フランツ・カフカ 城 (11〜15章)

第十五章


 Kはいくらか驚いた顔つきをしてあとに残っていたが、オルガが彼のことを笑って、彼をストーブのそばの長椅子へ引っ張っていった。オルガは、今やっとKと二人きりでここに坐っていることができるのをほんとうに幸福に思っているように見えた。だが、それは静かな幸福であり、嫉妬に曇らせられたものではなかった。そして、まさにこの嫉妬から遠いということ、それゆえどんなきびしさも含まないことが、Kには気持がよかった。彼はオルガの、人の心をそそるようでも威圧的でもなく、内気そうに安らい、いつまでも内気そうにしている青い眼を心楽しく見ていた。まるで、フリーダとおかみとの警告の言葉が彼をこうしたすべてに対していっそう敏感にさせたわけではないが、彼をいっそう注意深く、いっそう明敏にしたかのようであった。そして、オルガが、なぜあなたはアマーリアのことを気持がやさしいなどといったのか、アマーリアにはいろいろなところがあるけれど、ただ気持がやさしいなどとはとてもいえないのに、と不思議そうにたずねたとき、Kはオルガといっしょに笑った。それに対してKは、そのほめ言葉はむろん君、オルガにあてはまるものだったのだけれども、アマーリアはあんまり威圧的なものだから、自分の面前で話されるすべてのものを自分のものとしてしまうばかりでなく、彼女の相手になる人間は自分のほうから進んですべてのものを彼女にわけてやることになるのだ、と説明した。
「それはほんとうね」と、オルガは少しまじめになりながらいった。「あなたが考えていらっしゃるよりももっとほんとうよ。アマーリアはわたしよりも若いし、バルナバスよりも若いけれど、家のなかで事をきめるのはよかれ悪しかれあの人なんです。むろん、妹にはよいところも悪いところもみんなより多いんだわ」
 Kはそれを誇張だと思う、といった。彼女はたとえば兄のことは気にかけていない、それに反してオルガは兄のことについてなんでも知っているといったではないか。
「そのことをどう説明したらいいのかしら」と、オルガはいった。「アマーリアはバルナバスのことも、わたしのことも気にはかけていません。妹はほんとうは両親以外のだれのことも気にはかけていないのです。両親の世話は昼も夜もするんです。今もまた両親の希望をたずねて、両親のために台所へ料理しにいったんですのよ。両親のために無理して起き上がってしまったんですわ。だって、妹はお昼から病気で、ここの長椅子に寝ていたんですもの。妹はわたしたち兄姉のことを気にはかけないけれど、私たちはまるで妹がいちばんの年上でもあるかのように妹にたよりっきりなんですわ。妹がわたしたちのことについて忠告するときには、わたしたちはきっと妹のいうとおりに従うでしょう。でも、妹はそんな忠告なんかしませんし、わたしたちは妹にとって他人のようなものなんだわ。でもあなたは人間についての経験をもっていらっしゃるし、よそからきた人です。それで、うかがいたいけれど、妹はとくに頭がいいように見えないこと?」
「とくに不幸そうに見えますね」と、Kはいった。「でも、あなたがたがあの人を尊敬していることと、たとえばバルナバスがアマーリアの気に入らない、おそらくは軽蔑さえしているような使者の勤務をしていることとは、どうして矛盾しないんです?」
「ほかにやることを知っていたら、バルナバスは自分が全然満足していない使者の勤めなんかすぐやめてしまうでしょうよ」
「弟さんは腕のいい靴屋じゃないんですか」
「そうなのよ」と、オルガはいった。「本職のほかにブルンスウィックの仕事もやっているんです。もし弟がやろうとすれば、昼も夜も仕事があって、たっぷり収入があるんです」
「それなら」と、Kはいった。「使者の勤めの補いがつくわけですね」
「使者の勤めのですって?」と、オルガは驚いてたずねた。「いったい弟がお金をもうけるためにあの勤めを引き受けたとおっしゃるの?」
「そうでしょうね」と、Kはいった。「だってあなたは、あの仕事はあの人を満足させていない、といったじゃありませんか」
「あの勤めは弟を満足させてはいないんです。そして、さまざまな理由からです」と、オルガはいった。「でも、あれは城の勤めですわ。ともかく一種の城の勤めです。少なくともそう思えます」
「なんですって」と、Kはいった。「その点でもあなたがたは疑いをもっているんですか?」
