フランツ・カフカ 城 (11〜15章)


「三年の年月なんです」と、オルガはゆっくりいった。「あるいは、もっと正確にいうと、あのときのお祭りの二、三時間なんです。お祭りは村はずれの牧場の小川のほとりでやられました。わたしたちがついたときには、もう大変な人ごみでした。近くの村からもたくさんの人がやってきました。さわぎでみんな頭がぼーっとなっていました。もちろんわたしたちはまず、父につれられて消防ポンプのところへいきました。父はそれを見ると、よろこびのあまり笑いました。新しいポンプが父をすっかりよろこばせたのです。父はポンプにさわって、わたしたちに説明し始めました。ほかの人たちが反対したりとめようとしても、父はいうことをききません。ポンプの下に何か見るべきものがあると、わたしたちはみんなしゃがんで、ほとんどポンプの下へはいこむくらいでした。そのときこばんだバルナバスは、そのためになぐられました。ただアマーリアだけはポンプには眼もくれず、あの子のきれいな服にくるまってまっすぐ立っていました。だれ一人、あの子に何かいおうとする者もいません。わたしはときどきあの子のところへ走っていき、腕を取るのですが、あの子は黙っていました。わたしはどうしてそんなことになったのか今でもまだわからないのですが、長いことポンプの前にいて、父がポンプから離れたときになってはじめてソルティーニに気づきました。あの人はすでに長いことポンプのうしろでポンプのてこにもたれていたらしいのでした。そのころには、むろんおそろしいさわぎで、普通のお祭りのさわぎだけではなかったんです。つまり、城は消防隊に何本かのトランペットも寄贈してくれたのでした。これがまた、ちょっと力を入れて吹いただけで(子供でもできたでしょう)、ひどくすさまじい音を出すことができる楽器でした。それを聞くと、トルコ軍がすぐそこまできているのだ、と思われるくらいでした。そして、そんな音にみんな慣れることができず、新しく吹くたびに身体をちぢみ上がらせていました。新しいトランペットだったために、みんながためしに吹こうとしましたし、民衆のお祭りなもんですから、それも許されたのでした。ちょうどわたしたちのまわりには、おそらくアマーリアがその人たちをひきよせたのでしょうが、そういう吹き手が何人かいました。こんなところで気持を落ちつけているのはむずかしいことでした。そして、父の命令によって注意をポンプに向けていなければならないのでしたから、およそ人がなしうる極限の状態でした。そのため、異常なくらい長いあいだ、ソルティーニはわたしたちの眼にとまらなかったんです。それに、わたしたちはそれまでにあの人に全然会ったことがなかったんです。『あそこにソルティーニがいる』と、とうとうラーゼマンが父にささやきました。――わたしはそのそばに立っていたんですの――父は深くお辞儀をし、興奮してわたしたちにもお辞儀をするように合図をしました。父はそれまでソルティーニを知りませんでしたが、ずっと前からソルティーニを消防隊の件の専門家として尊敬しており、家でもしょっちゅうこの人のことを話していました。それで、今ソルティーニを実際に見るということは、わたしたちにとっては大変な驚きであり、また意味の大きいことだったわけです。ところが、ソルティーニはわたしたちのことなんか、気にもかけませんでした。――これはソルティーニの特別な性質なんかじゃなく、たいていの役人は人なかではそんなふうに無関心に見えるんです――それに、あの人は疲れてもいました。ただ職務上の義務があの人をこの下の村に引きとめていたわけです。こうした役所を代表する義務をとくに気が重いものと感じるのは、むしろいい役人なんですわ。ほかの役人や従僕たちは、もうここへきてしまったものですから、大衆のあいだにまじっていました。ところが、ソルティーニはポンプのそばにとどまって、何か頼みごとかお世辞をいってあの人に近づこうとする人たちにただ沈黙で答えて、追い払っていました。そんなふうにして、あの人はわたしたちがあの人に気づいたあとになって、わたしたちに気づいたのでした。わたしたちがうやうやしくお辞儀をし、父がわたしたちのことを詑びようとしたときになって、はじめてあの人はわたしたちのほうをながめ、疲れたような様子でわたしたちをつぎつぎと見ていきました。あの人はわたしたちがつぎつぎと並んでいるのを見て、溜息をもらしたようでしたが、最後にアマーリアのところまでくると、視線がとまりました。アマーリアを仰ぎ見なければなりませんでしたのよ。というのは、アマーリアのほうがあの人よりもずっと大きかったんですもの。すると、あの人はびっくりして、アマーリアへ近づこうとしてかじ棒を跳び越えました。わたしたちははじめその動作を誤解して、父に引きつれられてみんなであの人に近づこうとしました。ところが、あの人は手を上げてわたしたちを押しとどめ、それから、そこを立ち去るように合図しました。それだけの話でした。それから、わたしたちは、あんたはほんとうにおむこさんを見つけたんじゃないの、といってとてもアマーリアをからかいました。無分別のために、わたしたちはその午後のあいだじゅうとても愉快にさわぎました。ところが、アマーリアは前よりも無言でした。『あの子はすっかりソルティーニに惚(ほ)れてしまったんだ』と、ブルンスウィックがいいました。あの人はいつでも少し粗野で、アマーリアのような性質の人間に対しては理解する力をもっていないんです。ところが、そのときはあの人のいうことがほとんど正しいように思われました。そもそもわたしたちはあの日、はめをはずしていたんですわ。そして、真夜中すぎに家に帰ったときには、アマーリアを除いて、みんな甘い城のお酒で身体が麻痺してしまったようになっていました」
「それでソルティーニは?」と、Kはたずねた。
「そう、ソルティーニね」と、オルガはいった。「わたしはお祭りのあいだに通りすがりに何度もソルティーニを見ました。あの人はかじ棒に腰かけて、胸の上で腕を組み、城の馬車が迎えにくるまでそのままの恰好でいました。消防演習を見には一度もいきませんでした。そのとき父は消防演習で、まさにソルティーニに見られているという期待で、同じ年齢の男の人たちよりも目立っていました」
