昔からの幸いの道
ヘンリー・ヴァン・ダイク 作
山田由香里 訳
さまざまな道に立って、眺めよ。
昔からの道に問いかけてみよ
どれが、幸いに至る道か、と
その道を歩み、魂に安らぎを得よ。
旧約聖書エレミア書第六章一六節
この言葉は危険や困難に見舞われている人々への助言だった。ユダの王国には滅びのときが迫っていた。それを避けるには賢く素早い行動を起こすしかなかったのだが、難しいのは、どういう行動をとるべきかを決断することだった。民は声高に意見を言う者のまわりに群がり、その中でさらに意見の合う者同士が小さな派閥に分かれた。みな自分の意見をもっていたが、自分の意見に近い人のそれを支持する者もいた。ある者たちは、西の国と連合するのがよいと言い、ある者たちは東の国と親交をもつことを主張し、別の者たちはぐずぐずと外交の手続きを行い、またわずかだが誉れある独立を貫き通そうという者たちもいた。国に必要なのは富を増やすことだという者、ファラオ(1)やネブカドネザル(2)のように豪奢な暮らしをする君主がいれば繁栄がもたらされるだろうと考える者もいた。さらに、国の難局を解決するには「より簡便な慣習と素朴な法」に回帰するしかない、と主張する者もいた。貴族やその従者の間では、ありとあらゆる目新しい偶像を崇拝することがもてはやされ、季節ごとに新しい神が据えられた。哲学者たちは宗教的な問いに対して、用心深い無関心な態度をとっていた。預言者の中には「民にとって唯一の救いは、偶像崇拝をやめ、暮らしの中に信仰を取り戻し、本当の神に還ることだ」と説く者もあった。
ユダの王国は、まるで嵐の夜に道しるべをことごとく吹き飛ばされ、四つ辻に立ち尽くしている者のようだった。そうしている間にも敵のバビロニアはエルサレムに迫り、このままでは死を待つしかない、というありさまだった。
人々は選択の自由をもてあまし、心は二つの選択肢の間でゆれていた。ひとつは、誰でもいいから大声で号令する指導者に今すぐ従い、ともかく急ぐこと。もうひとつは、たくさんの進路の中に果たして取るべき適切な進路はあるのか、と疑いを抱くことだった。
『さまざまな道に立って、眺めよ』というのは、じっくり考えよ、ということだ。十字路では、目をつぶって闇雲に走ってはいけない。道はたくさんあっても、そのうちのいくつかはきっと間違った道だ。分岐点は用心と深慮の場なのだ。
『昔からの道に問いかけてみよ、どれが幸いに至る道か、と』とは、助言を乞いなさいということだ。人は、たったひとりで人生の問題に立ち向かわねばならないなどということはない。人はみな、様々な生き方を試してきた。そしてその昔、平和、繁栄、勝利は国によって勝ちとられていた。今まで幸せがどのように守られてきたか、過去に学びなさい。すでに安全や幸福へと続いている道を見つけなさい。このように様々な道に立ったとき、どの道をゆくのが最善であるか、歴史に学びなさい。
『その道を歩み』とは、行動せよということだ。よく考え、安全と平和の道へと続く灯りが見えたら、先に進みなさい。用心は現実の行動に役立てなければ意味がない。疑いを抱いたら行動してはいけないとはいえ、何もしなければ疑いが晴れることもない。人も国も、何もしなければ救われることはない。危険から逃れる唯一の道は動くこと。おびえているユダよ、覚悟を決めなさい。そして、たゆまずに、勇敢に、懸命に自分の選んだ道を突き進むのだ。やがて約束の安らぎが訪れる。
さて、これは困難に見舞われている人々に預言者が与えた賢い助言だったと私は信ずる。この助言に従った人々は、幸運を手にしただろう。それは我々にとってもまた、素晴らしい助言だと信ずる。人生に悩んだとき、神の言葉は我々の心を静め、励ます。この聖句を私からあなたへの贈り物としよう。
「さまざまな道に立ちなさい。どの道が正しいか尋ねなさい。その道を行きなさい。これは用心、助言、行動、ということだ」あなたはこの言葉を受け入れるだろうか? そして、自分の人生でそれを生かす努力をするだろうか?
