ゲーテ詩集 生田春月訳





訪問


今日あの人のところへ忍んで行くと
(と)がしまつてゐた
けれど衣嚢(かくし)に鍵がある!
そつとゆかしい扉(と)をあける!

広間には娘の影もない
居間にも娘の影はない
たうとうそつと寝室(ねべや)の扉(と)をあけると
彼女は本当にかあいらしく寝ていた
着物のままで長椅子に

仕事をしながら寝入つたのだ
編物と針とはやすんでゐた
組まれたやさしい手のなかに
わたしは彼女の傍にすわり
起したものかどうかと思案した

そして彼女の瞼(まぶた)の上に漂へる
美しい平和を眺め入つた
脣の上には無言の真実(まこと)があり
頬の上にはかあいらしさがあつた
清い心のあどけなさは
おだやかな胸の鼓動(どうき)に見えてゐた
手足はいかにものびのびと横つてゐた
甘い神の香油にとかされたやうに
嬉しくすわつたまま見てゐると
その起さうとする慾望はだんだんに
目に見えて紐でしつかりくくられてしまつた

『おお、かはしい子、微睡(ねむり)といふものは
とかく嘘いつはりを洩らすものなのに
これさへおまへを傷けないのか、友逹の
静かな心を破る何物をも洩らさぬか?

おまへのかはいい眼は閉ぢられてゐる
その開かれてゐるだけでもうわたしを迷はした眼は
おまへの甘い脣は動かない
話のためにも接吻(きす)のためにも
わたしはおまへの腕の
この魔の紐はとけてゐる
それから楽しい抱擁の助手である
美しき手さきもぢつと動かない
わたしの思ひは間違ひだらうか
わたしの愛は自己欺瞞(ごまかし)だらうか
それを今発見しなけりやならない
愛の神(アモオル)が目かくしもなく傍(わき)へすわつたゆゑ』

長いことわたしはかうしてすわつてゐた
彼女の価値とわたしの愛とを心(しん)から喜んで
彼女の寝姿は本当に気に入つた
とても起す気なんぞ起らぬぐらゐ

そつとわたしは二つの橙(オレンヂ)
二つの薔薇とを卓(つくゑ)の上におき
そつと、そつと忍んで外へ出た
彼女が眼をあけたなら、このかはいいものは
すぐこのきれいな贈物に目をつけて
ちやんと扉(と)を閉め切つて置いたのに
こんな親切な贈物が来てゐるのに驚くだらう

今夜わたしがまた訪ねて行つたらこの天使は
おお、どんなにか喜んで二倍に酬いてくれるだらう
このわたしのやさしい愛の供物(さゝげもの)に!





夜の思ひ


おまへ逹は気の毒なものだね、不幸な星よ
美しくつて、気高く輝いてゐて
神々(かみ)にも人間(ひと)にも報いられなくとも
苦んでゐる舟人(ふなのり)に行手を照らしてやるものよ –
おまへ逹は恋をしない、一度も恋を知らなかつた!
無窮の時は遥かな天の果てから果てへ
やすむことなくおまへ逹の群れを導いて行く
どんな遠い旅路をおまへ逹は辿つて来たのだ!
わたしがいとしい人の腕にいだかれて
おまへ逹をも夜中をも忘れてゐた間(ひま)





リダに


リダよ、おまへの愛するひとりの人を
おまへはすつかり自分のものにしたいと言ふ
それも無理はない、彼もすつかりおまへのものだ
さうだ、おまへと別れて来てからは
この慌しい人生の喧騒(にぎはひ)
それをとほしておまへの姿が絶えず
雲間のやうに透けて見える
薄い紗のやうにしか思へない
その姿はわたしを真実(まごころ)こめて照らしてゐる
北極光のちらちらする光線のなかに
不滅の星の輝くやうに





永遠に


この世の牢獄(ひとや)にあつて人間が
天国の名をもつて呼ぶ最高の幸福は
ゆるぐことのない真実な愛情だ
疑惑(うたがひ)といふものを知らない友情だ
賢人に孤独な思索の中でのみ燃える光明だ
詩人に美しい空想の中でのみ燃える光明だ
それをわたしはわたしの一番楽しい時間(とき)
彼女のうちに見出した、そしてわたしのものにした





この本を、全文縦書きブラウザで読むにはこちらをクリックしてください。
【明かりの本】のトップページはこちら

 
 
 
以下の「読んだボタン」を押してツイッターやFacebookを本棚がわりに使えます。
ボタンを押すと、友人にこの本をシェアできます。
↓↓↓ 

Facebook Twitter Email
facebooktwittergoogle_plusredditpinterestlinkedinmailby feather

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">