「それで、あなたがたはもうソルティーニのことを聞かなかったんですか」と、Kはたずねた。「あなたはソルティーニに対して大きな尊敬を抱いているように見えますね」
「そう、尊敬だわ」と、オルガはいう。「そうですわ。わたしたちはあの人のことをもっと聞きました。次の朝、わたしたちはお酒のあとの眠りから、アマーリアの叫び声で眼をさまされました。ほかの者はすぐまたベッドへもぐりこみましたが、わたしはすっかり眼がさめてしまって、アマーリアのところへかけつけました。あの子は窓のところに立って、一通の手紙を手にしているんです。その手紙はちょうど今一人の男が窓越しに手渡したところだったのです。その男はまだ返事を待っています。アマーリアはその手紙を――それは短かったんです――もう読み終えて、だらりと下げた手のなかにつかんでいました。あの子がこんなふうに疲れきったような様子でいるときは、いつでもわたしにはどんなにあの子をかわいいと思ったことでしょう。わたしはあの子のそばにひざまずいて、そのままの恰好で手紙を読みました。わたしが読み終えるやいなや、アマーリアはわたしをちらりと見たあとで、その手紙をまた取り上げましたが、それをもう読む気になどはならないで、引き裂いてしまい、その紙切れを窓の外の男の顔めがけて投げつけ、窓を閉めてしまいました。これがあの決定的な朝のことだったんです。わたしはあの朝のことを決定的といいましたが、じつは前の日の午後のどの瞬間も同じように決定的だったんです」
「で、手紙にはなんと書いてあったんです?」と、Kがたずねた。
「そうね、それをまだお話ししませんでしたわね」と、オルガはいった。「手紙はソルティーニからきたもので、ざくろ石の首飾りをつけた少女へ、という宛名になっていました。その内容はもうそのままいうことはできませんわ。それは、紳士荘の彼のところへくるようにという要求でした。しかも、アマーリアはすぐくるように、というのはソルティーニは半時間以内に出かけなければならないのだ、ということでした。手紙は、わたしが聞いたこともないような下品な表現で書いてあり、ただ全体の関連から半分ほど推量できただけでした。アマーリアのことを知らないで、ただこの手紙だけを読んだ人は、だれかがこんなふうに書く気になった娘ならば堕落した女にちがいない、ときっと考えることでしょう。ほんとうはその子がまったく純潔であったとしてもですよ。そして、あの手紙は恋文なんかではなかったのです。それにはくすぐるような言葉なんか書かれていませんでした。ソルティーニはむしろ、アマーリアを見たことがあの人の心を捉えてしまい、あの人を仕事から離してしまったというので、怒っているらしかったんです。わたしたちはあとになってこの手紙を次のように解釈したんです。ソルティーニはおそらく夕方すぐ城へ帰ろうと思ったんですが、ただアマーリアのために村に残ってしまい、次の朝になって、その夜アマーリアのことを忘れることができなかったことを大いに怒りながら、あの手紙を書いたらしいんです。あの手紙に対しては、どんな冷血漢でもはじめは腹を立てたにちがいありません。でも、そのあとでは、アマーリア以外の者の場合なら、おそらくあの手紙の悪意あるおびやかすような調子に対して、不安な気持のほうが強くなったにちがいありません。ところがアマーリアの場合には、腹立ちだけがつづきました。あの子は、自分のためにも、他人のためにも、不安なんて知らないんですわ。そして、わたしはまたベッドにもぐりこみ、『それゆえ君はすぐくるように、そうでないと――!』という中断された結びの言葉をくり返していましたが、アマーリアは窓ぎわの腰かけ台に坐ったままでいて、まるであとの使いの者がやってくるのを待ち、やってくるどんな使いもはじめの使いと同じように扱ってやるつもりでいるというように、窓の外をながめていました」
「それが役人たちというものですよ」と、Kはためらいながらいった。「こんなお手本みたいなやつがあいつらのあいだにはいるんです。で、お父さんはどうなされたんですか? もし紳士荘へ押しかけて、手っ取り早くてもっと確実な手段のほうを選ばなかったとすれば、おそらく当局へ出頭して強力にソルティーニについて文句をいってやったことでしょうね。この事件でいちばん憎むべきことは、アマーリアに対する侮辱なんかじゃないんです。そんなものは簡単につぐなえますからね。なぜあなたがそんなことを過大に考えているのか、私にはわかりませんよ。どうしてソルティーニがそんな一通の手紙でアマーリアを永久に危険にさらしてしまったなどということがあるでしょう。あなたの話を聞いていると、そんなことを信じるかもしれませんからね。しかし、そんなことはありえませんよ。アマーリアにとっては名誉回復はたやすくできたはずですし、二、三日経てばその事件も忘れられたでしょう。ソルティーニはアマーリアを危険にさらしたのではなく、自分自身を危険にさらしたんです。そこで、私が恐れを感じているのは、ソルティーニと、権力のこうした濫用がありうるという可能性とに対してなんです。この場合には失敗したが、それは事がおそろしくあけすけにいわれ、完全に見えすいていて、アマーリアといううわ手の相手にぶつかったためで、同じような無数の場合、これよりも少しまずい場合には、こうしたことがうまうまと成功して、どんな他人の眼もごまかすことができるかもしれませんからね」
「静かに」と、オルガはいった。「アマーリアがこっちを見ているわ」
