七十
元気のない顔をして宅(うち)へ帰って来た彼の様子がすぐ細君の注意を惹(ひ)いた。
「御病人はどうなの」
あるゆる人間が何時か一度は到着しなければならない最後の運命を、彼女は健三の口から判然(はっきり)聞こうとするように見えた。健三は答を与える先に、まず一種の矛盾を意識した。
「何もう好(い)いんだ。寐(ね)てはいるが危篤(きとく)でも何でもないんだ。まあ兄貴に騙(だま)されたようなものだね」
馬鹿らしいという気が幾分か彼の口振(くちぶり)に出た。
「騙されてもその方がいくら好いか知れやしませんわ、貴夫(あなた)。もしもの事でもあって御覧なさい、それこそ……」
「兄貴が悪いんじゃない。兄貴は姉に騙されたんだから。その姉はまた病気に騙されたんだ。つまり皆な騙されているようなものさ、世の中は。一番利口なのは比田かも知れないよ。いくら女房が煩らったって、決して騙されないんだからね」
「やっぱり宅にいないの」
「いるもんか。尤(もっと)も非道(ひど)く悪かった時はどうだか知らないが」
健三は比田の振下(ぶらさ)げている金時計と金鎖の事を思い出した。兄はそれを天麩羅(てんぷら)だろうといって陰で評していたが、当人はどこまでも本物らしく見せびらかしたがった。金着(きんき)せにせよ、本物にせよ、彼がどこでいくらで買ったのか知るものは誰もなかった。こういう点に掛けては無頓着(むとんじゃく)でいられない性分の姉も、ただ好い加減にその出処を推察するに過ぎなかった。
「月賦で買ったに違ないよ」
「ことによると質の流れかも知れない」
姉は聴かれもしないのに、兄に向って色々な説明をした。健三には殆(ほとん)ど問題にならない事が、彼らの間に想像の種を幾個(いくつ)でも卸した。そうされればされるほどまた比田は得意らしく見えた。健三が毎月送る小遣さえ時々借りられてしまうくせに、姉はついに夫の手元に入る、または現在手元にある、金高(きんだか)を決して知る事が出来なかった。
「近頃は何でも債券を二、三枚持っているようだよ」
姉の言葉はまるで隣の宅の財産でもいい中(あ)てるように夫から遠ざかっていた。
姉をこういう地位に立たせて平気でいる比田は、健三から見ると領解しがたい人間に違なかった。それがやむをえない夫婦関係のように心得て辛抱している姉自身も健三には分らなかった。しかし金銭上あくまで秘密主義を守りながら、時々姉の予期に釣り合わないようなものを買い込んだり着込んだりして、妄(みだ)りに彼女を驚ろかせたがる料簡(りょうけん)に至っては想像さえ及ばなかった。妻に対する虚栄心の発現、焦(じ)らされながらも夫を腕利(うできき)と思う妻の満足。――この二つのものだけでは到底充分な説明にならなかった。
「金の要(い)る時も他人、病気の時も他人、それじゃただ一所(いっしょ)にいるだけじゃないか」
健三の謎(なぞ)は容易に解けなかった。考える事の嫌(きらい)な細君はまた何という評も加えなかった。
「しかし己(おれ)たち夫婦も世間から見れば随分変ってるんだから、そう他(ひと)の事ばかりとやかくいっちゃいられないかも知れない」
「やっぱり同なじ事ですわ。みんな自分だけは好いと思ってるんだから」
健三はすぐ癪(しゃく)に障った。
「御前でも自分じゃ好いつもりでいるのかい」
「いますとも。貴夫(あなた)が好いと思っていらっしゃる通りに」
彼らの争いは能(よ)くこういう所から起った。そうして折角穏やかに静まっている双方の心を攪(か)き乱した。健三はそれを慎みの足りない細君の責(せめ)に帰した。細君はまた偏窟で強情な夫のせいだとばかり解釈した。
「字が書けなくっても、裁縫(しごと)が出来なくっても、やっぱり姉のような亭主孝行な女の方が己は好きだ」
「今時そんな女がどこの国にいるもんですか」
細君の言葉の奥には、男ほど手前勝手なものはないという大きな反感が横(よこた)わっていた。
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夏目漱石 道草
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