ワーニャ伯父さん アントン・チェーホフ



ワーニャの部屋。かれ自身の寝室であり、また地所の事務室でもある。窓べの大テーブルに、数冊の出納簿やいろんな書類が載っている。事務机、戸棚(とだな)、台秤(だいばかり)など。ほかにアーストロフ用のやや小型なテーブル。その上に製図用具や絵具、そばに大きな紙挟み。椋鳥(むくどり)を入れた鳥籠(とりかご)。壁には、誰にも用のなさそうなアフリカの地図。レザー張りのばかでっかい長椅子(ながいす)。左手に、奥の間へ通じるドア。右手に、玄関へ出るドア。右手のドアのところには、百姓たちがよごさないように、靴ふきマット。――秋の夕暮。静寂。テレーギンとマリーナ、向い合せに腰かけ、靴下の毛糸を巻いている。

 
テレーギン 早くおしよ、ばあやさん。そろそろお別れに呼び出される時刻だよ。もう馬車を回すようにって、お声がかかったからね。
 
マリーナ (早く巻こうとしながら)あとちょっぴりだよ。
 
テレーギン ハリコフへ行きなさるんだとさ。あすこで暮しなさるんだね。
 
マリーナ それがいいのさ。
 
テレーギン びっくらなすったんだねえ。……エレーナさんは、「もう一刻だって、ここにはいられない……発(た)ちましょう、さあ発ちましょうよ。……とりあえずハリコフへ行ってみて、住めそうな様子だったら、荷物をとりに人をよこせばいいわ……」と、こうおっしゃるんだ。だから、ほんの身の周(まわ)りの物だけ持って発ちなさるんだよ。まあ結局、ねえばあやさん、あのご夫婦はここじゃ暮せない随性(ずいしょう)だったんだね。そうした随性だったんだね。……これも前世の約束ごとさ。
 
マリーナ それがいいのさ。さっきのあの騒ぎといったら――ピストルまで振回してさ。いい恥っさらしだよ。
 
テレーギン アイヴァゾーフスキイあたりに描かせたら、さぞいい嵐(あらし)の絵ができるだろうねえ。
 
マリーナ 二度とこの目で見たくないものさ。(間)これでまた、もとどおりの暮しができるわけさね。朝は八時前にお茶。十二時すぎにはお昼。暮がたには晩の食事。ばんじ世間の人さまなみに……きちんきちんとやってゆけますよ。……(ため息(いき)をついて)わたしゃもう久しいこと、お素麺(そうめん)を食べないよ、情けないったらありゃしない。
 
テレーギン まったくね、長く素麺を打たなかったなあ。(間)長らくねえ。……けさもね、ばあやさん、わたしが村を歩いていると、あの店の亭主がうしろからね、「やあい、居候(いそうろう)!」って、はやすじゃないか。つくづく、つらくなったよ。
 
マリーナ ほっておおきよ、そんなやつ。わたしたちはみんな、神さまの居候じゃないか。あんたも、ソーニャちゃんも、ワーニャさんも――誰一人として、安閑と坐(すわ)っている者はないよ、みんなせっせと働いていなさるんだよ。誰も彼も。……ソーニャちゃんはどこにいなさる?
 
テレーギン 庭だよ。ドクトルと一緒に、ワーニャさんを捜しに歩いていなさるんだよ。万が一、自殺でもされたら困るからねえ。
 
マリーナ ピストルはどうしたの。
 
テレーギン (ひそひそ声で)わたしが穴倉へ匿(かく)したよ。
 
マリーナ (薄笑いして)罪なこった!
表からワーニャとアーストロフがはいってくる。
 
ワーニャ ほっといてくれったら。(マリーナとテレーギンに)あっちへ行ってくれ、せめて一時間でも、僕を一人で置いてくれよ。こう見張りつきじゃまったくやりきれん。
 
テレーギン すぐ行くよ、ワーニャ。(爪(つま)さき立ちで退場)
 
