三十二
細君にはこの古臭い免状がなおの事珍らしかった。夫の一旦(いったん)下へ置いたのをまた取り上げて、一枚々々鄭寧(ていねい)に剥繰(はぐ)って見た。
「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」
「あったんだね」
健三はそのまま外(ほか)の書付(かきつけ)に手を着けた。読みにくい彼の父の手蹟が大いに彼を苦しめた。
「これを御覧、とても読む勇気がないね。ただでさえ判明(わか)らないところへ持って来て、むやみに朱を入れたり棒を引いたりしてあるんだから」
健三の父と島田との懸合(かけあい)について必要な下書(したがき)らしいものが細君の手に渡された。細君は女だけあって、綿密にそれを読み下(くだ)した。
「貴夫(あなた)の御父さまはあの島田って人の世話をなすった事があるのね」
「そんな話は己(おれ)も聞いてはいるが」
「此所(ここ)に書いてありますよ。――同人幼少にて勤向(つとめむき)相成りがたく当方(とうかた)へ引き取り五カ年間養育致候縁合(そろえんあい)を以てと」
細君の読み上げる文章は、まるで旧幕時代の町人が町奉行(まちぶぎょう)か何かへ出す訴状のように聞こえた。その口調に動かされた健三は、自然古風な自分の父を眼の前に髣髴(ほうふつ)した。その父から、将軍の鷹狩(たかがり)に行く時の模様などを、それ相当の敬語で聞かされた昔も思い合された。しかし事実の興味が主として働らきかけている細君の方ではまるで文体などに頓着(とんじゃく)しなかった。
「その縁故で貴夫はあの人の所へ養子に遣(や)られたのね。此所にそう書いてありますよ」
健三は因果な自分を自分で憐(あわ)れんだ。平気な細君はその続きを読み出した。
「右健三三歳のみぎり養子に差遣(さしつかわ)し置候処(おきそろところ)平吉儀妻(へいきちぎさい)常(つね)と不和を生じ、遂に離別と相成候につき当時八歳の健三を当方へ引き取り今日(こんにち)まで十四カ年間養育致し、――あとは真赤(まっか)でごちゃごちゃして読めないわね」
細君は自分の眼の位置と書付の位置とを色々に配合して後を読もうと企てた。健三は腕組をして黙って待っていた。細君はやがてくすくす笑い出した。
「何が可笑(おか)しいんだ」
「だって」
細君は何にもいわずに、書付を夫の方に向け直した。そうして人さし指の頭で、細かく割註(わりちゅう)のように朱で書いた所を抑えた。
「ちょっと其所(そこ)を読んで御覧なさい」
健三は八の字を寄せながら、その一行を六(む)ずかしそうに読み下した。
「取扱い所勤務中遠山藤(とおやまふじ)と申す後家(ごけ)へ通じ合い候(そうろう)が事の起り。――何だ下らない」
「しかし本当なんでしょう」
「本当は本当さ」
「それが貴夫の八ツの時なのね。それから貴夫は御自分の宅(うち)へ御帰りになった訳ね」
「しかし籍を返さないんだ」
「あの人が?」
細君はまたその書付を取り上げた。読めない所はそのままにして置いて、読める所だけ眼を通しても、自分のまだ知らない事実が出て来るだろうという興味が、少なからず彼女の好奇心を唆(そそ)った。
書付のしまいの方には、島田が健三の戸籍を元通りにして置いて実家へ返さないのみならず、いつの間にか戸主に改めた彼の印形(いんぎょう)を濫用(らんよう)して金を借り散らした例などが挙げてあった。
いよいよ手を切る時に養育料として島田に渡した金の証文も出て来た。それには、しかる上は健三離縁本籍と引替に当金――円御渡し被下(くだされ)、残金――円は毎月(まいげつ)三十日限り月賦にて御差入(おさしいれ)のつもり御対談云々(うんぬん)と長たらしく書いてあった。
「凡(すべ)て変梃(へんてこ)な文句ばかりだね」
「親類取扱人比田寅八(ひだとらはち)って下に印が押してあるから、大方比田さんでも書いたんでしょう」
健三はついこの間会った比田の万事に心得顔な様子と、この証文の文句とを引き比べて見た。
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夏目漱石 道草
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