二十六
やがて門口(かどぐち)の格子(こうし)を開けて、沓脱(くつぬぎ)へ下駄(げた)を脱ぐ音がした。
「やっと来たようですぜ」と比田(ひだ)がいった。
しかし玄関を通り抜けたその足音はすぐ茶の間へ這入(はい)った。
「また悪いの。驚ろいた。ちっとも知らなかった。何時(いつ)から」
短かい言葉が感投詞のようにまた質問のように、座敷に坐(すわ)っている二人の耳に響いた。その声は比田の推察通りやっぱり健三の兄であった。
「長さん、先刻(さっき)から待ってるんだ」
性急な比田はすぐ座敷から声を掛けた。女房の喘息(ぜんそく)などはどうなっても構わないといった風のその調子が、如何(いか)にもこの男の特性をよく現わしていた。「本当に手前勝手な人だ」とみんなからいわれるだけあって、彼はこの場合にも、自分の都合より外に何にも考えていないように見えた。
「今行きますよ」
長太郎(ちょうたろう)も少し癪(しゃく)だと見えて、なかなか茶の間から出て来なかった。
「重湯(おもゆ)でも少し飲んだら好(い)いでしょう。厭(いや)? でもそう何にも食べなくっちゃ身体(からだ)が疲rbrtれるだけだから」
姉が息苦しくって、受答えが出来かねるので、脊中(せなか)を撫(さす)っていた女が一口ごとに適宜な挨拶(あいさつ)をした。平生(へいぜい)健三よりは親しくその宅(うち)へ出入(でいり)する兄は、見馴(みな)れないこの女とも近付(ちかづき)と見えた。そのせいか彼らの応対は容易に尽きなかった。
比田はぷりっと膨(ふく)れていた。朝起きて顔を洗う時のように、両手で黒い顔をごしごし擦(こす)った。しまいに健三の方を向いて、小さな声でこんな事をいった。
「健ちゃんあれだから困るんですよ。口ばかり多くってね。こっちも手がないから仕方なしに頼むんだが」
比田の非難は明らかに健三の見知らない女の上に投げ掛けられた。
「何ですあの人は」
「そら梳手(すきて)の御勢(おせい)ですよ。昔し健ちゃんの遊(あす)びに来る時分、よくいたじゃありませんか、宅に」
「へええ」
健三には比田の家(うち)でそんな女に会った覚(おぼえ)が全くなかった。
「知りませんね」
「なに知らない事があるもんですか、御勢だもの。あいつはね、御承知の通りまことに親切で実意のある好い女なんだが、あれだから困るんです。喋舌(しゃべ)るのが病なんだから」
よく事情を知らない健三には、比田のいう事が、ただ自分だけに都合のいい誇張のように聞こえるばかりで、大した感銘も与えなかった。
姉はまた咳(せ)き出した。その発作が一段落片付くまでは、さすがの比田も黙っていた。長太郎も茶の間を出て来なかった。
「何だか先刻(さっき)より劇(はげ)しいようですね」
少し不安になった健三は、そういいながら席を立とうとした。比田は一も二もなく留めた。
「なあに大丈夫、大丈夫。あれが持病なんですから大丈夫。知らない人が見るとちょっと吃驚(びっくり)しますがね。私(わたし)なんざあもう年来馴(な)れっ子になってるから平気なもんですよ。実際またあれを一々苦にしているようじゃ、とても今日(こんにち)まで一所に住んでる事は出来ませんからね」
健三は何とも答える訳に行かなかった。ただ腹の中で、自分の細君が歇私的里(ヒステリー)の発作に冒された時の苦しい心持を、自然の対照として描き出した。
姉の咳嗽(せき)が一収(ひとおさま)り収った時、長太郎は始めて座敷へ顔を出した。
「どうも済みません。もっと早く来るはずだったが、生憎(あいにく)珍らしく客があったもんだから」
「来たか長さん待ってたほい。冗談じゃないよ。使でも出そうかと思ってたところです」
比田は健三の兄に向ってこの位な気安い口調で話の出来る地位にあった。
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夏目漱石 道草
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