なよたけ
加藤道夫
『竹取物語』はこうして生れた。
世の中のどんなに偉い学者達が、どんなに精密な考証を楯(たて)にこの説を一笑に付そうとしても、作者はただもう執拗(しつよう)に主張し続けるだけなのです。
「いえ、竹取物語はこうして生れたのです。そしてその作者は石(いそ)ノ上(かみ)ノ文麻呂(ふみまろ)と云(い)う人です。……」
人物
石(いそ)ノ上(かみ)ノ綾麻呂(あやまろ)
石ノ上ノ文麻呂(ふみまろ)
瓜生(うりゅう)ノ衛門(えもん)
清原(きよはら)ノ秀臣(ひでおみ)
小野(おの)ノ連(むらじ)
大伴(おおとも)ノ御行(みゆき)
讃岐(さぬき)ノ造麻呂(みやつこまろ)(竹取(たけとり)ノ翁(おきな))
なよたけ
雨彦
こがねまる
蝗麻呂(いなごまろ)
けらお
胡蝶(こちょう)
みのり
衛門の妻(声のみ)
陰陽師(おんようじ)
侍臣(じしん)
その他平安人の老若男女大勢
合唱隊
(舞台裏にて、低い吟詠(ぎんえい)調にて『合唱』を詠(うた)う。人数は少くとも三十人以上であること)
時
今は昔、例えば平安朝の中葉
第一幕
例えば平安京の東南部。小高い丘(おか)の上。丘の向う側には広大な竹林が遠々と連なっているらしい。前面は緩(ゆる)い傾斜(けいしゃ)になっている。
ある春の夕暮近く――
舞台溶明すると、中央丘の上に、旅姿の石ノ上ノ綾麻呂と、その息子文麻呂。
遠く、近く、寺々の鐘が鳴り始める。
夕暮の色がこよなく美しい。
綾麻呂 さあ、文麻呂。時間だ。
文麻呂 なぜです、お父さん。まだです。
綾麻呂 ――聞いてごらん。(鐘の音)……あれは寺々が夕方の勤行(ごんぎょう)の始まりをしらせる鐘の音だ。御覧(ごらん)。太陽が西に傾いた。黄昏(たそがれ)が平安の都大路(みやこおおじ)に立籠(たちこ)め始めた。都を落ちて行くものに、これほど都合(つごう)のよい時刻はあるまい。このひととき、家々からは夕餉(ゆうげ)の煙が立上り、人々は都大路から姿をひそめる。その名もまさに平安の、静けき沈黙(ちんもく)が街々の上を蔽(おお)うている……
沈黙。あちこちから静かに鐘の音。
人目をはばかる落人(おちうど)にとっては、これこそまたとない機会だ。うっかりしていると、すぐ夜の帳(とばり)が落ちかかるからな。暗くならない内に、私は国境いを越して、出来ることなら、今夜のうちに滋賀(しが)の国のあの湖辺(みずうみべ)の町までは何とかして辿(たど)りついてやろうと思っている。おや! あそこの善仁寺ではもう勤行を始めたらしい。……文麻呂、やっぱり時間だよ。
文麻呂 大丈夫(だいじょうぶ)ですよ、お父さん。まだ大丈夫です。第一、この頃の坊主(ぼうず)達のやることなんて何が当てになるもんですか? 勤行の時間なんて出鱈目(でたらめ)ですよ、お父さん。どこか一ヶ所でいい加減にやり出すと、あっちの寺でもこっちの寺でもみんな思い出したように、ただ無定見(むていけん)に真似(まね)をして鐘を鳴らし始めるだけです。正確の観念なんかこれっぽっちだって持合わせてはいないんですからね。お父さんとの大切な別離の時間が坊主の鐘の音で決められるなんて、そんなことって……僕ぁ、……僕ぁ悲しいな。(鐘の音)……でも、もうそんな時間なのかしら、一体? (間)ねえ、お父さん。もう少しぐらいいいじゃありませんか? これっきり、もう何年も逢えないんだと思うと、やはり僕は名残(なご)り惜しくてしかたがありません。もう少しお話しましょうよ。ねえ、お父さん、もう少し居て下さい。せめて鴉(からす)が鳴くまでならいいでしょう? 鴉なら本当に正確な時間を伝えてくれます。あれは自然そのものですから、全く偽(いつわ)りと云うものを知りません。僕は自然と云うものだけには信頼を置くんです。ねえ、あの切株(きりかぶ)に腰(こし)を下して、もう少し色々なことを饒舌(しゃべ)り合いましょうよ。鴉が鳴くまでです。出発はそれからでも充分間に合いますよ。本当に保証します。……さあ、お父さん、お願いです。鴉が鳴くまで、せめて鴉が鳴くまでです。
塒(ねぐら)へ帰る鴉が二三羽、大声で鳴きながら二人の頭上を飛んで行く。長い沈黙。
文麻呂 (低い声)やっぱり、お別れですね。
綾麻呂 (しんみりと)ま、いずれは別れねばならない運命だったのさ。
文麻呂 任地にお着きになっても、身体だけは充分に気を付けて、御病気にならないように注意して下さい。
綾麻呂 む。
文麻呂 お父さんはお酒を召し上らない代りに、甘いものとなると眼がないから、ちょっと油断をして食べ過ぎをなさるとすぐお腹(なか)をこわします。
綾麻呂 有難(ありがと)う。充分に気をつける。お前も充分健康に留意して、無理をしない程度に、「文章(もんじょう)の道」を一生懸命に研鑚(けんさん)するんですよ。一日も早く偉くなって、お父さんを安心させておくれ。お前はお役所に勤めるのはどうも以前からあまり気がすすまなかったらしいが、いや、それならそれでもいい。お父さんは決して反対はしない。まあ、立派な学者になって、「文章博士(もんじょうはかせ)」の肩書でも貰(もら)ってくれれば、お父さんはそれだけでも大手を振って自慢が出来るからな。そうなれば、お父さんの受けた恥(はじ)も立派に雪(そそ)ぐことが出来るというものだ……しかしね、文麻呂。お前はどうも、この頃清原の息子(むすこ)や小野の息子達と一緒(いっしょ)になって、やれ「和歌」を作ってみたり、「恋物語」を書いてみたりしているらしいけれど、あれだけはお父さんどうしても気に掛ってしかたがないな。第一、外聞(がいぶん)が悪いよ。ああ云うものは当世の情事好(いろごとごの)みのすることで武人の血を引く石ノ上ノ綾麻呂の息子ともあろうものが、あんなものにかぶれるなどと云うことは大体、体裁(ていさい)がよくないからな。ことに学問の道に励(はげ)むものにはああ云うものは何の益もない代物(しろもの)だ。「芸術」と云うものか何と云うものか儂(わし)にはよく分らんが、お父さんに云わせればあんなものは不潔だ。ああ云う「遊びごと」だけは今後是非(ぜひ)とも止めて欲しいもんだな。
文麻呂 (烈(はげ)しく)遊びごとではありません!
綾麻呂 (びっくりする)
文麻呂 (涙さえ含んで)お父さん、少くとも僕にとっちゃあれは決して「遊びごと」ではないつもりです。僕達の「詩(うた)」があんな巷(ちまた)で流行しているような下らない「恋歌」のやりとりと一緒くたにされては、僕は……情無くなって、涙が出て来ます。お父さん。僕はきっと立派な学者になってみせますよ。お望みなら「文章博士」にだってなります。ただ、詩(うた)だけは作らせて下さい。「文章博士」が経書の文句の暗誦(あんしょう)をするだけなら、あんなもの誰(だれ)だってなれます。だけど、そんな知識を振翳(ふりかざ)したって何になるでしょう。そんな学問はただの装飾です。いくら紅(くれない)の綾(あや)の単襲(ひとえがさね)をきらびやかに着込んだって、魂(たましい)の無い人間は空蝉(うつせみ)の抜殻(ぬけがら)です。僕達はこの時代の軟弱な風潮に反抗するんです。そして雄渾(ゆうこん)な本当の日本の「こころ」を取戻(とりもど)そうと思うんです。僕達があんな下らない「恋歌」や「恋愛心理」にうつつをぬかしているとお思いになるんでしたら、それこそそれは大変な誤解です。今、僕達の心を一番捉(とら)えているのは、例えばそれはお父さん、……これなのです。(懐(ふところ)から一冊の本を取り出す)
綾麻呂 よろずはのあつめ……
文麻呂 万葉集って読むんです。
綾麻呂 奈良朝のものだな?
文麻呂 お父さん。これこそ僕達の求めてやまぬ心の歌なのです。
綾麻呂 巧(うま)い歌があるのかな? (黙って頁を繰(く)っている)
文麻呂 読んでごらんなさい。どこでもいいから、お父さん、ひとつ読んでごらんなさい。
綾麻呂 (何気なく開いたところを読み始める。夕日が赤々と輝き始める)玉だすき 畝火(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじ)りの御代(みよ)ゆ あれましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下 知ろしめししを そらみつ やまとをおきて 青によし 平山(ならやま)越えて いかさまに 思ほしけめか 天(あま)さかる 夷(ひな)にはあれど 石走(いわばし)る 淡海(おうみ)の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ すめろぎの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここといえども 霞(かすみ)立つ 春日(はるひ)かきれる 夏草香(なつくさか) 繁(しげ)くなりぬる ももしきの大宮処(おおみやどころ) 見ればかなしも。
文麻呂 (厳(おごそ)かに)柿本(かきのもと)ノ朝臣人麻呂(あそんひとまろ)。過ギシ二近江ノ荒都ヲ一時作レル歌。…………
間――
綾麻呂 む。………
文麻呂 お父さん。そりゃ、僕だって三史や五経の教訓の立派なことくらいようく分っています。「李太白(りたいはく)」だって僕には涙の出るほど有難い書物です。だけど、あの教義をただ断片的に暗誦(あんしょう)して博識ぶったり、あの唐風(からふう)の詩から小手先の技巧を模倣(もほう)してみたりしたところで何になるでしょう? 要するに僕は、………自覚がなければ問題にならないと思うのです。
間――
綾麻呂 文麻呂。………お父さんはあるいは誤解しておったかもしれん。この本は、残念ながらまだお父さん読んだことがないからよく分らんけれど、お前のやろうとしてることはどうやら間違ってはおらぬようだ。いや、そう云う心構えさえあるのならば、歌は遠慮なく作りなさい。けれども、真の儒教精神もこれまた大切なものだから、経書の勉強も決して怠(おこた)ってはいけません。いかにそれを日本的に生かすかがお前達の仕事なのだからな。………うむ、それはそうかもしれん。奈良朝時代の人達は、少くとも私達よりはもっとずっと純粋で、日本の心を知っておったかもしれんよ。いや、お前のやり方については、もうつべこべ云わぬ方がよさそうだ。自分の正しいと思ったことは、躊躇(ちゅうちょ)せずに思い切って最後までやり通すようにしなさい。
突然、夕闇が迫(せま)り、舞台薄暗くなる。
おや! 急に日が暮れてしまった! うっかりしていたら、夕日が朝日ヶ峰にかくれてしまった! こりゃ、ぐずぐずしてはおられない。少し長話しをし過ぎてしまったようだ。さ! 文麻呂! いよいよお父さんは行くぞ!
文麻呂 (厳然たる姿勢をとる)御機嫌(ごきげん)よろしく、お父さん!
綾麻呂 臣、石ノ上ノ綾麻呂、今、無実無根の讒言(ざんげん)を蒙(こうむ)って、平安の都を退下(たいげ)し、国司となって東国に左遷(させん)されんとす。………文麻呂いいか? もう一度、返答だ!
文麻呂 はいッ!
綾麻呂 勲(いさお)高き武人(もののふ)の家系、臣、石ノ上ノ綾麻呂から五位の位を奪いとった我等が仇敵(きゅうてき)は?
文麻呂 (凜(りん)たる声)大納言(だいなごん)、大伴(おおとも)ノ宿禰御行(すくねみゆき)!
綾麻呂 巧みなる贈賄(ぞうわい)行為で人々を手馴(てな)ずけ、無実の中傷で蔵人所(くろうどどころ)の官を奪い、あまつさえその復讐(ふくしゅう)をおそれて、臣、石ノ上を東国の果(はて)に追いやった我等が仇敵は?
文麻呂 大納言、大伴ノ宿禰御行!
綾麻呂 あるいはまた、その一人息子、文麻呂の出世を妨げんとて、大学寮内よりこれを追放し、より条件の悪い別曹(べっそう)、修学院などへと転校せしとめたる我等が仇敵は?
文麻呂 大納言、大伴ノ宿禰御行!
綾麻呂 よし!……くれぐれも我々の受けたあの侮辱(ぶじょく)だけは忘れないようにしなさいよ。不潔な血を流すことはたやすいことだが、我々はそんな他愛もない復讐はいさぎよしとしないのだ。お前は平安の都に残って、孜々(しし)として勉学にはげみ、立派な学者となる。私は東国の任地に赴(おもむ)き、武を練り、人格を磨いて、立派な武人となる。そうして、いつの日にか二人がまたこの地で相まみえる時があるとすれば、その時こそ、大伴ノ御行は必ずや地下人(じげびと)かさもなければ、それ以下の庶民(しもびと)にまで失墜(しっつい)するであろう。………(中央を向き、感慨深く)ああ、平安の都もどうやらこれでしばらくは見納めなのだな。………さて、いつまでぐずぐずしていてもきりがない。では、文麻呂、儂(わし)は出掛ける!
文麻呂 じゃ、お父さん! お気をつけて!
綾麻呂 お母さんのお墓参りだけは決して欠かさないようにしなさいよ! じゃ、元気で勉強しなさい! それから、瓜生(うりゅう)ノ衛門(えもん)だが、あれはもうだいぶ年をとってしまったから、あまり役には立たんだろうが、ま、よく面倒をみておやりなさい。あれだけはいつも変らぬ我々の忠実な従僕(しもべ)だ。ああ、忘れていた。これ。万葉集………
文麻呂 いえ、それはお父さんに差上げます。僕はもう一冊持っていますから。東国の任地などでしみじみとお読みになるにはこれほどよい書物はありません。
綾麻呂 そうか。それでは記念にひとつ貰(もら)っておこう。これはなかなかよさそうな本だから、お父さんもじっくり読んでみることにしよう。それから東国へ下る人があったら、必ず手紙をくれるんですよ。ああ、だいぶ遅くなってしまった。山科(やましな)の里では供奉(ぐぶ)の者達がさぞや待ちかねていることだろう。では、文麻呂。さらばじゃ!
文麻呂 さようなら! お父さん!
石ノ上ノ綾麻呂、左方へ下りて行く。退場。
文麻呂。独り中央丘の上に残る。
あたりには夕闇が立ち籠(こ)めている。………
文麻呂は傍の木の切株に腰を下ろして、冥想(めいそう)に耽(ふけ)り始める。………
遠近(おちこち)の広大な竹林の竹の葉のざわめく音が無気味に響き渡りはじめる。………
文麻呂ぎょっとして後をふりみる。
風。………そして、時折、山鴿(やまばと)の物淋(ものさび)しげな鳴声がし始める。
文麻呂 (独白)風か!………
文麻呂は何やら急に耐え難い孤独感に襲われるのであった。懐(ふところ)より横笛を取り出して、親しい「曲」を奏し始める。澄んだ笛の妙音、風に伝わって、余韻嫋々(よいんじょうじょう)………舞台、しばらくは横笛を奏する文麻呂。
文麻呂、突然、何か不思議な予感に襲われたもののように唇(くちびる)からふと横笛を離す。耳を澄ます。――どこからともなく、こだまのように同じ曲が響いて、………消える。
文麻呂、不思議な笛の反響を解(げ)せぬ態度で、もうひとしきり吹いて、再び突然、唇から笛を離してみる。耳を澄ます。
――やはり、どこからともなく、同じ曲が響いて、………消える。文麻呂、もう一度今度は思い切り強く吹いてみる。――やはり、どこからともなく同じ音が反響する………
文麻呂 (不気味な気持に襲われて、すっくと立上り)誰(だれ)だ!………
声 誰だ!………
清原ノ秀臣(ひでおみ)、同じように横笛を片手に、丘の向側からつと文麻呂の背後に現れた。
清原 石ノ上ノ文麻呂ではないか?
文麻呂 (びくんとして振向き)なんだ、清原。………君だったのか?
清原 大学寮学生、清原ノ秀臣。………僕だ。
文麻呂 一ヶ月前だったらこの僕も同じ「名乗り」を堂々と名乗り返せたのになあ。……残念ながら、今では、別曹(べっそう)、修学院学生、石ノ上ノ文麻呂……か。
清原 おい、石ノ上。そのことだけはいつまでもそうくよくよ気に掛けるのは止めてもらおうじゃないか。学校がどうのこうのと云ったって、正しい文(ふみ)の道はただ一つさ。小野ノ連(むらじ)にしろ、この僕にしろ、君とは一生を誓い合った同志じゃないか。その繰言(くりごと)だけはもういい加減に止めたまえ。………ところで石ノ上。お父様は? もう発(た)たれたの?
文麻呂 ああ、いまさっき。………ここで別れたところなんだ。何だか、今夜中に三井寺(みいでら)を過ぎて、滋賀(しが)の里までは是(ぜ)が非(ひ)でも辿(たど)り着くんだなんて、とても張り切ってたよ。
清原 そりゃ大変だな。殊(こと)に夜道になると逢坂山(おうさかやま)を越えるのは一苦労だぜ。……でも、何だってよりによって夕方なぞにお発ちになろうなんてお考えになったのかな。
文麻呂 人目を忍ぶ旅衣(たびごろも)と云う奴さ。でも、親父(おやじ)、あれで内心東国にはとても抱負があるらしいんだ。まあ、別れる時は割合に二人共さっぱりしてて、気が楽だったよ。山科(やましな)の里まで行けば、供奉(ぐぶ)の者がたくさん待っているそうだから……
清原 そうか。それなら安心だ。……いや、実は、妙(みょう)な所で君に逢ったんで、びっくりしちゃってね。
文麻呂 僕もびっくりした。こんな処(ところ)にまさか君が来ようとは思わなかったからな。僕は君をこだまと間違えてしまった。………
清原 え?
文麻呂 こだまさ。例えば、そら、向うの竹山から春風に乗って反響して来るこだまと間違えたのだよ。竹の精と間違えてしまったのさ。
清原 竹の精?
文麻呂 うん。ま、竹の精とでも云うんだろうな。何だか、そんなものがこの辺なら現れそうな気持がしたんだ。この丘へ登ってみたのは、実は僕は今日が初めてなんだがね。とにかく、すっかり気に入ってしまったよ。……平安京もこの通り一目で見渡せるし、それに、どうだい、こっち側の、この夕風にざわめいている素晴らしい竹林の遠々たる連なりは! 僕はさっき、親父と話しながらここまで登って来た時には、何だかまるで、突然夢の国に来たんじゃないかと眼を疑ってしまった。平安の都で世迷(よま)い事(ごと)に身をやつしている連中の中で、この丘のこっち側の世界の素晴しさに気の付いてる奴は、一体何人いるだろうかね? それにほら、見たまえ。すぐあすこにまであんなに深い竹林が続いて来てるなんて、実際、今まで僕は夢にも想像していなかった。全く、この丘から向うは別世界だ! あの堕落した平安人の巷(ちまた)からものの半道も離れていないこの丘の上には、まだ汚(けが)れない自然が、美しいそのままの姿で脈打っているような気がする。そんな気がするんだ。……清原。聞いてごらん。……山鴿(やまばと)だ。
竹林の方から山鴿の鳴声、ひとしきり。二人共、しばらく沈黙。
清原 (静かに)石ノ上、……君は今竹の精って云ったね? 君は竹の精の存在を信じるか?
文麻呂 どうしてだい、そりゃまた?
清原 (真剣な顔)石ノ上、僕は、……僕はその竹の精を見たのだ!
文麻呂 見た?
清原 見た。この眼ではっきりと見てしまったのだ。自然そのままの汚(けが)れのない清純な女性の形象(かたち)をとってこの現世(おつつよ)に存在している、いわばそれは若竹の精霊だ。微塵(みじん)の悪徳もなく、美(うる)わしい天然の姿のままで。それはあの竹林の中に生きている。
文麻呂 (じっと友の顔を凝視(みつ)め、ややあって)「恋」だな? 清原………
清原 人の世の言挙(ことあげ)がそう名付けるならば、それもよかろう。……石ノ上、僕は白状する。……僕は、……僕はその恋を知りはじめたのだ。
間――
文麻呂 (そっと友の肩(かた)に手を掛けて)よかろう、清原。僕は決して咎(とが)め立てはしないぜ。いやむしろ君のその碧空(あおぞら)のごとく清浄無垢(せいじょうむく)なる心を捉(とら)えた女性の顔が一目拝(おが)みたい位だよ。………恋とは夢だ。……「夢」とは全(まった)き放心だ。その正しい極限では一切が虚無となる。一切が存在しなくなる。それは未来永劫(えいごう)を一瞬に定着する詩人の凝視を形成する場所だ。真実の詩(うた)とはそこに生れるのだ。その虚無の場を不安と観ずるべからず、法悦(ほうえつ)の境と信ずべし、だ。そこに生ずる悲哀よりも歓喜よりも、何よりもそこに存する真実の詩(うた)をこそ尊ぶべきだ、と僕は思う。……清原、恋をしたまえ。一切を捨てて恋に酔(よ)いたまえ。
清原 有難う。
文麻呂 敷島(しきしま)の日本(やまと)の国に人二人ありとし念(も)わば何か嘆かむ、だ。……………知ってるかい、清原。
清原 む。……万葉、巻十三、相聞(そうもん)の反歌だ。
文麻呂 恋とはああ云うものだよ。僕はそう信ずる。恋とはただ一つの魂を烈(はげ)しくもひそかに呼び合うことだ。僕はそう信ずる。あの巷(ちまた)にあれすさんでいる火遊びの嵐はどうだ。あんなものは何が恋だ。あんなものは不潔な野合(やごう)だ。……汚らわしい惰遊(だゆう)だ。
清原 石ノ上、……僕の場合に限って、あんな汚れた気持は微塵もないって云うこと、……君、信じてくれるだろうね?
文麻呂 うん。信じる。信じよう。信じないではいられないのだ。君が本当のものと嘘(うそ)のものとを識別(みわ)ける眼を持っていることだけは、僕は心から信じているんだからな。
清原 (次第に涙を催(もよお)すような感傷的な気持になって行く)………石ノ上、僕は、そのうちに君にもあの女(ひと)に一度逢ってもらおうと思ってる。
文麻呂 何て云うの? 名前は。
清原 ……なよたけ。
文麻呂 え?
清原 なよたけ。(舞台左手奥の竹林の方を指し)あすこの竹林の向うに住んでいる………
二人共、そっちの方を眺めている。
文麻呂 田舎娘(いなかむすめ)なのかい?
清原 竹籠(たけかご)作りの娘なんだ。年取った父親と二人暮しの貧しい少女さ。……まだ、まるで少女なんだ。汚れ多い浮世の風には一度だって触れたことのないような。……何て云うのかなあ、こう、まるで、……………
文麻呂 いくつ?
清原 え?
文麻呂 年さ。いくつ?
間――
清原 ……しらないんだ。
文麻呂 何だい。訊(き)いてみないの?
清原 ……まだなんだ。
間――
文麻呂 いくつ位に見えるのさ?
清原 それが、……よくわからないんだ。
文麻呂 何だか少し頼りないね。……話したことはあるんだろ?
清原 (俯向(うつむ)いたまま、無言)
文麻呂 ね。毎晩逢って話ぐらいはするんだろ? え?
清原 (ごく低く)まだなんだ。
長い沈黙。
文麻呂 (しばらくは呆(あき)れたような顔をしていたが)そうか、……まあ、いいさ。……つまり、まだほんの「恋知り初(そ)めぬ」と云ったばかりの所なんだな。だけどね、清原、恋をするにはもう少し勇気を持たなくちゃ駄目(だめ)だよ。もう少し思い切ってやらなくちゃ駄目さ。僕はそう思うな。この女(ひと)こそ自分の一生を賭(か)けた唯一(ゆいいつ)無二の女性だと云う確信がついたら、早速(さっそく)、自分の心情を率直(そっちょく)に打明けなけりゃ問題にならないよ。遠慮なんかしてたらいつまで経(た)ったってらちがあかない。もちろん、僕はあの当世流行のつけぶみと云う奴は大嫌いだ。こそこそまるで悪いことでもしてるように、巧(うま)くもない文章を紙に書き並べて、逃腰(にげごし)半分で打明けるなんてのは、第一、男らしくもないし、……それに卑怯(ひきょう)だ。もちろん、面と向って、堂々と口で打明けるんだ。……そりゃ、そうだぜ、君、いつまでもぐずぐずそんな態度を続けて行ったとしてごらん。せっかくの恋も水沫(みなわ)のごとく消え去ってしまうのだ。例えばね、先方でも君のことを慕(した)っているとする。……いいかい?……いつまでも君が愛を打明けてくれるのを待っている。……待っても待っても打明けてくれない。……そのうちに他の恋敵(こいがたき)があらわれて、先に結婚を申し込んでしまう。ね? 君はもう破滅だ。……君の「恋」は永久にそこで終ってしまうかもしれないのだ。
話の途中から、空には星々が燦然(さんぜん)と輝き始めた。………
文麻呂はそっと清原ノ秀臣の反応を窺(うかが)ってみる。彼は黙ったまま、俯向(うつむ)いている。ふと、遠くの竹林の中から、まるでざわめく風の中からでも生れたかのように、わらべ達の合唱する童謡(わざうた)が、美妙な韻律(いんりつ)をひびかせながら、だんだんと聞えて来る。………
〔わらべ達の唄(うた)〕
なよ竹やぶに 春風は
さや さや
やよ春の微風(かぜ) 春の微風
そよ そよ
なよ竹の葉は さあや
さあや さや
文麻呂 (怪訝(けげん)な顔で、唄の聞えて来る方向を不気味そうに見やり)……清原。………あれは何だい? 何だろう、あの唄は?
清原 (異様な悦(よろこ)びに既に眼は烱々(けいけい)と輝き始めている。熱情的な独白)わらべ達だ。……なよたけのわらべ達だ。……なよたけがわらべ達と一緒に散歩に出て来たんだ。(突然、駆(か)けて行こうとする)
文麻呂 清原!
清原 (立止る)
文麻呂 何だって云うんだい? わらべ達がどうしたって云うんだい?
清原 (もはや全く気もおろろに、譫言(うわごと)のごとく)わらべ達はなよたけの心の友達なのさ! なよたけが心を許しているのはわらべ達だけなのさ! わらべ達はひとりひとりなよたけの心を持ってるんだ! わらべ達の心はなよたけの心なんだ! 僕はなよたけと話が出来なくったって、わらべ達とは話が出来るんだ! なよたけは僕に話掛けてくれなくったって、わらべ達は僕に話掛けてくれるんだ! 僕がわらべ達と話をしてると、なよたけは傍(そば)で微笑(ほほえ)みながら、僕とわらべ達の話を聞いててくれるんだ! 僕はわらべ達と話をしてれば、まるでなよたけと話をしてるような気持なんだ! わらべ達の話の中にはなよたけの心が通(かよ)ってるんだ! なよたけの心の中にはわらべ達の話が通ってるんだ! 僕はわらべ達と話してるんじゃなくて、なよたけと話してるんだ! なよたけは僕に……
文麻呂 清原! 落着け!
間――
清原 (やや理性をとり戻す)……石ノ上。……僕は取乱しちまってる。恋のためにすっかり取乱しちまってる。許してくれ。……僕は行かなくちゃならない。すぐに行かなくちゃならない。なよたけに逢いに行かなくちゃならない。なよたけが僕を呼んでいる………
文麻呂 (きっぱりと)行きたまえ!
清原、脱兎(だっと)のごとく、やや左手奥へ駆け下りて行く。
文麻呂 (清原の後姿を見送りながら、独白)清原。……貴様は、完全に……「恋」の虜(とりこ)だ。………
燦然(さんぜん)たる星空を背景に丘の中央に、影絵のごとく立っている文麻呂。
わらべ達の謡(うた)う童謡(わざうた)がだんだんと明瞭に聞えて来る。………
〔わらべ達の唄〕
なよ竹やぶに 山鴿(やまばと)は
るら るら
やよ春のとり 春のとり
るろ るろ
なよ竹の葉に るうら
るうら るら
春風にざわめく竹林の音と、わらべ達の謡う愛らしい童謡(わざうた)の旋律(せんりつ)と、時折淋(さび)しげに鳴く山鴿の鳴声が、微妙に入り交り、織りなされ、不可思議な「夢幻」の諧調となって、舞台はしばらくは奇妙に美しい一幅の「絵図」になってくれればいい。文麻呂は何か吾(われ)を忘れたもののように、じっと遠く竹林の方を見ている。……
やがてわらべ達の唄声が次第に遠く消えて行く頃、瓜生(うりゅう)ノ衛門(えもん)、右手より現れる。丘の上の人影をそっと窺(うかが)うようにみている。
瓜生ノ衛門 (文麻呂だと分ると、低い声で)文麻呂様。……文麻呂様。………
文麻呂 (その声にふと我に返り、あたりを見廻すが、暗くてよく分らない。空耳かな、とも思う)
瓜生ノ衛門 お坊ちゃま。………ここですよ。こちらでございますよ。
文麻呂 誰だ!
