セレブリャコーフ家の客間。右手、左手、中央と三つの出入口。――昼。ワーニャとソーニャが腰かけている。エレーナは何か思案しながら、舞台を歩き回っている。
ワーニャ 教授閣下からのお達しによると、われわれ一同、きょう午後一時に、この客間に集まれとのことだったが。(時計を見て)もう一時十五分前だ、何かわれわれ民草(たみくさ)にみことのりがくだるわけだな。
エレーナ 何か用向きがあるんでしょう。
ワーニャ あの人に、用向きも何もあるものか。世迷(よま)いごとを書く、ぼそぼそ苦情をいう、やきもちを焼く、それだけのことさ。
ソーニャ (咎(とが)めるような口調で)伯父さん。
ワーニャ いや、ご免ご免。(エレーナをさして)どうだい、あの人は。歩くにも、さももの憂(う)そうに、しゃなりしゃなりとやっている。いい風情(ふぜい)だなあ、じつに!
エレーナ あなたこそ、一日じゅう、ぼそぼそ言ってらっしゃるわ。のべつぼそぼそ言っていて――よくも厭(あ)きずにいらっしゃれるものねえ! (さびしそうに)あたし、退屈で死にそうだわ。一体どうしたらいいんだろう。
ソーニャ (肩をすくめて)仕事なら、いくらでもあってよ。する気にさえおなりになれば。
エレーナ 例えば、どんなこと?
ソーニャ 帳簿をつけるなり、百姓の子に物を教えるなり、療治をしてやるなり。仕事はいくらでもありますわ。現にあなたもお父さまもまだここにいらっしゃらなかったころは、わたしワーニャ伯父さんと一緒に、よく市場(いちば)へ粉を売りに行ったものですわ。
エレーナ そりゃ無理よ。あたし、そんな興味もないしね。お百姓に物を教えたり、療治をしてやるなんて、理想派の小説に出てくるだけの話だわ。第一あたしが、やぶから棒に思い立って、教えたり療治したりに出かけていくなんて、とてもできない相談だわ。
ソーニャ どうして出かけていって、教えてやる気におなりになれないのか、わたしにはそれがわからないわ。まあ見てらっしゃい、今に平気になりますから。(エレーナを抱きしめる)退屈はからだの毒よ、ねえママ。(笑いながら)あなたは退屈で、身の置き場もないご様子ですけれど、退屈がってぶらぶらしている人がいると、はたの人にまでうつるものなのねえ。論より証拠、このワーニャ伯父さんは、一日(いちんち)じゅう何もせずに、まるで影みたいにあなたの後ろばかり追っかけているし、わたしだってこのとおり、仕事も何もほったらかして、ママのところへお話に来てしまうでしょう。怠け癖がついたんだわ、しようのないわたし! あのアーストロフ先生だって、前はごくたまにしかお見えにならず、せいぜい月に一度ぐらい、それも無理やりにお願いして来て頂いたものですけれど、今じゃどうでしょう。大事な森も患者も打っちゃらかして、毎日ここへ見えない日はありませんわ。あなたは魔法使よ、きっと。
ワーニャ 何をくよくよなさるんです? (声を励まして)ねえ、僕の大事なエレーナさん、せっかくそれだけの器量をしてさ、もっと利口になるものですよ! あなたには、魔性の血が流れている、いっそのこと魔女になっておしまいなさい! せめて一生に一度は、思いっきりやってごらんなさい。さあ早く、魔物みたいな男の誰かに、首ったけ惚(ほ)れてごらんなさい。教授閣下をはじめ、われわれ一同が、(両手をひろげて)こう呆気(あっけ)にとられるぐらい、ずぶりと深みへはまってごらんなさい!
エレーナ (ムッとして)どうしようと、あたしの勝手ですわ! ずいぶん失礼ねえ! (行こうとする)
ワーニャ (引きとめて)まあまあ、エレーナさん、あやまります……赦(ゆる)してください。(手に接吻(せっぷん)して)さあ仲直り。
エレーナ なんぼなんでも、我慢がならないわ。そうじゃなくて?
ワーニャ めでたく仲直りのしるしに、今すぐ薔薇(ばら)の花束を持ってくるとしましょう。今朝はやく、あなたにあげようと思って作っておいたのです。……秋の薔薇――えも言われぬ、悩ましげな薔薇ですよ。……(退場)
ソーニャ 秋の薔薇――えも言われぬ、悩ましげな薔薇……(二人、窓のそとをながめる)
エレーナ もう九月なのねえ、結局あたしたち、ここで冬越しをするんだわ! (間)ドクトルはどこ?
ソーニャ ワーニャ伯父さんのお部屋ですわ。何か書いてらっしゃるの。ワーニャ伯父さんが出て行ってくれて、ありがたいわ。わたし、ご相談がありますの。
エレーナ どんなこと?
