フランツ・カフカ 城 (11〜15章)


 しばらく無言のまま仕事をしていたが、やがてフリーダが、なぜあなたは今度は教師のいうことをそんなに従順にきくのか、とたずねた。これはたしかに同情のこもった、心づかいにあふれた質問であったが、フリーダが本来の約束どおり彼を教師の命令と乱暴なふるまいとから守ることにほとんど成功しなかったということを考えていたKは、ただ簡単に、自分はいったん小使となった以上、その任務を果たさなければならないのだ、といった。それからふたたび無言の状態がつづいたが、ついにKは――今の対話で、フリーダが長いあいだ心配そうなもの思いにふけっていたようだったこと、ことに自分がハンスと話しているあいだじゅうほとんどそんなふうであったことを思い出したのだった――薪を運びながら、彼女にはっきりとそのことをたずねてみた。彼女は彼のほうにゆっくりと眼を上げながら、それはこれといってはっきりしたわけがあるのではない、と答えた。自分はただおかみのこととおかみの言葉の多くが真実だったこととを考えているだけだ、というのだ。Kがうながすと、やっと、何度か拒んだあとで彼女はもっとくわしい返事をしたが、そのときも仕事の手を休めなかった。その仕事もけっして熱心にやっているわけではないのだ。というのは、そのあいだに仕事がはかどっているのではなく、ただKの顔を見なければならないように追いこまれないためなのだ。で、今度は彼女はこんなことを語るのだった。自分はKとハンスとの対話をはじめは平静な気持で聞いていた。次にKの二、三の言葉によってびっくりし、それらの言葉の意味をもっとはっきりと捉えようとしはじめた。それからはもう、Kの言葉のうちにおかみから聞かせてもらったいましめの裏書きされているのを聞き取ることをやめなかった。そのおかみのいましめの正しさはそれまではけっして信じようとしなかったのだ。Kはこんな一般的な言い廻しに腹を立て、涙ぐんだ訴えるような彼女の声にも感動させられるというよりはいらいらさせられて、――その理由は何よりも、おかみが今やまた自分の生活に入りこんできたからだ。少なくとも回想によって入りこんできているのだ。なぜなら、おかみその人は、これまではほとんどKの生活に入りこむということでは成果を上げてはいなかったからだ――両腕に抱えていた薪を床の上に投げ出し、その上に坐って、今度はまじめな言葉で、そのことを完全にはっきりいってくれ、と要求した。
「これまでにしょっちゅう」と、フリーダは語り始めた。「ほんのはじめのときから、おかみさんはあなたのことを信用させまいと骨を折りました。おかみさんは、あなたが嘘をついているなんて主張はしませんでした。反対に、おかみさんはこんなことをいったんです。あなたは子供のように包み隠しのない人だ。でもあなたの人柄はわたしたちのとはまるでちがっているんだから、たといあなたが率直にものをいっていても、あなたのいうことを信じるわけにはなかなかいかない。よい女友だちでもわたしたちを早く救ってくれなければ、にがい経験を味わわされたあげくにやっとあなたの言葉を信じることに慣れなければならないでしょう。人を見る鋭い眼をもっているおかみさんでさえ、どうもほとんどそういう結果になったんだから、って。でも橋亭でのあなたとのこの前の対話のあとでは、――わたし、ただおかみさんの悪意の言葉をくり返すだけなんですが――あなたの計略を見破ったそうです。たといあなたが意図を隠そうと努力したところで、もうおかみさんをだますことなんかできないのだ、といいました。でも、あなたは何も隠してなんかいないんだ、とおかみさんはしょっちゅういうのでした。それからこんなこともいいました。いつでも[#「いつでも」は底本では「いっでも」]任意な機会にあの人のいうことをほんとうに聞こうと努めてごらん。ただ上っつらだけでなく、ほんとうに聞くようにね、って。おかみさんはそれ以上のことは何もしなかったけれど、そうしながらわたしのことに関係して次のようなことをあなたから聞き出したっていうんです。あなたがわたしにいいよった理由は――おかみさんはこんな恥かしい言葉を使ったのよ――わたしが偶然あなたの眼にとまり、まんざら気に入らぬこともなかったからで、それにあなたはひどく思いちがいをして、酒場の女給というものは手をさしのべてくるどんなお客にでも犠牲になるにきまっているものなのだ、と考えているからだ、っていうのよ。その上、おかみさんが紳士荘のご亭主から聞き出したところでは、あなたはあのとき何かの理由で紳士荘に泊まろうと思ったけれど、そうはいってもそれはわたしを通じてしかできなかったんですって。