フランツ・カフカ 城 (11〜15章)


「アマーリアが話したその若い男っていうのは、だれなんですか」と、Kはたずねた。
「知らないわ」と、オルガがいう。「おそらくブルンスウィックなんでしょう。あの人としては話がぴったり合うわけじゃありませんけど。おそらく別なだれかかもしれません。妹のいうことを正確に理解することはやさしいことではないのよ。あの子が皮肉でいっているのか、まじめにいっているのか、わからないことが多いんですもの。たいていはまじめなんですが、皮肉に響くんです」
「説明なんかやめて下さい!」と、Kはいった。「どうして妹さんにそんなにひどくたよるようになったんです? 大きな不幸が起こる前からすでにそうだったんですか。それとも、そのあとからですか。そして、あなたはあの人にたよらないようになろうという願いをもったことがあるんですか。そして、いったいこのたよりかたには何か理にかなった理由でもあるというんですか。あの人は末娘ですし、末娘として服従すべきです。罪があろうとなかろうと、あの人が一家に不幸をもたらしたんじゃありませんか。ところが、毎日あなたがたの一人一人にそのことを許してくれと頼むかわりに、だれよりも頭を高くして、やっとお情けで両親の心配をしているほかには何一つ気にはかけず、あの人が自分でいったように、どんなことも知ろうとは思わないで、やっとあなたがたと口をきくかと思うと、たいていはまじめだが、皮肉に響くというんですからね。それともあの人はたとえばあなたがたびたびいっている美しさというものによって一家を支配しているんですか。ところで、あなたがたきょうだいはみんな似ているけれど、妹さんがあなたがた二人とちがっているところは、まったくあの人にとってよくない点なんです。私があの人をはじめて見たとき、すでにあの人の無感覚で愛情のないまなざしに驚きましたよ。それから、あの人は末娘だけれど、そのことはあの人の外見では少しもわかりません。ほとんど年を取らないけれど、かつてほとんど一度も若かったことがないというような女の人たちの年齢のない外見をしています。あなたは毎日妹さんを見ているので、あの人の顔の固さには気づいていないんです。だから私は、よく考えてみると、ソルティーニの愛情というのもけっしてひどくまじめだったとは考えられません。おそらく彼は例の手紙で妹さんを罰しようと思ったんで、呼ぼうと思ったんじゃないんでしょうよ」
「ソルティーニのことは話したくありません」と、オルガはいう。「城のかたたちには、どんなことでも可能なんですわ、きわめて美しい娘のことであろうと、きわめて醜い娘のことであろうと。でも、そのほかはアマーリアのことであなたは完全にまちがっているんですわ。いいですか、わたしは何もアマーリアのためにあなたを味方にしなければならないという理由なんかないじゃありませんか。それなのにそうしようとし、また実際にやってもいるのは、みんなあなたのためなのですわ。アマーリアはとにかくわたしたちの不幸の原因でした。それはたしかです。けれど、この不幸でいちばんひどい目にあった父さえ、そしてものをいうときけっしてうまく自制はできず、家ではことにそんなことができなかった父でさえ、いちばんひどい境遇にあったときにもアマーリアに対して一ことでも非難めいたことなんかいいませんでした。そして、それは父がアマーリアのやりかたを正しいとみとめたためなんかじゃないんです。ソルティーニの崇拝者である父がどうしてアマーリアのやりかたを正しいとみとめることなんかできたでしょう。父は少しでもそれが理解できなかったのです。自分の身も、自分のもっているすべても、父はソルティーニのためなら犠牲にしたことでしょう。とはいっても、ソルティーニがきっと怒ってしまったためにあれから実際になってしまったようなこんなふうな犠牲の払いかたではないでしょうが。ソルティーニがきっと怒ってしまった、つていったのは、わたしたちはあれからソルティーニのことを全然聞いていないのですもの。あのときまでは引きこもっていたのだとすると、あれからはまるであの人というものが全然いないようなことになりました。