ワーニャ伯父さん アントン・チェーホフ


セレブリャコーフ家の食堂。――夜。――庭で夜回りが拍子木(ひょうしぎ)を打つ音。セレブリャコーフ、あけ放した窓の前の肘(ひじ)かけ椅子(いす)にかけて、まどろんでいる。
エレーナ、その傍(そば)で、やはりまどろんでいる。
 
セレブリャコーフ (目がさめて)誰だ、そこにいるのは? ソーニャかい?
 
エレーナ あたしですよ。
 
セレブリャコーフ レーノチカ、お前か。……どうも、たまらないほど痛むよ!
 
エレーナ 膝(ひざ)かけが、床(ゆか)へ落ちてるわ。(両足をくるんでやる)いかがアレクサンドル、窓をしめましょうか。
 
セレブリャコーフ いいや、息苦しくてならん。……今しがた、うとうとしたら、妙な夢を見たよ。わたしの左脚が、人のものになってしまったのさ。あんまり痛むので目がさめた。いや、こいつは痛風じゃない、どっちかといえば、リョーマチのほうだ。今なん時だね?
 
エレーナ 十二時二十分すぎ。(間)
 
セレブリャコーフ 朝になったら、図書館でバーチュシコフの全集を捜してみておくれ。たしか、うちにあったと思うが。
 
エレーナ ええ?
 
セレブリャコーフ 朝になったら、バーチュシコフを捜してくれ、というんだよ。たしか、あったような気がする。だが、なんだって、こう息苦しいんだろうなあ?
 
エレーナ お疲れだからですよ。これでふた晩も、おやすみにならないのですもの。
 
セレブリャコーフ ツルゲーネフは、痛風から扁桃腺(へんとうせん)が腫(は)れたという話だ。わたしも、そうならなければいいが、まったく、年をとるということは、じつになんともはや厭(いや)なことだな。いまいましい。年をとるにつれて、われとわが身がつくづく厭になるよ。お前たちだってみんな、このわたしを見るのが、さぞ厭だろうなあ。
 
エレーナ 年をとった年をとったって、まるでそれが、あたしたちのせいみたいに仰(おっ)しゃるのね。
 
セレブリャコーフ さしずめお前なんか、いちばんわたしを見るのが厭な組だろうよ。
エレーナ立ちあがって、少し離れたところに腰をおろす。
 
セレブリャコーフ お前がそう思うのも、無理はないさ。わたしもばかじゃないから、そのぐらいのことはわかる。お前は若くて、健康で、器量よしで、生きる望みに燃えている。だのに、わたしは老いぼれで、まずもって死人も同然だ。今さら、どうしようもないじゃないか? そのへんのことが、わからんわたしだとでも言うのかね? そりゃもちろん、わたしがこの年まで生きてきたのは、ばかげたことさ。だが、もう暫(しばら)くの辛抱だ。じきにお前たちみんなに、厄介払いさせてやるからな。そういつまで、ぐずぐずしているわけにもゆくまいからなあ。
 
エレーナ あたし、病気になってしまう。……後生だから、何もおっしゃらないで。
 
セレブリャコーフ お前の言うことを聞いていると、まるでわたしのせいでみんな病気になって、退屈して、せっかくの若い盛りを虫ばまれているのに、このわたしだけが生活を楽しんで、なに不足なく暮しているように聞えるね。うん、まあ、そんなこったろうね!
 
エレーナ 何もおっしゃらないでよ! まるで責め殺されるみたいだわ!
 
セレブリャコーフ どうせそうだよ、みんなわたしに責め殺されるのさ。
 
エレーナ (泣き声で)ああ、たまらない! だから、このあたしに、どうしろと仰しゃるの?
 
セレブリャコーフ 別にどうとも。
 
エレーナ それじゃ、もう何もおっしゃらないでよ。後生だから。
 
セレブリャコーフ 妙な話じゃないか。あのワーニャだの、脳みその腐ったお袋さんだのが喋(しゃべ)りだすと、みんな一も二もなく、黙って拝聴するが、わたしが一言(ひとこと)でも口を利(き)こうものなら、すぐみんな白けた顔をするんだ。声を聞いても、ぞっとするというやつだ。なるほど、わたしは厭なやつで、がりがり亡者(もうじゃ)で、暴君かもしれない。――だがそれにしたって、わたしはこの年になってまで、自分の意見を持ちだすいささかの権利もないと、いうのだろうか? わたしは、それだけの値打ちもない男なのだろうか? どうだね、わたしは気楽な老後を送る権利もなければ、人様にいたわってもらう資格もない人間なのかね。
 
エレーナ 誰も、あなたの権利のことなんぞ、とやかく言ってやしないわ。(窓が風にあおられてバタンとしまる)風が出てきた、窓をしめましょう。(しめる)一雨来そうだわ。誰もあなたの権利のことなんぞ、とやかく言ってやしないわ。
間。夜番が庭で拍子木を打ち。鼻唄(はなうた)をうたう。
 
セレブリャコーフ わたしは一生涯、学問に身をささげ、書斎になじみ、講堂に親しみ、れっきとした同僚たちと交際してきたものだ。――それが突然、いつのまにやら、こんな墓穴みたいなところへ追いこまれて、来る日も来る日も、愚劣なやつらを見たり、くだらん話を聞かなければならんのだ。……わたしは生きたい、成功がしたい、有名になって、わいわい言われたい。ところが、ここときた日にゃ、まるで島流しみたいなものじゃないか。のべつ幕なしに、昔のことをなつかしがったり、他人の成功を気に病んだり、死神の足音にびくついたりする。……ああ、たまらん! やりきれん! だのにここの連中は、わたしの老後を、いたわってもくれないのだ!
 