こうしたすべては、あの夜あなたをわたしの恋人にするのに十分な動機だった、けれどもこの関係がもっと深いものになるためには、もっとほかのものが必要で、そのほかのものっていうのがクラムだったのだ、というんです。おかみさんは、あなたがクラムに求めていることを知っているとは主張していません。おかみさんが主張しているのは、ただ、あなたはわたしを知る前にも、知ってからあとと同じように熱心にクラムに会いたがっていた、ということです。ただそのちがいは、あなたはわたしを知るまでは絶望的であったが、わたしを知るようになった今では、ほんとうに、間もなく、優位さえもってクラムの前に出る手段をもっていると思っている点にあるんだそうです。あなたがきょう、わたしを知る前には、この土地で途方にくれていたといったとき、わたしはどんなにびっくりしたことでしょう。驚いたのもほんのちょっとのあいだで、それほど深い理由もなかったんですけれど。これはおそらく、おかみさんが使ったのと同じ言葉です。おかみさんはまた、あなたはわたしを知るようになって以来、目標を意識するようになった、っていっています。どうしてそういうことになったかというと、わたしを手に入れることでクラムの恋人を征服したのだし、それによってただ最高の値段だけによってつぐなえるようないい持ち駒をもっている、と思っているからだ。その値段についてクラムとかけ合うことがあなたの努力のただ一つの目的なのだ。あなたにとってはわたしなんかどうでもよいので、万事は値段のほうにかかっているのだから、わたしについてはどんなことでも相手の意を迎える用意があるが、値段については頑固だ。こういうんです。だから、あなたにとっては、わたしが紳士荘の職を失ったこともどうでもいいことだし、わたしが橋亭からも出たこともどうでもよく、わたしがつらい小使の仕事をやらなければならないということもどうでもいいんです。あなたはやさしい愛情というものをもたず、それどころかもう少しもわたしのためにさいて下さる時間をもっていません。わたしを二人の助手にまかせて、嫉妬ももたないのです。あなたにとってのわたしのただ一つの価値といえば、わたしがクラムの恋人だったということだけで、あなたは何も知らないままにわたしにクラムのことを忘れさせまいと努力し、決定的な瞬間がきたときにわたしがあまり強く逆らわないようにしておこうとするんです。それなのにあなたはおかみさんとも争うのですわ。わたしをあなたの手から奪うことができるのはおかみさんだけだと信じて、そのためにおかみさんとのいさかいをとことんまでもっていって、とうとうわたしといっしょに橋亭を出なければならないようにしてしまったんですわ。わたしに関する限り、どんな事情の下でもあなたのものである、っていうことはあなたは疑ってもみません。クラムとの話合いは、現金での取引きだと思っているんだわ。あなたはあらゆる可能性を計算に入れているのね。もしあなたの望む高い値段を手に入れることができるとなったら、どんなことでもやるつもりなんだわ。クラムがわたしを欲しいといえば、わたしをあの人にやるでしょうし、あなたがわたしのところにとどまるようにとクラムが望めば、あなたはわたしのところにとどまるでしょう。わたしを捨ててしまえとクラムが望めば、わたしを捨てるでしょう。でも、お芝居を演じる用意さえあるんだわ。有利だとなれば、わたしを愛しているようなふりをするし、あの人が平気な顔をしていれば、あなたのつまらなさをさらけ出して、あなたがあの人にかわってわたしの愛人になったという事実によってあの人を恥じ入らせることで、あの人のそんな態度に打ち勝とうとすることでしょう。あるいは、あの人についてのわたしの愛の告白を――わたしはほんとうにそれをしたわけだけれど――あの人に伝えて、わたしをまた迎えてくれ、もちろん望みの値段は払ってはもらいたいが、と頼んで、あの人の平気な態度に打ち勝とうとするでしょう。そして、ほかのどんなことも役に立たないとなれば、K夫婦という名前でこじきのようなまねさえすることでしょう。でも、そうなって、おかみさんが結論を下しているように、あなたの推測も、あなたの希望も、クラムについてのあなたの想像も、クラムのわたしに対する関係も、みんな思いちがいしていたのだとわかるようになれば、そのときわたしの地獄が始まるでしょう。というのは、そのときわたしはいよいよあなたのただ一つの所有物となるんですわ。あなたはその所有物をたよりにするわけですが、それは同時に価値のないものとわかった所有物なのですから、あなたはそれにふさわしい扱いかたをするでしょう。なぜって、あなたはわたしに対して所有主という感情以外にどんな感情ももってはいけないんですから」