「そう」と、オルガはいった。「ほんとうはそうじゃないんです。バルナバスは事務局へいき、小使たちと仲間づき合いしていますし、遠くのほうから何人かのお役人たちも見ています。かなり大切な手紙もあずかり、口頭で伝える使いもまかされます。それはなかなかたいしたことで、弟があの若さでどんなに多くのものを手に入れたか、わたしたちはそれを誇りにしてもいいはずですわ」
 Kはうなずいた。家へ帰ることはもう考えていなかった。
「あの人は自分のお仕着せももっていますしね?」と、Kはたずねた。
「あの上衣のことをいっていらっしゃるの?」と、オルガはいった。「いいえ、あれはアマーリアがつくってやったんです、まだ使者になる前に。でも、あなたは痛いところへふれてきましたわ。弟はもうずっと前に、城にはないお仕着せじゃなく、役所の制服をもらっていいはずです。そう確約もしてもらったのです。ところが、この点では城の人たちはとてもゆっくりしているんです。そして悪いことは、このゆっくりしていることがどんな意味をもっているのか、だれにもわからないんですの。それは、事がお役所式に進められていることを意味するのかもしれません。でもまた、お役所式の仕事がまだ全然始っていないこと、つまりたとえばバルナバスを今もまだためしに使おうとしていることを意味するのかもしれないのです。そして最後に、お役所式の仕事がすでに終ってしまっていること、何かの理由からあの確約を取り下げてしまったのであり、バルナバスはもう制服をけっして手に入れないということを意味するのかもしれません。それについてこれ以上くわしいことは知ることができませんし、知るとしてもずっとあとになってからなんです。この土地にはこんな言い廻しがあるんですの。おそらくあなたはご存じですわね。役所の決定は小娘のように内気だ、って」
「それはよい観察ですね」と、Kはいった。彼はその言葉をオルガよりもまじめに受け取っていた。「それはよい観察だ。役所の決定はほかの特徴においても娘と共通な点をもっているかもしれませんね」
「おそらくそうでしょうね」と、オルガはいった。「むろん、あなたがどんな意味でそれをいっているのか、わたしにはわからないけれど。おそらくほめるつもりでいっていらっしゃるんでしょうね。でも、役所の制服についていうと、これはまさにバルナバスの心配の一つなんです。そして、わたしたち姉弟は心配をともにしていますから、わたしの心配でもあるんです。なぜ弟が役所の制服をもらえないのかって、わたしたちはおたがいに話し合うんですけれど、わかりはしません。ところで、このことはすべてそう簡単じゃないんですわ。たとえば役人たちはおよそ役所の制服なんかもっていないらしいんですもの。この土地でわたしたちが知っている限り、そしてバルナバスが話してくれている限りでは、美しくはあるけれどあたりまえの服を着て歩き廻っているんですわ。それに、あなたはクラムをごらんになったのね。ところで、バルナバスはもちろん役人なんかじゃなく、いちばん下の階級の役人でさえもありません。またそんなものになろうなんて思い上がってもいません。でも、上級の従僕たちも、むろんこの人たちはこの村でもおよそ見られないんですけれど、バルナバスのいうところによると役所の制服はもってはいないそうです。それはお前たちにとって一種のなぐさめになるんじゃないか、とすぐ人は思うかもしれません。でも、それは嘘ですわ。だって、バルナバスは上級の従僕でしょうか。いいえ、いくら弟がそう思いたがっても、そんなことはいえませんわ。上級の従僕なんかじゃありません。弟が村へやってくるということ、それどころかこの村に住んでいるということからして、弟が上級の従僕なんかじゃないという証拠ですわ。上級の従僕たちは、役人たちよりももっとひかえ目なんです。おそらくそれももっともで、おそらくあの人たちは多くの役人よりも地位が高いんです。二、三のことがそれを物語っています。あの人たちは仕事をすることが少なく、バルナバスのいうところによると、このぬきんでて身体の大きい、頑丈そうな人たちがゆっくりと廊下を通っていくところを見るのは、すばらしい光景だっていうことです。要するに、バルナバスが上級の従僕だなんていうことは、問題にならない話です。そこで、弟がせめて下級の従僕の一人であってくれればいいんですが、ところがまさにこの下級の従僕の人たちこそ役所の制服をもっているんです。少なくとも、あの人たちが村へ下りてくるときにはそうですわ。それはほんとうのお仕着せなんかじゃなく、いろいろちがいがあるんですけれど、それでもともかく服を見ただけで城からやってきた従僕だって見わけがつくんです。