マリーナ 鵞鳥(がちょう)が、ガア、ガア、ガア! (毛糸をまとめて退場)
 
ワーニャ 君もかまわんでくれったら。
 
アーストロフ それはこっちから頼みたいくらいだ。なにしろ僕は、もうとっくに家へ帰らなけりゃならない人間なんだからね。ところが、最前から幾度も言うとおり、君が取ったものを返してくれない限り、僕は帰るわけにはゆかないんだ。
 
ワーニャ 何も取りゃしないよ。
 
アーストロフ ばかもいいかげんにしたまえ――そう人をじらすもんじゃないよ。僕は早く帰らなきゃならないんだぜ。
 
ワーニャ なんにも取りゃしないったら。
 
アーストロフ へえ、そうかい? じゃ、もうちょっとだけ待ってやろう。その上は、済まないけれど、力ずくで取返すから、そう思い給(たま)え。君をふん縛って、それから捜すんだ。僕は本気で言ってるんだぜ。
 
ワーニャ どうなりと好きにするさ。(間)まったく、へまをやったものだなあ。二度も撃ちながら、一発もあたらないなんて! われながら愛想がつきたよ。
 
アーストロフ そんなに撃ちたいんなら、いっそのこと、自分の眉間(みけん)をぶち抜くがいいさ。
 
ワーニャ (肩をすくめて)どうも変だよ。僕は人殺しをやりかけたのに、縛ろうとも訴えようともする人がない。つまりは、僕を気ちがい扱いにしているわけだな。(毒々しい笑い)この僕が気ちがいで、その一方、大学教授だとか大学者だとかいうお面をかぶって、まんまと自分の鈍才ぶりやばかさかげんや、呆(あき)れ返った不人情ぶりをごまかしているやつが、真人間だというのかい。わざわざ年寄りのところへ嫁に来て、人前で堂々と現在の亭主を裏切るような女が、真人間だというのかい。僕は見たぜ、ちゃんとこの眼で見たぜ、君があの女を抱いてるところをさ。
 
アーストロフ いかにも、そのとおり、抱きましたとも。ところが君は、ほら、これさ。(鼻をつまんで見せる。――振られたという仕草)
 
ワーニャ (ドアを見ながら)へん、気がふれてるのはこの地球のほうさ、のめのめと君たちを生かしとくなんてね。
 
アーストロフ ちえっ、何をばかな。
 
ワーニャ まあ仕方がないさ――どうせ僕は気ちがいなんだから、責任を負う力もないし、どんなばかを言ったっていいわけだ。
 
アーストロフ その手は古いよ。君は気ちがいどころか、つむじのまがった唐変木(とうへんぼく)だよ。まったく、ふざけた男だよ。僕は前にゃ、唐変木というやつは、みんな常軌を逸した病人ばかりかと思っていたが、今日(こんにち)ではもう、人間のノーマルな状態が、すなわち唐変木なんだと、そう意見を変更したね。君はまったくノーマルな男だよ。
 
ワーニャ (両手で顔をおおう)恥ずかしい! この僕の恥ずかしさが、君にわかってもらえたらなあ! 恥ずかしい、まったく恥ずかしい。(やるせない声で)ああ、たまらない! (テーブルにうなだれる)一体どうしたらいいんだ。どうしたら。
 
アーストロフ まあ、仕方がないさ。
 
ワーニャ どうにかしてくれ! ああ、やりきれん。……僕はもう四十七だ。仮に、六十まで生きるとすると、まだあと十三年ある。長いなあ! その十三年を、僕はどう生きていけばいいんだ。どんなことをして、その日その日をうずめていったらいいんだ。ねえ、君……(ぐいと相手の手を握って)わかるかい、せめてこの余生を、何か今までと違ったやり口で、送れたらなあ。きれいに晴れわたった、しんとした朝、目がさめて、さあこれから新規蒔直(まきなお)しだ、過ぎたことはいっさい忘れた、煙みたいに消えてしまった、と思うことができたらなあ。(泣く)君、教えてくれ、一体どうしたら、新規蒔直しになるんだ。……どうしたらいいんだ。……
 
