はたち妻
露にさめて瞳(ひとみ)もたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹
やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな
何となきただ一ひらの雲に見ぬみちびきさとし聖歌(せいか)のにほひ
神に[#「神に」は初出では「袖に」]そむきふたたびここに君と見ぬ別れの別れさいへ乱れじ
淵の水になげし聖書を又もひろひ空(そら)仰ぎ泣くわれまどひの子
聖書だく子人の御親(みおや)の墓に伏して弥勒(みろく)の名をば夕に喚びぬ
神ここに力をわびぬとき紅(べに)のにほひ興(きよう)がるめしひの少女(をとめ)
痩せにたれかひなもる血ぞ猶わかき罪を泣く子と神よ見ますな
おもはずや夢ねがはずや若人(わかうど)よもゆるくちびる君に映(うつ)らずや
君さらば巫山(ふざ)の春のひと夜妻(よづま)またの世までは忘れゐたまへ
あまきにがき味うたがひぬ我を見てわかきひじりの流しにし涙
歌に名は相(あひ)問(と)はざりきさいへ一夜(ひとよ)ゑにしのほかの一夜とおぼすな
水の香をきぬにおほひぬわかき神草には見えぬ風のゆるぎよ
ゆく水のざれ言きかす神の笑まひ御歯(みは)あざやかに花の夜あけぬ
百合にやる天(あめ)の小蝶のみづいろの翅(はね)にしつけの糸をとる神
ひとつ血の胸くれなゐの春のいのちひれふすかをり神もとめよる
わがいだくおもかげ君はそこに見む春のゆふべの黄雲(きぐも)のちぎれ
むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子
うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ
今日(けふ)を知らず智慧の小石は問はでありき星のおきてと別れにし朝
春にがき貝多羅葉(ばいたらえふ)の名をききて堂の夕日に友の世泣きぬ
ふた月を歌にただある三本(ぼん)樹(ぎ)加茂川千鳥恋はなき子ぞ
わかき子が乳(ちゝ)の香まじる春雨に上羽(うはば)を染めむ白き鳩われ
夕ぐれを花にかくるる小狐のにこ毛にひびく北嵯峨の鐘
見しはそれ緑の夢のほそき夢ゆるせ旅人かたり草なき
胸と胸とおもひことなる松のかぜ友の頬を吹きぬ我頬を吹きぬ
野茨(のばら)をりて髪にもかざし手にもとり永き日野辺に君まちわびぬ
春を説くなその朝かぜにほころびし袂だく子に君こころなき
春をおなじ急瀬(はやせ)さばしる若鮎の釣緒(つりを)の細緒[#「細緒」は初出では「細う」]くれなゐならぬ
みなぞこにけぶる黒髪ぬしや誰れ緋鯉のせなに梅の花ちる
秋を人のよりし柱にとがめあり[#「とがめあり」は初出では「とがぬあり」]梅にことかるきぬぎぬの歌
京の山のこぞめしら梅人ふたりおなじ夢みし春と知りたまへ
なつかしの湯の香梅が香山の宿の板戸によりて人まちし闇
詞にも歌にもなさじわがおもひその日そのとき胸より胸に
歌にねて昨夜(よべ)梶の葉の作者見ぬうつくしかりき黒髪の色
下京(しもぎやう)や紅屋(べにや)が門(かど)をくぐりたる男かはゆし[#「男かはゆし」は初出では「男かわゆし」]春の夜の月
枝折戸あり紅梅さけり水ゆけり立つ子われより笑みうつくしき
しら梅は袖に湯の香は下のきぬにかりそめながら君さらばさらば
二十(はた)とせの我世の幸(さち)はうすかりきせめて今見る夢やすかれな
二十(はた)とせのうすきいのちのひびきありと浪華の夏の歌に泣きし君
かづくきぬに[#「かづくきぬに」は初出では「かつぐきぬに」]その間(ま)の床(とこ)の梅ぞにくき昔がたりを夢に寄する君
それ終に夢にはあらぬそら語り中(なか)のともしびいつ君きえし
君ゆくとその夕ぐれに二人して柱にそめし白萩の歌
