ファウスト ゲーテ







  ペネイオス河上流



(同上。)



  セイレエン等

いざ、ペネイオスの流に跳り入りてむ。
かしこにて、音立てゝ波を凌ぎ、
滅びし国民(くにたみ)のために、歌あまた
歌はむは、われ等に似附かはしかるべし。
水なくば幸あらじ。
晴やかなる群なして急ぎ
諸共にアイゲウスの海に入りなむ。
さらばわれ等楽しき事の限を見む。

(地震。)


川床低く流れずなりて、
波は泡立ちて帰り、
(じ)は震ひ、水はとゞまり、
砂原と岸とは裂けて烟を吐けり。
いざ、逃れむ。皆共に来よ。
(け)しき事、誰がためにか願はしからむ。

いざ行かむ。楽める貴きまらうど等。
ゆらぐ波赫(かがや)きて、岸を潤し、
ゆるやかに立てる海の
晴やかなる祭の場(にわ)に行かむ。
二重(ふたえ)に月照りて奇(く)しき露もて
われ等を濡らす所に行かむ。
かしこには賑はしき自由なる生活あり。
こゝには忌まはしきなゐのふるあり。
さかしき人は疾(と)く行け。
こゝはゆゝしき所なり。


  地震の神セイスモス


(地の底深くうめきひしめく。)

もう一遍力を入れて押して、
肩でしっかり持ち上げて遣れば、
地の上に出られるだろう。そしたら
なんでも避(よ)けずにはいられまい。


  スフィンクス等

まあ、なんと云う、厭(いや)な震いようだろう。
こわい、気味の悪い音のしようだろう。
ぐらついたり、ぶるぶるしたり、
鞦韆(ぶらんこ)のように往ったり戻ったりすること。
我慢の出来ない程、厭だこと。
だけれど、地獄がそっくりはじけて出ても、
わたし達はこの場は去らない。

おや。不思議な、円天井の宮殿が
(せ)り上げられて来ますね。あの人です。
あの年の寄った、疾(と)っくに白髪になった人です。
いつかお産をし掛かっているレトさんを
住わせようと、波の中からデロス島を
湧き出させた、あの人です。
あの人が押したり、衝いたり、骨を折って、
アトラスの神のような風をして、
背中を屈めて、臂(ひじ)に力を入れて、
草の生えた所でも、泥や砂や小石のある所でも、
この川岸の静かな所でも、一体に
地面を押し上げているのです。
とうとうこの谷間の静かな地面の帯(おび)
横に裂いてしまいましたね。
大きいカリアチデスのような風をして、
草臥(くたび)れっこなしに働いて、
まだ地の下で、胸の所まで、恐ろしい
石の一山を持ち上げています。
しかしもうあれから上へは上がらせません。
わたし達が据わっていますからね。


  地震の神

何もかも己が一人で手伝ったと云うことは、
もう大抵世間が認めてくれそうなものだ。
己がゆさぶって遣らなかったら、
世界がこんなに美しく出来てはいまい。
画を欺く美しさに見えるように、
己が押し上げて遣らなかったら、
美しく澄んだ蒼空に
あそこの山々が聳えてはいまい。
夜の先祖の、あの混沌、あのハオスの前で、
己が骨惜(ほねおしみ)をせずに、チタアン共と
一しょになって、毬(まり)を投げるように、
ペリオンやオッサの山を投げた時の事だ。
己達は若い勢で暴れた挙句に、
(あ)きて来て、とうとうしまいに
あの山二つを、二山帽子(ふたやまぼうし)の恰好に、
(いたずら)半分、あのパルナッソス山の上に載せた。
今ではムウサ達の尊い群と一しょに、
アポルロンさんがあそこに楽しく住んでおいでだ。
チェウスさんの椅子だって、あの雷(かみなり)の道具籠(ごめ)に、
己があの高みへ押し上げたのだ。
そこで今夜も精一ぱい
地の底から己は迫(せ)り上がって来て、
面白そうな人間共を、大声で、
新しい生活に呼び覚ますのだ。


  スフィンクス等

あの、ここにそば立っているものが、
地の下から、もがいて出て来たのを、この目で
見ていなかったら、太古からあのままに
あったと思わせられてしまうでしょう。
木の茂った森が半腹まで広がって、
今でも次第に岩々が畳(たたなわ)って行きます。
しかしスフィンクスはそれには頓著しません。
この神聖な場所に、澄ましています。


