五十六
同時に島田はちょいちょい健三の所へ顔を出す事を忘れなかった。利益の方面で一度手掛りを得た以上、放したらそれっきりだという懸念がなおさら彼を蒼蠅(うるさ)くした。健三は時々書斎に入って、例の紙入を老人の前に持ち出さなければならなかった。
「好(い)い紙入ですね。へええ。外国のものはやっぱりどこか違いますね」
島田は大きな二つ折を手に取って、さも感服したらしく、裏表を打返して眺めたりした。
「失礼ながらこれでどの位します。あちらでは」
「たしか十志(シリング)だったと思います。日本の金にすると、まあ五円位なものでしょう」
「五円?――五円は随分好い価(ね)ですね。浅草(あさくさ)の黒船町(くろふねちょう)に古くから私(わたし)の知ってる袋物屋があるが、彼所(あすこ)ならもっとずっと安く拵(こしら)えてくれますよ。こんだ要(い)る時にゃ、私が頼んで上げましょう」
健三の紙入は何時も充実していなかった。全く空虚(から)の時もあった。そういう場合には、仕方がないので何時まで経っても立ち上がらなかった。島田も何かに事寄せて尻(しり)を長くした。
「小遣を遣(や)らないうちは帰らない。厭(いや)な奴だ」
健三は腹の内で憤った。しかしいくら迷惑を感じても細君の方から特別に金を取って老人に渡す事はしなかった。細君もその位な事ならといった風をして別に苦情を鳴らさなかった。
そうこうしているうちに、島田の態度が段々積極的になって来た。二十、三十と纏(まとま)った金を、平気に向うから請求し始めた。
「どうか一つ。私もこの年になって倚(か)かる子はなし、依怙(たより)にするのは貴方(あなた)一人なんだから」
彼は自分の言葉遣いの横着さ加減にさえ気が付いていなかった。それでも健三がむっとして黙っていると、凹(くぼ)んだ鈍い眼を狡猾(こうかつ)らしく動かして、じろじろ彼の様子を眺める事を忘れなかった。
「これだけの生活(くらし)をしていて、十や二十の金の出来ないはずはない」
彼はこんな事まで口へ出していった。
彼が帰ると、健三は厭な顔をして細君に向った。
「ありゃ成し崩しに己(おれ)を侵蝕(しんしょく)する気なんだね。始め一度に攻め落そうとして断られたもんだから、今度は遠巻にしてじりじり寄って来(き)ようってんだ。実に厭な奴だ」
健三は腹が立ちさえすれば、よく実にとか一番とか大とかいう最大級を使って欝憤(うっぷん)の一端を洩(も)らしたがる男であった。こんな点になると細君の方はしぶとい代りに大分(だいぶ)落付(おちつ)いていた。
「貴夫(あなた)が引っ掛るから悪いのよ。だから始めから用心して寄せ付けないようになされば好いのに」
健三はその位の事なら最初から心得ているといわぬばかりの様子を、むっとした頬(ほお)と唇とに見せた。
「絶交しようと思えば何時だって出来るさ」
「しかし今まで付合っただけが損になるじゃありませんか」
「そりゃ何の関係もない御前から見ればそうさ。しかし己は御前とは違うんだ」
細君には健三の意味が能(よ)く通じなかった。
「どうせ貴夫の眼から見たら、妾(わたくし)なんぞは馬鹿でしょうよ」
健三は彼女の誤解を正してやるのさえ面倒になった。
二人の間に感情の行違(ゆきちがい)でもある時は、これだけの会話すら交換されなかった。彼は島田の後影(うしろかげ)を見送ったまま黙ってすぐ書斎へ入った。そこで書物も読まず筆も執らずただ凝(じっ)と坐(すわ)っていた。細君の方でも、家庭と切り離されたようなこの孤独な人に何時(いつ)までも構う気色(けしき)を見せなかった。夫が自分の勝手で座敷牢(ざしきろう)へ入っているのだから仕方がない位に考えて、まるで取り合ずにいた。
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夏目漱石 道草
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