フランツ・カフカ 城 (11〜15章)


 フリーダのために、Kは一日じゅう、バルナバスの家に様子を探りに行くことをためらっていた。フリーダの前でバルナバスを迎えねばならぬようなことがないように、彼は仕事を屋外でやり、仕事のあとでもバルナバスを待ちながらそこにとどまっていた。だがバルナバスはやってはこなかった。今では、バルナルバスの姉妹のところへいく以外にてだてはなかった。ただほんのちょっとのあいだだけ、ただほんの戸口のところからだけたずねてみようと思った。それならすぐもどってこられるだろう。そして、彼はシャベルを雪のなかにさしこんで、走っていった。息もつかずにバルナバスの家に着くと、ちょっとノックしたあとでドアを引き開け、部屋のなかがどんなふうかということには目もくれずに、たずねてみた。
「バルナバスはまだ帰ってきませんか」
 そこではじめて気づいたのだが、オルガはいず、老人夫婦が遠くのほうに離れた机のそばにぼんやりした状態で坐っていて、ドアのところで何が起ったかまだはっきり呑みこめないで、ゆっくりと顔をKのほうに向けた。それから最後に気づいたのだが、アマーリアが毛布をかぶってストーブのそばの長椅子に寝ていて、Kが現われたことにびっくりして飛び起き、心をしずめようとして手を額にあてた。オルガがここにいてくれたら、彼女がすぐ返答してくれ、Kはすぐ帰れたであろうが、彼女がいないのでKは少なくとも二、三歩アマーリアのほうに歩みよって、手をさし出さなければならなかった。アマーリアはその手を取って無言のまま握手した。Kはまた、驚きでかり立てられた両親が歩き廻ったりしないようにしてくれ、と彼女に頼まなければならなかった。すると彼女は二こと三こと何かいってそのとおりにした。Kが聞いたところによると、オルガは内庭で薪を割っていて、アマーリアはすっかり疲れたので――彼女は理由はいわなかった――ちょっと前に横にならないでいられなかった。そして、バルナバスはまだ帰ってこないけれど、すぐ帰ってくるにちがいない。というのは、彼は城にはけっして泊まらない、ということだった。Kはいろいろ教えてもらったことに礼をいって、もう帰ることができたのだが、アマーリアがオルガのもどるのを待たないかとたずねた。だが、残念なことに自分はそのひまがない、といった。するとアマーリアは、きょうはもうオルガとお話しになったのか、とたずねた。彼は驚いて話してないといって、オルガが自分に何か特別なことを知らせようと思っているのか、とたずねた。アマーリアは少し怒ったように口をゆがめ、黙ったままKにうなずいてみせた。それは明らかに別れを告げる挨拶だった――そして、また身体を横たえた。寝たままKの様子をじろじろながめていたが、まるで彼がまだそこにいるのをいぶかしく思っているようであった。彼女のまなざしは、いつものように冷たく、澄んでいて、動かなかった。そのまなざしは彼女がながめているものにまともに向けられているのではなくて、――これはいかにもわずらわしかったが――ほとんど気づかぬくらい少しだが、疑いなくそれをとおり過ぎて遠くのほうへいっているのだった。その原因となっているのは、気の弱さとか当惑とか嘘いつわりといったものではなく、ほかのあらゆる感情をしのぐような孤独を求めるたえることのない欲求であるらしかったが、その欲求はただこんなふうにしてはじめて彼女自身に意識されてくるのであった。Kはそういえば思いあたるような気がしたが、彼がここにきた最初の晩にもこのまなざしが彼の心を捉え、そればかりかこの一家がたちまち彼の心に与えたいとわしい印象のすべてはこのまなざしからきていたのだった。そのまなざしはそれ自体としていとわしいものではなくて、誇らかで、その心を打ち明けようとしない点で正直なものであった。
「あなたはいつでもとても悲しそうですね、アマーリア」と、Kはいった。「なにか悩みがあるんですか? 私はまだあなたのような田舎(いなか)の娘さんを見たことがありません。ほんとうは、きょうはじめて、つまり今やっと、私はそれに気づいたのです。あなたはこの村の出なんですか。ここで生まれたのですか」
 アマーリアは、この最初の問いのほうだけが自分に向けられたのだというように、そうだといって、次にいった。
「それではあなたはオルガをお待ちになるのね?」
「なぜあなたはいつでも同じことをおたずねになるのか、私にはわかりませんね」と、Kはいった。「もうこれ以上ここにいるわけにはいかないんです。家で婚約者が待っていますんでね」