【その一】さまざまな道に立って、よく見てごらんなさい。もちろん、あなたがそうしていない、と小言を言っているのではない。この世では、人の足跡が至るところで交差し、あらゆる方向へと進む道を作りだす。人はみな己の道を進む。その事実に気づき、そのことに思いをめぐらす人はどれくらいいるだろう。
肉欲という道がある。この道を歩む人が選ぶ道しるべは、欲求だ。彼らの人生で最も大事な目的は、肉体的欲求を満たすことだ。この人たちの中には繊細な人もいれば、粗野な人もいるが、それは単に気質の問題で、彼らはみな一様に飢えている。これが問題の本質だ。豚のように食べものを求めて泥の上を這いまわろうと、キリンのように木の上で優雅に葉を食べようと、この道を行く人たちにとって人生の問題は同じだ。「どれほど抱え込めるか? 命がすりへる前に、我々の五感はどうすれば最高の快感を味わえるか?」ということが彼らの問題なのだ。「食べて飲んで楽しくやろう。だって明日死ぬと決まったわけではないのだから」これが彼らの旅の合言葉になっている。
貪欲という道もある。この道を行く者は、金持ちになろうとしてあくせくする。お金という全能者が目の前の道を走って行き、彼らはそれを追いかける。街道を苦労しながら一歩ずつ辛抱強く歩く者もいれば、いつも垣根を跳び越えて近道をする者もいる。でも、結局みな同類だ。どんな職業に就こうと、彼らの一生の仕事は金儲けにほかならない。失敗すれば不快な苦々しい思いをし、成功すれば非情にそして高慢になる。それでいて、金の仔牛にはひれ伏すのだ。彼らのモットーは「この世の財宝に針路を合わせろ」だ。
また社会的野望という道もある。この道を行く者は、様々な報酬に目が釘づけだ。たとえば、名誉ある称号、立派な公職、大勢の富豪とのつきあい、世間の目をひく評判など。けれど、その全てから得られる本当の満足感とは、所詮悪評という敵意であり、また普通の人には入ることが許されない、そして許されないからこそその行動に世界中が羨望の目を向ける特権階級への帰属意識だけだ。この道は、道というよりむしろ梯子で、これを行く者の多くは「這い上がる者」だ。
他にも道はたくさんある。はっきりとした跡がなく辿ることが難しいものもある。常識からはずれた道、知性ある誇り高い道、偽善の道、優柔不断の道など。この最後の道は、一本道ではない。まるで羊が勝手気ままに歩いた足跡のようで、様々な道と交わりながら大きな道とも交わり、あらゆる方向へと伸び、いつ終わるとも知れない。このあてのない道をさまよう者は、世の中次第で浮き沈みを繰り返し、目的も定まらず、盲目的に他人に従い、果てしなくさまよい続けるが、終着点にたどり着くことはない。
このような入り組んだ道の中を、一本の道が貫いている。それは、信仰と務めの道だ。この道を歩む者は、人生の意味は神の意思の実現にあり、人生の目的は神との完全な調和を達成することにあると信じている。この者たちは、己を鍛え厳しく律することで、心と体を最善の状態にしようと努めている。そして、仲間たちへの奉仕の中でもっとも崇高な目的のために自らの才能を発揮せんと努め、また神聖な生活におけるもっとも強い喜びと力へ、自らの能力を敷衍しようと努めている。そして、務めをするにふさわしい者となるための教えを捜し求め、自らの務めを立派にやり遂げる。なぜなら、それも教えの一部なのだから。己の良心を尊び、理想を大事にする。良き者となるために、良きことをなすために、そしてこの世をより良きものとするために、誠実に努力することを第一義としている。だが彼らとて、つまずくことがある。転ぶこともある。しかし、とことんまで己の人生をこの道にかける。それは『正しい道、すなわち平和の道』を歩むための誠実な試みだ。
それらはこの世を導く道であり、我々すべてに門戸が開かれている。人は自らの好む道を行くことができる。顔かたちは遺伝によって、仲間は周囲の環境によって決まる。だが、四つ辻にやってきたときは、誰もが「あなたはどの道を行きますか?」と問われる。
じっくり考えなければならない。さもないと、愚か者の役割を嬉々として演じてしまうことになる。どんなに素晴らしい能力も思案にまさるものはない。目をつぶって奮闘する人生は、ある種の狂気だ。目を開いてあてもなくさまよう人生は、穏やかな愚行だ。