 アマーリアは両親に食事を与え終って、今度は母親の服を脱がせることにかかっていた。ちょうど母親のスカートをゆるめてやったところで、母親の両腕を自分の首のまわりにかけさせ、その身体を少しもち上げ、スカートをすべり落し、それから、ふたたびそっと椅子の上にのせてやった。父親のほうは、母親の世話が自分より先にやられるのが――これはただ、母親のほうが父親よりもどうにもならない状態にあるという理由だけでやられるらしかった――いつも不満で、おそらくまた、彼にはぐずだと思われる娘の仕事ぶりにあてつけてやろうとしてだろうが、自分で服を脱ごうとしていた。ところが、ただ足にぶかぶかにはまっているだけの屋内靴を脱ぐといういちばん不必要でいちばんやさしいことから始めたのに、どうしてもそれを脱ぐことがうまくいかない。そこで、喉をぜいぜいいわせながらそれをすぐやめ、また身体をこわばらせて自分の椅子によりかかった。
「あなたはいちばん決定的なことがわからないんですわ」と、オルガはいった。「すべてのことについてあなたのおっしゃるのはもっともかもしれないわ。でも、いちばん決定的なことは、アマーリアが紳士荘へいかなかったことです。あの子が使いの者をどんなふうに扱ったか、それはまだしもそのことだけとしてはなんとかなったかもしれません。それはもみ消されたことでしょう。けれども、あの子がいかなかったということによって、呪(のろ)いがわたしたちの一家にいい渡されてしまったんです。そして、そうなればもとより使いの者の扱いかただって許しがたいこととなってしまいました。そればかりか事が世間の前面に押し出されてしまったんです」
「なんですって!」と、Kは叫んだが、またすぐ声を落した。オルガが頼むように両手を上げたからだった。「姉さんであるあなたが、アマーリアはソルティーニのいうことをきいて、紳士荘へいくべきだった、なんていうんじゃありますまいね?」
「いいえ」と、オルガはいった。「そんな嫌疑はかけてもらいたくありませんわ。あなたはどうしてそんなことを考えることができるんでしょう? アマーリアのように、やることがみんなまったく正しいような人間は、わたしは一人だって知りませんわ。あの子が紳士荘へいったとしても、わたしはむろんあの子が正しかったのだとみとめたことでしょう。でもいかなかったことは、英雄的な行いだったんですわ。わたしについていえば、あなたに正直に申しますけど、こんな手紙をもらったら、いったことでしょう。わたしはそれから起こることに対する恐れに我慢できなかったことでしょう。そんなことができたのはアマーリアだからこそですわ。たしかにいろいろな逃げ道がありました。ほかの女ならたとえばほんとにきれいに身を飾っていき、そんなことでしばらくの時間が過ぎたことでしょう。それから紳士荘へいってみて、ソルティーニは出発した、おそらく使いの者を送り出したすぐあとで、自分も出発したのだ、というようなことを聞くことになったかもしれません。それも大いにありそうなことですわ。だって城のかたたちの気分というのはとても変わりやすいんですもの。でもアマーリアはそんなことも、それと似たようなこともしませんでした。あの子はあまりに深く感情を害し、少しも保留なしできっぱり答えました。なんとか表面だけでもいうことをきいて、紳士荘の敷居をあのときまたいでいたら、こんな禍いは避けられたでしょう。この村にはとても頭のいい弁護士たちがいます。この人たちは人のおよそ望むことをなんでも無からつくり出すことを心得ていますが、この事件においては、そういう有利な無というものもけっして存在しなかったんです。反対に、あったことというと、ソルティーニの手紙を冒涜(ぼうとく)したということと、使者を侮辱したということなんですの」
「いったい、どんな禍いなんです」と、Kはいった。「どんな弁護士たちなんです? ソルティーニの犯罪といっていい行状のためにアマーリアを告訴したり、あるいは罰しまでするなんてできるはずがないじゃありませんか?」
「ところが」と、オルガはいった。「それができたんです。むろん法にのっとった訴訟によってではなく、またあの子は直接罰せられたわけでもありませんが、別な方法であの子もわたしたち一家全体も罰せられました。そして、この罰がどんなに重いかということは、あなたもきっと今やっとわかりかけてきたことでしょうね。あなたにはその罰が不当で途方もないように思われるんでしょうけれど、それは村では完全に孤立した意見なんですわ。あなたの考えはわたしたちにとっても好意的で、わたしたちを慰めるはずのものかもしれません。また、もしそれが明らかにいろいろなまちがいからきているのでなかったら、ほんとにそうしてくれたことでしょうに。わたしはあなたにこのことをたやすく説明できますわ。その場合にフリーダのことをいっても、許して下さいね。でも、フリーダとクラムとのあいだには――最後にどうなったかということを除けば――アマーリアとソルティーニとのあいだとまったく似たようなことが起ったんですわ。ところがあなたは、はじめのうちはびっくりしたかもしれませんが、今ではそれを正しいと思っているじゃありませんか。それは慣れなんかじゃないんです。単純な判断が問題なとき、人は慣れなんかによってはそんなに感覚をにぶくされることはありません。それはただいろいろなあやまりを取り除いただけの話なんです」
「そうじゃない、オルガ」と、Kはいった。「なぜあなたがフリーダをこのことにもち出すのか、私にはわからない。場合がまったくちがうはずだ。そんなに根本からちがうことを混同したりなんかしないで、もっと先を話してくれたまえ」
「どうか」と、オルガはいった。「まだこの比較をやるのだとわたしがいっても、悪くは取らないで下さい。あなたがあの人のことを比較なんかされないように弁護してやらねばならないと思うなら、フリーダのことについてもまだあやまりが残っているんですわ。あの人は弁護なんかされる必要は全然なくて、ただほめられるはずなんですから。わたしがこの二人の場合を比較するといっても、その二つの場合が同じだなんていうんじゃありませんわ。それはたがいに白と黒とのようにちがっていて、白がフリーダなんです。いちばん悪くとも、フリーダについては人は笑うことができるだけです。ちょうどわたしが不作法にも――わたし、あのことをあとでとても後悔したわ――酒場でやったようにね。でも、この場合笑う者でさえ、すでに悪意をもっているか、嫉妬しているかなんです。いずれにしろ、人は笑うことができます。ところが、アマーリアは、もし人があの子と血でつながっていなければ、ただ軽蔑することができるだけです。それだから、あなたのいったように、根本からちがった二つの場合なんですが、それでもやはりこの二つは似ているんです」
