フランツ・カフカ 城 (11〜15章)


 オルガのかんばしくないさまざまなニュースによって、Kは当惑してしまったが、それでも一つだけ埋合せになる点を見つけた。その埋合せになるというのは大部分は次の点にあった。つまり、少なくとも外面的に自分自身ととてもよく似た事情にある人間をここで見出したということ、つまり彼が仲間入りできるような人間、フリーダとのあいだのようにただ大部分の点でというのではなくて、多くの点でわかり合えるような人間をここに見出したということであった。なるほどKはバルナバスの使いの成功についての期待を次第に失ってしまっていたが、バルナバスの事情が上の城で悪くなればなるほど、それだけこの下の村では彼自身に近づくのだ。バルナバスとその妹のアマーリアとのようなこんな不幸な努力がこの村そのものから生まれ出ようなどということを、Kはこれまで一度も思ってもみなかったであろう。もちろんまだ事情はとても十分には説明されていないし、しまいにはまったく逆のほうへ向ってしまうかもしれなかった。オルガのある種の無邪気な人柄にすぐ誘惑されてしまって、バルナバスの誠実さのことも信じてしまうようなことがあってはならないのだ。
「クラムの外見についての話は」と、オルガは言葉をつづけた。「バルナバスはほんとうによく知っています。たくさんの話を集めたり、比べてみたりしました。おそらく多すぎるくらいですわ。また一度は自分でクラムの姿を村で馬車の窓越しに見ました。あるいは、見たと信じているんです。だから、あの人を見わける準備は十分にできているんですわ。ところが――あなたはこのことをどう説明なさるかしら?――バルナバスがある事務局へ入っていき、何人かの役人たちのうちの一人を示され、これがクラムなのだ、といわれたとき、クラムだと見わけることができなかったんです。そして、そののちも長いこと、その人がクラムだということになじむことができませんでした。で、今、あなたがバルナバスに、人びとがクラムについて抱いている普通の観念とあの人のほんとうの姿とがどの点でちがっているかとたずねても、弟は答えることはできません。それともむしろ、あなたに答えて、城でのあの役人のことをいろいろいうかもしれませんけれど、その弟がいうところとわたしたちの知っているクラムの姿とは、すっかり同じものになってしまうのです。『それなら、バルナバス』と、わたしはいうんです、『なぜ疑うの、なぜ自分を苦しめるの?』って。するとそれに対して、弟は眼に見えて苦しそうな様子で、城でのあの役人の特徴を数え上げ始めるんです。でも、弟はそうした特徴をありのままに話しているというよりは頭のなかで考え出しているように見えます。その上、そうした特徴はひどく取るにたらぬものなので――たとえば頭でうなずく特別なしぐさとか、あるいはただボタンをはずしたチョッキのこととかなんですわ――そんなものをまじめに受け取るわけにはいきません。わたしにもっと重要だと思われるのは、クラムがバルナバスと会うやりかたです。バルナバスはそのことをわたしにしばしば話してくれましたし、絵に描いて見せてくれさえもしました。普通、バルナバスは大きな事務室へつれていかれます。でも、それはクラムの事務局じゃありませんし、一人一人の役人の事務局なんかじゃないんです。その部屋は奥行きいっぱいに、壁から壁までとどいているたった一つの立ち机によって二分されています。その片方の狭いほうの部分は、二人の人間がやっとすれちがって歩けるくらいの広さですが、それが役人たちの部屋なんです。広いほうは、陳情者や見物人や従僕や使者などの部屋です。机の上にはページを開いて、大きな本が並んでのっています。たいていの本のところには役人たちが立って、それを読んでいるんです。けれども、いつまでも同じ本のところに立ちどまっているのではないのですが、本を交換するわけじゃなくて、場所を交換するんです。バルナバスにとっていちばんびっくりすることは、こうした場所の交換のときに、部屋が狭いため、役人たちがたがいに身体を押しつけ合ってすれちがっていかなければならないことだそうです。その大きな立ち机のすぐ前に低い小さな机があって、そこに書記たちが坐っていて、彼らは役人たちが望むときに口授によって書くのです。その有様にもバルナバスはいつでも驚いています。役人たちのはっきりした命令が下されるわけでもなく、また高い声で口授されるのでもないんです。口授が行われているなんてほとんど気がつかないくらいで、むしろ役人は前と同じように本を読んでいるように見えるんですが、ただその場合に、役人がそれでも何かささやいて、書記がそれを聞いているというわけです。