アーストロフ (腹だたしく)ちえっ、しようのない男だなあ。今さら新規蒔直しも何もあるものか。君にしたって僕にしたって、もうこれで、おしまいだよ。
 
ワーニャ やっぱりそうか。
 
アーストロフ ああ、断じてね。
 
ワーニャ そこを、なんとかしてくれ。……(胸をさして)ここが焼けつくようなんだ。
 
アーストロフ (癇癪(かんしゃく)まぎれにどなる)よせったら! (言葉を柔らげて)そりゃ百年二百年たったあとで、この世に生れてくる人たちは、みじめなわれわれが、こんなにばかばかしい、こんなに味けない生涯を送ったことを、さだめし軽蔑(けいべつ)するだろう。そして、なんとか仕合せにやっていく手を、見つけだすかもしれない。だが、われわれは結局……。いや、われわれにはお互い、たった一つだけ希望がある。その希望というのは、われわれがお棺の中で目をつぶったとき、何か幻が、訪れてきてくれはしまいかということだ。それも、何かしら楽しい幻がね。(ため息をついて)まったくだよ、君。この郡内で、しゃんとした、頭のある人間といったら、君と僕と、たった二人しきゃいなかったものだ。ところがどうだ、この十年ほどの俗っぽい下劣な生活のおかげで、まんまとわれわれも、泥んこの中へ引きずり込まれてしまったじゃないか。その毒気に当てられて、僕たちは骨の髄まで腐っちまったじゃないか。そしてお互い、世間なみの凡俗に成り下っちまったじゃないか。(早口に)いや、しかし、こんなことじゃ誤魔かされんぞ。さ早く、あれを返したまえ。
 
ワーニャ 何も取りゃしないというのに。
 
アーストロフ いいや君は、僕の薬箱のなかから、モルヒネの壜(びん)を取ったんだ。(間)いいかね、君がもし、どうあっても自殺したいと言うのなら、森の中へ行って、ずどんと一発やるがいいさ。だが、あのモルヒネだけは返してくれ。さもないと世間の口がうるさいからね。まるで僕がわざわざ君にやったみたいに言われちゃ、かなわないからね。……僕はいずれ、君の死骸(しがい)の解剖をしなけりゃなるまい、それだけでもう沢山だよ。……くそ面白くもない。
ソーニャ登場。
 
ワーニャ ほっといてくれったら。
 
アーストロフ (ソーニャに)ねえソーニャさん。あなたの伯父さんは、僕の薬箱のなかからモルヒネを一壜ちょろまかしておきながら、どうしても返してくれないんですよ。言って聞かしてください、ばかなまねも……いいかげんにしろってね。だいいち僕は、こうしちゃいられないんです。早く帰らなくちゃ。
 
ソーニャ ワーニャ伯父さん、ほんとにお取りになったの? (間)
 
アーストロフ 取ったんですよ。ちゃんとわかってる。
 
ソーニャ お出しなさい。なぜそう、わたしたちをおどかしてばかりいらっしゃるの? (優しく)ね、お出しなさいね。ワーニャ伯父さん! そりゃわたしだって、あなたに負けないくらい不仕合せかもしれないわ。けれども私は、やけになったりはしません。じっとこらえて、しぜんに一生の終りがくるまで、がまんしとおすつもりですわ。……あなたも我慢なすってね。(間)さ、出してちょうだい! (伯父の両手にキスする)ね伯父さん、お願い、いい子だから出してちょうだい! (泣く)伯父さんはいい人ね、あたしたちを、可哀(かわい)そうだと思って出してちょうだい。我慢してね、伯父さん、我慢してね!
 