  グリップス

紙のような、雲母(きらら)のような黄金(こがね)
ひらひらするのが、己には隙間から見える。
あんな宝を取られるようにするのだぞ。
さあ、蟻共。掘り出しに掛かれ掛かれ。


  歌う蟻の群

巨人達(おおひとたち)のこの山を
押し上げしごと、
足まめやかなる友等、
いざ疾(と)く升(のぼ)れ。
疾く出入(いでいり)せよ。
この隙間なるは
(つぶ)ごとに皆
(おさ)め置く甲斐あり。
到らぬ隈なく、
塵ばかりなるをも、
いちはやく
見出(みいだ)せ。
(うごめ)く群よ。
皆いそしめ。
たゞ黄金(こがね)を取り入れよ。
山はさてあらせよ。


  グリップス

持って来い。持って来い。金(かね)を積み上げい。
己が爪で押さえている。
これが一番好(い)い錠前だ。
どんな宝でも慥(たし)かにしまって置かれる。


  侏儒ピグマイオス等

どうしてこうなったか、知りませんが、
わたし共もここへ陣取りました。どこから
来たなぞと、お尋下さいますな。
兎に角ここにいますから。
生きながらえて楽しく住むには、
場所はどこでも結構です。
岩にちょいと割目が出来ると、
もう一寸坊がそこに来ています。
一寸坊の夫婦は、皆共稼で、
似合のものばかりです。
楽園以来こうでしたか、
そこの所は存じません。
わたし共にはここが結構で、
(よ)い星の廻合(まわりあわせ)だと存じています。
なぜと申すと、東でも西でも、土地と云う
おっ母(か)さんは喜んで子を生み附けますから。


  極小侏儒ダクチレ

あのおっ母さんは一晩に
小さいものを生んだとおりに、
一番小さいものをもお生(うみ)でしょう。
それにも似合の連(つれ)が出来ましょう。


  侏儒の長老

程好き所に
急ぎて座を占めよ。
さて急ぎて業(わざ)を始めよ。
早さを強さに代へよ。
世はなほ治れり。
(よろい)を、戈(ほこ)を、
(いくさ)の群に授けむため、
鍛冶の場(にわ)を営め。

蟻等皆
群なしていそしみ
粗金(あらがね)(も)て来よ。
さて数多き
(もと)も小さき侏儒(しゅじゅ)等には
木樵(こ)ることを
(おお)せてむ。
真木(まき)積み畳(かさ)ねて、
親しき火あらせよ。
炭を造れよ。


  将軍

弓を取り、矢を負ひて、
(と)く出で立て。
かの池の畔に
あまた巣作りて、
(おご)りて住める鷺を
一時(ひととき)
(あま)さず
射て墜せ。
さらば冑(かぶと)に羽の
飾して出(い)でなん。


  蟻等と極小侏儒と

誰がこっちとらを助けてくれるだろう。
こっちとらが鉄を持って来て遣れば、
あいつ等は鎖を拵えおる。
だが逃げ出すには
まだ早過ぎる。
まめに働いているが好(い)い。


  イビコスの黒鶴等

殺す叫(さけび)や死ぬる歎(なげき)
物に恐れる羽ばたきが聞える。
己達のいる、この高い所まで聞える。
あのうめき苦しむ声はどうだろう。
もう皆殺されてしまって、
海が血で赤く染まった。
鷺の品の好い飾を醜い形の
慾が奪ってしまう。
あの腹の太った、脚の曲った横著者の
冑の上に、もう取られた羽が閃いている。
おい。仲間の鳥達。列をなして
海を越して行く鳥達。
唇歯の親(したしみ)のある中の、この仇討に
己達はお前方を呼ぶのだ。
力を惜まずに、血を惜まずに、あの醜類に
永遠な敵対をして遣ろうじゃないか。

(叫びつゝ空中に散ず。)



  メフィストフェレス(平地にて。)

