フランツ・カフカ 城 (11〜15章)


 今は薄暗くなった部屋のなかで、Kはフリーダを見るため、平行棒のところへいった。Kの視線の下で彼女は立ち上がり、髪を整え、顔をふくと、黙ったままコーヒーをわかし始めた。彼女はいっさいのことを知ってはいたが、Kははっきりと、助手たちを追い出してしまったことを彼女に知らせた。彼女はうなずくだけだった。Kは生徒用の長椅子の一つに腰かけて、彼女のものうげな動作を見守っていた。彼女のつまらぬ肉体を美しくしていたものは、いつでもあの新鮮さときっぱりした態度とであった。ところが今は、この美しさも消えてしまっていた。Kといっしょの生活をしたわずか何日かが、そんなふうな変化を起こすのに十分だったのだ。酒場での仕事はたやすくはなかったが、おそらくそのほうがぴったりしていたのだろう。それとも、クラムと離れたことが、彼女のやつれのほんとうの原因なのだろうか。クラムの近くにいることが彼女をあのようにばかげたほど魅力的にし、この魅力のなかで彼女はKを自分にひきつけたのだが、彼の腕のなかでしおれてしまったのだ。
「フリーダ」と、Kはいった。彼女はすぐコーヒーひきを手放して、Kのいる長椅子のところへやってきた。
「わたしのことを怒っているの?」と、彼女はたずねた。
「いや」と、Kはいった。「君はほかにしようがないのだと思うよ。君は紳士荘で満足して暮らしていた。私は君をあそこにあのままにしておくべきだったのだ」
「ええ」と、フリーダはいって、悲しげにぼんやりと前を見ている。「あなたはあたしをあそこにあのままにしておくべきだったんだわ。わたしには、あなたと暮らす資格はないのよ。わたしから解放されれば、あなたはおそらく望むことをなんでもできるのよ。わたしのことを考えて、あなたはあの横暴な教師に屈伏し、こんなみじめな地位を引き受け、苦労してクラムと一度話をしようと望んでいるんだわ。みんなわたしのためなのに、わたしのほうはそれに何もむくいることができないのよ」
「いや」と、Kはいって、慰めるように片腕を彼女の身体のまわりに廻した。「そんなことはみんなつまらぬことで、私はちっとも悲しんでなんかいないさ。それに、クラムのところへいきたいのは、何も君のためばかりではないんだ。そして、君は私のためになんでもやってくれたね! 君を知る前には、私はこの土地でまったく途方にくれていたんだ。だれも私を迎え入れてはくれないし、私のほうから無理に押しかけていくと、そちらではたちまち私にさよならをいうという始末だった。そして、だれかのところで安息を見出せるとするなら、それは私のほうでまた逃げ出してしまうような人びとだった。たとえばバルナバスの一家の――」
「あなたはあの人たちのところから逃げ出したの? ええ? あなた!」と、フリーダは力をこめてKの言葉を中断するように叫んだが、Kがためらいながら「そうだ」というと、また彼女のものうげな姿勢へと沈んでいった。だが、Kとしてももはや、フリーダとのつながりが彼のために万事を好転させた、ということを説明してやるだけのきっぱりした態度はもち合わせていなかった。彼はゆっくりと腕を彼女から離し、二人はしばらくのあいだ無言のまま坐っていた。やがてフリーダは、Kの腕が彼女に暖かみを与えてくれ、それは今ではもう自分には欠かせぬものであるとでもいうかのように、こういった。
「わたし、ここのこんな生活に我慢できないわ。もしあなたがわたしをつかまえておこうと思うなら、わたしたちはどこかへ移住しなければならないわ、南フランスか、スペインへでも」
「移住はできないよ」と、Kはいった。「私がここにきたのは、ここにとどまるためなんだ。私はここにとどまるよ」そして、矛盾をさらけ出しながら(彼はその矛盾を少しも説明しようとはしなかった)、ひとりごとのようにつけ加えていった。「ここにとどまりたいという要求のほかに、何が私をこのさびしい土地に誘うことができただろう?」つぎにまた、こういった。「でも、君だってここにとどまっていたいんだろうね、ここは君の故郷の土地なんだもの。ただクラムが君にいなくなったものだから、それが君を絶望的な考えに引き入れるんだよ」
「クラムがわたしにいなくなった、ですって?」と、フリーダはいった。「クラムなんかここにはあり余るほどいるのよ。クラムがいすぎるくらいよ。あの人から逃がれるために、わたしはここを去りたいのよ。クラムではなくて、あなたがわたしにとってはいないのよ。あなたのためにわたしはここを去りたいの。ここではみんながわたしを無理に引っ張って、そのためあなたをあきるほど愛することができないからなのよ。わたしが静かにあなたのところで暮らせるように、きれいな仮面がわたしからはぎ取られ、わたしの身体がみじめになればいい、と思うくらいなのよ」