ところで、あのころのアマーリアをあなたに見ていただきたかったわ。はっきりした罰なんかくることはないだろう、ということはわたしたちみんなが知っていました。人びとがただわたしたちから遠のいていってしまったんです。この村の人たちも城の人たちもですわ。村の人たちが遠のいていくことは、むろんわたしたちも気づきましたが、城のことは全然わかりませんでした。わたしたちは以前は城の配慮なんかには少しも気づいていなかったので、どうしてあのとき、急な変化なんかに気づくことができたでしょう。この静かな様子がいちばん悪かったのです。これに比べると、村の人たちが遠のいていったなんていうことは、たいしたことではありませんでした。あの人たちは何か確信があってそうしたわけではないのだし、おそらくわたしたちを本気で嫌ってなんかいるのでは全然なかったのでしょう。今日のような軽蔑はまだ生じていませんでしたし、ただ不安の気持からやっただけなんです。そして今度は、これからどうなるか、と待ちかまえていたんです。また生活の困難もまだ全然恐れる必要はありませんでした。借金のある人たちはみんな払ってくれますし、決算は有利でした。食べものでないものがあると、親戚の人たちがこっそり助けてくれました。収穫期でしたから、それはやさしかったんです。とはいえ、うちには畑はありませんし、どこの家でも手伝いをさせてはくれませんでした。わたしたちは生涯ではじめて、ほとんどのらくらして暮らすがいい、という刑の宣告を受けたのでした。そこで、わたしたちは七月、八月の暑さのなかを、窓を閉めきってみんないっしょに坐りつづけていました。出頭命令も、通告も、報告も、訪問客も、なにもなかったんです」
「それなら」と、Kはいった。「何ごとも起こらなかったし、はっきりした罰も受けそうもなかったのに、あなたがたは何を恐れていたんです?」
「そのことをあなたにどう説明したらいいでしょうね?」と、オルガはいった。「わたしたちはやってくるものを何も恐れてはいませんでした。わたしたちはすでに眼の前にあるもののことで苦しんでいました。わたしたちは罰のまんなかにいたんですわ。村の人たちはただ、わたしたちが自分たちのところへくることを待ち、父がふたたび仕事場を開くことを待ち、とてもきれいな服をぬうことを心得ていた――とはいっても、ただ身分のきわめて高い人たちだけのためにやったのでしたが――アマーリアが、また注文を取りにくることを待っていました。実際、すべての人は、自分たちがやってしまったことで困っていました。村で名望ある一家が突然すっかり閉め出しをくってしまうと、だれもが何かしら損害をこうむるものです。あの人たちは、わたしたちから離れていったとき、ただ自分たちの義務を果たすのだ、と信じたのでした。わたしたちだって、あの人たちの立場にいたら、きっとそれとちがったことはしなかったでしょう。ほんとうのところ、あの人たちは問題がどういうところにあるのか、くわしくは知らなかったのです。ただ使いの者が手にいっぱいの裂かれた紙切れをもって紳士荘へもどってきた、というだけの話だったんです。フリーダがその使いを見て、つぎにまたその使いがもどってくるのを見ました。その男と一こと二こと言葉を交わし、そしてあの人が知ったことが、すぐに村じゅうへ拡がったのですわ。しかし、これもやはり全然わたしたちに対する敵意からやったことでなく、ただ義務からやったのです。同じ場合に出会ったなら、ほかのどんな人でもそうするのが義務であったことでしょう。そこで、村の人たちにとっては、すでにわたしが申しましたように、事の全体がうまく解決することがいちばん好ましかったことでしょう。そこでもしわたしたちが突然訪ねていき、もう万事は解決したのだ、たとえば、ただ一種の誤解があっただけで、その誤解はこれまでに完全に明らかにされた、あるいはたしかにあやまちはあったが、それも行為によってつぐなわれたのだ、――これだけだって村の人びとには十分でしたろうが――わたしたちの城とのつながりによって事をもみ消すことに成功した、というようなことを知らせてやったとします。