺めていた。じぶんの船が、どこにいるのかわからないくらい、いやな気もちのことはない。
 それで、見はりを厳重にさせて、帆柱には、二人の見はり番をのぼらせた。二時間交代で、朝から晩まで、たえず四方を見はらせた。
 もしや、水平線に島が見えないであろうか。海の色がかわっているところはないか。海鳥がむれ飛んでいるところはなかろうか。そういうものが見えたら、すぐ知らせるように、帆柱の上でも、甲板の上でも、船をぐるりと取りまく水平線を、みんなはするどく見まわすのであった。しかし、なんにも見えなかった。
 このあたり熱帯の海では、天気のいいとき、帆柱の上から海面を見わたすと、水の色の変化によって、暗礁や浅いところを発見することができる。いちばんいいのは、太陽が水平線から高くて、そのうえ、光線をうしろの方から受けるときで、こんなときは、少しぐらい波があっても、暗礁や浅瀬の見わけがつく。
 海の色は、おおよそのところ、一メートルぐらいのごく浅いところが、うすい褐色。十尋、十五尋(十八メートル―二十七メートル)ぐらいまでは、青みの多い緑色。深さをますにつれて青みがとれて、二十尋(三十六メートル)以上の深さは緑色。それ以上深くなると、こい緑色となり、三十尋(五十五メートル)以上では、藍色(あいいろ)。それからは黒っぽい色がましてくる。
 また、海面にすれすれの暗礁は、波がぶつかって、白波がたっているので、発見することもある。
 鳥がむれ飛んでいる下に、島があるのは、いうまでもない。もっとも、鳥は、魚のむれの上にも飛んでいるけれども、それは飛びかたでわかる。海鳥が、まるく、ぐるぐる飛んでいるときは、きっとその下に、魚群がいるのだ。
 ともかく、海の浅いところへきたら、錨を入れることにして、錨の用意をして、深いと知りながらも、ときどき、海の深さをはかったが、測深線は海底にとどかない。潮の流れは速い。どうなることかとみんな心配していた。
 ぶきみな、不愉快な十九日は、こうしてくれてしまった。


暗礁(あんしょう)をめがけて


 夜空には、星ひとつ見えない。ひるま、黒ずんだ藍色の海が、もりあがり、またへこんで、船を動揺させたうねりは、まっ黒い夜の海に、いっそう大きく、上下に動いて、どこへ船をおし流して行くのであろうか。
 大自然の、目に見えない縄でしばられたように、船と乗組員は、どうすることもできず、潮流の勝手にされている。うねりは、人間のよわさをあざ笑うように、船をゆすぶっている。こういうときの船長の苦心は、経験しない人には、いくら説明してもわかるまい。
 船内に、時を知らせる夜半の時鐘が、八つ、かかん、かかん、とうち鳴らされた。この八点鐘が鳴りおわって、二十日の零時となった。
 それから、一時間ぐらいたったときであった。私は、自分の部屋を出て、船尾の甲板で運転士と話していた。
「どうもこまったね。風はふきだしそうもない。ともかくも、つづけて深さをはからせてくれたまえ」
 といっていると、すぐそばで、深さをはかっていた水夫が、
「百二十尋の測深線が、とどきました」
 と、おどろいたような声で、報告した。
 これを聞いたとたんに、私は、
「総員配置につけっ」
 と、どなって、やすんでいる者を、みんな起させて、非常警戒をさせた。
 海の深さを、すぐつづいてはからせると、
「六十尋」(百九メートル)との報告があった。
 百二十尋が、たちまち六十尋と、浅くなっているのだ。これは、船が、パール・エンド・ハーミーズ礁(しょう)にちかづいている証拠だ。パール・エンド・ハーミーズの珊瑚礁(さんごしょう)は、きりたった岩で、深い海のそこから、屏風(びょうぶ)のように岩がつき立って、海面には、その頭を、ほんの少し出しているのだから、岩から半カイリぐらいのところでも、六十尋の深さはあるのだ。
 船が、パール・エンド・ハーミーズの暗礁におし流されて行くことは、もうのがれられないことになった。もっと浅いところへ行ったら、海の底が、砂でもどろでも岩でもかまわない、錨(いかり)を入れなければならない。私は、
「投錨(とうびょう)用意」
 の号令をかけた。つづいて、
「四十尋」
「三十尋」
 と、深さをはかっている者のさけぶ声。浅くなりかたが、とても急だ。船は、一秒、一秒、暗礁の方に流されて行くのである。
「二十尋」(三十六メートル)
 もうあぶない。
「右舷(うげん)投錨」
 の号令をくだした。
 どぼん。がらがらがら……右舷の錨が、船首から海に落ち、つづいて錨の鎖の走り出すひびきも、いつもとはちがって聞える。事情は、まったく切迫している。
 ところが、海底は岩で、錨の爪(つめ)がひっかからない。船は、錨をがらがらひきずって、なおも流されている。
 浅い海底の岩にあたって、はねかえる波と、沖の方からうちよせる波が、深夜の海に、さわぎくるうのであろう。船の動きかたのはげしいこと、甲板(かんぱん)上の作業も、じゅうぶんにはできなくなった。
「錨が、ひけますっ」
 のどもさけろとばかり、大声の報告だ。船は、錨で止らずに、暗礁へむかって、どんどん流されて行くのだ。あぶない。
「左舷投錨」
 私は、すぐ号令した。左舷の錨も投げこまれた。二つの錨は、やっと海底を、岩を、しっかりとかいて、錨の鎖がぴいんとはった。