 Kはこの言葉からただ一つのことだけしか聞き取らなかった。
「クラムは今でもまだ君と連絡があるのかい?」と、彼はすぐたずねてみた。「君を呼ぶの?」
「クラムのことは何も知らないわ」と、フリーダはいった。「わたしは今、別な人たちのことをいっているのよ。たとえばあの助手たちよ」
「ああ、あの助手たち!」と、Kは驚いていった。「あいつらが君を追いかけているのかい?」
「いったい、そのことに気づかなかったの?」と、フリーダのほうでたずねた。
「気づかなかった」と、Kはいって、こまかいことをいろいろと思い浮かべようとしたが、だめだった。「たしかに厚かましくて好色なやつらだが、あいつらが君に近づこうなんてしていたとは、気がつかなかったよ」
「ほんと?」と、フリーダはいった。「あの人たちが橋亭のわたしたちの部屋から追い出せなかったこと、わたしたちの関係を嫉妬深く見張っていたこと、一人がゆうべ藁ぶとんの上のわたしの場所に寝たこと、またたった今も、あなたを追い出し、あなたを破滅させ、わたしとだけになろうとして、あなたに不利な発言をしたこと。こんなすべてのことに気づかなかったの?」
 Kは返事をしないで、フリーダを見つめた。助手たちに対するこの告発はたしかに正しくはあったのだが、それらはみな、あの二人のまったく滑稽で、子供じみて、移り気で、自制のきかないたちからいうと、もっとずっと罪がないもののように解釈されるのだった。そして、彼ら二人がどこへでもKといっしょにいこうとして、フリーダのところにとどまろうとはしなかったことが、この告発に対する反証ではなかったろうか? Kはそんなこともいってみた。
「そんなふりをしているのよ」と、フリーダはいう。「それをあなたは見抜かなかったの? それなら、この理由でなかったなら、なぜあなたはあの人たちを追い出してしまったの?」
 そして、彼女は窓のところへいき、カーテンを少しわきにどけて、外をながめ、次にKを自分のところへ呼んだ。まだ助手たちは外の格子塀のところにいて、すでに見る眼にも明らかなほどすっかり疲れていたが、それでもときどき、全力を振りしぼって、両腕を哀願するように学校のほうにさしのばしていた。一人のほうは、いつも塀にしがみついていなくてもいいように、上衣をうしろの格子の棒に突きさしていた。
「かわいそうな人たち! かわいそうな人たち!」と、フリーダがいった。
「なぜ私があいつらを追い払ったって?」と、Kはきいた。「その直接の動機は君だったんだよ」
「わたしですって?」と、フリーダは視線を窓の外から転じないままで、たずねた。
「君の助手に対するあまりになれなれしい扱いかた」とKはいった。「あいつらの不作法を許してやること、あいつらのことを笑うこと、あいつらの髪をなでること、いつでもあいつらに同情すること。『かわいそうな人たち、かわいそうな人たち』って、君はまたいっているね。それに最後はさっきの事件だ。君にとっては、助手たちを鞭でなぐられることから救い出すためには、私なんかどうなったってよかったんだからね」
「それなのよ」と、フリーダはいった。「わたしがさっきからいっていることは。わたしを不幸にし、わたしをあなたから引き離しているのは、それなの。いつも、中断されることなく、終わることもなくあなたのところにいるよりも大きな幸福なんて知らないわ。でもわたしは、この地上にはわたしたちの愛のための落ちついた場所なんかないんだ、村にもほかのどこかにもそんなところはないんだ、って気がするのよ。そのために、私は深く狭い墓のことを想像するの。そこではわたしたちはピンセットで挾まれたようにしっかと抱き合い、わたしはわたしの顔をあなたの身体に埋め、あなたはあなたの顔をわたしの身体に埋めて、だれもわたしたちをもうけっして見ないでしょう。でも、ここでは――助手たちをごらんなさいな! あの人たちが両手を合わせているのは、あなたに向ってではなくて、わたしに向ってなのよ」
「そして、私ではなくて、君があいつらをじっと見ているんだよ」と、Kはいった。
「そうよ、わたしですわ」と、フリーダはほとんど怒ったようにいった。「そのことをさっきからいっているのよ。そうでなければ、助手たちがわたしのあとを追い廻すということがどうして問題なんでしょう。あの人たちがたといクラムから派遣された者たちであってもね――」
「クラムから派遣された者たちね」と、Kはいった。この肩書は彼にはすぐ自然なものに思えたが、それでも驚いてしまった。