そうすれば、あの人たちはきっとまたわたしたちを両手を拡げて迎え、接吻し合ったり抱き合ったりして、お祭りみたいな気分になったことでしょう。わたしはほかの人たちの場合に、そんなことを二、三度体験したことがあります。でも、そんなことを知らせてやることも全然必要じゃなかったことでしょう。ただわたしたちがこだわりから解放されて出かけていき、こちらから申し出て、昔からの関係をもとのとおりに始め、ただ例の手紙の話について一こともしゃべらぬようにしたならば、それで十分だったでしょう。みんなよろこんであの件のことを口にすることなんかやめてしまったことでしょう。ほんとうに、不安というものと並んで、何よりもあの件がうるさいために、人びとはわたしたちから縁を切ってしまったのでした。ただ、あの件について何も聞かず、何も語らず、何も考えず、けっしてそれにふれられないですむために、村の人たちはわたしたちから離れていったのでした。フリーダがこの件のことをもらしたのは、それを楽しむためにやったことじゃなくて、自分とあらゆる人とをこの件から守るために、そして、みんながきわめて用心深く避けていなければならぬ何ごとかが起ったのだ、ということに村の人びとの注意を呼びさますためにやったことでした。この場合に、わたしたちは家族として人びとの問題にされたのではなく、ただ事件が問題にされたのであり、ただわたしたちが巻きこまれたこの事件のためにだけわたしたちが問題にされたのでした。そこでもしわたしたちが、ただまた姿を見せ、過ぎ去ったことはそのままそっとしておき、どんなやりかたであってもかまわないから、事件をもう乗り超えたのだということをわたしたちの態度によって示してやったら、そして世間の人びとが、あの件はどんな性質のものであったにもしろ、もう二度と話に出ることはあるまい、という確信をもったならば、万事はうまくいったことでしょう。いたるところでわたしたちは昔ながらの好意的な助力を見出したことでしょうし、たといわたしたちがあの件を完全に忘れてしまっていなかったとしても、人びとはそれをわかってくれて、それを完全に忘れるようにわたしたちの力になってくれたことでしょう。ところが、そんなことをするかわりに、わたしたちは家で坐っていただけでした。わたしたちが何を待っていたのかは、わたしにはわかりません。きっとアマーリアが決定を下すことを待っていたのでしょう。あの子はあの例の朝に家族の指導権を自分の手に奪ってからは、それをしっかとにぎっていました。特別のことをやるでもなく、命令するでもなく、頼むでもなく、ほとんどただ沈黙によって、そういうことになったのでした。アマーリアを除いたわたしたちにはむろん相談すべきことがたくさんありました。朝から晩まで、たえまなくささやき合っていたのです。ときどき父は突然不安に駆られてわたしを自分のところに呼びつけ、わたしは父のベッドのふちで夜の半分も過ごしました。あるいはわたしたち、バルナバスとわたしとの二人は、ときどきいっしょにうずくまっていました。弟はまだやっと事の全体をほんのわずかのみこめるだけで、たえずすっかり逆上したようになって、説明を求めるのでした。いつも同じことなんです。自分の年ごろのほかの者たちが期待しているような心配の影というもののない歳月が自分にはもう存在しないのだ、ということを弟はよく知っていました。そうやってわたしたちはいっしょに坐っていました。――K、今わたしたちが坐っているのとまったく同じようにでしたわ――そして、夜になり、また朝がくるのも、忘れていたんです。母はわたしたちのうちでいちばん弱っていました。きっと、わたしたちに共通の悩みばかりでなく、めいめいの悩みを一つずついっしょに悩んでいたためです。そんなふうにして、母の身にいろいろな変化をみとめてわたしたちは驚きました。わたしたちが予感したように、母の変化はわたしたちの一家全部の前にあったのでした。母の気に入りの場所は長椅子の片隅でした。――もうずっと前からその長椅子はありません。