しばしば役人があんまり低い声で口授するものですから、書記は坐っていてはそれを全然聞き取ることができないので、そこでいつでも跳び上がっては相手が口授していることを聞き取ろうとし、つぎに急いで坐ってそれを書き取り、今度はまた跳び上がる、というふうにつづくんです。なんて奇妙なんでしょう! ほとんどわけがわからぬくらいですわ。むろんバルナバスにはこうしたいっさいをながめている時間があります。というのは、弟はクラムの眼にとまるまで、そこの見物人の部屋に何時間でも、ときどきは何日でも立っているんです。そして、クラムがすでに弟を見て、バルナバスが気をつけの姿勢に身体を正しても、まだ何も決定が下されたわけじゃないんです。というのは、クラムはまた弟から本へと眼を転じ、弟のことを忘れてしまうかもしれないんですわ。そういうことはしょっちゅうあるそうですの。でも、そんなに重要でない使者の勤めなんてどんなものなんでしょうね? バルナバスが朝早く、これから城へいくんだ、っていうと、わたしは悲しくなります。このおそらくはまったく無益と思われる道、このおそらくはむだに失われる一日、このおそらくはむなしい期待。そんなすべてはいったいどんなものなんでしょう? そして、家には靴屋としての仕事がたまっているんですわ。それはだれもやるものがなくて、それをやるようにってブルンスウィックにせき立てられるんです」
「なるほどね」と、Kはいった。「バルナバスは、命令をもらうまで、長いあいだ待たなければならないんですね。それはよくわかることだ。ここでは使用人があり余っているようだからね。だれもが毎日、何か命令をもらうわけにはいかないんだから、それについてあなたたちは嘆く必要はないですよ。きっとだれでもそうなんだから。でも、しまいにはバルナバスも命令をもらうでしょうよ。私自身のところへ弟さんはもう二通の手紙をもってきましたよ」
「ほんとうにそうかもしれませんわ」と、オルガはいった。「わたしたちが嘆くのはまちがっているのかもしれないんだわ。とくに私はそうね。わたしったら、すべてをただ耳で聞いて知っているだけなんだし、また女の身ではそれをバルナバスのようによく理解できませんもの。それに弟はまだたくさんのことをわたしにはいってないんですものね。ところで、手紙のことがどうなっているか、たとえばあなた宛の手紙がどうなっているのか、ということをまあ聞いて下さいな。そうした手紙は直接クラムからもらうんじゃなくて、書記からもらうんです。任意の日、任意の時間に――そのために使者の勤めは、どんなにやさしく見えても、とても疲れるんですわ。だってバルナバスはいつでも注意していなければならないんですもの――書記がバルナバスのことを思い出して、弟に合図をするんです。クラムがそのことを命令したのでは全然ないらしいんですの。クラムは静かに本を読んでいます。もっとも、ときどきは(でも、これはふだんでもしばしばやるんですけれど)、クラムはバルナバスが入っていくとちょうど鼻眼鏡をふいています。眼鏡をふきながら、おそらくバルナバスをじっと見ます。もっとも、クラムが鼻眼鏡なしでものが見えるとしてのことですが。バルナバスは鼻眼鏡なしでは見えないんじゃなかろうか、って疑っていますわ。クラムは眼鏡をはずしているときは、両眼をほとんど閉じて、眠っているように見えるし、ただ夢のなかで鼻眼鏡をふいているように見えるんですもの。で、そうしているうちに書記が机の下にあるたくさんの書類や書簡類から、あなたに宛てた一通の手紙を取り出します。ですから、それは書記がちょうど今書き終った手紙なんかじゃなくて、むしろ封筒の外見からいうと、すでに長いあいだそこで眠っていたとても古い手紙なんですわ。でも、古い手紙なら、なぜバルナバスをそんなに長いこと待たせるんでしょうね? それからあなたもね? そして、もう一つ、その手紙もね。というのは、手紙は今ではもう古びてしまっているんですもの。そして、そのためにバルナバスは、かんばしくないのろのろした使者だっていう悪評を立てられてしまいました。といって書記にとっては仕事は簡単で、バルナバスに手紙を渡し、『クラムからK宛だ』といいます。それでバルナバスは追い出されるわけです。ところで、それからバルナバスは息もつかずに、やっと手に入れた手紙をシャツの下の肌にじかにつけて、家へ帰ってきます。それからこの長椅子にわたしたち二人は今みたいに坐り、弟が話して聞かせ、わたしたちはいっさいのことを一つ一つ検討し、弟がなしとげたことの価値を計るんです。そして結局は、それがとてもちっぽけなことで、しかもそのちっぽけなことさえもどうもあやしいものだということがわかります。そこでバルナバスは手紙を投げ出してしまい、それを配達する気にもなれず、かといって寝にいく気にもなれないので、靴屋の仕事にとりかかって、一晩じゅうあの小さな椅子に坐ったまま夜を過ごすのです。K、こんなふうなんですわ。そして、これがわたしの秘密なんです。おそらくあなたはもう、アマーリアがわたしの秘密のことなどあきらめていることを、何も不思議とは思わないでしょう」