ソーニャ どんなことって。(頭をエレーナの胸にうずめる)
エレーナ もう、いいわ、いいわ……(髪を撫(な)でてやりながら)いいわ。
ソーニャ わたし、器量が悪いの。
エレーナ いい髪の毛だこと。
ソーニャ あんなことを! (振返って、鏡を見ようとする)いいえ、嘘(うそ)よ。女が不器量だと、きまって、「いい目をしている」とか、「いい髪をしている」とか言うものだわ。……わたしあの人を、もう六年もお慕いしていますの。じつのお母さまより、ずっと好きなくらい。明けても暮れても、あの人の声が聞えるような気がするし、あの人の握手が、今でも感じられるの。あの人を心待ちにして、じっと戸口を見ていると、今にもあの人が、はいってらっしゃるような気がするの。ね、もうおわかりでしょう、こうしてしょっちゅうあなたのお邪魔をしにくるのも、あの人の噂(うわさ)がしたいからですわ。このごろはあの人、毎日のようにここにお見えになるけれど、わたしを見つめてくださるどころか、てんで見向きもなさらないの。……わたし、とてもつらい! もうこうなっては、とても見込みはないわ、ないわ、ええ、ないわ! (絶望的に)ああ神さま、どうぞ、勇気をお授けくださいまし!……って、ゆうべは、一晩じゅう、お祈りしましたの。……わたしはちょいちょいあの人のそばへ行って、こっちから話をしかけてみたり、じっとあの人の目を見つめたりします。……わたしもう、見得も何もないし、自分を抑(おさ)える力もないの。……もう一刻の我慢もならなくなって、きのうワーニャ伯父さんに、すっかり打明けましたの。……わたしがあの人を慕っていることは、召使たちもみんな知ってますわ。みんな知ってますわ。
エレーナ で、あの人は?
ソーニャ 知らないの。てんで見向きもしないんですもの。
エレーナ (物思わしげに)妙な人だわねえ。……じゃ、こうしましょう。あたしから話してみようじゃないの。……遠回しにそっと謎(なぞ)をかけてみるのよ。(間)ほんとに、いつまでそう、どっちつかずじゃあねえ。……ね、いいでしょう。
ソーニャうなずく。
エレーナ ほんとに、それがいいわ。好きか、好きでないか――それくらいのこと、すぐわかるもの。いいのよ、そんなにそわそわ心配しないでも。そっと遠回しに、気取(けど)られないように聞くからね。イエスかノウか、それだけわかればいいんだもの。(間)もしノウだったら、もうここへは来て頂かないことにしましょうね。そうだわね。
ソーニャうなずく。
エレーナ いっそ顔を見ないほうが、気が楽だもの。さ、そうと決ったら善は急げ、今すぐ訊(き)いてみることにしようじゃないの。あの人あたしに、何か図面を見せたいと言ってたわ。……ちょっと行って、拝見したいと言って来てちょうだい。
ソーニャ (ひどく興奮して)あとで本当のこと、すっかり聞かせてくださる?
エレーナ そりゃもちろんよ。本当のことというものは、いいにしろ悪いにしろ、とにかくどっちつかずでいるより、少しは気が安まるもの。あたしにまかせてちょうだい、いい子だから。
ソーニャ ええ、ええ。じゃわたし、あなたが図面を見たいと言ってらっしゃると、そう言って来ますわ。……(行きかけて、ドアのそばで立ち止る)いいえ、やっぱりわからないままでいるほうがいいわ。……とにかく、望みだけはあるんだもの……
エレーナ どうしたの?
ソーニャ いいえ、なんでも。(退場)
エレーナ (一人)ひとの胸の中を知りながら、力になってやれないぐらい、厭(いや)なことはないわ。(思案しながら)あの人はあの子のことを想(おも)ってはいない、それはたしかだ。だからといって、あの人があの子をお嫁さんにして悪いという理屈はないわ。あの子は器量こそ悪いけれど、あの年配の田舎(いなか)医者には、願ったり叶(かな)ったりの奥さんじゃないの。利口で、思いやりがあって、気持がきれいでさ。……いや、こんなことじゃない、こんなことじゃない……(間)あたしには、気の毒なあの子の気持がよくわかる。どうにもやり場のない退屈なその日その日、あたりをうろうろしている連中ときたら、人間というよか、いっそ灰色のポツポツとでも言ったほうが、早わかりがするくらい。耳に聞える話といったら、俗悪なくだらない話ばかり、ただ食べて、飲んで、寝ることしか知らないような連中が、うようよしている中へ、時々ああして、ほかの連中とは似もつかない、風采(ふうさい)もよければ話も上手(じょうず)で、女好きのするあの人がやってくるんだもの。闇夜(やみよ)に明るい月がのぼったみたいなものだわ。……ぼうっとなって、無我夢中になるのも無理はない。現にこのあたしだって、幾分のぼせ気味らしいもの。まったく、あの人が顔を見せないと、なんだか物足りないし、あの人のことを考えると、思わずにっこりしたくなるもの。……あのワーニャ伯父さんは、あたしには、魔性の血が流れている、「せめて一生に一度は思いっきりやってごらんなさい」って言ったっけ。……そうねえ、ひょっとすると、それが本当かもしれないわ。……いっそ小鳥みたいに自由になって、さっさとこんな所から飛び出したら、みんなの寝ぼけっ面(つら)や、あきあきするような長話が、見えも聞えもしない所へ行って、きれいさっぱりみんなのことが忘れてしまえたら。でもあたしは気が小さくって、引っこみ思案だから……気が咎(とが)めて仕方がないだろう。……現にあの人は毎日ここへ出かけてくる。その来るわけが、どうやら察しがついてくると、もうあたしは、まるで自分が悪いみたいな気がして、いっそソーニャの前に膝(ひざ)をついて、泣いてあやまりたいような気持になるんだもの。……
アーストロフ (統計グラフをかかえて登場)ご機嫌よう! (握手)図面がごらんになりたいとかいう話ですが。
エレーナ 昨日あなたは、見せてくださるっておっしゃったじゃなくて?……いまお暇ですの?