 その時は、運転士と水夫長が、船首で錨をあつかい、船長の私は、船尾(せんび)甲板で、指揮をしていた。帆船には、船橋はない。帆にふくむ風のようすを見て、号令をくだすため、指揮者は、船尾にいるのがふつうである。
 さて、錨の爪が海底をひっかいて、しっかりと止り、錨鎖(びょうさ)がぴいんとはれば、船首は、錨鎖にひき止められて、流れなくなる。そして、船尾の方が、ぐんぐん一方へまわりはじめて、まもなく、船ぜんたいが、錨の方に、まっすぐに向きなおって、碇泊(ていはく)のすがたになるのである。しかし、このようにして止った船首にうちあたる波の力は、動かぬ岩をうつ力とおなじに、強大なものである。
「錨鎖がはりました」
 運転士が、大声で報告した。
「ようし」
 私は、返事をした。まず、これでいいと思った。そのとたんに、
 どしいん。
 大波が、船首をうった。船首に、津波(つなみ)のように、海水の大きなかたまりが、くずれこんだ。船は、ぐらっと動いた。
 ぐゎっ。
 はらの底に、しみわたるようなひびきが、船体につたわった。
「しまった。錨は鎖が切れたな」
 と思うと同時に、はたせるかな、
「右舷錨鎖、切れました」
 悲壮(ひそう)なさけびの報告。私が、返事をしようとする瞬間に、またしても、
 ぐゎっ。
 腹に、びりっ、とこたえた。あ、二本とも切れたな、と思ったとき、
「左舷も切れた」
 うなるようなさけびが、船首にあがった。もういけない。
「総員、予備錨用意」
 私は、大声で号令した。これが、最後の手段なのだ。
「あっ」
 ごう、ごう、ひびきが聞えてきた。まっくらやみで、まわりはなにも見えないが、岩と戦う波のひびきだ。
 暗礁は近い。船は、切れた錨鎖を海底に引きずったまま、ぐんぐん岩の方へおし流されている。危険は、まったくせまってきた。あぶない。このままでは、船体は暗礁にぶつかって、めちゃめちゃにこわれてしまう。そして、沈没だ――
 船の運命は、今はただ、まんいちの用意につんである、予備錨にかかっている。総員は必死に、予備錨の用意にとりかかった。
 まだ、大波にゆられる、小船の上の経験のない君たちには、このときのようすは、想像もつくまい。なにしろ、まっくらやみで、まわりはなんにも見えない。夜中の一時すぎ、二時ちかくだ。
 ふかい海から、力強く、ぐっとおしてくる大きなうねりが、海面に少し頭を出している暗礁に、すて身の体あたりでぶつかる。それがはねかえってきて、あとからあとから、間隔をおいておしよせる波と、ぶつかり、ごったがえして、三角波となり、たけりくるっている。そこへまた、どっとよせてくる大うねり。すべてが力を合わせて、船をゆすぶるのだ。ことばでいえば、
 ――おどりくるった波が、船を猛烈に動かす――
 ――怒濤(どとう)が、船をもみくちゃにする――
 まあ、こんなものだが、じっさいはどうして、そんなものじゃない。
 ことわっておくが、この大波は、大しけの荒波ではない。天気はおだやかで、風はないが、上下に動くうねり波がおしてきて、暗礁にはげしくうちあたるのだ。
 総員は必死になって、予備錨用意の作業にかかっているが、前後左右に、はげしくかたむき動く甲板では、物につかまっていなければ、立ってもいられない。
 それに、さきに投げ入れた、右舷と左舷の錨は、船首の左右に一つずつ、いつでも使えるように備えつけてあったのだが、予備の大錨は、船首に近い上甲板に、しっかりしばってあるのだ。どんなに大波がうちこんでも、波にとられぬよう、いくら船が動いても、びくとも動かぬようになっている。もし、この錨が動いたら、甲板に大あなをあけるだろう。
 その、予備錨をしばってある、小さな鎖と索(つな)とをといて、太い錨索(びょうさく)をつけて、海に投げこもうとするのだ。作業には、ちょっとのゆだんもできない。予備錨が、船のはげしい動きにつれて、ずるっ、と動いたら、足を折ったり、手を折ったりするけが人がでるだろう。
 老練な水夫長。どんな危険がさしせまっても、びくともしない運転士。腕におばえのある水夫が四人。ランプの光に、まったく必死の顔色で、予備錨の用意をしている。ほかの者は、太い錨索をひきだしている。
 ごうっ、ごうっ、と、岩にうちあたる波の音は、いよいよ強くひびいてくる。
「あっ。まっ白にくだける波が見える」
「岩が近いぞ」
 もうだめか――、船は、長くたれた錨鎖を海底に引きずっているので、船首を、おしよせる波の方へ向け、うしろむきに流されている。
 大きな波が、船首を、ふわっ、ともちあげた。それが、船尾の方へ通りすぎ、船尾が、ぐっともちあがって、船首が前のめりにかたむいたときであった。
 ばり、ばり、どしいん。
 すごい大音響が船底におこり、甲板上の人たちは、あっと、倒れそうになった。
「やられたっ」
 岩が、船底をつきぬいたのだ。甲板は、ひどい勢いでもちあがって、ポンプやタンクにかよっているパイプは、船底を岩がぶちやぶってもちあげたために、甲板から、飛び出してしまった。それと同時に、動かなくなった船に、大波の最初の体あたり。
 どうん、ざぶりっ。
 海水の大山が、甲板にくずれ落ち、うちあたる大力にまかせて、手あたりしだいに、なにかをうちこわして、滝のように甲板からあふれだす。そして、こわしたものを、残らずさらって行く。らんぼうな大波は、のべつにうちこんでくる。
 予備錨の用意も、もうだめだ。ついに、パール・エンド・ハーミーズの暗礁の一つにうちあげられて、船の運命はきまったのだ。それは、夜明けもまだ遠い、午前二時ごろであった。