「そうよ、クラムから派遣された者たちなのよ」と、フリーダはいう。「あの人たちがそうだとしても、それでもあの人たちは同時に子供じみた若者たちで、あの人たちを教育するためにはやはり鞭がいるのよ。なんていやらしい、きたない若者たちなんでしょう! 大人か、ほとんど大学生かにさえ思えるあの人たちの顔つきと、子供っぽくてばかげたあの人たちのふるまいと、そのあいだのくいちがいはなんていやらしいんでしょう! わたしにそれがわからないとでも、あなたは思っているの? あの人たちのことをわたしは恥かしいと思っているのよ。でも、それはこういうことなんだけれど、あの人たちがわたしに反撥(はんぱつ)を感じさせるのでなくて、わたしがあの人たちを恥かしいと思うんです。いつでもあの人たちのほうを見ないではいられないのよ。人があの人たちに腹を立てるときには、わたしは笑わないでいられないの。人があの人たちをぶとうとするときには、あの人たちの髪をなでてやらないでいられないのよ。そして、夜なかにあなたのそばに寝ていると、眠ることができないの。あなたの身体越しに、一人がしっかと毛布にくるまって眠り、もう一人のほうは開けたストーブの焚(た)き口の前にひざまずいて、火を焚いている、なんていうことを見ないでいられないのよ。わたしは身体を曲げなければならず、ほとんどあなたを起こしてしまうの。それで、ゆうべも猫がわたしを驚かしたのではなくて、――ああ、わたし猫たちのことなんかよく知っているし、酒場での落ちつかない、たえずじゃまされるまどろみのことも知っているわ――猫がわたしを驚かしたんじゃなくて、わたしが自分を驚かしたんです。そして、私がぎくりとするためにはこの猫なんていう怪物は全然必要じゃなくて、どんな小さな物音でもわたしはぎくっとしてしまうの。一つには、あなたが眼をさまして、万事がおしまいになってはいけないと思うんだけれど、次には跳び起きて蝋燭に火をつけ、あなたが早く眼をさまし、わたしを守って下さることができるようにするのよ」
「そんなことは、全然知らなかったよ」と、Kはいった。「ただ、そんなことを予感したものだから、あいつらを追い払ったんだ。でも、今はあいつらはいなくなったから、もうおそらく万事がうまくいったわけだ」
「そうね、とうとうあの人たちいってしまったのね」と、フリーダはいったが、彼女の顔は苦しそうで、ちっともうれしそうでなかった。「ただ、わたしたちはあの二人が何者なのか、知らないわね。クラムの派遣した者、ってわたしが呼んだのは、ただ頭のなかで、冗談にそう呼んだんだけれど、でもおそらくあの二人はほんとうにそうなのね。あの二人の眼、あの単純そうだけれど光っている眼は、わたしになぜかクラムの眼を思い出させるの。そうよ、ほんとうにそうなの。あの人たちの眼からときどきわたしの身体のなかをさっと貫いていくのは、クラムの視線なの。ですから、わたしがあの人たちのことを恥かしく思っているなんていうなら、それは正しくはないんだわ。そんなふうであることを、ほんとは願っているの。ほかのところでほかの人たちの場合なら、同じふるまいが愚かしくて不快だろう、ということはわたしも知ってはいるんだけれど、あの人たちの場合にはそうでないの。尊敬と感嘆との気持でわたしはあの人たちの愚かしいふるまいを見ているんです。でも、あの二人がクラムの派遣した者なら、だれがわたしたちをあの二人から解放してくれるでしょう? そして、もしそうなら、あの人たちから解放されるっていうことは、そもそもいいことなんでしょうか。それならむしろ、早くあの人たちを呼び入れて、あの人たちがきたら幸福だと思わなければならないんじゃないの?」
「君は私があの二人をまたここに入れてやることを望んでいるんだね?」と、Kはたずねた。
「いいえ、そうじゃないの」と、フリーダはいった。「そんなことはちっとも望んでいないわ。あの人たちが今どやどや入ってくる有様、わたしとまた会うあの人たちの悦び、子供たちのように跳んだりはねたりする有様、男の人たちのやる腕をさし出す動作、そんなことはすべて、おそらくわたしには全然我慢ができないでしょう。でも次に、あなたがあの人たちに対してきびしい態度をつづけ、そのために、おそらくクラム自身があなたへ歩みよってくることをあなたがこばんでしまうことを考えると、わたしはあらゆる手段であなたをそんなことの結果から守ってあげようと思うの。そこでわたしは、あなたがあの人たちを入れてあげることを望むのよ。だから、K、早くあの人たちを入れておあげなさいな! わたしのことなんか考えないで! わたしなんかどうだというの! わたし、できるだけ、自分の身を守るわ。でも、身の破滅を招かなければならないときは、わたしはそれを招くことでしょう。でも、そうなるときは、これもまたあなたのためになったことだ、とはっきり意識してやることなのよ」