「似てもいないさ」と、Kはいって、不機嫌そうに頭を振った。「フリーダのことは別にしてくれたまえ。フリーダは、アマーリアがソルティーニから受け取ったようなそんなきたならしい手紙を受け取りはしなかったし、フリーダはほんとうにクラムを愛していたんですよ。疑う者はあれにたずねたらいい。あれは今でもまだクラムを愛しているんですよ」
「でも、それが大きなちがいでしょうか」と、オルガはたずねた。「クラムはフリーダにソルティーニと同じように手紙を書くことはできなかった、なんてあなたは思っているんですか。城のかたたちは机から立ち上がると、そうね、世のなかのことはわからないんです。そこでぼんやりしたまま、ひどく粗野なことをいってしまうんです。みんなそうだというんじゃないけれど、多くのかたがそうなんです。アマーリア宛の手紙だって、ただ頭のなかだけで、ほんとうに書かれたことなんか全然無視してしまって、紙の上に書きなぐられたものかもしれないんです。城のかたたちが頭のなかで考えることなんて、わたしたちは何を知っているでしょうか! クラムがフリーダとどんな調子でつき合っていたのか、あなたは自分で聞くか、だれかから話しているのを聞くかしませんでした? クラムがとても粗野だっていうことは、よく知られています。人のいうところによると、あの人は何時間でも口をきかないかと思うと、突然、人をぞっとさせるようなことをいうそうです。ソルティーニについてはそんなことは知られていません。だってあの人はおよそ人に知られていないんですもの。ほんとうはあの人について人が知っていることといえば、ただあの人の名前がソルディーニと似ているっていうことだけなんです。この名前の類似がなかったならば、おそらくあの人のことは全然わからないでしょう。消防隊の専門家と思っているのだってきっとソルディーニと混同しているんだわ。ソルディーニはほんとうにそのほうの専門家で、名前の似ていることを利用し、ことに役所を代表する義務をソルティーニに背負わせ、じゃまされないで仕事をつづけようとしているんですわ。そこでソルティーニのような世間を知らない男が突然村の小娘に対する恋心に捉われてしまうと、それはもちろんそこいらの指物師の若い者が惚れたのとはちがった形を取るものです。それに、役人と靴屋の娘とのあいだにはなんとかして橋渡しされなければならない大きな距たりがある、っていうことも考えなければなりません。それでソルティーニはあんなやりかたでその橋渡しをしようとしたので、ほかの人なら別なやりかたでやったかもしれません。わたしたちはみんな城に属しているので、距たりなんかないし、何も橋渡しなんかすることはないのだ、といわれていますし、それはおそらく普通の場合にはあてはまるでしょう。でも残念なことに、そのことが問題になると、それが全然そうはいかないのだ、ということを見る機会をわたしたちはこれまでずっともってきました。ともかく、すべてをお聞きになったあとでは、ソルティーニのやりかたがもっと理解できるようになり、前ほど途方もないものとは思えなくなるでしょう。実際、ソルティーニのやりかたは、クラムのと比べると、ずっと理解できるもので、たといまったく身近かにそれと関係をもっても、ずっと我慢できるものなのですわ。クラムがやさしい手紙を書くと、それはソルティーニのいちばん粗野な手紙よりも人を苦しめるものになります。こう申しているわたしの言葉を正しくわかって下さいな。わたしは何も、クラムについて判断を下そうなどとしているんじゃありません。わたしが比較をやっているのは、ただあなたが二つの場合を比較することを拒んでいるからなのです。クラムは女たちの指揮官のようなものですわ。あるいはこの女に自分のところへくるように命令し、あるいは別な女にくるように命令し、どちらにも長つづきはしないで、くるように命じるのと同じように出ていくように命じます。ああ、クラムなら、はじめに手紙を書くというような骨折りは全然しないでしょう。そして、それに比べると、まったく引っこんで暮らしていて、少なくとも婦人関係のことなどまったく知られていないあのソルティーニが、椅子に腰かけ、役所流のきれいな書体で書かれてはいるけれどいやらしい例の手紙を書くということは、やっぱり途方もないことでしょうね。そして、この場合どんなちがいもクラムにとって有利なものでなく、反対にソルティーニにとって有利なものだとしたら、それはフリーダの愛のせいなんでしょうか。女の人たちの役人たちに対する関係は、判断するのがとてもむずかしいか、それともむしろとてもやさしいか、どちらかだとわたしは思うんです。この場合、愛が欠けていることなんかけっしてありません。役人の失恋なんてありません。この点からいうと、一人の娘がただ愛しているために役人に身をまかせたのだ――わたしはここでなにもフリーダだけのことをいっているんじゃありませんわ――といわれることは、けっしてほめ言葉なんかじゃないんです。その娘が役人を愛して身をまかせたというだけの話で、何もほめることなんかありません。でも、アマーリアはソルティーニを愛していなかった、とあなたは異論をおっしゃるでしょう。まあ、あの子はあの人を愛していませんでした。でもあるいは愛していたのかもしれません。だれがそんな区別をすることができるでしょうか。あの子自身だってできませんわ。あの子は、おそらく役人の一人がこれまでけっしてこんなふうにはねつけられたことはあるまいと思われるほど猛烈にあの人をはねつけたけれど、どうして自分はあの人を愛していなかったなんてあの子が思うことができるでしょうか。あの子は今でも、三年前に窓をばたりと閉めたときの心の動揺でふるえることがあるって、バルナバスがいっています。それはほんとうですし、それだからあの子にたずねたりしてはいけないんです。