北の国の魔共なら兎に角己の手に合うが、
どうもこの異国の化物共は扱い憎くて困る。
やっぱりブロッケンの山は好(い)い所だ。
どこに飛び込んでも方角の知れぬことはない。
イルゼの姨(おば)さんは石に据わって番をしてくれる。
ハインリヒも我名の辻は居心が好いはずだ。
鼾岩(いびきいわ)が貧乏山にけんつくを食せても、
万事千年の後までも極(き)まっているのだ。
所がここに来ては、誰だってどこに立って、どこを歩いて
いるか知らない。足の下の土がいつ持ち上がるか知らない。
己がのん気に平(たいら)な谷間を歩いていると、
出し抜に背中に山が出来ている。
山と云うのも大袈裟だろうが、あの高まりでも、今まで
話していたスフィンクスと己との間を隔てるには十分だ。
ここから谷の下の方を見れば、まだ篝火(かがりび)が大ぶ
燃えていて、それぞれの不思議を照している。
まだ己をおびくように、避(よ)けるように、狡猾に
騙すように、女の群が空を踏んで踊っている。
そっと行って見よう。どこでも撮食(つまみぐい)をする癖の
附いている己に、何かしら攫(つか)まりそうなものだ。


  妖女ラミエ等


(メフィストフェレスを誘ひつゝ。)

急がばや
いづくまでも。
またしばしたもとほり
物言ひ交さばや。
老いたるすきものを
誘ひ寄せて
(むくい)受けさせむは、
面白からずや。
(すく)める脚して、
よろめき、
躓きつゝぞ来る。
われ等逃ぐれば、
足引きて
跡よりぞ来る。


  メフィストフェレス(立ち留まる。)

ひどい目に逢う事だぞ。男は本(もと)から騙されるものだ。
アダム以来三太郎は馬鹿にせられ通しだ。
誰も年を取るが、さて賢くはならないな。
随分これまで沢山馬鹿にせられたのだが。
一体腰を細くして、面(つら)に白い物を塗る人種は、
根から腐っているのが分かっている。
どこを掴まえても丈夫な所はない。
節々が朽ちてぼろぼろになっている。
それが見えていて、手に取るように知れていて、
そのくせあいつらが笛を吹くと、つい踊るのだ。


  ラミエ等(立ち留まる。)

お待(まち)よ。何か考え込んで、まごまごして立ち止まってよ。
逃がさないように、からかってお遣(やり)


  メフィストフェレス(歩む。)

遣っ附けろ。何もおめでたく疑惑の
網に引っ掛かるには及ばない。
魔女と云うものもいなくては、
男の悪魔がなんにもなるまい。


  ラミエ等(飽くまで嬌態を弄す。)

この方(かた)の周囲(まわり)に圏(わ)をかきましょうね。
わたし達の中で、どれかがきっと
可哀くおなりなさるに違(ちがい)ないわ。


  メフィストフェレス

薄明(うすあかり)の中で見ていれば、
お前達も別品のようだ。
そこで悪口は言いたくない。


  一脚の女エムプウザ(群に入る。)

わたしも悪くは仰ゃらないでしょう。その積(つもり)
あなた方のお仲間に入れて頂戴な。


  ラミエ等

わたし達の仲間では、あの女は余計ものだわ。
いつでも打(ぶ)ちこわしをするのだもの。


  エムプウザ(メフィストフェレスに。)

驢馬の足を持っている、お馴染の
御親類のわたしが御挨拶をしますわ。
あなたのは馬の蹄ですけれど、
兎に角お心安くなすってね。


  メフィストフェレス

ここには知ったものなんぞはいない積(つもり)だった。
それに生憎そんな親類がいたのかい。
なんにしろ、古い書類でも調べなくてはなるまい。
ハルツからヘラスまで親類だらけでは。


  エムプウザ

わたしはこれでなかなかす早いの。
いろんな物に化けてよ。
先ずあなたへの御馳走に
ちょっと頭を驢馬にしましたの。


  メフィストフェレス

はてな。この連中ではなかなか
血筋ということを大事にしているようだ。
しかしどんな事が出来(しゅったい)するにしても
驢馬の頭を身内にはしたくないな。


  ラミエ等

あの厭な女にお構(かまい)でない。美しい、可哀らしいような物は、
あいつが皆追っ払いますの。
美しい、可哀らしい物がいても、あいつが来ると、
すぐいなくなってしまいますの。


