ゲーテ詩集 生田春月訳





愛の悩み


誰がわたしを聞いてくれる?ああ、誰に訴へたらよからう?
その聞く人はわたしをあはれと思つてくれるだらうか?
ああ、昔あんなにたくさんの喜びを
味ひもし、人に与へもした脣は
裂けて破れていたましくうづいてゐる
愛する人がわたしをあまり烈しく引ツつかまへて
この友逹を放しちやならぬといふ気でもつて
ぢつと噛みしめて味つたので
この脣は傷いたのではなからうか
いや、いま霜や氷をかすめて鋭い風が
はげしく無慈悲に吹きつけて来たばつかりに
やはらかなこの脣は裂けたのだ

かぐはしい葡萄の液(しる)と甘い蜜蜂とが
この胸の火で溶かしてまぜられて
わたしの悩みを癒やしてくれればよいが
ああ、それとても何にならう、もしあの人がその中に
あのバルザムの一滴(ひとしづく)をまぜてくれぬなら!





無頓着な女に


あの橙(オレンヂ)を見ましたか?
あのまだ樹に埀れてゐる橙を
はや三月は過ぎてしまひ
あたらしい花が咲き出した
その樹の下に近づいて
わたしが言ふには、橙(オレンヂ)
よく熟れた橙(オレンヂ)
甘い橙(オレンヂ)
わたしはゆすぶりゆすぶつてみる –
おお、わたしの膝に落ちて来い!





懇願


おお、かはいらしい娘さん
黒い髪した娘さん
どうして窓からのぞいてゐるのです?
どうして露台(バルコン)に立つてゐるのです?
何といふこともなく立つておいでになるのですか?
おお、あなたがわたしのために立つてゐられるので
わたしのために掛金をはづしてくれますなら
どんなにわたしは仕合せでせう!
どんなにわたしは飛んで駈け上るでせう!





朝の嘆き


おお、意地悪な、かはいい娘
どんな罪をわたしが犯したのでせう?
こんなにわたしを責め苛(さいな)んで
約束の言葉まで破つてしまふとは

昨夜(ゆうべ)あんなにおまへは親切に
わたしの手を握つてやさしく囁いたらう
『ええ、まゐりますわ、明日の朝
あなたのお部屋へ、きつとよ』と

そこでわたしは扉(と)を軽く立てかけておいた
まづ蝶番(てふつがひ)をよくしらべて見て
そのきしらないのを喜んだ

何たる期待の夜は過ぎ去つたか!
まんじりともせず時間を数へてをつた
もつともほんの束の間眠りはしたが
心は始終醒めてゐた
さうしてわたしを微睡から呼醒ました

たしかに、わたしは暗を祝福した
静かに万象(すべて)を蔽ひかくす暗を
天地に充つる静寂を喜んで
絶えず静寂の中に聞耳立ててゐた
何かの音が響いて来はしないかと

『わたしの考へることを考へたなら
わたしの感ずることを感じたなら
彼女は朝をも待たないで
はやこの時に来るだらうに』

猫が一匹屋根裏を飛び廻つたり
鼠が片隅でことこといはせたり
何とも知れぬ物音の屋内(やない)でする時は
いつもわたしは望んだ、これがおまへの足音ならと
いつもわたしは思つた、おまへの足音かと
かうして長く、長いこと、臥(ね)てゐると
はや東の空がしらみ出し
あちらこちらでばたばたしだした

『むかふの扉口(とぐち)だらうか?わたしの扉(と)だらうか?』
寝床に肱ついて起き上り
仄かに白んだ扉口をながめやつた
もしや今にも開きはしないかと
だが二つの翼扉はやつぱりたてかけられて
蝶番(てふつがひ)の上に静かにたれてゐるばかり

もう夜はすつかりあけてしまひ
はや隣家(となり)の扉口(とぐち)のがらがら開いて
仕事に出かける音がする
やがて車が走り出し
市街(まち)の門も開かれた
そらから市場(いちば)の喧騒(ひしめき)
耳にうるさくなり出した

家の中でも足音が往つたり来たり
階段を下りたり上つたり
時々扉(と)ががたぴしいひ、踏段がぎしぎしいふ
それにわたしは美しい生活からででもあるやうに
わたしの希望から別れ得ない
たうとう本当に憎い太陽が
わたしの窓と壁とにさしこむと
わたしは跳び起きて庭園(には)へ駈けつける
わたしの渇望に燃えてゐる気息(いき)
涼しい朝風をかき乱さうと
多分庭園(には)でおまへに逢へようと
だがおまへの姿は繁つた木立の間にも
高い菩提樹の並木道にも見出せぬ






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