「君はただ助手たちについての私の判断の点で、私の確信を強めているだけなんだ」と、Kはいった。「けっしてあいつらは私の意志でここへ入ってはこないよ。私がやつらを追い出したということは、事情によってはあいつらを牛耳ることができるということを証明するものだし、さらにまた、やつらが何一つ本質的なことでクラムとは関係がないということを証明しているものだ。ゆうべになってやっと、クラムから一通の手紙をもらったが、その手紙からわかるのは、クラムが助手たちについてまったくまちがった情報を受けているということだ。そのことからもまた、やつらがクラムにとって完全にどうでもいい存在だということが結論されなければならないのだよ。というのは、もしそうでなければ、クラムはきっとあいつらについての正確な報告を手に入れることができたはずだ。ところで、君がやつらのうちにクラムを見るというのは、なんの証明にもならないさ。というのは、残念ながら君はまだおかみの影響を受けていて、どこにでもクラムを見るんだ。まだ君はクラムの恋人で、まだまだ私の妻になっていないんだよ。ときどき、そうしたすべてが私の心を暗くする。そんなとき、まるですべてを失ったように思えるんだ。そんなときには、やっと今、村へやってきたような感じがするんだ。でも、私がやってきたときほんとうにそうであったように希望にあふれながらでなく、私を待ち受けているのはただ失望だけであり、それをつぎつぎに最後の垢(あか)まで味わいつくさねばならないのだ、という意識をもってなのだよ。でも、それもときどきのことだよ」と、フリーダが彼の言葉を聞いてくずおれてしまったのを見たとき、Kは微笑しながらつけ加えていった。「でも君は根本においていいことを証明してくれているんだ。つまり、君が私にとってなんであるか、ということを証明してくれているんだ。もし君が今、君と助手たちとのどちらかを選べ、と私に要求するなら、それでもう助手たちの負けだよ。君と助手たちとのどちらかを選ぶなんて、なんていう考えだ! もう私はあの連中とは決定的に縁を切ろう、言葉においても頭のなかにおいてもね。それはそうとして、私たち二人を襲った弱気は、私たちがまだ朝飯を食べていないところからきているんじゃないかね?」
「そうかもしれないわ」と、フリーダは疲れたように微笑しながらいって、仕事に取りかかった。Kもまた箒をつかんだ。
 しばらくして低くノックする音が聞こえた。
「バルナバスだ!」と、Kは叫んで、箒を投げ出し、二跳びか三跳びでドアのところへいった。ほかのことよりもその名前にびっくりして、フリーダはKをじっと見つめた。手が不確かで、Kは古いドア鍵をすぐには開けられなかった。「すぐ開けるよ」と、彼はたえずくり返したが、ほんとうはだれがノックしているのか、たずねなかった。そして次に、広く開かれたドアから入ってきたのは、バルナバスではなくて、さっきから一度Kに話しかけようとした小さな男の子だ、ということを見なければならなかった。しかし、Kはその子のことを思い出してみようという気はなかった。
「いったいここになんの用があるのかい?」と、Kはいった。「授業は隣りの部屋だよ」
「ぼく、そこからきたんです」と、少年はいって、その大きな青い眼で静かにKを見上げ、身体をまっすぐにし、両腕をぴったり身体につけたまま、いった。
「で、なんの用だい? 早くいいなさい!」と、Kはいって、少し身体を曲げた。というのは、その少年は低い声でものをいうのだ。
「お手伝いすることがありませんか」と、少年がたずねる。
「この子は私たちの手伝いをしたいんだってさ」と、Kはフリーダに向っていい、次に少年にこういった。「いったいなんていう名前だい?」
「ハンス・ブルンスウィックです」と、少年がいう。「第四学年の生徒で、マドレーヌ街の靴屋オットー・ブルンスウィックの子供です」
