フランツ・カフカ 城 (1〜5章)


「もちろん、この酒場では、あなたは亭主の仕事をよくやられるわけですね」
「そうです」と、彼女はいった。「私は〈橋亭〉旅館の馬小屋下女から振り出したんですわ」
「そんなしなやかな手で」と、Kは半分たずねるようにいったが、自分がただお世辞をいっているのか、それともほんとうに彼女に魅惑されてそんなことをいったのか、自分でもわからなかった。彼女の両手は、小さくてしなやかではあったが、弱々しくてつまらぬ手ということもできた。
「あのころは、だれもそんなことを考えなかったわ」と、彼女はいった。「そして、今でさえ――」
 Kは、問いかけるように彼女をじっと見つめた。彼女は頭を振り、それ以上、話を進めようとはしなかった。
「あなたはもちろん」と、Kはいった。「秘密もあるでしょうし、たった三十分のあいだ知っているだけであり、ほんとうは自分はどういう事情にあるのかをあなたにお話しする機会もないようなどんな人間にも、その秘密をお話しになることはないでしょう」
 ところが、すぐにわかったように、これは適当でない言葉だった。まるでKは、自分にとって都合のよいまどろみからフリーダを眼ざめさせてしまったようなものだ。彼女は、帯に下げている革袋から小さな木を取り出し、それでのぞき孔をふさぎ、自分の気持が変ってしまったことを彼に少しもけどられないように、眼に見えて自分を抑えながら、Kにいった。
「あなたのことに関しては、なんでも知っていますわ。あなたは測量技師ですね」
 それから次のようにつけ加えた。
「でも、もう仕事にかからなくちゃ」
 そして、スタンドのうしろの自分の場所にもどった。そのあいだに、人びとのうちのだれかがあちこちで立ち上がり、空のコップを彼女にみたしてもらおうとするのだった。Kはもう一度、人眼につかないで彼女と話そうと思い、棚から空のコップを取って、彼女のほうに歩みよった。
「フリーダさん、もう一つだけ」と、彼はいった。「馬小屋の下女から酒場の女給にまでなるというのは、普通でないことですし、そのためには人並すぐれた力が必要です。でも、それで、こんなすぐれた人間が最終の目的に到達した、といえるでしょうか。ばかげた疑問です。私を笑わないでもらいたいけれど、フリーダさん、あなたの眼からは、過去の闘いよりも未来の闘いがものをいっています。けれども、世間の抵抗というものは大きいもので、目標が大きくなればなるほど、抵抗も大きくなっていきます。それで、なんの影響力ももってはいないつまらぬ人間だが、それでもあなたと同じように闘っている一人の人間の援助を手にしっかとにぎっておくということは、けっして恥ではありません。おそらく、私たちはいつか落ちついてお話しし合うことがあるでしょう、こんなに多くの人びとの眼にまじまじと見られることなしにね」
「何をお求めなのか、わたしにはわかりませんわ」と、彼女がいったが、その言葉の調子のなかには、今度は彼女の意志に反して、彼女の生活の勝利ではなく、限りない幻滅が鳴り響いているようであった。
「あなたは私をクラムから引き離したいのですの? ああ、なんていうことを!」と、彼女はいって、両手をぱちりと打ち合わせた。
「私の本心を見抜きましたね」と、Kはそんなにも不信を向けられていることに疲れてしまったように、いった。「まさにそれが私の心の奥底の意図だったのです。あなたはクラムを捨てて、私の恋人になるべきだ、というわけです。これだけいえば、もう出ていけます、オルガ!」と、Kは叫んだ。「家へ帰りましょう」
 従順にオルガは樽からすべり下りたが、すぐには彼女を取り巻いている友人たちから離れてこなかった。するとフリーダが、おびやかすようにKを見ながら、低い声でいった。
「いつあなたとお話しできるの?」
「私はここに泊まれますか」と、Kがたずねた。
「ええ」と、フリーダはいった。
「このままここにいていいんですか」
「オルガといっしょに出ていって下さい。わたしがここにいる人たちを追い払うことができますから。それからすぐにここにもどってきていいのよ」
「わかった」と、Kはいい、落ちつかない様子でオルガを待っていた。ところが、農夫たちは彼女を手離さなかった。彼らは一種のダンスを考え出していたのだった。その中心はオルガだった。輪をつくって踊り廻り、たえずいっせいに叫び声をあげて、だれか一人が彼女のところへ歩みより、片手で彼女の腰のあたりをしっかと捉え、彼女を二、三度ぐるぐると廻すのである。輪舞はいよいよ速くなり、飢えたようなごろごろいう叫び声が次第にほとんどただ一つの叫びとなっていった。さっきまで笑いながら輪を突き抜けようとしていたオルガは、今では髪を振り乱して、男から男へとよろけていくだけだった。



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