 緊張し、口をぐっとひきしめて、Kはその言葉に耳を傾けていた。彼が腰かけていた薪がごろごろと転がり出し、彼はあやうく床の上に滑りそうになったが、そんなことは気にもかけなかった。やっと彼は立ち上がって、教壇に腰を下ろし、フリーダの手を取った。その手は弱々しく彼から逃がれようとした。Kはいった。
「君の話のなかで、君の考えとおかみさんの考えとどうも区別ができないところがあったよ」
「あれはみんなおかみさんの考えだったのよ」と、フリーダはいった。「わたしはなんでもよく聞いていました。おかみさんを尊敬しているんですもの。わたしがおかみさんの考えをすっかりはねつけたのは、あのときがまったく最初のことだったんです。おかみさんのいうことすべてがあんまりみじめに思えたし、わたしたち二人のあいだがどうなっているかということについてあんまりわかっていないように思えたのでした。むしろわたしには、おかみさんのいうことのまったく正反対のことが正しいように思われました。わたしは、わたしたちの最初の夜のあとのあの暗い気持だった朝のことを考えました。あなたがまるですべてだめになったようなまなざしでわたしのそばにひざまずいていた有様を思ってみたのです。そして、わたしがどんなに努力してみても、あなたを助けることにはならないで、実際あなたのじゃまをすることになってしまったことを考えたのでした。わたしのためにおかみさんはあなたの敵、しかも強力な敵となったのです、あなたはまだ軽視していますけれど。あなたがこんなにも心配をして下すっているわたしのために、あなたはあなたの地位を求めて闘わなければならず、村長に対しては不利な立場に立って、また先生のいうこともきかねばならなくなり、助手たちの手中に収められてしまったのです。けれどいちばん悪いことは、わたしのためにあなたはおそらくクラムに対して不正を働いてしまったのだわ。あなたが今たえずクラムのところへいこうとするのは、あの人をなんとかなだめようとする無力な努力にすぎなかったのです。そして、わたしは自分にいって聞かせたの。おかみさんはこうしたすべてをたしかにわたしよりずっとよく知っていたので、わたしに入れ知恵して、わたしがあまりにひどく自分を責めないようにしてくれようとしたのだ、って。善意ではあるけれど、余計な心配だわ。あなたに対するわたしの愛は、あらゆることをのり越えるようにわたしを助けてくれ、それはまたあなたをもついには前進させるでしょう、この村においてでなければ、どこか別なところでね。この愛はその力をもう証明したのです。つまり、それはバルナバスの一家からあなたを救ったんですわ」
「では、それがあのころおかみさんの考えに反対する君の考えだったんだね」と、Kはいった。「で、それからどう変ったんだい?」
「わかりませんわ」と、フリーダはいって、自分の手を取っているKの手を見た。「おそらく何も変っていないわ。あなたがわたしのこんなに身近かにいらっしゃって、そんなに落ちついておたずねになると、何も変わらなかったんだと思われてくるわ。でも、ほんとうは」――彼女はKから手を振り離し、身体をまっすぐにして彼と向き合って坐り、顔も被わないで泣いた。その涙にぬれた顔をまともに彼に向けていたが、自分自身のことを泣いているのではないのだ、だから何も隠すことはない、自分はKの裏切りを泣いているのだ、だから自分の泣いている姿のみじめさは彼にうってつけのものなのだ、といわんばかりだ。――「でも、ほんとうは、あなたがあの子と話しているのを聞いてから、すべてが変ってしまったのだわ。あなたはいかにも無邪気そうに話を始め、家庭の事情をたずねたり、そのほかあれこれとたずねました。まるであなたがなれなれしく率直な態度で酒場に入ってきて、子供らしく熱心にわたしのまなざしを求めているような気がしました。あのわたしたちが最初に出会ったときとちがいはありません。そして、わたしはただ、おかみさんがここに居合わせて、あなたの言葉を聞き、それでなお自分の意見に固執しようとするのだったら、と望みました。ところが次に、突然、どうしてそんなことになったのかわかりませんが、あなたがどんなつもりであの子と話しているのか、ということに気がつきました。