瓜生ノ衛門 私でございます! 瓜生ノ衛門でございます。
文麻呂 なんだ、衛門か。……お前だったのか? びっくりさせるじゃないか、こんな処(ところ)に……
瓜生ノ衛門 (笑いながら、近寄って行く)やっと見付けました。ずいぶん方々お探し申したんですよ。……お父上はもう?
文麻呂 (丘の上から下りて来る)む。行ってしまわれた。……元気に発(た)って行かれた。
瓜生ノ衛門 東路(あずまじ)はさぞ淋しゅうござりましょうな。……手前もお供致しとうございました。………でも、供奉(ぐぶ)のものはみな大伴(おおとも)様の御所存だったので、……残念ながら、……致し方ござりませぬ。
文麻呂 む。あの供奉の連中ね。……まあ、あれは大納言の決めた人達なんで、心配でないこともないんだが、……しかし、父上のあの高邁(こうまい)な「人格」はたとえどんな腹黒い奴等(やつら)でも、たちどころに腹心の家来にしてしまうよ。僕はそう信ずる。……ねえ、衛門、そうだろうが?
瓜生ノ衛門 そうでございますとも。……瓜生ノ衛門、今更(いまさら)ながら御父上から受けました四十年の御厚誼(ごこうぎ)、つくづくと身に沁(し)みまする。……(涙して)しがない瓜(うり)作りの山男を……これまでに……
文麻呂 まあ、いいさ、衛門。過ぎ去った過去のことを思い出してくよくよするのは、遠い先の未来のことを妄想(もうそう)して思い上るのと同じくらい愚劣な空事(そらごと)だからな。一番大切なのは現在だ。現在の中に存在する可能性だ。……ところで、衛門。お前、これから、どうする積り?
瓜生ノ衛門 手前、生れ故郷の瓜生の山里に帰って、また瓜作りでも始めようかと思います。
文麻呂 え?
瓜生ノ衛門 また瓜でも作ろうと思うのでございます。この上、お坊ちゃまに御厄介(ごやっかい)をお掛け申すのは、この衛門、とても忍びのうございますでな。それに、お坊ちゃま。(柄(がら)になく恥しそうに笑う)へ、へ、へ、へ、へ、………
文麻呂 何だい。気持が悪いね。……それに? どうしたって云うんだい?
瓜生ノ衛門 へえ、誠(まこと)に気恥しくて申し上げにくい話なんでございますが、……実は手前……瓜生の里には四十年前に云い交した許婚(いいなずけ)がひとり待って居るんでございます。
文麻呂 許婚?
瓜生ノ衛門 へえ、まあ、そのような……へ、へ、へ、へ、へ、……
文麻呂 おい、おい。衛門。お前もなかなか隅(すみ)には置けないね。六十八にもなって許婚とは……さすがの僕も恐れ入っちゃった。それじゃ、まあ、惚(のろ)け話の花でもひとつ咲かせてもらおうかい。
瓜生ノ衛門 いや、お坊ちゃまの方から先にそう開きなおられると、せっかくの花も蕾(つぼ)んでしまいます。………実を云えば、手前、若気(わかげ)のあやまち、とでも申しましょうか、……今から四十年前の昔でございます。手前がまだ瓜作りをやっておりました時分、ふとした浮気心から云い交した娘がございました。と云いましても、名前も顔もはっきりとはとても浮ぶ瀬もない冥途(めいど)の河原。……何分遠い昔の想(おも)い出(で)話でございますでな。手前は父上様にお仕(つか)え申す身になって四十年。……華(はな)やかな平安のみやびの中であのようにしあわせ過ぎる位の身の上でございましたもので、そんな娘のことなぞすっかり忘れてしまっておりましたのです。ところがつい最近のことですが、風の便りか山ほととぎす。……お坊ちゃま、実はその娘がまだ手前の帰って来る日をたった独(ひと)りで待っていると云う話をふと、耳に致しましたのです。それを聞きました時には、ちょうど、今度のお父上の御栄転騒ぎで、都のお勤めからは手前もいよいよ身を引潮の漁(いさ)り歌と云うわけで、……何となくすずろな憂身(うきみ)をやつしておりました最中だったもんで、何と申しますか、……人里離れた生れ故郷の瓜生の里が無性(むしょう)にこう……懐(なつか)しくなって参りましてな。
文麻呂 ふーん? そうだったのかい。……いや、そう云うことなら衛門、そりゃ僕もとてもいいと思うよ。僕も大賛成だ。……故郷の山の中で一生を契(ちぎ)り合ったひとと二人っきりで瓜を作る。……いいな。羨(うらやま)しい生活だ。幸福な余生だ。衛門、……こんな汚れ多い都会の生活はもうお前のように正直な男には用のないものだよ。大切なのは孤独と云うことだ。真剣に生きると云うことだ。お婆(ばあ)さんもさぞ悦(よろこ)ぶことだろう。
瓜生ノ衛門 お婆さん?
文麻呂 や、こりゃ失礼。……だって、衛門。そりゃあもうだいぶお婆さんだろうじゃないか? 四十年も前に………
瓜生ノ衛門 (そう云われて、ふと、今更のように四十年の経過を思い起し)ああ、……さようでございましたな。……む、そこんところを衛門もう少し考えてみなければなりませんでしたな。む。さようでございますとも。いくら手前に惚(ほ)れ込んだと申しましても、……四十年間、年もとらずに娘のまんまで手前を待ってるなんてわけは、どう考えたって、そんなことは有りゃしませんですからな。(何だか少々情無い気持になって来る)いや、そりゃもう大変婆さんになっとりましょう。……何せ、手前が二十六で、あれがそう、かれこれ……
文麻呂 衛門!………そんなことは問題じゃないよ。顔に皺(しわ)が何本出来ていようと、どんなに腰が曲っていようと、お前を待っているのは忠実なひとりの少女の心だ。ね? 衛門、そうだろうが?
瓜生ノ衛門 そうでございましょうか?
文麻呂 なんだい、馬鹿に自信がなくなっちゃったんだね。そうだよ! 僕が保証する! そうだとも! 瓜生ノ衛門の帰りを、四十年間、ただひたすらに思いつめ待ちわびているのは美しい、ひとりの忠実な心の少女だ!
瓜生ノ衛門 (感動して)……有難うございます。……有難うございます。……瓜生ノ衛門、明日にでも早速婆さんに逢(あ)いに瓜生の山に帰ってみようと存じます。
文麻呂 それがいいよ、衛門。瓜生の山奥と云ったって、ここからは二里とは離れてやしないんだから、僕だって逢いたくなりゃいつだって逢いに行けるんだ。……ああ、何だか急に風が強くなって来たようじゃないか。
竹林のざわめきが、急に何やら騒がしくなって来る。……不穏(ふおん)な風の渡る音。山鴿(やまばと)の鳴く声さえも、途絶え勝ちだ。空模様もだんだんあやしくなって来る。燦然(さんぜん)と瞬(またた)いていた星々も、あっちにひとつこっちにひとつとだんだん消え失せて行く………
瓜生ノ衛門 (不安そうに)何だか気味の悪い空模様になって参りましたな。嵐でも来そうな気配(けはい)でございますよ。……そろそろお家へお帰りになってはいかがです?
強い風が不気味な音を立てて、吹きわたりはじめた。
文麻呂 おう、竹の葉があんなに烈(はげ)しくざわめき始めた。星々がだんだんと消えて行く。………(独白)父上は大丈夫だろうな? 竹林の「恋」は健在かな?
瓜生ノ衛門 (何やらはたと思いついて)文麻呂殿! 瓜生ノ衛門、すっかり失念致しておりました! 実は手前、大変な噂(うわさ)の証拠をつきとめたのでございます。大納言様のことでございます。大納言様の道ならぬ浮名(うきな)の恋でございます。しかも相手はとんだ賤(いや)しい田舎娘(いなかむすめ)。いや、これだけはっきり尻尾(しっぽ)を掴(つか)んだら、それこそ大納言様の名声もたちどころ、と云ったよりどころでござりますぞ。昨日の午後(ひるすぎ)でござりました。手前、何気なくこの先の竹林に筍(たけのこ)を探しに参ったのでございます。……どうでしょう! まあ、大納言様ともあろう御方が、忍ぶ恋路のなんとやら、………いやもう大変な忍びのいでたちで、ついこの先の竹林の奥に住んでいる竹籠(たけかご)作りの爺(じい)の娘におふみをつけようとなさっているのを、手前この目ではっきり見てしまいました。
文麻呂 (きっとなって)なにッ!
瓜生ノ衛門 (少々驚いて)おふみでございます。
文麻呂 いや、そんなことじゃない! 相手はどこの娘だと!
瓜生ノ衛門 竹籠作りの爺の娘でございます。この造麻呂(みやつこまろ)と云う爺は手前も少しは存じている男でござりまするで……
文麻呂 名前は何て云うんだって!
瓜生ノ衛門 讃岐(さぬき)ノ造麻呂でございます。
文麻呂 (苛立(いらだ)って)爺じゃないよ! 娘だ!
瓜生ノ衛門 娘の名は、たしか……さよう、……なよたけとやら申しました。
文麻呂 何ッ! なよたけ!
瓜生ノ衛門 (あまりに烈しい語気に呆気(あっけ)にとられる)
丘の上にはいつの間にやら、清原ノ秀臣が悄然(しょうぜん)として佇立(ちょりつ)している………
その豊かにたれた直衣(のうし)の裾(すそ)は烈しくも風にはためいている。不穏な竹林のざわめき。………
文麻呂 (丘の上の友の姿を認め)おい! 清原!……どうした!
清原 (泣かんばかりの悲痛な声で)石ノ上!………駄目だ、僕は。……僕はなよたけを怒らしてしまった。なよたけは怒って家の中に駆(か)け込んでしまった。………
文麻呂は身も軽々と丘の上に駆け上り、清原ノ秀臣の手をしっかりと握りしめる。風にはためく二人の直衣の裾。……風の音。竹林の烈しいざわめき。
文麻呂 元気を出せ! 清原! 元気を出すんだ! なよたけと貴様の恋は死んでもこの俺(おれ)が成就(じょうじゅ)させるぞ!……親父の名誉にかけて俺は誓う!
清原 石ノ上、有難う。……だけど、僕はもう駄目だ。……なよたけは本当に怒ってしまったんだ。………
文麻呂 何が駄目だ! おい、しっかりしろ! 勇気を出すんだ! そんなことでへなへな気が挫(くじ)けるようでどうする。……戦いはこれからだぞ。清原! 貴様の恋敵が分った! 貴様の恋敵だ! 誰だと思う?
清原 恋敵?
文麻呂 そうさ、清原。……貴様の手からなよたけを奪いとろうとしている憎むべき男がひとりいるのだ。
清原 (その言葉にきっとなり、………むしろ傲然(ごうぜん)と)それは誰だ!
文麻呂 大納言、大伴ノ御行だ。
清原 えッ!
文麻呂 (快心の微笑をもって)大伴の大納言様だよ。
清原 (全身の力、一時に消滅し、気絶するもののごとく、文麻呂の胸によろよろと倒れかかる。………)
文麻呂 (支えながら、狼狽(ろうばい)し)おい。清原! 清原! 清原!……衛門ッ!
烈しい強風の中に………
――幕――
第二幕――一幕より数日後
第一場
幽麗(ゆうれい)なる孟宗(もうそう)竹林を象徴的に描いたる上下幕の前で演ぜられる。
石ノ上ノ文麻呂、清原ノ秀臣、右手より登場。
清原ノ秀臣は文麻呂の後に従って、何やらそわそわと、ひどく落着きがない。云わば、気もうつろである
文麻呂 全く、こりゃすごい竹林だ。……これじゃ、方角も何も皆目(かいもく)分ったもんじゃないね。……大体、我々はこれで確かになよたけの家の方向へ進みつつあるのかい? 清原。……本当に確かなんだな?
清原 確かなんだ。
文麻呂 確かにこの竹林なんだろうな?
清原 これなんだ………
文麻呂 (頼りな気に)で、……なにかい? だいぶあるのかい、まだ?
清原 もうすぐなんだ。……あっちの方なんだ。
文麻呂 それなら、もういい加減にそろそろ見えて来てもいい頃じゃないか?
清原 ……ん、……でも、なよたけの家は竹林の真中にあって、竹で出来てるんだ。……だから、すぐ傍(そば)まで行かないと見えないんだ。
文麻呂 ふーん?……保護色なんだね?
清原 ん、……そうなんだ。
文麻呂は清原の煮(に)え切らぬ態度を不愉快(ふゆかい)に感ずる。励ますように………
文麻呂 どうだい、清原。それじゃこうしようじゃないか。つまり、なんだよ、……大納言がやって来るまでにはまだ少しばかり間がありそうだから、しばらく我々はここに腰を落着けて、待伏せしていようではないか? え?……時を見計って、決行するのだ。我々の方はすっかり覚悟は出来ているんだから、たとえ万一ここでばったりと大納言にぶつかったとしたって何等(なんら)狼狽(ろうばい)することはない。堂々と計画通りに我々の初志を貫徹するまでの話だ。なあ。清原。そうだろう!
清原 (自信なさそうに)うむ………
文麻呂 まったく煮え切らないね、君と云う奴は。……それだからみんなに云われるんだよ。当節の若い学生はなんだかんだって。……口先だけで屁理窟(へりくつ)をこねるのがいくら巧(うま)くたって、実行力のない人間はあるかなきかのかげろうだ。なあ。そうだろう?
清原 うむ………
文麻呂 僕は君に限ってそんな意気地のない男とは信じたくないんだ。君だけはそう云う軟弱な知識階級の若様連中と同列に置きたくないんだ。分るだろう?
清原 うむ………
文麻呂 (苛々(いらいら)して)さあ、清原。坐ろう、坐ろう! 坐って大納言を堂々と待伏せするんだ! (ぺったりと坐る)……坐れよ!
清原 (渋々(しぶしぶ)と彼の隣に坐る)
長い、気まずい沈黙。
文麻呂 (沈滞した空気を振払(ふりはら)うように)ああ、何と云う静けさだろう。………ねえ、清原。ほら。聞えないかい?……時々、あちこちから、かさかさ、かさかさって妙(みょう)な音が、まるで神秘な息づかいのように聞えて来るんだ。………
清原 (あまり感興もなさそうに聞く)
文麻呂 (慎重に、耳を澄まし)ねえ、おい。……あれは一体何だろう?
清原 (しごくあっさりと)竹の皮が落ちてるんだ。………
間――
文麻呂 そうか……若竹がすくすくと成長して行く音だったんだな? ひそやかな生成の儀式のかすかな衣(きぬ)ずれの音だったんだな?
清原 (さり気なく)竹が囁(ささや)いてるんだ。……………
間――
文麻呂 (情無さそうに清原を凝視(みつ)め、ややあって)清原。……君は変っちまったねえ。つくづく僕はそう思うよ。本当に変っちまった。……
清原 (文麻呂にあまりまじまじと見られるので、何だか恥しそうにする)………そうかな?
文麻呂 うん。変った。……第一、言うことに飛躍(ひやく)がなくなった。弾力がなくなった。知性の閃(ひらめ)きがなくなったよ。……「竹が囁いてるんだ……」。情無いことを云うじゃないか。……まるでもう君は萎(しな)えうらぶれている。……以前のあのうち羽振(はぶ)く鶏鳴(けいめい)の勢いは皆無だ。剣刀(つるぎたち)身に佩(は)き副(そ)うる丈夫(ますらお)の面影(おもかげ)は全くなくなってしまった。
清原 (急に心配そうに)石ノ上……。僕あね、心配なんだよ。僕達のこの計画がかえってなよたけを怒らしちまうんじゃないかと思って………
文麻呂 また!……僕はもう、そんな意気地のないことを云うんだったら、君に構わず自分だけで勝手にどんどん事を運んでしまうぜ。……何度も云ったけど、これは確かにこの上もない天の配剤なんだ。君の目的と僕の目的が全く一致する……これは単なる偶然じゃないんだ。僕はそう確信している。これは天が我々に味方したんだ。……そうは思わないかい?
清原 うむ………
文麻呂 (苛々(いらいら)して)さあ、元気を出そう、元気を! 天が与えてくれたこの機会を利用しなければ、君の恋も、僕の復讐(ふくしゅう)も、一生涯(いっしょうがい)実現出来ないようなことにならないとも限らないんだぜ。さあ! 肚(はら)を落着けて待とう、待とう! 大納言を恋と名声から失脚させるには我々の智慧(ちえ)の外に、最大の勇気と云うものを必要とするんだ。何よりもまず第一に肚だ。肚を落着けて、心静かに待とうじゃないか!……何でえ、しっかりしろよ! (いきなり両手で両膝(りょうひざ)を抱え込む)
清原 (……これも文麻呂の真似(まね)をして、両膝を抱え込む)
長い、気まずい沈黙。
文麻呂 (再び沈滞した空気を振払うかのように)ああ、とにかくこれはすごい竹の木だな。……それにしても、この素晴らしく延びた幹はどうだ。……ねえ、清原。こいつは確か孟宗竹(もうそうちく)と云う奴だよ。話によるとこの竹の苗は奈良朝の初期に唐(から)の国から移植されたものらしいんだが、三百年足らずの間にどうだ、この東の国の一劃(いっかく)にも、このように幽麗な叢林(そうりん)を形成してしまったのだ。……まるで、もうここはあの国の幽邃境(ゆうすいきょう)だ。……深遠な唐国(からくに)の空気がそのままに漂っているではないか。……何と云う神秘な静寂だろう。僕は今、このような竹林の中で想を練ったと云うあの七人の賢者達のことを想い浮べている。………(沈黙)
(ひとりで恍惚(こうこつ)として)
独リ坐ス幽篁ノ裏 弾琴復タ長嘯
深林人不レ知ラ 明月来リテ相照ス
(独り言のように)……竹里ノ館か、……知ってるだろう? 王維(おうい)の詩だ。
清原 (一向に聞いていない。頭の中は心配だけ)
文麻呂 こんな素晴しい神秘の境で、燦(きら)めく恋の桂冠(けいかん)を獲得しようと云う君は全く幸福だ。また、同時に同じ場所で父の仇敵を思いのままに辱(はずか)しめてやれると云うこの僕も幸運だ。……云わばここは我々が幸運の星にめぐり逢うと云う秘(ひ)められたる場所だ。天が我々に与えたもうた恵(めぐ)みの扉(とびら)だ。……扉は今や開け放たれねばならない。
清原 (突然すっくと立上り)そうだ! 僕、いいこと考えた!
文麻呂 (呆(あき)れて彼を見上げ)何だい、また? どうしたんだい、清原?
清原 ね、石ノ上。いいことがあるんだよ。なよたけの家のすぐ傍にね、竹籠(たけかご)の納屋(なや)があるんだ。僕達はこれからそっとそこへ行って、気付かれないようにその納屋ん中へ隠れるんだ。そうして内から様子(ようす)を伺(うかが)ってて、大納言様を待伏せするんだ。大納言様がいらっしゃってなよたけに何かいけないことをなさろうとしたら、そしたら、僕達はすぐに飛出して行って……やっちまうんだ。やっつけちまうんだ。それがいいよ。ね。それがいいよ。さあ、石ノ上! (先に立って、左の方へどんどん行く)
文麻呂 (呆気(あっけ)にとられたように聞いていたが、渋々と立上り)……そりゃ、君がその方がいいと云うんなら、それでもいいさ。この辺の地理的な状況はそりゃ君の方がずっと詳(くわ)しいんだし………
清原 (どんどん早足で行きながら)さあ、早く、早く! 早くしたまえ! 石ノ上! 早くしないともう大納言様が来てしまわれる………(左手に消える)
文麻呂 (その後を渋々と追いながら、ぶつぶつと)何も行かないとは云ってやしないよ。そりゃ僕にはこの辺はどうも勝手がよく分らないんだし、……君の云うことをどうのこうのと云ったって、なにも別に………(突然、立止り、左の方を睨(にら)むようにして、大声で怒鳴る)
おい! 待てッ! 清原! 落着け!
――(溶暗)――
第二場 (幕間なし)
竹取翁(たけとりのおきな)、讃岐(さぬき)ノ造麻呂(みやつこまろ)が竹籠を編みながら唄(うた)う「竹取翁の唄」が次第に聞えて来る。なよたけの弾く和琴(わごん)の音が美しくも妙(たえ)にその唄の伴奏をしている。わらべ達の合唱が、時々それに交る。
〔竹取翁の唄〕
竹山に 竹伐(き)るや翁(おじ)
なよや なよや
竹をやは削(けんず)る 真竹やはけんずる
けんずるや 翁(おじ)
なよや なよや
〔わらべ達の合唱〕
なよや なよや なよや
〔竹取翁の唄〕
竹山に 竹取るや翁(おじ)
なよや なよや
竹をやは磨(みんが)く 真竹やはみんがく
みんがくや 翁(おじ)
なよや なよや
〔わらべ達の合唱〕
なよや なよや なよや
〔竹取翁の唄〕
竹や竹 竹の山
その竹山に 竹籠をやは編まむ
なよ竹籠をやは編まむ さら さら
さらさらに わがな 我名は立てじ
ただ竹を編む よろずよや
万世(よろずよ)までにや ただ竹を編む
さら さら さら
〔わらべ達の合唱〕
なよや さら なよや さら
なよや さら さら さら
唄の途中から、上下幕が静かに上る。
幽麗なる孟宗竹林に囲繞(いじょう)せられたる竹籠作り讃岐ノ造麻呂の家。
舞台右手には、その家の一部。土間と居間がある。すべて竹で意匠(いしょう)せられている。
奥手は一面、無限と思われるほど、深邃(しんすい)なる孟宗竹林、その中を通って、左の方へ小路が続いている。
舞台一面、耀(かがや)く緑の木洩日(こもれび)に充(み)ち溢(あふ)れている………
家の土間には、造麻呂が坐り込んで「唄」をうたいながら青竹を籠に編んでいる。
その背後には六人のわらべ達が並んで立っている。なよたけの和琴の音は、右手の竹簾(たけすだれ)の向うの奥の間から聞えて来るらしい。………
「唄」が終ると、なよたけの弾(ひ)いている美しい和琴の音だけがひびき残る。………老爺(ろうや)はさらさらと竹籠を編んでいる。
わらべ達も黙ってそれをみている。
造麻呂 (ふと、編む手を止めて、不審(ふしん)そうに)おや? 何じゃ? 裏の納屋(なや)の方で妙な音がしなかったかな?
わらべ達 (きょとんとしている)
造麻呂 なよたけ!
なよたけの琴の音、止む。
造麻呂 ……お前、今、裏の納屋の方で妙な音が聞えなかったかい?
なよたけ (声のみ)……いいえ。
造麻呂 なんだか確かに聞えたような気がしたんだが………
なよたけ (声のみ)またりすの子がゆすらうめの実でも食べに来たんでしょう。
造麻呂 (半ば独白)……りすならいいんだが、……この頃は都の人間たちまでが、この辺にうろうろし出したからな。(再び籠を編み始める)………物騒(ぶっそう)でしようがない。
沈黙――
なよたけ (声のみ)雨彦!……お前、ちょっと行ってみて来てごらん!
雨彦と呼ばれた少年は「ん」と云って、一目散に裏の方へ駆(か)けて行く。他のわらべ達は一様に彼を見送って、何か心配そうにしている。
雨彦、しばらくして、また一目散に駆け戻って来る。
雨彦 誰もいない。りすもいない。ちゃんと戸が閉まってる。
造麻呂 ふむ、………儂(わし)の空耳だったのかな?……どうも、年をとってしまったもんじゃ。
造麻呂は再び一心に竹籠を編み始めた。またなよたけの琴がなり始める。……同時にわらべ達は一様に退屈(たいくつ)し始める。
こがねまる (つまらなそうに)……なよたけ! また外へ出て遊ばない?
みのり(少女) 出ておいでよ、なよたけ!
けらお なよたけ! お出でったら!
胡蝶(こちょう)(少女) なよたけ! 今のうちじゃないと、またお天気が悪くなるわよ!
蝗麻呂(いなごまろ) ほら! 来てごらん! お日様を邪魔(じゃま)する雲がひとつもないや!
雨彦 なよたけ! 竹林はとても静かだよ! 今日も悪いことは何も起りゃしないよ!
けらお おいでよ! おいでったら!
わらべ達 (一緒に)おいでよ! おいでよ!
こがねまる 琴なんていつだって弾(ひ)けるじゃないか!
みのり そうよ、そうよ!
なよたけ、一向に返事をしない。
けらお (ひねくれて)なよたけのあんなあな!……(他の者を誘う)おい、みんなも云えよ、なよたけはあんなあなだい!
他のわらべ達、黙っている。
けらお なんだい。みんなも一緒に云えったら。……(大声で)なよたけのあんなあな! なよたけのあんなあな!
造麻呂 うるさい子だね。
竹簾(たけすだれ)が上った。その向うになよたけが立っている。田舎娘だが、天使のごとき清楚(せいそ)な美しい少女である。
雨彦 あ! なよたけだ!
わらべ達 (悦(よろこ)びに心震(ふる)えて。思い思いに)なよたけ! なよたけ!………
こがねまる ね、行こう!
蝗麻呂 さ、行こう!
けらお 遊びに行こう!
二、三の者は戸外に駆け出る。
なよたけ (草履(ぞうり)をはきながら)静かにしなければ嫌(いや)。うるさくする子はもう遊んであげない。……お父さん。また、みんなと一緒に遊びに行って来るわ。
造麻呂 (仕事を続けながら)あんまり遠くへ行ってはいけないよ。……春になってからと云うものは、お前のお尻(しり)をつけねらう色男が四人や五人じゃきかないんだから。……まったく物騒と云ったらありゃしない。
なよたけ すぐその辺。
なよたけ、老爺(ろうや)の背後を通って、左手の小路へ出る。わらべ達は嬉しそうになよたけのまわりを取囲(とりかこ)む。
蝗麻呂 ねえ、どこへ行こうか、なよたけ!
こがねまる また街道の見えるとこがいいや!
なよたけ 今日は遠いところは駄目(だめ)よ。あんまり遠くへ行くと、みんなまた晩御飯を食べそこなってしまうわ。
けらお ちぇッ! つまんねえの!
なよたけ またお前は我儘(わがまま)を云う。……云うこと聞かないんなら、帰ってしまうわよ。
わらべ達 (けらおを除き)いやだ! いやだ!………
なよたけ お前でしょ、けらお。さっきあたしのことをあんなあなって云ったのは?
胡蝶 けらおよ!
みのり けらおよ!
けらお (ひとり、不貞腐(ふてくさ)れている)……おらだい。
間――
なよたけ 駄目ねえ、お前は。……お前のお家は一番都に近いから、街の子供達が誘いに来ると、すぐ一緒に行ってしまって、一日中帰って来ない。昨日(きのう)もお前また都へ下りて行って、悪い子供達と遊んで来たんでしょ?
けらお 悪い子じゃないやい!
なよたけ 悪い子よ! 都の子供はみんな悪い子よ! みんな悪いあんなあなに取(と)っ憑(つ)かれてるのよ。あんな子供達と一緒に遊ぶから、けらおはいつまで経(た)っても本当にいい子になれないんだわ。
けらお (なよたけを無視して)面白いぞイ! みんなも来いや! 賀茂(かも)川の橋の下で石合戦して遊ぶんだ! 勇ましいぞイ! おら敵の大将に石ぶつけて、泣かしちまったんだ。みんな、おらが一番強いって紙の兜(かぶと)をかぶしてくれたイ。おら、大将だ。一番強え大将だ!
こがねまる おい、けらお。……おらもいれてくれるかい?
なよたけ 駄目よ! 都へなんか行っちゃ。……けらおの云うことはみんな嘘(うそ)よ。都へなんか行ったってちっとも面白かないわ。大将なんかになって何が面白いの? 都には悪い友達がたくさんいるのよ。みんな都へなんか行きたくないわねえ? けらおはひとりでお行き!