ワーニャ (テーブルの抽斗(ひきだし)から壜を出して、アーストロフに渡す)さ、持っていきたまえ! (ソーニャに)ところで、早く働こうじゃないか、一刻も早く、何か始めようじゃないか。さもないと、とてもこのままじゃ堪(たま)らない……とても駄目だ……
 
ソーニャ ええ、ええ、働きましょうね。お父さまたちが発(た)っていらしたら、さっそく仕事にかかりましょうね。……(テーブルの上の書類を、いらだたしく選(え)り分けながら)すっかり投げやりになっているわ。
 
アーストロフ (壜を薬箱に納め、革紐(かわひも)をしめる)さあ、これでやっと帰れると。
 
エレーナ (登場)まあワーニャさん、ここにいらしたの? わたしども、もう発ちますから、アレクサンドルのところへいらしてちょうだいな。何かお話があると言ってますわ。
 
ソーニャ 行ってらっしゃいね、ワーニャ伯父さん。(ワーニャの脇(わき)をかかえる)さ、行きましょう。お父さまと仲直りなさらなくちゃ駄目よ。ね、そうでしょう。
ソーニャとワーニャ退場。
 
エレーナ じゃ、これでもう発ちますわ。(アーストロフに手を差しだす)ご機嫌よう。
 
アーストロフ もうですか?
 
エレーナ 馬車の支度もできましたわ。
 
アーストロフ さようなら。
 
エレーナ さっき約束してくださいましたわね、もうここへはいらっしゃらないって。
 
アーストロフ ええ、忘れやしません。(間)びっくりなすったですか? (女の手をとる)そんなに怖(こわ)かったですか?
 
エレーナ ええ。
 
アーストロフ いっそこのまま、ここにおられたらどうです、ええ? そしてあす、あの森の番小屋で……
 
エレーナ いいえ。……もう決りましたわ。……もう発つことに決ったからこそ、こうして大胆に、あなたのお顔を見ていられるのよ。……この上、たった一つのお願いは、このあたしを、ちゃんと見直して頂きたいことだけ。あたし、変な女と思われていたくないの。
 
アーストロフ ちえっ、しようのない人だ! (じれったそうな身ぶり)お願いだから、このままここにいてください。いいですか、あなたはこの世で、何ひとつする仕事のない人だ。何ひとつ生きる目当てのない人だ。何ひとつ気のまぎれることのない人だ。だから晩(おそ)かれ早かれ、所詮(しょせん)は情に負けてしまう人なんだ、――これは、ちゃんと決ったことなんです。どうせそうなるからには、ハリコフだのクールスクだのという町よりか、いっそこの、自然のふところにいだかれた土地のほうが、百倍も千倍も増しじゃないですか。……すくなくも、そのほうが詩的だし、ずっと美しいじゃないですか。……ここには森小屋もある、ツルゲーネフ好みの崩れかかった地主屋敷もある。……
 
エレーナ おかしなかたねえ、あなたも。……聞けば聞くほど腹がたつわ。……でもあたし……きっとあなたのことは、嬉(うれ)しい思い出になると思うの。あなたは面白い風変りなかただわ。もうこの先、二度とお目にかかることはないでしょう。だから――だから思いきって言いますけれど、あたし、いささか、あなたにぼうっとなったくらいよ。さ、仲よく握手をして、それでお別れにしましょうね。悪く思いっこなし。
 
アーストロフ (手を握って)ええ、お発ちなさいとも。……(物思わしげに)まったくあなたという人は、根が実直な、いい人のようじゃあるけれど、そのくせなんだかこう、不思議なところのある人だなあ。現に、あなたがご亭主といっしょにここへ見えると、それまでせっせと働いて、その辺をごそごそやって、何かこう仕事らしいことをしていた連中が、忽(たちま)ちみんな仕事をうっちゃらかして、まるひと夏というもの、ご主人の痛風だの、あなたのことだので、無我夢中になってしまうんだからなあ。あなたがた夫婦のぐうたらな暮しぶりが、みんなにうつっちまったんだからなあ。僕はすっかりのぼせあがって、まる一ト月というもの、何ひとつやらなかった。そのあいだに、病人は、うじゃうじゃ出てくる。僕の森や苗木の林じゃ、百姓が牛や馬を放し飼いにする。……まあ、こんな具合に、あなたがた夫婦という人は、どこへ行っても、そこの暮しをめちゃめちゃにするんですねえ。……いや、もちろんこれは冗談。だが、しかし、……どうも不思議だなあ。もしこの上、あなたがたがここに居坐(いすわ)っていたら、それこそ何もかも、ごっそり行かれてしまうことでしょうねえ。僕の身も破滅だろうし、あなただっても、どうせろくなことはないでしょうよ。さ、さっさとお発ちなさい。もう芝居は沢山!
 