思いやりのあるような言葉によって、あなたはなかなか手に入れられないあの子の信用を得てしまいました。それは、次にじゃまされないであなたの目標へ向って突進するためなのです。その目標というのはわたしにはだんだんわかってきました。それはブルンスウィックの奥さんだったのです。あの人のために心配しているように見えるあなたの話からは、あなたはただ自分の仕事だけしか考えていないのだということが、まったくあからさまに表われていました。あなたはあの人を手に入れるより前に、あの人をあざむいたのです。わたしはあなたの言葉から、わたしの過去ばかりでなく、わたしの未来も聞き取りました。まるでおかみさんがわたしのそばに坐っていて、わたしにすべてを説明しているような気がしました。そして、わたしは全力をふるっておかみさんを振り払ってしまおうとするけれど、こうした努力の見込みがないことをはっきりと見て取っているのです。そして、その場合に、あざむかれたのはじつはもうわたしではなく――これまでもわたしはけっしてあざむかれたりしませんでしたわ――知らない女の人だったのです。それから、わたしがなお元気をふるい起こして、ハンスに何になりたいのかとたずね、あの子があなたのような人になりたい、といい、従ってもう完全にあなたのものとなったときに、ここで利用されたあの善良な少年のハンスと、あのとき酒場にいたわたしと、いったいどれほど大きなちがいがあったでしょうか」
「君のいうことはすべて」と、Kはいったが、非難されることに慣(な)れて、自分を取りもどしていた。「ある意味では正しいよ。それはまちがってはいないのだけれど、ただ敵意を含んだものだね。それは君自身の考えだと君が思っても、私の敵であるあのおかみの考えなのさ。そのことは私をなぐさめてくれるね。でも、そうした考えには教えられるところが多いし、まだいろいろおかみから学ぶことができるよ。おかみはそのほかのことでは私に容赦(ようしゃ)しなかったけれど、私自身にはそのことはいわなかった。おかみがこんな武器を君にゆだねたのは、君がこの武器を私にとってとくに困る時期か、決定的な時期かに使うということを期待してのことだったらしいね。もし私が君を利用しているなら、おかみも君を同じように利用しているんだ。ところで、フリーダ、よく考えてごらん。もしすべてがおかみのいうとおりそのままだとしても、それがひどく悪質なのは、ただ一つの場合だけのことじゃないかね。つまり、君が私を愛していないという場合だ。そのときには、そのときにだけは、私が君を所有して暴利をむさぼるために、打算と術策とによって君を手に入れたのだ、ということにほんとうになるだろう。そうだとすると、私があのとき、君の同情を呼び起こすために、オルガと腕を組んで君の前に現われたということからして、おそらく私の計画のうちに入ることになるだろうよ。おかみはただ、このことを私の罪を数え上げるときにいい忘れただけなんだろう。でも、もしこれがそんな悪質な話ではなく、またずるい猛獣があのとき君を奪い去ったというのでなくて、君が私に向ってやってきたのであり、私も君に向って歩みよっていったのであって、私たち二人が自分を忘れてたがいに見出し合ったのだったとすれば、どうだい、フリーダ、そのときにはいったいどうなるんだね? そのときには、私は自分のことも君のことも同時にやることになるんだ。この場合には君と私との区別なんかなくて、ただ敵であるおかみがあるだけだ。これはすべてのことにあてはまるんだ。ハンスについてもそうだよ。私のハンスとの対話を判断するとき、ともかく君は感じやすいものだから、とても誇張して考えているんだよ。というのは、ハンスと私との意図は完全には一致しないにしても、この二つのあいだに対立関係といったものが生まれるまでにはいっていないよ。その上、ハンスには私たち夫婦の意見のくいちがいがわからずにいなかったのだよ。もし君がハンスはそれに気づかずにいたのだと思うなら、君はあの注意深い子供のことをひどく過小評価していることになるだろう。そして、万事がハンスにわからぬままであったとしても、そのために困る人間はだれ一人いないと私は思うんだけれど」