アーストロフ ええ、もちろん。(カルタ卓の上に図面をひろげて、鋲(びょう)でとめる)あなたのお生れは、どちらです?
エレーナ (手伝いながら)ペテルブルグですの。
アーストロフ 学校はどちらで?
エレーナ 音楽学校でした。
アーストロフ じゃ、こんなもの、つまらないかもしれませんね。
エレーナ まあなぜ? そりゃあたし、田舎はさっぱり知りませんけれど、本でならずいぶん読みましたわ。
アーストロフ 私は、この家(うち)にわざわざ自分の机が持ってきてあるんです……ワーニャ君の部屋にね。患者の応対でへとへとになって、頭がぼうっとしてくると、私は何もかも放(ほ)ったらかして、いっさんにここへ駆けつけます。そして一、二時間、こんなことをして気を紛らすんです。……ワーニャ君とソーニャさんは、算盤(そろばん)をパチリパチリ言わせている。そのそばで私は自分の机にむかって、絵具を塗りたくるんです。暖かい落着いた気分で、どこかでコオロギも鳴いている。しかし、こういう楽しみは、そうちょいちょいはやりません。月に一度ぐらいなものです。……(図面を指でさしながら)ではまず、ここをごらんください。これは五十年前の、この郡の有様です。濃い緑、うすい緑は、森をあらわしたもので、このとおり総面積の半ばを占めています。緑いろのところに赤い網目がついているのは、大鹿(おおじか)や山羊(やぎ)の棲(す)んでいた場所です。……この図面には、動物ばかりでなく、植物の分布も示してあります。ほら、この湖には、白鳥や、雁(がん)や、鴨(かも)が棲んでいましたし、土地の古老の話によると、あらゆる種類の鳥が無慮無数に群棲(ぐんせい)していて、まるで雲のように空を飛んでいたそうです。大小の村のほかに、このとおりそこここに、出村だの部落だの、坊さんの庵室(あんしつ)だの、水車小屋だのが散らばっています。……牛や馬も、どっさりいました。この水色に塗ってある所がそれです。たとえばこの区域では、水色が濃くなっていますが、これは馬が沢山いた場所で、農家一戸あたり三頭の割合だったそうです。(間)今度は下のほうをごらんください。これが二十五年前の有様です。これになるともう、森は総面積の三分の一しかありません。大鹿はまだいるが、山羊はもういません。緑も水いろも、ずっとうすくなっています。まあざっと、そんな調子です。さあ第三図へ移りましょう。これは現在の有様です。緑いろはそこかしこに見えますが、一面べったりというわけではなく、飛び飛びになっています。大鹿も白鳥もヤマドリも、いなくなってしまいました。……前にあった出村や部落や、坊さんの庵室や水車小屋は、今では跡形もありません。これを要するに、だんだんと、しかも確実に衰えてゆく有様が、見えているわけで、まあもう十年か十五年もしたら、元も子もなくなってしまうに違いありません。あなたがたはそれを、やれ文化の影響だとか、古い生活はしぜん新しい生活に席を譲るべきだとか、仰(おっ)しゃることでしょうね。なるほど、もしもこんなふうに、森が根絶やしになった跡に、道路が通じ、鉄道が敷けたというのなら、また製粉所や工場(こうば)や学校が建ったというのなら、そして住民がずっと健康に、ずっと裕福に、ずっと頭が進んだというのなら、私にもうなずけますが、実際はそんな気配は一つもないではありませんか! この郡内には、相変らず沼地がのさばっているし、蚊はぶんぶん言っているし、道らしい道はないし、百姓は貧乏だし、おまけにやれチフスだ、やれジフテリアだ、やれ火事だ、という始末なのです。……ところで、なぜそんなふうに悪くなったか、と考えてみると、つまりそれは、力にあまる生存競争の結果なのです。……言い換えると、無気力と無知と、徹底的な無自覚とが、今日(こんにち)このような情勢の悪化を招いたそもそもの原因なので、つまり飢え凍(こご)え、病みほうけた人々が、なんとか露命をつなぎ、子供を守ってゆくために、いやしくも飢えをしのぎ、身を暖めるたしになるものなら、わっとばかり飛びついて、明日(あす)のことなどは考えもせずに、すっかり荒してしまったわけなのです。……今ではもう、ほとんど完全にぶち毀(こわ)してしまったのですが、その代りに創(つく)り出したものは、まだ何ひとつないのです。(興ざめな口調で)お顔つきで見ると、あまり面白くもなさそうですね。
エレーナ だってあたし、こういうことよくわからないんですもの。……
アーストロフ わかるのわからないのというほどのことでもありません、ただあなたには、興味がないんです。
エレーナ ほんとを言いますとね、あたしほかのことに気をとられていますの。ご免なさいね。じつはあたし、あなたにちょっと、お訊(き)きしたいことがあるんですけれど、どうも具合が悪くって、言い出しにくいんですの。
アーストロフ 訊きたいこと?