けらお ちぇッ! なよたけは行ったことがないもんで、あんなこと云うんだ! 都は面白いぞイ! 悪い子なんかいねえぞイ!
なよたけ さあ、みんなまた唄をうたって、遊びに行こう! みんなお唄い!
けらお 何でえ。こんな狭(せま)っくるしい竹藪(たけやぶ)ん中で遊んだって、ちっとも面白かねえや! 都へ行きゃ、綺麗(きれい)な御所車(ごしょぐるま)が一杯通ってるんだぞ! 偉い人はみんな車に乗って御殿に行くんだ! 綺麗(きれい)な着物を着て、みんながお辞儀(じぎ)をするんだ! いいぞイ! 綺麗だぞイ!
なよたけ お唄い!
わらべ達唄をうたい始める。なよたけの後を取巻くようにして、左方へ歩いて行く。けらおは、ひとり、不貞腐(ふてくさ)れて後からついてくる。
(舞台、徐々に移動。あたりは一面竹林になる。遠近(おちこち)に小鳥の声がし始める)
〔わらべ達の唄〕
なよ竹やぶに 春風は
さや さや
やよ春の微風(かぜ) 春の微風
そよ そよ
なよ竹の葉は さあや
さあや さや
なよ竹やぶに 春の陽は
ほか ほか
やよ陽(ひ)の光 陽の光
ほこ ほこ
なよ竹の葉に ほうか
ほうか ほか
こがねまる (突然、地べたにしゃがみこみ)あ! 毛虫だ!
けらお (駆け寄って)やっつけちゃい! やっつけちゃい!
こがねまる (足で踏みつぶす)こん畜生(ちくしょう)ッ!………
なよたけ (険(けわ)しい顔)こがねまる!
こがねまる (びっくりして、顔を上げる)
なよたけ (情無さそうに)お前はもう忘れちまったの?……どうして、そう罪のないものを殺そうとしたりするの? 毛虫がお前に何か悪いことでもしたの? しようのない子ねえ。それじゃ、今までに教えて上げたことがみんな台無しじゃないの。………
けらお つぶれちゃったイ。
こがねまる (後悔(こうかい)して)……もう死んじまった。
皆、無言で毛虫の死骸(しがい)を凝視(みつ)めている、しばらくは粛然(しゅくぜん)たる沈黙。
なよたけ こがねまる!……お前のしたことをようく考えてごらん。……お前には毛虫の言葉が聞えたの? 「あたしを殺して下さい。」って毛虫がお前にそう云ったの?
こがねまる (うなだれたまま、首を横に振る)
なよたけ (険しく)こがねまる!……お前にも悪いあんなあなが取(と)っ憑(つ)いてしまったわ。
皆、気味悪そうにこがねまるを凝視める。
雨彦 けらおが都から連れて来たんだ!
胡蝶 (なよたけにすがりつき)なよたけ、……あたし、こわい!
みのり (これもすがりつき)あたしもこわい!
こがねまる、烈しい泣きじゃくりを始める。
けらお おらじゃねえよ! おらじゃねえよ!
蝗麻呂 けらおのあんなあな!
雨彦 こがねまるのあんなあな!
なよたけ お前達は黙ってなさい!……(近寄って、優しく)こがねまる。……お前はただ、ちょっと忘れちゃってたのねえ? うっかりしてて、自分の悪いことに気がつかなかったのねえ? そうでしょう?
こがねまる (うなずく)
なよたけ じゃ、いい? こがねまる、……毛虫は大きくなったら何になるんだったかしら?
こがねまる (泣きじゃくりながら)……蝶々(ちょうちょ)……
なよたけ そうね。……じゃ、こがねまるは蝶々が好きじゃないの?
こがねまる (首を横に振る)好き……
なよたけ じゃ、その蝶々をなぜ殺したの? 毛虫を殺すのは蝶々を殺すのと同じことでしょ?……御覧(ごらん)! 可哀(かわい)そうに……今は毛むぐじゃらで、あんまり可愛(かわい)らしくないけど、もうすぐさなぎから美しいあげはになって、今度は広いお空をひらひら飛ぶことが出来たのに!……綺麗(きれい)なあげはにもなれないでこんな毛むぐじゃらのまま死んでしまった。……
こがねまる (おいおい泣く)
なよたけ 分ったでしょ? こがねまる……分ればいいの。毛虫を殺したのはこがねまるじゃなくて、悪いあんなあなだったのね?……こがねまるだってけらおだって、誰だって本当はみんないい子なのよ、とてもいい子なのよ。こんなにいい子なのに悪いことをするのは、知らぬ間にあんなあながお前達に取憑(とりつ)いてしまうからよ。さあ、もう泣くのはお止め!……お前のその涙が立派な証拠(しょうこ)だわ。自分の悪かったことに気がつきさえすれば、もうそれでいいの! 死んだ毛虫さんもきっと許してくれるに違いないわ! さあ、こがねまる。泣くのはお止め! お前はもう悪い子じゃなくなったの!
けらお (頭上を見上げ、突然、一種の畏怖(いふ)にとらわれたように叫ぶ)あッ! 蝶々だ! 蝶々だ! あんなにたくさんあげはが飛んで来た!
右手の方から、無数の蝶が、群をなして飛んで来たらしい。皆いっせいに頭上を見上げる。
雨彦 あ!……こがねまるが毛虫を殺したんで、怒ってやって来たんだ!
蝗麻呂 こがねまるをうらみにやって来たんだ!
けらお (叫ぶ)おらじゃねえよ! おらじゃねえよ! 毛虫を殺したのは、おらじゃねえよ!
こがねまる (助けを求めるように、泣声で)おら、本当に殺そうとしたんじゃないやイ。……おら、あんなあなに騙(だま)かされたんだイ。知らない内にいつの間にか殺しちまったんだイ。……おら、毛虫が憎(にく)らしくも何ともなかったんだ。……知らねえ内にあんなあながおらの足にのりうつっちゃったんだ。おらがつぶしたんじゃないやイ。……あんなあながつぶしちゃったんだイ。おら、何にも知らねえうちに……
けらお 行っちゃったよ。
蝶の群、左の方に消えたらしい。みんな、遠く左方を見上げてほうとしたように立っている。
間――
胡蝶 (ふと、地面を見て)あらッ! みんな見てごらん! ほら毛虫さんが動き出したわ。………
みのり あ! ほんとだ! 毛虫さんが生き返った。……
こがねまる (悦(よろこ)びに溢(あふ)れて)なよたけ! 毛虫は死んじゃいないや! ほら! ひょこひょこ歩き出したよ!……なんだ、こいつ死んだ真似(まね)してたんだな。………
なよたけ (嬉しそうに)そうじゃないわよ。……お前が悪かったことに気がついて、本当のことをちゃんと白状したから、お天道(てんとう)様が生き返らせて下さったのよ。きっと、そうよ。お天道様はいつでもいい子の味方をして下さるんだわ。悪いことをしても、ちゃんと白状して、自分で本当に悪かったと思えば、いつでも許して下さるのよ。……御覧! お天道様があんなにきらきら輝き始めた。……お天道様はいい子のいる所だけしか輝かないの。悪い子が一人でもいると、御機嫌が悪くなって、曇ってしまう……。みんな、あんなあなに取っ憑かれて、悪いことをしたら、すぐに白状して、心を入れかえるのよ。分った? そうすれば、お天道様はいつでもあたし達から悪いあんなあなを追っ払って下さる。……あんなあながいなくなってしまえば、世の中がどんなにしあわせになるか分らないわ。そうすれば、もうあたし達は、つまらない事で一々あやまったり、心を入れ代えたり、こせこせ気を使ったりする必要はちっともなくなるのよ。……御覧! この数え切れない竹の木のどれにだって、あんなあなはちっともいないのよ! いつまでもいつまでも緑色に輝いて、……お天道様のおっしゃる通りにじっと身を委(まか)せている。……お天道様と同じ心を持って、しあわせで一杯になっている。……お前達もあたしもみんなこの竹の林の中に生れた。この竹の林の中で育った。あたし達はきっといまにこの竹の林の中で、とてもしあわせになれるのよ。あんなあななんてもうどこにもいなくなって、……どうしたらいいのか分らなくなるようなしあわせがやって来るのよ。
さまざまな小鳥達が思い出したように美しい声で囀(さえず)り始めた。
春の陽光は眼覚めるばかりにその輝きを増し、緑色の木洩日(こもれび)の耀(かぎろ)いは一段と鮮(あざ)やかになって行く。子供達は何やらみな一様に眼を輝かして、太陽を仰ぐ。
なよたけ 御覧!………ほら。あのお天道様のいらっしゃる限りもなくひろいひろいお空は、あたし達のいるこの竹林にまでずーっと続いて来ているのよ。あたし達はみんなお天道様のもの。なんでもかんでもみんなお天道様が創(つく)って下さったものよ。この数えきれない竹の木も、地面からにょきにょき生えて来るたけのこも、……雨彦! (指さして)ほら、あっちの方でちゅくちゅく鳴いている鳥はあれはなあに?
雨彦 目白! (目白の鳴声、一段と高く、ひとしきり)
なよたけ 蝗麻呂(いなごまろ)! (指さして)じゃ、向うの方でちゅんちゅん鳴いてるのは?
蝗麻呂 やまがら! (やまがらの鳴声、一段と高く、ひとしきり)
なよたけ こがねまる! こっちの方で、ひーよひーよって鳴いてるのは?
こがねまる ひわ! (ひわの鳴声、一段と高く、ひとしきり)
なよたけ けらお! 今度は、ほら、あっちの上の方で、ちちちち ちろろって鳴いてるのは?
けらお ほおじろだイ。(ほおじろの鳴声一段と高く、ひとしきり)
なよたけ 胡蝶(こちょう)! ほら、ほら!……向うの方からぶーんぶーんってこっちへ飛んで来る小さなものはなあに?
胡蝶 あ! みつばち! みつばち! みつば………
なよたけ 逃げなくったって大丈夫! こっちでおいたをしなければ蜜蜂(みつばち)は決して刺(さ)したりなんかしないわ。……ほら、行ってしまった。……蜜蜂さん!……綺麗(きれい)なお花の咲いてる処(ところ)には悪いあんなあながたくさんいるからお気をつけ!
みのり (突然、不可解そうに)なよたけ! なよたけ! あれは何! ほら! あれは何!(空中を指さしている)
なよたけ どこ?
みのり ほら! そこにほら!……飛んでいる。
なよたけ ……見えないわ。
みのり (飛び上って、空中から何かをつかむ)
なよたけ 何を捕(と)ったの、みのり?
みのり (掌(てのひら)をひろげてみせる)
わらべ達も、みんなのぞき込む。
雨彦 なんだ。……たんぽぽの種子(たね)だ。
なよたけ まあ、新しいたんぽぽを咲かせるために、ちいさい種子がこんな処(ところ)まで飛んで来たのね。……みのり! 空へお飛ばし! お天道様が一番いい所へ連れて行って下さるわ。
みのり (空へ向って吹き飛ばす)
みんな、嬉しそうに、たんぽぽの種子の飛んで行く方を見上げる。
なよたけ 飛んで行け! 飛んで行け! 微風(そよかぜ)に乗って飛んで行け!……誰(だれ)も知らないしあわせな所へ飛んで行って、綺麗なお花を一杯咲かせておくれ!
わらべ達、その行方を見上げながら、誰からともなく「唄」をうたい始める。
〔わらべ達の唄〕
なよ竹やぶに 春風は
さや さや
やよ春の微風(かぜ) 春の微風
そよ そよ
なよ竹の葉は さあや
さあや さや
なよたけ みんな御覧(ごらん)! ほら! 竹の梢(こずえ)に、陽炎(かげろう)がゆらゆら揺れている。……この竹の林は、何でもかでも、お天道様のお恵みで一杯だわ。小鳥達も、蝶々も、蜜蜂も、たんぽぽも、みんなお天道様のおっしゃる通りに、本当に素直に生きてるのよ。人間達みたいに騙(だま)したり騙されたりすることがないの、嘘をつくってことがないの。間違ったことを言ったりしたりすることがないの。……ああ、こんな限りもない広い天地の中にいて、どうして人間達はみんなこせこせしたつまらないことばかりするんでしょうね! 自分では何にも気がつかないで、困った間違いばっかりやっている。油断をすると、すぐあんなあなに取(と)っ憑(つ)かれて、後になって言訳ばかり云っている。……本当にお天道様が御覧になったらどんなにおかしいでしょう! どんなに悲しいでしょう! けらお! 正直にあたしに答えてごらん!……お前、ほら、いつだったか、おけらの足に糸をつけて、玩具(おもちゃ)の車を引張らしてたことがあったわね?
けらお うん。
なよたけ あんなこと、誰がやらしたの?
けらお ………
なよたけ え? 云ってごらん! あんなこと誰がやらしたの?
けらお あんなあなの奴だイ。
なよたけ そうね。けらおはあんなことするはずはない。……お天道様を拝(おが)める子があんなことをするはずがないわ。……さあ、みんなも白状してごらん! あんなあなに取っ憑かれて、どんな悪いことをしたか。思い出してすっかり白状してごらん!……悪いことは悪かったってちゃんと白状しないとお天道様は許して下さらないわよ。……さあ、雨彦! お前から云ってごらん! お前はどんなことをしたっけ!
雨彦 (躊躇(ちゅうちょ)する)……………
なよたけ さあ、正直に云ってごらん!
雨彦 ……僕、……青蛙(あおがえる)の皮をむいて、赤蛙だよって云って、みんなにみせた。……
なよたけ 恐しいこと!……じゃ、みのり! お前はどんなことした?
みのり あたし、去年の冬、蓑虫(みのむし)を真裸(まっぱだか)にして、冷い雪の上に捨てちゃったの。
なよたけ 無慈悲(むじひ)なこと!……蝗麻呂! お前は?
蝗麻呂 僕、蝗をたくさんとって来て、片っ端からお醤油(しょうゆ)をつけて焼いて食べた。……
なよたけ まあ、むごたらしい!……そんなことをするから、後の世の人達が食べなくてもいいものまで食べるようになってしまうんだわ。……じゃ、こがねまる! お前は?
こがねまる (非常な躊躇)……おら、……おら、……
なよたけ いいから、云いなさい!
こがねまる おら、……いつだったか、お薬鑵(やかん)の中に黄金虫(こがねむし)を一杯つめ込んで、……お湯をかけて、焚火(たきび)で沸(わ)かして、……「煎(せん)じ薬」だよってごまかして、胡蝶に飲ましちゃったイ。
胡蝶 (急に思い出して、火のついたようにおいおい泣き出す)
なよたけ 胡蝶! 泣かなくってもいいの! もうこがねまるはあんな悪いことは二度としないわね?
こがねまる (素直に)ん、……しない。
なよたけ 胡蝶! こがねまるはもうしませんって! さあ、胡蝶! お前は? お前はどんなことをしたんだっけ?
胡蝶 (涙を拭(ふ)き拭き)……あたし……あたし、……蝶々の翅(はね)で、……髪かざりを作ったの。(またおいおい泣き出す)
なよたけ いいの。いいの。昔、悪いことをしたって、今ではもうお前の中にはあんなあなはいなくなったんでしょ!
胡蝶 ん、……いない!
なよたけ みんなにももういないんでしょ?
わらべ達 (一緒に)ん、……いない!
なよたけ (嬉しそうに)さあ、それじゃ、もういいの!……みんなの「心」は今とても透(す)き通っている。心の底までお天道様の光が射し込んでるわ。……いつまでもこのままでいるのよ。もう二度とつまらないことはしないようにするのよ。悪いことばかりしてる人は、死んでからお月様の所へも行かれないし、来る世も来る世も、小鳥や虫に生れ変って、いつまで経(た)っても、悪いあんなあなに苦しめられるだけよ。……そんなことって嫌(いや)でしょ? お前達はみんな死んだらお月様のところへ行きたいんでしょ?
わらべ達 (銘々(めいめい)に)うん、行きたい! 行きたい! 行きたい!
なよたけ さあ、それじゃ、またみんな一生懸命にお天道様にお祈りしましょう! じゃ、いい? みんないつもの通り、そこんところにずっと並んで頂戴(ちょうだい)!
わらべ達はそう云う習慣があるらしく、竹林の方に向って、一列に並ぶ。なよたけはその二三歩前に立つ。
なよたけ みんなきちんとして、心をきれいに澄まして、もう余計なことは考えちゃ駄目よ。……けらお! お前何をしてるの?
けらお ぶよが刺(さ)したんだイ。(足をぼりぼり掻(か)いている)
なよたけ お前はどうもあてにならないわね。けらお、お前にも本当にあんなあながいなくなったんでしょうね?
けらお ん、いねエ…………
なよたけ もう都の子供と石ぶつけなんかして遊びたがっては駄目よ。
けらお ん、あそばねエ…………
なよたけ さあ、それじゃもうここにはあんなあなはひとりもいなくなった!……もう悪い子はひとりもいなくなった!……みんな黙って、静かーに、お天道様を拝んでごらん! そうして、みんな心の中で何度も何度も云ってごらん! あたし達はみんなお天道様の子です! あたし達はみんなお天道様の子です! あたし達はみんなお天道様の子です………
小鳥達の囀(さえず)る声が、急にその数を増して行き、あたかも「交響楽」のように交錯する。緑色の耀光(ようこう)が神秘なまでに充(み)ち溢(あふ)れて行く。…………突然、あっと思う間に、陽光が翳(かげ)ってしまう。……小鳥の声もぴたっと止んでしまった。
なよたけ あら? 変ねえ。……どうしたのかしら?
雨彦 (耳を澄まして)あ! 遠くで竹林がざわざわ鳴り出したよ!
蝗麻呂 (左手を見やり)なよたけ! 都の悪い人がやって来た! ほら!
皆、いっせいに左の方をみる。
こがねまる あッ! またあの人だ! なよたけをさらいにやって来た!
けらお ひとさらいのあんなあなだ!
みのり (怖(こわ)がって)なよたけ! はやくお家へお帰りよ!
雨彦 ね! お家にかくれて、黙って琴をお弾(ひ)きよ!
胡蝶 なよたけ! さあ! 早く、早く!
(舞台、再びもとの通りに移動)
なよたけ、家の土間の中へ駆け込む。
なよたけ お父さん! またいつもの変な人がやって来たのよ。うまく追い返して頂戴(ちょうだい)!
造麻呂、黙ってうなずき、素知(そし)らぬ顔で竹籠(たけかご)を編み続ける。なよたけ、竹簾(たけすだれ)を下して、右手奥の部屋に消える。
けらお (空を見上げ)悪い雲がやって来たぞイ! お天道様の御機嫌が悪くなって来たぞイ!
蝗麻呂 冷い風が吹いて来た!
みのり 小鳥もみんなどこかへ行っちゃった!
胡蝶 あたしお家へ帰ろう!
雨彦 みんな、お家へかくれて待ってよう!
こがねまる おい! じゃ、みんな、またあとでな!
わらべ達 (思い思いに)またあとで! またあとで! またあとで!………
わらべ達、散り散りばらばらに消えてしまう。竹の林がにわかにざわざわと鳴りひびき始めた。……あたりは急に曇って薄暗くなってしまった。なよたけの琴の音が、右手の方から聞えはじめる。………
大伴(おおとも)ノ御行(みゆき)、粗末な狩猟(かり)の装束(しょうぞく)で、左手より登場。中年男。荘重(そうちょう)な歩みと、悲痛(ひつう)な表情をとり繕(つくろ)っているが、時として彼のまなざしは狡猾(こうかつ)な輝きを露呈(ろてい)する。………
しばらくは外で躊躇(ちゅうちょ)しているが、思い切ったように土間の敷居(しきい)の所に姿をあらわす。
御行 こんにちは、……お爺(じい)さん。
造麻呂 (ちょっと会釈(えしゃく)を返して、後は素知らぬ顔で、竹籠を編んでいる………)
間――
御行 先日の手紙(ふみ)は、……あのひと……読んで下さいましたか?
造麻呂 (相変らず仕事を続けながら、冷淡に)さあ、どうですか、……まあ、渡すには渡しときましたがね。……何せまだ字もろくに読めないほんの田舎者(いなかもの)の小娘でござりまするで、……大層綺麗(きれい)な紙に書いて下さった、と云って、いやもう、とても喜びましてな。(大納言、嬉し気な表情)昨夜(ゆんべ)、あれの部屋に行って、ふと何気なく見ましたところが、お手紙(ふみ)は鶴(つる)に折られて、天井(てんじょう)からぶるさがっておりましたじゃ。
御行 (きわめて情無さそうな表情。しばし当惑(とうわく))
なよたけの弾く琴の音。
御行 (琴の音に気付き)……あの琴は、……あれは、あのひとですね?
造麻呂 へえ………
琴の音。長い間。
御行 (もはや耐(た)えかねたような詠嘆調(えいたんちょう)にて)ああ、何と云う妙(たえ)なる楽の音だ。……これが、このあじけない現世(うつしよ)のことなのだろうか?………いいや、これはもう天上の調べだ。私にはあのひとの白魚(しらうお)のようにかぼそい美しい手が眼(ま)のあたりに見えるようだ。あのひとの月のように澄みきった心が隈(くま)なく読めるようだ。……あれこそは、あのひとの清らかな魂がこの汚れ多い現世に、天の調べを伝えてくれるのです。
造麻呂 それほどでもござりませぬ。
御行 (深い溜息(ためいき)と共に)なよたけ………
琴の音。間――
御行 (突然、つかつかと土間に入って来る。衝動的(しょうどうてき)に)お爺さん! 私はもうこれ以上我慢が出来ません! 私は私の思った通りのことをします! なよたけは私のものです! なよたけは私が貰(もら)います! なよたけを私に下さい! なよたけは私の妻です! なよたけは……
造麻呂 (きっぱりと)いけましねえ。
御行 いけない?………(調子を変えて、今度は妙(みょう)に哀(あわ)れっぽく)ねえ、お爺さん。………これはまあ、むかしむかしの笑い話だと思って聞いて下さい。………あるところに、心まずしい哀れな男がひとりいたのです。……身はやんごとない家柄に生れは致したものの、空しい孤独の男でした。……侘(わび)し過ぎました、あまりにも侘し過ぎました。………
琴の音。
下人(しもびと)の憧(あこが)れる、華かな詩歌管絃(しいかかんげん)の宴(うたげ)も、彼にとっては何でしたろう? 移ろい易(やす)い栄華(えいが)の世界が彼にとっては何でしたろう? 花をかざして練り歩く大宮人(おおみやびと)の中に、ただ彼のみは空しくもまことのこころを求め続けていたのです。美しい夢を追い続けていたのです。
琴の音。
(夢みるように)……遠い、遥かな夢の野に、あてどもなく、涯(はて)しもなく、ただ彷徨(さまよ)いあるく彼でした。………
うつせみの世は
花まごうみやびとに
まことのこころ
いかでもとめむ……………
苦しい旅路でした。耐え難くもすさぶ心を抑(おさ)えながら、昨日は西、今日は東とさすらい求めていたのです。本当に苦しい、それは忍従そのものでした。
琴の音。
(次第に激して行く)それが、どうでしょう。ねえ、お爺さん、とうとう報いられたのです。今こそ、まことのこころを持った女(ひと)にようやく廻(めぐ)り逢うことが出来たのです。本当に永い苦労の仕甲斐(しがい)があったと云うものです。その女(ひと)こそ、彼が永い間、探し求めて止まなかった理想の妻だったのです。……それは、まるで白菊(しらぎく)のように清らかな女(ひと)でした。輝やかしい姫君(ひめぎみ)でした。彼は夢中になりました。我と我が心を失ってしまいました。……ねえ、何の不思議がありましょうか? その女(ひと)を得られなかったら、それこそその男は生きて行くことすら出来なかったのですよ? その男は命を賭けて愛を求めたのですよ?
琴の音。
造麻呂にはどうも話がぴんと来ぬらしい。
御行 (極度に勿体(もったい)をつけて)ねえ、お爺さん、………その男が一体誰であったか御存知ですか?
造麻呂 いんえ。
御行 (きわめて厳然と)大納言、大伴(おおとも)ノ宿禰御行(すくねみゆき)。………
琴の音一段と高らかに。
造麻呂 は?
御行 大納言、大伴ノ宿禰御行……私です。
造麻呂 (はっとしたように、その忍びのいでたちをした御行の姿を打ち眺める)
御行 (なにやら勝ち誇ったように)……私なのです。……
琴の音。
造麻呂 (次第次第に平伏(へいふく)して行く)……それは、それは……ちっとも存じ上げませんでした。……何と云う勿体ないことでござりましょう。大納言様でいらっしゃいましたか?………このような人里離れた下人(しもびと)の賤(しず)が家(や)にしげしげとお通いなさる御方が、よもや大納言様でいらっしゃろうとは、この爺(じい)め、夢にも考えてはおりませなんだ。……どうぞ、これまでの失礼の数々は、平(ひら)に御容赦(ごようしゃ)下されませ。……御容赦下されませ。
御行 いや、何もそんなにかしこまらなくったっていいんですよ、お爺さん。……大納言だからって、何もとって食べるわけじゃあるまいし、……ただ、私のなよたけに対する誠意がお爺さんにも通じてくれれば、こんな嬉(うれ)しいことはありません。
造麻呂 なよたけはしあわせものでございます。さような思いをかけて下さいますだけでもなよたけにとりましては、身に余る光栄でございます。大納言様と聞いて、なよたけもどんなに喜びますることでございましょう。………
御行 お爺さん! なよたけを私に下さりますか?
造麻呂 (信じられぬかのように)……なよたけを?……あんなふつつかな田舎娘(いなかむすめ)を本当にもらって下さるとおっしゃるのですか?
御行 どうして、またそう私の云うことを信じないのです?
造麻呂 (やや躊躇(ちゅうちょ)しつつ)……大納言様……なよたけがどんなに賤(いや)しい娘でも、きっと可愛がってやって下されますか?
御行 お爺さん、私を信じて下さい!
造麻呂 (思いきって)……実を申し上げますれば、……大納言様。……なよたけめは手前の子供ではござりませぬ。実は棄(す)て子(ご)だったのでござります。……
御行 なに? 棄て子?
造麻呂 へえ。……実は、この裏の竹林の中に棄てられて、おぎゃあ、おぎゃあと泣いておりましたのを、手前、亡くなった婆(ばあ)さんと一緒に拾って参ったのが、あれまでに大きくなったのでござります。生憎(あいにく)、手前どもには子供がひとりも恵まれませんでしたので、大喜びで養女に致し、雨が降ってはなよたけ、風が吹いてはなよたけ、やれなよたけ、これなよたけと、もう心配ばかりして育てとりましたが、……いけましねえ、大納言様。物心がつきだすと、あれの気持は儂等(わしら)からどんどん離れて行ってしまいました。……これまで手前共の方からはあれの素性(すじょう)については、ただの一度だって、一切気(おくび)にも出したことがござりましねえのに、……「お父さん、あたしはあなたの子供ではないのね」などといつの間にやら感づいてしまいましてな。全く親の仕事の手伝いも致しませぬし、天気さえよけりゃ、一日中、この辺の子供達と一緒になって竹山の中を駆けずり廻っておりますようなわけで。……やれ「わたしはお天道様の子だ」と云ってみたり、やれ「あたしはお月様の子だ」と云ってみたりして、この親を困らせますのでござります。……そうかと思いますると、生物(いきもの)なれば、鳥けものや虫けらに至るまで無性(むしょう)にこう可愛がる癖(くせ)がござりましてな、ある時なぞは、蝶々になるまで可愛がってやるのだと申して、自分の部屋に毛虫をたくさん集めて飼ってみたり、黄金虫やかまきり位ならまだしも、蛙(かえる)やとかげなんぞまで平気で部屋の中に匐(は)い廻らせて喜んでおりますのでございますから、いやもうとんだ変りもので、躾(しつけ)も何もあったもんではござりませぬ。……手前の方から恥をさらすようではございますが、大納言様、……手前でさえも時々、あれはもしかすると何かの生れ変りではないかと疑ってみることがござりますのです。……
御行 (少々変な気持になって来る)……いや、それは自然を愛しているのですよ。なよたけは自然の子なのですよ。………
造麻呂 さようでござりましょうか?……それにしても、まあ、大納言様のような立派なお方にもらって頂いて、厳(きび)しく仕付けて頂ければ、……なよたけにとりましても、この手前にとりましても、こんな嬉しいことはござりませぬ。この上もないしあわせでござります。……さあ、さあ、まあどうぞ。むさ苦しい所ではございますが、……どうかひとつお掛け下されまして。……なよたけはただ今連れて参りますでござりますから。(居間に上って、粗末な脇息(きょうそく)をすすめる)さあ、さあ、どうぞひとつ。……(右手のなよたけの部屋の方へひっこみがてら)まあ、まあ、あのなよたけの奴め、田舎娘のくせして、暇(ひま)さえあれば、まあ、簾(すだれ)のかげで古琴なんぞ弾いて、あれで気取った積りなのでござります。
御行 (居間の端に腰を掛けながら)あ、それから、お爺さん。……これはなんですが、なよたけの素性も私の素性も、露顕(ところあらわし)の式でも済むまでは絶対に秘密にして、誰にも知らさぬようにお願いしますぞ。
造麻呂 (怪訝(けげん)そうに)……へえ、ま、……
御行 いや、別にこれはどうと云うわけもないのですが、ただあのようにうるわしいなよたけをしばらくは皆のものに秘密にしておいて、三日の餅(もち)でも祝って、立派な奥(おく)の方(かた)になってから、公然と皆のものを羨(うらやま)しがらせようと云う気持なのです。……葵祭(あおいまつり)の日あたりにでも、お迎えの車をこちらに寄越せたら、……と思っています。
造麻呂 へえ、……何分と宜(よろ)しくお願い致しますでござります。……どうも手前、田舎者でございまして、さようなことはとんと勝手が分らぬもので、……(大仰(おおぎょう)に右手を指し)では、なよたけを呼んで参りまする。……(右に退場)
なよたけの琴の音、ぴたりと止む。……
同時に土間の敷居(しきい)の所に、石ノ上ノ文麻呂と、清原ノ秀臣が凜然(りんぜん)として立っている。
文麻呂 大納言殿! 忍びの恋路のお邪魔立てして申訳ありませぬ!