エレーナ もう少しの辛抱よ。もう五、六年もすれば、あたしもお婆(ばあ)さんになりますわ。
ソーニャ登場。
 
ソーニャ お父さま、あなたはご自分で、アーストロフ先生を呼べと仰しゃったくせに、いざあの方が見えると、会おうともなさらないのね。失礼よ。人さまにご迷惑をかけっぱなしで……
 
セレブリャコーフ お前さんのアーストロフなんか、わたしになんの用がある? あの男の医学の知識は、わたしの天文学ぐらいなところだろうて。
 
ソーニャ まさかお父さまの痛風のため、医科大学の先生総出で、来ていただくわけにもゆきませんわ。
 
セレブリャコーフ あんな唐変木(とうへんぼく)とは、わたしは話もしたくないよ。
 
ソーニャ どうぞご勝手に。(坐(すわ)る)わたし一向かまいません。
 
セレブリャコーフ なん時だね?
 
エレーナ 十二時すぎ。
 
セレブリャコーフ どうも息苦しい。……ソーニャ、テーブルの上の水薬を取っておくれ。
 
ソーニャ はい。(水薬をわたす)
 
セレブリャコーフ (いらだって)ええ、それじゃない! 用事ひとつ頼めやしない。
 
ソーニャ そう駄々をこねないでちょうだい。そんなこと、人によっては好きかもしれないけれど、わたしは、真っ平ご免ですわ! わたし、そんなお相手をしている暇はないの。明日(あした)は草刈だから、早起きしなければならないの。
ワーニャ、部屋着すがたで、蝋燭(ろうそく)を持って登場。
 
ワーニャ いよいよ一荒れくるぞ。(稲妻)そうら来た。エレーナさんもソーニャも、向うへ行っておやすみ。僕が代るから。
 
セレブリャコーフ (おびえたように)いや、それは困る! この人のお相手だけは勘弁してくれ。喋(しゃべ)りだしたら最後、きりがないから。
 
ワーニャ しかし、この連中だって、休ませてやらなきゃいけませんよ。これでふた晩も寝ていないのですからね。
 
セレブリャコーフ ああ、勝手に行って寝るがいい。だが君も行ってくれたまえ。後生だ。お願いだ。昔のよしみに免じて、このまま引取ってくれたまえ。あとでまた話そう。
 
ワーニャ (冷笑を浮べて)昔のよしみか……昔のね……
 
ソーニャ およしになって、ワーニャ伯父さん。
 
セレブリャコーフ (妻に)ねえ、お前。たのむから、この人と二人っきりにしないでおくれ! 喋りだしたら、際限がないからね。
 
ワーニャ こうなると、むしろ滑稽(こっけい)だよ。
マリーナ、蝋燭を手に登場。
 
ソーニャ はやく寝たらいいのにさ、ばあや。もう晩(おそ)いのよ。
 
マリーナ サモワールがまだ出しっ放しになっていますもの。おいそれと寝られも致(いた)しませんよ。
 
セレブリャコーフ みんな寝られないで、へとへとなのに、わたし一人、泰平楽を並べているわけだな。
 
マリーナ (セレブリャコーフに近寄って、やさしい声で)いかがですか、旦那(だんな)さま。お痛みですか? わたくしも、この脚(あし)がやはり、ずきずきしておりますよ。(膝掛を直してやる)このご病気も、ずいぶん久しいことでございますね。ソーニャちゃんの母御の、亡(な)くなったヴェーラさまだっても、幾晩も寝ずに、苦労なすったものでございましたよ。……あのとおりの旦那さま想いでらっしゃいましたからねえ。……(間)年寄りというものは、子供も同じこと、いたわってもらうのが何よりの慰めなのに、誰ひとり年寄りなんぞ、いたわってくれる人はありませんよ。(セレブリャコーフの肩に接吻する)さ、旦那さま、お寝床へ参りましょう。……さあさあ、参りましょう。……菩提樹(ぼだいじゅ)の花のお茶を、入れて差上げましょう、おみ足を温(ぬく)めて差上げましょう。……よくおなりになるように、神さまに祈って差上げましょう。……
 