あの子はソルティーニとの関係をたち切ってしまったのであって、そのこと以外は何も知りません。自分があの人を愛しているかどうか、あの子にはわからないのです。でも、女の人たちというものは、役人が一度自分のほうを向くならば、その人を愛することよりほかにできることはないのだ、ということをわたしたちは知っています。それどころか、女の人たちはいくら否定しようとしても、役人たちをすでにはじめから愛しているのです。そして、ソルティーニはただアマーリアのほうを向いただけでなく、アマーリアを見たときにポンプのかじ棒を跳び越えたんですからね。あの人は机に向っての仕事でこわばっているあの脚でかじ棒を跳び越えたんですわ。でも、アマーリアは例外だ、とあなたはおっしゃるんでしょう。そうです、あの子は例外です。そのことは、ソルティーニのところへいくことを拒んだとき、証明しました。それはまったく例外です。でも、その上、アマーリアはソルティーニを愛したことなんかないのだ、というなら、それは例外として度がすぎるでしょう。そんなことはもうわからないのです。わたしたちはたしかにあの午後、眼を曇らせられてはいましたが、でもあのとき、あらゆるもやを通してアマーリアの恋心をいくらか見て取れるように思ったのは、それでもいくらか正気を示したというものです。ところで、こうしたいっさいのことを併(あわ)せて考えると、フリーダとアマーリアとのあいだにどんなちがいがあるのでしょうか? ただ一つのちがいは、アマーリアが拒んだことをフリーダはやった、ということではありませんか」
「そうかもしれません」と、Kはいった。「でも私にとっては、主なちがいは、フリーダは私の婚約者だが、アマーリアのほうは、城の使者であるバルナバスの妹であって、あの人の運命はバルナバスの勤めといっしょにより合わされているという限りにおいてしか私とは関係がない、ということです、一人の役人があの人に対して、あなたのお話をうかがっているとはじめは私にもひどいと思われたようなあんな不正を働いたのであれば、私にとって大いに考えるべきこととなったでしょう。でも、それはアマーリアの個人的な悩みとしてよりも、むしろおおやけの問題としてです。ところが、あなたのお話をうかがったあとの今となっては、事件の様相は変ってしまいました。その変わりかたは、私にはどういうふうにして起ったのかどうもはっきりはわからないけれど、話しているのがあなたなんだから、十分信用していいはずですね。そこで私はこの件を完全に無視してしまいたいと思います。私は消防夫じゃなし、ソルティーニなんか私となんの関係がありますか。だがフリーダのことは気にかかります。ところで私に奇妙に思われるのは、あなたが、アマーリアについて話すという廻り道をしてフリーダをたえず攻撃しようとし、私にフリーダについて疑いを抱かせようとしていることです。あなたがわざと、あるいは悪意さえもってそんなことをやっているとは思いません。そうでなかったら、私はとっくにここから去ってしまったことでしょう。あなたは意図をもってわざとやっているわけでなく、いろいろな事情のためにそんなふうな結果になってしまうのです。アマーリアに対する愛情から、あなたはあの人をあらゆる女たちよりも高いところに置こうと思っています。そして、アマーリア自身のうちにこの目的にかなうような十分に賞讃すべきことを発見できないので、ほかの女たちにけちをつけることで自分の考えを立てようとするんです。アマーリアの行為は奇妙だけれど、あなたがこの行為について話せば話すほど、それが偉大だったかちっぽけだったか、賢明だったかばかげていたか、英雄的だったか卑怯だったか、いよいよきめかねるようになります。アマーリアは自分の行動の動機を胸にしまっておくので、だれだって彼女からそれを無理に聞き出すことはできないでしょう。それに反してフリーダはちっとも奇妙なことをやったわけでなく、ただ自分の心持に従ったんです。このことは、善意をもって彼女の心の相手になるようなだれにも、はっきりわかることです。だれにもそのことは確認できるし、うわさなんかする余地はありませんよ。しかし、私はアマーリアをおとしめようとしているのでも、フリーダを弁護しているんでもなく、ただ私がフリーダとどういう関係にあるかということ、フリーダに対するどんな攻撃も同時に私という人間の生存に対する攻撃だということをあなたにはっきりわからせようと思っているんです。私は自分自身の意志でここへやってきて、自分自身の意志でここにひっかかっているんですが、これまで起ったすべてのこと、そして何よりも私の将来の見込みというもの――その見込みはどんなに暗かろうと、ともかくちゃんとあるわけなんです――、そういうすべてを私はフリーダに負うているので、これを議論からのけるわけにはいきません。私はこの土地で測量技師として採用されたけれど、それはただ外見上だけで、私は人びとのおもちゃにされ、どの家からも追い出されました。きょうも私はおもちゃにされているわけです。でも、もっとやっかいなことは、私はいわばかさを増して大きくなったようなもので、それだけでも相当なものです。私はこんなものがみんなどんなにつまらぬものであるとしても、すでに家も地位も実際の仕事ももち、婚約者ももっていて、この婚約者が、もし私にほかの仕事があるときは私の職務上の仕事をかわりに引き受けてくれます。私はその女と結婚し、村の一員になるでしょう。クラムに対して公的な関係のほかに、むろん今までのところでは利用できないでいるけれど、一種の私的な関係ももっています。これはまさかつまらぬものじゃないでしょう? 私があなたがたのところへくると、あなたがたはいったいだれに対して挨拶するんでしょう? あなたはあなたがたの一家の話をだれに打ち明けるんでしょう? だれからあなたはなんらかの助力の可能性を(それがどんなにちっぽけなありそうもない可能性であっても)期待しているのでしょう? まさかこの私からではありますまい。この私ときたら、たとえばほんの一週間前にラーゼマンとブルンスウィックとが力ずくで家から追い出した測量技師なんですからね。あなたがそんな助力を期待している男は、すでになんらかの力をもっているはずです。そして、私はその力をフリーダに負うているんですよ。フリーダはとても謙遜(けんそん)だから、あなたがそんなことをたずねようとするならば、きっとそんなことは少しも知らないと主張するだろうけれど。そして、あらゆることから考えてみて、あの無邪気なフリーダのほうがあのひどく高ぶっているアマーリアよりも多くのことをなしとげたように見えますね。というのは、いいですか、あなたはアマーリアのために助力を求めているのだ、という印象を私はもっています。そして、だれからですか? ほんとうはほかならぬフリーダからじゃありませんか?」
