フランツ・カフカ 城 (1〜5章)


 宿屋は外見上、Kが泊っている宿屋とひどく似ていた。およそこの村には、外見上に大きなちがいはないのだが、それでも小さなちがいはすぐにみとめられた。入口へ通じる前階段には手すりがあり、戸口の上には美しい角燈がつけられていた。二人がなかへ入っていったとき、頭の上で布がぱたぱた鳴ったが、それは伯爵家の紋章を染めぬいた旗であった。玄関ですぐに亭主に出会った。監視のために見廻っていたらしい。彼は通り過ぎながら、探るような、また眠たげでもある小さな眼で、Kを見て、いった。
「測量技師さんは酒場までしかいけません」
「わかっていてよ」と、オルガはすぐにKのかわりに返事を引き受けて、いった。「このかたは、ただ私についてこられただけなのよ」
 ところが、Kは彼女の取りなしをありがたいとも思わずに、オルガから離れて、亭主をわきへ呼んだ。オルガはそのあいだ、我慢強く玄関の隅のところで待っていた。
「ここに泊まりたいんだが」と、Kはいった。
「残念ですが、それはできません」と、亭主がいう。「あなたはまだご存じではないようですね。ここは城のかたたちのための宿ときまっているんです」
「それはそういう規則かもしれないが」と、Kはいった。「でも、どこか片隅に私を寝かせてくれるぐらいのことは、きっとできるはずだね」
「ご希望をかなえてあげたいんですが」と、亭主がいった。「あなたが今、他国者のやりかたで口にされたその規則というのがきびしいことは別としても、それはとてもできない相談です。なにしろ、城のかたたちはひどく神経質なもんでしてね。私は確信しているんですが、あのかたたちは、少なくとも不意には、他国者を見ることに我慢できないんです。そこで、もし私があなたをここにお泊めし、あなたが偶然――そして、偶然というのはいつでも城のかたたちのほうに味方しているんですからね――見つけられでもしようものなら、私がひどい目にあうばかりでなく、あなた自身もそうなりますよ。ばかげたように聞こえるかもしれませんが、ほんとうなんです」
 この背の高い、きちんとボタンをかけた亭主は、片手を壁に突っ張らせ、もう一方の手を腰に当てて、両手を交叉させ、少しばかりKのほうに身をかがめ、親しげに彼に話しかけた。彼の黒い服はただ農民の祭りのときに着るもののように見えるのだが、ほとんどこの村の者のようには見えなかった。
「あなたのいうことはそっくりそのまま信じますよ」と、Kはいった。「どうも言いかたがまずかったかもしれないけれど、規則の重要さを軽んじているわけでは全然ないのです。ただ、一つのことだけあなたに聞いていただきたい。私は城にいろいろ重要な関係者たちをもっているし、これからももっと重要な関係者たちをもつようになるでしょう。そういう人たちが、私がここに泊ったために起こるかもしれない危険からあなたを守ってくれるでしょうし、また、ちょっとしたご好意に対しても十分のお礼をすることができるのだ、ということを保証してくれるでしょう」
「わかっています」と、亭主はいい、もう一度、くり返した。「わかっています」
 ここで、Kは彼の要求をもっと強く出すことができたでもあろう。しかし、まさに亭主のこの返事が彼の気をそいでしまったので、彼はただこういった。
「今晩は、城の多くのかたたちがここに泊っていらっしゃるんですか?」
「その点では、今晩は好都合です」と、亭主はほとんど誘いかけるようにいった。「ただお一人のかただけがここにお泊まりです」
 まだKは押して頼むことができないでいたが、もうほとんど頼みが聞き入れられたものと期待した。そこでその人の名前だけをたずねてみた。
「クラムです」と、亭主はさりげなくいい、細君のほうを振り返った。細君は、ひだや折り目がいっぱいついている、珍妙なくらい着古した古風な服だが、それでも上品で都会風なのを着て、衣(きぬ)ずれの音を立てながらやってくるところだった。亭主を迎えにきたのだが、官房長様がなにかご用がおありなのだ、ということだった。ところが、亭主はむこうへいく前に、まるでもはや彼自身ではなくてKが泊まるかどうかをきめなければならないのだとでもいうかのように、なおKのほうに顔を向けた。しかし、Kは何もいえなかった。ことに、まさに彼の上役がここにいるという事情が、彼を面くらわせた。自分自身でもよく説明はつかないのだが、クラムに対しては、そのほかの城の人たちに対するように自由な気持ではいられなかった。ここで彼につかまるということは、なるほどKにとっては亭主のいった意味での恐れとはならないだろうが、ひどくまずいことにはちがいないだろう。いってみれば、彼が感謝しなければならない人に、軽率にも何かある苦痛を与えるようなものである。それとともに、彼は憂鬱(ゆううつ)な気分になってしまった。こうした懸念(けねん)のうちには、下僚の身分であること、労働者であることの、恐れていたような結果をはっきり示しているのだ、そして、そうした結果がはっきりと表われてきているここで、それに打ち勝つことができないのだ、と見て取ったからであった。そこで彼は立ちすくんだまま、唇をかみしめ、何もいわずにいた。亭主はドアへ消えていく前に、もう一度Kのほうを振り向いた。Kは亭主の後姿を見送って、その場を去らずにいたが、オルガがやってきて、彼を引っ張っていった。
「亭主になんのご用がありましたの?」と、オルガがきいた。
「ここに泊まろうとしたんだ」と、Kはいった。
「あなたはうちに泊まればいいのよ」と、オルガはいぶかるような調子でいった。
「そうだね、ほんとうだ」と、Kはいって、その言葉の意味をどう取るかは彼女にまかせた。







この本を、全文縦書きブラウザで読むにはこちらをクリックしてください。
【明かりの本】のトップページはこちら

 
 
 
以下の「読んだボタン」を押してツイッターやFacebookを本棚がわりに使えます。
ボタンを押すと、友人にこの本をシェアできます。
↓↓↓ 

Facebook Twitter Email
facebooktwittergoogle_plusredditpinterestlinkedinmailby feather

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">