御行 (愕然(がくぜん)として立上る)誰だ!
文麻呂 石ノ上ノ綾麻呂の息、石ノ上ノ文麻呂!
清原 (少々震え声で)……大学寮学生、清原ノ秀臣!
御行 (狼狽(ろうばい)して)何しに来た!
文麻呂 (凜然と)道ならぬ不義の恋路に身をやつしておられる大納言殿を、お諫(いさ)め申しに参りました!
御行 (興奮して、大喝(だいかつ)する)生意気(なまいき)を云うなッ!
とたんに、右手なよたけの部屋の方から、彼女のヒステリックな叫び声が聞えて来る。……
なよたけ (声のみ)嫌(いや)です! 嫌です! そんなこと、あたし嫌です!……
御行 (狼狽の極。しばらくは全く惑乱(わくらん)状態。……ややあって、大声で右手に叫ぶ)爺!……葵祭の日にまた参るぞ!……葵祭の日に迎えを寄越すぞ!
大伴ノ御行、土間の外に立っている二人を突き飛ばさんばかりの勢いで、倉皇(そうこう)として、左方へ逃げ去る。
造麻呂 (右手奥からよろめくように出て来る)大納言様! 大納言様!……おや! あんた方は一体誰だい?
清原 大学寮学生、清原ノ………
文麻呂 お爺さん! 落着いて下さい! 何もそうあわてることはありません! 僕達はあなたの娘さんを助けにやって来たんです………
造麻呂 (上(うわ)の空で草履(ぞうり)をつっかけ、外に出る)おや! 大納言様がいらっしゃらぬ!……大納言様はどうなすったんです! 大納言様はどこへ行かれたのです! ああ、せっかくの娘の出世が台無しだ! (叫ぶ)大納言様! 大納言様! 大納言……
清原 (全く逆上して)あ、あっちの方です……あっちの方へ行かれました。
文麻呂 お爺さん!
造麻呂、人の云うことなど全く耳にも入らず、大納言の後を追って、よろめくように左方へ退場。しばらくは「大納言様! 大納言様!」と呼ぶ声。
やがて、舞台は急に大風一過。不気味なほど、寂然(せきぜん)とする。
文麻呂も清原も、まるで空(うつ)けたように、呆然として、立ちつくしている。
舞台はしばらくそのまま。………
やがて、あたりには、再び次第次第に緑の木洩日(こもれび)がきらきらと輝き始める。それに従って、思い出したようにまた小鳥が遠近(おちこち)で囀(さえず)り始めた。
なよたけ、右手奥の部屋から、かすかにすすり泣きながら、静かに姿を現わす。草履をはいて、土間の外に出る。
二人の青年が立っているのに気付き、瞬間、身じろぎをするが、つと逃げ去るように小路の方へ行く。……二人に背を向けて、悲しげに泣きじゃくっている。文麻呂は初めて見るその美しい姿に恍惚(こうこつ)としてしまう。
文麻呂 (静かに、背後からなよたけの方に近付き、優(やさ)しく慰(なぐさ)めるような声で)……なよたけ。……もうお泣きになることはありませんよ。
清原 (震(ふる)え声)なよたけ。……
なよたけ (くるっと振向き、語気強く)あなた達は一体誰なの!
文麻呂 あなたの心からの味方です。
清原 ぼ、僕、清原ノ秀臣って云います。
文麻呂 僕はその友人、石ノ上ノ文麻呂。
小鳥達は囀っている。木洩日は輝いている。
なよたけは泣き止んだ。彼女の眼はじっと文麻呂の姿に惹(ひ)きよせられている。
文麻呂 なよたけ。……僕達はあなたを大納言の手になぞ決して渡しはしません。
清原 決して渡しはしません。……
文麻呂 大納言にはれっきとした奥の方がいるのです。
清原 いるのです。……
文麻呂 あなたが大納言のところへなぞ嫁(ゆ)かれたら、それこそ大変な不幸ですよ。
清原 大変な不幸です。……
文麻呂 あなたは汚れ多い都になぞ出るひとではありません。あなたは自然と共に生きるべきひとだ。あなたは、いわば竹の精だ。若竹の精霊だ。あなたは自然の子だ。自然そのものだ。
清原 そうです。そのものです。……
雨彦が戻って来た。もの珍しそうに傍に立って、二人の話を聞いている。
文麻呂 なよたけ。……僕達を信じて下さい。
清原 僕達を信じて下さい。
文麻呂 なよたけ。……あなたには危険が迫(せま)っている。……僕達に信頼して、僕達の云う通りになさって下さい。
清原 大納言様は、あなたを都へ連れて行こうとなさるのです。……大変です。
文麻呂 葵祭の日です。もう半月もありません。葵祭の日には、大納言のお迎えの車が来て、あなたを都へ連れて行ってしまうのです。……なよたけ。もし、そのまま連れて行かれてしまったら、……あなたの一生は滅茶滅茶(めちゃめちゃ)です。
清原 そうです。滅茶滅茶です。………
けらおとみのりが戻って来た。傍に立って二人の話を聞いている。
文麻呂 あなたは御存知ないのだ。……都の人間(ひと)達がどんなに汚れ切っているか。表面(うわべ)ばかり華かな文化に飾られ、優雅(ゆうが)な装いに塗りかくされてはいるけれど、人間達はみな我利私慾(がりしよく)に惑(まよ)っている。……「素朴(そぼく)な」人間の心を喪失(そうしつ)している。都の人達はみんな利己主義です。享楽(きょうらく)主義です。自分の利慾しか考えない。自分の享楽しか考えない。みんな自己本位の狭隘(きょうあい)なる世界に立籠(たてこも)っています。都は虚偽にみちみちています。真の道徳は地を払ってしまった。……自己の栄達のためには、どんな不道徳なことでもしかねません。他人の幸福のことなど、微塵(みじん)も考えてくれやしません。あなたが都へ連れて行かれたら、それこそ不幸のどん底につき落されるのですよ。あなたは一生涯泣いて暮らさねばならなくなるのです。
こがねまるが戻って来た。二人の話を聞いている。
文麻呂 なよたけ。大納言は……絶対にまごころを持っているひとではありません。決して、あなたの美しいこころねの分るひとではありません。ただ、あなたのかおかたちの美しさに幻惑(げんわく)されて、あなたを騙(だま)そうとしているのです。あなたのこころが分るひとは自然のこころの分るひとだけです。自然のこころとは愛です。恵みです。あなたの心を知り得るひとは、この自然のこころを愛し得るひとだけです。自然のこころを愛し得るひととは詩人です。詩人だけは本当に美しい自然のこころを読むことが出来るのです。そして、なよたけ、……あなたの美しいこころも読むことが出来るのです。
胡蝶(こちょう)と蝗麻呂(いなごまろ)も戻って来た。わらべ達はみんな二人の青年となよたけを囲むようにして、並んで聞いている。………
文麻呂 なよたけ。僕達を誤解してはいけません。僕達はあなたのこころの友達なのです。僕達にはあなたの美しいこころが分るのです。あなたの呼吸使(いきづか)いの中に汚れのない自然を感ずることが出来るのです。……なよたけ、……僕達二人は詩人なのです。
何やら急にまた小鳥達の声が騒がしいほど、遠近(おちこち)にその数を増して行く。竹の葉を通す陽光は再び鮮(あざや)かな緑にきらめき始めた。
清原 (最大の勇気を振(ふる)って)なよたけ。……ほ、ほら! 聞いてごらんなさい! 小鳥達までが僕達のめぐり逢いを祝福してくれるではありませんか?……自然が僕達の友情を謳歌(おうか)してくれるのです! なよたけ!……あの美しい小鳥の唄を聞いてごらんなさい!
とたんに小鳥の囀(さえず)る声、聞えなくなってしまう。清原ノ秀臣、とりつくしまがなくなる。…………
文麻呂 なよたけ。……御覧(ごらん)なさい! 鮮かな緑の竹の葉を通して、輝かしい僕達の太陽が恵みの光を投げかけているではありませんか!……あれこそは偽りのない神の祝福の啓示(しるし)です。僕達は祝福されているのです。……なよたけ! 御覧なさい! あの輝かしい太陽の恵みを!
とたんに、輝く日射は薄暗く翳(かげ)ってしまう。同時にまた小鳥達が賑(にぎや)かに囀り始める。
清原 なよたけ! ほ、ほら!……小鳥達だけは本当に僕達の味方です! あの小鳥達の囀りと共に、僕達の永遠の友情は生れるのです!……(聞く)あのひときわ高い声でちゝちゝゝと鳴いている鳥は、あ、あれは、ほ、ほおじろなのでしょうか?
とたんに小鳥の囀り止む。
同時に再び木洩日(こもれび)が輝き始める。………
文麻呂 御覧なさい! 輝く光の扉は僕達にこそひらかれるのです! なよたけ! 聞いて下さい! 僕は即興の詩をあなたの美しい魂に捧げます。聞いて下さい。………(大げさな身振りで朗詠(ろうえい)する)
見よ、さやけくも世界はひらけ………
天(あま)つ日は、今ふり注ぎ
この郷(さと)は、いずこの国か
草も木も、恵みに溢れ………
とたんに再び日は翳ってしまう。小鳥が囀り始める。
清原 なよたけ。ぼ、僕もあなたに詩を捧げます。小鳥の詩です。聞いて下さい。(どもりどもり朗詠する)
あしびきの 山辺に居れば
竹の葉の 茂み 飛びくく 春の鳥
とこしえに 囀り鳴けよ 君がため………
とたんに小鳥の囀り止む。陽が輝き始める。また陽が翳り、小鳥が鳴き出す。また小鳥の鳴声止み、陽が輝き始める。………
これが次第に烈(はげ)しく繰返される。二人、狼狽(ろうばい)して、為(な)すことを知らず。
文麻呂 (不安そうに空を見上げ)なんだか妙な天候になって来ましたね。……
なよたけ (突然わらべ達に)みんな! 教えて頂戴! あたしには分らなくなってしまった。……この人達は一体誰なの!
雨彦 (空を見上げ)なよたけ! あんなあなだ!
わらべ達 あんなあなだ! あんなあなだ!
文麻呂 (訝(いぶか)しげに)どう云う意味なのです。……そのあんなあなって云うのは?
――幕――
第三幕
第一場
都大路(みやこおおじ)の一廓(いっかく)。……とある辻広場。
葵祭(あおいまつり)の日の午後。うららかな五月の祭日和(まつりびより)である。
舞台の両端には美しい花の咲き乱れた葵の茂みと小柴垣(こしばがき)がある。
そぞろ歩きの平安人達が、あるいは左から右へ、あるいは右から左へと、会話をしながら往来する。その他、無言の通行人、行商人等も多勢往来する。
誰(だれ)も彼もが華(はな)やかに着飾(きかざ)り、それぞれ美しい花のついた葵の鬘(かずら)をかけて、衣裳(いしょう)には葵の蘰(かずら)をつけている。……
遠くで、神楽(かぐら)の笛がひびいている。街は人々のさざめきに充(み)ち溢(あふ)れている。
男1 (右より)ええ、そこを偶然この私が通りかかったと云うわけなのですよ。
男2 ほう。……それはまたこの上もなく運がよろしゅうございましたねえ。
男1 ええ。もう、何と云いますか、あたりは夕靄(ゆうもや)に大変かすんで、花が風情(ふぜい)あり気(げ)に散り乱れている。……云うに云われぬ華やかな夕方でした。……私も実はなぜかしらず心が浮き浮きしていましたもんで、……あの女(ひと)がすーっと簾(すだれ)を巻き上げて、こちらの方をちらっと見られた時の、そのかおかたちの美しさと云ったら、……それこそもう……(二人左へ退場)
頭の上に花籠をのせた花売の乙女(おとめ)二人、左より右へ。
乙女1 花はいらんしょか? 花はいらんしょか?
乙女2 葵(あおい)の花はいらんしょか?
乙女1 葵の鬘(かずら)はいらんしょか? (右へ退場)
入れ代りに右より登場した若い男。中央辺にてふと立止り、右手花売の乙女達の方をふり向いて、思案する。突然、衝動的に、頭の葵の鬘をむしり取り、ぽいと投げ棄(す)てるや、足早にもと来た右方へ逆戻り。
女1 (右より、憂鬱(ゆううつ)顔で)ただ、妙(みょう)に頭が痛(いた)むのです。
男3 御修法(みずほう)をやっておもらいなさい。……北山の何とか云うお寺にとてもかしこい行者(ぎょうじゃ)さんがいるそうです。……ただ、この人は評判は非常にいいけど、(指で輪を作り)こっちの方をだいぶ高くとるらしいのでね。……それだけがどうも。
女1 でも、そりゃ、病気には代えられませんわ。
男3 とにかく、それは死んだ行平(ゆきひら)の物(もの)の怪(け)ですよ。確かにそうです。……全く執拗(しつこ)いったらありゃしない……(左へ退場)
女2 (左より)大体、男って横暴すぎると思うわ。そんなことって本当にあるでしょうか?
女3 でも、私達女は昔からそう云う運命なんですもの。仕方がないと思うわ。「宿世(すくせ)と云うこと、ひく方遁(のが)れわびぬることなり」って、どなただったか忘れたけど、おっしゃってるじゃありませんか? どれもこれもみんな「さるべき契(ちぎ)り」なのだと思って諦(あきら)めてしまえば別に悲しいこともないわ。
女2 まあ、そう云うことを云ってるから、男達がつけ上るんだわ。駄目よ、そんなこと云ってちゃ。あたしは断然反対だわ。あんたのようにそう物事を消極的にばかり考えてたら、いつまで経(た)っても私達女は浮ぶ瀬がないじゃないの。(右へ退場)
男4 (左より)「何をこの新発意奴(しんぼちめ)が!」といきなりこう来るんです。お話になりゃしません。……怒る気にもなれませんよ。
男5 まあまあ、そこんところをじっと我慢して、黙って待っておりさえすれば、……そりゃ……あなた、なでしこの君にしたってやがてはあなたの心が分るようになるでしょうし、あの男だって、まさかそういつまでも……
男4 ま、私もそう思っていればこそ、別に事も荒らだてないで、こうして黙っているんですがね。
男5 その方が勝ですよ。負けるは勝ちですよ。(右へ退場)
学生1 (本を手に、暗誦(あんしょう)しながら、右より登場)
如クンバレ此ノ則チ捨テテ二衆人ヲ一而従ハン二君子ニ一
君子ハ博学ニシテ而多シレ聞矣。
然レドモ其ノ伝不ルレ能ハレ無キレ失フコト也。君子之説ハ………
あゝあ。せっかくの葵祭だってのに、こんな碌(ろく)でもない試験勉強なんて馬鹿馬鹿しいにも程があらあ。……
学生2 欧陽修(おうようしゅう)なんて出やしないよ。
学生1 五月蠅(うるさ)いな。……君は君で勝手にやまを掛ければいいじゃないか。
学生2 (見栄をきる)『春秋論』なんて、第一、あんなのやさし過ぎら。
学生1 あれ? じゃ、どこが出るって云うんだい?
学生2 柳宗元(りゅうそうげん)さ。
学生1 え?
学生2 柳宗元の『封建論』さ。これが絶対やまだよ。
学生1 おい。そんなのあったかい? どれだ、どれだ。
学生2 (自分の本をめくってみせる)これさ。……(読む)
天地果シテ無キレ初乎吾不ル二得テ而知ラ一レ之ヲ也
生人果シテ有ルレ初乎吾不ル二得テ而知ラ一レ之ヲ也
然ラバ則チ敦レカ為スレ近シト曰ク有ルヲレ初為スレ近シト……………
学生1 むずかしそうだな、こりゃ。
学生2 むずかしいね。……やって行かなかったら、まず、零点(れいてん)だな。
学生1 (当惑して、自分の本をぺらぺらめくる)弱ったな。……柳宗元はちっともやってないんだ。
学生2 (慰(なぐさ)めるように)第一、橘(たちばな)先生がいけないんだよ。……いくらなんでも葵祭の翌日に試験をするなんて、あんまり非常識すぎるよ。
学生1 (絶望的にぺたんと本を閉じ、左へ歩きながら)あゝあ。せっかく、楽しみにしてたのに。……今年の葵祭はおじゃんだ。……家へ帰って、また暗誦だ、暗誦だ。……お社(やしろ)のお神楽(かぐら)も諦(あきら)めた。
学生2 僕あ行くよ。……(左へ退場)
女4 (右より)そういうお噂(うわさ)なんですって。
女5 まあ、……大納言様が?
女4 もっぱらよ。
女5 でも、まあ、奥の方のお可愛想なこと!
女4 それに、今度の御相手は、なんでも、竹籠(たけかご)作りのお爺さんとかの娘で、それもまだ十七、八のとんだ賤(いや)しい田舎娘(いなかむすめ)なんですって!
女5 まあ、呆れ果てた!……ね、どなたからお聞きになったの?
女4 ……さる御方からね。
女5 ねえ、どなたなのよ。
女4 さるやんごとない御方。……ふふ。……それは秘密。
女5 まあ、憎らしい。(左へ退場)
男6 (左より。ひどく教訓的に)一番大切なのは心です。心ばせです。「心こそ心をはかる心なれ心の仇(あだ)は心なりけり」です。分りますか?
青年 (気弱そうである)はあ。……
男6 その次に大切なのは「ざえ」です。「ざえ」かしこく世にすぐれていなければ、問題になりません。「なお才(ざえ)をもととしてこそ、大和魂(やまとだましい)の世に用いらるるかたも強う侍(はべ)らめ」です。分りますか?
青年 はあ………(右へ退場)
男7 (左より。恐々(こわごわ)探りを入れるように)で、あなたの方へは何とか御返事があったのでしょうか?……いや、実を云えば、私も以前に一度歌を送って、ちょっとほのめかしてみたことがあるにはあるんですが、……何だか妙(みょう)な工合(ぐあい)になってしまいましてねえ。……そんなわけで私の方は何と云うこともなくそれっきりになってしまったようなわけなんです。
男8 (白っぱくれて)さあ、返事が来たかどうでしたかな? 何しろ、別にそう気にもかけていないものですから。
男7 あの三鈴と云う女(ひと)はあのようになかなか美しい女ではあるのですが、あれでどうしてどうして、決して風になびかぬ木の下草だと云うもっぱらの噂なのですよ。
男8 (心の動揺を抑え、半ば独白)そう云う女(ひと)なのですか?……ああ、そうだったのですか……(右へ退場)
女6 (右より。気味が悪いと云うふうに)また二三日前に「ふそう雲」が西の空にあらわれたのですって。……せっかくのお祭だと云うのに。本当に嫌なことを聞かされますわ。
女7 ああ、いや。それでも、中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮(おんようりょう)から出たお話だとすれば、きっとまた何か悪いことが起るに違いないわ。物忌(ものいみ)を怠(おこた)れば、皐月(さつき)と云う月にはきまってわざわいが現れるのですもの。全く、うかうかとお祭騒ぎもしていられませんわ。
女8 あれも確か去年の葵祭の時だったんじゃございません? ほら、あの大原野の社(やしろ)の斎女(いつきめ)になられるはずの、何とか云われたお年若な娘御が、昼の日中に突然、神隠しに遭(あ)ったじゃありませんか?
女7 そう、そう。私もよく覚えていますわ。
女8 今年も、この分だと、またどなたか今日あたり、神隠しに遭うのではないかしら? おお、こわ。(左へ退場)
女5 (左より)それが、あなた、驚くじゃありませんか。今度の御相手はまだほんの十七、八のとんだ賤(いや)しい田舎娘(いなかむすめ)なんですって!
女9 まああ!
女10 なんだ、そんなお噂なら、もうとうの昔に知ってるわ。……では、その大納言様の恋路を妨げる若いお方がひとりいらっしゃるってことは御存知?
女9 あら! 恋仇(こいがたき)?……ねえ、教えて。……それは一体、どなた?
女10 ふふ。……(云わない)
女5 そう勿体(もったい)振(ぶ)らないで、おっしゃい。
女9 ねえ。……おっしゃいよ。
女10 ……これは秘密よ。どなたにも饒舌(しゃべ)っては駄目よ。(三人、顔を寄せ、右へ退場)
男9 (右より)何かと云っては、物忌(ものいみ)物忌と口先ばかりはやかましく云っているようだが、こう云うものは、元来、いくら口うるさく云ってみたところで、それに心が伴わなければ何にもならない。まあ、我々のつけているこの葵(あおい)の鬘(かずら)や蘰(かずら)にしてもだ、近頃ではまるで形式的になってしまって、みんな、何のことはない、祭りの飾りの一種だ位にしか考えていないようではないか。それでは何にもならない。……元来、この葵と云う花は、必ず太陽の方に向って咲く、云わば陽の花だ。それだからこそして、悪いやまいや怨霊(おんりょう)を払う不思議な力があるのだ。それをみんな弁(わきま)えないで、ただもう、あたり前の習慣だ位の気持でくっつけているから、その弱みにつけ込んで、わざわいがふりかかって来るのだ。だから、やれ、西の空に「ふそう雲」が現れたと云ってはうろたえ、「ほこ星」が光り始めたと云っては、恐ろしがる。それでは、この当世に生きる者として、誠に不甲斐(ふがい)のない話ではないか。云わば我々陰陽(おんよう)の道にたずさわる者は、そう云う迷(まど)える魂を、現(おつつ)の正道に引戻してやろうと云うわけなのだ。
男10 (突然、立止って耳を澄まし)先生!……あの声は、あれは一体何でございましょう?
右手奥の方から、多勢の行者達の魂(たま)ごいの行(ぎょう)の呼ばい声が不気味に聞えて来る。
たくさんの鈴の音が、ちゃりんちゃりんとそれに調子を合わせて、何やら幻妙な響きを遠くから伝えて来る。だんだん明瞭(めいりょう)に聞えて来る。
吐菩加美(とほかみ) ほッ 依身多女(えみため) ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
男9 おう。……あれは魂(たま)ごいの験者(げんじゃ)どもが、どこぞの山へ、山籠(やまごも)りの行に出掛けて行くのだ。誰やら神隠しにでも遭(お)うた人々のあくがれ迷う魂を尋ねて、山へ呼ばいに行くところなのだ。
左手から右手へ、都の子童(こわくらべ)が二三人「験者だ! 験者だ! 山籠りの験者がたくさん行くぞ!」などと呼びながら、駆けって行く。左手から右手へ急ぎ足で見物に行く人達がだんだん多くなる。
男10 ああ、そう云えば、大原野の巫女(みこ)になるはずだったと云う娘が、去年の賀茂(かも)の祭の日に突然神隠しに遭ってからと云うものは、あっちにひとり、こっちにひとりと都の童児(わくらべ)どもが、五人も六人も行方(ゆくえ)わからずになって、それっきり一向帰って来ないと云うことを聞いています。あれは大方、それの神よばいなのでしょう。
男9 うむ。……今年も、物忌を怠って、誰ぞまた神隠しにかからなければよいがな。現に西の空の雲気は確かにわざわいのきざしをあらわしているのだ。
人々ががやがやと集って来て、そこら辺に立ち呆(ほう)けて、右手奥の方を眺めている。験者達の呼ばい声、鈴の音は、次第次第に熱ばんで来る調子。
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
男10 あの大原野の巫女の嬢子(じょうし)については、誰もつまびらかに顔さえ見たことが無いと云うのに、まあ、縁起のよくない噂話が色々とつきまとっていましたようで、何でも、その家は宇佐(うさ)の神人(じんにん)の亡び残りだったそうでございます。その嬢子の親御で何とか云う老人がまだ生きていた時分は、もう人の顔さえ見れば、愚にもつかぬ夢物語を真(まこと)しやかにふりまいていたと云うので、世間からはまるで物狂(ものぐる)い扱いにされておりました。その人の物語を終(しま)いまで聞いたものは立ちどころに神隠しにかかってしまうなどと云う噂もあって、都の人達は顔さえ見るのも恐しがっていたようでした。
男3 (男10の話につり込まれて、質問する)あの、神隠しの子供達は、その後どこぞで見付かりましたのですか?
男10 いいえ。あのまま、一向行方わからずなんだそうです。
女1 恐しいことでございますわね、今日も、また何か縁起の悪い啓示(しるし)が空にあらわれたと云っていますから、充分に気を付けないと、いつどんなことが起るかも分りませんわ。
女3 本当にねえ、せっかくの賀茂(かも)の祭だと云うのに、お社(やしろ)にも詣(もう)でないうちから、まあまあ、気味の悪い声を聞くこと。
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
女2 何だかあの声はだんだんとこの世のものとも思われぬ調子になって行くではありませんか。……あの調子ではきっともうすっかり神懸(かみがか)っているのですよ。
男6 (大層感心した様子で)さよう、……いや、あの気配(けはい)では、本当にもう心から神になり切っておりますな。身も心もすっかり神がのりうつっている頃なのでしょう。あのまま山へ入って行って魂ごいをすると、隠れた人達の魂が、あのように応(こた)えかえすのだそうです。
男8 (気味悪そうに)一体、どこの山へ行くのでしょうね?
男6 さあ、何でも衣笠山(きぬがさやま)あたりへ行って三日間ほど山籠りをするのだと云ってましたが、……
女2 あら。中御門(なかみかど)の方へ曲って行きますわ。皆さん、御一緒に後をつけて行ってみませんこと? (女3を誘う)ねえ、行ってみましょうよ。
女3 行ってみようかしら。
数人の男女、右手奥へ退場。
験者達の呼ばい声、鈴の音はだんだんと遠のいて行く。……
男9 (残っている人達に呼びかけるように)本当に、皆さん、お祭り騒ぎに油断をして、物忌(ものいみ)を怠らないように注意しないと、大変な目に遭(あ)いますよ。ことにあなた方お若い御婦人達は……
女5 あら、あたし達は大丈夫ですわ。みんなこうして、一人残らず、ちゃあんと葵の鬘(かずら)と蘰(かずら)をつけておりますもの。(仲間の女に同意を求め)ねえ?
男9 (笑って)いや、冗談です。冗談ですよ。……
誰も気が付かぬ間に、左端にふと、石ノ上ノ文麻呂が現れた。
揉烏帽子(もみえぼし)を被(かぶ)り、いかにもみすぼらしい下人(しもびと)の装束(しょうぞく)で、立っている。
葵の物忌は、彼だけはつけていない。
遠のいて行く験者達の呼ばい声の方に何やら吸い寄せられるような眼差(まなざし)を向けて、立っている。
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
…………………
…………………
(次第に遠く)
灰色の上下幕が静かに下る。――
第二場(上下幕の前面にて)
行者達の魂ごいの呼ばい声・鈴の音は遠く消え去り、取り残されたように神楽(かぐら)の笛の音が微(かす)かにしている。左手より清原(きよはら)ノ秀臣(ひでおみ)と小野(おの)ノ連(むらじ)、話し合いながら登場。中央まで来ると、立止って立話をはじめる。……
小野 む。……それは僕もそう思った。石ノ上の奴、まるでもう、何と云うか、それこそ物(もの)の怪(け)にでも取(と)っ憑(つ)かれてしまったような有様(ありさま)だ。
清原 それだから、僕は困るんだよ。……ひとりで張切って大納言様の噂(うわさ)をああしてこそこそ都中にふれ廻ってさ、……あれで自分ではうまく行ってるものと思ってるらしいけど、僕あ、僕あ何だか少し恥しくなって来たよ。
小野 恥しい?……おい清原。恥しいと云うのはどう云うわけだい?……情無いことを云うじゃないか?……そりゃ僕はこの計画には局外者だし、親友の誼(よしみ)をもって、蔭ながら君達二人を援助して来ただけだが、……いくらなんでも恥しいとは何だね? それで君、なにかね、石ノ上に対して申訳が立つと思うのかね?