セレブリャコーフ (感動して)ああ行こう、ばあや。
 
マリーナ わたしくだっても、この脚が、ずきずきいたしますよ……ずきずき。(ソーニャと共に教授を連れてゆきながら)亡くなったヴェーラさまは、しょっちゅう気をもみなすって、涙をこぼしておいででしたよ。……このソーニャちゃんも、あのころはまだ、ほんとにお小さくって、頑是(がんぜ)なくって。……さあさ、おいでなさいまし、旦那さま。……
セレブリャコーフ、ソーニャ、マリーナ退場。
 
エレーナ あの人のおかげで、へとへとだわ。今にも倒れそうだわ。
 
ワーニャ あなたは、あの人のおかげ。ところが僕は、ほかならぬ僕自身のおかげで、すっかりへとへとですよ。これでもう三晩も寝ないんですからね。
 
エレーナ おかしな家ですことね、ここは。あなたのお母さまは、パンフレットとお婿(むこ)さんのほかはいっさいお嫌い、そのお婿さんといったら、癇癪(かんしゃく)ばかり起して、あたしを信用してくれず、あなたの前でびくびくしているし。ソーニャはソーニャで、父親に当り散らすばかりか、あたしにまでぷりぷりして、これでもう二週間も口を利(き)いてくれません。あなたはどうかというと、宅がお嫌いで、現在のお母さまをてんでばかにしてらっしゃる。あたしはもう気がいらいらして、今日なんか、二十ぺんも泣きたくなったわ。……おかしな家ですことね、ここは。
 
ワーニャ 哲学はよしましょう。
 
エレーナ ねえ、ワーニャさん、あなたは教育のある、頭のできたかたですから、おわかりのはずだと思いますけど、この世の中を滅ぼすのは、強盗でも火事でもなくって、むしろ怨(うら)みだとか憎しみだとか、そういったごくつまらないいざこざなのですわ。……ですからあなたも、不平ばかり仰しゃらずに、みんなを仲直りさせる役にお回りになるといいわ。
 
ワーニャ じゃ、まず第一に、この僕を僕自身と仲直りさせてください。ああ、エレーナさん……(彼女の手に唇(くちびる)を当てようとする)
 
エレーナ いけません! (手を振りはなす)あちらへいらしって!
 
ワーニャ もうじき雨もあがるでしょう。そして草も木もあらゆるものが生き生きとよみがえって、胸いっぱい息をつくことでしょう。しかし僕だけは、あらしも神鳴りも、心の曇りを洗い落してはくれないのだ。自分の一生はもう駄目だ、取返しがつかない、という考えが、まるで主(ぬし)か魔物のように、よる昼たえまなしに、僕の胸におっかぶさっているのです。過ぎ去った日の、思い出もない。くだらんことに、のめのめと浪費してしまったからです。じゃ現在はどうかと言うと、いやはやなんともはや、なっちゃいない。これでも僕は生きているつもりです。これでも僕は、人間らしい愛情を持っているつもりです。だがそれを、一体どうしたらいいんです? どうしろとおっしゃるんです? 僕の人間らしい気持は、まるで穴ぼこに射(さ)した陽(ひ)の光のように、むなしく消えてゆくんです。そして僕という人間も、自滅してゆくんです。
 
エレーナ あなたが、その愛だの愛情だのという話をなさると、あたしはなんだかぼうっとしてしまって、どう言っていいかわからなくなるわ。済まない――とは思いますけれど、何ひとつ申しあげることができないの。(行こうとする)おやすみなさい。
 
ワーニャ (立ちふさがって)それだけじゃありません。この家のなかで、もう一つの命――そのあなたの命が、やっぱりじりじりと虫ばまれてゆくのを見ると、僕はもう居ても立ってもいられないんです。一体あなたの行く手に、どんな望みがあるというのです。ろくでもない哲学で、自分の命をちぢめるのは、もういいかげんにしましょう。それがわかったら、ねえ、それがわかったら……
 
エレーナ (じっと男の顔を見る)ワーニャさん、あなた酔ってらっしゃるのね!
 
ワーニャ そうかもしれない、そうかも……
 
エレーナ ドクトルはどこ?
 
ワーニャ あっちです……僕の部屋に泊っています。ふむ、そうかもしれない、大いにそうかもしれない。……何がもちあがるか、わかったものじゃないからなあ!
 
エレーナ 今日もまた、お飲みになったのね! 一体どういうおつもり?
 
ワーニャ 少しは、生きてるような気がしますからね、飲むと。……ほっといてください、エレーナさん!
 
エレーナ 以前は、一滴もあがらないし、そんなお喋り屋さんでもなかったあなたなのに。……さ、あちらへいらして、おやすみなさい! あなたの相手は、退屈ですわ。
 
ワーニャ (また女の手に唇を当てようとする)わたしの大事な……エレーナさん!
 