「そうか、ブルンスウィックっていうんだね」と、Kはいって、今度はその子に対して前より親しげな態度になった。ハンスは、女教師がKの手にひっかいてつけた血のにじむみみずばれを見て、ひどく心を動かされたので、そのときKの味方になろうと決心したのだ、ということがわかった。少年は今やみずから進んで、大きな罰を受ける危険を冒しながら、脱走兵のように隣りの教室から抜け出してきたのだった。彼の頭を支配しているのは、何よりもこうした少年らしい想像であるらしかった。彼がやるすべてのことが物語っている真剣さも、そうした想像に相応していた。はじめのうちは、はにかみに妨げられていたが、まもなくKとフリーダとに慣れ、次に熱いよいコーヒーを飲むようにと出されたときには、活溌でうちとけたふうになって、いろいろな質問をするのだが、それが熱心でしつっこく、できるだけ早くいちばん重要なことを聞いて、Kとフリーダとのために自分で決心をできるようにしたい、と思っているようだった。この子の態度のうちには何か命令的なものもあった。だが、それは子供らしい無邪気さとすっかりまじっているので、二人は半ばまじめに、半ばふざけながら、この子のいうことに服した。ともかく少年はあらゆる注意を自分に向けるように要求するので、すべての仕事が中断されてしまい、朝食はひどくのびのびになってしまった。この子は生徒用の長椅子に、Kは上の教壇に、フリーダはその隣りの肘掛椅子に坐っていたのだが、このハンスが教師であり、試験をして、返答に判定を下しているように見えた。少年の柔かな口もとに浮かぶわずかな微笑は、今問題になっているのは遊びにすぎないのだとよく知っていることをほのめかすようであり、それだけに少年はいっそうまじめにこの問題に没頭していた。唇のあたりに漂うものは、おそらく全然微笑などというものではなくて、少年時代の幸福だった。彼は目立って時間がたってからやっと、自分がラーゼマンのところへ立ちよって以来、Kのことを知っていたのだ、と告げた。Kはそれを大いによろこんだ。
「君はあのとき、おかみさんの足もとで遊んでいたのだったね」と、Kはたずねた。
「ええ」と、ハンスはいった。「あれは、ぼくのお母さんなんです」
 そこで少年は母のことを語らねばならなかったが、ためらいながら、何度もうながされて、やっと語るのだった。だが今は、この子がまだほんの子供なのだということがわかった。だが、ときどき、とくに彼の質問においては、おそらく未来の予感だろうが、あるいはただ不安げに緊張している聞き手二人の錯覚のためだろうが、ほとんど一人前の精力的で、賢明で、見通しがきく男が話しているように思われるのだった。ところが、すぐそのあとでは、一足跳びにただの小学校生徒になってしまって、いろいろな質問が全然わからず、そのほかの質問も誤解してしまって、しばしば注意されるにもかかわらず、子供らしくおかまいなしに低い声で話したり、ついにはいろいろしつっこくたずねられることに対して、まるで反抗しているようにまったく黙りこくってしまうのだ。しかも、大人にはけっしてできないだろうと思われるように、少しも困ってはいないのだった。およそ、彼の考えによれば自分だけに質問が許されているのであり、他人が自分にたずねることはなんらかの規則を破るに等しいことであり、時間の浪費だ、といわんばかりだ。人が質問するときには、身体をまっすぐに起こし、頭を垂れ、下唇をそらして、長いあいだじっと坐っていた。これがとてもフリーダの気に入ったので、彼女は少年にしばしば問いかけ、こうやって少年を黙らせようと望んでいるのだった。それがまたときどきうまくいくのだが、Kはそれに腹を立てた。全体として少年から聞けることはほとんどなかった。母は少し病身であるが、どんな病気なのかはあいまいなままで、ブルンスウィックの細君が膝の上に抱いていた子供は、このハンスの妹で、フリーダという名前だ。(自分にうるさく問いかける婦人と妹が同じ名前であることを、少年は不快そうにみとめた。)この一家はみんな村に住んでいるのだが、ラーゼマンのところにではなく、彼らがラーゼマンのところへいっていたのは水浴するためだった。ラーゼマンのところには大きなたらいがあって、そのなかで水を浴びたり、追いかけっこをすることは、子供たちにとって大きな楽しみなのだ。もっともハンスは子供なんかの仲間に入らない。ハンスは父親については畏敬(いけい)の念をこめて、あるいは不安の気持を見せながら話すのだが、それもただ母親のことが同時に話に出ないときのことであって、母親に比べると父親の価値は小さいらしく、さらに家庭生活についてのすべての質問には、いくら話をそっちへもっていこうとしても、全然答えなかった。父親の職業については、この土地のいちばん大きな靴屋で、だれも彼にはかなわない、ということで、ほかにどんな質問がされても、このことだけをしょっちゅうくり返すのだった。父はほかの靴屋たち、たとえばバルナバスのおやじにも仕事をやるのだ。だがバルナバスのおやじに仕事をやることはただ特別の好意からで、少なくともハンスが誇らしげに頭を廻している恰好はこのことを暗示していた。