夏目漱石 思い出す事など

十五


 強(し)いて寝返(ねがえ)りを右に打とうとした余と、枕元の金盥(かなだらい)に鮮血を認めた余とは、一分(いちぶ)の隙(すき)もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛(かみげ)を挟(はさ)む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経(へ)て妻(さい)から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。子供のとき悪戯(いたずら)をして気絶をした事は二三度あるから、それから推測して、死とはおおかたこんなものだろうぐらいにはかねて想像していたが、半時間の長き間、その経験を繰返しながら、少しも気がつかずに一カ月あまりを当然のごとくに過したかと思うと、はなはだ不思議な心持がする。実を云うとこの経験――第一経験と云い得るかが疑問である。普通の経験と経験の間に挟まって毫(ごう)もその連結を妨(さまた)げ得ないほど内容に乏しいこの――余は何と云ってそれを形容していいかついに言葉に窮してしまう。余は眠から醒(さ)めたという自覚さえなかった。陰(かげ)から陽(ひ)に出たとも思わなかった。微(かす)かな羽音(はおと)、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂(にお)い、古い記憶の影、消える印象の名残(なごり)――すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽してようやく髣髴(ほうふつ)すべき霊妙な境界(きょうがい)を通過したとは無論考えなかった。ただ胸苦(むなぐる)しくなって枕の上の頭を右に傾むけようとした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めただけである。その間に入(い)り込(こ)んだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とはそれほどはかないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃(きら)めいた生死二面の対照の、いかにも急劇でかつ没交渉なのに深く感じた。どう考えてもこの懸隔(かけへだ)った二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得できなかった。よし同じ自分が咄嗟(とっさ)の際に二つの世界を横断したにせよ、その二つの世界がいかなる関係を有するがために、余をしてたちまち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、茫然(ぼうぜん)として自失せざるを得なかった。
 生死とは緩急(かんきゅう)、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常一束(ひとたば)に使用される言葉である。よし輓近(ばんきん)の心理学者の唱うるごとく、この二つのものもまた普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにしたところで、かく掌(てのひら)を翻(ひるが)えすと一般に、唐突(とうとつ)なるかけ離れた二象面(フェーゼス)が前後して我を擒(とりこ)にするならば、我はこのかけ離れた二象面を、どうして同性質のものとして、その関係を迹付(あとづ)ける事ができよう。
 人が余に一個の柿を与えて、今日は半分喰え、明日(あす)は残りの半分の半分を喰え、その翌日(あくるひ)はまたその半分の半分を喰え、かくして毎日現に余れるものの半分ずつを喰えと云うならば、余は喰い出してから幾日目(いくかめ)かに、ついにこの命令に背(そむ)いて、残る全部をことごとく喰い尽すか、または半分に割る能力の極度に達したため、手を拱(こまぬ)いて空(むな)しく余(のこ)れる柿の一片(いっぺん)を見つめなければならない時機が来るだろう。もし想像の論理を許すならば、この条件の下(もと)に与えられたる一個の柿は、生涯(しょうがい)喰っても喰い切れる訳がない。希臘(ギリシャ)の昔ゼノが足の疾(と)きアキリスと歩みの鈍(のろ)い亀との間に成立する競争に辞(ことば)を託して、いかなるアキリスもけっして亀に追いつく事はできないと説いたのは取も直さずこの消息である。わが生活の内容を構成(かたちづく)る個々の意識もまたかくのごとくに、日ごとか月ごとに、その半(なかば)ずつを失って、知らぬ間にいつか死に近づくならば、いくら死に近づいても死ねないと云う非事実な論理に愚弄(ぐろう)されるかも知れないが、こう一足飛びに片方から片方に落ち込むような思索上の不調和を免(まぬ)かれて、生から死に行く径路(けいろ)を、何の不思議もなく最も自然に感じ得るだろう。俄然(がぜん)として死し、俄然として吾(われ)に還(かえ)るものは、否、吾に還ったのだと、人から云い聞かさるるものは、ただ寒くなるばかりである。


縹緲玄黄外。 死生交謝時。 寄託冥然去。
我心何所之。 帰来覓命根。 杳竟難知。
孤愁空遶夢。 宛動粛瑟悲。 江山秋已老。
粥薬将衰。 廓寥天尚在。 高樹独余枝。
晩懐如此澹。 風露入詩遅。







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