エレーナ ええ、お訊きしたいことが。いえなに……ほんの罪のない話なの。ま、ここへかけましょう。(二人かける)じつはね、ある若い女の人のことなんですの。お互い正直に、お友達として、あけすけにお話ししましょうね。一たんお話がすんだら、もうそれっきり、忘れてしまいましょうね。よくって?
アーストロフ 結構です。
エレーナ お話というのは、あたしの義理の娘、ソーニャのことですの。あなた、あの子お好き?
アーストロフ ええ、尊敬しています。
エレーナ 女としてお好きですの?
アーストロフ (ややためらって)いいえ。
エレーナ じゃ、あと二言(ふたこと)三言(みこと)――それでおしまいにしましょうね。あなた、何もお気づきじゃなくて?
アーストロフ 別になんにも。
エレーナ (相手の手をとって)あなたは、あの子のことなんか、心にかけていらっしゃらない。そのお目でわかりますわ。……あの子は煩悶(はんもん)しています。……ね、そこを察して……もうここへは、いらっしゃらないで頂けませんこと。
アーストロフ (立ちあがる)僕はもう、過去の人間です。……それに、暇もないし……(肩をすくめる)どうしてそんな暇が? (彼は度を失っている)
エレーナ ああ、なんて厭(いや)な話だろう。あたしまるで、何千貫もある荷物を背負って歩いたみたいに、胸(ここ)がどきどき言っていますわ。でもまあ、よかったわ、済んで。じゃあもう、きれいに忘れましょうね、なんのお話もしなかったみたいにね、そして……そして、もうお帰りになってちょうだい。あなたは頭のいいかただから、察してくださいますわね。(間)あたし、すっかり顔が火照(ほて)ってしまったわ。
アーストロフ もし一月(ひとつき)か二月(ふたつき)前に、今の話を伺ったのだったら、あるいは僕も考えてみたかもしれません。が、今となってはもう……(肩をすくめる)それに、あの人が煩悶しているという以上、もちろんそりゃあ……。ただ一つ、どうもわからないことがある。どうしてあなたは、わざわざこんなことを、僕に訊いてみる気になったのです? (相手の目をじっと見つめて、指を立てて脅かす)あなたは――ずるい!
エレーナ なんのこと?
アーストロフ (笑いだして)ずるい人ですよ。じゃ、よござんす、仮にソーニャさんが煩悶しているとしましょう。しかしどうしてそのため、こんな探りをお入れになることがあるんです? (相手の口を封じながら、早口に)まあ、そんなびっくりしたような顔を、なさらないでください。あなたは、なぜ僕が毎日ここへやってくるのか、そのわけをすっかりご存じなのだ。……なぜ、誰のためにやってくるのか、それをちゃんとご存じなのだ。そんな可愛(かわい)らしい顔をして、あなたはすばしこい獣みたいな人だ。そんな眼をして僕を睨(にら)まないでください。どうせ僕は、老いぼれた雀(すずめ)ですからね。
エレーナ (けげんそうに)獣みたい? なんのことやらわからないわ。
アーストロフ きれいな、毛のふさふさしたイタチですよ。……あなたは、餌食(えじき)がお入用なんだ! 現にこの僕は、もうこれで一ト月も怠けどおしに怠けて、何もかも放ったらかして、がつがつあなたの姿を追い回している。それがあなたには、堪(たま)らなく面白いんです。堪らなくね。……さあ、いかがです? 僕はこのとおり、きれいにやられました。これは、わざわざ訊くまでもなく、先刻ご承知のはずじゃありませんか。(両腕を組み、頭(こうべ)を垂れて)降参しました。さあどうぞ、存分になすってください。
エレーナ あなた、どうかなすったのね!
アーストロフ (歯をくいしばって笑う)なるほど、内気な人は違ったものだ……
エレーナ まあ、あたしこれでも、あなたが考えてらっしゃるより、少しはましな女ですわ! ええ誓って。(行こうとする)
アーストロフ (行く手を遮(さえぎ)って)僕は今日すぐ家へ帰ります。もう二度とここへは来ません。が、その代り……(女の手を取ってあたりを見回す)どこかで逢(あ)いましょう。さ早く、どこで逢いましょう? 誰かくるといけません、早く言って……(情熱的に)その眼、その唇……一度だけキスさせて。……そのいい匂(にお)いのする髪の毛に、ちょっとキスするだけでいいんです……
エレーナ あたし誓って……
アーストロフ (先を言わせずに)誓うも何もあったものですか。よけいな文句はいりません。……ああ、この腕、この手! (両手に繰返し接吻(せっぷん)する)
エレーナ さ、もう沢山、あんまりだわ……出て行ってちょうだい……(両手を振放す)ひどいかた。
アーストロフ ね、どう、どうするんです、あしたどこで逢うんです? (女の胴に手を回す)ね、そうでしょう、もうこうなったら否(いや)も応もない、どうしたって逢わずにゃいられないんだ。(接吻する)
その時ワーニャが、薔薇の花束を持って登場、ドアのところで立ちどまる。
エレーナ (ワーニャに気づかず)ゆるして……放して頂戴(ちょうだい)……(アーストロフの胸に頭を押しつける)いけませんったら! (行こうとする)
アーストロフ (胴から手を放さず)あした森の番小屋へいらっしゃい……二時ごろ。ね、いいでしょう、きっと来ますね?
