四十五
健三も細君も御常の書いた手紙の傾向をよく覚えていた。彼女とはさして縁故のない人ですら、親切に毎月いくらかずつの送金をしてくれるのに、小さい時分あれほど世話になって置きながら、今更知らん顔をしていられた義理でもあるまいといった風の筆意が、一頁(ページ)ごとに見透かされた。
その時彼はこの手紙を東京にいる兄の許(もと)に送った。勤先へこんなものを度々寄こされては迷惑するから、少し気を付けるように先方へ注意してくれと頼んだ。兄からはすぐ返事が来た。もともと養家先を離縁になって、他家へ嫁に行った以上は他人である、その上健三はその養家さえ既に出てしまった後なのだから、今になって直接本人へ文通などされては困るという理由を持ち出して、先方を承知させたから安心しろと、その返事には書いてあった。
御常の手紙はその後(ご)ふっつり来なくなった。健三は安心した。しかしどこかに心持の悪い所があった。彼は御常の世話を受けた昔を忘れる訳に行かなかった。同時に彼女を忌み嫌う念は昔の通り変らなかった。要するに彼の御常に対する態度は、彼の島田に対する態度と同じ事であった。そうして島田に対するよりも一層嫌悪の念が劇(はげ)しかった。
「島田一人でもう沢山なところへ、また新らしくそんな女が遣(や)って来られちゃ困るな」
健三は腹の中でこう思った。夫の過去について、それほど知識のない細君の腹の中はなおの事であった。細君の同情は今その生家の方にばかり注がれていた。もとかなりの地位にあった彼女の父は、久しく浪人生活を続けた結果、漸々(だんだん)経済上の苦境に陥いって来たのである。
健三は時々宅(うち)へ話しに来る青年と対坐(たいざ)して、晴々しい彼らの様子と自分の内面生活とを対照し始めるようになった。すると彼の眼に映ずる青年は、みんな前ばかり見詰めて、愉快に先へ先へと歩いて行くように見えた。
或日彼はその青年の一人に向ってこういった。
「君らは幸福だ。卒業したら何になろうとか、何をしようとか、そんな事ばかり考えているんだから」
青年は苦笑した。そうして答えた。
「それは貴方(あなた)がた時代の事でしょう。今の青年はそれほど呑気(のんき)でもありません。何(なん)になろうとか、何(なに)をしようとか思わない事は無論ないでしょうけれども、世の中が、そう自分の思い通りにならない事もまた能(よ)く承知していますから」
なるほど彼の卒業した時代に比べると、世間は十倍も世知(せち)辛(がら)くなっていた。しかしそれは衣食住に関する物質的の問題に過ぎなかった。従って青年の答には彼の思わくと多少喰(く)い違った点があった。
「いや君らは僕のように過去に煩らわされないから仕合せだというのさ」
青年は解しがたいという顔をした。
「あなただって些(ちっ)とも過去に煩らわされているようには見えませんよ。やっぱり己(おれ)の世界はこれからだという所があるようですね」
今度は健三の方が苦笑する番になった。彼はその青年に仏蘭西(フランス)のある学者が唱え出した記憶に関する新説を話した。
人が溺(おぼ)れかかったり、または絶壁から落(おち)ようとする間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。
「人間は平生(へいぜい)彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟(とっさ)に起ったある危険のために突然塞(ふさ)がれて、もう己は駄目だと事が極(きま)ると、急に眼を転じて過去を振り向くから、そこで凡(すべ)ての過去の経験が一度に意識に上(のぼ)るのだというんだね。その説によると」
青年は健三の紹介を面白そうに聴いた。けれども事状を一向知らない彼は、それを健三の身の上に引き直して見る事が出来なかった。健三も一刹那(いっせつな)にわが全部の過去を思い出すような危険な境遇に置かれたものとして今の自分を考えるほどの馬鹿でもなかった。
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夏目漱石 道草
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