エレーナ (アーストロフのテーブルから鉛筆を取りあげ、すばやく胸にかくす)この鉛筆、記念に頂いとくわ。
 
アーストロフ どうも不思議だ。……せっかくこうして知り合いになったものが、いち夜明ければもう……二度と会うこともない赤の他人だなんて。これが人生というものかもしれない。……誰もいないうちに、またワーニャ伯父さんが花束をかかえてはいってこないうちに、お願いですから一ぺんだけ……キスをさせてください。……お別れのしるしに……いいでしょう? (女の頬にキスする)ああ、これで……もういい。
 
エレーナ ご機嫌よう。(あたりを見回して)ええ、構やしない、一生に一度だわ! (いきなり男を抱きしめる。途端にさっと離れる)もう行かなくては。
 
アーストロフ 早く発ってください。馬車の用意ができたのなら、さあ早く発ってください。
 
エレーナ 誰かこっちへ来るわ。(両人、聴き耳をたてる)
 
アーストロフ これでおしまい!
セレブリャコーフ、ワーニャ、本を手にしたヴォイニーツカヤ夫人、テレーギン、ソーニャ登場。
 
セレブリャコーフ (ワーニャに)古いことをかれこれ言いだすやつは、目がつぶれてしまうがいいんだ。あの騒動があってこのかた、ほんの四、五時間のあいだに、わたしはつくづく悟るところがあった。しみじみ考え直すところがあった。人間いかに生くべきかということについて、後世への遺訓ともなるべき一大論文だって、書こうと思えば書けるぐらいだ。わたしは喜んで君の詫(わ)び言葉を受入れます。と同時に、こちらからも厚くお詫びを申述べたい。ではご機嫌よう! (ワーニャに三度接吻(せっぷん)する)
 
ワーニャ この先も月々の仕送りは、ちゃんと今までどおりにしますよ。何もかも水に流してね。
エレーナ、ソーニャを抱きしめる。
 
セレブリャコーフ (ヴォイニーツカヤ夫人の手に接吻する)では、お母さん……
 
ヴォイニーツカヤ夫人 (接吻を返して)アレクサンドル、また写真をとって、送ってくださいよ。わたしの気持は、よくご存じのはずだね。
 
テレーギン では御前さま、ご機嫌よろしゅう。どうぞ、わたくしどもをお忘れなく!
 
セレブリャコーフ (ソーニャに接吻して)さようなら。……皆さん、ご機嫌よう! (アーストロフに手を差しのべて)楽しくご交際を頂いてありがとう。……わたしはもとより、あなたの物の考えようや、あなたの熱心や感激性を、大いに尊重します。だが一つだけ、この年に免じて、お別れのしるしに、一言(いちごん)忠告をゆるして頂きたい。皆さん、仕事をしなければいけませんぞ! 仕事をしなければ! (一同に頭を下げる)ではご機嫌よう! (退場)
ヴォイニーツカヤ夫人とソーニャ、その後にしたがう。
 
ワーニャ (エレーナの手にひしと接吻して)さようなら。……赦(ゆる)してください。……二度とお目にかかる時はありますまい。
 
エレーナ (涙ぐんで)さよなら、ワーニャさん。(ワーニャの髪に接吻して退場)
 
アーストロフ (テレーギンに)ねえワッフル、おもてへ行って、ついでに僕の馬車も、回してくれるように言ってくれないか。
 
テレーギン ああ、いいともさ。(退場)
アーストロフとワーニャの二人だけ残る。
 
アーストロフ (テーブルの上の絵具を片づけて、トランクの中にしまう)どうして見送りに出ないんだね?
 