  メフィストフェレス

だがそこにいる、すらりとした
姨さん達も、わたしは皆怪しいと思う。
その薔薇色(ばらいろ)の頬(ほ)っぺたの奥に、
化物のこわい顔がありそうだから。


  ラミエ等

おお勢いますから、験(ため)して御覧なさいな。
一人お掴まえなさいな。御運が好ければ、
(い)い籤(くじ)にお当(あたり)なさるわ。物欲しげに
くどくど仰ゃるのは可笑(おか)しいわ。
のろのろ遣って来て、大きな顔をしてさ。
ほんとに厭な色男だわ。わたし達の
仲間にいらっしゃったからには、
そろそろ面(めん)を脱いで、
正体をお見せなさいな。


  メフィストフェレス

それ。一番の別品を掴まえるぞ。

(一人を抱く。)

しまった。箒のように痩せてけつかる。

(他の一人を抱く。)

こいつはどうだ。ひどい御面相だな。


  ラミエ等

あなたのお相手には好過ぎるわ。


  メフィストフェレス

小さい奴を書入(かきいれ)にしようと思うと、
ラチェルタ奴、手を摩り抜けて行きゃあがる。
編下(あみさげ)が蛇のようにぬめぬめする。
そんなら一つ背の高いのをと思うと、
そいつはチルンスの杖のようで、
(さき)に松毬(まつふぐり)が附いてやがる。
どうしよう。もう一つ太った奴を掴まえようか。
こんなのは気持が好さそうだ。
これが勝負だ。遣っ附けろ。
むくむくぼてぼてしていゃあがる。東洋人の
値を好く買いそうな貨物(しろもの)だ。
おや。しまった。隠子菌だ。はじけやがる。


  ラミエ等

さあ、分れましょうね。ふわふわゆらゆら、
黒い群になって飛んで、稲妻のように、
飛入(とびいり)の悪魔を取り巻いて遣りましょう。
覚束なげに、気味の悪い圏(わ)をかきましょう。
蝙蝠のような、音のしない羽搏(はたたき)をしましょう。まあ、
あの人、割にひどい物に逢わずに済んだわね。


  メフィストフェレス(身慄す。)

己もまだ余り智慧は附いていないな。
北の方も馬鹿らしいが、ここも馬鹿らしい。
化物はあそこもここもねじくれてけつかる。
土地のものも詩人も殺風景だ。
どこでも助兵衛の慰(なぐさみ)が流行るように、
ここにも仮装舞踏があるのだ。
優しげな面(めん)を被った奴を押さえて見れば、
身の毛の弥立つ五体を見せられる。
せめてもっと長く持ってくれたら、
己は目を瞑(ねむ)って楽んでも好(い)いのだが。

(石の間を彷徨す。)

己はどこにいるだろう。どこへ出られるのだろう。
道と思っているうちに気味の悪い所へ出た。
(たいら)な道を踏んで来たが、これから先(さき)
ごろごろした石ばかりになっている。
登ったり降りたりして見ても無駄だ。
あのスフィンクス共はどこにいるだろう。
一晩のうちにこんな山が出来る程の、
馬鹿げた事があろうとは思わなかった。
魔女共が元気好く物に乗って来るついでに、ここへ
ブロッケンの山を持って来たとでも云おうか。


  山の少女オレアス(天然岩の上より。)

ここへ登っていらっしゃいな。これは古い山で、
そっくり昔の形のままでいます。
ピンドスの神山の延びて来た一番の端です。
この嶮しい岩の道を難有(ありがた)くお思(おもい)なさい。
ポンペイユスが越して逃げた時も、
わたしは動かずにこうして立っていました。
傍にあるまやかしの山なんぞは、
(とり)が鳴けば消えてしまいます。
あれと同じで、作物語(つくりものがたり)は出来たと思うと、
すぐにまた亡くなることが、度々あります。


  メフィストフェレス

なるほど難有そうな頭をしている。
丈夫なかしの木の茂みを被(かぶ)っていて、
此上もなく明るい月の光でさえ、
あの木下闇には照り込むことが出来ない。
所があの森の傍を控目に光る
小さい火が通っているな。
どうしたと云うのだろう。
そうだ。小人(しょうじん)だ。ホムンクルスだ。
おい。小さい先生。どこから来たい。