待ち遠しい夜明け


 われらの龍睡丸(りゅうすいまる)は、暗礁(あんしょう)にうちあげられてしまった。しかし、岩が船底にくいこみ、船首が波の方に向いているので、すぐに船体がくだけて沈没するようなことはあるまい。もともと船は、船首で波をおしわけて進むので、船首は、波切りをよく、とくに丈夫につくられてあるものだ。
 それでまず、夜の明けるまでは、持ちこたえられる見こみがあった。これがもし、船が横から波におそわれる向きになっていたら、すぐにも、くだけてしまったであろう。
 私は、まっくらやみの甲板に、乗組員一同を集めて申しわたした。
「こんな場合の覚悟は、日ごろから、じゅうぶんにできているはずだ。この真のやみに、岩にくだけてくるう大波の中を、およいで上陸するのは、むだに命をすてることだ。夜が明けたら上陸する。あと三時間ほどのしんぼうだ。この間に、これからさき、五年、十年の無人島生活に必要だとおもう品々を、めいめいで、なんでも集めておけ」
 波を、頭からかぶりながら、甲板にがんばって、これだけのことをいった。そして、大声で号令した。
「漁夫四人は、漁船をまもれ。しっかりしばれ。波に取られてはだめだぞ」
「水夫四人は、伝馬船(てんません)をまもれ。命とたのむは、伝馬船だ。水夫長は、伝馬船をまもってくれ」
「漁業長。安全に上陸ができても、この波のぐあいでは、とても、食糧品をじゅうぶんには運べまい。漁具がたいせつだ。できるだけ多く集めて、持ってあがる用意をしろ」
「榊原運転士。君は、井戸をほる道具を、第一にそろえてくれ、シャベル、つるはし、この二つは、ぜひとも必要だ。マッチ、双眼鏡、のこぎり、斧(おの)も、ぬからずに」
「練習生と会員は、島にあがって、何年か無人島生活をして、ただぶじに帰っただけでは、日本国に対して、めんもくがあるまい。かねておまえたちが望んでいた勉強を、みっちりしなくてはならない。できるだけの書籍を集めて、はこびだすようにしろ。船長室にあるのは、みんな持って行け。六分儀も、経線儀も。いいか、すぐにかかれ」
 船が、どしいん、と岩に乗りあげると同時に、船内の灯火は、全部消えた、岩にぶつかり方がはげしかったので、室内の本棚や棚から、書籍がとび出し、いろいろの器物もころがり落ちて、船室のゆかや甲板に、ごちゃごちゃになっていた。
 ランプは、いくらつけても、すぐ消えてしまう。風はないが、波のしぶきが、たえずかかるからである。みんなは、まっくらやみの中を、海水を頭からあびながら、手さぐりで、物を集めるのであった。
 波にうたれて、船体は、めき、めき、ぎいい、ぎいい、とへんな音がしてきた。大波が、どしいんとぶつかるたびに、きっと、どこかをこわし、何かをさらって行った。
 さらわれないように、しっかりしばりつけた漁船は、たった一つの大波が、ざぶうん、とおそいかかると、粉みじんにくだけて、小さい破片も残さなかった。しかし、漁船をまもっていた四人の漁夫は、さすがに、いくどか大しけの荒波をしのいできた勇士だ。一人のけがもなく、ぶじに残った。
 私は、みんなに命令するとすぐに、船長室に飛びこんで、必要な書類を[#「書類を」は底本では「書類な」]一まとめにして、しっかりとふろしきづつみにして、寝台の上においた。それからずっと甲板に出て、指図をしているうちに、大波が、右舷(うげん)からうちこんで、船長室の戸をうちやぶり、左舷へ通りぬけて、室内の物を、文字通り、洗いざらい持っていってしまった。海図も、水路誌(すいろし)も、コンパスも、波がさらっていった。
 まだ波に取られないのは、伝馬船一隻(せき)。命とたのむのは、これだ。こればっかりは、どうしても失ってはならない。総員全力をつくして、伝馬船をまもった。
 こんなたいへんな時にも、十六人の乗組員は、よく落ちついて働き、とくに小笠原(おがさわら)老人は、よく青年をはげまして、上陸の支度をした。