「で、手紙は?」と、Kがたずねた。
「手紙ですって?」と、オルガはいう。「そう、しばらくして、わたしがバルナバスをせき立てると(そのあいだに何日も何週間もたってしまうことがあるんですよ)、弟はやっと手紙を取り上げて、それを配達しに出ていきます。こうした外面的なたいしたことではない点については、弟はとてもわたしのいうままになるんですの。つまり、わたしは弟の話の最初の印象に打ち勝ってしまうと、また気を落ちつけることができるんです。弟はおそらくわたし以上に知っていることがあるため、気を落ちつけるということができないんですわ。そこでそうなるとわたしは、くり返してこんなことをいえるんですわ。『バルナバス、いったいあんたはどんなことを望んでいるっていうの? どんな経歴、どんな目標のことを夢見ているの? あんたはわたしたち、いやこのわたしをすっかり見捨てなければならないようなことにまでなることを望んでいるんでしょう? それがあんたの目標じゃないの? わたしはそう思わないわけにはいかないじゃないの。だって、そうじゃなければ、なぜあんたがこれまでになしとげたことにそんなに不満なのか、わけがわからないじゃないの。ねえ、まわりを見廻してごらんなさいな。わたしたちの隣人のあいだでだれがあんたほどまでになったっていうの? もちろん、あの人たちの状態はわたしたちのとはちがうし、あの人たちは自分たちの暮しから抜け出ようと努力するいわれなんかありません。でも、そんな比較なんかしなくとも、あんたの場合がいちばんうまくいっているんだって、見ないわけにはいきませんよ。いろいろな障害があることはあります。いろいろな疑わしいことやいろいろな幻滅もあります。しかし、それはただ、わたしたちがもう前から知っていたこと、つまり、あんたは人から何一つもらったりはできないのだということ、あんたはどんな小さなことでも一つ一つ自分で闘い取らねばならないのだということを意味するだけなのよ。けれどそれはむしろ誇っていい理由であって、打ちひしがれてしまう理由じゃないわ。そして、あんたはわたしたちのためにも闘っているのじゃないの? それはあんたにとっては全然意味がないの? あんたにはそのことで新しい力が少しも湧(わ)いてはこないの? そして、こんな弟をもっていることをわたしが幸福に思い、ほとんど得意にさえ思っていることは、あんたにはなんの確信も与えないの? ほんとうに、あんたが城でなしとげたことではなくて、わたしがあんたのそばでなしとげたことで、あんたはわたしを失望させるんだわ。あんたは城のなかへ入っていいのだし、事務局をいつでも訪ねていけるし、一日じゅうクラムと同じ部屋で過ごすし、公認の使者であって、役所の制服を請求することができるし、大切な書簡類をまかされてだっているわ。そういうすべてをあんたはやっているし、そういうすべてをあんたは許されているんです。ところが、この村に下りてくると、わたしたちは幸福のあまり泣いて抱き合うことをしないで、わたしを見るとあんたからはすべての勇気が抜けてしまうように見えるんだわ。あらゆることをあんたは疑い、靴屋の仕事だけがあんたの心をそそるというわけね。そして、わたしたちの未来を保証してくれる手紙のことはほっぽり放しにしておくんだわ』こんなふうにわたしは弟にいってやるんです。そして、わたしがこんなことを何日もくり返したあとで、弟は溜息をもらしながら手紙を取り上げて出ていくんです。でもそれはおそらく私の言葉がそうさせるわけでは全然なくて、ただ駆り立てられるように城へひきつけられていくんですわ。命令されたことをやりとげないでは、城へいく気にはとてもなれないでしょうからね」
「でも、あなたが弟さんにいうことは、みんなもっともじゃありませんか」と、Kはいった。「あなたはみごとに正確にいっさいのことを要約しましたね。あなたの考えかたはなんて驚くほど[#「驚くほど」は底本では「驚くど」]明晰(めいせき)なんでしょう!」
