ランボオ詩集 中原中也訳



 酔ひどれ船


私は不感な河を下つて行つたのだが、

何時しか私の曳船人等は、私を離れてゐるのであつた、

みれば罵り喚く赤肌人(あかはだびと)等が、彼等を的(まと)にと引ツ捕へ、

色とりどりの棒杭に裸かのままで釘附けてゐた。

私は一行の者、フラマンの小麦や英綿(えいめん)の荷役には

とんと頓着してゐなかつた

曳船人等とその騒ぎとが、私を去つてしまつてからは

河は私の思ふまま下らせてくれるのであつた。

私は浪の狂へる中を、さる冬のこと

子供の脳より聾乎(ぼつ)として漂つたことがあつたつけが!

怒濤を繞((めぐ))らす半島と雖((いへど))も

その時程の動乱を蒙(う)けたためしはないのであつた。

嵐は私の海上に於ける警戒ぶりを讃歎した。

浮子(うき)よりももつと軽々(かろがろ)私は浪間に躍つてゐた

犠牲者達を永遠にまろばすといふ浪の間に

幾夜ともなく船尾(とも)の灯(ひ)に目の疲れるのも気に懸けず。

子供が食べる酸い林檎よりもしむみりと、

緑の水はわが樅の船体に滲むことだらう

又安酒(やすざけ)や嘔吐の汚点(しみ)は、舵も錨も失せた私に

無暗矢鱈に降りかかつた。

その時からだ、私は海の歌に浴した。

星を鏤((ちりば))め乳汁のやうな海の、

生々(なま/\)しくも吃水線は蒼ぐもる、緑の空に見入つてあれば、

折から一人の水死人、思ひ深げに下つてゆく。

其処に忽ち蒼然色(あをーいいろ)は染め出され、おどろしく

またゆるゆると陽のかぎろひのその下((もと))を、

アルコールよりもなほ強く、竪琴よりも渺茫((べうばう))と、

愛執のにがい茶色も漂つた!

私は知つてゐる稲妻に裂かれる空を竜巻を

打返す浪を潮流を。私は夕べを知つてゐる、

群れ立つ鳩にのぼせたやうな曙光(あけぼの)を、

又人々が見たやうな気のするものを現に見た。

不可思議の畏怖(おそれ)に染(し)みた落日が

紫の長い凝結(こごり)を照らすのは

古代の劇の俳優か、

大浪は遠くにはためき逆巻いてゐる。

私は夢みた、眩いばかり雪降り積つた緑の夜を

接唇(くちづけ)は海の上にゆらりゆらりと立昇り、

未聞の生気は循環し

歌ふがやうな燐光は青に黄色にあざやいだ。

私は従つた、幾月も幾月も、ヒステリックな

牛小舎に似た大浪が暗礁を突撃するのに、

もしもかの光り耀(かゞよ)ふマリアの御足(みあし)が

お望みとあらば太洋に猿轡((さるぐつわ))かませ給(たま)ふも儘((まま))なのを気が付かないで。

船は衝突(あた)つた、世に不可思議なフロリダ州

人の肌膚(はだへ)の豹の目は叢(むら)なす花にいりまじり、

手綱の如く張りつめた虹は遥かの沖の方

海緑色の畜群に、いりまじる。

私は見た、沼かと紛(まが)ふ巨大な魚梁(やな)が沸き返るのを

其処にレヴィヤタンの一族は草に絡まり腐りゆき、

凪((なぎ))の中心(もなか)に海水は流れいそそぎ

遠方(をちかた)は淵を目がけて滝となる!

氷河、白銀の太陽、真珠の波、燠((おき))の空、

褐色の入江の底にぞつとする破船の残骸、

其処に大きな蛇は虫にくはれて

くねくねの木々の枝よりどす黒い臭気をあげては堕ちてゐた!

子供等に見せたかつたよ、碧波(あをなみ)に浮いてゐる鯛、

其の他金色の魚、歌ふ魚、

の花は私の漂流を祝福し、

えもいへぬ風は折々私を煽(おだ)てた。

時として地極と地帯に飽き果てた殉教者・海は

その歔欷(すすりなき)でもつて私をあやし、

黄色い吸口のある仄暗い花をばかざした

その時私は膝つく女のやうであつた

半島はわが船近く揺らぎつつ金褐の目の

怪鳥の糞と争ひを振り落とす、

かくてまた漂ひゆけば、わが細綱を横切つて

水死人の幾人か後方(しりへ)にと流れて行つた……

私としてからが浦々の乱れた髪に踏み迷ひ

鳥も棲まはぬ気圏(そら)までも颶風((ぐふう))によつて投げられたらば

海防艦(モニトル)もハンザの船も

水に酔つた私の屍骸(むくろ)を救つてくれはしないであらう、

思ひのままに、煙吹き、紫色の霧立てて、

私は、詩人等に美味しいジャミや、

太陽の蘇苔(こけ)や青空の鼻涕(はな)を呉れる

壁のやうに赤らんだ空の中をずんずん進んだ、

電気と閃く星を著け、

黒い海馬に衛(まも)られて、狂へる小舟は走つてゐた、

七月が、丸太ン棒で打つかとばかり

燃える漏斗のかたちした紺青の空を揺るがせた時、

私は慄へてゐた、五十里の彼方にて

ベヘモと渦潮(うづ)の発情の気色(けはひ)がすると、

ああ永遠に、青き不動を紡ぐ海よ、

昔ながらの欄干に倚((よ))る欧羅巴((ヨーロッパ))が私は恋しいよ。

私は見た! 天にある群島を! その島々の

狂ほしいまでのその空は漂流(ただよ)ふ者に開放されてた、

底知れぬこんな夜々には眠つてゐるのか、もう居ないのか

おゝ、百万の金の鳥、当来の精力よ!

だが、惟((おも))へば私は哭((な))き過ぎた。曙は胸抉(ゑぐ)り、

月はおどろしく陽はにがかつた。

どぎつい愛は心蕩(とろ)かす失神で私をひどく緊(し)めつけた。

おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまはう!

よし今私が欧羅巴の水を望むとしても、それははや

黒い冷たい林の中の瀦水(いけみづ)で、其処に風薫る夕まぐれ

子供は蹲((しやが))んで悲しみで一杯になつて、放つのだ

五月の蝶かといたいけな笹小舟。

あゝ浪よ、ひとたびおまへの倦怠にたゆたつては、

綿船(わたぶね)の水脈(みを)ひく跡を奪ひもならず、

旗と炎の驕慢を横切(よぎ)りもならず、

船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこつた。





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