エレーナ (ワーニャを見て)放して! (すっかり動顛(どうてん)して窓のほうへ身をすさらす)ほんとにひどいわ。
ワーニャ (花束を椅子(いす)の上に置き、興奮のていで、顔や襟首(えりくび)をハンカチで拭(ふ)く)なんでもないさ。……なあに……なんでもないさ。
アーストロフ (ふてくされて)やあワーニャ先生、なかなかいい天気だな、きょうは。朝のうちはぐずついて、一雨来そうな空あいだったが、今じゃ日が照っている。まったくもって、結構な秋になったもんだなあ……秋蒔(ま)きもうまくいってるし。(と図面を筒形に巻く)ただ、なんだね、日が短くなりはしたがね。……(退場)
エレーナ (いそいでワーニャに近寄って)ね、後生だから力を貸してちょうだい。あたしたち夫婦が今日すぐここを立てるように、あなたの威光でなんとか計らってちょうだい! いいこと? 今日すぐですよ!
ワーニャ (顔を拭きながら)ええ? ふむ、そう……よろしい。……僕はね、エレーン、すっかり見てしまった、すっかり……
エレーナ (いらだって)ね、いいこと? あたし、どうしても今日、ここを発(た)つんだから!
セレブリャコーフ、ソーニャ、テレーギン、マリーナ登場。
テレーギン 閣下さま、わたくしもどうやら、からだの具合がはっきり致しませんです。これでもう二日もふらふらしておりますので。なんですか頭(つむり)がその……
セレブリャコーフ ほかの連中はどこだね? わたしはこの家が気にくわんよ。まるで化物屋敷だ。だだっぴろい部屋が二十六もあってさ、すぐみんな散り散りばらばらになってしまう。呼んだって捜したって、誰ひとり見つかったためしがない。(呼鈴を鳴らす)大奥さんと若奥さんを呼んできなさい。
エレーナ あたし、ここにおります。
セレブリャコーフ 皆さん、どうぞ席へついてください。
ソーニャ (エレーナに近づき、もどかしそうに)あのかたなんておっしゃって?
エレーナ あとで。
ソーニャ まあ、顫(ふる)えてらっしゃるのね? 気をもんでらっしゃるのね? (探るように相手の顔を見つめる)わかったわ。……あのかたもう、ここへは来ないって仰しゃったんでしょう……ね? (間)ね、そうでしょう?
エレーナうなずく。
セレブリャコーフ (テレーギンに)からだの具合のわるいのは、なんとかまだ我慢のしようがあるが、この田舎の暮しぶりときた日にゃ、わたしにはまったく歯が立たんね。わたしはなんだか、地球を踏みはずして、別の星の世界へ落っこちたみたいな気がするよ。どうぞ皆さん、席についてください。ソーニャ! (ソーニャは耳にはいらず、悲しそうにうなだれて佇(たたず)んでいる)ソーニャ! (間)聞えない。(マリーナに)ばあや、お前もおかけ。(乳母、腰をおろして靴下を編む)ではどうぞ、皆さん、ひとつ皆さんのお耳を、注意の釘(くぎ)によく引っかけて頂きましょう。(ひとり笑う)
ワーニャ (いらいらして)たぶん、僕には用がないでしょうね? 行ってもいいですか?
セレブリャコーフ いいや、誰よりも君が大切な人なんだよ。
ワーニャ これはこれは、一体何を仰(おお)せつかるのかな?
セレブリャコーフ 仰せつかる?……いや君は、何を怒っているのだね? (間)もし何か君の気に障(さわ)ることを、わたしがしたのだったら、どうか赦(ゆる)してくれたまえ。
ワーニャ その物の言いっぷりをやめるんですな。さ、本論にはいりましょう。……どんな用なんです?