「いいえ」と、オルガはいった。「あなたは思いちがいしているのよ。そしておそらくわたしは弟にもそんなふうに思いちがいさせているんです。いったい弟は何をなしとげたというんです。事務局に入ることが許されるけれど、それはけっして事務局のように見えないで、むしろ事務局の控室、いえ、控室でさえないんです。そして、そこには、ほんとうの事務局に入ることが許されないすべての人たちが引きとめられるんです。弟はクラムと話をします。けれど、その相手がクラムなのでしょうか。それはむしろ、クラムに少しばかり似ているほかの人なのではないでしょうか。おそらく秘書で、クラムに少しばかり似ていて、クラムにもっと似るようにと努力しており、クラムがやるように寝ぼけたような夢見ているような様子をしてもったいぶっている人なんでしょう。クラムの人柄のうちのこんな部分はいちばんまねしやすくて、まねしてみようとする人がたくさんいます。クラムの人柄そのほかの点については、そういう人びともむろん用心して指をふれないようにしています。そして、クラムのようにみんながあこがれていて、それでもまれにしか会えない人は、人びとの想像のなかではたやすくいろいろな姿を取るものです。たとえばクラムはこの村でモームスという駐在秘書を使っています。そう? あなたはあの人を知っていらっしゃるの? この人もとてもひかえ目にしています。わたしはこれまでに二、三度あの人を見ましたけれど。若い強そうな人です。そうでしょう? だからおそらくクラムには全然似ていません。それでも村には、モームスはクラムなのだ、クラム以外のだれでもない、と誓っている人たちだっているんです。こうして人びとは、自分の頭のなかの混乱をいよいよひどくしていっているのですわ。そして、城のなかでだってこれとちがうでしょうか。だれかがバルナバスに、あの役人がクラムなのだといいます。すると、ほんとうにその役人とクラムとの二人のあいだには似た点ができ上がるんです。でもその似た点はバルナバスがいつも疑っているものです。そして、すべてが弟の疑いを証明しているんです。クラムがこの一般の部屋でほかの役人たちのあいだに立ちまじって、鉛筆を耳に挾んで、もみ合いをやっているなんてはずがあるでしょうか。そんなことは全然ありそうもありません。バルナバスは、少し子供らしく、ときどき――でも、これは信頼できる気分なんです――いうのをつねとしています。あの役人はまったくクラムそっくりだ。もしあの人が自分の事務局で自分自身の机に坐って、その部屋のドアには彼の名前が書かれているならば、おれはもう疑いなんかもたないんだけれど、って。とはいっても、もしバルナバスが上の城にいるとき、すぐ何人かの人びとにほんとうの事情はどうなっているんだとたずねたなら、そのほうがずっと分別があることになるんですけれど。弟のいうところによると部屋のなかには十分たくさんの人がいるんですもの。そうすれば、その人たちのいうことは、何もきかれないのにバルナバスにあれがクラムだと教えた人のいうところよりはずっと信頼できるものでないにしても、少なくともその人たちがいっているさまざまなことからなんらかの拠(よ)りどころか折り合えるところかが出てくるにちがいありませんわ。これはわたしの思いつきでなく、バルナバスの思いつきなんですが、弟はそれを思いきって実行することができません。自分の知らない規則をどうかして思わずも犯してしまって、自分の地位を失うのではないか、という恐れからだれにも思いきって話しかけられないんです。それほど自分の地位が不安定だと感じているんですわ。このほんとうはみじめな不安定さが、どんな言葉よりもはっきりと弟の立場をわたしにさとらせるんです。こんな無邪気な質問のために思いきって口を開けないでいるときには、城でのすべては弟にとってどんなに疑わしく、おびやかすように見えることでしょう。わたしはそのことを考えてみると、わたしが弟をあの見知らぬ部屋部屋にほっておくのはお前に責任があるのだって自分を責めるんです。あそこでの事の進みかたののろさは、臆病というよりはむしろ無鉄砲な弟でさえおそらくふるえるくらいのものなんです」