 アマーリアはむっくと起きて肘で身体を支えた。婚約者のことは知らなかったのだ。Kはフリーダの名前をいったが、アマーリアは彼女を知らなかった。アマーリアは、オルガがその婚約のことを知っているのか、とたずねた。Kは、きっと知っていると思う、オルガは自分がフリーダといっしょにいるのを見たし、村ではこんなうわさはすぐ拡がるものだ、といった。だがアマーリアは、オルガはそれを知らない、それを聞いたら彼女は悲しむだろう、というのは彼女はKを愛しているらしいのだ、と保証した。そして、こんなことをいうのだった。オルガはそのことをあからさまにはいわなかった。というのは、オルガはとてもひかえ目なのだ。でも、愛というものはほんとうに思わず知らずおもてに出るものだ、と。それに対してKは、アマーリアは思いちがいしていると確信する、といった。アマーリアは微笑したが、この微笑は悲しげであったが、暗くしかめていた顔を明るくさせ、よそよそしさをうちとけた態度へと変え、秘密を捨て去り、また取りもどすことができるかもしれないが、しかしけっしてもうそのままそっくりは取りもどすことのできない、これまで守ってきた秘密という自分のもちものを捨て去るものであった。アマーリアは、自分はほんとに思いちがいなんかしていない、それどころかもっと知っていることがある、Kのほうでもオルガに愛情を抱いていて、Kが訪ねてくることも、何かバルナバスのたよりを口実にしているが、ほんとうはただオルガが目あてなのだということを知っている、という。でも今では、アマーリアがなんでも知っているんだから、もうあまり固苦しく考える必要はないし、しばしばやってきていいのだ。このことを自分はあなたにいおうと思っていた、といった。Kは頭を振って、自分の婚約のことを思い出させた。アマーリアはこの婚約のことをあまり考えようとはしていないようだった。ただひとりで自分の前に立っているKの直接の印象が彼女にとっては決定的だったのだ。彼女はただ、いつその娘を知るようになったのか、だってあなたはほんの数日前に村へやってきたのではないか、とたずねた。Kは紳士荘でのあの晩のことを語った。それに対してアマーリアはただ簡単に、あなたを紳士荘へつれていくことに自分はとても反対だった、といった。彼女はその言葉の証人としてちょうど入ってきたオルガにも呼びかけた。オルガは片腕にいっぱい薪を抱えて家のなかへ入ってくるところだった。冷たい風に吹かれて新鮮な感じになり、頬を赤くして、元気よく、力強い様子だった。この前のとき部屋のなかに重苦しく立っていたのに対して、仕事によってすっかり様子が変ったように見えた。オルガは薪を投げ出し、こだわりもなくKに挨拶し、すぐフリーダのことをたずねた。Kはそれこのとおりだといわんばかりにアマーリアに目くばせして見せたが、彼女は自分の意見を否定されたものとは思っていないらしかった。Kはそれを見て少しやっきとなって、そういうことがなければやらなかったと思われるほどくわしくフリーダのことを語った。どんなにむずかしい事情の下でフリーダが学校でともかく一種の家政の切り盛りをやっているか、ということをくわしく語って聞かせたが、あんまり急いで話をしているうちに――彼はすぐ家へ帰ろうと思っていたのだ――思わず知らず別れの挨拶の形で二人の姉妹に、一度自分のところへいらして下さい、と招待さえしてしまった。とはいえ、そういってすぐに彼は気がついてびっくりし、言葉をつまらせてしまった。一方、アマーリアは、彼にそれ以上ものをいう余裕を与えず、すぐさま、その招待をお受けする、ときっぱりといった。そこでオルガもそれに合わせなければならなくなって、同じようにお受けするといった。だがKは、急いで別れなければならないという考えにたえず攻め立てられ、またアマーリアの視線の下で不安をおぼえながら、ほかに言葉を飾るようなことは抜きにして白状することをためらわなかった。この招待はよく考えた上のことではまったくなくて、ただ自分の個人的な感情から申し出たものであり、自分は残念ながらそれを固く主張することはできない、その理由は、自分にはまったくわからないのではあるが何か大きな敵意がフリーダとバルナバスの一家とのあいだに存在しているからだ、といった。