清原 (自棄(じき)的に)僕はもう嫌になっちゃったんだ! もう僕あ、こんな大それた計画からは手を引きたくなったんだ!……ねえ、そうだろうじゃないか、小野。こんなことをしてたら、今に僕達はどんな眼に遭(あ)うと思う?……例えばさ、僕達が石ノ上と一緒になってこんなことをしてるなんてことが大納言様のお怒りに触れて見たまえ。僕達までが石ノ上と同じように大学寮を追っぱらわれてしまうかもしれないんだぜ。……
小野 (じっと清原の顔を凝視(みつ)め)清原。……貴様、恋が醒(さ)めたな?
清原 恋は石ノ上の心にのりうつってしまった。恋の炎(ほむら)は今では石ノ上の心の中に燃えさかっている。僕の恋はしらじらと醒めきってしまった。……小野。僕あ白状する。……僕あなよたけが好きじゃなくなっちゃったんだ!……(顔を伏せる)
間――
小野 (妙に調子を変えて)……清原。……君があの烈しい恋の酩酊(めいてい)から醒めたからって、……別に俺が君に対して何を云うことが出来よう?……かしこ過ぎて、ここ現実(おつつ)の園に戻り来(きた)れば、何事もみなはかなき一炊(いっすい)の夢だ。……俺は実は今まで心の中で君を軽蔑していたが、今度は石ノ上を軽蔑しよう。……俺は恋なぞと云う愚劣(ぐれつ)なものは全く信用しないからな。俺は大体、「夢想家」と云う奴は軽蔑するんだ。……しかし、清原。俺には分らん。……君は親友との盟約(めいやく)を裏切ってまでも、この計画から逃げ出したいって云うのか?
清原 (だんだん上(うわ)ずって来る)だから僕はなよたけをあいつにゆずると云ってるんだ。石ノ上は今ではなよたけに夢中なんだ。……僕には分る。なよたけも僕は嫌いだけど、あいつだけは好きらしいんだ。……それに、第一、今度のことはもともとあいつがひとりで勝手に決めてやり出したことなのさ。大納言様を失脚させようと云うあいつの利己主義がやり始めたことなんだ。……僕あ、あの頃はなよたけが好きだったから、誘われるままにひきずられて一緒にやり出したけれど、……だけど、あいつは今では僕の恋までも横取りしてしまったんだ。あいつは僕には黙って毎日夕方になるとなよたけとこっそり媾曳(あいびき)をしてるんだ。僕にはもう一緒にやる理由がなくなってしまった。……なよたけはあいつのものなんだ!……
小野 (鋭く)清原。……なかなかうまい理窟(りくつ)を云うじゃないか?……そりゃ、君が逃げ出したって、後指(うしろゆび)をさすものは世の中に俺と石ノ上の二人しかいないからな。だけど、俺は断言するぞ。貴様のはそりゃ弱音(よわね)だ。そんな理窟は貴様の弱音に過ぎん。……まあ、考えてもみろ。利己主義なのはむしろ貴様の方だ。自分に都合(つごう)のいい時だけは生死を共にするって云うような顔をして、自分に都合が悪くなって来ると、偉そうな言訳を並べたてて、……このざまだ。清原。そりゃ、俺達はまだ青二才(あおにさい)の学生さ。誰だって、自信なんか持っちゃいない。と云うよりは、むしろこの激しい世間の風当りが息苦しくってしようがないのだ。俺だってそうさ。石ノ上だってそうさ。……だがね。清原。そんな意気地のない弱腰な態度で、俺達は黙って世間の風当りを避けてばかりいていいもんだろうかね?……そりゃ、若い俺達のやることだ。失敗はあるだろう。しかし、失敗なんてものは物の数ではないよ。問題は実行すると云うことだ。俺達は敢然(かんぜん)と実行する資格だけは持ってるんだからな。あらゆる可能性をためしてみる資格だけは持ってるんだからな。そうじゃないかな、清原?
清原 (不貞腐(ふてくさ)れて聞いている)
小野 俺はもちろん、何度も云ったように、この計画には局外者だ。まあ気が楽だと言えば楽だが、とにかく、俺は君の態度だけは、黙って看過(みすご)すわけにはいかないね。……親友の一人として俺は忠告してるんだぞ。そりゃ、俺達のやることが何から何まで絶対的に正しいとは云わんさ。云わんけれどもだな、……問題は自分達で何かを始めるって云うことだ。自信をもって何かを始めるって云うことだ。俺はそれが一番大切なことだと思うんだ。今のそこらの若い学生達みたいに、無気力で、自意識過剰(かじょう)で、あんな君、逃避的(とうひてき)な態度ばかり採(と)っていたら、力ある文化の芽は新鮮な若葉をも齎(もた)らさず、来るべき新時代の雄渾(ゆうこん)な精神の輝やかしき象徴たり得ずして、ついには遊惰(ゆうだ)の長雨に腐れ果ててしまうのだ。……なあ、そうではないか?……まあ、今度は俺は局外者だから、あまりこんなことは云いたくないが、……とにかく、なんだよ、貴様のは、それは単純なる弱気だ。卑怯(ひきょう)な尻込(しりご)みだ。……俺はそう思う。
清原 ………
小野 ただ、俺はそう思うんだ。
間――
清原 (妙にしんみりとなって)……小野。僕は実は、今、自分の無分別な行動を、冷静に反省してみてるんだ。……ねえ、小野。君はこう云う「和歌(うた)」知ってるかい? 「嘆(なげ)きわび 身をば捨つとも 亡(な)き影(かげ)に 浮名(うきな)流さむ ことをこそ思え……」
小野 なんだ、紫式部(むらさきしきぶ)か?
清原 うん。僕あとても同感なんだ。なんだか、この気持、とても清いものに思うんだ。「嘆きわび 身をば捨つとも 亡き影に 浮名流さむ ことをこそ思え……」僕あ、この頃、この和歌(うた)の意味がつくづく分って来たような気がするよ。
小野 何だかやにしんみりしちゃったね? それがどうしたと云うんだい?
清原 (勢いを盛り返して)……小野。僕あ君にだけは分ってもらいたいんだ。君んとこの家は代々大学寮の重職にある文章博士(もんじょうはかせ)だ。僕の云いたいことは分ってくれると思う。……君だってやがてはお父さんの後を継いで文章博士になる身だ。君は「家名」と云うことを考えてみたことはないのかい? 僕は家の名誉ってことを考えてるんだ。……別に自慢するわけじゃないけど、僕の父上だってれっきとした三位の官人(つかさびと)だ。……そりゃ、今僕が止めてしまったら、石ノ上はがっかりするだろうけど、僕あそれ以上にこんなことをしてたら世間のひとがどう思うかと云うことを考えてるんだ。僕達のやったことが後の世までも謗(そしり)を受けるようなことになったら、僕達だけの恥じゃ済まされないんだぜ。家の恥なんだ! 父上の恥なんだ! 石ノ上は、貴様のように世間の思惑(おもわく)ばかり気にしていたら何にも出来やしないぞって、よく云うけど、……それにしてもあいつのやることは少し乱暴だ。正気の沙汰(さた)じゃない。あいつは何をするんでも、慎重な判断なしにやり始めてしまうんだ。まるでもう馬車馬だ! あいつは完全に気が触れてるんだ! 僕は気違いと一緒にこんなことをするのはまっぴら御免(ごめん)だ! お断りだ!
小野 気違い!……おい、おい、清原、いくらなんでもそりゃ少しひど過ぎるじゃないか?
清原 僕あこんなことは云いたくないさ。云いたくないけど、だけど、本当なんだから仕方がないよ。あいつは気が狂ってしまったんだ。……君は、第一、そう云う噂(うわさ)を耳にしたことはないのかい? 大学寮なんかでもみんなそう云ってるんだぜ。僕あ、御修法(みずほう)をやるお医者さんにも訊(き)いてみたんだ。もう、ああ云うふうに病気が進行しちゃったらおしまいだそうだ。いくらお祓(はら)いをしてみたところで、決して物(もの)の怪(け)は退散しないんだそうだ。
小野 清原!……(真剣な顔)貴様、……本当にあの男の発狂を信じてるのか?
清原 ………
小野 え! 清原!……貴様はそんな噂を本当に信じてるのかい!
清原 む、……信じてる。そりゃ僕だって初めはそんなこと信じられなかったさ。だけど、色んなことを綜合して考えてみると、まああいつには気の毒だけど、……僕もそう断定せざるを得ないんだ。第一、あんな恰好(かっこう)をして都中をほっつき歩いていることからして、訝(おか)しいとは思わないかい? いくら人目を避ける変装だからと云ったって、あれは少々極端だ。あいつは確かに気が変になってしまったんだよ。あの勉強家の秀才が勉強もそっちのけで、あんな妙な恰好をして、都中を一日中ほっつき廻ってさ、口に出すことと言ったら、なよたけと大納言のことばかりだ。……そうかと思うとまるで、うわごとみたいにわけの分らないことばかり言っている。小野、君も知ってるだろ? あいつはこの頃、人の顔さえ見れば、あんなあなとか、かんなあなとか妙なことばかり言って、やたらに人にくってかかるけど、あれは一体何のことだか、君には分るのかい?
小野 いや、あれは俺も実はよく分らんのだ。……うーむ。
間――
清原 御修法(みずほう)の雲斎(うんさい)先生もそう云ってらした。気違いになるとわけの分らないことを云って、人には分ってもらったような気になるんだそうだ。……僕は、うるさいから、あいつの云うことは一々「そうだ、そうだ」って合槌(あいづち)を打ってやってはいるけど、実際この頃のあいつの云ってることはさっぱりわけが分らないんだ。第一条理(すじみち)がたっていないよ。まるで、雲を掴(つか)むように漠然(ばくぜん)としている。そうかと思うと、突然、大声をはり上げて、「貴様はあんなあなだ!」って怒鳴(どな)りつけるんだ。あれはどうしたって狂人の衝動って奴さ。あたりに何人ひとがいようがお構いなしなんだ。全く僕あ穴があったら這入(はい)りたくなるような目に何度逢ったか分りゃしない。……理性と云うものを完全に喪失(そうしつ)してしまってるんだ。あの精密な論理の秩序は、跡方もなく破滅してしまった!
小野 (深刻に)……うーむ、……しかし、考えられぬことだな。あれほど明快な頭脳の持主がそんなに簡単に理性を喪(うしな)ってしまうもんだろうかね? 俺はやっぱりあいつが発狂してるとは思いたくないね。あるいは俺達のような凡人(ぼんじん)には考えも及ばないような深奥なる境地に到達してしまったのかもしれんぞ。いや、そうかもしれんのだ。
清原 そんなことはないよ。僕も初めはそうかなとも思ってみた。だけど、色々とあいつの精神状態を冷静に判断してみると、どうしたってあいつは健全な精神を喪失しちまってるんだ。例えば、この間、僕は思いきってあいつに、「君の云うそのあんなあなって云うのは一体何のことだい?」って訊(き)いてみたんだ。すると、どうだい? あいつは恐しい勢いで、「貴様にはまだ分らんのか!」って怒鳴りつけるんだ。そうかと思うと、やれおけらがどうの毛虫がどうのと、全くとんちんかんな返答をする。しかも論旨は支離滅裂(しりめつれつ)なのさ。もうまるで意味が分らないんだ。……
小野 しかし、それだけのことであいつを狂人扱いにしてしまうのは早計だ。そいつは少し残酷(ざんこく)だよ。
清原 まだまだ思い当る節(ふし)はたくさんあるさ。第一にあの眼だ。あの眼の異様な輝き工合はどうだ! 雲斎先生もそう云ってらしたが、狂人になるとまず第一に眼が異様に輝いて来るんだそうだ。精神を集中することが出来なくなるから、眼光は焦点を失って、いずこともつかぬ方向へ、不気味な輝きを発散するのだそうだ。小野、あいつに逢ったら、まず第一に眼をみてごらん! 僕はあいつの眼をみてると、気味が悪くなって来るんだ。じっと一点を凝視するってことがないんだ。行方(ゆくえ)も分かぬ、虚空(こくう)の彼方(かなた)にぎらぎらと放散しているんだ。定かならぬ浮雲のごとく天(あま)の原(はら)に浮游(ふゆう)しているんだ。天雲(あまぐも)の行きのまにまに、ただ飄々(ひょうひょう)とただよっている……
小野 (深刻に)……うーむ。
清原 その次に確実な症状は幻覚(げんかく)と云う奴なんだよ。雲斎先生もそう云ってらしたが、この症状が現れて来るようになったら、もう救い道はないんだそうだ。つまり、普通人には見えないものが見え、聞えないものが聞えて来ると云うのだ。……幻影(げんえい)とか幻聴(げんちょう)とか云う奴さ、……小野! 僕はもう全く疑う余地はないと思うんだ! 石ノ上ノ文麻呂は時々このあやしげな幻覚に悩まされているんだぜ! 昨日も昨日で、やにわに僕をつかまえて、こんなことを云うんだ! 「清原! 見ろ! 貴様にはこの鮮(あざや)かな宇宙の変革が分らんのか! 俺達を取巻いている七色の光彩の中から、無限に投射する白色光(びゃくしょくこう)の世界が浮び上って来るのだ! 日輪が俺達に語っているあの言葉が貴様には聞えないのか!……ああ、貴様は凡人だ! 世の中の人間はみんな馬鹿だ!」こうなのさ。それも例の調子でやるんなら話は分るが、こんなことを君、血走った眼をして、大真面目(おおまじめ)に云うんだぜ。そうかと思うと今度は急に温和(おとな)しくなって、まるで眼の前になよたけが現れたかのように、話し出すんだ。「ああ、なよたけ! お前だけなんだ! 真実の魂を持っているのはお前だけなんだ! 僕はお前のお蔭で、初めて生れ変ったような気がする! お前はまるで天の使だ!」僕はそれを見ていて、何だか全身がぞっとして、総毛(そうけ)立(だ)って来たよ。あれは恋などと云う生(なま)やさしいものではない。あれはもはや狂気だ! 恐るべき精神の錯乱(さくらん)なんだ! そうかと思うと今度は、また行方(ゆくえ)も分かぬ虚空の彼方(かなた)に眼をやって……
小野 (突然、右手を見)あ、やって来た!……しーッ。
清原 (右手を見、急に狼狽(ろうばい)し始める)……小野、僕は失敬する! 頼む! あいつにそう云ってくれ! あいつは何をしでかすか分りゃしない! あんな奴と行動を共にするのはまっぴら御断りだ! 僕あもう今日限りこんな大それたことは本当に止めた! 僕はあいつとは、もう手を切った!
左方へ逃込み、退場。
小野 おい! 待て! 待て! 清原! 待てと云うのに!……行ってしまやがった。……
石ノ上ノ文麻呂が右手に現れた。
先ほどの粗末(そまつ)な下人の装束(しょうぞく)で、何やら抑(おさ)え難(がた)い血気が身内にみなぎっている様子(ようす)である。舞台の右方に立ち、遠くから小野(おの)ノ連(むらじ)をきっと凝視(みつ)める。
文麻呂 おう。小野ノ連ではないか!
小野 俺だ!
文麻呂 何だ。君も来ていてくれたのか?……小野! いよいよ待ちに待った今日のこの日だ!
小野 おめでとう!
文麻呂 用意万端(ばんたん)は既(すで)にととのった!
小野 成功を祈るよ!
文麻呂 とうとう、ここまで漕(こ)ぎつけたよ! 後は清原がやって来るのを待つだけだ……
小野 それはよかった!……まあ、そんな所に立っていないで、こっちへ来いよ。
文麻呂 うむ。
文麻呂、中央にやって来る。
小野ノ連、詮索(せんさく)するように文麻呂の眼付、挙動をじろじろ眺めている。文麻呂は得体(えたい)の知れぬ興奮に、その眼は異様に輝き、なるほど、天空に向って浮游(ふゆう)しているかのようだ。
小野 なかなか大した装束(いでたち)ではないか?
文麻呂 (両手を拡げて)これか? あははは。虚飾(きょしょく)をはぎとったのだ。本然の姿に戻ったのだ。剣刀(つるぎたち)身に佩(は)き副(そ)うる丈夫(ますらお)のいでたちとはこれだ! あはははは。どうだ!
小野 (気味悪そうに)大したものだよ。……ところで君はこれから何をしようと云うのだ?
文麻呂 なんだって!
小野 いやつまりだね、具体的に云って、どう云うふうにことを運ぶつもりか、と聞いているんだ。
文麻呂 分りきっているじゃないか!……なよたけは車にのせられて、間もなくここへやって来るのだ!……俺と清原はここで待ち伏せをして、大納言の魔手(ましゅ)から彼女を救い出すと云う段取りさ。……具体的も糞(くそ)もあるもんか! 問題は、なよたけを大納言の手から救い出せばそれでいいんだ。
小野 それがいけないんだよ。
文麻呂 なんだ?
小野 それがいけないと云うのだよ!……君は何をやるんでも、慎重な計画を立てずに、衝動的にやってしまう。何のことはない、向う見ずの馬車馬だ。盲滅法(めくらめっぽう)と云う奴だ。それでは必ずことを仕損(しそん)じるよ。物事はまずはっきりと条理(すじみち)を立ててから……
文麻呂 よけいなお世話だ! 貴様なぞには分るものか! 俺はただ、天の呼び声に応(こた)えて、正しいと確信する道を進むだけさ! なよたけを救い出すのは、俺が天から受けた命令だ! 道を開いてくれるのは天だ! 天は正しきものに味方するんだ!
小野 まあまあ、何もそう大声を立てなくってもいいではないか! もう少し冷静になってくれ。……もう少し現実的に物を考えてみてくれんか? 例えばだ、なあ石ノ上、天の命令はいいが、君の行動が社会にどう云う影響を及ぼすか、と云うことを考えてみたことはないか? あるいはまた他人の眼にどう映るか、と云うことを考えてみたことはないかい? 君のやろうとしていることは、考えようによっては実に大変な一大事なんだぜ。俺に云わせれば君一人のために平安の都全体が鳴動するかもしれぬほどの大事(おおごと)を孕(はら)んでいる。……それほどの一大事が、今、刻々と近付いて来つつある。何だか俺にはそんな気さえして来た。いいかい? 石ノ上。俺は何も今更、君の行動を阻止(そし)しようとか、妨害しようとか、そんな気持は微塵(みじん)もないんだぜ。これは親友としての俺の最後の忠告だ。いいかい? 慎重に反省して、事を運んでくれよ。千載(せんざい)に恥をさらすような真似は絶対にしてくれるなよ。うっかりすると、君の一生は滅茶滅茶(めちゃめちゃ)になってしまうからな。やり損(そこな)ったら最後、君はどんな眼に遭(あ)うか分らんのだ。全く、危険極(きわ)まる仕事なのだ。
文麻呂 あははははは。
小野 何が可笑(おか)しいのだ?
文麻呂 いや、別に可笑しいわけではないが、貴様もやはり哀れむべき凡人の仲間の一人であったか、と思ってね。御多分に洩(も)れず、貴様もあんなあなに操(あやつ)られている組だ……。
小野 (いよいよ不気味そうに石ノ上の眼差(まなざし)を詮索(せんさく)して)石ノ上!……どう云うことなんだね、一体、君の云うその「あんなあな」とか云うのは?
文麻呂 君はまだ分らんのか? 教えてやろう。そいつは、頼みもしないのに、俺達を唆(そその)かして、おけらの足に糸をつけ、玩具(おもちゃ)の車を引張らせる奴さ。帆立貝(ほたてがい)の中に俺達を閉じ込めて、宇宙(うちゅう)の真底を見せてくれない奴さ。……まあ、俺達の過去をふりかえってもみろ! 何と云うこせこせしたくだらぬ風俗だ! 何と云う汚らわしい些細(ささい)な熱狂に時を忘れていたことだ! 俺達はおけらの足に糸をつけて、玩具の車を引張らしていたに過ぎないのだ!……なんだ? なんでそう俺の顔をしげしげとみつめるのだ!
小野 石ノ上。……君は少し疲れているようだ。疲労のために心が乱れているようだ。……何かこう特別に工合が悪いと云うようなところはないのか? 例えば、頭が痛むとか、夜眠れないとか?
文麻呂 眠れないのではない。眠らないのだ。なよたけのことを思うと、夜なぞ安閑(あんかん)と眠っておられんからな。
小野 いや、それがいけないんだよ。……そう云う不摂生(ふせっせい)をやるから、君は正常な心の均衡(きんこう)を失ってしまうのだ。……石ノ上。それではこう云うようなことはないかい? 例えば、ふだん見たこともないようなものが見えて来るとか、聞いたこともないようなものが聞えて来るとか。
文麻呂 (自信をもって)あるね!
間――
小野 あるのか?
文麻呂 ある!
小野 (恐る恐る)たとえば、それはどんなふうにだ?……
文麻呂 俺はどこにいたって、なよたけに逢(あ)いたくなれば、思いのままに俺の眼の前に彼女をあらわすことが出来る。……俺の魂がなよたけを呼べば、彼女はいつでも微笑(ほほえ)みながら、俺の前に現れるのだ。なよたけの唄が聞きたくなれば、俺はいつでもはっきりと聞くことが出来る……
小野 はっきりとか?
文麻呂 はっきりとだ!……例えば、俺は今、ここでこうして眼をつむる。……(眼をつむって)おう。……はっきりと聞えて来るのだ。なよたけとわらべ達の唄うあの春の唄だ。……(沈黙。眼をつむったまま異様な恍惚境(こうこつきょう))ほら。聞えないのかい? 貴様には聞えないのかい?
小野 (呆然(ぼうぜん)として)俺には聞えない……
文麻呂 それじゃ、あの無数の小鳥の声はどうだ? あれも聞えないのか!……
小野 (文麻呂の異様な態度に不気味な恐怖(きょうふ)を感じ始める)俺には聞えない……
文麻呂 それでは、あの竹の葉がさやさやと春風にそよぐ音は聞えないのか? 俺にはそれまで手に取るように聞えて来るのだ。
遠くの方から、魂(たま)ごいの行者達の呼ばい声が鈴の音と共にだんだんと聞えて来る。
小野 (その声にはっとして耳を澄まし、何やら烈しい恐怖感に襲われ、文麻呂が眼をつむっているすきに、抜足差足(ぬきあしさしあし)で左方にこそこそ逃げて行こうとする)
行者達の声、鈴の音、だんだん近く。
文麻呂 (夢から醒(さ)めたごとく徐(おもむ)ろに眼を開き、うっとりと)ああ、なよたけはこの世の奇蹟(きせき)だ! 月の世界から送られて来た清らかな魂の使者だ! 俺はなよたけがこの世に生きていると云うことを思うだけで、この上もない生(い)き甲斐(がい)を感ずるんだ。……清原と云う奴は実にしあわせな奴だよ。なよたけはあんな奴には勿体(もったい)ない位だ。……それでも大納言の手に渡るよりはよっぽどましだ。清原にしたって、貴様にしたって、とにかく、生死を誓った俺の無二の親友なんだからなあ……(左の方へ抜足差足で逃げて行く小野ノ連に気がつき)おいッ! どこへ行くんだ!
小野 (ぎくんとして立止る)
文麻呂 どこへ行くつもりなのだ!
小野 (意を決したように、悲壮(ひそう)な顔)石ノ上! 俺は失敬する! 君を見棄(みす)てるのは忍びないが、俺は気違いと行動を共にするのはまっぴら御免だ! 君がなよたけの唄と聞いているのは、あれは山籠(やまごも)りに行く行者どもの呼ばい声だぞ! 君が小鳥の声と聞いているのはあれは鈴の音(ね)だ! 君は気が狂っているんだ! 恋のために気が狂っているんだ! 君とはもう今日限り絶交だ! 清原だってもう君とは手を切ったぞ! 都中の人達はみんな君のことを気違いだと云ってるんだ! 君なんかと交際(つきあ)ってたら、俺達はどんな眼に遭(あ)わされるか分りゃしない! とんだ「人笑え」だ! 俺達までが気違い扱いにされちまうからな! 俺達の将来まで滅茶滅茶にされちまうからな!
文麻呂 (悲痛(ひつう)な声をしぼって)小野ッ! 何を云うんだッ! 待ってくれ!……小野ッ!
小野 石ノ上! 俺は失敬する! さよなら! (逃げ去るように左方へ消える)
行者達の呼ばい声、鈴の音が不気味に聞えている。
中央に呆然自失したごとく、文麻呂はひとり残される。
文麻呂 (うわごとのごとき独白)……俺が「恋」をしてる?……「恋」のために俺の気が狂っている?……俺の気が狂っている?
行者達の呼ばい声、鈴の音。それに重って男女の嘲(あざ)け笑いが聞えて来る。
続いて、「気違い、気違い」と云う私語・囁(ささや)き声が幻聴の如く、文麻呂の不穏(ふおん)な頭を乱し始める。……
文麻呂、両手を頭にやって、心の乱れを鎮(しず)めようとする。
行者達の呼ばい声・鈴の音。……
再び、男女の嘲け笑い。
文麻呂、頭を両手で抑えたまま、がっくりとひざまずく。……
やがて、呼ばい声も鈴の音も次第に遠くへ消えて行き、舞台裏から「合唱」が低く聞えて来る。
合唱
術(すべ)なくも 苦しくあれば
術なくも 苦しくあれば
よしなく物を思うかな。
白雲の たなびく里の
なよたけの ささめく里の 天雲の
下なる人は 汝(な)のみかも 天雲の
下なる人は 汝のみかも 人はみな
君に恋うらむ 恋路なれば
われもまた 日に日(け)に益(まさ)る
行方(ゆくえ)問う心は同じ 恋路なれば……
(合唱につれて、背後の灰色の上下幕に様々な色彩の光が、異様な幻想風のイメージとなって交錯(こうさく)し、やがて一面に鮮(あざや)かな緑が占領して行く)
小鳥の声が、あちこちから聞えはじめる。
そして、どこからともなく、わらべ達の唄う「なよたけの唄」が美しくひびいて来る。
なよ竹やぶに 春風は
さや さや
やよ春の微風(かぜ) 春の微風
そよ そよ
なよ竹の葉は さあや
さあや さや
なよ竹やぶに 山鴿(やまばと)は
るら るら
やよ春のとり 春のとり
るろ るろ
なよ竹の葉に るうら
るうら るら
様々な小鳥達の鳴声が、次第にその数を増して行き、竹の葉のさざめきと共に、美しい緑に包まれたなよ竹の里を文麻呂の心の中に呼び醒(さ)まして行く……
文麻呂 そうだ。世間の者から見棄(みす)てられてしまったって、俺にはなよたけがついている。清原や小野に裏切られてしまったって、俺にはなよたけがついている。……なよたけ! お前だけは僕を見棄てはしないだろうね! なよたけ! お前は僕のものだ! お前だけは僕のものだ! なよたけ! なよたけ
同時に、多数の男女の哄笑(こうしょう)が爆発する。
上下幕が静かに下る。
第三場(幻想の辻広場)
ひざまずいている文麻呂を前にして、平安人達が男女群をなして取り巻いている。嘲笑(ちょうしょう)、私語。気違い、気違いなどと囁(ささや)き合っている。……文麻呂の背後には、正装した大納言大伴ノ御行。……
舞台中央には、華麗な御所車が一台止っている。美麗な装飾をほどこした竹簾(たけすだれ)がかかっていて内部は見えない。
御行 そう云うわけで、皆さん、間もなく皆さんの前に連れ出してお目に掛けますが、あの御所車の内にいらっしゃるお姫様も、やっぱり多少この辺が(と頭に手をやって)どうも、……妙(みょう)ちきりんなのです。
また哄笑が爆発する。一通り哄笑が終ると、一同は改まって、大納言に慇懃(いんぎん)な御辞儀(おじぎ)をする。それが済(す)むと、再び私語・囁き。
御行 分りましたかな?……そう云うわけですでな、……こちらにいらっしゃるこのお若い汝夫(なせ)の君と、あちらにいらっしゃるそのお姫様とを、ひとつ、皆さんの前でめあわせてみたらどうか、とまあこう考えてみたわけなのですよ。
また哄笑が爆発する。それから、一同改まって大納言に慇懃な御辞儀。……
男4 大納言様。それは本当に面白いお考えでございます。
女6 本当に面白い思いつきでございますわ。
御行 でしょう?……いや、これは私が、この年(ねん)に一度の葵祭(あおいまつり)の吉日を選んで、皆さんを喜ばせて上げようと思って、一月も前から考えていたことなのですよ。それを、あなた、どなたか知らんが、まあ大変な誤解をなさったもんですよ。まるで、この物狂いの娘が、人もあろうにこの私の所にお輿入(こしい)りをするかのように云いふらしたのですからね。いや、もう、お蔭でこの大納言、とんだ迷惑(めいわく)をしましたよ。しかも私にはれっきとした奥の方がいるんですよ? まあ、噂をなさるのも時には愛嬌(あいきょう)があっていいものですが、いくらなんでも、そんな、あなた、根も葉もない噂を都中にふれ廻されたら、どんなお人好しの大納言だって、そりゃ、あなた、怒りますよ。
文麻呂 (悪夢から我に返ったように)……嘘(うそ)だ! そんなことはみんな嘘だ!