「ここであなたはとうとう決定的な点まできたようですね」と、Kはいった。「つまりこうなのです。あなたが語ったすべてによると、今でははっきり私にもわかるように思います。バルナバスはこの任務のためには若すぎるんです。弟さんが語ることは何一つ、そのまままじめに取ることはできませんよ。上の城では弟さんは恐れのために消えてなくなるようなので、あそこではよく観察することができません。そして、それなのに城から下りてきて、ここで話すよう無理にいうと、混乱したおとぎばなしを聞かされるということになってしまうんですよ。私はこれをちっとも不思議とは思いません。役所に対する畏敬というものは、この村のあなたがたには生まれついたときから身についたもので、さらに生涯にわたって、さまざまなやりかたで、またあらゆる側からふきこまれるし、あなたがた自身もできる限りそれに調子を合わせているんです。でも私は根本においてはそれに何も反対しません。もしある役所がいいものなら、なぜそれに畏敬の気持をもってわるいということがあるでしょうか。ただ、そうだとしても、バルナバスのような村の範囲から出たことがない経験の浅い若者を突然城へやり、彼からありのままの知らせを要求しようとしたり、彼の言葉の一つ一つを啓示の言葉のように受け取って調べたり、その言葉の解釈に自分自身の生活の幸福をゆだねたりしてはならないんです。むろん私もあなたと同じように、弟さんのことを思いあやまって、あんまり期待をかけたものだから、弟さんに幻滅を味わわされることになったのです。どちらにしたって、ただ彼の言葉に根拠を置いたのです。つまりほとんど根拠をもたなかったわけです」
 オルガは黙っていた。Kはつづけていった。
「私にとっては、弟さんに対する信頼という点であなたをぐらつかせることはやさしいことではありません。なぜかっていうと、あなたが弟さんをどんなに愛し、あの人のことをどんなに期待しているか、ということがよくわかるからです。でも、あなたの弟さんに対する確信をゆるがさなければなりません。あなたの愛と期待のためになおさらそうなんです。というのは、考えてもごらんなさい。いつまでもあなたの背後には何かがあって――それがなんであるかは、私にはわかりませんが――バルナバスが[#「バルナバスが」は底本では「バルバナス」]なしとげたものではなくて、あの人に恵まれたものを完全に見わけることを妨げているじゃありませんか。あの人は事務局へ、あるいはお望みなら控室へ入っていくことが許されています。ところで、それは控室としますが、もっと先へ通じるドアがあって、もし才覚があれば乗り越えていくことができる柵もあります。たとえば私にとっては、この控室は少なくとも今のところは完全に近よりがたい場所です。バルナバスがどんな人とそこで話しているのかは、私にはわかりません。おそらく例の書記はいちばん下級の従僕なんでしょう。でも、彼がいちばん下の従僕であっても、彼はすぐ上の者のところへつれていくことができます。そこへつれていけないにしても、少なくともその人の名前をいうことができます。その名前をいうことができないにしても、自分が名前をいうことのできるだれかを教えることができます。そのクラムなる人物はほんとうのクラムとはほんのわずかでも共通なものをもってはいません。似ているというのは、興奮のためにめくらになったバルナバスの眼にだけそう見えるんでしょう。その男は役人たちのうちでいちばん下級の者かもしれないし、それどころか全然役人なんかじゃないのかもしれません。でもそんな男でもなんらかの仕事を机の下にもっていて、大きな本を開いて何かを読んでおり、何かを書記にささやき、長いあいだには彼のまなざしがバルナバスの上に落ちるときに、何かを考えているんです。そして、こうしたすべてがほんとうではなく、その男とその男の行為とが全然なんの意味ももたないとしても、それでもだれかがその男をその地位にすえたのであって、そんなことをやったのは何か意図をもっていてのことにちがいありません。こうしたすべてによって、何かがそこにあり、何かがバルナバスにさし出されているのだ、少なくとも何かがそうなのだ、といいたいと思います。そこで、バルナバスがその何かによってただ疑惑や不安や絶望以外に何も手に入れられないとするなら、それはただ弟さん自身の罪なんですよ。そして、こう考えてきたのは、まだやはりとてもありえないと思われるようないちばん不利な場合から出発しての話ですよ。というのは、私たちは手紙を手に入れているんですからね。その手紙を私はなるほどたいして信用してはいないけれど、それでもバルナバスの言葉よりもずっと信用していますよ。それが無価値な古い手紙で、まったくそれと同じように無価値な手紙の山のなかから手あたり次第に引き抜かれたもので、任意の一人の男の運勢を山のようなおみくじのなかからついばんで引き出すために、歳(とし)の市でカナリヤを使うぐらいにしか頭を使わないで、手あたり次第に引き抜かれた手紙であるとしても、これらの手紙は少なくとも私の仕事とかかわりをもっているんです。おそらくは私の利益のために宛てられてきたものでなくとも、明らかに私に宛てられたものなのです。それに村長とその奥さんとがうけ合ったところによると、クラム自身の手でつくり上げられたもので、ふたたび村長の言葉によると、私的でほとんどはっきりしない意味ではあるけれど、ともかく大きな意味をもっているものなんです」