なさけあせし文みて病みておとろへてかくても人を猶恋ひわたる
夜の神のあともとめよるしら綾の鬢の香朝の春雨の宿
その子ここに夕片笑(ゆふかたゑ)みの二十(はたち)びと虹のはしらを説くに隠れぬ
このあした君があげたるみどり子のやがて得む恋うつくしかれな
恋の神にむくいまつりし今日の歌ゑにしの神はいつ受けまさむ
かくてなほあくがれますか真善美わが手の花はくれなゐよ君
くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる
そよ理想(りさう)おもひにうすき身なればか朝の露草(つゆくさ)人ねたかりし
とどめあへぬそぞろ心は人しらむくづれし牡丹さぎぬに紅き
『あらざりき』そは後(のち)の人のつぶやきし我には永久(とは)[#ルビの「とは」は初出では「とせ」]のうつくしの夢
行く春の一絃(ひとを)一柱(ひとぢ)におもひありさいへ火(ほ)かげのわが髪ながき
のらす神あふぎ見するに瞼(まぶた)おもきわが世の闇の夢の小夜中(さよなか)
そのわかき羊は誰に似たるぞの瞳(ひとみ)の御色(みいろ)野は夕なりし
あえかなる白きうすものまなじりの火かげの栄(はえ)の詛(のろ)はしき[#「詛(のろ)はしき」は初出では「咀(のろ)はしき」]君
紅梅にそぞろゆきたる京の山叔母の尼すむ寺は訪はざりし
くさぐさの色ある花によそはれし棺(ひつぎ)のなかの友うつくしき
五つとせは夢にあらずよみそなはせ春に色なき草ながき里
すげ笠にあるべき歌と強ひゆきぬ若葉よ薫(かを)れ生駒(いこま)葛城(かつらぎ)
裾たるる紫ひくき根なし雲牡丹が夢の真昼(まひる)しづけき
紫のわが世の恋のあさぼらけ諸手(もろで)のかをり追風(おひかぜ)ながき
このおもひ真昼の夢と誰か云ふ酒のかをりのなつかしき春
みどりなるは学びの宮とさす神にいらへまつらで摘む夕すみれ
そら鳴りの夜ごとのくせぞ狂(くる)ほしき汝(なれ)よ小琴(をごと)よ片袖かさむ(琴に)
ぬしえらばず胸にふれむの行く春の小琴とおぼせ眉やはき君(琴のいらへて)
去年(こぞ)ゆきし姉の名よびて夕ぐれの戸に立つ人をあはれと思ひぬ
十九(つづ)のわれすでに菫を白く見し水はやつれぬはかなかるべき
ひと年をこの子のすがた絹に成らず画の筆すてて詩にかへし君
白きちりぬ紅きくづれぬ床(ゆか)の牡丹五山(ざん)の僧の口おそろしき
今日の身に我をさそひし中(なか)の姉小町(こまち)のはてを祈れと去(い)にぬ
秋もろし春みじかしをまどひなく説く子ありなば我れ道きかむ
さそひ入れてさらばと我手はらひます御衣(みけし)のにほひ闇(やみ)やはらかき
病みてこもる山の御堂に春くれぬ今日(けふ)文ながき絵筆とる君
河ぞひの門(かど)小雨ふる柳はら二人(ふたり)の一人(ひとり)めす馬しろき
歌は斯くよ血ぞゆらぎしと語る友に笑まひを見せしさびしき思
とおもへばぞ垣をこえたる山ひつじとおもへばぞの花よわりなの
庭下駄に水をあやぶむ花あやめ鋏(はさみ)にたらぬ力をわびぬ
柳ぬれし今朝(けさ)門(かど)すぐる文づかひ青貝(あをがひ)ずりのその箱ほそき
『いまさらにそは春せまき御胸なり』われ眼をとぢて御手にすがりぬ
その友はもだえのはてに歌を見ぬわれを召す神きぬ薄黒き
そのなさけかけますな君罪の子が狂ひのはてを見むと云ひたまへ
いさめますか道ときますかさとしますか宿世のよそに血を召しませな
もろかりしはかなかりしと春のうた焚くにこの子の血ぞあまり若き
夏やせの我やねたみの二十妻(はたちづま)里居(さとゐ)の夏に京を説く君
こもり居に集(しふ)[#ルビの「しふ」は初出では「しう」]の歌ぬくねたみ妻五月(さつき)のやどの二人(ふたり)うつくしき
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