 今夜にかぎって、時のたつのが、じつにおそい。夜明けが待ち遠しい。早く夜が明けますように――波をかぶりながら、神に祈った。
 小笠原島生まれの、帰化人の範多(はんた)が、私にきいた。
「島に、飲み水はありますか」
 私は、どきっとした。小さな珊瑚礁(さんごしょう)に、水の出るはずがない。しかし、せっかく島へあがっても、命をつなぐ水がないといったら、一同は、どんなにがっかりするであろう。
「水は出るよ」
 と、私は答えた。それも、あれこれと考えたすえ、うそと知りつつ、よほどまのぬけた時分に答えたのであった。
 とにかく、あと、一、二時間しんぼうすれば、夜が明ける。それまで船体は、波にたえしのげるだろう、と見こみをつけた。
 大波が、ずどうん、とおそって来るたびに、船体は、びりびりと、ふるえるようになった。甲板にはってある板のつぎ目がはなれて、一枚一枚の板が、うねりまがって、歩くのが困難となった。帆柱は、ぐらぐら動きだした。いつ倒れるかもしれない。
「マストに用心しろ」
 運転士が、みんなに注意した。


伝馬船(てんません)も人も波に


 神様に願ったかいがあったか、やっと、夜がしらしらと明けかけてきた、暁の光で見ると、はたして暗礁(あんしょう)である。岩が遠くまでちらばり、怒濤(どとう)がしぶきをあげている。
 船から百メートルぐらいのところに、かなり大きな平らな岩が、水上に頭を出している。その岩と船との間に、わき立つ大波が、あばれくるっている。
「たぶん、島が見えるだろう。マストにのぼってみろ」
 いまにも倒れそうな帆柱(ほばしら)に、二人ものぼらせたが、朝もやがじゃまして、島を見せてくれなかった。
 私は、海図と水路誌の記憶によって、一同に申しわたした。
「島は見えない。ひとまず、近くのあの岩にあがって、それから島をさがしに行こう。船長は、さいごに上陸するが、船長が上陸できなかったら、一同は、ここから北の方に進んで行け。きっと島がある。その島に水がなかったら、北西の、つぎの島へわたれ。それが、ミッドウェー島だ」
「さあ、上陸だ。用意をしろ。持ち出す物をわすれるな。みんな、できるだけたくさんに服を着ろ。冬服も夏服も着ろ。くつ下をはいて、くつをはけ。帽子をかぶって、その上から、手拭(てぬぐい)やタオルで、しっかりと頬かぶりをしろ、おびになるものは、何本でもいいから、しっかりと胴中をしばれ。ジャック・ナイフ(水夫の使う小刀)を落さぬように――」
 みんなは、エスキモー人のように着ぶくれた。それは、これから先、衣服はなくてはならぬものであるし、また、珊瑚礁(さんごしょう)を洗う荒波を渡るとき、波にころがされても、けがをしないためであった。
「伝馬船おろせ」
 待ちかまえていた号令をきくと、一同は、今さらのように緊張した。全員が命とたのむのは、ただこの伝馬船だ。どんなことがあっても、安全におろさなくてはならない。もし、伝馬船が波にとられたら、もう十六人は、一人も助かるみこみはないものだと、だれもがかくごをしていた。まったくの真剣、命がけの仕事だ。伝馬船をおろす作業は、十六人の命が、助かるか、助からないかの大仕事であった。
 たえずおそってくる、大波のあいまを見きわめて、ほんの瞬間、「それっ」と気合をかけておろすのだ。まんいちにも調子がわるく、いじのわるい大波が、どっと伝馬船をもちあげて、ごつうん、と本船の舷側(げんそく)にたたきつけたら、伝馬船は、たちまち、ばらばらにくだけてしまうだろう。また、ざぶり、一のみに海の中へのみこんだら、それっきりである。