「いかに生きるか? どんな規律ややり方に従うか? どの道をゆくか? 何を目指すか?」これが真の問いだ。
この問いに答えるチャンスを与えよう。初めに手を引いてくれた人に目隠しをされたままついて行くか? どこへ向かうのか尋ねることもせずに、何も考えず群衆のあとを追うか? どんなに短い旅であっても、まさかそんなことをする者はいないだろう。駅へ駈け込み、行き先の表示も見ずにとまっている列車に飛び乗ったりする者もいないだろう。熟慮することが本当に必要になる場合があるとすれば、それは間違いなくこの世においてとるべき道を選ぶときだ。自分がどんな仕事に就くか、どんな職業を選ぶかということは、誰しも一生懸命に考える。だが、どのようにその仕事に携わるか、そして何のためにその仕事に携わるのか、さらに深く考えてほしい。まさしく、四つ辻に立って見渡すのだ。
【その二】『昔からの道に問いかけてみよ、どれが幸いに至る道か、と』これは私の心からの助言だ。
この言葉は単なる保守的な助言、昔ながらの決まり文句ではないと思う。実際に、幸いの道とは新しく見出されたもの(私やあなたが自分で歩き出す道)を指しているのではない。まったく独自の道というものは、ときに間違うこともありうるが、正しい道にはすでにいくつかの足跡がついているだろう。自分一人で考えた人生計画を携えてきた人に、我々はまるで未来の交響曲を作ってきた若者に老作曲家が言うように、こう言うだろう。「これは新しくて素晴らしい。しかし、新しいものが素晴らしいとは限らない。また素晴らしいものが新しいとも限らない」と。
これは決して、古いものはみな素晴らしくて正しい、あるいは古い道はみな正しい道だ、というのと同じではない。この聖句の大事な点は、我々は古い椅子や古い本の中にある大切なものを見分けるように、古い道の中から大切な道を見分けなければならない、ということだ。まったくというわけではないが、悪は善と同じくらい古い歴史をもつ。少なくとも人間の中では愚かさと賢さは一対で、我々はいくら年齢を重ねてもそれらを区別することができない。アダムの所業ははるか昔のことだ。カインの所業も。ノアの不詳の息子、ロトのみだらな娘、バラム、イゼベル、マナセの所業もまたしかり。イスカリオテのユダは聖ヨハネと同じ年に生まれた。アナニヤとサフィラは聖ペテロ、聖パウロと同じ年に生まれた。
我々が求むべきは、ただ古いだけの道ではない。何度も試され、踏まれ、良い道であると認められてきた道だ。賢き聖霊によれば、我々はこの道を対数を使って割り出したり、自身の内なる意識から進化させたりすることはできず、人の生き方を見たり、人が教えてくれるお手本を手に入れたりすることによってのみ、学ぶことができる。経験を、通ってきた航路だけを照らす船尾の灯りにたとえることがある。だが、あなたの前をゆく船があれば、その船尾の灯りはあなたの船の前照灯となる。
すべてのものの意味を、ひとりで理解しようとする必要はない。旧約聖書の『伝道の書』の著者は、狂気や愚かさを知ることに心を捧げたことを我々に告げている。それはまさしく、魂の空しさや苦しみだったと。再び彼と同じ思いをせずに、彼の学んだことを学べるとしたら無駄は省かれよう。
炎の中に手を入れずに、火が燃えることを事実として理解できれば極めて安全だ。肉欲は心を汚し、貪欲は心をかたくなにし、浅はかさは心を空ろにし、自分本位は心を腐らせる、といったことを確かめるために、自らの魂を危険にさらす必要はない。年老いた遊び人を見れば、肉欲のなれの果てがわかるかもしれない。『顔色が悪く、すきっ歯で、死人のように痩せこけてしまう』と。彼はもはや味わうことのできない美味しい食べ物を、歯の抜けた口でもぐもぐ噛み、今や手の届かない魅惑的な様々なものにじっと目を凝らす。貪欲の道のゴールでは、あらゆる金の亡者を見分けられるだろう。まるで本物の番犬さながらに、山のような富に警戒を怠らない者。あるいは不覚にも破産した者は、財産に裏切られた現場をうろつく。それこそ、安らかならざる幽霊のように。
問うて学び、考えて見極める。人生の様々な道の方向には、疑いなどあってはならない。
もっとも平和で清らかな、真に繁栄している国は、どの道にあるのだろう? うぬぼれと贅沢と偶像崇拝を追い求めた人々は、どの道を行ったのだろう? 節制と正義を大事にし、正しい神の法を認める人々は、どの道を行けばいるのだろう?
