夏目漱石 思い出す事など

十七


 臆病者の特権として、余はかねてより妖怪(ようかい)に逢(あ)う資格があると思っていた。余の血の中には先祖の迷信が今でも多量に流れている。文明の肉が社会の鋭どき鞭(むち)の下(もと)に萎縮(いしゅく)するとき、余は常に幽霊を信じた。けれども虎烈剌(コレラ)を畏(おそ)れて虎烈剌に罹(かか)らぬ人のごとく、神に祈って神に棄(す)てられた子のごとく、余は今日(きょう)までこれと云う不思議な現象に遭遇する機会もなく過ぎた。それを残念と思うほどの好奇心もたまには起るが、平生はまず出逢(であ)わないのを当然と心得てすまして来た。
 自白すれば、八九年前アンドリュ・ラングの書いた「夢と幽霊」という書物を床の中に読んだ時は、鼻の先の灯火(ともしび)を一時に寒く眺めた。一年ほど前にも「霊妙なる心力」と云う標題に引かされてフランマリオンという人の書籍を、わざわざ外国から取り寄せた事があった。先頃はまたオリヴァー・ロッジの「死後の生」を読んだ。
 死後の生! 名からしてがすでに妙である。我々の個性が我々の死んだ後(のち)までも残る、活動する、機会があれば、地上の人と言葉を換(かわ)す。スピリチズムの研究をもって有名であったマイエルはたしかにこう信じていたらしい。そのマイエルに自己の著述を捧げたロッジも同じ考えのように思われる。ついこの間出たポドモアの遺著もおそらくは同系統のものだろう。
 独乙(ドイツ)のフェヒナーは十九世紀の中頃すでに地球その物に意識の存すべき所以(ゆえん)を説いた。石と土と鉱(あらがね)に霊があると云うならば、有るとするを妨(さまた)げる自分ではない。しかしせめてこの仮定から出立して、地球の意識とは如何(いか)なる性質のものであろうぐらいの想像はあってしかるべきだと思う。
 吾々の意識には敷居のような境界線があって、その線の下は暗く、その線の上は明らかであるとは現代の心理学者が一般に認識する議論のように見えるし、またわが経験に照らしても至極(しごく)と思われるが、肉体と共に活動する心的現象に斯様(かよう)の作用があったにしたところで、わが暗中の意識すなわちこれ死後の意識とは受取れない。
 大いなるものは小さいものを含んで、その小さいものに気がついているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己(おのれ)らの寄り集って拵(こし)らえている全部に対しては風馬牛(ふうばぎゅう)のごとく無頓着(むとんじゃく)であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、また結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識もまたより大いなる意識の中(うち)に含まれながら、しかもその存在を自覚せずに、孤立するごとくに考えているのだろうとは、彼がこの類推(るいすい)より下(くだ)し来(きた)るスピリチズムに都合よき仮定である。
 仮定は人々の随意であり、また時にとって研究上必要の活力でもある。しかしただ仮定だけでは、いかに臆病の結果幽霊を見ようとする、また迷信の極(きょく)不可思議を夢みんとする余も、信力をもって彼らの説を奉ずる事ができない。
 物理学者は分子の容積を計算して蚕(かいこ)の卵にも及ばぬ(長さ高さともに一ミリメターの)立方体に一千万を三乗した数が這入(はい)ると断言した。一千万を三乗した数とは一の下に零(れい)を二十一付けた莫大(ばくだい)なものである。想像を恣(ほしいま)まにする権利を有する吾々(われわれ)もこの一の下に二十一の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
 形而下(けいじか)の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみもっともと首肯(うなず)くだけである。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云うまでもない。よし物理学者の分子に対するごとき明暸(めいりょう)な知識が、吾人(ごじん)の内面生活を照らす機会が来たにしたところで、余の心はついに余の心である。自分に経験のできない限り、どんな綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事だけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合(めいごう)できよう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を他人(ひと)に待つばかりである。


迎火(むかいび)を焚(た)いて誰(たれ)待つ絽(ろ)の羽織(はおり)







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