「ものをちゃんと見さだめるということはとてもむずかしいものね、K」と、フリーダはいって、溜息をもらした。「わたしはたしかにあなたに対して不信なんか抱いたことはなかったわ。そして、もし何かそういったものがおかみさんからわたしにのり移ってきているのであれば、わたしはそんなものをよろこんで投げ捨ててしまいましょう。また、ひざまずいてあなたの許しを願いましょう。わたしがなおそんな悪いことをいうとしても、ほんとうはいつでもあなたの前にひざまずいて許しを願っているのですわ。でも、あなたがたくさんのことをわたしに対して秘密にしているということは、やはりほんとうなんだわ。あなたは帰ってきて、また出かける。けれど、わたしにはどこから帰ってきて、どこへいくのかはわからないんです。さっき、ハンスがノックしたとき、あなたは〈バルナバス〉という名前を叫びさえしました。あのときわたしにはわからない理由からこのいやらしい名前を呼んだのと同じように、あなたがわたしの名前もそんな愛情をこめて呼んで下すったらいいのだが、とわたしは思うの。あなたがわたしを信用して下さらないとき、どうしてわたしのほうでも不信の気持が起きてはいけないのです? わたしを信用なさらないなら、わたしはすっかりおかみさんの手にまかされたことになるじゃありませんか。あなたの態度はおかみさんのいったことを裏書きしているように思えます。すべてがそうだ、なんて申しません。あなたがすべてにおいておかみさんのいうことを裏書きしているのだ、なんてわたしはいい張ろうとは思いません。だって、あなたはともかくわたしのために助手たちを追い払って下すったじゃありません? ああ、あなたにわかってもらえたら! わたしがあなたのやったりいったりするすべてのことのうちに、たといそれがわたしの心を苦しめるものであっても、わたしにとって好ましい核心をどんなに求めているかということを!」
「何よりもまず、フリーダ」と、Kはいった、「私は君にちょっとだって隠しごとなんかしてはいないよ。おかみのやつ、どんなに私を憎み、君を私から奪い去ろうとどんなに努力しているんだろう! そして、なんていう軽蔑すべき手段でおかみはそのことをやり、君はなんておかみのいうままになっているんだろう、フリーダ! いってくれたまえ、私が君にどんなことを隠し立てなんかしているんだい? 私がクラムのところにいきたがっているということは、君も知っている。彼に会うことで君が私を助けてくれることができないで、そこで私が自分の力でそれをやらなければならないということも、君は知っている。これまで私は彼に会うことができないでいるということは、君にはわかっている。この無益な試みはそれだけですでにほんとうにひどく私の心を傷つけているのに、そんなことを話して二重に私の心を傷つけなければならないのだろうか。クラムのそりのドアのところで凍(こご)えながら、長い午後をむなしく待ったというようなことを、得意げに話さなければならないのかい? もうそんなことを考えなくてもよいのだと幸福感を味わいながら、私は君のところへ急いで帰ってくるんだ。ところが、君という人の口からそうしたすべてのことが私をおびやかすようにふたたびもち出されるのだ。そして、バルナバスだって? 私はなるほどあの男を待っている。あの男はクラムの使いの者だ。私があの男をそんな役にしたんじゃないんだ」
「またバルナバスなの!」と、フリーダは叫んだ。「あの男がよい使いの者だなんて、わたしには信じられないわ」
「それはおそらく君のいうとおりだろう」と、Kはいった。「だが、あの男は、私に送られてくるただ一人の使いの者なんだよ」
「それだけにいよいよ悪いのよ」と、フリーダはいう。「それだけにあなたはあの男のことをいよいよ用心しなければならないのよ」
「残念ながら、あの男はこれまでに一つもそのためのきっかけをつくらなかったよ」と、Kは微笑しながらいった。「あの男はまれにしかやってこない。そして、あの男のもってくることは、つまらぬことばかりだ。ただそれがクラムから直接に出ているということだけが、それを価値のあるものにしているんだ」
「でも、いい」と、フリーダはいった。「もうけっしてクラムがあなたの目標なんじゃないわ。おそらくそれがわたしをいちばん不安にするのよ。あなたがいつでもわたしをそっちのけにしてクラムに会おうと迫っていたことは、よくないことだったわ。それは、おかみさんがけっして予想しなかったことです。おかみさんの言葉によると、わたしの幸福、どうだかあやしいけれど、ほんとうの幸福は、クラムに対するあなたの期待が空しかったと決定的にさとった日に終わるんですって。ところが、あなたはもうけっしてそんな日のことを待ってはいないんです。突然、一人の小さな男の子が入ってくると、その子の母親を手に入れようとしてその子と争い始めるのです。まるで命をつなぐ空気を求めて闘っているという調子だわ」
