フランツ・カフカ 城 (1〜5章)


「バルナバスのところです」と、Kがいった。
「あのごろつきたち!」と、おかみが叫んだ。「あのずるいごろつきたち! バルナバスのところだってさ! お聞きよ――」そういうと、彼女は部屋の隅のほうに向きなおったが、助手たちはもうずっと前から進み出ていて、腕を組み合っておかみのうしろに立っていた。おかみは、まるで身体を支えてくれるのが必要であるような様子で、助手の一人の手をつかんだ。「お聞きよ、この旦那がどこをうろつき廻っているのか。バルナバスの家なんだよ! もちろん、あそこなら泊まれるさ。ああ、紳士荘よりもむしろあそこに泊ってくれていたら、どんなによかったかしれない。ところで、あんたたちはどこで待っているの?」
「おかみさん」と、Kはまだ二人の助手たちが答えぬうちに、いった。「この二人は私の助手ですよ。それなのにあなたは、まるで二人があなたの助手で、しかも私の見張り人であるかのように扱っておられる。ほかのことでならどんなことでも、きわめて鄭重(ていちょう)にあなたのご意見について少なくとも議論はするつもりでいますが、私の助手についてはそんなことはできません。というのは、その点では事はあまりにはっきりしていますからね。そこで、お願いしますが、どうか私の助手とは話をしないで下さい。もし私のこのお願いが十分でないなら、私の助手に、あなたにお答えすることを禁じます」
「それでは、私はあなたたちと話してはいけないわけね」と、おかみがいって、三人そろって笑った。おかみの笑いは嘲笑的であったが、Kが期待したよりもずっとおだやかではあった。助手たちのは、いつもの、いろいろ意味ありげだがまたなんの意味もないような、どんな責任も回避しているような笑いかたであった。
「ね、怒らないで」と、フリーダがいう。「わたしたちが興奮していることをよくわかって下さらなければいけないわ。いってみれば、わたしたちが今深い仲になっているのは、ただバルナバスのおかげだわ。あなたをはじめて酒場で見たとき、――あなたはオルガの腕にすがって入ってきたわね――わたしはあなたについていくらかのことをもう知っていたわ。でも、要するにあなたはわたしにとってはまったくどうでもよい人だったのよ。いえ、あなただけがどうでもよかったばかりでなく、ほとんどすべてのことが、ほとんど全部が全部、どうでもよかったの。あのとき、わたしはたくさんのことに不満だったし、いろいろなことに腹を立てていたの。でも、なんという不満だったのでしょう、なんという腹立ちだったのでしょう! たとえば、酒場のお客の一人がわたしを侮辱しました。あの人たちはいつでもわたしのあとをつけ廻していたんです。――あなた、あそこにいた連中を見たでしょう。ところが、もっとひどい連中がきたのよ。クラムが使っている人たちがいちばんひどい連中というわけではなかったんだわ。――そういうわけで、一人がわたしを侮辱したんです。それがわたしにどうだったというのでしょう。わたしには、それが何年も前に起ったように思われました。全然起こらなかったようにも思われました。ただそんな話を聞いただけのことのようにも思われ、わたし自身がそれをとっくに忘れてしまっていたようにも思われました。でも、わたしはそれを述べることができないし、もうけっして思い浮かべることができないの。クラムがわたしを捨ててしまってからは、そんなにすべてのことが変ってしまったんだわ」
 フリーダは話を中断した。悲しげに頭を垂れ、両手は組んで膝の上に置いていた。
「ごらんなさい」と、おかみは叫んだが、まるで自分でしゃべっているのではなく、ただフリーダに自分の声を貸しているとでもいうふうだった。彼女は身体をずっと近づけて、フリーダのすぐそばに坐った。「ごらんなさいな、測量技師さん、あなたの行いの結果をね。そして、あなたの助手さんたちも、わたしはこの人たちと話してはいけないそうだけれど、勉強のために見ておくことだわね。あなたはフリーダを、これまでこの子が与えられていたもっとも幸福な状態から引き離してしまったのよ。そして、あなたがそのことに成功した理由は、何よりもまず、フリーダが子供らしいいきすぎた同情から、あなたがオルガの腕にすがっていて、そんなふうにしてバルナバスの一家のものになってしまっていることに、我慢できなかったからなんですよ。この子があなたを救って、そのために自分を犠牲にしたんです。そして、こうしたことが起ってしまい、フリーダが自分のもっているすべてのものと引き換えに、あなたの膝の上に坐るという幸福を選んだ今となって、あなたがやってきて、自分は一度バルナバスの家に泊まる可能性をもったのだ、などということを最後の切り札として出しているわけです。そんなことをいって、きっと、あなたはわたしにたよったりなんかしなくていいんだ、ということを証明したいんでしょう。たしかに、もしあなたがほんとうにバルナバスのところに泊ったのならば、あなたはたしかに私なんかたよりにしなくたっていいでしょうよ。そして、たちまち、しかもすぐ今からわたしの家を出ていかねばならないでしょうよ」
