フランツ・カフカ 城 (11〜15章)

第十四章


 とうとう――もう暗くなっていた。午後も遅かったのだ――Kは校庭の道の雪かきをすませた。道の両側に雪を高く積み上げ、それを打ち固めた。これで一日の仕事をしとげたのだ。校庭の門のところに立ったが、あたりをずっと見廻しても、彼だけしかいなかった。例の助手は何時間も前にもう追い払ってしまった。かなりな距離を追い立てていったのだ。すると助手は小さな庭と小屋とのあいだのどこかに身を隠してしまい、もう見つけられなくなったし、それからも二度と姿を見せなかった。フリーダは建物のなかにいて、もう洗濯物を洗うか、あるいはまだギーザの猫の身体を洗うかしていた。ギーザがフリーダにこの仕事をまかせたことは、ギーザのほうからの大きな信頼のしるしであった。とはいっても不潔でかんばしからぬ仕事ではあった。いろいろ職務をなまけてしまったあととなってみれば、ギーザに感謝させることのできるあらゆる機会を利用することが大いに有利であるのでなかったならば、こんな仕事を引き受けることはKにはおそらく我慢できなかっただろう。ギーザは、Kが屋根裏部屋から子供用の小さなたらいをもってきて、湯がわかされ、最後に用心深く猫をたらいのなかに入れるさまを、満足そうにながめていた。それから、ギーザは猫をすっかりフリーダにまかせさえしたのだった。というのは、最初の晩にKが見知ったシュワルツァーがやってきて、あの晩から尾をひいている恐れの気持と、小使ふぜいに対するにはふさわしいといわんばかりの度を超えた軽蔑(けいべつ)の気持とがまじった態度でKに挨拶し、それからギーザといっしょに別な教室のほうへいってしまったのだった。この二人はまだその教室にいた。橋亭で人が話していたところによると、シュワルツァーは執事の息子であるのに、ギーザに対する愛からすでに長いあいだ村に住み、彼がもついろいろな縁故関係の力で村の人びとから助教員と呼ばれるような地位を手に入れていた。だが、彼はこの職務を主として次のようなやりかたで実行しているのだった。つまり、ギーザの授業時間にはほとんど欠かさず出てきて、子供たちのあいだにまじって児童用の長椅子に坐るか、あるいはむしろ好んでギーザの足もとの教壇に坐るかするのだ。これはもう少しも授業のじゃまにならなくなっていた。子供たちはすでにずっと前からそれに慣れてしまったのだ。これがいっそうたやすくいったのは、おそらく次の理由からだ。つまり、シュワルツァーは子供たちに愛情も理解ももっていないで、ほとんど子供たちとは口をきかず、ただギーザの体操の授業だけを引き受け、そのほかはギーザの身近かで、彼女の身辺の空気と彼女の身体の暖かみとのなかで暮らすことに満足しているからだ。彼の最大の楽しみは、ギーザのわきに立って、練習帳の点検をすることだった。きょうも二人はその仕事をやっていた。シュワルツァーは山のような帳面の束をもってきていた。例の男の教師はいつでもこの二人に自分の分の仕事までやらせているのだ。そして、まだ明るいうちは、この二人が窓ぎわの一つの小さな机のそばで頭と頭とをよせて仕事をするのがKには見えたが、今ではそこで二本の蝋燭がちらちらしているのが見えるだけだった。この二人を結びつけているのは、まじめで無口な恋だった。この恋愛を牛耳っているのはギーザのほうだった。彼女の重苦しい人柄はときどき荒れて、あらゆるけじめを破るのだったが、彼女もほかの人たちがほかの場合に自分と同じようなことをするのであったら、けっして我慢はしなかっただろう。そこで元気のよいシュワルツァーのほうも彼女に調子を合わせて、のろのろと歩き、ゆっくりとしゃべり、黙りがちにしていなければならなかった。だが、彼にとっては――これは人眼にも明らかだが――ただギーザが黙って眼の前にいるというだけで、いっさいのことがむくいられるのだ。ところでギーザはおそらく彼を全然愛していないのかもしれない。いずれにせよ、彼女の円い、灰色の、まるっきりまばたきしない、むしろ瞳孔(どうこう)のなかが廻っているように見える両眼は、そのような問いかけには何の返答も与えないのだ。