女10 あらッ! この人何か言ったわ!
男2 大納言様! いくらか正気づいて来たようでございますよ。
男女達、再びがやがやと私語をしながら、文麻呂の様子を好奇的(こうきてき)に眺めはじめる。
御行 おや、文麻呂殿。……少しは気分がよくなって来ましたかな?……さあ、それでは、この機会を見計らって、なよたけ姫の「聟取(むこと)り」の式をあげることに致しましょうかな。どうも、花聟の方が揉烏帽子(もみえぼし)にこの恰好(かっこう)ではあまりぱっとしませんが、さあ、文麻呂殿、お立ちなさい。……あなたの恋いに焦(こが)れたなよたけが待っているのですよ。(文麻呂をたすけ起す)
文麻呂 (狐(きつね)につままれたように大納言に手をとられて、立上る)
男女の群集は、得たりとばかり、中央に道を開く。……
大納言に手をひかれて、中央奥、御所車の方へ歩いて行く石ノ上ノ文麻呂。
きらびやかな御所車はまるで「祭壇」のように神秘を孕(はら)んで立っている。
両側の群集は何か素晴らしい見世物(みせもの)を期待するかのように、しーんと静まり返って、この儀式を見物している。
御行 (御所車の前まで文麻呂を連れて行って)この中にあなたの思い焦れるなよたけの君がいるのです。文麻呂殿。なよたけはあなたのものです。なよたけははじめっからあなたのものだったのですよ。
文麻呂 (茫然(ぼうぜん)として、御所車の前に佇立(ちょりつ)したまま、動かない)
御行 どうしたのです。え? 文麻呂殿。……嬉しくはないのですか?……それとも私の云うことを信じないのですか?
文麻呂 ………
御行 (意地悪そうに笑って)……さて、それでは大納言の信用が丸潰(まるつぶ)れになってしまう。早速なよたけの君にお引合せすることに致しましょうかな?……錦丸(にしきまる)! では、早速竹簾(たけすだれ)の紐(ひも)を引いて下さい。
侍臣(じしん) かしこまりました。
御所車の竹簾がするすると上った。その向うになよたけが立っている。……燦(きら)めくばかりの美しい衣裳(いしょう)を身にまとった、生れ変ったように美しいなよたけが立っている。……
片手には青々とした竹笹(たけざさ)の枝を持っている。……文麻呂は言葉も出ず、信じられぬかのように美しいなよたけの姿を仰ぐ。
男女の群集、私語でざわめき始める。
御行 さあ、なよたけ。……あなたの聟君(むこぎみ)のいらっしゃる所に着いたのですぞ。さあ、下りなさい。(彼女の手をとって、車から下ろそうとする。なよたけは空(うつ)けたように云うがままになる。彼女の手にした竹の枝をみて)おや、おや、大変なものをお家(うち)から持って来たんですね。(男女の笑声)まあまあ、それは持っていなさい。持っていた方があなたには似合います。(男女の笑声)
文麻呂 なよたけ!
御行 さあこちらのこの汚(きた)ない恰好(かっこう)をしたのが、あなたの聟君です。
男女達、腹を抱えて笑う。
なよたけ (やっと文麻呂に気がついて)……文麻呂! (文麻呂の胸にすがりつくと、急に気がゆるんだように、大声を上げて、泣き出す。……)
男女の哄笑(こうしょう)、再び爆発。
突然、物凄(ものすご)い電光と同時に、天地の揺らぐような雷鳴。……あたりはみるみるうちに暗くなった。烈(はげ)しい豪雨(ごうう)が降り出した。男女の群集、恐怖の声を上げて、消え失せる。二人の外には、大納言だけが仰天(ぎょうてん)したような顔をして、残る。
御行 (空を見上げ、歯の根も合わぬ震(ふる)え声)ああ、こ、これは大変な天気になって来た! あ、あなた方も、さ、早く!……なにをそう呑気(のんき)に抱き合ったりなぞ、しているのです! こ、これはひどい雨だ! さ、さ、あなた方も早く……
再び、前よりももっと烈しい電光と、続いて雷鳴。大納言は叫び声を上げて消え失せる。
二人は何の物音も感じないかのごとく、驟雨(しゅうう)の中に、寄り添って立っている。……もう一度最も烈しい電光。……雷鳴なし。
やがて、……
烈しい雲脚(くもあし)が次第次第に薄らいで行く。……あたりがだんだんだんだん明るくなって来た。……
長い間、身動きせず、無言のまま寄り添って、二人は立っている。
再び至福の太陽が雲間から、輝き出た!
雨に濡(ぬ)れて、あたりは金色に輝くごとく……
見よ! 大きな虹(にじ)があらわれた!
きらきらと輝く御所車の上つかた、斜めに天空へかかっている。
なよたけは文麻呂の胸に埋(うず)めていた顔を上げる。なよたけの涙も止った。輝かしい、この上もなく輝かしいなよたけの微笑(ほほえ)み。
文麻呂 なよたけ!
なよたけ 文麻呂!
文麻呂はなよたけの胸をかたく抱(だ)き締(し)めた。
なよたけ (ふと、訝(いぶか)しげに)文麻呂! なぜなの?……なぜ、あたしをそんなにきつく抱き締めるの?
文麻呂 お前が好きだからだよ! 死ぬほど好きだからなんだよ! もっともっと、つぶれるほど強くお前を抱き締めてやりたいんだよ!
なよたけ 待って! (抱擁(ほうよう)から脱(のが)れる)ねえ、文麻呂! 聞えない?……わらべ達があたしを呼んでるんだわ! あたしを見失ったわらべ達が呼んでるんだわ!
行者達の呼ばい声が玄妙(げんみょう)な鈴の音と共に聞えて来た。右手奥の方から……
吐菩加美(とほかみ) ほッ 依身多女(えみため) ほッ
吐菩加美 ほッ 依身多女 ほッ
文麻呂 (耳を澄まし)そうだ! わらべ達の声だ! お前は帰らなくちゃいけない。あの竹林の中に帰らなくちゃいけない。わらべ達がお前を呼んでいる!……なよたけ! 僕は夕方までに、都の家を引き払って、お前の処(ところ)へ行こう。……もう二度と再び都へなんか出て来るもんか! お前と一緒にあの竹林の中で一生暮すんだ! ねえ、なよたけ! もうお前と僕とは一生離れることは出来ないんだよ! そうだろう!
なよたけ (嬉しそうに肯(うなず)く)
文麻呂 (遠く右手奥を指し示し)さあ、お行き! あのわらべ達の声が道しるべだ! あの声の聞える方へどんどん行けばいいんだ! 夕陽の沈む頃、僕もお前の所へ飛んで行くよ! (なよたけの手を放す……)
行者の呼ばい声、突然、ふと聞えなくなる。文麻呂、右手奥へ走ろうとするなよたけを呼びとめて……
文麻呂 (怪訝(けげん)そうに)なよたけ!
なよたけ (立止り)何?
文麻呂 僕には聞えなくなってしまった。何にも聞えなくなってしまった。……お前にはまだ聞えるの?
なよたけ 何が?
文麻呂 あのわらべ達の呼んでいる声……
なよたけ (耳を澄まし)聞えるわ! 聞えるわ! とてもよく聞えるわ!
解放された小鳥のように、なよたけ、右手奥へ消える。……
文麻呂、何やら掴(つか)み難い不安にとらわれたような面持(おももち)で、彼女の去った方向を見送っている。
……突然、虹が消えた。
不意に、左手奥の方から、何やら不吉な幻聴(げんちょう)のごとく、わらべ達の声が聞えた。
だまされた だまされた
あんなあなにだまされた
なよ竹は大納言の手先だぞ。
文麻呂は、はっとした面持で、怪訝そうに左手の声の方向にふりかえる。
――幕――
第四幕
第一場
開幕前、「合唱」が低く聞えて来る。
合唱
白雲の たなびく里の
なよ竹の ささめく里の 天雲の
下なる人は 汝(な)のみかも 天雲の
下なる人は 汝のみかも 人はみな
君に恋うらむ 恋路なれば………
われもまた 日に日(け)に益(まさ)る
行方(ゆくえ)問う心は同じ 恋路なれば………
契(ちぎ)り仮なる一つ世に
踏み分け行くは 恋のみち
踏み分け行くは 恋のみち
静かに幕があがる――
竹模様に縁取られた額縁(がくぶち)舞台。
額縁舞台には緑色の薄紗(ヴェール)が幾重にも垂(た)れ下っている。
その奥の方から、竹を伐(き)る斧(おの)の音が忘我の時を刻むごとく、ひびいている。……
前舞台、左手より旅姿の石ノ上ノ文麻呂が現れる。しばらくは、耳を済ませて立止っているが、斧の音に吸い寄せられるかのように、額縁舞台の方へ歩み寄って行く。音もなく緑色の薄紗が次々に繰り上って行く。
場面は深遠なる竹林の奥。あたりは一面の孟宗竹が無限に林立し、夕陽が竹の緑に反映して、異様に美しい神秘境を醸(かも)し出している。あたりの空気は淀(よど)んだように寂然(せきぜん)としている。中央に小さな空地があり、竹取翁が、後向に坐って、じっとこぐまったまま、無心に竹を伐る斧を振っている。文麻呂は、しばらくは夢でも見ているかのように、翁の後姿を眺めている。…………
文麻呂 お爺(じい)さん!
竹取翁 (斧を振う手を、ふと止めて、訝(いぶか)しげに、後向きのまま耳を澄ます)
文麻呂 お爺さん!……ここです。ここですよ、お爺さん!
竹取翁 (そうっと振りかえって)どなたかな? こんな山奥に……
(竹取翁は姿も声も全く第二幕と同じ讃岐(さぬき)ノ造麻呂(みやつこまろ)であるが、翁(おきな)の「面」をつけている。話し振りは非常にゆっくりと穏かに)
文麻呂 僕です。僕ですよ。文麻呂です。……
竹取翁 (合点が行かぬと云うふうに、文麻呂をしげしげと眺め)おう、……旅のお方じゃな? 今時分、またどちらへ?……都へ上(のぼ)ろうとなされるのか、それとも……
文麻呂 僕は都を棄(す)てました! お爺さん! 僕は都を棄てて、なよたけの所へやって来たんです!……もう僕は二度と再び都へなんか帰りはしません。この竹林の中で一生暮すんです。なよたけと一緒に一生暮すんです。……お爺さん! 許して下さるでしょう! 僕はもう自由です。僕は都の人達からは見棄てられてしまった。親しい友達までが僕を裏切ってしまった。だけど、僕にはなよたけがついているんです。僕はなよたけが好きです。死ぬほど好きです。なよたけも僕を愛してくれます。お爺さん! なよたけを僕に下さるでしょうね!
竹取翁 何を云っておられるのかな?……儂(わし)にはどうも貴方(あなた)のおっしゃることがよくのみ込めんのじゃが……
文麻呂 お爺さん! もう、これ以上僕を苦しめないで下さい。僕は道に迷ってしまって、ずいぶん探したんですよ。どこまで行っても、お爺さんの家は見えて来ないんです。どっちを向いても、あたりは一面の竹の林だけなんです。まるで、僕はみんなが申し合せて僕を騙(だま)しているんじゃないかと思ってしまった。……この竹の林までが、何だか僕を目の敵にして苦しめているような……
竹取翁 貴方は一体どなたじゃな?
文麻呂 ? ? ?
竹取翁 貴方は一体どなたなのじゃ?
文麻呂 (何やら不可解な神秘をひめた翁の姿にぎょっとして、その顔をまじまじと凝視(みつ)める)
深い沈黙――
不吉な幻聴(げんちょう)のごとくわらべ達の声が聞えた。
だまされた だまされた
あんなあなにだまされた
なよ竹は大納言の手先だぞ。
文麻呂 (云い知れぬ不安にとらわれたように)……貴方は、……貴方はなよたけのお父さんではないのですか? あの竹籠(たけかご)作りの讃岐ノ造麻呂ではないのですか?
竹取翁 讃岐ノ造麻呂ですじゃ。儂は讃岐ノ造麻呂ですじゃ……
間――
文麻呂 それじゃ、貴方もあの大納言の手先なんですね? お爺さん、貴方も皆と一緒になって僕を騙そうとしているんですね? なよたけはどこに行ったんです! なよたけはここには帰って来なかったんですか! お爺さん! せめて、それだけでもいいから教えて下さい! なよたけは一体どこにいるんです!
竹取翁 なよたけ?
文麻呂 なよたけです。貴方の美しい娘です。……あなたの美しいなよたけです。
竹取翁 (独白)……儂(わし)の美しい娘……儂のなよたけ……(不意に面を上げると、しげしげと文麻呂を眺め、異様な熱情で)……おう、御存知なのか? 貴方は御存知なのか? 儂の夢を御存知なのか?……貴方はあのなよたけの赫映姫(かぐやひめ)の話を聞きたいとおっしゃるのじゃな? あの昔からのいいつたえを信じて下さると云うのじゃな?
文麻呂 いいつたえ?
竹取翁 この竹の里のいいつたえですじゃ。儂だけが知っているなよたけの赫映姫(かぐやひめ)の語りつたえですじゃ。儂の夢ですじゃ……
合唱 (静かに聞え始める)
いつの世の昔語りや、……
いつの世の昔語りや、……
竹取りの翁(おきな)ありけり。
竹取りの翁ありけり。
竹取翁、静かに身を起して、立上る。白銀(しろがね)に輝く手斧を片手に、静かに文麻呂の方へ歩み寄って来る。
いつの世の昔語りや、……
いつの世の昔語りや、……
竹取りの翁ありけり。
竹取りの翁ありけり。
竹や竹 竹山に
なよ竹を取る なりわいに
なよ竹を編む なりわいに
さらさらに我名は立てじ、よろずよや
万世(よろずよ)までにや 竹を編む。
これはしも 常春(とこはる)の
これはしも 常春の 伝えの里に
さやけき緑 絶ゆるなし
なよ若竹の 伝えの里に
さやけき緑 絶ゆるなし
竹取翁 (文麻呂の真近に来て)儂(わし)はもう世の中にはあの話を信じてくれる人は一人もおらぬと思っておった。なよたけの赫映姫はこのまま誰にも知られずに、無明(むみょう)の闇の中に消え失(う)せて行くものと諦めておった。お若い方、それでは貴方はこの竹の里にあのなよたけが本当にいるとお思いなのだな? あのなよたけの赫映姫の語りつたえを本当に信じて下されると云うのじゃな?
文麻呂 信じる?……お爺さん! 何をおっしゃるのです! 僕はこの眼でなよたけに逢いました! この腕でなよたけを抱きました!……命をかけて、なよたけを愛したのです!
間――
竹取翁 おう、……それでは貴方だったのじゃな? なよたけの愛の琴糸(きんし)をふるわせるまことの心を持った若者は貴方だったのじゃな?……そう云えば、なよたけは近頃、ついと儂の眼の前に姿をあらわさぬようになってしもうた。まるで、遠い昔の思い出かなんぞのようにあれの姿はいつとはなしにこの儂の心からだんだんと薄れて行きましたのじゃ。……どこやらに、儂の代りになよたけを愛しはじめた人が確かにいると思っていた。儂に代ってなよたけの愛を受け入れて下さる人が確かにいると思っていた。……それが貴方だったのじゃ。お若い方、それが貴方だったのじゃ。儂は永いこと探し求めていた。なよたけをまことの心で愛して下さる人を探し求めておった。儂に代って、あの美しい夢を後の世々まで伝えて下さる人を永いこと探し求めておったのじゃ。……なよたけの話を語り継(つ)ぐ人は貴方なのじゃ。儂の夢をとこしえの後までも語り伝えて下され。なよたけは儂の夢じゃ。かぐやは儂の夢じゃ。……
わらべ達の声………
だまされた だまされた
あんなあなにだまされた
なよ竹は大納言の手先だぞ。
文麻呂 お爺さん!……あなたはなよたけを夢だとおっしゃるのですか? それではこの僕までが夢を見ているとおっしゃるのですか?
竹取翁 かぐやを愛し始める。……と、その時から人は夢を見始めるのじゃ、……儂(わし)だって、この両の眼で何度あれの美しい姿を見たか知りませぬ。……この両の腕で何度あれの可愛らしい体を抱いたか分りませぬ。……だが、お若い方、なよたけのかぐやは愛するものの夢なのじゃ。……あの竹の林の中を跳(と)び廻っているあれの美しい姿。……唄をうとうているあれの可愛い声。……あれは今でも時々この儂の眼に儂の耳にはっきりと蘇(よみがえ)って来はする。だが、あれは儂にはもうまるで遠い昔の夢のような気が致しますのじゃ。……(翁は無限に遠くの世界を思い浮べる心)……おう、あれはいつのことじゃったろう?……貴方はあれがどこから生れ出たか御存知かな? あれは、本(もと)光る若竹の筒(つつ)の中から生れ出たのじゃ。……儂にはもうはっきりとは思い出せない。……まるで、何千年も遠く過ぎ去った昔のことのような気がする。……かと思うと、つい昨日のことだったような気もする。……時には、あれは自分とはまるで縁もゆかりもない遥(はる)かな遠つ世の語り伝えだったような気さえ致しますのじゃ。
合唱
げにうつし世は 夢ならむ
げにうつし世は 夢ならむ
何事もみな 思い出の
伝えは遠き 竹の里の
いつの名残(なご)りをとどめてや
いつの名残りをとどめてや
これやこの 遥けくも古(ふ)りにし伝え
跡や残るらむ 跡や残るらむ
聞えは朽(く)ちぬ世語りの
なよ竹山に翁ありけり
なよ竹取の翁ありけり
竹取翁 聞いて下されますか?……お若い方。なよたけのかぐやの世語りを聞いて下されますか? 儂の娘の生い立ちを聞いて下されますか?
文麻呂 聞きます、お爺(じい)さん。なよたけの話なら、僕は喜んで聞きます。
わらべ達の声、微(かす)かに遠く………
だまされた だまされた
あんなあなにだまされた
なよ竹は大納言の手先だぞ
竹取翁 (静かに語り始める)今は昔、竹取の翁と云う者がおりましたのじゃ。もとより、人目も稀(まれ)な竹山の隠れ里に住まう、しがない世捨人(よすてびと)、……野山にまじりて、竹を取りながら、それで竹籠(たけかご)なんぞを編んでは、細々とその日その日の生計(くらし)にあてておりましたのじゃ。……その名は、讃岐(さぬき)ノ造麻呂(みやつこまろ)と申した。……ところがある日のこと、そうして竹を取っていると、その中に本(もと)光る竹が一本あるのに気がついたのじゃ。……不思議に思うて、ふと、近付いてみると、その筒の中が光っておりますのじゃ。更によくみると、その中に小さな娘がひとり立っておりましたのじゃ。……それがあのなよたけのかぐやじゃった。……おう、儂はどんなにか待ちこがれておったことじゃろう。なよたけの赫映姫(かぐやひめ)はとうとうこの儂に授けられたのですじゃ。
わらべ達の声、微かに遠く………
だまされた だまされた
あんなあなにだまされた
なよ竹は大納言の手先だぞ。
文麻呂 お爺さん!
竹取翁 終(しま)いまでお聞き下され。儂の話を黙って終いまでお聞き下され。なよたけのかぐやがこうして生れたのですじゃ。長いこと待ちあぐんでいた儂の夢が正夢となって現れたのですじゃ。……お若い方。儂は信じておった。本当にあのなよたけが儂と一緒にいると信じておった。儂はまるで宝物を扱うように、大事に可愛がり育てましたのじゃ。そのうち、あの娘の容貌(かおかたち)の清らかに美しくなって行くこと、それはもう云うに云われぬほどで、そのために家の中は暗いところもなく、いつの日も光り輝いているようであった。儂(わし)が何かやまいで気分が悪しく、胸内が苦しいような時でも、あの子が眼の前にあらわれると、おのずとその苦しさが止むのじゃ。また、何か無性(むしょう)に腹の立つ時でも、あの子があらわれれば、やんわりと心が静まってしまうのじゃ。……なよたけのかぐやはこの儂のたったひとつの生(い)き甲斐(がい)じゃった。……そうこうするうちにあれは眼の覚めるような綺麗(きれい)な娘になって行った。世の中の男どもは、あれの美しさに惹(ひ)きつけられて、我も我もとこの儂のところに云い寄って来ては、執拗(しつこ)くあれを所望したが、誰(だれ)も彼もみな一時の浮気心であれを我物にしようとする色好みの愚(おろ)か者(もの)ばかりなのじゃ。あれの生い立ちを話して聞かせても、一人として信ずる者はおりませなんだ。儂の話を本当にせぬばかりか、終いには、皆、寄ってたかってこの儂を物狂い扱いにして、見向きもせんようになってしもうた。儂はまことの心で儂の話を聞き入れてくれる人はもうこの現(うつ)し世(よ)には一人もおらぬものと諦めてしもうた。……儂が己(おの)が力で己が現(うつ)そ身(み)を捨てて行ったのじゃ。……お分りかな? なよたけを夢と云うなれば、この儂も夢なのじゃ。今ではこうしてこの竹の里で、儂自身が夢になってしもうたような気がする……現(おつつ)の影はみな遠い昔の夢のように儂の心から薄れて行ったのじゃ。……物皆が儂の心から次第に喪(うしな)われて行く。……儂があれほど愛しておったなよたけのかぐやまでが、儂の心からだんだんと離れて行くのじゃ。……儂はあれを無明(むみょう)の中に喪うてしまいたくはない。お若い方、現そ身の人なれば、儂に代ってかぐやを信じて下され。後の世々までも儂の夢を伝えて下され。あれはもはや儂には遠く過ぎ去った前世の夢なのじゃ。儂に代ってあの美しい夢を夢みて下され。……あれは儂等には分らぬ天の声まで耳ざとく聴き分ける娘じゃ。あれが雨が降る、と云えば立ちどころに雨が降って来る。風が吹くと云えば、立ちどころに風が吹いて来る。あれは天女なのじゃ。月の都からこの世に送られてきた天女なのじゃ。なよたけを愛するとなればこの儂の話を信じて下さらねばなりませぬぞ。あれを人の世の女として愛してはなりませぬぞ。あれはいつの日にか月の都へ帰らねばなりませぬのじゃ。人の世のなべてのものに望みを失った時、天人達はあれを月の都に呼び戻すのじゃ。……それは、もち月のかがやく美しい夜じゃ。天人達は、空を飛ぶ月の車に乗ってこの現し世に舞い下りて来るのじゃ。天の羽衣(はごろも)を持ってこの現し世に舞い下りて来るのじゃ。
文麻呂 お爺さん!
合唱
げにうつし世は 夢ならむ
げにうつし世は 夢ならむ
何事もみな 思い出の
伝えは遠き 竹の里の
いつの名残りをとどめてや
いつの名残りをとどめてや
これやこの 遥けくも古りにし伝え
跡や残るらむ 跡や残るらむ
聞えは朽ちぬ世語りの
なよ竹山に翁(おきな)ありけり
なよ竹取の翁ありけり
竹取翁 (合唱にかぶせて)おう、今日もまた夕日が西の方(かた)に沈んで行く。……(静かに西の方を仰ぎ)御覧(ごらん)なされ。今日もまた夕日が西の方に沈んで行くのじゃ。……いつものように暗い夜がやって来る。……儂はいつかしらず深い眠りの中にいる。……そして、いつかしらず儂はまたさやかな陽の光のもとに目覚めているのじゃ。……この夢とも現(おつつ)とも知れぬ限りない時の間(ま)は一体いつまで続くと云うのじゃろうか? これは、見果てなき常世(とこよ)の夢じゃ。そうじゃ、儂は見果てなき常世の夢に生きている。……お若い方、貴方にはこの儂の姿が見えるのかな? 儂がここにこうして立っている姿が貴方には本当に見えるのかな? あの世語りの竹取翁はこの竹の林の中に生きておりまするのじゃ。讃岐ノ造麻呂はこの通りここにこうして生きておりまするのじゃ。……
翁は文麻呂から数歩離れた所に、まるで石像のように立ったままじっと動かない。日没前の異様な輝耀(きよう)を竹の緑に反射させて、夕陽が西の方に沈んで行った。文麻呂は何やら不可解な神秘に取(と)り憑(つ)かれたように、言葉もなく翁の姿を凝視(みつ)めている。
あたりは次第に暗くなって行く。……
翁の姿は、残像のように、夕闇の中に取り残されている。……
山鴿(やまばと)が遠近(おちこち)で、急に申し合わせたように鳴き始めた。
竹取翁 おう、山鴿が鳴き始めた。……儂(わし)にはもうあれの唄う可愛らしい唄声も聞えなくなってしまった。……儂はまるでつい昨日のことのように覚えている。あの子は山鴿が鳴き始める頃になるときまって唄をうたい出したものじゃ。山のわくらべどもと一緒になって、可愛い声を出して唄をうたい出したものじゃ。……儂にはもうそれさえ聞えなくなってしもうた。あれはもう二度と儂の前に姿をあらわしては来ぬような気がする。あれにはもうこの儂が必要ではなくなったのじゃ。なよたけのかぐやは竹取翁を見離して行きまする。この儂を見棄(みす)てて、貴方のものになるのじゃ。あれにはもうこの竹の里は要(い)らぬものになってしもうた。……御覧なされ。なよたけを失うたこの伝えの里はだんだんと荒れすさんで行きまする。……おう、風じゃ。滅(ほろ)びの風が吹きつのりはじめた、……この伝えの里は儂と共に滅びて行きまするのじゃ。……お願い致しまするぞ。儂に代ってなよたけのいいつたえを信じて下され。儂に代ってなよたけを夢みて下され。
竹の葉に不気味な音を立てて、強い風が吹きつのり始めた。竹の落葉が烈しい渦(うず)を巻いて、二人の足許に乱れ散り始める。風の音に交って、不安げな山鴿の声、しきり。
竹取翁 (哀願するごとく)お若い方、お願い致しますぞ。儂の話を信じて下されますな?……儂はすっかり話してしもうたのじゃ。貴方にだけはすっかり話してしもうたのじゃ。儂の夢を伝えて下さるのは貴方じゃ。貴方をおいて他(ほか)にはないのじゃ。とこしえの後までもなよたけの夢を伝えて下され。……おう、何やら儂は身も心も軽々として来た。……儂はいよいよ無明の闇の中へ姿を消す時が来たらしいのじゃ。
文麻呂 お爺(じい)さん! 何をおっしゃるのです!……
竹取翁 信じて下さりますな? お若い方、なよたけは天女じゃ。信じて下さりますな?
文麻呂 お爺さん! なよたけは……
竹取翁 なよたけは天女じゃ! 本(もと)光る若竹の筒の中から生れた天女じゃ! お若い方、信じて下さりますな?
烈しい風の音。その中から幻聴(げんちょう)のようにわらべ達の声がする。
わらべ達の声 信じるの! 文麻呂! そんなこと……
竹取翁 なよたけは月の都から送られて来た天女じゃ! 人の世の女として愛してはなりませぬぞ! なよたけは夢じゃ! 現(うつ)そ身(み)の女として愛してはなりませぬぞ! お若い方、信じて下さいましょうな?
