六
近頃の健三は頭を余計遣(つか)い過ぎるせいか、どうも胃の具合が好くなかった。時々思い出したように運動して見ると、胸も腹もかえって重くなるだけであった。彼は要心して三度の食事以外にはなるべく物を口へ入れないように心掛ていた。それでも姉の悪強(わるじい)には敵(かな)わなかった。
「海苔巻(のりまき)なら身体(からだ)に障(さわ)りゃしないよ。折角姉さんが健ちゃんに御馳走(ごちそう)しようと思って取ったんだから、是非食べて御くれな。厭(いや)かい」
健三は仕方なしに旨(うま)くもない海苔巻を頬張(ほおば)って、好(い)い加減烟草(タバコ)で荒らされた口のうちをもぐもぐさせた。
姉が余り饒舌(しゃべ)るので、彼は何時までも自分のいいたい事がいえなかった。訊(き)きたい問題を持っていながら、こう受身な会話ばかりしているのが、彼には段々むず痒(がゆ)くなって来た。しかし姉にはそれが一向通じないらしかった。
他(ひと)に物を食わせる事の好きなのと同時に、物を遣(や)る事の好きな彼女は、健三がこの前賞(ほ)めた古ぼけた達磨(だるま)の掛物を彼に遣ろうかといい出した。
「あんなものあ、宅(うち)にあったって仕方がないんだから、持って御出でよ。なに比田(ひだ)だって要(い)りゃしないやね、汚ない達磨なんか」
健三は貰(もら)うとも貰わないともいわずにただ苦笑していた。すると姉は何か秘密話でもするように急に調子を低くした。
「実は健ちゃん、御前さんが帰って来たら、話そう話そうと思って、つい今日(きょう)まで黙ってたんだがね。健ちゃんも帰りたてでさぞ忙がしかろうし、それに姉さんが出掛けて行くにしたところで、御住(おすみ)さんがいちゃ、少し話し悪(にく)い事だしね。そうかって、手紙を書こうにも御存じの無筆だろう……」
姉の前置(まえおき)は長たらしくもあり、また滑稽(こっけい)でもあった。小さい時分いくら手習をさせても記憶(おぼえ)が悪くって、どんなに平易(やさ)しい字も、とうとう頭へ這入(はい)らずじまいに、五十の今日(こんにち)まで生きて来た女だと思うと、健三にはわが姉ながら気の毒でもありまたうら恥ずかしくもあった。
「それで姉さんの話ってえな、一体どんな話なんです。実は私(わたし)も今日は少し姉さんに話があって来たんだが」
「そうかいそれじゃ御前さんの方のから先へ聴くのが順だったね。何故(なぜ)早く話さなかったの」
「だって話せないんだもの」
「そんなに遠慮しないでもいいやね。姉弟(きょうだい)の間じゃないか、御前さん」
姉は自分の多弁が相手の口を塞(ふさ)いでいるのだという明白な事実には毫(ごう)も気が付いていなかった。
「まあ姉さんの方から先へ片付けましょう。何ですか、あなたの話っていうのは」
「実は健ちゃんにはまことに気の毒で、いい悪いんだけれども、あたしも段々年を取って身体は弱くなるし、それに良人(うち)があの通りの男で、自分一人さえ好けりゃ女房なんかどうなったって、己(おれ)の知った事じゃないって顔をしているんだから。――尤(もっと)も月々の取高(とりだか)が少ない上に、交際(つきあい)もあるんだから、仕方がないといえばそれまでだけれどもね……」
姉のいう事は女だけに随分曲りくねっていた。なかなか容易な事で目的地へ達しそうになかったけれども、その主意は健三によく解った。つまり月々遣る小遣(こづかい)をもう少し増(ま)してくれというのだろうと思った。今でさえそれをよく夫から借りられてしまうという話を耳にしている彼には、この請求が憐(あわ)れでもあり、また腹立たしくもあった。
「どうか姉さんを助けると思ってね。姉さんだってこの身体じゃどうせ長い事もあるまいから」
これが姉の口から出た最後の言葉であった。健三はそれでも厭(いや)だとはいいかねた。
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夏目漱石 道草
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