 そこでまず、この大波をしずめるために、油を流すことにした。
 大しけのときなど、よく船から油を流す。それは、油が海面にひろがると、気ちがいのようにさわぎたっていた波も、おとなしくすがたをかえるのである。
 荒れくるう波を見ていると、大きな馬が、何万頭となくならんで、まっ白いたてがみをふりみだし、はてもなくつづいて、くるい走るようだ。それが油を流すと、白いたてがみをかくし、ただ、上下に動く大波となるのである。昔から世界各国の船の人は、油が波の勢いをよわめることを、よく知っている。
 これは、大しけで、めちゃめちゃにもてあそばれていた捕鯨船が、もうだめだ、と、あきらめかけた時、急に、船の動き方がゆるやかになり、波がうちこんでこなくなったので、ふしぎに思ってあたりを見ると、死んだ鯨が、ちかくに流れていて、その鯨から流れだした油で、波が静かになっているのがわかったことから、油が波をしずめるのに、ききめのあるのを知るようになったのだ。しかも油は、ほんのわずかでいいのだ。たった一てきの油でさえ、二メートル平方の海面を、静かにする。伝馬船をおろすため、本船のまわりいちめんに、静かな海をつくるのには、一時間に、約〇・五リットルの油を、ぽたり、ぽたり、と海に落していればいい。学者のいうところによると、その油は、どんどんひろがって、一ミリの二百万分の一という、想像もつかぬうすい膜となって、海面をおおい、波をしずめるのである。

 それで龍睡丸(りゅうすいまる)の乗組員も、たけりくるう波を、油でしずめようとした。
 石油缶(かん)に、海がめやふかの油を入れ、小さなあなをいくつかあけて、二缶も三缶も、海に投げこんだ。しかし、岩にあたってあれくるい、まきあがる磯(いそ)の大波には、油のききめは、まったくなかった。
 いよいよ、運転士と水夫長が、伝馬船に乗りこむと、伝馬船をつってある滑車の索(つな)に、みんなが取りついて、そろそろおろしはじめた。
 波のあいまを見さだめて、やっと、水ぎわまでおろした。
 そこへ、山のような怒濤(どとう)が、ざぶっ、とやって来た。ただひとのみ。あっというまに、伝馬船も人も、見えなくなった。
 あとは、ただ白い波が、いちめんにすごく、わき立っているばかり。
 さすがの一同も、顔色をかえた。命のつなとたのんだ伝馬船は、波にのまれてしまった。たのみにしている指導者の、運転士と水夫長は、波にさらわれてしまった。もうわれわれは助からない。
 船長の私も、決心した。もちろん、ほかの乗組員も、そう思ったにちがいない。だれも、ひとこともいわない。ずぶぬれになって、青い顔をしていた。
 このまま、龍睡丸は、伝馬船と同じ運命になって、ここで死ぬのか。みんなは、おどりくるう白波を見つめて、だまっていた。
 一秒、二秒、三秒。
「おっ」
「あっ」
「やっ」
 とつぜん、二、三人が、おどろきの声をたてた。岩の方を指さし、口をもぐもぐさせている者もある。見れば、向こうの波の上に、一、二メートル頭を出している、ひらたい岩のねもとに、伝馬船が底を上にして流れついているではないか。
 やっ。黒い頭が二つ、白い波のなかにうきだした。
 しめたっ。二人は、岩の上へ、はいあがって行く。
 ごうごうと鳴りひびく波の音で、どんな大声でも、百メートルもはなれていては、聞えはしないが、手まねと身ぶりで、二人ともぶじだ、伝馬船も大じょうぶだ、と、知らせているではないか。
「ばんざあい」
 思わずほとばしる、よろこびのさけび。
「ああ、よかった――」
 みんなは、ほっとして、顔を見合わせた。