「わたしはほんとうにフリーダのことをそんなに悪くいったかしら?」と、オルガはいった。「たしかにそんなつもりじゃなかったんだし、またそんなことをしたとは思いませんわ。でも、そうかもしれないわね。わたしたちの状態は、まるで世界じゅうと不和になっているようなものなんです。そして、嘆き始めると、それに引きこまれてしまって、どこまでいくかわからないんですから。あなたのおっしゃることはもっともで、わたしたちとフリーダとのあいだには今では大きなちがいがあります。そして、それを一度強調してみるのはいいことよ。三年前にはわたしたちはちゃんとした市民の娘で、孤児のフリーダは橋亭の下女でした。あの人のそばを通りすぎるときには、あの人に眼もくれなかったものです。たしかにわたしたちは高慢でしたが、わたしたちはそんなふうに教育されていたんです。でも、あなたも紳士荘にお泊りになったあの晩に、現在の状態がよくわかったでしょう。フリーダは手に鞭をもち、わたしは下僕たちのむれのなかにいました。でも、それよりもっと悪いことがあるんですの。フリーダはわたしたちを軽蔑しているかもしれないんだわ。それはあの人の地位にふさわしいことで、実際の事情がそのことをしいるんです。でも、わたしたちのことをどうして軽蔑しない人がいるでしょう! わたしたちを軽蔑することにきめた人は、すぐ最大多数の仲間に入るんです。あなたはフリーダのあとをついだ女の子のことを知っている? ペーピーっていうんですわ。わたしはおとといの晩にはじめてあの子を知りました。それまであの子は客室つきの女中でした。あの子はたしかにわたしを軽蔑する点でフリーダ以上ですわ。わたしがビールを取りにいくのを窓のそばで見ていましたが、ドアのところへ走りよって、ドアを閉めてしまいました。わたし、長いこと頼んで、あの子に開けてもらうためには、自分が髪につけているリボンをあげる約束をしなければなりませんでした。ところが、わたしがそれをあげると、それを片隅へ投げてしまったんです。ところで、あの子がわたしを軽蔑するのも無理はありません。わたしはいくらかはあの子の好意をたよりにしているんですし、あの子は紳士荘の酒場の女給なんです。むろん、あの子はほんの臨時に女給になっているだけですし、あそこで引きつづき使われるに必要な適性というものをたしかにもっていません。あそこのご亭主があの子とどんなふうに話すか、聞いてみればいいわ。また、フリーダと話していたときの様子とそれを比較すればいいわ。でも、ペーピーはそんなことはかまわないで、アマーリアのことも軽蔑しています。アマーリアがちょっとにらみさえすれば、お下げ髪をしてリボンをつけているあのちっぽけなペーピーなんか、すぐ部屋から追い出してしまうでしょう。そして、あの子が自分の太い脚だけにたよっていたんでは、とてもやれないような速さでね。きのうもまた、あの子からアマーリアについて、なんという腹の立つようなおしゃべりを聞かなければならなかったことでしょう。とうとうお客さんたちがわたしを迎えにくるまで、聞かされたんです。お客さんが迎えにくるっていったって、むろん、あなたがごらんになったようなやりかたででしたけれど」
「あなたはなんてこわがりやなんだろう」と、Kはいった。「私はただフリーダを彼女にふさわしい場所に置いただけの話で、あなたが今思っているように、あなたたちのことをさげすもうと思ったわけじゃないんですよ。あなたがたの一家は私にとっても何か特別な意味をもってはいるが、そのことは私も隠しはしなかったはずですよ。でも、その特別な意味がどうして軽蔑のきっかけとなることができるのか、それは私にはわかりませんね」
「ああ、K」と、オルガはいった。「あなたもそれがわかるでしょうよ。それがこわいわ。ソルティーニに対するアマーリアの態度がこの軽蔑の最初のきっかけなのだ、っていうことをあなたはどうしてもわからないんですか?」
「でも、それはあんまり奇妙じゃないですか」と、Kはいった。「そのためにアマーリアをほめたり、けなしたりはできるだろうけれど、どうして軽蔑できるんです? そして、もし人が私にはわからない気持からほんとうにアマーリアを軽蔑しているなら、なぜその軽蔑をあなたたち罪のない一家の人たちにも及ぼすんだろう? たとえばペーピーが君のことを軽蔑しているということは、それはひどいことで、もし私がまた紳士荘にいったら、その仕返しをしてやるつもりですよ」
