装幀の意義
萩原朔太郎
書物に於ける装幀の趣味は、絵画に於ける額縁や表装と同じく、一つの明白な芸術の「続き」ではないか。彼の画面に対して、あんなにも透視的の奥行きをあたへたり、適度の明暗を反映させたり、よつて以てそれを空間から切りぬき、一つの落付きある完成の気分をそへる額縁に対して、どんな画家も無関心でゐることができないだらう。同じやうに我等の書物に於ける装幀――それは内容の思想を感覚上の趣味によつて象徴し、色や、影や、気分や、紙質やの趣き深き暗示により、彼の敏感の読者にまで直接「思想の情感」を直覚させるであらうところの装幀――に関して、多少の行き届いた良心と智慧とをもつてゐる文学者たちは、決していつも冷淡であることができないだらう。
けれどもこの注文は、実際に於て満足されない事情がある。なぜかならば我等の芸術を装幀するものは、通例我等自身ではないからです。我等の為し得るところは、精々のところ他人の製作した者の中から、あの額縁この表紙を選定し指定するに過ぎない。しかもその選定や指定すら、多くの困難なる事情の下に到底満足には行かないのである。されば芸術品の表装は、我等の作品の一部分であるにかかはらず、その実我等自身の趣味に属してゐないもの、むしろ多くの場合それは他人の趣味に属してゐる。しかしてこの一つの奇異なる事実――それが他人の趣味によつて選定されるといふこと――が、美術品や文学書の装幀に於ける最も興味ある哲学を語るものではないか。なぜといつて私の所有にかかはるところの油画は、それが他人の描いたものであるにかかはらず、私自身の好みによつて、勝手に自由にその額縁を選定し、よつて以て私自身の解釈による芸術を眺めることができるからだ。
思へ一つの同じ音楽、同じ叙情詩、同じ宗教に対して、いかに多くの異つた解釈があるか。すべての芸術とすべての宗教とは、各の読者と各の弟子たちにまで、彼等自身の趣味を反映させるにすぎないだらう。たとへば日蓮は日蓮の個性に於て、親鸞は親鸞の個性に於て、同じ一人の釈迦を別々に解釈し――ああいかに彼等の解釈がちがつてゐたか。――そして私らは私らの個性に於て、私ら自身の趣味にふさはしいところのゲーテやシヨパンを、各自に別々に理解するまでの話である。だから保羅の説いた耶蘇教が、その実保羅自身の耶蘇教であつて、他のいかなる耶蘇教ともちがつてゐた――恐らくは耶蘇自身の耶蘇教ともちがつてゐた――と同じく、私の鑑賞によるところの雪舟は、私自身の雪舟であつて他のいかなる人々の見た雪舟とも差別される。したがつてまたその表装も、勿論私自身の趣味によつてのみ選定されねばならないのだ。そこではどんな他人の表装も――恐らくは雪舟自身の表装も――断じて許すことができないのである。
それ故西洋諸国の出版業者が、著者に対する尊敬と読者に対する愛敬とからして、やや高尚なる文学書類を多くパンフレツト(仏蘭西版の黄色本の類)で出版するのは、さもあるべき筈のことではないか。この仕方で出版された書物は、その特種なる国民的趣味を代表する表紙の一色によつて、作者自身の属してゐる民族別を表明するの外何の個別的な趣味をも指定してゐない。つまりその本当の装幀は、一切読者自身の自由意志に任かすのである。それによつて読者は、正に彼自身の理解した「彼自身の著者」を、いつも「彼自身の趣味」によつて自由に完全に装幀することができるであらう。かくてこそ書物の著者は、正に読者の生活に「活き得た」のではないか。その各の人の装幀の価値に応じて、より浅く、またより深く、より自己に近く、また自己に遠く。
底本:「日本の名随筆 別巻87 装丁」作品社
1998(平成10)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「萩原朔太郎全集 第四巻」筑摩書房
1975(昭和50)年7月発行
入力:加藤恭子
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年5月3日作成
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