波の上の綱渡り


 これで、伝馬船(てんません)では、上陸できないことがわかった。
 そこで、まるい救命浮環(うきわ)に、細い長い索(つな)をつけて流してみると、岩の方へ流れる潮と波とに送られて、すぐに岩に流れついた。
 岩の上の二人は、浮環をひろった。これで、岩と船との間に、細長い索がはられた。
 船では、すぐに、マニラ麻(あさ)でできた太い索を、この細い索にむすんで、ずんずんのばして、岩の上でたぐってもらった。
 こうしてこんどは、船と岩との間に、じょうぶな、マニラ索がつながった。そして、マニラ索のはしを、しっかりと岩にしばりつけてもらうと、船では、たるんでいる索を、えんさ、えんさ、と引っぱり、索をぴんとはって、しっかりと船に止めた。
 この太いマニラ索を、索の道――索道(さくどう)にしようとするのである。これが、岩にあがるための、命のつなになるのだ。
 つぎには、この索道に、一本のじょうぶな索をまわして、輪をつくった。これに、
 人がぶらさがるのだ。そしてこの輪に、別の長い索のまんなかをむすびつけて、その一方のはしを、岩の上に送った。そして他のはしは、船に止めておいた。
 岩と船との間には、こうして、二本の索が渡された。一本は、両方のはしが、しっかりしばってある索道で、もう一本は、その索道にはめてある、索の輪を動かすための、通(かよ)い索(づな)である。この通い索を岩の上でたぐって、船の方をのばせば、輪は索道をすべって、岩の方へ行くし、船でたぐって岩の方でのばせば、輪は、船の方へくるのである。
 輪についた通い索を、船と岩とで、かわり番に引っぱってみると、試運転はうまくいった。これで、みんなが、岩にあがろうというのである。
 そこでまず、この輪に、最年少者の漁夫の国後(くなしり)が、腰をかけると、そのがっちりした胴中(どうなか)を、しっかりと索で輪にくくりつけた。かれは、両手で輪にすがって、岩の方をむいた。
 船では、みんなが、通い索をのばし、岩の上では、運転士と水夫長が、よんさ、よんさ、と通い索をたぐりはじめた。
 しかし、索道の索は長い。一方は、ひくい岩に止めてあり、船の方でも、そんなに高いところには止めてない。いくらぴんとはっても、索道のまんなかは、索の重さでたれさがって、波につかっているのだ。この索道に通してある輪に、人をくくりつけて送るのだから、人の重さで、索道はいっそう、たれさがってしまう。
 漁夫の国後は、船をはなれると、すぐに、立ちさわぐ波に、ひたってしまった。だが、じっとしんぼうして、輪にすがってさえいれば、やがて岩に引きあげられるのだ。運がわるいと、なんべんも海水を飲むし、浅いところでは、底の岩に、どしんとからだをたたきつけられることも、たびたびである。けれども、泳ぐよりは安全だ。索道や通い索が、切れさえしなければ、命にかかわりはない。
 国後は、波まにかくれたり、あらわれたりして、だんだん船から遠くなっていったが、やがて、索をたぐる運転士と水夫長の力で、岩の上に引きあげられた。国後は、索の輪からからだをほどいて、岩の上で高く両手をふっている、索道わたしは、あんがいうまくいくではないか。
 船では、通い索をたぐって、輪を引きよせ、こんど、最年長者の、小笠原(おがさわら)老人をくくりつけて、
「それ引け」
 と、あいずをすると、岩の上の三人は、「よし」とばかり、ぐんぐん通い索をたぐって、たちまち、また一人が岩に着いた。
 こうしてつぎつぎに、私を残した十五人は、みんなぶじに、岩の上にあつまった。
 索道わたしも、もう心配はない。あとは、必要品の、陸あげをしなければならない。一人船にのこった私は、
「だれか、本船へ来い」
 と、手まねきをすると、まず運転士が、私の引く索につれて、やって来た。そして、水夫長と、元気な会員の川口と、泳ぎの達者な帰化人の父島(ちちじま)が、つぎつぎに船にやって来た。そして、手近なうく物を海へ投げこむと、ざあっ、と岩の方へ流れて行く。岩の方では、それを待ちかまえて、一つ一つひろいあげ、波にさらわれないように、 岩のまんなかに運ぶのが見える。うく物は、索道ではこぶ必要がないのである。
 食糧品をだそうとしたが、船底にちかい糧食庫は、すでに海水がいっぱいになってしまって、はいっていけない。料理室に、米が一俵あった。これは、料理当番にあたった者が、前の晩、朝飯の用意に、下からかつぎ出しておいたものだ。そこで、これをぬらさずに、岩におくる方法を考えた。
 米俵のまま、二枚の毛布につつみ、その上を、雨合羽(あまがっぱ)でよく包んで、大きな木の米びつにいれてしっかりふたをした。またその上を、防水の油をぬってある、帆布(ほぬの)でつつみ、しっかりと索でしばって海に投げこむと、うまいぐあいに岩にとどいて、米はぬれなかった。
 つぎに、ぬれ米を一俵さがしだした。入れて流す箱がない。そこで、俵が破れぬよう、帆布でつつんで索でしばり、これに、石油の空缶(あきかん)二個をしばりつけ、空缶の口には、ぼろきれの栓をした。空缶は、俵のうきである。うまく岩にとどきますようにと念じて、海に投げこむと、これもぐあいよく、すうっと岩にとどいた。これで、石油缶二個は、ぬれ米一俵をうかす力があることが、わかった。
 船にいる私たち五人は、いさみたった。
「よし、石油缶をあつめろ」
 と、石油缶を、方々からあつめた。船には、かめやふかの油を入れるため、石油缶がたくさんあるのだ。
 いろいろの物を、石油缶にしばりつけては、海に投げこんで、岩に送った。井戸掘道具の、つるはし、シャベル。それから、のこぎり、釜(かま)、双眼鏡、毛布類、帆と帆布。索をたくさん、料理室に出してあった食糧品などは、石油缶が、みんな岩に送ってくれた。
 しかし、品物がとちゅうで落ちて、石油缶だけがいきおいよく岩についたものもあった。斧(おの)、鍋(なべ)などが、そうだった。いずれも島生活には、なくてはならぬ品なので、みんな、じつにがっかりした。
 糧食庫の水をもぐって、もぐりのとくいな父島が、かんづめの木箱をひき出した。あまいものがすきな男だったので、第一にコンデンス・ミルクの箱をとり出した。なかには、使い残りの二十八缶があった。二番めにもぐって、牛肉のかんづめの木箱。それから、羊肉(ようにく)かんづめ、くだもののかんづめ。かんづめの入れてある重い木箱を、手さぐりで、一生けんめいとり出した。この貴重なかんづめは、みんなぶじに岩にとどいた。
 漁具は、漁業長が、せっかく集めておいたのに、いつのまにか、波がさらっていった。これにはみんながっかりした。