わらべ達の声 信ずるの! 信ずるの! 文麻呂! 信ずるの! そんなこと……
竹取翁 信ずると一言云って下され! 儂は無明の闇の中に消えて行くのじゃ! 儂はなよたけの夢がとこしえに生きるのを確かめてから消えて行きたい。……お若い方、信ずると一言云って下され。
突然、竹林の間から雨彦の姿が幻影のごとく浮び上った。
雨彦 文麻呂! なよたけはお前を騙(だま)した! あの子は大納言の手先だぞ! (消える)
続いて、今度は別の所から胡蝶(こちょう)の姿が浮び上った。
胡蝶 文麻呂! なよたけは都にいるの! 綺麗(きれい)な着物を着て都にいるの! (消える)
続いて、けらおの姿が浮び上った。
けらお 文麻呂! なよたけはあんなあなだ! 文麻呂はあんなあなに騙された! (消える)
竹取翁 (だんだんと声が弱まって行く)信じて下さらぬと云うのか? 貴方は儂の話を信じて下さらぬと云うのか?
こがねまる、みのり、蝗麻呂(いなごまろ)の姿が一時に浮び上った。
三人 (一緒に)
だまされた だまされた
あんなあなにだまされた
なよ竹は大納言の手先だぞ。
竹取翁 (次第に力なえるごとく)信じて下さらぬと云うのじゃな? お若い方、貴方は儂(わし)の話を信じて下さらぬと云うのじゃな? ひとことでよいから信ずると云って下され。ひとこと、信ずると……
翁(おきな)の言葉がふと途切れる。すると、翁の姿は濃い蒼色(あおいろ)の光に照らされ始めた。白銀の斧(おの)がその手に異様に光っている。
なよたけの声 (突然、左手より風の音に交って聞えた)文麻呂! 文麻呂!……信じては駄目よ! 誰の言葉も信じては駄目よ!
文麻呂 (はっと我に返ったように)なよたけ! どこにいるんだ! 教えておくれ!……なよたけ!……お前はどこにいるんだ!
竹取翁 なよたけは信ずるものを喪(うしの)うた。なよたけの夢は現(うつ)し世(よ)から消えて行くのじゃ。……竹取ノ翁もなよたけのかぐやも無明の中に消えて行くのじゃ。
文麻呂 お爺さん! 貴方には聞えないのですか? あのなよたけの声が貴方には聞えないのですか?
風の音烈しく……
なよたけの声 文麻呂!……竹の林を出て! 竹の林を出て! 果しもない夜空の下にあたしは立っている! お星様が残る隈(くま)なく見える所にあたしは立っている!……文麻呂! 早く竹の林を出て! 竹の林を出て!
文麻呂 お爺さん!……なよたけが僕を呼んでいる! 僕にはあの女(ひと)の声がはっきりと聞えるのです! なよたけは夢ではありません! なよたけはこの竹林の外で僕を待っている。……竹の里の伝説は滅(ほろ)んでも、なよたけの姿は決して亡びはしません! なよたけはこの竹の里を捨てて、今こそ僕のものになるのです! 今こそ僕の妻になるのです!
竹取翁 なよたけは月の都に呼び戻されるのじゃ。……人の世のなべてのものに望みを失った時、あれの魂は月の都に呼び戻されるのじゃ。……儂の夢はこのまま永久に消え去って行く。語り継ぐものとてないこの里の云い伝えはこのまま永久に消え去って行くのじゃ。
なよたけの声 文麻呂! 文麻呂!
文麻呂 お爺さん!……僕は行きます! 僕は行かなければならない!
文麻呂、左手の方へ去ろうとする。
烈しく乱れ飛ぶ竹の枯葉。不気味な風の音。蒼色に照らされていた翁の姿は次第に力なえるもののごとく夜の闇の中に消え失せて行く。
竹取翁 (絶え入る如く)貴方は一体どなたなのじゃ? 儂の夢を奪い去ろうとしている貴方の名前は何というのじゃ? この竹の里からいわれ古き遠世の伝えを持ち去ろうとしている貴方は一体何とおっしゃる御方なのじゃ?
なよたけの声 文麻呂! 文麻呂!
文麻呂 (翁をふりかえって)僕の名はなよたけが呼んでいる! お爺さん! 僕の名はなよたけが呼んでいる!
文麻呂、左方へ消える。
翁の姿は蒼い残像をのこして、徐々に闇の中に消えて行った……風の音も、闇の中に吸い込まれるように消えて行った。……闇の静寂。どこからともなく、斧の音がひびき始めた。それは不気味なほど、はっきりしたひびきをもって、無明の時を刻み始めたのだ。
合唱(ごく低く)
無常の風に 春の陽の
常世(とこよ)の緑 吹き消えて
今ははや いずこの方(かた)か……
常世の緑 吹き消えて
翁が影は失せにけり
夜の深淵(ふかぶち)に 跡絶えて
翁が影は失せにけり
(斧の音)
あとにただ、……
ひびかうは 時の音(ね)の
ひびかうは 時の音の
無明に刻む 斧の音……
ただ、白銀(しろがね)の
無明に刻む 斧の音……
(斧の音)
わらべ達の声 (遠き挽歌(ばんか)のごとく)……さようなら! 文麻呂!……
ひびかうは 時の音の
ひびかうは 時の音の
無明に刻む 斧の音……
わらべ達の声 (消え入るように、遠く微(かす)かに……)さようなら! 文麻呂! さようなら! 文麻呂!……
緑色の薄紗(ヴェール)が幾重(いくえ)にも垂(た)れ下って行く。
〔溶暗〕
第二場
寺々の鐘の音
合唱
夕暮の 鐘の常無きひびき音(ね)に
鐘の常無きひびき音に
今ははや、……
いずこの方か 春の陽の
常世(とこよ)の緑 消え失せて
伝えの里は 滅べども
なよ竹のささめく里は
消ゆれども
天雲の下なる人は、汝(な)のみかも
天雲の下なる人は、汝のみかも
人はみな 君に恋うらむ
……恋路なれば。
われもまた 日に日(け)に益(まさ)る
行方(ゆくえ)問う心は同じ 恋路なれば。
契(ちぎ)り仮なる一つ世に
踏み分け行くは 恋のみち
踏み分け行くは 恋のみち
なよたけの声 (舞台奥より)文麻呂! 文麻呂!……
薄紗(ヴェール)の幕が再び次々に繰(く)り上って行く。場面は、竹林を出たばかりの所で、小高い丘陵(きゅうりょう)の一端の感じ。遠い丘陵が幾つか連なっているのが夜空に遥かに黒く浮んで見える。――
天空には燦然(さんぜん)と、星々がきらめいて、深遠なる宇宙の絵図が果しもなく拡がっている。
中央に、なよたけが前幕と同じ華麗(かれい)な衣裳を身にまとって、冴え渡った星空を背景にして、立っている。片手にはしっかりと竹の小枝を握ったまま、何か差し迫る眼に見えない大きな力に弱々しく抗している様子である。
その顔は「面」のように作られ、奇妙(きみょう)に清らかな「死相」を感じさせる。天空の彼方(かなた)から吹き来たる風が、衣裳の袂(たもと)や、手にした竹の枝葉をかすかに揺らしている。……
文麻呂の声 (右手より)なよたけ! なよたけ!……
なよたけ 文麻呂! ここ! あたしはここよ!
文麻呂舞台右手、竹林の外(はず)れの所に姿をあらわす。
文麻呂 (信じられぬかのように、言葉もなくしばらく茫然となよたけの姿を打ち眺めて立っている……)
なよたけ 文麻呂! 文麻呂! あたしよ! なよたけよ!
文麻呂 なよたけ!……お前は本当にそこにいるの?……果しもない星の夜空に身をさらして、……信じられない。……お前は僕を騙(だま)そうとするんじゃないだろうね? 近づこうとするとすぐ消えてしまうあの忌々(いまいま)しい幻影(まぼろし)ではないんだろうね?
なよたけ 本当よ! 文麻呂! 本当にあたしはここにいるの!……あたしはこうして立っている。あんたの眼の前にいるの! いつまで見てたっていいわ! あたしはいつまでも消えやしない……
二人、しばらく互に遠くから相見る……
文麻呂 (限りない悦(よろこ)びが溢(あふ)れて来る)ああ、夢じゃないんだ。……僕は誰の言葉も信じなかった。ただ、お前だけを信じていた。お前の声だけを信じていた。
なよたけ 文麻呂、……どうしたの? 涙なんか……
文麻呂 なよたけ、お前はそんな処(ところ)から僕の涙が見えるの?……(彼女の傍に走り寄り)なよたけ!……僕はずいぶん苦しい目に遭(あ)った。お前を探して、竹の林の中をあてどもなくさまよい歩いていたんだ。……どこまで行ってもお前の家は見えて来なかった。どっちを向いても一面の竹の林だけなんだ!……僕は夢を見ていた。不吉な夢にうなされていた。いつかしらず、夜が来て、どこからともなくお前の声が聞えて来た。僕を呼んでいるお前の声が聞えて来た。……ああ、あれから一体どこをどう歩いて来たのだろう?……僕はただ、お前の声だけを信じていた。お前の呼び声だけを信じていた。だけど、もういいんだ。何もかも。……お前は僕の前にいる! 夢じゃないんだ!……(自分の旅姿を見せる)なよたけ! 御覧(ごらん)!……僕は都を棄(す)てた。僕はもう二度と再び都へは帰らないんだ。……
なよたけ 文麻呂!……あたしも! あたしも竹の林を棄てたの! お父さんを棄てたの! わらべ達も棄てたの! 竹とあたしの間には、もう何もない。……あたしはたったひとり。……あたしにはもう帰って行く所もないわ。あんただけなの。あたしを幸せにしてくれる人は世の中に、文麻呂、あんたひとりしかいないのよ!
文麻呂 なよたけ! お前は信じてくれるだろ?……お前の清らかな魂を信じているのは世の中に僕ひとりだけだってこと。……お前のためならばこそ僕は喜んで都を棄てた。光栄も捨てた。……償(つぐな)いも捨てた。……僕は世捨人(よすてびと)だ。僕はたったひとりだ。僕は世間の者達からは気違いとして葬られた。都では、ただ一人の正しいものをこう呼んでいる。……真実の愛を求めるものをこう呼んでいる。……なよたけ! どうして僕にお前を手離すことが出来たろう! 世間の者から何と云われたって、僕はただ、お前を愛さずにはいられなかったんだ!
なよたけ 文麻呂! でも、もういいの! もういいんだわ! 何もかももういいんだわ!(彼女の眼に露が光っている)……
文麻呂 なよたけ。……お前も泣いているね? (彼女の肩に両手を掛けて)もう何も心配することはないんだ。僕はこうしてお前の所へやって来た。これからは何もかも皆望み通りに行くんだ。僕達はもう一生離れることなんかないんだよ。いつまでもいつまでも二人は決して離れることなんかないんだよ。……御覧! なよたけ! 僕達はこんなに素晴しい大空の下にいるんだ。僕達は忘れていた、長い間、この広々とした限りない星空を仰ぐのを忘れていた。……
二人は肩を寄せ合ったまま、深遠なる星の夜空を仰ぎ見る。
文麻呂 僕達は自由だ。……なよたけ! もう、僕達の幸福を邪魔(じゃま)するものは何ひとつありはしないんだよ。
なよたけ 文麻呂! あたしをしっかり抱いて! 文麻呂! あたしをもっとしっかり抱いて頂戴(ちょうだい)!
文麻呂 どうしたの? なよたけ……
なよたけ 文麻呂! あたし達はしっかり抱き合っていないと、この大空の中にすべり落ちてしまうわ。……どこまでもどこまでも限りなく遠い大空の果まで落ちて行ってしまいそうな気がするの。
文麻呂 (彼女を胸の中に抱き寄せて)何を云ってるんだ、お前は。……
なよたけ (抱かれたまま)……あたし、急にそんな気がしたの。……ねえ、文麻呂、あたし達はきっと小さな星なんだわ。あの空に一杯輝いている数知れぬ星と同じような……そうよ! あたし達はきっと小さな星なんだわ。
文麻呂 なよたけ!……幸いの星だ。僕達は大空の中にたったひとつの幸いの星だ。
なよたけ こんなことって、あたし、今までちっとも考えたことないの。だけど、きっとそうだわ。……あの数知れないたくさんの星と一緒にあたし達の星も、この広々とした大空の中をあてどもなくめぐりめぐっているんだわ。そして、とても綺麗(きれい)な星に違いないわ。きっと、一番美しくきらきら輝いているんだわ。……ねえ、文麻呂。そんな気がしない? あたし達はいつの間にか大空の真只中(まっただなか)に出てしまったの。もう、どうすることも出来ないんだわ。ただ、しっかり抱き合っているだけ。いつまでもいつまでも離れないようにしっかり抱き合っているだけ。……文麻呂! 文麻呂! あたしをしっかり抱いて頂戴!
文麻呂 抱いている。こんなに強くお前を抱いている。……
なよたけ ……ああ、嬉(うれ)しいわ。この広い大空の中で、あたし達はたった二人だけなのね。たった二人だけ。……あたし達だけが生きている。……あたし達だけが本当に生きている。……こうしている時だけが、本当にいのちと云うことなのね。あたし達の背後(うしろ)には何にもない。あたし達の前には何にもない。……ただ、このしあわせな時の間(ま)だけがすべてなんだわ。……ねえ、文麻呂! どうすればいいの! このしあわせな時の間がいつまでもいつまでも果しなく続くようにするには、どうすればいいの!
文麻呂 生きて行くんだ。お互いの愛を信じ合いながら、強く生きて行くんだ。なよたけ! 僕達はまず、家を作ろう。……同じ屋根の下で僕達は一緒に暮すんだ。どこか人里離れた静かな山の中に、綺麗な家を一軒建てよう。軒には品のいい半蔀(はじとみ)を釣るんだ。……家の周(まわ)りには檜垣(ひがき)をめぐらしてもいい。それから、小ざっぱりした中庭を作ろう。切懸(きりかけ)のような板囲いで仕切って、そいつには青々とした蔓草(つるくさ)を這(は)わせるんだ。中庭には、あちこちに夕顔の花が一杯咲く、……ねえ、なよたけ! 僕は夕顔がとても好きなんだぜ!
なよたけ 文麻呂、……そうすれば、あたし達は幸せになれるの? 今よりも、もっともっと幸せになれるって云うの?
文麻呂 なれるとも! きっとなれるとも! もう大空と僕達の間をさえぎるものは何もないんだ。天の恵みに充(み)ち溢(あふ)れたこの上もない幸福(しあわせ)な生活なんだ。
なよたけ 文麻呂。……あたし達にはもう何も起らないんだわ。……もう。これから先、あたし達には何にも起らないんだわ。
文麻呂 僕もそう思う。……もう、僕達の幸福の邪魔をするようなことは、何も起らないんだ。
なよたけ そうじゃないの、文麻呂。あたしは、もうこれで何もかもが一度にみんな起ってしまったんじゃないかと思うの。何だかそんな気がするの。こんな幸福が一時(いちどき)にあたしを訪れて来るなんて!……あたし、何だかまるで、一生の幸福が一ぺんに来てしまったような気がするの。ねえ、文麻呂。あたしがこの世に生れて来たのは、ただ、あんたを愛するためだけだったんだわ。……
文麻呂 僕だってそうだ。なよたけ! 僕だってお前を愛するためにこの現(うつ)し世(よ)に生れて来たんだ。お前は僕のいのちだ! たったひとつのかけがいのない僕のいのちだ!
なよたけ (何やら不安に襲われたように)ねえ、文麻呂! あたしの一生はもしかしたらこのまま終ってしまうんじゃないかしら?……あたし、さっきから変な胸騒ぎがするの。何か分らない不吉な胸騒ぎがするの。……文麻呂! あたしはもうこの世に生きるつとめをすっかり果してしまったんじゃないかしら?
文麻呂 何を云ってるんだ? そんなことがあるもんか! 僕達が愛し合うのはこれからなんだ!……お前は清らかな若竹の中に太陽に導かれながら、すくすくと育って来た。人の世の汚れも知らずに、清浄ないのちを生きて来た。お前はもう竹の里から離れたって立派にひとりだちが出来るんだよ、……なよたけ! お前はこれからは僕と一緒に強く生きて行くんだ。僕達の行手を遮(さえぎ)るものはもう何もありゃしない。この大空のように果しない愛の世界があるだけなんだ。僕達はこれからもっともっと愛し合って行くんだ。この上もない愛のしあわせを僕達だけの力で作り上げて行くんだ……
なよたけ (切ない疑惑をもって)文麻呂!……あたし達にこれ以上愛し合うことなんて出来るの? 今よりももっともっと愛し合うことなんて出来るの?……あたしには考えられないわ。これ以上の愛のしあわせがあるなんて、……あたしにはとても考えられないわ。
文麻呂 なよたけ! お前は何も知らないんだ。僕達が本当に愛し合うのはこれからなんだぜ。人間はもっともっと烈(はげ)しく愛し合うことが出来るんだ。もっともっと幸福(しあわせ)になることが出来るんだ。
なよたけ あたしには信じられない。……文麻呂、あたしには、そんなこと、とても信じられないわ。
文麻呂 なよたけ、……そうだ、僕達はこれからすぐに旅に出よう! 黙って僕についておいで! 僕達は旅に出るんだ!
なよたけ 旅?……どこへ行くの、文麻呂?
文麻呂 東の国だ。そこにはこの上もない僕達の幸福が待っている。
なよたけ 遠い国?……
文麻呂 (遠く思いを致す)……はるかな旅路だ。……だけどね、なよたけ、そこには僕達の新しい故郷(ふるさと)が待っている。……そこには懐しいお父上が僕達の来るのを待っていて下さるんだよ。
なよたけ 文麻呂!……あんたのお父様?
文麻呂 うん、……そしてお前の優しいお父様だ。……お父上はきっとお前を喜んで迎えて下さるに違いない。きっとお前をこの上もなく可愛がって下さるよ。
なよたけ でも、文麻呂。……あたしの顔を見て。あたしにそんな遠い所まで旅をする元気があるかしら?……ああ、あたしはなぜだかだんだん身も心も疲れきって行くわ。どうしてかしら? 何だかこうして立っていることさえ耐(た)えられないほど苦しいの。……
文麻呂 (不吉な予感を打ち消すように)なよたけ! 何でもないんだ! しっかりおし! お前はただ疲れているんだよ。……ねえ、なよたけ。それじゃ、お前がまた元気な体になるまでどこかで待っていてもいい。ここからそんなに遠くない瓜生(うりゅう)の山里に、衛門(えもん)と云う僕の忠実な爺やが瓜を作りながら暮しているんだ。僕達はこれからそこへ行こう! しばらくその家に厄介(やっかい)になって、お前がすっかり元気になってから改めて東国へ旅立つことにしよう!……ね? いいだろ?……さあ、なよたけ! とにかく、この丘を下りよう! (促すように、舞台奥を指し)あんな広々とした天地が僕達を呼んでるんだ!
なよたけ 待って、文麻呂! あたしは駄目! あたしはやっぱり駄目なんだわ! あたしはこの竹の林の外へ出てはいけなかったんだわ!
文麻呂 (ぎょっとしたようになよたけの蒼白(そうはく)な顔をのぞきこむ……)
なよたけ (空(うつ)けて行くように)……文麻呂!……誰(だれ)かがあたしを呼んでいるの。声のない言葉で、……何かほの白い寒気のするようなものがあたしを呼んでいるの。……文麻呂! あたしには、何かしら逃れられない前の世からの契(ちぎ)りがあったんだわ。それが今、蘇(よみがえ)って来るの。眼に見えない雲のように、遠い前の世の物思いがだんだん蘇って来るの。あたしは、いつの頃か、この竹の林の中に生れた。世の中の事は何も知らずにこの竹の林の中で幸せに育って来た。……あたしはきっと竹の中でしか幸せになれなかったんだわ。竹の中でしか生きて行けない人間だったんだわ。この竹の林を見棄ててしまえばあたしは何だかもう生きて行くことさえ出来ないような気がするの。
文麻呂 (烈しく)なよたけ! 信じてはいけないよ! 僕以外の誰の言葉も信じてはいけないよ!
なよたけ (だんだんと独白ふうになって行く)あたし、初めてあんたに逢った時から、二人だけの幸福を夢みていたわ。それは青々とした竹の林にかこまれて、あんたと一生楽しく暮すことなの。……ああ、だけど、もう駄目。遅過ぎたわ。あたしは、もう、この竹の林を見棄ててしまった。お天道(てんとう)様のおっしゃることに背(そむ)いて、一旦都へ出てしまったあたしはきっと罰を受けなければならないんだわ。黙ってここでじっと苦しみに耐えて行かなければならないんだわ。……文麻呂! あたしにもどうしてだか分らない。だけどもうあたしの幸福はこれっきりで終ってしまうような気がするの。……あたしはどこにも行ってはいけないんだわ。ここで黙ってひとりで待っていなければならないんだわ。
文麻呂 なよたけ! 何を待っているんだ!……しっかりおし! 何を待ってるって云うんだ! そんなことがあるもんか! そんなことが……
なよたけ (急に烈しく咎(とが)めるような調子になり)文麻呂! あんたはあたしがあんな車にのせられて都へ連れて行かれるのをどうして止めてくれなかったの? どうしてあたしが好きになった時、すぐにでも都を棄てて、あたしのところに飛んで来てくれなかったの?……ああ、そうすれば、あたし達はそのままずっとしあわせに暮せたかもしれないのに!
文麻呂 (次第に懺悔(ざんげ)するもののごとく)なよたけ、……許しておくれ。僕は自分の心を偽(いつわ)っていたんだ。不純な虚栄に心を奪(うば)われていたんだ。僕の心は濁(にご)っていた。僕にはお前のその清らかな透(す)き通った心が恐しかったんだ。お前に初めて逢った時から、僕はお前が好きで好きでたまらなかったのに、今日になるまで自分の本心をかくしていた。僕にはあんなあなが取憑(とりつ)いていたんだ。……(次第に慟哭(どうこく)するもののごとく)……なよたけ! 許しておくれ! 僕が悪かったんだ!……なよたけ! 許しておくれ!
なよたけ (何かその眼は次第に神々しい光に輝き始める)いいのよ。いいのよ。……ああ、あたしって何て悪い子でしょう。こんなことを云って、またあんたの心を苦しめようとするのね。いいのよ。いいのよ。あんたはいい人なんだわ。あんたはいい人なんだわ。
文麻呂 なよたけ! (烈しく抱きすくめる)今日からだって僕達は決して遅くはないんだよ! 決して遅くはないんだ! 心の正しい僕達二人をお天道様が許して下さらないなんて、どうしてそんなことが考えられよう! 何もかも今日からなんだ! 僕達の新しい生活は今日から始まるんだ! さあ、元気を出して、一緒に行こう!
なよたけ 文麻呂! 本当にそう思う! 本当にそう思う! (切(せつ)な気(げ)に文麻呂の胸にすがりつき)……ああ、文麻呂! 文麻呂! あたしを棄てちゃ嫌(いや)! あたしを棄てちゃ嫌!
文麻呂 何を云うんだ!……お前を棄てるなんて……
なよたけ (突然、烈しい不安に襲われたごとく、表情は硬直(こうちょく)した)文麻呂! あたしをしっかり守ってて! あたしをしっかり守ってて! あたしをお月様の所へなんか行かしては嫌よ!
文麻呂 (凝然(ぎょうぜん)として)お月様!
なよたけ (心は次第に天界の彼方(かなた)に放たれて行く)文麻呂! ほら! お月様からあたしを迎えに来るんだわ! お月様からお迎えの人達が雲に乗って下りて来るんだわ! 遠くの方から、あの人達の話し声が聞えて来るわ! ほら! 文麻呂! 聞えるでしょう! 聞えるでしょう! あれは空を飛ぶ月の車の音なの!
文麻呂 (呆然(ぼうぜん)と)僕には聞えない……
なよたけ ほら! あの天の頂きの辺がだんだん明るくなって来たわ! あれは、月の国の使いが雲に乗ってあたしを迎えにやって来るの! ……文麻呂! 文麻呂! あたしをあの人達の手に渡しては嫌よ! あたしを離しては嫌よ!
文麻呂 なよたけ、僕には何も見えない……
なよたけ ああ、あたしは死にたくないの! あんたと一緒にいつまでもいつまでも生きていたいの! あたしをしっかり抑(おさ)えてて! あたしをしっかり抑えてて!……あたしがあの人達の手に渡されてしまったら、もう何もかもみんなお終(しま)いなのよ! あの人達は天の羽衣(はごろも)を持って来るの! あたしに着せようと思って天の羽衣を持って来るの! それを着せられてしまったら、あたしはもう、あんたのことも、何もかも、この世のことはみんな忘れてしまわなければならないんだわ! いくら思い出そうとしたって、もう駄目なんだわ! あたしは記憶を失ってしまうの! あたしは人間ではなくなってしまうの! あたしはこの世の人ではなくなってしまうの!
文麻呂 なよたけ! お前は何を云ってるんだ!……お月様からお迎えが来るなんてそんなことがあるもんか! みんな、心の迷いなんだ。お前は疲れてるんだよ。疲れのために心が乱れてるんだよ。……さあ、あそこの草の上に腰(こし)を下ろして、しばらく身体をおやすめ。……お前はしばらく、じっと静かにしていなくてはいけない……(いたわるように彼女を抱えて、連れて行こうとする)
なよたけ ああ、文麻呂! 文麻呂!……(発作(ほっさ)的に衣裳(いしょう)の襟(えり)に手をやって、苦しそうに)この重っ苦しい着物を脱(ぬ)がして!……この着物がいけないんだわ!……苦しい、……息がつまりそう。……苦しい、……文麻呂! 脱がして! 脱がして!……(気を失ったように、よろよろと彼の胸に倒れかかる。片手から竹の枝がはらりと地面に落ちる)……
文麻呂 なよたけ! どうしたの! しっかりおし! なよたけ! (彼女を抱きかかえたまま、前面に連れて来て、丘の傾斜面にそっと横たえる。突然、驚愕(きょうがく)の色)なよたけ! 死んじゃいけない! しっかりおし! しっかりおし! (衣裳の襟を押し開いてやろうとする)なよたけ! なよたけ!……僕が分るかい! え! 僕の声が聞えるかい!
なよたけ (かすかに頷(うなず)き、落した竹の枝の方に弱々しく手を差しのべて)竹!……文麻呂!……竹! 竹!……
文麻呂、その差しのべられた手の行方(ゆくえ)に竹の枝が落ちているのに気がつく。
はっとして、急いで駆(か)けより、それを手に、再び戻って来る。なよたけはもうぐんなりとしている。
文麻呂 さ、しっかりとお掴(つか)み! しっかりとお掴み!……お前のいのちよりも大切な……(なよたけは死んでいる)なよたけ
文麻呂は呆然として、なよたけの死顔を凝視(みつ)める。……
背後の天空にいつの間にやら大きな満月がぽっかりと浮び上った。白色光の神秘な光芒(こうぼう)があたりに耀(かがよ)いはじめた。……そして、どこからともなく、「雅楽」のような不思議な楽音がかすかに聞えて来る。やがて、文麻呂は魂を失ったもののごとく、茫然として立上る。……彼の手から、なよたけの美しい衣裳の上に竹の枝がはらりと落ちかかった。……「合唱」が低く低く、聞えて来る。
合唱
かくばかり 憂(う)けく辛(から)けく なよ竹の
かくばかり 憂けく辛けく なよ竹の
花も常無き 現(うつ)そ身や
珠(たま)の緒(お)の惜しき盛りに 立つ霧(きり)の
失(う)せぬるごとく 消(け)ぬるごとく
おとめごは いま みまかりぬ
おとめごは いま みまかりぬ
なよたけは今や忘れられたもののごとく、文麻呂の姿のみ神秘な白色光の光芒に包まれて行く。文麻呂は、魔に憑(つ)かれたように、天空の彼方(かなた)を打ち眺める。……
月は白銀に輝く棚雲(たなぐも)の上、異様に冴(さ)え渡って行く。
現し世の 旅にまどいて
甲斐(かい)なくも 散るべきものを
いつの世の契(ちぎ)りなりけむ。
今はただ、彼の岸の光に充(み)ちて
我はなお、君に恋うらむ
みまかりし 君に恋うらむ
恋路なれば
今はただ 彼の岸の 光に充ちて
我はなお、君に恋うらむ
みまかりし 君に恋うらむ
恋路なれば
不可思議な楽音、高調し、白色光の光芒はあたりに異様に充ち溢れて……
静かに幕――
第五幕(終幕)
東国のある丘陵(きゅうりょう)地帯にある石(いそ)ノ上(かみ)ノ綾麻呂(あやまろ)の任地。約二ヶ月後の七月初旬。
幕が上ると、場面は緑の丘陵が遠々と拡がっている、例えば相模(さがみ)ノ国のある風景。
舞台左手は小高い丘。右手にかけて、なだらかな傾斜が続いている。
丘の頂上には、雑木の丸太で作った粗末な掛台がひとつ。石ノ上ノ綾麻呂がその上に腰を掛けて、前方右手の方を遠く放心したように眺めている。雨雲が晴れる前の、何やら落着かぬ雲行である。
丘の向う側より、瓜生(うりゅう)ノ衛門(えもん)現れ、舞台右手に立つ。
衛門 旦那(だんな)様。お独(ひと)りで何をしていらっしゃるのです。
綾麻呂 おう。衛門か?………む、待っているのだ。……長いこと、鬱陶(うっとう)しく蔽(おお)いかぶさっていたこの梅雨雲(つゆぐも)が今日こそは晴れるのではないかと思ってな。……待っているのだ。
衛門 晴れそうでございますか?