エレーナ (腹だたしげに)さわらないでちょうだい。ほんとに厭(いや)だこと。
退場。
 
ワーニャ (一人)行ってしまった。……(間)死んだ妹のところで、おれは十年前、ちょいちょいあの人に逢(あ)ったものだ。あの人は十七で、おれは三十七だった。なんだっておれはあの時、あの人に恋して、さっさと結婚を申込まなかったのだろう。造作もなかったのになあ! そうすれば、今はもうちゃんと、あの人はおれの細君なのになあ。……そう。……さしずめ今ごろは、二人ともあのどしゃ降りで目をさまして、あの人が神鳴りの音におびえると、おれはしっかり抱きしめてやって、「大丈夫だよ、僕がついてるからね」――そう囁(ささや)いてやる。ああ、すばらしい夢だ。じつにすてきだ、思わずにっこりしたくなるほどだ。だが、いかんいかん、おれはまた頭の中がこんぐらかってきたぞ。……なぜおれは年をとってしまったのだ? なぜおれの気持があの人に通じないのだ? あの飾り気たっぷりの言い回し、カビの生えた女大学式な考え、世の中を滅ぼすものとかなんとかいう、愚にもつかない屁(へ)理屈――いやはや、じつにやりきれん。(間)それにしてもおれは、まんまと一杯くったものだなあ! あの教授閣下を――あのやくざな痛風やみを、おれは心底(しんそこ)から崇拝して、まるで牛みたいにやつのために働いてきたのだ! おれはソーニャと二人で、この地所から、最後の一しずくまで搾(しぼ)り上げてしまった。おれたちは高利貸みたいなまねまでして、胡麻(ごま)の油だの、豌豆(えんどう)まめだの、チーズだのを売りさばいて、自分たちは食う物も食わずに、一銭二銭の小銭から何千という金を積み上げて、あいつに仕送りしてやったのだ。おれは、あいつやあいつの学問が自慢で、それがおれの生き甲斐(がい)でもあれば励みでもあったのだ! あいつの言うこと書くこと、みんなおれにはすばらしい天才的なものに思えた。……ふん、ところが今はどうだい。あいつがいざ退職してみれば、あいつが一生かかって何をやり上げたか、今じゃすっかり見透しだ。あいつが死んだあと、一ページの仕事だって残るものか。あいつは名もない馬の骨だ、ゼロだ! シャボンの泡(あわ)だ! おれはまんまと騙(だま)されたんだ……今こそわかった――きれいさっぱり騙されたんだ。……
アーストロフがチョッキもネクタイもなしのフロック姿で登場。一杯機嫌である。あとからテレーギンが、ギターをかかえて出る。
 
アーストロフ おい、弾(ひ)けよ!
 
テレーギン 皆さん、おやすみじゃないか。
 
アーストロフ いいから弾けったら。
テレーギン、そっと弾く。
 
アーストロフ (ワーニャに)君ひとりかい? ご婦人はいないのかね? (腰に手を当てがって、小声で唄(うた)う)「家鳴り震動、ペチカも踊る、亭主ゃどこにも、寝られない」……ってね。僕は神鳴りのおかげで目がさめちまった。ひどい降りだったね。もう何時だろう!
 
ワーニャ 誰が知るもんか。
 
アーストロフ なんだか、エレーナさんの声がしていたようだが。
 
ワーニャ ついさっきまで、ここにいたよ。
 
アーストロフ まったく、窃窕(ようちょう)たる美人だなあ。(テーブルの上の薬壜(びん)を改めてみる)みんな薬だ。あらんかぎりの処方が、ずらり行列してるわけだ。ハリコフのも、モスクワのも、トゥーラのも。……あの人の痛風のおかげで、泣かされなかった町は一つだってあるまい。ほんとに病気なのかい、それとも仮病かい。
 
ワーニャ 本物さ。(間)
 
アーストロフ ばかに沈んでるじゃないか。教授が気の毒だとでも言うのかい?
 
ワーニャ ほっといてくれ。
 
アーストロフ それとも、教授夫人に恋患(こいわずら)いかね。
 
ワーニャ あの人は僕の親友だ。
 
アーストロフ おや、もう?
 
ワーニャ その「もう」というのは、どういう意味だ。
 
アーストロフ 女が男の親友になるまでには、こういう手順がいるものだ。――はじめは友達、それから恋人、さてその先が親友。
 
ワーニャ 俗物哲学だ。
 
アーストロフ へえ? いや、なるほど。……白状すりゃあ、僕もそろそろ俗物の仲間入りさ。現にこのとおり、結構酔っぱらいもするしね。まあ大抵ひと月に一度は、こんなふうに深酒をする。そして、酔っぱらったが最後、僕は思いっきりもう、ずうずうしい鉄面皮になる。僕の目には世の中が一切合財(いっさいがっさい)、一文の値打ちもなくなってしまうんだ。うんとむずかしい手術にも平気で手をつけて、ものの見事にやってのける。どえらい未来の計画を、でっち上げてみたりもする。そうなるともう、自分がただの唐変木とは思えなくなって、天晴(あっぱ)れ人類に偉大な貢献をすべき人物に見えてくる……偉大なる貢献をね! そうなったらもう、僕独特の堂々たる哲学体系が出現して、君たち仲間はみんな、虫けらか微生物みたいに見えてくる。(テレーギンに)ワッフル、弾けよ。
 