 いろいろの品物を、船から送った岩は、船よりは、もちろん大きかった。船に面した方は、波がうちあたって、白くあわ立った海水が、岩によじあがろうと、しぶきを立ててくるっている。しかし、その反対がわの岩のかげになっている方は、岩が防波堤となって、静かな水面となっている。岩の裏表の海の変化は、じつにひどい。十六人にとっては、岩の裏の静かな水面は、よい港であった。
 ひっくりかえった伝馬船をおこして、水をかい出し、櫓(ろ)や櫂(かい)をひろい集めて、岩かげの港につないだ。流れよった品物は、何もかも、岩の上につみあげた。
 伝馬船は、十六人がのれば、山もりになって、もうなにもつめない。そこで、細長い、三角形の筏(いかだ)を作って、荷物をつむことにしようと、筏の材料を、船から、手あたりしだいに、取りはずして岩に送った。円材、帆桁(ほげた)、木材、大きな板、部屋の戸などを海に投げこむと、波は、すうっと、岩まで運んでくれる。岩の上の人たちは、それをひろって、うらの港で、せっせと三角筏に組み立てた。

 こうして、時のたつうちに、船も、だんだん波にこわされてきた。いつまでも居残って、あんまりよくばっていると、ついには命があぶない。もうきりあげよう。それにこれから、ながい年月住めるような島を、さがしに行かなければならない。
 私たち五人は、ついに、龍睡丸(りゅうすいまる)に心をのこして、じゅんじゅんに、索道で岩にあがった。
「総員集合」
 岩の上に、みんなを整列させて、点呼をして、一人一人しらべてみると、全員ぶじで、けがひとつしていない。私はいった。
「どうだ、この大波をくぐっても、一人のかすり傷を受けた者もない。まったく、神様のお助けである。これは、いつかきっと、みんながそろって、日本へ帰れる前兆にちがいない。これから島へ行って、愉快にくらそう。できるだけ勉強しよう。きっとあとで、おもしろい思い出になるだろう。みんなはりきって、おおいにやろう。かねていっているとおり、いつでも、先の希望を見つめているように。日本の海員には、絶望ということは、ないのだ。
 筏は、ここにつないでおき、荷物は、岩の上において、これから伝馬船で、島をさがしに行くから、島を見つけだし、いどころがきまってから、筏を取りにひき返そう。
 伝馬船には、井戸掘道具、石油の空缶五、六個、マッチ、かんづめ一箱、風がふきだしたら、帆にする帆布と、帆柱にする丸太、たきぎにする板きれを積め、用意ができたら、すぐ出発」
 私の訓示とげきれいに、一同はこころよくうなずいて、出発の用意にかかった。
 用意はすぐにできた。
「伝馬船、用意よろし」
 運転士は、大声で報告した。
「出発」
 私の一令で、十六人の乗りこんだ伝馬船は、岩をはなれた。


龍睡丸(りゅうすいまる)よ、さらば


 風のない朝の大海原を、たくみに暗礁(あんしょう)のあいだをくぐりぬけ、うねりの山を、あがったりおりたりして、北をさして、こぎすすんだ。
 うねりの山のいただきに、伝馬船(てんません)がもちあげられる時には、難破している龍睡丸が見える。龍睡丸は、わかれをおしむのであろうか、帆柱が、ぐらぐらゆれている。かわいそうに、こうしてはなれたところから見ると、大波にうちたたかれて、たえず、白い波が船体をつつんでいる。あんな大けがをしても、くだけるまで、勇ましく波と戦っているのだ。なつかしい龍睡丸。
「ながい間、生死をともにして、波風をしのいできた龍睡丸。おまえを見すてて行くのも、十六人はお国のために、生きなければならないからだ。不人情な人たちと思うかもしれないが、われわれの心も察してくれ。おまえだって、りっぱなさいごだ。犬死ではない。さらば、わかれよう――これが見おさめか、さらば――」
 心のなかで手を合わせたのは、船長の私ばかりではあるまい。だれの目にも、なみだがあった。
「いい船だったなあ――」
「ああ、粉みじんか、かわいそうに」
「泣くなよ」
「おまえだって、泣いてるくせに……」
 ふりかえり、ふりかえり、北をさして、伝馬船は漕(こ)ぎすすんだ。