もっとも平和で純粋で本当に幸せな人々は、どの道にいるのか? 規律も自制も共通の信仰もなく、互いへの愛もない人々はどの道を進んだのか? 偽りのない信仰をもち、厳格で慈悲深い法による世の中を作り出している人々の道は、どこにあるのか? 神の家へともに歩み、神の祭壇にともにひざまずき、神への礼拝をともに喜ぶ親と子は、どの道にいるのか?
兄弟たちよ、昨今では昔ながらの古くさいアメリカの家族のありかたを冷笑したり、あざけったりすることが横行していると聞く。ピューリタンの気質には、頑固すぎる部分があるからだろう。ピューリタンの家の細い窓からはほとんど光が射しこまないが、土台は堅牢で、そこには剛健なまるで力天使(3)のような男が住んでいる。彼の血潮は赤々とたぎり、心臓は永遠に規則正しく脈打っている。ときにそれが少々遅いことも、激しすぎることもあるが。もしも古い道にもどることができれば、我々は幸運だ。その道が幸いの道であることは自ずと明らかになり、それは父たちの時代のように、家族の尊厳、結婚の神聖さ、親子を結びつける互いの義務の厳粛さを保ってくれる。この道を歩む家族からは、仲間だけでなく自分自身を律することのできる男が生まれる。また愛されるだけでなく、信頼される女も生まれる。こうした家族の歴史を鑑みれば、この詩人の言葉が真実であることがわかるだろう。
自分を敬い 自分を知り 自分を律する
この三つだけが命に主権を握らせる
この世を見回して、仲間に心の平和と静けさ、そして命の平安と名誉をもたらす道とは何かを考えよ。それはとめどないわがまま、無節操な強欲、あてのない怠惰の道だろうか? それとも自制、務めへの忠誠、正直な生き方、誠実な奉仕の道だろうか? もしも真の名誉とは仲間への尊敬や心地よい愛情の中にあるのなら、そして真の成功が満たされた心や平穏な良心の中にあるのなら、人生のもっとも高い目的に達した人とは、イエスが示した道、昔神が歩いたその道にもっとも近い道を歩いている人のことだ。
【その三】『その道を歩み、魂の安らぎを得よ』とは、良い行いは安らぎをもたらす、ということだ。
安らぎ。あぁ、この言葉はなんと鐘のように美しく、この騒がしい今の世に鳴り響くことか。我々は安らぎを求めながら、それを壊すかのように右往左往している。ものすごい速さで、ある場所から別の場所へと車を走らせるが、そこへ着いて何をしようというのか。また、新たな財産を手に入れようと急ぐけれど、それが自分のものになったからといってどのように使うというのか。新しい発見や理論に夢中になるが、それらが見つかったところでどう活用するのか。我々は最先端の考えをひたすら頭に詰め込んだ結果、あまりに多くの知識でめまいを起こし、やがては全てを疑うという軽い麻痺状態に陥ってしまう。
だが長い沈黙の中で、賢い魂が我々の心にこう囁きかける。「道案内にまかせて安らぎなさい。あなたの人生の結末を、幸いの道を選び、それを歩むことにゆだねなさい」
あなたに言おう。兄弟よ、イエスを歩みなさい。彼こそ道だ。最良の人生における力とやさしさは、イエスによって体現されている。人を奮い立たせ、崇高な行為とすぐれた人格へと導くすべての真理が、イエスの中に示されている。彼は誠に尽くされ、ついてゆくべきただひとりの主だ。彼と絆を結び、彼を知りなさい。きっと、魂は安らぎを見出すだろう
(1)古代エジプト王の称号。パロ。
(2)カルデア(新バビロニア)王。前五八六年ユダを征服し、住民をバビロニアに移住させた(バビロン捕囚)。在位前六〇五〜五六二年。
(3)天使の九階級中の五番目の天使。
ヘンリー・ヴァン・ダイク
一八五二〜一九三三年。アメリカ合衆国ペンシルヴァニア州ジャーマンタウンに生まれる。牧師であり、作家であり、外交官も務めた。また、プリンストン大学の英文学教授でもあった。作家としては、多くの短編や詩を書いた。
底本:ヘンリー・ヴァン・ダイク著
山田由香里 訳
明かりの本 二千十三年三月二十八日発行
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