今はブルンスウィックの家の大きな部屋に置かれています――母はそこに坐って、――どうしたことなのか、はっきりわかりませんでしたが――うとうとまどろんだり、あるいは、唇が動くことでそうだろうと想像されたのですが、長たらしいひとりごとをいっていました。わたしたちがいつでも手紙の件をいろいろ話し合い、確実なこまかい一つ一つのことやありとあらゆる不確実な可能性もあれやこれやと話し合ったのは、きわめて当然なことでした。また、うまい解決のためのさまざまな手紙を考え出そうとして自分たちの力以上のことをやっていたというのも、当然なことで、やむをえないことでした。だが、それはよくなかったのです。実際、そのためにわたしたちは、逃がれ出ようと思っているもののなかにいよいよ深入りしていくことになったのです。そして、こうしたすばらしいさまざまな思いつきも、いったい実際にはなんの役に立ったでしょうか。どんな思いつきもアマーリアを抜きにしてでは実行できません。すべてはただの下相談であり、そうした相談の結果が全然アマーリアの耳までとどかなかったことで、無意味なものだったのです。そして、たといあの子の耳に入ったところで、沈黙以外のどんなものにも出会わなかったことでしょう。ところで、ありがたいことに、わたしは今ではアマーリアをあのころよりもよく理解しています。あの子はわたしたちのだれよりもたくさんの重荷を担っていたのでした。あの子がそれに耐えたこと、そして今でもわたしたちのあいだで暮らしつづけていることは、考えられないほどのことですわ。母はおそらくわたしたちみんなの悩みを担っていたのでした。自分の上にふりかかってきたので、母はそれを担ったのです。しかし、長いあいだはとてもそれを担っていられませんでした。母が今でもまだともかくもその重荷を担っているということはできません。すでにあのころ、母の心は狂っていたのでした。ところが、アマーリアはその重荷を担っただけではなく、それを見抜くだけの頭ももっていたのです。わたしたちはただ結果だけを見ていたのに、あの子は原因まで見抜いていました。わたしたちは何かちっぽけな手段を望んでいたのに、あの子はすべてがもう決定されてしまっているのだ、ということを知っていました。わたしたちはこそこそと相談しなければならないのでしたが、あの子はただ沈黙していなければなりませんでした。真実と面と向かい合って立ち、生き、そしてそうした生活を今と同じようにあのころにも耐えていました。わたしたちはひどい困苦のなかにいたとはいえ、あの子よりもずっとよかったのです。むろん、わたしたちは家を出なければなりませんでした。ブルンスウィックがわたしたちの家に越してきて、わたしたちにはこの小屋があてがわれたのです。一台の手押車を使って、わたしたちは家財道具を二、三回で運んできました。バルナバスとわたしとが車を引き、父とアマーリアとがあとを押しました。母は最初にすぐここへつれてきていましたが、箱の一つに坐って、わたしたちが着くたびにいつでも低い声で嘆きながら、わたしたちを迎えました。でも、わたしは今もおぼえていますが、わたしたちはそうして苦労しながら車を引いてくるあいだも――それはまたとても恥かしいことでした。というのは、わたしたちはしょっちゅう刈入れの車に出会いましたが、そんな車についている人たちはわたしたちの前で黙ってしまい、視線をそらすのでした――バルナバスとわたしとは、こうして車を引いてくるあいだにも、わたしたちの心配や計画について話すことをやめることができませんでした。そのため、話しながらときどき立ちどまってしまい、父に『おい!』と声をかけられてはじめてわたしたちのしなければならない現在の仕事を思い出すのでした。しかし、あらゆる話合いは引越しのあとでもわたしたちの生活を少しも変えませんでした。ただ変ったことは、わたしたちがそれからようやく貧乏をも感じさせられるようになったということでした。親戚の人たちの補助はやみ、わたしたちの財産はほとんどつきてしまいました。ちょうどそのころに、わたしたちに対するあなたもご存じのあの軽蔑が始ったのでした。