 伝馬船は満員で、櫓(ろ)と櫂(かい)が、やっと漕げた。小笠原(おがさわら)老人は、岩に流れついたおわんと、ほうきのえの竹を、だいじに持っていた。
「老人、つえの用意か」
 だれかがいった。すると小笠原は、
「はっはっ、つえじゃないよ。おわんだってそうだ。こんなものとみんな思うだろう。だが、つまらないと思うものが、いざとなると、ほんとに役に立つのだ。それが、世の中だ。わかい者にゃ、わからないよ。潮水の修業が、まだたりないよ」
 と、いつもの調子でいってから、いねむりをはじめた。
 どのくらいの時間がたったろう。時計がないので、はっきりしないが、ずいぶん長い間、漕ぎつづけた。が、島は、いっこうに見えない。ところが、じっさいは、二時間たらずの時間なのだから、そんなに遠くに来たわけではない。夜中からのさわぎで、頭がつかれているのだ。
 櫓を漕ぐ者も、櫂を使う者も、のどがかわいて、いつもの元気がない。しかし、伝馬船には、一てきの飲み水もない。龍睡丸が、どかんと岸にあたると同時に、清水(せいすい)タンクは、こわれてしまったのだ。
「もう見えそうなものだ」
 漁夫の一人がつぶやくと、小笠原が、
「島は、どっかにあるよ。心配するなよ」
 と、はげます。
 しばらくすると、帰化人の範多(はんた)が、
「島のない方へ行くのじゃないかな。とちゅうで腹がへってはたいへんだ、もうひきかえした方がいい」
 と、心配そうにいう。しかしだれもあいてにしない。
 多くの者は、さすがに海の勇士だ。ずぶぬれの服で、伝馬船にすしづめになって、身動きもできず、うずくまりながら、うつらうつら、いねむりをしていた。
 みんな、ずぶぬれは平気だ。航海中に、船の甲板で任務についていると、大雨の時は、びしょぬれ。大しけには、たえず波をかぶって、ぬれどおし。いくら雨合羽(あまがっぱ)をきていても、だめだ。着かえていたら、きりがない。また、何枚も着がえを持っていない。任務を交代して、水夫部屋へさがってもぬれたままねるのだ。
 私は、はげますようにいった。
「もっと、精を出して、交代して漕げ。手のあいている者は、今のうちにいねむりをして、休んでおけ。島につけば、うんといそがしくなるから」
 交代した漕ぎ手は、小声で、
「やんさ、ほうさ、ほらええ、ようさ……」
 かけ声に合わせ、調子をとって、櫓、櫂を漕いだ。このかけ声が、いねむり連中には、なつかしい子守歌のように、ここちよいのである。
 へさきに立って、小手をかざして前方を見ていた運転士が、目ざとく、水平線に一ヵ所、かすかにたなびくもののようなものを見つけた。
「あれっ」
「煙か」
「島か」
「あたった。うんと漕げっ」
 数人が、同時にさけんだ。みんな立ちあがった。「あたった」というのは、めざす島が見えたとか、島に着いたとかいう、漁夫たちのことばだ。
 見つけたのは、白い砂の、ひくい島。水面上の高さは、ほんの一メートルぐらい。
 草一本もない。周囲は、百メートルもあろうか。とても小さい島である。
 ざくり。伝馬船が白砂の浜にぶつかって、ひらり、ひらり、みんなが島に飛びあがったのは、太陽のようすでは、正午ごろであったろう。
 島にあがると、日ざかりの南の海の光線は、急に肌に熱くなった。
 まず、島についたお祝いだといって、たいせつなくだもののかんづめ一個をあけた。十六人に、かんづめ一個である。のどがかわいて、ひからびた口に、ほんの一なめだ。しかし、すこし酸味があって、どうにか、かわきは止った。みんなは、これでまんぞくした。これから何年も、無人島生活をはじめるのである。一なめのくだもののかんづめも、たいへんなごちそうだ。
 島のまわりをぐるりとまわってみた。なにしろ、小さな、はげた砂の島。草一本もない。また、なに一つ流れついていない島だ。これでは住めない。一同は、顔を出見合わせた。
「島が見える」
 さけんだ者がある。指さす方の水平線に、はるかに、いま立っている島よりも、三、四倍も大きそうな島。青々と草のはえた、海鳥の飛んでいる島が見える。といっても、白っぽい水平線に、きゅうりのうすい皮をはりつけたように見えるだけだ。
「しめたっ」
「それ、あの島だ」
 元気の出た一同は、伝馬船に飛びのり、たちまちめざす島に漕ぎよせた。



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