春思
いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春
春みじかし何に不滅(ふめつ)の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ
夜(よ)の室(むろ)に絵の具かぎよる懸想(けさう)の子太古の神に春似たらずや
そのはてにのこるは何と問ふな説くな友よ歌あれ終(つひ)の十字架
わかき子が胸の小琴の音(ね)を知るや旅ねの君よたまくらかさむ
松かげにまたも相見る君とわれゑにしの神をにくしとおぼすな
きのふをば千とせの前の世とも思ひ御手なほ肩に有りとも思ふ
歌は君酔ひのすさびと墨ひかばさても消ゆべしさても消ぬべし
神よとはにわかきまどひのあやまちとこの子の悔ゆる歌ききますな
湯あがりを御風(みかぜ)めすなのわが上衣(うはぎ)ゑんじむらさき人うつくしき
さればとておもにうすぎぬかづきなれず[#「かづきなれず」は初出では「かつぎなれず」]春ゆるしませ中(なか)の小屏風
しら綾に鬢の香しみし夜着(よぎ)の襟そむるに歌のなきにしもあらず
夕ぐれの霧のまがひもさとしなりき消えしともしび神うつくしき
もゆる口になにを含まむぬれといひし人のをゆびの血は涸れはてぬ
人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ
ここに三とせ人の名を見ずその詩よまず[#「よまず」は初出では「よます」]過すはよわきよわき心なり
梅の渓の靄(もや)くれなゐの朝すがた山うつくしき我れうつくしき
ぬしや誰れねぶの木かげの釣床(つりどこ)の網(あみ)のめもるる水色のきぬ
歌に声のうつくしかりし旅人の行手の村の桃しろかれな
朝の雨につばさしめりし鶯を打たむの袖のさだすぎし君
御手づからの水にうがひしそれよ朝かりし紅筆(べにふで)歌かきてやまむ
春寒(はるさむ)のふた日を京の山ごもり梅にふさはぬわが髪の乱れ
歌筆を紅(べに)にかりたる尖(さき)凍(い)てぬ西のみやこの春さむき朝
春の宵をちひさく撞きて鐘を下りぬ二十七段(だん)堂のきざはし
手をひたし水は昔にかはらずとさけぶ子の恋われあやぶみぬ
病むわれにその子五つのをととなり[#「をととなり」は初出では「をとこなり」]つたなの笛をあはれと聞く夜
とおもひてぬひし春着の袖うらにうらみの歌は書かさせますな
かくて果つる我世さびしと泣くは誰ぞしろ桔梗さく伽藍(がらん)のうらに
人とわれおなじ十九のおもかげをうつせし水よ石津川の流れ
卯の花を[#「卯の花を」は初出では「卯の衣を」]小傘(をがさ)にそへて褄とりて五月雨わぶる村はづれかな
大御油(おほみあぶら)ひひなの殿(との)にまゐらするわが前髪に桃の花ちる
夏花に多くの恋をゆるせしを神悔い泣くか枯野ふく風
道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る
魔に向ふつるぎの束(つか)をにぎるには細き五つの御指(みゆび)と吸ひぬ
消えむものか歌よむ人の夢とそはそは夢ならむさて消えむものか
恋と云はじそのまぼろしのあまき夢詩人(しじん)もありき画だくみもありき
君さけぶ道のひかりの遠(をち)を見ずやおなじ紅(あけ)なる靄(もや)たちのぼる
かたちの子春の子血の子ほのほの子いまを自在の翅(はね)なからずや
ふとそれより花に色なき春となりぬ疑ひの神まどはしの神
うしや我れさむるさだめの夢を永久(とは)にさめなと祈る人の子におちぬ
わかき子が髪のしづくの草に凝りて蝶とうまれしここ春の国
結願(けちぐわん)のゆふべの雨に花ぞ黒き五尺こちたき髪かるうなりぬ
罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ
そとぬけてその靄(もや)おちて人を見ず夕の鐘のかたへさびしき
春の小川うれしの夢に人遠き朝を絵の具の紅き流さむ
もろき虹の七いろ恋ふるちさき者よめでたからずや魔神(まがみ)の翼(つばさ)
酔に泣くをとめに見ませ春の神男の舌のなにかするどき
その酒の濃きあぢはひを[#「あぢはひを」は初出では「あちはひを」]歌ふべき身なり君なり春のおもひ子