ハンスが頭をそんなふうに廻すのを見て、フリーダは教壇から跳び下り、この少年に接吻しないでいられなくなった。君はこれまでに城へいったことがあるかいという問いに対しては、何度も質問をくり返されてやっと答えたが、しかもその返事は「いいえ」というだけだった。お母さんはどうか、という問いに対しては、全然答えない。とうとうKはあきてきた。彼自身にもこんな質問は無用に思えたし、その点で少年の態度ももっともだと思った。無邪気な子供にしゃべらせるという廻り道によって家庭の秘密を聞き出そうとするのは恥かしいことであったし、その上、何も聞き出せないということはたしかに二重に恥かしいことであった。そして、最後にけりをつけようとして、君はどんなことで手伝いしてくれようというのか、とKがたずねたとき、自分がここで仕事を手伝おうと思うのは、ただ先生と女の先生とがこれ以上Kのことをがみがみいわないためになのだ、とハンスは答えた。その答えを聞いてもKは別に驚きもしなかった。Kはハンスにこう説明した。そんな手伝いは必要ではない。がみがみいうのは教師の本性であって、いくら正確に仕事をしてもがみがみいわれないようにすることはほとんどできないものだ。仕事そのものはむずかしくはないのだが、ただ偶然起った事情によって自分は仕事をとどこおらせている。それにこんながみがみいわれることも、自分には生徒にほどはひびかない。自分はそんなものを払い落してしまう。そんなものは自分にはほとんどどうでもいいことだ。またもうすぐあんな教師の手から完全にのがれることのできる見込みがある。そこで問題は教師に対抗することを助けてくれるということにあるのだから、自分はそれに何よりも感謝するが、君はまた教室に帰ってよいのだ。おそらく今のうちならまだ罰せられることもあるまい。自分は教師に対抗するための助力だけは少しも必要でないのだ、ということをKは全然強調したのではなく、ただ思わず知らずにほのめかしただけであり、他方、ほかの助力についての問題にはふれないでいたが、ハンスはそれをはっきりと聞き取って、Kはおそらくほかの助力を必要とするのではないか、とたずねた。ぼくはよろこんでお手伝いをします。もしぼくにできないときには、母にそのことを頼んでみるし、そうすればきっとうまくいくでしょう。父に心配ごとがあるときも、母に頼むんです。母もまたいつだったかKさんのことをたずねました。母自身はほとんど家から出ないのですが、あのときはただ例外的にラーゼマンのところへいったのです。でもぼくはしょっちゅうあの家へいって、ラーゼマンの子供たちと遊ぶので、そこで母は一度、もしやまた測量技師さんがラーゼマンのところへこなかったか、ときいたんです。母はとても身体が弱く、疲れているので、無用に興奮させてはいけないのです。それでぼくはただ、測量技師さんにあの家で会わなかった、とだけいっておきましたし、ぼくと母とはそのことについてそれ以上話しませんでした。でも、今度この学校で測量技師さんに会ったので、母に報告することができるように、測量技師さんに話しかけないではいられなかったんです。というのは、はっきり母から命令されていないのに母の望みをかなえてやると、母はいちばん悦ぶからです。それを聞いて、Kは少し考えてから次のようにいった。――自分は助力を必要としない。必要なものはなんでももっている。だが、君が助けようといってくれることはとても親切なことで、その親切な志には感謝する。ところで、いつか何かを必要とするということはありそうなことであり、そのときには君にお願いすることになるだろう。君の住所はわかっている。そのかわり、おそらく自分のほうも今度は少しお手伝いできるだろう。君のお母さんが病弱で、しかもこの土地でその病気についてよくわかる者がいないらしいのは、残念なことだ。こんなふうに病気をほっておくと、しばしば本来は軽い病気が悪化して重い病気となることがある。ところで自分はいくらか医学の知識があるし、もっと貴重なことは、病人を扱う経験をもっていることだ。医者たちにうまくいかないいろいろなことが、自分にはこれまでうまく成功した。故郷では自分が病気を癒す力をもっているので、「にがい薬草」と呼ばれていた。ともかく君のお母さんと会って、お話ししたいと思う。おそらくいい忠告をしてあげることができるだろう。君のためにもよろこんでそうしたい。この申し出を聞いて、ハンスの眼は輝いた。そこでKは、勢いにのっていっそう熱心になったが、その結果は満足のいくものでなかった。