テレーギン そりゃ、あんたの頼みだから、わたしゃ喜んで弾くけどね、まあ考えてもごらん、――家(うち)じゅうみんな寝てらっしゃるじゃないか。
 
アーストロフ まあ弾けったら!
テレーギン、そっと弾く。
 
アーストロフ もう一杯やらなきゃ駄目だ。行こう。あっちにはまだ、コニャックが残っていたはずだ。そして夜が明けたらすぐ、僕の家へ行こうじゃないか。いいね? うちの助手のやつはね、「いいね」とは決して言わない、きまって「よかね」って言うんだ。おっそろしい強突張(ごうつくば)りでね。じゃ、よかね? (はいってくるソーニャを見て)これは失礼、ネクタイもしないで。(急いで退場。テレーギンあとに従う)
 
ソーニャ まあ、ワーニャ伯父さん、またドクトルとお飲みになったのね。どっちもどっちだわ。でも、あの方は今に始まったことじゃないけれど、一体どうなすったの、あなたは、いい年をして、おかしいわ。
 
ワーニャ 年なんか関係ないさ。本当の生活がない以上、幻に生きるほかはない。とにかく、何もないよかましだからね。
 
ソーニャ 草刈はすっかり済んだというのに、まいにち雨ばっかり、せっかくの草がみんな腐りかけているわ。だのにあなたは、幻を追うのがご商売なのね。うちの仕事を、すっかり投げだしておしまいになったのね。……働くのは私っきり、精も根も尽きてしまったわ。……(驚いて)あら伯父さん、涙なんか!
 
ワーニャ なあに、涙なもんか。なんでもないよ……つまらんことさ。……今お前さんが私を見た目つきが、亡(な)くなったお前のお母さんにそっくりだったのさ。可愛(かわい)いソーニャ……(むさぼるように、姪(めい)の手や顔にキスする)ああ妹……おれの可愛い妹……お前は今どこにいるんだ? あれが知ってくれたらなあ! あああれが知ってくれたらなあ
 
ソーニャ 何を? 伯父さま、何を知ってくれたらと仰しゃるの?
 
ワーニャ つらいんだよ、苦しいんだよ。……いや、なんでもない。……やがて……いやなんでもない。……どれ、行くとしようか……(退場)
 
ソーニャ (ドアをノックする)アーストロフさん! 起きてらっしゃる? ちょっとお願い!
 
アーストロフ (ドアの向うで)ただいま! (やや暫(しばら)くして登場。ちゃんとチョッキとネクタイをつけている)何かご用ですか。
 
ソーニャ どうせお好きなものなら、ご自分だけでお飲みになるといいわ。ただお願いですから、伯父には飲ませないでくださいましね。あの人には毒ですから。
 
アーストロフ わかりました。もう一緒にはやりますまい。(間)私は今すぐ家へ帰ります。思い立ったが吉日ですからね。馬車に馬をつけているうちに、そろそろ明るくなるでしょう。
 
ソーニャ 雨が降っていますわ。朝までお待ちになったら。
 
アーストロフ 神鳴りは、それて行きました。降られたにしても、大したことはありますまい。どれ、出掛けるとしましょう。あらためてお願いしておきますが、今夜はもう、お父さまのところへ私をお呼びにならないでください。私が、痛風だと申しあげると、お父さまはリョーマチだと仰しゃる。寝てらっしゃいと言うと、起きてらっしゃる。今日なんかは、てんでもう口も利(き)いてくださらん始末ですからねえ。
 
ソーニャ 甘やかされつけているものですから。(食器棚の中を捜す)何かちょっとめしあがりません?
 
アーストロフ そうですね、頂きましょうか。
 
ソーニャ 私は、夜なかに頂くのが好きですの。何か戸棚のなかに、ありますわ。父は若い頃から、ずいぶん女の人にもてたそうですから、おかげですっかり甘やかされてしまったのですの。このチーズ、いかが? (二人とも食器棚の前に立って食べる)
 
アーストロフ 私は今日、なんにも食べずに、飲んでばかりいました。あなたのお父さんは、じつに気むずかしい人ですね。(棚から酒瓶をおろして)よろしいですか? (一杯ついて飲む)ここには誰もいないから、ざっくばらんなお話ができますが、どうもこのお宅は、わたしには一月(ひとつき)と我慢ができそうもありませんな。こんな空気のなかにいたら、息がつまってしまいますよ。……あなたのお父さんときたら、痛風と書物のお化けみたいな人だし、ワーニャ伯父さんは鬱(ふさ)ぎの虫にとりつかれてめそめそしてるし、お祖母(ばあ)さんもあのとおり、それから、あなたのままおっ母さん……
 
ソーニャ 母がどうかしまして?
 