「もしあなたが、K」と、オルガはいった。「わたしたちを軽蔑している人たち全部の意見を変えようと思うなら、それは大変な仕事ですわ。だって、すべては城からきているんですもの。わたしはまだあの朝の事件につづいた午前のことをくわしくおぼえています。あのころわたしたちのうちで働いていたブルンスウィックが、いつものようにやってきました。父はあの人に仕事を割り当てて、家へ返してやりました。わたしたちはそれから朝食のテーブルにつき、みんな、アマーリアとわたしとまでも含めて、とてもいきいきとしていました。父はたえずお祭りのことを話していました。父は消防隊についていろいろな計画を胸に抱いていましたの。つまり、城には専属の消防隊があって、お祭りには派遣団を送ってきて、その人たちといろいろのことが話し合いされました。あの場にいた城のかたたちは村の消防隊の仕事ぶりを見て、それについてとても好意的な発言をし、城の消防隊の仕事ぶりを村の消防隊のと比較しました。その結果は村の消防隊のほうに有利でした。城の消防隊を再編成する必要について話され、そのためには村から指導員を出すことが必要だ、ということになりました。その役のために、二、三人の人が候補者に上がりはしましたが、父はその人選が自分にきまるだろうという期待をもっていました。父はあのときそのことを話していました。そして、食事のときにはすっかりくつろぐという父が好きないつものやりかたで、両腕でテーブルの半分ほども抱くような恰好で坐っていました。開いた窓から空を見上げるときには、父の顔は若々しく、希望で輝いていました。あんなふうな父を二度と見ないことになってしまったんですわ。そのときアマーリアは、あの子にそんなところがあるとはわたしたちが知らなかったような人を見下すような態度で、城の人たちのそんな話はあんまり信用してはならないのだ、あの人たちはそんなような機会には何か人の気に入るようなことをいいたがるものだが、そんなものはほとんど意味をもたないか、あるいは全然意味をもたないのだ、口に出されるやいなやもう永久に忘れられているのだ、むろん次の機会にはまたあの人たちにだまされてしまう、といいました。母はアマーリアのこんな言葉をとがめました。父はあの子のませくりかえっていることといかにもしったかぶりをいうこととを笑っていましたが、次にびっくりして、何かがなくなっていることを今やっと気づいて探しているように見えました。しかし、何一つなくなったものなんかありませんでした。それから、ブルンスウィックが使者のことや、何か手紙がやぶかれたとかいうことをいっていたが、といって、わたしたちがそのことを知らないか、それはだれのことか、いったいどういうことなのか、とたずねました。わたしたちはだまっていました。あのころはまだ小羊のようだったバルナバスが、何かとびきりばかげたことか無鉄砲なことをいいました。話題がほかのことに移って、そのことは忘れられてしまいました」



アマーリアの罰


「ところが、そのすぐあとで、わたしたちは四方八方から手紙の話について質問を浴びせられました。友人も敵も知人も知らない人もやってきました。けれど、だれも長くはいないんです。いちばん親しい友人たちがいちばん急いで帰っていきます。ふだんはいつもゆっくりしていて威厳のあるラーゼマンも、入ってきてもまるでただ部屋の広さを調べようというような恰好でぐるっと一廻りながめるともう終りでした。ラーゼマンが逃げ出し、父が居合わせたほかの人たちのところから離れ、ラーゼマンのあとを追って急いで家の入口のところまでいき、それからあきらめるという様子は、まるでとんでもない子供の遊びみたいでしたわ。ブルンスウィックがやってきて、父に暇をくれといいました。一本立ちしたいのだ、とあの人はまったく本気でいいました。りこうな人で、好機を利用することを心得ていたんですわ。お顧客(とくい)の人たちがやってきて、父の倉庫で自分の靴を探し出します。修理のためにそこに置いておいた靴です。はじめは父もお客さんたちの考えを変えさせようとしましたが――で、わたしたちもみんなできるだけのことをして父のあと押しをしましたが――あとになると父はそんな努力もやめてしまい、黙ったままその人たちが探すのを手伝うのでした。注文受帳には一行一行と消しの線が引かれていき、お客さんたちがわたしたちの家にあずけておいた革は持ち帰られました。貸しは払ってくれました。万事はほんのちょっとした争いもなく行われ、人びとはわたしたちとの関係を速やかに完全に解消することに成功すれば満足し、その場合に損をしても、そんなことは問題ではないのだというふうでした。そして最後には、これは予想されたことですが、消防隊長のゼーマンが現われました。あの情景が今でも眼の前に浮かぶような気がしますわ。ゼーマンは大柄で力強い人ですが、少し前かがみで、肺病にかかっており、いつもまじめで、全然笑うことができないんです。この人は父を買っていて、打明け話のときには消防隊長代理の地位を父に約束していましたが、そのとき父の前に立っていました。そして、組合が父を免職したこと、証書の返却を求めていることを、父に伝えなければならないのだ、というのです。ちょうど家にいた人びとは、仕事の手を休め、あの二人のまわりにつめかけて輪をつくりました。ゼーマンは何もいうことができず、ただ父の肩をたたくばかりです。まるで、自分がいうべきだが、どういってよいのかわからない言葉を父の身体からたたき出そうとしているようでした。そうしながら、あの人はたえず笑っています。それによって自分自身もほかのすべての人も少しはなだめようとしているようでした。でも、あの人は笑うことができないし、だれもあの人の笑うのを聞いたことがなかったので、それが笑いなのだと信じることはだれにも思いつきませんの。しかし、父はあの日のことでもうあまりにも疲れ、絶望していて、だれかを助けるなんていうことはできません。それどころか、あんまり疲れているものですから、何が問題なのかを考えることもできないくらいでした。わたしたちはみんな同じように絶望していましたが、若かったものですから、こんな完全な破滅があろうとは信じることができず、たくさんの訪問客がつぎつぎにやってくるうちには最後にはだれかがやってきて、もうやめだという命令を出し、万事をまた逆もどりに動き出すようにしむけてくれるんだろう、といつも考えていました。ゼーマンこそとくにそういうことをやってくれるのにぴったりした人だ、と無知だったわたしたちには思われました。この終わることのない笑いから最後にははっきりした言葉が出てくるだろう、とわたしたちは大いに期待して待っていました。わたしたちにふりかかったあの愚かしい不正を笑うのでなければ、いったいあのときに笑うことなんかあったでしょうか。『隊長さん、隊長さん、もうそのことを人びとにいってやって下さい』と、わたしたちは考え、あの人につめよっていきました。ところが、それもあの人に奇妙な工合に身体を廻させただけだったのです。