「君はハンスとの私の対話を正しく理解したね」と、Kはいった。「ほんとうにそのとおりだったんだよ。でも、君のこれまでの生活がすっかり忘却の底に沈んでしまって(もちろんおかみは除いての話だ。あれはむざむざ突き落されるような女じゃないさ)、そのために、前へ進むためには闘いを行わなければならないのだということ、ことに下のほうからのぼっていくときにはそうだということが、君にはわからないんじゃないかい? なんらかの希望を与えることはなんでも利用しなければならないんじゃないかね? そして、あの細君は城の出なんだよ。私が到着した最初の日にラーゼマンの家に迷いこんだときに、あの人自身がそう私にいったんだ。あの人に助言か、あるいは助力さえ頼むということよりもわかりきったことがあったろうか? おかみが、クラムから引き離すあらゆる妨害だけをくわしく知っているとすれば、この細君はクラムのところへいく道をほんとうに知っているんだ。あの人は自分でその道を下りてきたんだからね」
「クラムのところへいく道ですって?」と、フリーダはたずねた。
「そうだよ、クラムのところへいく道だ。そのほかにどこへいくというんだ」と、Kはいった。それから彼は跳び上がった。「ところで、中食を取ってくるぎりぎりの時間だ」
 フリーダはこのきっかけをはるかに超(こ)えて、ここにいてくれとしきりとKに頼むのだった。まるで、彼がここにいてくれてこそ、彼が彼女にいったすべてのなぐさめの言葉がはじめて裏書きされるのだ、といわんばかりであった。だが、Kは彼女に教師のことを思い出させ、いつでも雷のような音を立てて引き開けられかねないドアを指さした。そして、すぐ帰ってくると約束し、君はけっして火を焚(た)く必要はない、自分がその心配をするから、といった。とうとうフリーダもKのいうことに黙って従った。彼が外へ出て、雪のなかを踏みしめていったとき、――ほんとうはもうとっくに道の雪かきがすんでいなければならないところだったが、奇妙なことに、その仕事はなんとゆっくり進められていたのだろう――彼は格子塀のところに助手の一人が死んだように疲れ切ってしがみついているのを見た。一人だけしかいない。もう一人のほうはどこにいるのだろう? それではKは少なくとも一人のほうの忍耐力を打ち破ったわけか? むろん残ったほうの男はまだほんとうに真剣だった。そのことはその様子からも読み取れた。この男は、Kの姿を見て元気づき、すぐにあらあらしく両腕をさしのばし、こがれるように眼を大きく見開き始めた。
「あの男の強情さは模範的だ」と、Kはひとりごとをいったが、とはいってもこうつけ加えないでいられなかった。「そんな強情をつづけていると、格子のところで凍死してしまうぞ」
 だが、Kは外見上はその助手に対してただ拳でおびやかし、近づくことをこばんでみせただけだった。はたして助手は不安げにかなりの距離をうしろへ退いていった。ちょうどそのとき、フリーダが窓の一つを開けた。Kと相談したように、火を焚く前に換気するためだった。すぐに助手はKをほっぽり出して、逆らいがたくひきつけられるように、窓のほうへ歩みよっていった。フリーダの顔は、助手に対しては親しみのために、Kに対しては訴えるような当惑のために、ゆがんだ。彼女は上の窓から少し手を振った。――それが追い払おうとするのか、挨拶しようとするのか、けっしてはっきりしなかった――助手はその動作によって窓へ近づくことをためらったりなどしてはいなかった。そのとき、フリーダは急いで外側の窓を閉めた。だが、そのうしろで、手を窓の取手に置き、頭を横に傾け、大きく眼を見開き、こわばったような微笑を浮かべて、たたずんでいた。そんな動作をすれば助手をおどかすよりはむしろ誘うようなものだ、ということを彼女は知っているのだろうか? しかし、Kはもう振り返らなかった。彼はむしろできるだけ急いでいって、すぐに帰ってこようと思ったのだった。







この本を、全文縦書きブラウザで読むにはこちらをクリックしてください。
【明かりの本】のトップページはこちら

 
 
 
以下の「読んだボタン」を押してツイッターやFacebookを本棚がわりに使えます。
ボタンを押すと、友人にこの本をシェアできます。
↓↓↓ 

Facebook Twitter Email
facebooktwittergoogle_plusredditpinterestlinkedinmailby feather

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">