ヴォイニーツカヤ夫人登場。
セレブリャコーフ あ、ちょうど母も見えました。では皆さん、始めることにします。(間)諸君、ここに皆さんをお招きしたのは、ある重大な聞きこみを、皆さんにお伝えせんがためなんです。検察官がいよいよ乗りこんでくるらしいですぞ。いや、冗談はさておき、なかなか重大な問題なのです。こうして皆さんのお集まりを願ったのは、じつは皆さんの協力と助言を仰ぎたいからなのでして、平ぜいの皆さんのご厚誼(こうぎ)に甘えて、わたしの期待は叶(かな)えて頂けるものと信じております。わたしは学問をする人間で、書物に埋(うず)もれているものですから、実生活のほうには、これまでずっと疎(うと)かったわけです。そこでこの際、世情に通じておられる皆様の知恵を拝借せずには、とても切り抜けることができないので、ワーニャ君をはじめ、そこにおられるテレーギン君にも、またお母さん、あなたにも、どうか相談に乗って頂きたいのです。……その話というのは、ほかでもないが、何分にもわれわれは「マネット・オムネス・ウナ・ノックス」、つまりその、老少不定でありますし、ことにわたしはこのとおりの老人でもあり、病身でもあるしするので、この際自分の家族に関する範囲だけなりとも、財産方面の整理をしておくのが、もっとも時宜を得た処置であろうかと考える次第です。わたしの生涯はもう終ったも同然ですから、自分一個のことは考えもしませんが、わたしにはまだ若い家内もあれば、年頃の娘もあります。(間)この田舎で生活を続けてゆくことは、私にはとうていできません。われわれは田舎向きにできた人間ではないからです。かと言って、この地所からあがるだけの金で都会ぐらしをすることも、また同じく不可能です。仮に森の木を売り払うにしても、これは非常手段であって、毎としその手を使うわけにはゆきません。それでわれわれは、多少とも一定した収入額を永年にわたって保証してくれるような方法を、なんとか見つけ出さなければならんわけです。ついては、ふと次の方法を思いついたので、ひとつ皆さんのご審議をわずらわしたい。細かい点は抜きにして、大づかみに説明することにしますが、まずこの地所は、平均して二分以上の利をあげてはいない。そこでわたしは、これを売り払うことを提案したい。その代金を有価証券へ振りかえれば、四分ないし五分の利をあげることができるわけだし、わたしの考えでは、何千かの余分の金も浮いてくるはずです。それがあれば、フィンランドあたりに、小ぢんまりした別荘も買えようというものです。
ワーニャ ちょっと待った。……どうも僕は耳が悪くなったようだ。もう一ぺん言ってください。
セレブリャコーフ 代金を有価証券へ振りかえて、残った余分の金で、フィンランドに別荘を買おう、というのです。
ワーニャ フィンランドのことじゃない。……何かまだほかのことが聞えたが。
セレブリャコーフ この地所を売り払ったらどうか、と言っているのです。
ワーニャ そ、それだ。この地所を売り払おうというんですね、よろしい、まったくすばらしい思いつきだ。そこで一体この僕に、年寄りの母や、またこのソーニャをかかえて、どこへ行けというんです?
セレブリャコーフ そのことなら、いずれまた相談するとしようじゃないか。そう一どきに話はできない。
ワーニャ ちょっと待った。どうやら僕は、この年まで常識というものが、ひとっかけらもなかったらしいぞ。今の今まで僕は、愚か千万にも、この地所はソーニャのものと思っていましたよ。この土地は亡(な)くなった父が、僕の妹の嫁入り支度に買ってやったものです。今の今まで僕は間抜けで、法律のトルコ式解釈というものを知らずにいたもので、この土地は妹からソーニャに伝わったものとばかり思っていましたよ。
セレブリャコーフ そりゃいかにも、この地所はソーニャのものさ。誰がそうでないと言っている? だからソーニャの承諾がなければ、わたしだって無理に売ろうと言やしない。のみならず、わたしがこういう案を持ち出すのも、ソーニャのためを思えばこそなんだ。
ワーニャ どうもおかしいぞ、愈々(いよいよ)もってわからない! 僕の気がくるったのか、それとも……それとも……
ヴォイニーツカヤ夫人 ジャン、アレクサンドルに逆らうんじゃありません。まかせておおき。この人のほうが、私たちよりよっぽど、事の善(よ)し悪(あ)しをわきまえていなさるんだから。
ワーニャ いや、まあ水を一杯もらおう。(水を飲む)さあ言いたまえ、なんなりと遠慮なく、どしどし言いたまえ!
セレブリャコーフ どうもわからん、なぜ君はそう興奮するのかね? わたしだって何も、この目論見(もくろみ)が理想的なものだなどと言いはしない。皆さんがいかんというのなら、あえて固執するつもりはないのだ。(間)
テレーギン (はらはらして)御前さま、わたしは学問というものにゃ、ただ敬意を抱いているばかりじゃござんせんで、何かこう、親しみとでもいったような感じを抱いておりますので、はい。と申しますのも、わたくしの弟のグリゴーリイ・イリイーチの家内の兄は、もしやご存じかも存じませんが、コンスタンチーン・トロフィーモヴィチ・ラケデモーノフと申しまして、学士でございまして……
ワーニャ やめろ、ワッフル、大事な話の最中だ。……ま、いいから後(あと)にしろ……(セレブリャコーフに)ちょうどいい、ひとつこの男に訊(き)いてごらんなさい。この地所は、この男の叔父貴から買ったんだから。
セレブリャコーフ やれやれ、今さらそんなこと、聞いたところで始まるまい。面白くもない。
ワーニャ この地所は、当時の金にして、九万五千ルーブリで買ったんだ。父はそのうち、七万しか払わずに死んだから、残る二万五千は借金になっちまった。さあ、ここんところを、よく聞いてくださいよ。……僕は大好きな妹のためを思って、この土地の相続権を放棄したんだ。さもなければ、この土地は結局、こうして内のものにはならなかったはずだ。いや、そればかりじゃない、僕はこの十年というもの、まるで牡牛(おうし)みたいに汗水たらして、その借金をきれいに済(な)したんだ。
セレブリャコーフ しまったなあ、こんな話を持ち出さなけりゃよかった。
ワーニャ この土地の借金がきれいに片づいて、おまけにちゃんとここまで、無事に持ってこれたのは、ひとえにこの僕という人間一個の努力の賜物(たまもの)なんだ。それを今さら、こんなに年を取ってしまった僕の首根っこをつらまえて、表へ抛(ほう)り出そうというんだ!