ワーニャ このまま発って行くがいいのさ。とても僕には……いや駄目だ。つらいんだよ。さ、一刻も早く何かしなくちゃ。……仕事だ、仕事だ! (テーブルの上の書類を引っかきまわす)
間。馬車の鈴の音。
 
アーストロフ 行ってしまった。教授閣下、さぞ嬉しいこったろう。もう二度とふたたび、ここへは足踏みもしないだろうて。
 
マリーナ (登場)お発ちになりましたよ。(肘かけ椅子にかけて、靴下を編む)
 
ソーニャ (登場)お発ちになってよ。(目を拭(ふ)く)道中ご無事でね。(伯父に)さあ、ワーニャ伯父さん、仕事をはじめましょうね。
 
ワーニャ そう、仕事だ、仕事だ。……
 
ソーニャ もうずいぶん永いこと、ご一緒にこのテーブルに坐らなかったことねえ、ずいぶん永いこと。(テーブルの上のランプに火を入れる)あら、インキがないらしい。……(インキ壺(つぼ)を取って戸棚の前へ行き、インキを入れる)なんだか淋(さび)しいわ、こうしてお発ちになってしまうと。
 
ヴォイニーツカヤ夫人 (そろそろと登場)行ってしまった! (腰をおろして読みふける)
 
ソーニャ (テーブルに向って腰かけ、帳簿をめくる)じゃあ、ワーニャ伯父さん、勘定書から始めましょうね。すっかり、ほったらかしになってるわ。今日も勘定書を取りに来た人があるのよ。じゃ書いてくださいね。あなたはそっち、わたしはこっちを書くわ。……
 
ワーニャ (書く)「一つ……ええと……」
両人無言のままペンを走らす。
 
マリーナ (あくびをして)ああ、睡(ねむ)いこと。……
 
アーストロフ 静かだなあ。ペンのきしる音と、コオロギの啼(な)きごえがするだけだ。ほかほかして、いい気持だ。……なんだか帰っていく気がしないなあ。(馬車の鈴の音)いや、馬車が来た。……仕方がない。じゃ皆さん、ご機嫌よう。ついでに私の机もご機嫌よう。――あとは、夜道をすっ飛ばすだけです。(図面を紙挟(ばさ)みに納める)
 
マリーナ 何もそう、あわてなさらないでも。まあ、ごゆるりとなさいましよ。
 
アーストロフ そうはいかないんだ。
 
ワーニャ (書きながら)ええと、未払金の残額、二ルーブリ七十五也(なり)と……
下男登場。
 
下男 アーストロフ先生、馬車の用意ができやした。
 
アーストロフ わかったよ。(薬箱、トランク、紙挟みを下男に渡す)じゃ、これを頼む。紙挟みをつぶさんでくれよ。
 
下男 へえ。(退場)
 
アーストロフ じゃ、これで……(と、別れを告げに進む)
 
ソーニャ この次は、いつお目にかかれて?
 
アーストロフ まあ、来年の夏でしょうな。この冬は、まずもって見込みがなさそうです。……もっとも、何かあったらお知らせ願いますよ――即刻、駆けつけますからね。(握手する)いろいろとおもてなしを頂いたり、親切にして頂いたり……お礼の申上げようもありません。(乳母のそばへ行き、その髪に接吻する)ご機嫌よう、ばあやさん。
 
マリーナ まあまあ、お茶もあがらずにお発ちですか?
 