あなたはそういう人たちを紳士荘でごらんになりましたね。その服でいちばん目立つ点は、それがたいていぴったり身体についているということです。農夫とか職人でしたらこんな服を着ることはできないでしょう。ところで、そういう服をああしてバルナバスはもっていないんです。それは何か恥かしいとか面目を失うとかいうことだけでじゃなくて(そんなことなら我慢もできるでしょうが)、とくに憂鬱なときには――ときどき、けっしてめずらしいことじゃないんですが、わたしたち二人、つまりバルナバスとわたしとはそんな気持になるんですの――それがあらゆることを疑わさせるんです。バルナバスがやっているのは、およそ城の勤めなんだろうか、とそういうときにわたしたちはたずねてみます。たしかに、弟は事務局へいきます。しかし、事務局はほんとうの城なんでしょうか。そして、たとい事務局が城の一部だとしても、バルナバスが入ることを許されているのは事務局なんでしょうか。弟は事務局へ入っていきます。でも、そこは事務局の全体からいったらほんの一部分にすぎません。次に柵(さく)があって、柵のうしろにはさらに別な事務局がいくつもあるんです。その先へいくことを弟は禁じられてはいませんけれど、弟が上役の人びとをすでに見つけてしまって、その人たちが弟の用事をすませてしまい、弟にもう帰るようにというときに、どうして弟はそれ以上奥へいくことができるでしょう。その上、あそこでは人はいつでも見張られているんです。少なくともみんなそう信じていますわ。そして、たとい弟が先までいったとしても、そこで何もおおやけの用事があるわけでなく、一人の侵入者にすぎないとしたら、入っていったことがなんの役に立つでしょう? この柵をあなたは一定の境界なのだと考えてはいけません。バルナバスもわたしにそのことをくり返して注意しますわ。柵は弟が入っていく事務局にもあるんです。弟が通り抜けていく柵もあるんです。その柵は弟がまだ越えたことのない柵と別にちがっているようには見えません。そのためにも、これらのうしろのほうの柵の背後にはバルナバスが入った事務局とは本質的にちがった事務局があるとは、すぐには考えられません。ところが、あの憂鬱な気分に襲われるときには、そう思いこんでしまうんです。すると疑いが大きくなっていき、それにはもうまったく逆らうことができません。バルナバスは役人と会い、使いの命令を受けます。それはどんな使いなんでしょう。現在、弟は自分でいっているようにクラムのところに配属されて、クラム自身から命令を受け取ります。ところが、これがとてもたいしたことで、上級の従僕たちだってそんなところまではいきつくことはできません。それはほとんど過分だといっていいくらいで、そのことがわたしたちを不安にさせるんですわ。直接クラムに配属され、あの人と口から口へ話をするということを、考えてみても下さい。でも、このとおりなのでしょうか? そうです、このとおりなんです。でもなぜバルナバスは、あそこでクラムと呼ばれている役人がほんとうにクラムなのだろうか、なんて疑っているんでしょう?」
「オルガ」と、Kはいった。「冗談をいおうなんてしちゃいけませんよ。クラムの外見についてどうして疑いなんか生まれる余地があるだろう。だって、あの人がどんな外見をしているか、人びとがよく知っているじゃありませんか。私自身もあの人を見たことがあるんだ」
「とんでもないわ、K」と、オルガはいった。「それは冗談なんかじゃなくて、わたしのいちばんまじめな心配なんです。でも、このことをお話しするのは、なにもわたしの心を軽くして、あなたの心を重くしようなんていうためじゃないの。そうじゃなくて、あなたがバルナバスのことをたずねていらっしゃるし、アマーリアもあなたに話すようわたしに頼んだからですわ。そして、くわしいことを知るのはあなたにも役に立つと思うからなの。またバルナバスのためにもこうやってお話ししているんです。あなたが弟にあまりに大きすぎる期待をかけないように、また弟があなたを失望させたり、次にあなたの失望で弟が悩んだりしないためになのよ。弟はとても神経質なんです。たとえばゆうべも眠らなかったんですよ、あなたがゆうべ弟に不満だったからですわ。あなたがバルナバスのような使いの者しかもっていないのは、あなたにとってひどくまずいことだって、あなたはいったということですね。この言葉が弟を眠れなくしてしまったんです。