というのは、ハンスはさまざまな質問に対して、けっしてそれほど悲しそうな様子も見せずに、母はひどくいたわってやる必要があるのだから、母のところへ見知らぬ者が訪ねてはいけないのだ、といった。あなたはあのときほとんど母と話をしなかったけれども、母はそのあと二、三日ベッドに寝ついていた。むろんこれはしばしばあることだ。父はあのときあなたのことにひどく腹を立てました。そこできっと、あなたが母のところへくることをけっして許さないでしょう。それどころか、父はあのときあなたを探し出し、あなたのふるまいについてあなたをとがめようとしたのですが、母がやっとそれをとめたのです。何よりもまず母自身が一般にだれとも話したがりません。母があなたのことをたずねたのは、けっしてそういうしきたりの例外ではないのです。それどころか反対に、あなたのことを口にしたおりに、あなたに会いたいという希望をはっきりいい出せたはずです。ところが母はそうはしませんでした。黙っていることではっきり自分の意志を示したわけです。母はただあなたのことを聞きたがっただけで、あなたと話すことを望んでいるのではありません。それに、母が苦しんでいるのはけっしてほんとうの病気ではないのです。母もとてもよく自分の身体の調子が悪いことの原因を知っていて、ときどきそれをほのめかします。母がたえられないのは、おそらくこの土地の空気なのでしょう。でも、母は父とぼくたち子供のために、この土地を離れようとはしません。それにもう、以前よりは身体の工合もよいのです。Kが聞いたのは、およそ以上のようなことだった。ハンスのものを考える力は、母をKから守らなければならないときに、目立って大きくなるのだった。Kのために彼は手伝いをしたいといっておきながら、そうなのだ。Kを母に会わせまいとするよい目的のために、彼は多くの点で自分自身のさきほどの発言とも矛盾するようなことさえもいうのだった。たとえば病気についてもそうだ。それにもかかわらず、Kは今になってもやはり、ハンスがまだ自分に対して好意を抱いていることをみとめた。ただ彼は母のことにかまけて、すべてを忘れてしまうのだ。だれがハンスの母の敵役(かたきやく)に置かれようと、その人間はすぐに悪者にされてしまう。今はそれがKだった。だが、たとえば父親もそうなっていいのだ。Kはこの父親の場合をためしてみようとして、こういってみた。お父さんがお母さんをどんなことにもじゃまされないように守っているのは、たしかにとても賢明なことだね。自分もあのときそういうことに気づきさえしたら、きっとお母さんに話しかけようなどとはしなかっただろう。今、遅ればせながら家へ帰ったらどうかお許しを願うようにいってもらいたい。それに対して、自分にどうもわからないのは、病気の原因がそんなにはっきりしているのなら、お父さんはなぜお母さんが転地保養をすることをとめるのだろうか、ということだ。お父さんがお母さんをとめているとしかいいようがない。というのは、お母さんはただ子供たちとお父さんとのためにこの土地を離れないんだからね。けれども、子供たちはいっしょにつれていけるんだし、お母さんだって長いあいだよそへいく必要はないのだ。またそんなに遠くまで出かける必要もない。城の山でだって空気はまったくちがうのだ。こうした転地の費用のことはお父さんは全然心配する必要はないはずだね。なにせお父さんはこの土地でいちばん大きい靴屋だし、きっと城にはお母さんをよろこんで迎えてくれるお父さんかお母さんの親戚や知人がいるだろう。どうしてお父さんはお母さんを手放さないのだろう? お父さんがこんな病気を軽く見ているはずはなかろう。自分はお母さんをほんのちょっと見ただけだが、お母さんの目立った顔色の悪さと衰弱とが気にかかって、お母さんと話す気になったのだ。あのときすでに自分は、お父さんがあの共同の風呂場兼洗濯場の悪い空気のなかに病気のお母さんを放っておき、声高(こわだか)にしゃべりながら少しも遠慮しようとしないのに驚いたのだった。お父さんは、病気がどんな工合なのか、きっと知らないのだ。病気は最近ではおそらくよくなったかもしれないが、こうした病気は気まぐれなもので、もしそれと闘って征服してしまわないと、ついには勢いが強くなってしまって、そうなるともうどんなことも役には立たなくなるよ。自分はお母さんとはお話しできないにしても、お父さんとお話しして、こういうことすべてを注意してあげたら、おそらくよいと思うよ。