「村長がそういったんですか?」と、オルガがたずねた。
「そうですとも。村長がそういったんです」と、Kが答えた。
「そのことをバルナバスに話してやりましょう」と、オルガは早口にいった。「それは弟をとても元気づけるでしょう」
「あの人は元気づけてなんかもらう必要はありませんよ」と、Kはいった。「弟さんを元気づけるということは、あの人のいうことは正しいのだ、ただ今までのやりかたを貫いて前進していくべきだ、とあの人にいうようなものです。だが、まさにこのやりかたでは弟さんはけっして何かをなしとげることはできないでしょう。両眼に繃帯(ほうたい)した人に向って、繃帯を通して眼をじっとこらすようにといくら元気づけたところで、その人はけっして何かを見ることはできませんからね。繃帯を取り除いてはじめてその人はものを見ることができるんです。バルナバスに必要なのは助力であって、元気づけることじゃないんです。まあ考えてもごらんなさい。あの上の城にはからみ合って解きほどすことのできない大きな役所があります。――私はここへくるまでは、その役所について大体の観念をもっていると思っていたんですが、そんなものはみんな、なんて子供らしいことだったんでしょう――つまりあそこには役所があって、バルナバスはそれへ向って歩んでいくのです。そのほかにはだれもいず、あの人だけで、かわいそうなくらいひとりぽっちです。もし一生のあいだ姿を消して、事務局の暗い片隅にうずくまりつづけるというようなことにならなければ、それだけでもあの人の身に余る名誉なんですよ」
「K、あなたは」と、オルガはいった。「わたしたちがバルナバスの引き受けた任務のむずかしさを過小に評価していると思わないで下さい。役所に対する畏敬では、わたしたちに欠けるところはありません。それはあなた自身がおっしゃったことだわ」
「でも、それは迷わされた畏敬というものですよ」と、Kはいった。「おかどちがいの畏敬です。そうした畏敬は対象の品位を傷つけるものですね。バルナバスがあの部屋へ入る許可を濫用して、あそこで何もしないで毎日を過ごすとか、あるいは村へ下りてきて、今まで身体をふるわせながら向っていた人たちを疑ったり、けなしたりするとか、また弟さんが絶望のためか、それとも疲労のためか、手紙をすぐ配達しないで、自分にまかされた任務をすぐ果たさないとかいうのは、それでもまだ畏敬といえるでしょうか? それはおそらくもう畏敬などというものではないでしょう。ところで、この非難はもっと先まで、つまり、オルガ、あなたにまで及ぶんですよ。あなたを非難しないでおくわけにはいきません。あなたは役所に対して畏敬の気持をもっていると信じているのに、まだまだ若くて弱々しいバルナバスを、ただひとりほうり出して城へいかせた、少なくとも引きとめなかったんですからね」
「あなたがわたしに向ける非難は」と、オルガはいった。「自分でもとっくにわかっていますわ。とはいっても、わたしがバルナバスを城へやったということは、わたしには非難できないはずです。わたしが弟をやったのではなく、弟が自分でいったんです。でも、わたしはおそらくあらゆる手段で、力ずくでも、あるいは何かたくらみをやっても、または説得してでも、弟を引きとめるべきだった、とおっしゃるんでしょうね。わたしは弟を引きとめるべきだったのかもしれません。でも、もしきょうがあの決定的な日であって、わたしがバルナバスの困難、わたしたち家族の困難をあの日と同じように感じているとして、きょう、バルナバスがまたあらゆる責任と危険とをはっきりと意識して、微笑しながら静かにわたしのところから離れて出ていくなら、わたしはそのあいだにしたあらゆる経験があったってやはり弟を引きとめはしないでしょう。あなただって、もしわたしの立場にあったら、ほかにはしかたがないだろう、と思いますわ。あなたはわたしたちの困難をご存じないんです。そのために、あなたはわたしたち、ことにバルナバスに対して不当な扱いをされるんですわ。あのころはわたしたち、今よりも希望をもっていました。でも、あのころでも、わたしたちの希望はけっして大きなものではなかったんです。大きかったものはわたしたちの困難だけで、それは今もそのままつづいているんです。いったいフリーダはわたしたちについてなんにもいわなかったんですか?」
「ただほのめかしただけでしたよ」と、Kはいった。「はっきりしたことは何もいいませんでしたよ。でも、あなたの名前を聞いただけであれは興奮しますね」
