三十
家(うち)へ帰ると細君は奥の六畳に手枕(てまくら)をしたなり寐(ね)ていた。健三はその傍(そば)に散らばっている赤い片端(きれはし)だの物指(ものさし)だの針箱だのを見て、またかという顔をした。
細君はよく寐る女であった。朝もことによると健三より遅く起きた。健三を送り出してからまた横になる日も少なくはなかった。こうしてあくまで眠りを貪(むさ)ぼらないと、頭が痺(しび)れたようになって、その日一日何事をしても判然(はっきり)しないというのが、常に彼女の弁解であった。健三はあるいはそうかも知れないと思ったり、またはそんな事があるものかと考えたりした。ことに小言(こごと)をいったあとで、寐られるときは、後の方の感じが強く起った。
「不貞寐(ふてね)をするんだ」
彼は自分の小言が、歇私的里性(ヒステリーしょう)の細君に対して、どう反応するかを、よく観察してやる代りに、単なる面当(つらあて)のために、こうした不自然の態度を彼女が彼に示すものと解釈して、苦々しい囁(つぶや)きを口の内で洩(も)らす事がよくあった。
「何故(なぜ)夜早く寐ないんだ」
彼女は宵っ張であった。健三にこういわれる度に、夜は眼が冴(さ)えて寐られないから起きているのだという答弁をきっとした。そうして自分の起きていたい時までは必ず起きて縫物の手をやめなかった。
健三はこうした細君の態度を悪(にく)んだ。同時に彼女の歇私的里(ヒステリー)を恐れた。それからもしや自分の解釈が間違っていはしまいかという不安にも制せられた。
彼は其所(そこ)に立ったまま、しばらく細君の寐顔を見詰めていた。肱(ひじ)の上に載せられたその横顔はむしろ蒼白(あおしろ)かった。彼は黙って立っていた。御住(おすみ)という名前さえ呼ばなかった。
彼はふと眼を転じて、あらわな白い腕(かいな)の傍に放り出された一束(ひとたば)の書物(かきもの)に気を付けた。それは普通の手紙の重なり合ったものでもなければ、また新らしい印刷物を一纏(ひとまとめ)に括(くく)ったものとも見えなかった。惣体(そうたい)が茶色がかって既に多少の時代を帯びている上に、古風なかんじん撚(より)で丁寧な結び目がしてあった。その書ものの一端は、殆(ほと)んど細君の頭の下に敷かれていると思われる位、彼女の黒い髪で、健三の目を遮ぎっていた。
彼はわざわざそれを引き出して見る気にもならずに、また眼を蒼白(あおじろ)い細君の額(ひたい)の上に注いだ。彼女の頬(ほお)は滑り落ちるようにこけていた。
「まあ御痩(おや)せなすった事」
久しぶりに彼女を訪問した親族のある女は、近頃の彼女の顔を見て驚ろいたように、こんな評を加えた事があった。その時健三は何故(なぜ)だかこの細君を痩せさせた凡(すべ)ての源因が自分一人にあるような心持がした。
彼は書斎に入った。
三十分も経ったと思う頃、門口(かどぐち)を開ける音がして、二人の子供が外から帰って来た。坐(すわ)っている健三の耳には、彼らと子守との問答が手に取るように聞こえた。子供はやがて馳(か)け込むように奥へ入った。其所ではまた細君が蒼蠅(うるさ)いといって、彼らを叱(しか)る声がした。
それからしばらくして細君は先刻(さっき)自分の枕元にあった一束の書ものを手に持ったまま、健三の前にあらわれた。
「先ほど御留守に御兄(おあにい)さんがいらっしゃいましてね」
健三は万年筆の手を止めて、細君の顔を見た。
「もう帰ったのかい」
「ええ。今ちょっと散歩に出掛ましたから、もうじき帰りましょうって御止めしたんですけれども、時間がないからって御上(おあが)りになりませんでした」
「そうか」
「何でも谷中(やなか)に御友達とかの御葬式があるんですって。それで急いで行かないと間に合わないから、上っていられないんだと仰(おっし)ゃいました。しかし帰りに暇があったら、もしかすると寄るかも知れないから、帰ったら待ってるようにいってくれって、いい置いていらっしゃいました」
「何の用なのかね」
「やっぱりあの人の事なんだそうです」
兄は島田の事で来たのであった。
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夏目漱石 道草
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