「それは敵意ではありませんわ」と、アマーリアはいって、長椅子から立ち上がり、毛布を跳ねのけた。「そんなに大げさなことじゃないんです。それはただ村の人びとの考えの受売りなんですよ。さあ、もうお帰りなさい、婚約者のところへお帰りなさい。あなたが急いでいらっしゃることはわかります。また、わたしたちがうかがうなんていうご心配には及びません。わたしがうかがうってはじめにさっそくいったのは、冗談といたずら半分の気持とからですわ。でも、あなたはしばしばうちへいらっしゃってかまいませんのよ。あなたがいらっしゃるのに対してならきっとさしさわりなんかないでしょうから。あなたはいつだってバルナバスの使いのことを口実にできるはずですからね。なお、あなたがいらっしゃるのをやさしくするため、このことをいっておきましょう。バルナバスは城からの使いをあなたのためにもってくるけれど、もう二度とそれをお伝えするために学校へいくことはできないんです。兄はかわいそうにそんなにほうぼうかけ廻ることはできませんわ。お勤めでくたくたになっているんです。あなたはご自分で知らせを取りにいらっしゃらなければならないでしょう」
 アマーリアがそんなにたくさんのことを話の関連をつけながら話すのは、Kはまだ聞いたことがなかった。彼女の話はまたふだんとはちがった響きをもっていた。一種の威厳がそのなかには含まれていた。それはKが感じたばかりでなく、アマーリアには慣れている姉のオルガもそれを感じているらしかった。オルガは、少し離れて、両手を前に置き、ふたたびいつものように足を開いて、少し前こごみになって立っていた。眼をアマーリアに向けていたが、アマーリアのほうはただKをじっと見ていた。
「まちがいですよ」と、Kはいった。「大きなまちがいですよ、もし私がバルナバスを待っているのはまじめな話ではないなんて思われるなら。役所とのあいだの私のいろいろな用件を解決することは、私のいちばん大きな、ほんとうはただ一つの願望なんです。そして、バルナバスにはそのことで私を助けてもらわなければならないんです。私の期待の多くはバルナバスにかかっています。あの人はすでに一度私をひどく落胆させはしましたが、それはあの人の罪というよりはむしろ私のほうの罪なんです。ここに着いたばかりで頭が混乱しているときのことでした。あのとき私はちょっとした夕方の散歩ぐらいで万事を片づけられるものと思っていました。そして、不可能なことが不可能だと明らかになったことを、私はあの人のせいにしたんです。あなたがたの家族やあなたがたについての判断においてさえも、そのことが影響したのでした。それももうすんだことです。今ではあなたがたのことをもっとよく知っていると信じます。あなたがたはそれに」と、Kはうまい言葉を探してみたが、すぐには見つけられないので、附随的な言葉をいうだけにとどめた。「あなたがたはおそらく、村の人びとのだれよりも気持がやさしいんです、私がこれまで知っている限りの人たちのなかで。でも、アマーリア、あなたは兄さんの勤めは軽視していないにしても、兄さんが私に対してもっている意味は軽視していて、それによって私の頭をまたまどわしているんですよ。おそらくあなたはバルナバスの仕事のことを知っていないんでしょう。それならいいんで、これ以上そのことを追求しようとは思いません。でもおそらくあなたは知っているんでしょう。――むしろそういう印象を私はもっているんだけれど――そうなると、悪いですね。というのは、それはお兄さんが私をだましているということになりますからね」
「落ちついて下さい」と、アマーリアはいった。「わたしは知らないわ。そんなことを知ろうという気をわたしに起こさせるものは何一つありません。何一つそんな気を起こさせるものはありませんわ。あなたのことを考えてあげることだってね。そのためにはわたしはいろんなことをよろこんでしてあげるでしょうけれど。というのは、あなたのおっしゃったように、わたしたちは気持がやさしいんですもの。でも、兄のことは兄のことなんだわ。わたしが兄のことで知っていることといえば、聞こうとも思わないのに偶然ときたま聞くことだけなんです。それとはちがって、オルガのほうはあなたに洗いざらい教えてあげることができます。というのは、オルガは兄が信頼している相手なんですもの」
 そして、アマーリアはまず両親のところへいき、この二人と何かささやいていたが、それから台所へいってしまった。彼女はKに別れの挨拶もしないでいってしまったのだった。まるで、Kがまだ長いあいだここにいるだろうということを知っていて、別れの挨拶なんか不要だ、といわんばかりの態度だった。







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