アーストロフ 人間というものは、何もかも美しくなくてはいけません。顔も、衣裳(いしょう)も、心も、考えも。なるほどあの人は美人だ、それに異存はありません。けれど……じつのところあの人は、ただ食べて、寝て、散歩をして、あのきれいな顔でわれわれみんなを、のぼせあがらせる――それだけのことじゃありませんか。あの人には何ひとつ、しなければならない仕事がない。あべこべに、人の世話にばかりなっているんです。……そうでしょう? しかし、無為安逸な生活は、清らかな生活とは言えません。(間)もっとも私の見方は、すこしきびしすぎるかもしれない。私も、お宅のワーニャ伯父さんと同様、生活に不満なのです。それで二人とも、だんだん愚痴っぽくなってくるんですよ。
 
ソーニャ ほんとに生活にご不満?
 
アーストロフ そりゃ一般的に言えば、私も生活が好きです。けれどわれわれの生活、この田舎(いなか)の、ロシアの、俗臭ふんぷんたる生活は、とても我慢がならないし、心底(しんそこ)から軽蔑(けいべつ)せざるを得ませんね。そこで、じゃお前自身の生活はどうなんだ、と言われると、正直の話、なんともかとも、何ひとつ取柄はないですねえ。ねえ、そうでしょう、まっくらな夜、森の中を歩いてゆく人が、遥(はる)か彼方(かなた)に一点のともしびの瞬(またた)くのを見たら、どうでしょう。もう疲れも、暗さも、顔を引っかく小枝のとげも、すっかり忘れてしまうでしょう。……私は働いている――これはご存じのとおりです。この郡内で、私ほど働く男は一人だってないでしょう。運命の鞭(むち)が、小止(おや)みもなしに私の身にふりかかって、時にはもう、ほとほと我慢のならぬほど、つらい時もあります。だのに私には、遥か彼方で瞬いてくれる燈灯(ともしび)がないのです。私は今ではもう、何ひとつ期待する気持もないし、人間を愛そうとも思いません。……もうずっと前から、誰ひとりとして好きな人もないのです。
 
ソーニャ 誰ひとり?
 
アーストロフ ええ、誰ひとり。ただ、ある種の親しみを、お宅のばあやさんには感じています――昔なじみとしてね。ところが百姓連中ときたら、じつに単調で、無知蒙昧(もうまい)で、不潔きわまる暮しをしているし、インテリ連中はどうかというと、これまた、どうも反(そ)りが合わない。頭が痛くなるんですよ。つきあい仲間のインテリ連中は、誰も彼も、料簡(りょうけん)は狭いし、感じ方は浅いし、目さきのことしか何も見えない――つまり、どだいもうばかなんです。一方、少しは利口で骨のある手合いは、ヒステリーで、分析きちがいで、反省反省で骨身をけずられています。……そうした手合いは、愚痴をこぼす、人間嫌いを標榜(ひょうぼう)する、病的なほど人の悪口(あっこう)をいう、人に近づくにも横合いから寄っていって、じろりと横目で睨(にら)んで「ああ、こいつは気ちがいだよ」とか、「こいつは法螺(ほら)吹きだよ」とか決めてしまう。相手の額に、どんなレッテルを貼(は)っていいかわからなくなると、「こいつは妙なやつだ」と言う。私が森が好きならこれも変てこ。私が肉を食べないと、これもやっぱり変てこ。いや、今日(こんにち)ではもう、自然や人間に向って、じかに、純粋に、自由に接しようとする態度なんか、薬にしたくもありはしません。……あるものですか! (飲もうとする)
 
ソーニャ (さえぎって)いけません、どうぞお願いですから、もうあがらないで。
 
アーストロフ なぜです。
 
ソーニャ まるであなたに似つかないことですもの! あなたは、すっきりしたかたで、とても優しい声をしてらっしゃるわ。……わたしの知っている誰よりも彼よりも、ずっとりっぱなかたですわ。だのに、なぜあなたは、飲んだくれたり、カルタをしたり、そんな凡人のまねがなさりたいの? ね、そんなまねはなさらないで、お願いですわ! いつもあなたはおっしゃるじゃないの、――人間は何ひとつ創(つく)り出そうとせずに、天から与えられたものを毀(こわ)してばっかりいる、って。なぜあなたは、なぜあなたは、ご自分でご自分を台なしになさるの? いけないわ、いけませんわ、後生です、お願いですわ。
 
アーストロフ (片手を差出して)もう飲みますまい。
 
ソーニャ 約束してくださる?
 
アーストロフ 約束します。
 
ソーニャ (ぎゅっと手を握って)ありがとう!
 
アーストロフ これで打ちどめです! やっと迷いがさめました。そら、このとおり、私はすっかりもう正気だし、死ぬ日までこれで押し通しますよ。(時計を見て)じゃ、もう少しお話しましょうか。僕に言わせるとですね、僕の時代はもう過ぎてしまって、今じゃ何もかも手後(おく)れなんです。年はとるし、働きすぎてへとへとだし、俗物にはなるし、感情はすっかり鈍ってしまうし、今ではもう僕は、とても人間とは結びつけそうもありません。現に僕は、誰ひとりとして好きな人はないし、これから先も……好きな人はできますまい。そんな僕の心を、まだ捉(とら)える力があるのは、ほかでもない、美しさというものです。なんぼ僕だって、これだけには、平気じゃいられません。仮にもしあのエレーナさんが、その気になったとしたら、僕の頭を一日でわけなく狂わしてしまうでしょうね、……だがこれは、愛ではない。結びつきというものでもない。……(片手で両眼をおおい、身ぶるいする)
 
ソーニャ どうかなすって?
 