花にそむきダビデの歌を誦せむにはあまりに若き我身とぞ思ふ
みかへりのそれはた更につらかりき闇におぼめく山吹垣根
ゆく水に柳に春ぞなつかしき[#「なつかしき」は初出では「なつかしぎ」]思はれ人に外ならぬ我れ
その夜かの夜よわきためいきせまりし夜琴にかぞふる三とせは長き
きけな神恋はすみれの紫にゆふべの春の讃嘆(さんたん)のこゑ
病みませるうなじに繊(ほそ)きかひな捲きて熱にかわける御口(みくち)を吸はむ
天の川そひねの床のとばりごしに星のわかれをすかし見るかな
染めてよと君がみもとへおくりやりし扇かへらず風秋(あき)となりぬ
たまはりしうす紫の名なし草うすきゆかりを歎きつつ死なむ
うき身朝をはなれがたなの細柱(ほそばしら)たまはる梅の歌ことたらぬ
さおぼさずや宵の火かげの長き歌かたみに詞あまり多かりき
その歌を誦(ず)します声にさめし朝なでよの櫛の人はづかしき
明日(あす)を思ひ明日の今おもひ宿の戸に倚る子やよわき梅暮れそめぬ
金色(こんじき)の翅(はね)あるわらは躑躅(つつじ)くはへ小舟(をぶね)こぎくるうつくしき川
月こよひいたみの眉はてらさざるに琵琶だく人の年とひますな
恋をわれもろしと知りぬ別れかねおさへし袂風の吹きし時
星の世のむくのしらぎぬかばかりに染めしは誰のとがとおぼすぞ
わかき子のこがれよりしは鑿の[#「鑿の」は初出では「斧の」]にほひ美妙(みめう)の御相(みさう)けふ身にしみぬ
清し高しさはいへさびし白銀(しろがね)のしろきほのほと人の集(しふ)[#ルビの「しふ」は初出では「しう」]見し(酔茗の君の詩集に)
雁(かり)よそよわがさびしきは南なりのこりの恋のよしなき朝夕(あさゆふ)
来し秋の何に似たるのわが命せましちひさし萩よ紫苑よ
柳あをき堤にいつか立つや我れ水はさばかり流とからず
幸(さち)おはせ羽やはらかき鳩とらへ罪ただしたる高き君たち
打ちますにしろがねの鞭うつくしき愚かよ泣くか名にうとき羊(ひつじ)
誰に似むのおもひ問はれし春ひねもすやは肌もゆる血のけに泣きぬ
庫裏(くり)の藤に春ゆく宵のものぐるひ御経(みきやう)のいのちうつつをかしき
春の虹ねりのくけ紐たぐります羞(はぢろ)ひ神(がみ)の暁(あけ)のかをりよ
室(むろ)の神に御肩(みかた)かけつつひれふしぬゑんじなればの宵の一襲(ひとかさね)
天(あめ)の才(さい)ここににほひの美しき春をゆふべに集(しふ)[#ルビの「しふ」は初出では「しう」]ゆるさずや
消えて凝(こ)りて石と成らむの白桔梗(しろぎきやう)秋の野生(のおひ)の趣味(しゆみ)さて問ふな
歌の手に葡萄をぬすむ子の髪のやはらかいかな虹のあさあけ
そと秘めし春のゆふべのちさき夢はぐれさせつる十三絃よ
底本:「みだれ髪」新潮文庫、新潮社
2000(平成12)年1月1日発行
底本の親本:「みだれ髪」名著複刻全集 近代文学館、日本近代文学館
1968(昭和43)年12月発行
初出:「みだれ髪」東京新詩社・伊藤文友館
1901(明治34)年8月15日発行
※このファイルには、青空文庫からリンクされている以下のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。
「みだれ髪(明治34年)」(入力:岡島昭浩、大阪大学のサイト(http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/bungaku.htm)で公開)
※初出の復刻版をもとにした底本は、本文では誤植もそのままなぞり、別に、監修者、松平盟子による訂正表を掲載しています。このファイルでは、同表において誤りとされた箇所をあらため、「[#「…」は初出では「…」]」の形式で注記しました。
※底本編集時に、*を添えて新たに付されたルビは、入力しませんでした。
※解説の便宜のために、底本編集時に加えられた通し番号は、入力しませんでした。
入力:田中哲郎
校正:富田倫生
2012年2月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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