彼女が異論もいわないでシュワルツァーを我慢している、ということだけは見て取れた。だが、執事の息子に愛されるという名誉は、彼女がきっと評価できないものなのだ。そして、シュワルツァーが視線で自分を追っていようといなかろうと、いつも変わらずに落ちついて彼女のまるまるした豊満な身体を運んでいく。それに対してシュワルツァーのほうは、いつも村にとどまっているという不断の犠牲を彼女に捧げているのだ。彼をつれもどすためにしばしばやってくる父親の使者を、ひどく腹を立てて追い払うのだが、彼らによってちょっとでも城のことや子としての義務のことを思い出させられるのは、自分の幸福を取り返しのつかないほどひどく妨げられることだ、といわんばかりであった。それでも彼にはほんとうは自由な時間がたっぷりあった。というのは、ギーザはふだん、ただ授業時間中と練習帳の点検のときにだけ、彼に姿を見せるのだ。これはむろん打算からやっていることではなく、彼女はのびのびした生活が好きで、それゆえひとりでいることが何よりも好きであり、おそらく家にいて完全な自由を味わいながら長椅子の上に身体をのばすことができるときがいちばん幸福なのだった。そんなとき、彼女のそばには猫がいるが、これがもうほとんど動けないので、別にじゃまにもならない。そこでシュワルツァーは一日の大部分を仕事もしないでぶらぶら過ごすのだが、これがまた彼には好ましいのだ。というのは、そういうときにはいつでも次のような機会があるわけで、彼はそんな機会を十分に利用もする。つまり、そんなときにはギーザが住む獅子街へ出かけていき、屋根裏の彼女の小さな部屋まで上がっていって、いつでも鍵がかかっているドアのところで聞き耳を立て、部屋のなかが例外なくなぜかわからぬほど完全に静まり返っているのをたしかめると、また急いでそこを立ち去っていく。ともかく、それでも彼においてもこうした暮しかたの結果がときどき現われた。――だが、けっしてギーザの面前ではそんなことはなかった――それが現われるのは、ほんのちょっとのあいだ目ざめる役所一流の尊大さを滑稽に爆発させるときだけである。その役所一流の尊大さというのは、むろん彼の現在の地位にはすこぶるぴったりしないものだ。とはいえ、そんなときにはたいていはあまりかんばしくない結果になるのだった。そのことはKも体験していた。
 ただ驚くべきことは、人びとが少なくとも橋亭では、尊敬すべきことというよりは滑稽であるようなことに関する場合であってさえ、ある種の尊敬をこめてシュワルツァーのことを話すという点であった。ギーザまでこの尊敬の余徳にあずかっていた。それにもかかわらず、助教員であるシュワルツァーがKよりも途方もなく優越した地位にいるのだと信じていることは、正しくなかった。そんな優越性などはないのだ。学校小使は教師たちにとって、ましてやシュワルツァーのたぐいの教師にとっては、なかなか重要な人物であり、それを軽蔑するようなことがあれば、その返報を受けないではすまない。そういう人物に対して軽蔑的な態度を取ることを身分の上からどうしても捨てかねるというのであれば、少なくともそれに対応するような返礼によってその人物にそんな軽蔑を耐えうるようにしてやらねばならぬのだ。Kはときどきそのことを考えようとした。それにまたシュワルツァーはあの最初の晩以来、こちらに対して借りがあるわけだ。あの晩以後のなりゆきからいうと、シュワルツァーの自分に対する応対のしかたはほんとうはもっともだったといえ、それによってこの男の自分に対する借りは小さくはなっていないのだ。というのは、その場合、あの応対のしかたがおそらくはそれにつづくいっさいのことにとっての方向を決定してしまったのだ、ということは忘れてはならない。シュワルツァーによって、まったくばかばかしいことだが、この村に着いた最初のときからただちに役所の注意が完全に自分の上に注がれるようになってしまったのだ。そのとき彼はまだこの村で完全に不案内で、知る人も逃がれ場所もなく、旅のために疲れきって、まったく途方にくれてあの藁ぶとんの上に寝て、役所のどんな干渉にも身をまかせきりになっていたのだった。