「おかみさんも何も話しませんでしたか?」
「いや、何も」
「そのほかのだれも?」
「だれもなんともいわなかったですよ」
「もちろんそうですわ。だれだってどうして話せるものですか。だれでもわたしたちについて何かを知っています。ほんとうのことが人びとの耳に入るとしてのことですが、ほんとうのことか、少なくとも何か人から聞いたうわさか、あるいはたいていは自分で考え出した評判か、そんなものを知っています。そして、だれでも必要以上にわたしたちのことを考えています。でも、だれもそれを話したりはしないでしょう。そうしたことを口に出すことを遠慮するんです。そして、それももっともなんですわ。このことをお話しするのは、K、あなたに向ってでも、むずかしいことなんです。それに、あなたはこれを聞いてしまうと、よそへいき、それがどんなにあなたに関係がないように思われるにしろ、わたしたちについてもう何も知ろうなんて思わなくなるんじゃないでしょうか。そうなればわたしたちはあなたを失ってしまうわけです。あなたは今ではわたしにとっては、わたし告白するけれど、バルナバスのこれまでの城の勤めよりもほとんど大切なくらいなんですよ。それでも――この矛盾はすでに一晩じゅうわたしを苦しめているんですが――これをあなたに聞いていただかなければなりません。というのは、そうでないとあなたはわたしたちの置かれている状態がさっぱりわからなくて、いつまでもバルナバスに対して不当な態度を取ることでしょう。そして、それがとりわけわたしにはつらいことなんですわ。もしあなたがそれをご存じないとなると、わたしたちは必要な完全な一致をえられないでしょうし、あなたがわたしたちを助けて下さることも、わたしたちのほうからのなみなみでない助力をあなたが受けて下さることも、できないでしょう。でもまだ一つの問いが残っています。それは『いったいあなたはそれをお知りになりたいのですか』という問いです」
「なぜそんなことをきくんですか」と、Kはいった。「それが必要なことなら、それを知りたいと思いますよ。でも、なぜそんなことをきくんですか」
「迷信からですわ」と、オルガがいった。「あなたはわたしたちの事件に引きこまれてしまうでしょう、なんの罪もなしに、バルナバスよりもずっと罪があるわけでもないのに」
「早く話して下さい」と、Kはいった。「私はこわくなんかありません。それに、あなたは女らしい不安のために事態を実際よりもずっと悪く考えているんですよ」



アマーリアの秘密


「自分で判断して下さい」と、オルガはいった。「それに、それはとても簡単なように聞こえるんです。それが大きな意味をもちうるなんて、すぐにはわかりません。城には偉い役人でソルティーニという人がいます」
「その人のことはすでに聞きました」と、Kはいった。「その人は私の招聘(しょうへい)にかかわりがあったんです」
「そんなはずありませんわ」と、オルガがいった。「ソルティーニは大衆の面前にはほとんど現われないんです。ソルディーニとまちがえているんじゃないの、dと書く?」
「そのとおりです」と、Kはいった。「ソルディーニでした」
「そうです」と、オルガはいった。「ソルディーニはとても知られています。いちばん勤勉な役人の一人で、あの人のことはいろいろ話されています。それとはちがってソルティーニのほうはひどく引っこんでいて、たいていの人には知られていないんです。三年以上も前にわたしはあの人を見ましたが、それが最初の最後でした。七月三日の消防隊組合のお祭りのときでした。城もこれに参加して、新しい消防ポンプを一台寄贈してくれたんです。ソルティーニは仕事の一部として消防隊の件を扱っているということですが(でも、おそらくあの人はただ代表であそこに出ていたんだわ。たいてい役人たちはたがいに代表し合っていて、そのためにこの役人、あの役人というふうにそれぞれの管轄(かんかつ)を見わけることはむずかしいんです)、ポンプの引渡しに立ち会っていました。もちろんそのほかの人たちも城からきていました。役人とか従僕とかです。ソルティーニは、いかにもあの人の性格にふさわしく、すっかりうしろのほうに引っこんでいました。小柄で弱々しそうで、もの思いにふけっているようなかたなんです。この人に気がついたすべての人の眼にとまったことは、額にしわがよっているそのしわのよりかたなんです。すべてのしわが――あの人はきっと四十を越しているはずがないのに、大変な数のしわでした――つまり、扇形に額を越えて鼻のつけ根までのびていました。わたしはあんなのをまだ見たことがありませんでしたわ。ところで、そのお祭りでした。アマーリアとわたしとは、すでに何週間も前からそれを楽しみにしていました。晴着も一部分は新しくなおしておきました。アマーリアの服はきれいで、白いブラウスはレースの列をつぎつぎに重ねて、前のほうがふくらんでいました。母がそのために自分のレースをみんな貸してくれたんです。わたしはそのときそれがうらやましくて、お祭りの前の晩に夜の半分は泣いて明かしました。朝になって橋亭のおかみさんがわたしたちを見にやってきたときにはじめて――」