「私はバルナバス一家の罪なんか知りません」と、Kはいった。そして一方、まるで死んだようになっているフリーダを注意深く抱き上げ、ゆっくりとベッドの上に坐らせ、自分は立ち上がった。「おそらくその点であなたのいわれることは正しいんでしょう。しかし、フリーダと私とのことは私たち二人にまかせておいてくれ、と私があなたにお頼みしたとき、たしかにわたしの言いぶんが正しかったはずです。そのときにあなたは愛情とか心配とかいうことを何かいわれたけれど、それについてはそれ以上たいして私の眼につかないで、それだけに憎しみとか嘲笑とか家から追い出すということとかについては余計に眼についています。もしあなたが、フリーダを私からか、あるいは私をフリーダからか、引き離そうという狙(ねら)いであったのなら、まったくうまくやられたわけです。でも、そんなことはあなたには成功しない、と思いますよ。もしそんなことが成功するならば、あなたはそれを――私にも一度、気味の悪いおどしをいわせて下さい――ひどく後悔なさるでしょうよ。あなたが私に貸して下すっている部屋についていえば、――部屋といったって、あなたにはこのいやらしい穴ぐらのことぐらいしか考えられないんですが――この部屋を自分自身の意志で貸して下すっているのかどうか、まったく疑わしいものです。むしろこのことについては伯爵の役所の命令があるように思われますね。私は今、この宿から出るようにいわれた、ということをその役所に伝えてやりましょう。もし私に別な住居が示されるなら、あなたはきっとほっとして息をつかれることでしょうね。でも、私のほうはもっとほっとしますよ。ところで、私はあれやこれやの用事で村長のところへいきます。どうか、少なくともフリーダの面倒を見てやって下さい。あなたはこの子を、あなたのいわゆる母親らしい話ですっかりひどい目にあわせてしまったんです」
 それから彼は、助手たちのほうに向きなおった。
「きたまえ!」と、彼はいって、クラムの手紙をかけ金から取り、出ていこうとした。おかみは黙って彼の動きを見ていたが、彼がすでにドアのハンドルに手をふれたときにはじめて、いった。
「測量技師さん、わたしはまだあなたにはなむけにあげるものがありますよ。というのは、あなたがどんな演説をなさろうと、またわたしというお婆さんをどんなに侮辱しようとなさろうと、あなたはフリーダの未来の旦那さんなんですからねえ。ただそのためにあなたにいうのですが、あなたはここの事情に関してひどく無知でいらっしゃる。あなたのいうことを聞いていたら、そして、あなたのいったり考えたりすることを頭のなかで実際の状態と比較するなら、頭がこんがらがってしまいますよ。こんな無知をなおすことは急にはできないし、おそらく全然できないでしょう。でも、もしあなたが少しでもわたしを信じて下すって、この無知をいつも念頭におかれているなら、たくさんのことがもっとよくなるのです。そうすれば、あなたはたとえばわたしに対してただちにもっと公正な態度を取り、わたしがどんな驚きを味わったか、ということを気づき始めるでしょう。――その驚きの結果は今でもつづいているんですよ。――つまり、わたしのいちばんかわいい子がいわば鷲(わし)を離れて足なしとかげといっしょになったのだ、とわたしが知ったときの驚きのことです。でも、ほんとうの事情はそれよりもっとずっと悪いんですからねえ。わたしはつねにそのことを忘れようと努めなければならないでしょう。そうでないと、わたしはあなたと一ことでもおだやかな言葉なんか交わせないでしょう。ああ、あなたはまた怒りましたね。いいえ、まだいかないで下さい。このお願いだけは聞いて下さい。どこへいこうと、あなたはここではいちばん無知な人間なのだということを、はっきり意識していて下さいよ。そして、気をつけて下さいな。フリーダがいるためにあなたが無事でいられたこの家で、あなたは心を開いておしゃべりしてかまいませんし、またたとえば、あなたがどんなふうにクラムと話すつもりでいるのかを、わたしたちに打ち明けることもできます。ただほんとうに話すということ、ほんとうにクラムと話すということ、そればっかりは、どうか、どうか、しないで下さい」
 おかみは興奮のあまり少しよろよろしながら立ち上がり、彼の手を取ると、懇願するように彼をじっと見つめた。
「おかみさん」と、Kはいった。「あなたがなぜこんなことのためにへりくだって私に頼まれるのか、私にはわかりません。もしあなたのおっしゃるように、クラムと話すことが私にはできないものなら、私に頼もうが頼むまいが、それは私にはとてもできない相談というわけです。だが、もしそれができるものなら、どうして私がそれをしていけないのでしょう。その理由はとくに、もし私にできるのなら、あなたが反対される根本理由がなくなってしまうとともに、それ以外のあなたのさまざまな心配もきわめて疑わしいものとなるからです。もちろん、私は無知です。この事実はどうしても残りますし、それは私にとってとても悲しいことではあります。でも、それにはまた、無知な者はかえって多くのことをやってのける、という利点もあります。そのために私は、自分の無知とそのたしかに悪い結果とをよろこんで力の及ぶ限りもうしばらくは引きずっていこう、と思うのです。そうしたさまざまな結果は、本質的にはただ私だけに関するものです。それゆえ、何よりもまず、なぜあなたが懇願されるのか、私にはわからないのです。フリーダのためにはあなたはきっといつでも心配して下さることと思います。そして、もし私がフリーダの視界からすっかり消えるとしても、それはあなたの意味ではただ幸運を意味するだけのはずですからね。それなら、あなたは何を恐れているのですか。それなのにあなたが恐れているのは、もしや――無知な者にはどんなこともありうるように見えるんですが」と、Kはいって、すでにドアを開けていた。「あなたが恐れているのは、もしやクラムのためにではないでしょうね?」
 おかみは黙ったまま、彼が階段を急いで降り、助手たちが彼のあとを追っていくのを、見送っていた。







この本を、全文縦書きブラウザで読むにはこちらをクリックしてください。
【明かりの本】のトップページはこちら

 
 
 
以下の「読んだボタン」を押してツイッターやFacebookを本棚がわりに使えます。
ボタンを押すと、友人にこの本をシェアできます。
↓↓↓ 

Facebook Twitter Email
facebooktwittergoogle_plusredditpinterestlinkedinmailby feather

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">