  小人

わたくしはどうぞ本当の意味で成り出(い)でたい、
少しも早くこの硝子を割ってしまいたいと思って、
そこからここへと飛んで歩いています。
所が今まで見ただけでは、思い切って
這入り込んで行こうと思う場所がありません。
そこであなたに内証でお聞せするのですが、
哲学者を二人見附けましたよ。立聴(たちぎき)をすると、
「自然、自然」と云うことを、口癖に言っています。
あの人達は下界の事に通じているはずだから、
見失わないようにしようと思っています。
あの人達に聞いたら、一番旨く遣るには、
どこへ話すが好(い)いか、分かるかも知れません。


  メフィストフェレス

それはやっぱりお前が自分でする方が好(い)い。全体
化物共のいる場所では、
哲学者は歓迎せられる。世間の奴が
お腕前を拝見して、お蔭を蒙るように、
先生達は早速化物の一ダズン位は製造するのだ。
やっぱりお前も迷って見なくては、智慧は附かないよ。
成り出(い)でようと思うなら、所詮自力で遣るに限る。


  小人

しかし好(い)い助言も棄てた物ではありません。


  メフィストフェレス

そんなら行くが好い。どうなるか、見ていよう。

(二人別る。)



  火山論者アナクサゴラス(タレスに。)

君は強情で、人の説に服せまいとしているのだ。
君に得心させるには、これ以上に何がいるのかい。


  原水論者タレス

波と云うものはどの風にも靡(なび)くが、
頑固な岩は避(よ)けて通るのだ。


  アナクサゴラス

火の気(け)でこの岩は出来ているのだ。


  タレス

生物(いきもの)は湿(しめり)で出来たのだよ。


  小人(二人の間にありて。)

どうぞわたくしを附いて行かせて下さい、
わたくしはこれから成り出(い)でたいのです。


  アナクサゴラス

そこで、君、一晩にこんな山を
泥から拵えたことがあるかい。


  タレス

所が、自然と云うものと、その生々(いきいき)した変化とは、
昔から昼夜や時間で限られてはいないよ。
一々の物の形を正しく拵えて行くのが極(きまり)で、
大体から見ても、威力を以て遣ってはいない。


  アナクサゴラス

所がここでは遣ったのだ。プルトン流の恐ろしい怒(おこ)った火、
アイオルス流の蒸気の爆発力が
平地の古い上皮(うわかわ)を衝き抜いて、すぐに山が
出来なくてはならぬようにしたのだ。


  タレス

そこでそれ以来どうなったと云うのだい。
山が出来ている。詰まりそれで宜しい。
こんな喧嘩で暇を潰して、辛抱強い世間の奴を
引き摩り廻しているばかりでは駄目だ。


  アナクサゴラス

そこで岩の割目を賑わすように、
その山がミルミドン族や、ピグマイオスや
ダクチレや、蟻、その外の小さい、まめな
連中を、うようよ涌いて来させるのだ。

(ホムンクルスに。)

そこでお前方だが、始終世棄人のように引っ込んで
生きていて、大きな事を企てたことがない。
もし人の上に立って見る気になられるなら、
一つ王冠を被(かぶ)らせて貰ってはどうだ。


  小人

タレス先生はどう思召します。


  タレス

わたしは

勧めたくないね。小さいものに交っていれば、小さい事が
出来る。大きいものと一しょになれば、小さい
ものも大きくなる。あの黒鶴の群を見い。
あれは今騒ぎ立った人民を威しているのだが、
帝王をでもやっぱりあの通(とおり)に威すのだ。
(とが)った嘴(くちばし)や爪を揮って、
今小さい奴等の上へ卸して来る。
もう否運の影が閃いている。事の起(おこり)
小さい奴等が平和な池を取り巻いて、
(みだり)に鷺を殺したからだ。ところが、
雨と降った、殺生の矢が、今は残酷な、
血腥(ちなまぐさ)い復讐の報(むくい)を受けることになった。今はあの
虐殺を敢てした一寸坊の血が見たいと云う、
鳥仲間の怒を招くことになった。
盾も冑も槍も、もう用には立たぬ。
一寸坊共がもう鷺の羽の飾をなんにしよう。
あのダクチレや蟻なんぞの隠れるのを見い。
もう全軍が色めく。逃げる。瓦解する。