 ハンスは緊張して耳を傾け、大体のところを理解したが、残りの理解できないことはおどかしとして強く感じ取ったのだった。それにもかかわらず、ハンスはいった。あなたは父とも話せません。父はあなたを嫌っています。で、父はおそらくあの学校の先生のようにあなたを扱うことでしょう。ハンスはKのことを語るときには、微笑しながらおどおどしていい、父のことをいうときには、不機嫌そうに悲しげにいうのだった。けれども彼はつけ加えて、Kはおそらく母と話すことができるだろうが、ただ父にないしょでだ、といった。それからハンスは、何か禁じられていることをやろうとし、罰せられないでそれを実行できる可能性を探している女のように、じっと動かぬまなざしでしばらくのあいだ考えにふけっていたが、やがていった。おそらくあさってならできるでしょう。父は晩に紳士荘へいきます。そこで人と話合いがあるのです。そこで、ぼくは晩にやってきて、あなたを母のところへつれていきましょう。とはいっても、母がそれに同意するとしてのことですよ。でも、これはとてもありそうには思えないけれど。何よりもまず、母はなんでも父の意に反してはやらないで、どんなことにでも父の意に従うのです。ぼくにでも理に合わないとはっきりわかることにおいてもそうなんです。ほんとうのところは、今やハンスは、父親に対抗するための自分の助力をKに求めているのだ。まるでハンスは自分をあざむいているようなものだった。なぜならば、彼はKを助けようとしているのだ、と思っていたのに、ほんとうは、古くから身のまわりにいるだれも自分を助けてくれることができないので、この突然現われた、今では母も話題に出してさえいるこのKという見知らぬ男が自分を助けることができるのではないか、と探り出そうとしたからだ。この少年は、無意識のうちにまるで本音を隠していて、ほとんど陰険といえるほどではないか。そのことは、これまで少年の姿恰好やその言葉からはほとんど推察することができなかった。今になってやっと、偶然この子がしゃべってしまった告白とか、Kがしゃべらせようとして引き出した告白とかによって、それがわかったのだ。ところで、少年はKと長い対話を交わしているうちに、どんな困難を克服しなければならないのか、ということに思いついたのだった。ハンスがいくら考えてみても、ほとんど克服しがたい困難がいろいろあった。すっかりもの思いにふけりながら、しかし助けを求めるように、彼は不安げなまたたく眼でKをたえず見つめていた。父が家を出る前には、母に何もいうわけにいかない。そうでないと、父がそれを聞き知って、万事が不可能になってしまう。だが、父が家を出てからも、母のことを考えると、突然、急いで話すのでなく、ゆっくりと、しかも適当なチャンスを見つけて話さなければならない。そうしてはじめて母から同意が得られるのであり、そうしてやっとKをつれてくることができるのだ。だが、それではもう遅すぎるのではなかろうか。もう父の帰宅が迫っているのではなかろうか? いや、これは不可能だ。Kはそれに対して、それは不可能でないということを証明した。時間が十分にないということは、恐れる必要はないよ。ちょっと話し、ちょっと会えば十分だし、君は自分を迎えにくる必要はない。自分は君の家の近くのどこかに隠れて待ち、ハンスの合図があったらすぐいこう。それはだめです、とハンスがいう。あなたは家のそばで待ってはいけません。――またもや、彼の頭をいっぱいにしているのは、母を気づかう敏感さであった――母が知らないのにあなたが出かけてはいけません。こんな母にないしょの取りきめをぼくはあなたと結ぶわけにいきません。ぼくはあなたを学校からつれていかなければならないのです。しかも、母がそれを知って、許すまではいけません。いいよ、とKはいった。そうなるとほんとうに危険で、お父さんに家でつかまってしまうこともあるかもしれない。そんなことにはならなくとも、お母さんがそのことを恐れて、およそ自分をよせつけないだろうし、そうすれば万事はお父さんのために挫折してしまうだろう。それに対してまたハンスが反対し、その議論があれこれと進められていった。



この本を、全文縦書きブラウザで読むにはこちらをクリックしてください。
【明かりの本】のトップページはこちら

 
 
 
以下の「読んだボタン」を押してツイッターやFacebookを本棚がわりに使えます。
ボタンを押すと、友人にこの本をシェアできます。
↓↓↓ 

Facebook Twitter Email
facebooktwittergoogle_plusredditpinterestlinkedinmailby feather

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">