アーストロフ いやなに。……この春の初め、僕の患者が、クロロホルムにかかったまま死んじまったっけ。
 
ソーニャ そのことなら、もうお忘れになってもいい時分よ。(間)ねえ、どうお思いになる、アーストロフさん。……仮にもし私に、仲のいいお友達か、それとも妹があって、その人が……まあ仮に、あなたのことを想(おも)っているとしたら、――それがわかったら、あなたはどうなすって?
 
アーストロフ (肩をすくめて)わかりませんね。まあ、どうもしないでしょうね。それとなしに、僕は愛することなんかできないし、……それに第一、そんなこと考えている暇もないことを、その人に悟らせるように仕向けるでしょうね。それはそうと、帰るとすれば、もう時間です。ではご機嫌よう、ソーニャさん、こんな調子で話していたら、それこそ夜が明けてしまいますよ。(握手)もしよろしかったら、客間を抜けさせて頂きたいですな。ひょっとしてワーニャ伯父さんにつかまるといけませんからね。(退場)
 
ソーニャ (一人)あのかたは、なんにも言ってくださらなかったわ。……あのかたの心も胸の中も、相変らず私には見当がつかない。だのに、なぜ私は、こんなに嬉(うれ)しい気持がするんだろう? (幸福そうに笑う)わたしはあの人に言ってあげた――あなたはすっきりした、上品なかたで、とても優しい声をしてらっしゃる、って。……なんだか出し抜けのように聞えはしなかったかしら? いまだに私の耳のなかで、あのかたの声がふるえながら、優しくいたわってくださるような気がする……ほら、この空気のなかに、あのかたの声がただよっている。でも、あの妹のことを言いだしたら、あのかたはわかってくださらなかったわ……(両手をもみしだきながら)ああ厭(いや)だ厭だ、どうして不器量に生れついたんだろう! ほんとに厭だこと! しかも私は、自分の不器量さかげんをよく知っているわ、ようく知っているわ。……こないだの日曜、わたしが教会から出てきたら、みんなで噂(うわさ)をしているのが聞えたっけ。「あのかたは親切で、優しい人だけれど、惜しいことに器量がね」って……不器量……不器量……不器量……
エレーナ登場。
 
エレーナ (窓をあけて)雨があがったわ。まあ、いい空気だこと! (間)ドクトルはどこ?
 
ソーニャ お帰りになりました。(間)
 
エレーナ ねえ、ソフィー。
 
ソーニャ なんですの?
 
エレーナ 一体いつまで、あなたはそんな顔をしているつもり? お互い、何ひとつ根に持つことなんかないじゃないの。どうして敵(かたき)同士にならなきゃいけないの? もう沢山だわ。……
 
ソーニャ わたしだって……(エレーナを抱きしめる)憤慨するのはもう沢山。
 
エレーナ それでなくちゃ嘘(うそ)よ。(二人とも感動のさま)
 
ソーニャ お父さま、おやすみになって?
 
エレーナ いいえ、客間で起きてらっしゃるの。……ほんとにこれで、もう何週間も口を利(き)かずにいたわねえ。べつにこれといって、わけもいわれもないのにさ……(食器棚のあいているのを見て)おや、どうしたの?
 
ソーニャ アーストロフさんが、お夜食をあがったの。
 
エレーナ 葡萄(ぶどう)酒もあるわ。……仲直りのしるしに、ひとつ飲まない。
 
ソーニャ ええ、いいわ。
 
エレーナ このグラスで一緒にね。……(つぐ)そのほうがいいわ。じゃ、これでもう、ママと言ってくれるわね。
 
ソーニャ ええ。(飲んでキスする)わたし、ずっと前から仲直りがしたかったの。でも、なんだか恥ずかしくって……(泣く)
 
エレーナ おや、何で泣くの?
 
ソーニャ なんでもないの、ついわたし。
 
エレーナ さ、もういいわ、もういいわ……(泣く)おばかさんね、あたしまで、泣いちまったじゃないの。……(間)あんたは、あたしがソロバンずくであんたのお父さまの後妻に来たように勘ぐって、それで憤慨していたのね。……でもあたし、誓って言うけれど、あたしがあの人のところへ来たのは、ただ好きだったからなのよ。あの人が学者で、有名な人だというので、あたし夢中になってしまったの。そりゃもちろん、そんなもの本当の愛じゃなくて、いいかげんなものには違いないけれど、あのころは本物のような気がしたのよ。あたしのせいじゃないわ。だのにあんたは、あたしたちが結婚したそもそもの初めから、その利口な疑ぐりぶかい目を光らせて、ずっとあたしを咎(とが)めていたのね。
 
ソーニャ もう仲直りよ、仲直りよ! 忘れましょうよ。
 
エレーナ そんなふうに人を見るものじゃないわ――あんたにも似合わない。誰もかも、みんな信じてゆかないことには、とても生きちゃ行けないものよ。(間)
 
ソーニャ ねえ、本当のところを聞かせてくださらない、仲好(なかよ)しになったんだから。……ママ、お仕合せ?
 