あなた自身はきっと弟の興奮に、たいして気づかなかったでしょうけれど。城の使者っていうものはとても自分を抑えなければならないんです。でも、弟にとってはそれはやさしいことじゃないんですわ。あなたの相手になるときだって、やさしいことではないんです。あなたはなるほどあなたのつもりでは弟に過大なことを要求しているわけじゃないんでしょう。あなたは使者の勤めについての一定の考えをもっていらっしゃるんだし、それによってあなたの要求を計っていらっしゃるんです。でも、城では人びとは使者の勤めについてあなたとはちがった考えをもっているんですの。その考えはあなたのとは一致するはずがありませんわ。バルナバスが勤めのために身を犠牲にしたとしても、だめでしょう。ところで、弟は困ったことにときどき身を犠牲にする用意があるように見えます。もっとも、バルナバスのやっていることがほんとうに使者の勤めなのだろうか、という疑問さえなかったら、弟のやることに従わないわけにいかないだろうし、それに対して何もいってはいけないでしょう。もちろん、あなたに向ってはそのことについての疑いを口にしてはいけないんです。そんなことをするなら、弟にとっては弟自身の生存の基盤を掘り返してしまうことを意味するでしょうし、自分がまだ従っていると信じているいろいろな掟(おきて)を乱暴に傷つけることになるでしょう。そして、わたしに対してさえも弟は打ち明けてはくれないんです。お世辞をいったり、接吻をしてやったりして、わたしは弟の口からそうした疑いを聞き取らなければなりません。そして、弟は話してしまってからも、その疑いが疑いであることをみとめまいとして抵抗するんです。弟は何かアマーリアと共通なものを血のなかにもっているんですわ。わたしこそ弟の信頼しているただ一人の人間ですけれど、弟はわたしにみんな打ち明けて話すわけじゃありません。でも、わたしたち二人はクラムについてはときどき話します。わたしはまだクラムを見たことはありません。――あなたもご存じのように、フリーダはわたしがあまり好きじゃありませんし、クラムの姿を一度ものぞかせてはくれなかったんです――でも、もちろん、クラムの外見は村ではよく知られていますわ。何人かの人びとはあの人を見ましたし、みんながあの人について聞いています。そして、実際に見たところやうわさや、それにまたいろいろな底意から出ているにせものの評判や、そうしたことをまぜ合わせてクラムのイメージがつくり上げられてしまったんです。それはきっと根本的な特徴についてはほんものと一致しているんですわ。でも、ただ根本的な特徴についてだけなんです。そのほかはいろいろ変わるんですが、おそらくけっしてクラムのほんものの外見ほどには変わらないでしょう。あの人が村にやってくるときと、村を出ていくときとではちがうし、ビールを飲む前と飲んだあととではちがうし、起きているときと眠っているときともちがい、ひとりでいるときと人と話をしているときともちがうんです。そして、このことからわかることは、上の城ではほとんど根本的にちがっているにちがいないっていうことです。そして、村のなかだけでもかなり大きなちがいがあって、そのことが人に知らされています。身長、態度、肥りかた、髯なんかのちがいです。ただ服装については知られていることが幸い一致しています。あの人はいつも同じ服を着ています。長いすそをした黒の上衣です。ところで、もちろんこうしたちがいはけっして魔術なんかのために起こることじゃなくて、とてもわかりきったことですけれど、ただ見る人が置かれている瞬間的な気分、興奮の程度、希望とか絶望とかの無数の段階から生まれるんですわ。それに見る人だって、たいていはほんの一瞬間だけしか見ることが許されないんですもの。こういうことはみんな、バルナバスがしばしばわたしに説明してくれたことをそっくりそのままあなたにお話ししているんですわ。そして一般には、もし個人的に直接こうしたことにかかわりをもっているのでなければ、これで安心できるはずです。けれども、わたしたちは安心ができません。バルナバスにとっては、自分がほんとうにクラムと話しているのか、そうでないか、ということは死活の問題ですもの」
「私にとってもそれに劣らぬくらいの問題ですね」と、Kはいった。そして二人はストーブのそばの長椅子の上で前よりも身体をよせ合った。



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