セレブリャコーフ 一体どうしたらいいと言うのかね。わたしにはさっぱりわからん!
ワーニャ この二十五年のあいだ、僕はこの土地の差配をして、汗水たらして、せっせと君に金を送ってやった。こんな真正直な番頭が、どこの世界にあるものか。だのにあんたは、その間じゅうありがとうの一言(ひとこと)も、僕に言ったためしがないじゃないか。その間じゅう、若い頃も年とった今も、僕はあんたから、年額五百ルーブリ也(なり)の、乞食(こじき)も同然の捨扶持(すてぶち)を、ありがたく頂戴(ちょうだい)しているにすぎないんだ。――しかもあんたは、ただの一ルーブリだって、上げてやろうと言ったことがないんだ!
セレブリャコーフ ワーニャ君、それは無理難題というものだよ。わたしは実務にうとい人間だから、この辺のことは全然めくらなんだ。君は幾らでも好きなだけ、どしどし上げてくれたらよかったのだ。
ワーニャ ああいっそ、思う存分くすねてやるんだった。その、くすねることもできなかった意気地のない僕を、皆さん、どうぞ思いっきり笑ってください。そうするのが本当だったのだ。それをやれば、乞食の境涯に今さら身を落すこともなかったのだ!
ヴォイニーツカヤ夫人 (きびしく)これ、ジャン!
テレーギン (はらはらして)ねえワーニャ、およしよ。いい子だから、およしよ。……わたしゃ顫(ふる)えがついてきたよ。……永年のいいつきあいを、今さらぶちこわすこともないじゃないか。(ワーニャに接吻(せっぷん)する)およしよ。
ワーニャ 二十五年というもの僕は、この母親と顔つき合せて、まるでモグラモチみたいに、ろくろく表へも出ずに暮してきたのだ。……われわれの考えることも、われわれの感じることも――みんな残らず、あんたという一人の人間に寄っかかっていたのだ。昼は昼で、君の噂(うわさ)をし、君の仕事のことを話題にし、君をわれわれの誇りとし、君の名を畏(おそ)れ謹(つつし)んで口にのぼせていたものだ。夜は夜で、君の雑誌だの本だのを読みふけって、大事な時間をつぶしたものだ。――今じゃそんなもの、洟(はな)も引っかけやしないがね。
テレーギン およしよ、ワーニャ、およしよ……。聞いちゃいられないから。
セレブリャコーフ (憤然として)わたしにはわからん、一体どうしろと言うのだか。
ワーニャ 君はわれわれにとって、世界で一番えらい人だった。君の書く論文は、端から暗記していたものだった。……だが、いまこそ目がさめたよ! 何から何まで見透しさね! 芸術がどうしたのと書いちゃいるが、君にゃ芸術のゲの字もわかっちゃいないんだ! かつて僕が愛読した君の本なんか、びた一文の値うちもありゃしないんだ! われわれは、まんまと一杯くわされたのだ!
セレブリャコーフ 皆さん、この人をなんとかしてくださらんか、いやなんともはや! わたしは向うへ行こう!
エレーナ ワーニャさん、いいからもうお黙りなさい! わかって?
ワーニャ いいや黙らん! (セレブリャコーフの行く手に立ちふさがって)まだまだ、話は済んじゃいない! 君は、僕の一生を台なしにしちまったんだ! この年まで僕は、生活を味わったことがない、生活をね! 君のおかげで僕は、一生涯でいちばんいい時代を、台なしに、すってけてんにすっちまったんだ! 貴様は、おれの不倶戴天(ふぐたいてん)の敵だ!
テレーギン 聞いちゃいられない……聞いちゃいられない。……あっちへ行こう……(身も世もあらぬていで退場)
セレブリャコーフ だから、どうしろと言うのかねえ? それに全体、なんの因縁があって、そんな言いがかりをつけるのだ? ばかばかしい! この地所が君のものなら、勝手に君のものにしたらいいじゃないか。わたしは別に欲しいとは言わん。
エレーナ あたし、もうこれっきり、こんな地獄は出て行くわ! (叫ぶ)もう我慢がならない。
ワーニャ 一生を棒に振っちまったんだ。おれだって、腕もあれば頭もある、男らしい人間なんだ。……もしおれがまともに暮してきたら、ショーペンハウエルにも、ドストエーフスキイにも、なれたかもしれないんだ。……ちえっ、なにをくだらん! ああ、気がちがいそうだ。……お母さん、僕はもう駄目です! ねえ、お母さん!
