芥川龍之介 小説の読者





小説の読者
芥川龍之介


 僕の経験するところによれば、今の小説の読者といふものは、大抵(たいてい)はその小説の筋を読んでゐる。その次ぎには、その小説の中に描(か)かれた生活に憧憬(しようけい)を持つてゐる。これには時々不思議な気持がしないことはない。

 現に僕の知つてゐる或る人などは随分(ずいぶん)経済的に苦しい暮らしをしてゐながら、富豪や華族ばかり出て来る通俗小説を愛読してゐる。のみならず、この人の生活に近い生活を書いた小説には全然興味を持つてゐない。

 第三には、第二と反対に、その次ぎには読者自身の生活に近いものばかり求めてゐる。

 僕はこれらを必ずしも悪いこととは思つてゐない。この三つの心持ちは、同時に僕自身の中(うち)にも存在してゐる。僕は筋の面白い小説を愛読してゐる。それから僕自身の生活に遠い生活を書いた小説も愛読しないことはない。最後に、僕自身の生活に近い小説を愛読してゐることは勿論である。

 然し、それらの小説を鑑賞する時に、僕の評価を決定するものは必ずしも、それらの気持ではない。若し僕が(読者として)世間の小説の読者と違つてゐるとするならば、かう云ふ点にあると思つてゐる。では何が僕の評価を決定するかと云へば感銘(かんめい)の深さとでも云ふほかはない。それには筋の面白さとか、僕自身の生活に遠いこととか、或はまた僕自身の生活に近いこととか云ふことも勿論、幾分か影響してゐるだらう。然しそれらの影響のほかに未(ま)だ何かあることを信じてゐる。

 この何かに動かされる読者の一群(いちぐん)が、つまり読書階級と呼ばれるのである。或は文芸的知識階級と呼ばれるのである。

 かう云ふ階級は存外(ぞんぐわい)狭い。おそらくは、西洋よりも一層狭いだらう。僕は今、かう云ふ事実の善悪を論じてゐるのではない。唯事実として一寸(ちよつと)話すだけである。
(昭和二年三月)




底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房


   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行

   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行

入力:土屋隆

校正:松永正敏

2007年6月26日作成

青空文庫作成ファイル:

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