たった一晩遅く着いていたら、万事はちがって、おだやかに、半ば人知れずに行われたことだろう。いずれにせよ、だれも自分のことなんか知らず、少しも嫌疑などはもたないで、少なくとも旅の若者として一日ぐらい自分の家に泊めてくれることをためらいはしなかったろう。役に立ち信用がおけるということを見て取ったでもあろうし、そのうわさが近所にも拡まって、おそらくすぐどこかに下僕として住むことになったろうと思われる。もちろん、そんななりゆきは城の役所の眼を逃がれることはなかったろう。だが、夜中に自分のために中央事務局か、あるいはそのほかの電話のそばにいた者がゆすり起こされ、その場ですぐ決定を下すように迫られ、しかも表面は謙虚そうだが、じつはうるさいくらいしつっこく要求され、その上その相手が上の人びとからはおそらく嫌われているシュワルツァーであった、というのと、それともこんな手順とはちがって自分が翌日になってから執務時間中に村長をたずね、自分はよそからきた旅の若者だが、これこれの村の住人のところにすでに泊っていて、おそらくあすはまた出発していくだろうと申し出るのとでは、その二つの場合に大きなちがいがあったのだ。ただし、そうやって申し出たとしても、まったくありそうもない事態になってしまい、自分がこの土地で仕事にありつくというようなことがなかったとしての話だ。もっとも、仕事にありつくといっても、もちろんほんの二、三日のことだったろう。というのは、自分はそれ以上はけっしてこんなところにとどまりたくはないからだ。もしシュワルツァーさえいなかったら、そんなふうなことになっただろう。それでも役所はやはりこの件をいろいろと取り扱ったことだろうが、落ちついて役所風に、おそらく役所がとくに嫌っている相手方のあせりなどには妨げられずにやったことだろう。そこで、じつはKにはいっさいのことに責任がなく、罪はシュワルツァーにあるのだ。だが、シュワルツァーは執事の息子であって、外見上は彼のふるまいは正しかったので、そのためKだけにつぐないをさせることができたのだ。そして、こういうすべてのばかげた結果を生んだ動機はなんだったのだろう? おそらくあの日のギーザの不機嫌な気分なのだ。そのためにシュワルツァーは夜分眠れぬままにうろつきまわり、つぎにKに自分の悩みの埋め合せをさせたのだ。むろん、別な面からいえば、Kはシュワルツァーのこんなふるまいに多くのものを負うているともいえる。ただそのことによってだけ、Kがひとりではけっしてできず、またけっしてしようとはしなかったと思えること、そして役所の側としてもほとんどみとめなかっただろうと思えること、つまりこんなことが役所においておよそ可能だとしての話だが、彼がはじめからてくだを使わず公然と面と向って役所に立ち向かうということが可能となったのだ。しかし、それは悪い贈物であった。なるほどそのためにKはいろいろないつわりや偽善をしないでもすんだが、それはまた彼をほとんど無防備の状態に陥れ、いずれにもせよ闘いにおいて彼を不利にさせたのだ。そして、もし彼が自分自身に向って、役所と自分とのあいだの力のちがいは途方もないくらい大きなものなので、自分にできる嘘とか術策とはその段ちがいの力の差異を本質的に自分に有利なように抑えつけておくことはできなかったのだ、といい聞かせなかったならば、彼は役所との闘いについて絶望させられてしまったことだろう。しかし、これはKがみずからなぐさめるための頭のなかだけの考えごとにすぎなかった。それにもかかわらず、シュワルツァーは今でも彼に借りがあるのだ。あのときKに損害を与えたのであれば、おそらく近いうちに彼を助けることだってできるはずだ。Kはこれからも、きわめて小さなことにおいてさえ、つまりいちばんはじめの予備的な条件においても、助力を必要とするだろう。たとえばバルナバスもやはりそういう点では役に立ちそうには思われなかった。



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