ヴォイニーツカヤ夫人 (きびしく)だから、アレクサンドルの言うことを聴くんです!
ソーニャ (乳母の前に膝(ひざ)まずいて、しがみつく)ばあや! ばあや!
ワーニャ お母さん! 僕はどうしたらいいんです? よろしい、何も言わないでください! どうしたらいいか、僕にはちゃんとわかっている! (セレブリャコーフに)畜生、覚えてろよ。(中央のドアから退場)
ヴォイニーツカヤ夫人、それに続く。
セレブリャコーフ 諸君、これは一体どうしたことだ、ええ? あの気ちがいを、どっかへ引っぱって行ってくれ! とても一つ屋根の下じゃ暮していけない! 現にあすこに(と中央のドアをさして)とぐろを巻いているのだ。隣同士みたいなものなのだ。……どっか村のほうか、それとも離れのほうへでも、あの男を引っ越させてくれ。さもなけりゃ、このわたしが出ていく。とてもあんな男と、いっしょに暮すことはできん。……
エレーナ (夫に)あたしたち、今日すぐここを発(た)ちましょうよ! 早速(さっそく)その支度をさせなければ。
セレブリャコーフ いやはや、呆(あき)れはてたやつだ!
ソーニャ (膝まずいたまま、父のほうへ向きなおる。いらいらと涙声で)お父さま、情けというものを、お忘れにならないでね! わたしもワーニャ伯父さんも、ほんとに不仕合せなんですもの! (みだれる心を押しとどめながら)情けというものを、お忘れにならないでね! 覚えてらっしゃるでしょう。あなたがまだ働き盛りでいらしたころ、ワーニャ伯父さんとお祖母(ばあ)さまは、毎ばん夜おそくまで、あなたのために参考書を翻訳したり、原稿の清書をしたり、していらしたものですわ……毎晩々々! わたしもワーニャ伯父さんも、息つくまもないほど働いて、一文の無駄づかいもしまいとびくびくして、みんなあなたにお送りして来ましたわ。……わたしたちの苦労も、察してくださらなければ! あら、こんなこと言うつもりじゃなかったのに、つい口がすべってしまって。でもお父さま、わかってくださるでしょう、わたしたちの気持。情けというものを、お忘れにならないでね。
エレーナ (興奮して夫に)ねえ、アレクサンドル。どうぞお願い、あの人とうまく話をつけて。……後生ですから。
セレブリャコーフ よしよし、なんとか話をつけてこよう。……わたしは何も、あの男を咎(とが)めるんじゃない、腹をたてているわけでもない。だがね、まあ考えてもごらん、あの男の言動は、なんとしても妙じゃないかね。まあいいさ、ちょっと行ってこよう。(中央のドアから退場)
エレーナ なるべく穏やかに、あの人の気持を静めるようにね……(続いて退場)
ソーニャ (乳母に抱きつきながら)ばあや! ばあや!
マリーナ なんでもありませんよ、お嬢(じょっ)ちゃん。鵞鳥(がちょう)がガアガア言っただけ、――すぐやみますよ。……ガアガア言っただけ――すぐやみますよ。……
ソーニャ ばあや!
マリーナ (ソーニャの頭を撫(な)でる)まあ、がたがた顫えて、まるで霜のふる真冬みたい! ほんとにまあ、お可哀(かわい)そうに。でも神様は、悪いようにはなさいませんよ。……菩提樹(ぼだいじゅ)の花のお茶か、イチゴの蜜(みつ)のお酒を、ちょいとあがっているうちに、すぐ元どおりになってしまいますよ。……心配するんじゃありません、いい子、いい子……(中央のドアをキッと見すえて)おや、また鵞鳥が、騒ぎだしたよ。まあま、勝手にするがいい!
舞台うらでピストルの音。続けさまにエレーナの悲鳴。ソーニャおびえる。
マリーナ ふん、本当にいやだこと!
セレブリャコーフ (恐怖のあまりよろめきながら駆けこむ)とめてくれ! あの男をとめてくれ! 気がふれたのだ!
エレーナとワーニャ、戸口で争う。
エレーナ (ピストルをもぎとろうとして)およこしなさい! およこしなさいってば!
ワーニャ 放して、エレーン! 放せってば! (振りもぎって、舞台へ走(は)せ入り、きょろきょろとセレブリャコーフを捜す)どこだ、あいつは? やつめ、そこにいるな! (彼をめがけて撃つ)見ろ! (間)駄目か? また、しくじったか (憤然と)ええ、ちっ、畜生。(ピストルを床へ投げつけ、よろよろっと椅子(いす)に坐(すわ)りこむ)
セレブリャコーフ茫然。エレーナは壁にもたれて、半病人の有様。
エレーナ どこかへ連れて行って! 連れて行って、いっそ殺してちょうだい。……とてももう、あたしここにはいられない、いられない!
ワーニャ (悲痛な声で)ああ、おれはどうしたんだ! どうしたんだ!
ソーニャ (小声で)ばあや! ばあや!
――幕――
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