アーストロフ いや、いいんだよ、ばあや。
 
マリーナ では、ウオトカでも一つ。
 
アーストロフ (決しかねて)そうさなあ。……
マリーナ退場。
 
アーストロフ (間をおいて)僕の馬車のね、副(そ)え馬のやつが、どうやらびっこを引いているんだ。きのう、うちの馭者(ぎょしゃ)が、水を飲ませに連れて行く時から、気がついていたんだがね。
 
ワーニャ 蹄鉄(ていてつ)を打ち直すんだね。
 
アーストロフ ロジジェストヴェンノエ村で、鍛冶屋(かじや)に寄って行かなくちゃなるまい。まあ仕方がない。(アフリカ地図の前へ行って眺める)今ごろはこのアフリカじゃ、さだめて焼けつくような暑さなんだろうな――まったくかなわんなあ!
 
ワーニャ ああ、そうだろう。
 
マリーナ (ウオトカの杯とパンを一きれ載せた盆をささげて戻ってくる)さあさ、めしあがれ。
アーストロフ、ウオトカを飲む。
 
マリーナ どうぞご息災でね、旦那(だんな)。(低く辞儀をする)パンもちっとめしあがったら。
 
アーストロフ いいや、もう沢山。……では皆さん、ご機嫌よう。(マリーナに)送ってこないでもいいよ、ばあやさん。いいんだよ。(退場)
ソーニャ蝋燭(ろうそく)をもって見送ってゆく。乳母は肘掛椅子(ひじかけいす)に腰をおろす。
 
ワーニャ (書く)ええと、二月二日、精進油(しょうじんゆ)二貫五百目。……二月十六日、またも精進油二貫五百目。……それから碾割(ひきわ)りソバがと……(間)
馬車の鈴。
 
マリーナ あ、お発(た)ちだ。
間。
 
ソーニャ (戻ってきて、蝋燭をテーブルに立てて)お発ちになったわ。……
 
ワーニャ (算盤(そろばん)をはじいて書きつける)ええと、締めて……八十五ルーブリと……二十五コペイカ也……
ソーニャも腰かけて書く。
 
マリーナ (あくびをする)ああ、神さま、どうぞお赦しを……
テレーギン、つまさき立ちで登場。ドアの横に腰をおろして、そっとギターの調子を合せる。
 
ワーニャ (ソーニャの髪の毛を撫(な)でながら)ソーニャ、わたしはつらい。わたしのこのつらさがわかってくれたらなあ!
 
ソーニャ でも、仕方がないわ、生きていかなければ! (間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉(うれ)しい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。……(伯父の前に膝をついて頭を相手の両手にあずけながら、精根つきた声で)ほっと息がつけるんだわ!
テレーギン、忍び音にギターを弾く。
 
ソーニャ ほっと息がつけるんだわ! その時、わたしたちの耳には、神さまの御使(みつかい)たちの声がひびいて、空一面きらきらしたダイヤモンドでいっぱいになる。そして私たちの見ている前で、この世の中の悪いものがみんな、私たちの悩みも、苦しみも、残らずみんな――世界じゅうに満ちひろがる神さまの大きなお慈悲のなかに、呑(の)みこまれてしまうの。そこでやっと、私たちの生活は、まるでお母さまがやさしく撫(な)でてくださるような、静かな、うっとりするような、ほんとに楽しいものになるのだわ。私そう思うの、どうしてもそう思うの。……(ハンカチで伯父の涙を拭いてやる)お気の毒なワーニャ伯父さん、いけないわ、泣いてらっしゃるのね。……(涙声で)あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でも、もう少しよ、ワーニャ伯父さん、もう暫くの辛抱よ。……やがて、息がつけるんだわ。……(伯父を抱く)ほっと息がつけるんだわ!
夜番の拍子木(ひょうしぎ)の音。――テレーギン、忍び音に弾いている。ヴォイニーツカヤ夫人は、パンフレットの余白に何やら書きこんでいる。マリーナは靴下を編んでいる。
 
ソーニャ ほっと息がつけるんだわ。
 
――静かに幕――
 




底本:「かもめ・ワーニャ伯父さん」新潮文庫、新潮社
1967(昭和42)年9月25日発行
2004(平成16)年11月25日46刷改版
入力:米田
校正:阿部哲也
2010年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

 

 

 



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