ついにあの人は話し始めました。しかしそれは、わたしたちのひそかな願いをかなえてくれるためなんかではなく、人びとのけしかける叫びか腹を立てた叫びに応じるためだったわけです。わたしたちはまだ希望をもっていました。あの人は父を大いにほめあげることから始めました。父を組合の誉れ、後進の手本、欠かすことのできない組合員と呼び、父の退職は組合をほとんど破滅させてしまうだろう、といいました。みんなとてもすばらしい言葉でした。ここまでで終りにしてくれていたらよかったんですが! ところが、あの人は話しつづけました。それにもかかわらず、組合は父に、ただ一時的にではあるが、退職を求める決定をしたのであるから、組合がこうしなければならなくした理由の重大さは、みなさんにもわかっていただけるだろう。おそらくは父の輝かしい業績がなかったならば、きのうの祭りにおいても、あれほどまでに成功することはまったくできなかったにちがいない。だが、まさにこの業績が役所の注意をとくに喚起したのだ。組合は今はすべての人びとに公然とながめられているのであるから、組合の純潔についてこれまで以上に細心でなければならない。ところで今や使者侮辱事件が起ってしまった。そこで組合としてはほかの逃げ道を見出すことができなかったのであり、自分、ゼーマンがこのことを通達するというむずかしい任務を引き受けたのだ。父が自分にこの任務をこれ以上むずかしいものとしないことを望む。これを語り終えて、ゼーマンはうれしそうでした。この演説の成功を確信したので、あの人はもうけっして度を越して遠慮なんかしていませんでした。壁にかかっている証書を指さして、あれをもってくるように、と指で合図しました。父はうなずいて、それを取りにいきましたが、両手がふるえてかぎからはずすことができません。わたしは椅子にのって、父を助けました。そして、この瞬間からいっさいが終ってしまったのです。父はもう証書を額ぶちから取り出してなんかいないで、額に入ったまま全部をゼーマンに渡しました。それから、片隅に坐ると、もう身動きもしなければ、人と話すこともしません。わたしたちは自分たちだけで、できるだけうまくお客さんたちと用件の話をしなければなりませんでした」
「それで、あなたはその話のなかでどの点に城の影響をみとめるんです?」と、Kはたずねた。「今までのところ城はまだ干渉を加えていなかったように思われますね。あなたがこれまで語ったことは、ただ人びとの思慮を欠いた不安とか隣人の不幸を見てよろこぶ気持とか、たよりにならない友情とか、要するにどこででもぶつかるはずのことばかりですよ。とはいってもお父さんの側にも――少なくとも私にはそう思われるのですが――ある種の気持の小ささというものがありましたね。というのは、その証書だって、いったいなんだというんです? お父さんの能力の証明ですが、それはお父さんがまだもっていたものじゃありませんか。そうした能力がお父さんを組合に欠くことのできない人にしていたのであれば、いよいよいいわけで、隊長にそれ以上一こともいわせないでそんな証書を彼の足もとに投げつけてやることだけによって、隊長にとってこの件をほんとうにむずかしくしてやったことでしょうに。ところで、あなたがアマーリアのことに全然ふれなかったのがとくに特徴的なことのように思われました。アマーリアは、いっさいの罪があの人にあるのに、どうも落ちつき払ってうしろのほうに立ち、一家の荒廃をながめていたらしいですね」
「いいえ」と、オルガはいった。「だれのことも非難はできませんわ。だれもあれ以外にやりようがなかったんですもの。すべてがすでに城の影響だったんです」
「城の影響です」と、アマーリアがオルガの言葉をくり返した。気づかぬうちに内庭から入ってきていたのだった。両親はずっと前からベッドに入っていた。「城のことを話しているの? あなたたち、まだいっしょに坐っているの? K、あなたはすぐ帰るとおっしゃったじゃありませんか。ところで、もう十時になりますよ。いったいこんな話があなたの気にかかるんですか? この村には、こうした話で自分の心を養っているような人びとがいて、あなたがた二人がここに坐っているようにいっしょに坐り、うわさ話でおたがいにおごり合っているんです。でも、あなたはそんな人たちの仲間のようにはわたしには思われないけれど」
「ところが」と、Kはいった、「私はまさにそんな人たちの仲間ですよ。それに反して、こうした話を気にもかけずに、ただほかの話ばかり気にかけているような人たちは、私の心をそれほどひきませんね」
「そりゃあ、そうね」と、アマーリアはいった。「でも、人びとの関心というものはとてもさまざまなものだわ。わたしはいつだったか、昼も夜も城のことばかり考えている若い男のことを聞きましたが、その男はほかのあらゆることをほっぽり放しにしてしまったということです。人びとは、その男の頭がすっかり上の城のところへいっているものですから、その男にあたりまえの分別がないのではないかと心配しました。ところが、しまいに、その男はほんとうは城のことではなく、ただ事務局にいるある皿洗い女の娘のことを思っていたのだ、ということがわかり、そこでむろんその娘を手に入れることができ、それからまた万事うまくいった、ということですわ」
「その男は私の気に入りそうに思えますね」と、Kはいった。
「あなたにその男が気に入るだろうということは」と、アマーリアはいった。「わたしは疑わしく思うけれど、でもおそらくその奥さんはね。ところで、どうぞご勝手に。わたしはもうやすみます。それから、明りを消さなければならないわ、両親のためなんです。両親はすぐぐっすり眠りますが、一時間もするともうほんとうの眠りは終ってしまい、ちょっとした明りでもじゃまになるのよ。おやすみなさい」
 そして、ほんとうにすぐ暗くなった。アマーリアは両親のベッドのそばで床の上のどこかに寝床をこしらえたのだった。



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