「橋亭のおかみですって?」と、Kがたずねた。
「そうです」と、オルガはいった。「あの人はわたしたちととても親しくしていたんです。で、あの人がやってきて、アマーリアのほうが得をしているとみとめないわけにいかなかったので、わたしをなだめるために、ボヘミヤざくろ石でつくった[#「つくった」は底本では「つくつた」]自分の首飾りをわたして貸してくれました。ところが、わたしたちが出かける支度をすっかりすませ、アマーリアがわたしの前に立ち、わたしたちがみんなアマーリアの姿を感心して見て、父も『私のいうことをおぼえておきなさい、きょうはアマーリアはおむこさんを手に入れるぞ』といったとき、わたしは自分が誇りにしていた例の首飾りをはずし、それをアマーリアの首にかけてやりました。もう全然うらやましくなんかありませんでした。わたしはあの子の勝利の前に頭を下げたんです。そして、だれでもあの子の前には頭を下げないではいられないだろう、と思いました。おそらく、あの子がふだんとはちがって見えたことが、そのときわたしたちを驚かしたんです。というのは、あの子はほんとうは美しくなんかないのですが、あのとき以来ずっともちつづけているあの子のあの暗いまなざしがわたしたちの頭上高くを超えていくので、わたしたちはほとんどほんとうに、思わず知らず彼女の前に頭を下げないではいられないのでした。みんなそれに気づきました。わたしたちを迎えにきたラーゼマンの夫婦もです」
「ラーゼマンですって?」と、Kはたずねた。
「そうよ、ラーゼマンよ」と、オルガはいった。「わたしたちはとてももてはやされました。たとえばお祭りもわたしたちがいなければうまく始まらなかったことでしょう。というのは、父は消防隊の第三指揮者だったんです」
「お父さんはまだそんなに元気だったんですか」と、Kはたずねた。
「父ですか?」と、オルガはKのいうことがよくわからないかのように、いった。「三年前はまだいわば若者といってもいいくらいでした。たとえば紳士荘の火事のときなど、身体の重いガーラターを背中に負って担ぎ出しましたわ。わたし自身あそこにいましたが、ほんとうは火事の危険なんかなかったんです。ただストーブのそばの薪が煙を出し始めただけでした。ところがガーラターがこわがって、窓から救いを求めて叫んだんです。そこで消防隊がきました。そして父は、もう火が消えていたのに、あの人を担ぎ出さなければならなかったんですわ。ところで、ガーラターは身動きがよくできない人ですから、こうした場合には用心しなければならなかったんです。わたしがこんなお話をするのはただ父のためになんですわ。あれから三年ぐらいしかたっていないのに、ごらんなさいな、父があそこに坐っている恰好を」
 そのときKはやっと、アマーリアがまた部屋にもどっているのに気づいた。しかし、彼女は遠く離れて両親のテーブルのところにいて、リューマチのため両腕を動かすことのできない母親にものを食べさせながら、父親に向っては、もう少し食事をしんぼうして下さい、すぐお父さんのところへいって食べさせてあげますから、というのだった。しかし、彼女がたしなめても効果はなかった。というのは、父は自分のスープにありつこうとひどくがつがつして、自分の身体の弱さに打ち勝ち、あるいはスープをスプーンですすろうとしたり、あるいは皿から直接飲もうとしたりして、どちらもうまくいかないので不機嫌そうにうなっていた。スプーンは口のところへくるずっと前から空(から)になり、口までとどくためしがない。ただいつでもたれ下がっている髯(ひげ)がスープにひたって、スープのしずくが四方へたれたり、飛び散ったりして、口のなかへだけはどうしても入らない。
「三年の年月がお父さんをあんなにしてしまったんですか」と、Kはたずねた。しかし、彼はなお老夫婦とそこの片隅の家族のテーブルにくりひろげられている情景とに対して少しも同情はもたず、ただ嫌悪だけをおぼえるのだった。



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