綾麻呂 晴れそうだ。昨日から雨も止んでしまったし、この分ではもう梅雨は終りだ。もうすぐ晴れるのではないかと思う。……(雲行を見ている)
間――
衛門 (丘の上に上って行きながら)それにしても、駿河(するが)の国にあると云う山が、ここからそんなにはっきりと見えるものでしょうか?
綾麻呂 見えるとも! 晴れた日なら、百里も離れた所からでも見えるだろう。……いや、もう、何と云うか、……実に見事なのだ。実に高いのだ。実に美しいのだ。
間――
衛門 (指さして)あの辺でございますか?
綾麻呂 (前方右を指し)いや、……あの辺だ。
衛門 何でも話に聞くと、摺鉢(すりばち)を伏せたような山だそうではありませんか?
綾麻呂 情無いことを云う奴だな。……摺鉢とは情無いことを云う奴だ。そんなのは凡人の言草だ。……せいぜい、下手糞(へたくそ)な絵でも見た奴が考え出した形容だろう。……実物を見れば、それこそ物も云えなくなってしまうのだ。……何と云うかな?……何とも云いようがない。「天雲のそきえのきわみ……」とでも読み出さなければ、とても後が続かない。
衛門 今時分でも頂上には雪が積っているのだそうですね?
綾麻呂 積っている。……儂(わし)がここへ赴任して来た当時は半分から上は純白の雪に蔽(おお)われていた。……この長雨で、あるいは幾らか溶けてしまったかもしれんが、……ま、いずれ雲が晴れてみれば分る。……玲瓏(れいろう)と云うか崇厳と云うか、とにかく、あれは日(ひ)の本(もと)の秋津島(あきつしま)の魂の象徴だ。……儂はもう文麻呂の奴に早くみせてやりたくてな。
衛門 手前だって早く見とうござります。
綾麻呂 いや何も別にお前には見せないと云うわけではない。ただあの不甲斐(ふがい)ない息子が一時も早く迷いの夢から覚めてくれれば、と思っているのだ。あの崇厳な不尽(ふじ)ヶ嶺(ね)の姿をみれば、少しは気持が落着いてくれるだろう。……全く、あいつは不甲斐のない男になってしまったものだ。
衛門 まあ、旦那様。そっとしておいておやりなさいまし。……お若い方の気持はもう私どもには分りませぬ。
綾麻呂 衛門。……お前は文麻呂のことになると何だか妙に偉そうに肩を持つようだが、あれのことについて何かもっと他(ほか)に儂にかくしているようなことはないのかい? ただ、親しい友達と仲違(なかたが)いをした位であんなになってしまうとは儂にはとても考えられんのだよ。あれは以前はもっと陽気な奴じゃった。口泡を飛ばして儂などとも盛んに議論をしたりしたものだ。……それが、どうしたわけか、あんな無口の偏屈者になって儂の所にやって来よった。お前は、なに神経衰弱です、などと簡単に片附けるが、儂はそんな生やさしいものではないように思う。儂はどうも心配でならんのだよ。あのままでは、到底、この東の国の厳しい生活には耐えて行けん、……先が思いやられる。あれでは本当に困るのだ。
衛門 旦那様。御心配なさいますな。まあ、しばらくの間、あのままそっとしておいておやりなさいまし。あの方の過去については決して御詮索(ごせんさく)なさいますな。……たとえ何か過(あやま)ちがございましたにしても、若い時代の過ちは許して上げなければいけませぬ。若い頃には人間は誰にも必ずひとつやふたつの過ちはあるもんではございませんかな?……手前にもございました。旦那様にもそう云う過ちがなかったとはおっしゃいますまい?
間――
綾麻呂 (はたと思い当り)女子(おなご)か?
衛門 ………
綾麻呂 衛門!……女子のことを云うとるのだな?
衛門 ………
綾麻呂 そうなのだな? え? 衛門!
衛門 言い当てられました。
間――
綾麻呂 む。……そうだったのか。
衛門 旦那様。しかし、さようなことで文麻呂様を決して非難なされてはいけませぬぞ。手前ども老人は、得てして自分達の過去の過ちを棚に上げて、すぐむきになって若い人達を非難する悪い癖がございます。……あれは悪い癖でございます。
綾麻呂 どんな女子なのだ? え? 衛門。……それはどんな女子なのだ?
衛門 ………
綾麻呂 言ってくれ。……儂(わし)は決してあれを非難しようなどと思っておらん。……ただ、父親としてそれを知っておいた方がいいと思うのだ。
間――
衛門 それでは、旦那様。手前、存じているだけのことは申し上げてしまいますが、文麻呂様は御自身でもかたく口をつぐんでおられますので、詳(くわ)しいことは手前とても皆目(かいもく)存じませぬ。……とにかく、これは旦那様の胸の内にだけそっとたたんでおいて下さりますようにお願い致しますぞ。……(声を低めて、静かに語り出す)実は、文麻呂様の心を惑(まど)わしたのは、年若な賤(いや)しい田舎娘(いなかむすめ)なのでございます。讃岐(さぬき)ノ造麻呂(みやつこまろ)と言う竹籠(たけかご)作りの爺(じい)の娘で、これが大変な器量よしで評判でございました。手前、その造麻呂という爺とは、ちょっと知り合っておりました関係上、その娘にも幾度か逢ったことがございますが、文麻呂様が夢中になるのももっともなほど、身分に似合わず、素直で、仲々見所のある娘でございます。ところが、その娘に、旦那様、人もあろうにあの大伴(おおとも)の大納言様が眼をつけましてな、例の手管(てくだ)で物にしようとなさっているのが分ったのでございます。さあ、文麻呂様がそれを聞いて、黙ってはおられません。大納言様の道ならぬ色恋沙汰を世間に振りまいて、これを機会に思い切り懲(こ)らしめてやろうと、そう決心なさったものでございます。手前は実はちょうど、家内と一緒になる積りでおりましたもので、それから間もなく瓜生(うりゅう)の山へ帰ってしまいました。そう云うわけで、その後のことは少しも存じませんでしたが、そうこうする内に、今度は文麻呂様御自身がすっかりその娘の恋の虜(とりこ)になってしまわれたらしいのです。烈(はげ)しい「恋」に気も狂わんばかりになられたとか、これは人から聞いた噂(うわさ)でございました。手前、そう云う噂をさるところから、ふと、耳にしましたもので、何だかひどく心配になり、早速都へ舞い戻って、あの姉小路(あねこうじ)のお宅へ伺(うかが)ってみたのです。……ところが、どうでしょう! いらっしゃいません! お家は空っぽです! さあ、驚きまして、手前、その晩は夜通しあっちへ行ったりこっちへ行ったりして文麻呂様をお探し申しました。……ようやく、あれはもう東の白(しら)む暁方(あけがた)頃でございましたろうか、……旦那様、手前、文麻呂様があの鹿(しし)ヶ谷(たに)にあるお母上様の御墓所の近くに、死んだようになって倒れていらっしゃるのを見つけたのでございます。すっかり旅姿に身を整えられて、気を失っていらっしゃいました。
綾麻呂 どうしたと云うのだろう?
衛門 どうしたと云うのでございましょうか、手前にも皆目(かいもく)分らないのでございます。それでも、手前が介抱(かいほう)しております内にやっとお気がつきになりましたが、……もうまるで、魂がなくなったように、空(うつ)けた顔付をなされて、ぽかんと手前の顔を凝視(みつ)めていらっしゃいました。しばらくは、そのまま、何だかわけが分らないような御様子(ごようす)でしたが、そのうちに何を思い出されたか、急にぽろぽろ涙をこぼされて、……「衛門! お父様の所へ行こう! 一緒に東国へ行こう!……」と、うわごとのようにこうおっしゃって、手前の腕にすがりつくのでございます。手前も、初めは何だか狐につままれたような気持でございましたが、ま、とりあえず、手前の家でしばらく介抱申上げるのがよかろうと、こう、思いまして、早速それから瓜生(うりゅう)の山の家にお連れ申したわけでございます。そのうちに文麻呂様は間もなくお元気になられました。御身体の方はそう云うわけで、すっかりもと通りになられましたのですが、どうしたものでしょう、あの方は以前とは打って変ってあのような無口なこわいお方になってしまわれました。手前どもが何かお伺(うかが)い申しても、さっぱりお答えにならず、一日中部屋の中に引き籠(こも)って何やら物想いに耽(ふけ)ったり、一生懸命書きものをなさったりしていらっしゃる御様子でございました。どうしてああもさっぱりと都の生活に愛想を尽(つ)かしておしまいになったのかは手前などが詮索(せんさく)しても仕方がございませんが、……手前にはどうしても解(げ)せぬことがひとつあるのでございます。
綾麻呂 何だ?
衛門 と云いますのは、つまり、なんです。文麻呂様のような負けず嫌いのお方が、そのように夢中になられた造麻呂(みやつこまろ)の娘を、大納言様なぞのために、どうしてそう易々(やすやす)と諦(あきら)めてしまう気になったのだろうと云うことなのでございます。いや、手前の存じておりますところでは、その娘はまあそうしたしがない竹籠(たけかご)作りの娘ではございますが、旦那様が御覧(ごらん)になったとしても決して首を横にお振りになるような悪い娘でもございませんし、こう云ってはなんですが、文麻呂様の奥(おく)の方(かた)になられたとしてもちっとも恥しくない娘でございます。手前も、まあ、そのことをあまりずけずけとはっきりお伺いするのもどうかと思いましたので、こちらへ発(た)つ前に一度だけ、遠廻しにほのめかしてみたことがございました。東国へお発ちになる心がお決まりになったのならば、ひとつ思いきって、その娘さんを御一緒に連れていらっしゃってはいかがです。あの娘が大納言様の囲(かこ)い者にされてしまっても構わないのですか? 衛門、悪いことは申しませぬから是非そうなさいませ。何でしたら、手前からあの娘にようくそのことを云い聞かせて差上げます。お父上だってきっと喜んで許して下さいますでしょう、とこうお訊(たず)ね申してみたのです。
綾麻呂 うむ。
衛門 そうしますと、文麻呂様は淋(さび)しそうに微笑顔(わらいがお)をなさって、「衛門、……あのひとはもう遠い所に行ってしまったのだよ。」などと、妙に気のない御返事をなさいます。で、今度は家内までが膝(ひざ)をのり出しまして、「文麻呂様がお嫌と申すならば致し方がございませんが、どんなに遠い所に行ったっていいではありませんか。わたくしどもがお供を致しますから、御一緒に探しに参りましょう。」と、もう一度お誘い申してみたのですが、一向乗気の御様子もなく、かえって、「馬鹿だなあ、お前達は。……あのひとはもうこの見苦しい世の中から姿を消してしまったんだよ。それを今更探しに行ったって、何になる?」などとおっしゃって、もうすっかりお諦めになっている御様子です。とりつくしまがございません。
綾麻呂 うむ。……で、なにかね、その後、その娘はどうしているのか、お前も知らないのか?
衛門 さあ、手前、その後は、造麻呂にも逢う機会がございませんでしたが、……実はこちらに発(た)つ前にちょっと人伝てに聞いた話では、何でも、やはり坊(まち)の小路あたりで大納言様の囲い者になっているらしく、まあ、きらびやかな唐織(からおり)の着物でも着せられて、華やかな生活を致しているのでございましょう。とにかく、あの造麻呂と云う爺はみかけによらず、大変な胴慾者(どうよくもの)ですから、娘の幸福(しあわせ)などとても考えてやるような男ではないのです。
綾麻呂 む。
間――
衛門 (しみじみと)しかし、旦那様、恋と云うものは大変なものでございますな。……
綾麻呂 ………
衛門 手前、文麻呂様のお心中(こころうち)をお察ししますと、不憫(ふびん)で不憫でなりませぬ。
綾麻呂 ………
衛門 恋のためによほど苦しまれたものらしゅうございます。気も狂わんばかりの真剣な恋をなすったに違いございません。そう云う恋は得てして不幸な結果に終るものでございます。……手前、どうもこうも、あの大伴の大納言様が憎(にく)らしくてなりませぬ。全く、いい年をして、若い者にさっぱりと恋を譲ってやればよいものを、弱みにつけ込んであのように純真な文麻呂様を散々笑いものにしたのかもしれませぬ。文麻呂様はきっと都にはいたたまれなくなって、東国へ発(た)とうと思い立たれたのでございましょう。もうあれ以上、恥をしのんで都にとどまることが出来なくなったのでございましょう。
間――
綾麻呂 (静かに)む、そう云うことだったのか。……いやしかし、それは、その方が文麻呂にとってはかえってよかったのかもしれん。衛門、……恋に破れたものはな、時として思いも掛けぬ立派な、男らしいことをやるもんだよ。儂(わし)の息子は、そんなこと位でへなへなと参ってしまうような奴ではない。女子(おなご)ひとり位のために世の中から落伍(らくご)してしまうような意気地無しを儂は生んだ覚えはないのだ!
衛門 そうでございますとも、旦那様!
綾麻呂 ところで、衛門。……あいつは今日もまた朝っぱらからずっと部屋に引籠(ひきこも)りっきりなのかな?
衛門 そうらしゅうございます。
綾麻呂 しようのない奴だな。……まだあの下らぬ歌よみ根性から抜けきれないと見える、……歌を作るのもいいが、ああして一日中ろくに飯も食わずに部屋の中にくすぶっていたって、いい歌が出来るはずはない。……あれも長いこと都の中で育った故(せい)か、どうもあの軟弱な都の悪風に染まってしまって、豪放(ごうほう)なところが欠けていて困る。あれだけは厳しく躾(しつ)けて直さなければどうにもならんな。……都の奴等(やつら)と来たら、全く軽佻浮薄(けいちょうふはく)だ。あのような惰弱(だじゃく)な逸楽に時を忘れて、外ならぬ己(うぬ)が所業で、このやまとの国の尊厳を傷(きずつ)け損(そこ)ねていることに気がつかぬのじゃ。……衛門! 今や、東国を初め、地方の秩序は紊(みだ)れに紊れているのだぞ! 都の連中が「あなめでたや、この世のめでたき事には」などとうそぶいて、栄華(えいが)に耽(ふけ)っている間に、地方の政治は名状し難いまでに紊乱(びんらん)してしまった! 悪辣(あくらつ)な国司どもは官権を濫用(らんよう)して、不正を働き、私腹を肥(こや)して、人民を酷使(こくし)している。今こそ、長いこと忘れられていた正義の魂がとり戻されねばならぬ時なのだ!……まあ、幸い、ここ、相模(さがみ)の国だけはまだ平穏無事だとは云うものの……それでも、決して安心はしてはおられんのだ。足柄(あしがら)の箱根の山の中には数え切れぬほどの不逞(ふてい)の賊(やから)どもが蟠居(ばんきょ)しているのだそうだ。いつ我々に対して刃向(はむか)って来るか分ったものではない。……平和な国土を我物顔に跳梁(ちょうりょう)する憎むべき賊どもが巣喰(すく)っているのだ!
急に、雨雲が晴れ渡って、太陽が燦々(さんさん)と輝きはじめた。
衛門 おう! 旦那様! あれは不尽山(ふじさん)ではございませんか! あれは不尽山ではございませんか! (前方右手を指さしている)
綾麻呂 うむ! そうだ! あれが不尽の山だ! あれが不尽の山だよ! (空を仰いで)おお、それにしても何と云う不思議だ! つい今しがたまで、あのように鬱陶(うっとう)しく立ちこめていた雨雲が、いつの間にやら、まるで嘘のように跡方もなく晴れ渡ってしまったではないか?……それに、どうだ! 衛門! 今日の不尽は嘗(かつ)て見たこともない神々(こうごう)しさだぞ! こんな荘厳な不尽を見るのは儂(わし)も初めてだ! 見ろ! あの白銀(しろがね)に燦(きら)めく頂(いただ)きの美しさを!……おう! 後光だ! あれはまるで神の後光だ!
いつの間にか、文麻呂が向う側から丘の中腹に姿を現わして、輝やかしい瞳(ひとみ)でじっと不尽山をみつめながら、立っている。丘の上の二人は気が付かない。舞台右手奥の方にも遠い連山が見え始める。
綾麻呂 衛門! 長い旅路を遥々(はるばる)ここまでやって来た甲斐(かい)があったろう? ん?
衛門 (恍惚(こうこつ)として見ている)はい。
綾麻呂 都の奴等がいくら偉そうにわめき立てたところで、この素晴しい不尽ヶ嶺の偉容を仰いだものは一人もおらんのだ。……どうだ! あの天の果までとどくばかりの噴煙を見ろ!……なあ、衛門。あの山の頂きは日本中で一番天に近いのだぞ。それから、あの雪だ。あれは、千古の昔から消えたことのない不滅の雪だ。これからも永久に消えることのない不滅の雪だ。
衛門 (ふと、吾(われ)に返って)旦那様! 手前、これからちょっと婆さんの所に知らせに行ってやろうと存じます。実は、手前ども、今朝は暗いうちから起きて、あちらの雑木林に瓜畠を作っておったのでございます。今日は天気もよくなりましたし、ひとつ、婆さんと一緒に不尽山を眺めながら、瓜の種を蒔(ま)いてやろうと思っています。瓜生の里から遥々持って参じましたあの少しばかりの瓜の種が、不尽山の御加護によって、この東国の地にうまく実を結んでくれますれば、手前もう何ひとつ思い残すこともなく、喜んで死ねるのでございますがな。
綾麻呂 む。やってみなさい。それは、早速やってみなさい。
衛門 (剽軽(ひょうきん)に改まって)旦那様!……後の世の人達が、もしこの東国の地でたらふく瓜を食うことが出来るとしたら、それは外ならぬこの瓜生ノ衛門のお陰でござりますぞ!
綾麻呂 (笑って)うむ、そうとも、衛門。それはそうだ。
衛門、妙に若やいで、剽軽に笑いながら、丘を駆け下りて行くと、文麻呂が立っているので、びっくりしたように、……
衛門 おや! 文麻呂様!……旦那様! 文麻呂様が来ていらっしゃいますよ!
綾麻呂 (丘の上から)おう、文麻呂か!……なんだ、お前も来ていたのか?
文麻呂 ええ。
綾麻呂 どうだ! 見えるか! あの素晴しい不尽の山が見えるか!
文麻呂 ええ。さっきから見ていたんです。……
綾麻呂 うむ、……それはちょうどよかった。今しがた、雲が晴れたばかりの所なのだ。見ろ! 今日の不尽は、まるで後光がさしているような神々しさだぞ!
間――
文麻呂 (不尽を凝視(みつ)めながら、静かに)……僕が夢に画(えが)いていた通りでした。長いこと夢に画いていた通りでした。……お父さん、僕はたった今「物語」をひとつ書き上げて来たんです。それはまだ見ぬ不尽の煙が天雲の彼方(かなた)へたちのぼる場面で終ったのです。……不尽は、今朝からもう僕の頭の中にはっきりこの通りの姿で浮び上っていました。この通りの姿で僕の中に生き始めていました。……(瞳を輝かして)……この通りでした。
衛門 文麻呂様!……貴方は今日はまるで人が変ったように晴々とした顔付をなすっていらっしゃいます。
文麻呂 衛門、……それはきっと僕の心の隅々(すみずみ)まですっかり晴れ渡った証拠なのだよ。……僕がまた新しい僕自身を取戻した証拠なのだよ。……僕はこの日のためにすべてに耐(た)えて来た。とうとう恵まれた日がやって来たのだよ。新しい僕のいのちが蘇(よみがえ)って来たのだよ。
綾麻呂 文麻呂!……お前、ちょっと、ここへ上って来んかな?……お父さんは今日はお前としばらく話がしたいんじゃ。
文麻呂 ええ。
文麻呂、無言で丘の上に上って行く。
衛門 (文麻呂の言葉に触れて、何やら理由の分らぬ爽朗(そうろう)の気が身内に溢れて来た。……)旦那様!……それでは手前は失礼致して……
綾麻呂 ああ、行っておいで!……まあ、ひとつ精を出して、立派な瓜畠を作ってくれるのだな!
衛門 (剽軽に)かしこまりましてございます!
衛門、右手奥へ退場。綾麻呂は笑いながらその後姿を見送っている。
綾麻呂 なあ、文麻呂。……衛門の奴はこの東路(あずまじ)の果(はて)に来てまでも、瓜を作る積りなのだそうじゃ。この東国が瓜で一杯になるまでふやしてみせますぞと、いやもう大した意気込なのだ。……面白い奴だよ。……この年になっては家内を貰(もら)っても子供の出来る見込みがないから、その代りに瓜を嫌になるほど育ててみせる積りですじゃと、そう儂(わし)に云うとった。
文麻呂 (これも明るい微笑で、丘の上から衛門の後姿を見送っている)
間――
綾麻呂 文麻呂。……まあ、ここへ、ひとつ、坐らんか?
文麻呂 ええ。
二人、並んで掛台に腰を下ろす。父は何やら気まずい。
綾麻呂 どうだ、相模(さがみ)の国は気に入ったか?
文麻呂 ええ。
綾麻呂 お父さんはな、……お前がここへやって来たことを、とても喜んでいる。
文麻呂 そうですか。
綾麻呂 お父さんだって、実を云えば、お前をたったひとり都へ残しておきたくはなかったのだ。
文麻呂 ………
綾麻呂 お前がどうして都を離れる気になったか、そんなことは儂は決して詮索(せんさく)する気持はない。……だが、いったん、この東国に来た以上はもう絶対に都の生活なぞに未練を感ずるようなことがあってはいけないよ。この東国は厳しい試煉の土地だ。……都の人間達のようなあんな惰弱(だじゃく)な気持ではとても生きては行けないのだ。
文麻呂 ………
綾麻呂 お前にも追々分って来るだろうと思うが、ここでは人間はのらりくらりと遊び暮して行くわけにはゆかない。飯を食おうと思えば、畠へ出て血の汗を流して米を作らなければならないし、烈しい雨風とも戦わねばならない。あるいは、憎むべき不逞(ふてい)の賊(やから)どもがいついかなる場合に我々に刃向って来るかも分らないのだ。
文麻呂 ………
綾麻呂 お前はこれからはこの厳しい生活に耐(た)える強い人間にならなければいけないんだぞ。
文麻呂 (黙って頷(うなず)く)
間――
綾麻呂 (しんみりと)儂(わし)は前からお前は本当に可哀想な奴だと思っていた。……幼いうちから、お母さんにも死別れて、儂のような無骨(ぶこつ)な父親の手ひとつに育てられて来た。……しかし、もうお前は立派に一人前の男のはずだ。儂がいつ死んでも立派にひとりで生き抜いて行ける一人前の男になっていると思っている。……儂はな、文麻呂。人間の運命と云う奴は、実に不思議なものだと思うのだよ。儂が都からここへ左遷(させん)されると聞いた時には、まるで島流しにでもされるような気になってずいぶん心細い嫌な思いをしたものだが、どうだ、ここへ来てみると、もうあんな不愉快な都へなんぞ二度と足を踏み入れる気がしなくなってしまった。ここへ来て、儂はまるで死場所を得たような気持がするよ。こうして、遥かな東国へ来てみると、あんなごみごみした、愚劣な人間達の寄り集っている狭っくるしい都の中で、なんでまあ、あのように浅間(あさま)しく名声なぞと云うものにこせこせ執着していたのだろうと思ってなあ。まるで、夢のような気がするよ。やれ、位が一つ上ったと云っては鬼(おに)の首をとったように大騒ぎをして喜んでみたり、やれ、大伴の大納言は一生の敵(かたき)だなんぞとむきになって憎んだりしていたあの頃の自分がまるで嘘のように馬鹿馬鹿しく思われて来るのだよ。本当に儂はもう一生あんな馬鹿げた所へは帰りたくなくなった。……この広大無辺の大自然の中に溶け込んでいると、何だかもう、このまま儂はいつ死んでもいいような気がする。今では、あの崇厳な不尽の山を眼(ま)のあたりに眺めながら死ぬと云うことがこの儂の理想なのだよ。儂は、この頃つくづくそう云うことを考えるようになった。……全く人間と云う奴は可笑(おか)しなものさ。……文麻呂! この頃儂はな、都の奴等のことなどをふと思い出すと、腹を抱えて大声で笑い出したくなるのだ。
文麻呂 (静かに)お父さん、……あれはみんな前の世の夢なのですね。僕には何だかそんな気がします。もう自分には何の縁(ゆかり)もなくなった遠い前世の夢が、悔(くい)もなく、ただ遥かな想い出のように蘇(よみがえ)って来るのです。
間――
綾麻呂 まあ、……お互いに都のことなぞもういっさい考えぬことにしようではないか。……こんな広々とした自然の懐に抱かれているんだ。お前ももっとのびのびした気持にならなければいけない。歌や物語を作るのもいいが、お前のように一日中狭っくるしい部屋の中に閉じこもっていたって、決していいものは出来ないと思うな。第一、あれでは身体に障(さわ)るよ。儂はそれが一番心配なのだよ。……ああ、そうそう! 文麻呂! お前、覚えているだろう? 儂がこっちへ赴任する日に、お前が儂に記念にくれた小さな歌の本があったね?
文麻呂 万葉集ですか?
綾麻呂 うむ。……あれはいい本だな。あれはお父さんも感心した。どの歌もどの歌もみんな偽(いつわ)りのない魂がこもっている。歌よみ根性がないから、読む者の心を打つのだ。心の底から詠(うた)いきっているから、こっちの心の底にもひびいて来るのだ。歌を作るならああでなくてはお父さんはいけないと思う。……文麻呂! あの中でな、お父さんの大好きな歌がひとつあるのだ。……
文麻呂 何て云う歌です。
綾麻呂 (遠く不尽を望みながら、朗々と朗誦(ろうしょう)し始める)……
天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かん)さびて
高く貴き 駿河(するが)なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を
天(あま)の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の
影も隠ろい 照る月の 光も見えず
白雲も い行き憚(はばか)り 時じくぞ
雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ
不尽の高嶺は……
文麻呂 (不尽を仰ぎながら)あの時代には国中の人達が美しい調和の中に生きていたのですね。……お父さん! 僕はしあわせです。(うっとりとして)万葉を生んだ国土。うつくしい国土。僕はこの国に生れたことを心の底からしあわせに思っています。
右手、遠くの方から、瓜生ノ衛門夫婦の唄う「瓜作りの歌」が聞えて来る。
笹山(ささやま)の 山坂越えて
山城の 瓜生の里に
我は 瓜作る 瓜作り
ナヨヤ ライシナヤ サイシナヤ
我は 瓜作る 瓜作り 瓜作り ハレ。
綾麻呂 文麻呂!……ほら、聞いてみろ! 衛門がお内儀(かみ)さんと一緒に唄をうとうとる……。
空は紺碧(こんぺき)に晴れ渡っている。どこかで山蝉(やまぜみ)が鳴きはじめた。
綾麻呂 夏だ!……どこかで山蝉が鳴き始めたではないか?……新しい季節がやって来たのだ。衛門も、お前も、……みんながまたこうしてそろった。……(しみじみとした感懐(かんかい)で)……ああ、これでお前のお母さんさえ生きていらっしゃったら、本当に申し分ないのだがな。
間――
文麻呂 お父さん。……僕は今日は何だか死んだお母様の顔までがはっきりと思い出せるような気持がします。……ねえ、お父さん。……お母さまはとても美しい方だったのでしょう?
綾麻呂 (独白のように)まるで天女のような女(ひと)だった。
文麻呂は、何かはっとしたように父親の横顔を眺め入る。……山蝉の声。再び、衛門夫婦のうたう「瓜作りの唄」が続く。
――幕――
底本:「美しい恋の物語〈ちくま文学の森1〉」筑摩書房
1988(昭和63)年2月29日第1刷発行
1989(平成元)年2月10日第12刷発行
底本の親本:「現代日本文學大系92 現代名作集(二)」筑摩書房
1973(昭和48)年3月23日初版発行
初出:「三田文学 四・五月号、六月号、七・八月号、九月号、十・十一月号」
1946(昭和21)年5月〜10月
入力:桃沢まり
校正:鈴木厚司
2006年12月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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