エレーナ いいえ。
 
ソーニャ やっぱり、そうだったのね。じゃ、もう一つ。かくさずにおっしゃってね――パパがもっと若かったらと、お思いになる?
 
エレーナ あんた、まだ子供ねえ。そりゃ、そう思うわよ。(笑う)さ、なんでもいいから、どしどし聞いてちょうだい。……
 
ソーニャ あのドクトル、いい人だとお思いになって?
 
エレーナ ええ、とても。
 
ソーニャ (笑う)わたし今、ぼうっとばかみたいな顔をしているでしょう……ね? あのかた、さっきお帰りになったのに、わたしにはまだ、あのかたの声や足音が聞えるのよ。あの真っ暗な窓を見ても、あのかたの顔が浮んでくるの。どうぞ、みんな言わせてちょうだい。……でも、とてもこんな大きな声じゃ言えないわ、恥ずかしいんですもの。わたしの部屋へ行って、お話ししましょうよ。ばかな娘だとお思いになる? きっとそうだわ。……でもあの人のこと、何か話して聞かせて。……
 
エレーナ 何かって、なあに?
 
ソーニャ 頭のいいかたね、あのかた。……何もかも心得てらっしゃるし、何もかもおできになるんですもの。……病人を治したり、森を植えつけたり……
 
エレーナ 植林だの医術だのということは、じつは大した問題じゃないのよ。……ねえ、いいこと、――肝心なのは、有能だということなのよ! この有能だというのが、どういうことだか、あんた知ってて? 何ものをも怖れない勇気、何ものにも捉(とら)われない頭の働き、こせこせしない遠大な物の見かた……だわ。木を一本植えるにしたって、千年たったら、それがどうなるかということを、あの人はちゃんと考えていて、人類の幸福というものをはっきり眼に浮べてらっしゃるのよ。ああいう人は滅多にいません、だから大事にいたわってあげなければならないの。……お酒を飲んだり、たまさか乱暴な真似(まね)をするといって、――なんでもないじゃないの。有能な人はこのロシアじゃ君子然とすましちゃいられないものなのよ。考えてもみるがいいわ、あのドクトルの生活ときたら、はたから見てもぞっとするほどじゃなくて? 道路といえば、二進(にっち)も三進(さっち)も行かないぬかるみだし、身を切るような風、ふぶき、行けども行けども涯(はて)しない道のり。おまけに相手にする百姓たちときたら、がさがさした、けだものみたいな連中ばかりだし、ぐるり一面どこを見ても、貧乏と病気なんだもの。そんな中で、来る日も来る日も一所懸命闘っている人に向って、四十近くまでお酒も飲まずに君子然と構えていろなんて、虫がよすぎると言うものだわ。……(娘に接吻(せっぷん)する)あたしは、心からあんたの幸福を祈るわ。だってりっぱにその値うちのある人なんだもの。……(立ちあがる)それに引きかえ、このあたしは、どこから見ても退屈な、ほんの添え物みたいな女なのよ。……音楽をやっても、お嫁に来てみても、浮いた噂が立つ時でも――いつどんな場合でも、要するにあたしは、ほんの添え物みたいな女なのだわ。ほんとを言うと、ねえソーニャ、あたしほど不仕合せな女はないと、つくづく思うの! (興奮して舞台をあちこち歩き回る)あたしには、この世の仕合せなんか似つかないのよ。ええ、似つかないのよ! おや、何を笑うの?
 
ソーニャ (顔をかくして笑いながら)わたし、ほんとに嬉しいの……嬉しいの!
 
エレーナ ああ、ピアノが弾きたくなった。……何か弾いてみようかしら。
 
ソーニャ ええ、弾いて。(抱きしめる)わたし、どうせ眠れやしないわ。……何か弾いて!
 
エレーナ ええ、いいわ。でもお父さん、起きてらっしゃるのよ。例のご病気がはじまると、ピアノが癇(かん)に障(さわ)ってならない人なの。ちょっと行って、伺ってみるといいわ。かまわないとおっしゃったら弾くから。ね。
 
ソーニャ ええ、伺ってくるわ。(退場)
庭で夜番の拍子木(ひょうしぎ)の音。
 
エレーナ ずいぶん長いこと弾かなかった。思いっきり弾いて泣いてみよう、ばかみたいに泣いてみよう。(窓をのぞいて)カチカチ言わせているのは、お前かい、エフィーム。
 
夜番の声 へえ、あっしで。
 
エレーナ 鳴らさないでおくれ、旦那(だんな)さまがお悪いんだよ。
 
夜番の声 すぐ向うへ参りやす! (口笛を吹く)おいで、黒、黒、おいで! (間)
 
ソーニャ (帰ってきて)いけませんって!
 
――幕――




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