フランツ・カフカ 城 (1〜5章)


 部屋を出ようとして、壁の上の黒い額ぶちにはまった暗い肖像画がKの目にとまった。寝床のなかにいるときから気がついていたのだが、遠くからでは細部がはっきりわからず、ほんとうの絵は額ぶちから取り去られてしまったのであって、黒い裏打ちの布だけが見えているのだ、と思っていた。ところがそれは、今わかってみると、ほんとうに絵であった。およそ五十歳ばかりの男の半身像だ。頭を深く胸の上に垂れているので、ほとんど眼は見えないが、頭を垂れているために重たげな広い額とがっちりした鉤鼻(かぎばな)とがくっきりと目立つ。頭のポーズのために顎(あご)に押しつけられている顔一面の髯は、ずっと下まで突き出ている。左手は、指を拡げてふさふさした頭髪のなかに入れられているが、もう頭をもち上げる力はないという風情(ふぜい)だ。
「あれはだれだい?」と、Kはきいてみた。「伯爵かい?」Kはその絵の前に立ち、亭主のほうは全然振り向かなかった。
「いいえ、執事です」と、亭主がいった。
「城にはりっぱな執事がいるんだね。ほんとうだよ」と、Kはいった。「あんなできそこないの息子をもっているのは残念だけれど」
「いや」と、亭主はいって、Kを少し自分のほうに引きよせて、彼の耳にささやいた。「シュワルツァーはゆうべは大げさなことをいったんですよ。あの男のおやじさんはほんの下級の執事なんです。しかもいちばん下っぱの一人です」この瞬間、Kには亭主がまるで子供のように思われた。
「あん畜生!」と、Kは笑いながらいったが、亭主はそれに合わせて笑おうともせず、こういった。
「あの男のおやじだって力はあるんです」
「くだらない! 君はだれでも力があると思うんだ。私のことなんかもそうだろう?」
「旦那は力があるとは思いません」と、彼はおどおどしながら、しかしまじめくさっていった。
「それなら君は、ちゃんと見る目があるというわけだ」と、Kはいった。「つまり、打ち明けていうと、私にはほんとうに力はないんだよ。そこで力のある人たちにはおそらく君にも劣らず尊敬の気持をもっているのだが、ただ君ほど正直ではないから、いつでもそんなことを口に出していってしまおうとはしないわけさ」
 そしてKは、亭主を慰めてやり、自分にもっと好意をもたせるようにしてやろうとして、亭主の頬を軽くたたいた。すると亭主もやっと少しばかり微笑した。亭主はほんとうに、ほとんど髯のない柔和(にゅうわ)な顔をした若者だった。どうしてこの男があのふとった老(ふ)けたような細君といっしょになんかなったんだろう? その細君といえば、そのときのぞき窓のむこうの台所で、両肘を身体のわきにぐっと突っ張ってせわしく立ち働いているのが見えた。Kは今はもう亭主にやかましいことをいいたくはなかった。やっと手に入れた相手の微笑を追い払いたくはなかったのだった。そこで、ドアを開けるように亭主に合図だけすると、晴れ渡った冬の朝景色のなかへ出ていった。



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