  アナクサゴラス


(間(ま)を置きて、荘重に。)

今まで己は地(じ)の下の威力を称えていたが、
この場合では上の方へ向いて祈らねばならぬ。
御身よ。上にいて、永遠に古びずに、
三つの称号、三つの形相(ぎょうそう)を持っている、
ジアナ、ルナ、ヘカテの三一の神よ。我民草の
惨害を見て、おん身に祈る。
御身よ。胸を披(ひら)く神、情深き神、静かに
見えている神、力強く優しい神よ。
御身の陰翳の物凄い顎(あぎと)を開(ひら)いてくれられい。
昔ながらの威力が不思議を待たずに見たい。

(間。)

(いのり)が余り早く聞かれたのか。
天を仰いでした
己の祈が、
自然の秩序を紊(みだ)したのか。
目に恐ろしく、常ならず見える、
女神の円く限られた玉座が、次第に、次第に
大きくなって、近づいて来る。
その火が気味悪く赤くなって来る。もうそれより
近くなってくれるな。脅かすような、力強い巡歴(じゅんれき)
御身は己達をも陸をも海をも滅ぼすだろう。

それではテッサリアの女共が、無遠慮な幻術の
心安立から、歌で、御身が軌道を離れて降りて
来られるようにしたと云うのは、本当か。おん身に
迫って一番ひどい禍を招いたと云うのは本当か。
明るい盤が周囲(まわり)から昏(くら)くなって来る。
や。突然裂ける。光る。赫(かがや)く。あのぱちぱち
しゅっしゅっと云う音はどうだ。それに交(まじ)って
雷が鳴る。暴風(あらし)が吹く。
己は玉座の段(きだ)に身を委ねて罪を謝する。
これは己が招いた禍だ。

(地に俯伏(うつぶせ)になる。)



  タレス

好くいろんな物が見えたり、聞えたりする男だな。
何事があったか、己にはさっぱり分からない。それに
己にはそんな事を一しょに感じることも出来なかった。
お互に白状するが好い。今は気違染みた時刻だ。
ルナは前々通(どおり)、自分の場所に、
気楽に浮いていなさるのだ。


  小人

でもあっちのピグマイオス共の居所(いどころ)を御覧なさい。
今まで円かった山が尖って来ました。
わたくしには恐ろしい衝突が感ぜられました。
岩が月から墜ちて、すぐに
なんの遠慮会釈もなく、
敵も身方も押し潰して殺したのです。
しかし兎に角わたくしは、
一夜のうちに、下からと上からと同時に、
創造的にこんな山を拵えた
技術を称えずにはいられません。


  タレス

まあ、落ち着いていろ。あれはただ思想上の出来事だ。
一寸坊の醜類共は滅びてしまうが好い。
お前は王にならいで、為合(しあわせ)だった。さあ、これから
晴やかな海の祭へ行こう。あっちの流義では、
不思議な客を待っていて、敬ってくれるのだ。

(共に退場。)



  メフィストフェレス


(反対の側を攀(よ)ぢ登りゐる。)

この通(とおり)己は嶮しい岩の阪道や、かしの古木の
ごつごつした根の上を、難儀しながら登っている。
国のハルツの山では、一体に 児(チャン)に似た
樹脂(やに)の匂(におい)がしている。それに硫黄が手近だが、
あれも好(すき)だ。グレシア人共のいるこの辺では
そんな匂はちっともしない。
一体地獄の責苦の火を、こっちでは
なんで焚き附けるか、聞いて見たいものだ。


  かしの木の少女ドリアス

お国ではお前さん気の利いた方(かた)でしょうが、
余所へおいでなすっては駄目ですね。
そんなにお国の事なんぞを思い出さないで、
この難有いかしの木をお拝(おがみ)なさいな。


  メフィストフェレス

いや。誰でも棄てて来た事を恋しく思うものだよ。
居慣れた所は、いつまでも天国だ。
それはそうと、あそこの洞穴の中の
薄昏がりに三人しゃがんでいるのはなんだ。


  ドリアス

あれは闇の女フォルキアデスです。気味が悪いと
お思(おもい)なさらないなら、往ってお話をなさいまし。


  メフィストフェレス

行かれない事はないよ。や。見て驚くなあ。
己は負けない気だが、こんな物はまだ見たことが
ないと云って退(の)けるより外ないぞ。これはまた
マンドラゴラの根のお化よりひどい。
この三人の化物を見たからは、
一番古く嫌われている罪悪だって、
ちっとも醜いとは云われまい。
国の地獄では一番ひどい所の入口にも、
こんな物は我慢して置いて遣らない。
ここでは美の国だと云うにこんな物が生える。
それを古代と云って褒めるのだ。
や。動き出した。己を嗅ぎ附けたらしい。
何やらぴいぴい云いおる。血を吸いそうな蝙蝠(こうもり)奴が。


  闇の女フォルキアデス

きょうだい達。ちょいと目をお貸(かし)。祠(ほこら)のこんな
近所まで、誰が来たか、聞いて見るから。


  メフィストフェレス

姉えさん方(がた)。御免なさい。お傍へ参って
お三人の祝福を戴きたいのです。
お馴染もなくて出掛けたのですが、わたくしの
思違(おもいちがい)でなけりゃあ、遠い御親類のはずです。
随分古い難有い神達にもお目に掛かりました。
オプスやレアさんには、しっかり頭を下げました。
きのうでしたか、おとついでしたか、混沌の子の、
御きょうだいのパルチェエ達にも逢いました。
しかしあなたのような方を拝むのは始てです。
もう饒舌(しゃべ)らずに、ただ難有がっていましょう。


  フォルキアデス

この幽霊は物の分かる男らしいね。


  メフィストフェレス

ただどの詩人もあなた方を歌わぬのが妙ですね。
どうしたのでしょう、どうしてそんな事が出来たでしょう。
こんなお立派な方々の肖像を、ついぞ拝したことがない。
ユノやパルラスやウェヌスばかり彫らないで、
彫刻家の鑿(のみ)もあなた方を写して見れば好(い)いに。


  フォルキアデス

寂しい暗い所に引っ込んでいるものですから、
ついそこに気が附きませんでしたよ。


  メフィストフェレス

無理もないですね。あなた方が世に遠ざかって
誰にも逢いなさらず、誰もあなた方を拝まないのだから。
一体豪奢と芸術とが座を分けて据わっていて、
毎日大理石の塊(かたまり)が英雄の姿になって、
さっさと股を広げて歩いて出るような
土地に住んでいなされば好(い)いに。
そう云う。


  フォルキアデス

  お黙(だまり)。人をおだてないで下さい。

望があったって、なんになるものかね。
夜生れて、夜のものに親んで、人には丸で
知られず、自分にさえ知られずにいるのだもの。


  メフィストフェレス

そうだとして見れば、わけもない事です。
人に委任して御覧になると好(い)いのです。
お三人で目を一つと歯を一本と使っておいでになる。
そこでお三人の御本体を、一時お二人(ふたり)でお摂し
なさるとして、三人目のお姿をわたくしに
お貸(かし)なさることも、神話学上お差支は
ないでしょう。


  フォルキアデスの一人



どうだろうね。好かろうか。



  他の二人

いたして見ましょう。でも目と歯とは貸されません。


  メフィストフェレス

それでは一番好(い)い物をお除(のけ)になるのです。
どうしてお姿がそっくり似せられましょう。


  一人

わけはありません。片々の目を瞑(ねむ)って、
鬼歯を一本お見せなされば好(い)いのです。
そうなされば、横顔がすぐにそっくり
わたくしどもに似ておいでなさいます。


  メフィストフェレス

難有い事です。好(い)いですか。


  フォルキアデス

 好うござんす。



  メフィストフェレス


(横顔をフォルキアデスにする。)

これでもう混沌の秘蔵息子になりすました。


  フォルキアデス

それはわたし達が混沌の娘だと云うことは確かです。


  メフィストフェレス

これでは半男半女だと冷かされても為方(しかた)がない。


  フォルキアデス

改めてのきょうだい三人の中で誰が美しかろう。
こちらは二人で目も歯もあります。


  メフィストフェレス

己はもう誰にも見られぬようにせんではならぬ。
地獄の水潦(ぬかるみ)で悪魔を威す姿だからな。

(退場。)








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