わたしたちが手紙の事件から脱け出る力をもっていないことに、人びとは気づいたのでした。そして、そのことでわたしたちに対してとても気を悪くしました。人びとはくわしくは知らなかったのですけれど、わたしたちの運命のむずかしさをみくびってはいませんでした。自分たちもこんな試練にはおそらくわたしたちよりもよくは耐え抜くことができなかっただろう、ということを知っていました。それだけに、わたしたちと縁を切ることが必要だったのです。もしわたしたちがそれに打ち勝っていたら、わたしたちをそれ相応に尊敬してくれたことでしょうが、それがわたしたちには成功しなかったので、それまではただ一時的にやっていたことを、決定的にやるようになったのでした。つまり、わたしたち一家をどんな仲間からも閉め出してしまいました。そうなるとわたしたちのことをもう人並みに話してはくれませんでした。うちの姓はもう人びとの口にはのぼらなくなりました。わたしたちのことを話さなければならなくなると、わたしたちのうちでいちばん罪のないバルナバスの名前で呼ぶのです。この小屋までが排斥されました。そして、あなたもよく考えてごらんになるなら、この家に最初に足を踏み入れたときに、この軽蔑がもっともなことに気づいた、と告白なさるでしょう。あとになって、人びとがときどきまたわたしたちのところへやってくるようになったとき、たとえば小さな石油ランプがあそこのテーブルの上にかかっているというようなまったくつまらぬことについても、鼻にしわをよせてみせるのでした。いったい、テーブルの上のほかのどこにかけたらいいというのでしょうか。ところが、あの人たちには我慢できぬように思われたのです。ところで、もしランプをほかのところへかけたとしても、あの人たちの嫌悪は変わらなかったでしょう。わたしたちという人間も、わたしたちのもっているものも、いっさいが同じように軽蔑を受けたのです」



嘆願廻り


「そのあいだにわたしたちは何をやったのでしょう。わたしたちがおよそできるうちもっとも悪いこと、ほんとうに軽蔑されていたよりももっと軽蔑されるにふさわしいようなこと、をやっていたのです。わたしたちはアマーリアを裏切り、あの子の無言の命令から離れていきました。わたしたちはもうあんなふうな生きかたをつづけることができなかったのです。少しも希望なしには、わたしたちは生きられませんでした。そして、わたしたちはそれぞれのやりかたで、わたしたちを許して下さい、と城に頼んだり、つめよったりしました。何かを回復することはできないのだ、ということをわたしたちは知ってはいました。また、わたしたちが城ともっていたただ一つの望みのあるつながり、つまり、父に対して好意を抱いていてくれた役人のソルティーニは、まさに例の事件によってわたしたちには近づきがたくなったのだ、ということも知っておりました。それにもかかわらず、わたしたちは仕事に取りかかったのでした。父が皮切りに始めました。村長のところ、秘書たちのところ、弁護士たちのところ、書記たちのところへというふうに、意味のない嘆願廻りが始まりました。たいていは迎えてもらえず、たとい何か策略か偶然かによって迎えられたところで――そういう知らせを聞くと、わたくしたちは歓声を上げ、手をこすり合わせて悦んだものでしたわ――すぐに追い払われてしまい、二度と迎えてもらえませんでした。父に返事をすることなんか、あまりにもやさしいことだったんです。城にとっては返事をするなんていうことはいつだってやさしいことなんです。いったい、君はどうしてくれというのだ? 君に何が起ったというんだ? 何を許してくれというのだ? いつ、まただれによって、城が君に指一本でもふれたというのだ? たしかに、君は貧乏になってしまったし、お顧客(とくい)もなくしてしまった、だがそんなことは日常生活において、また商売や取引きにおいて、いくらでも起こることだ。どうして城があらゆることに気を使わなければならないのだ? 城はたしかに実際あらゆることに気を使ってはいるけれども、なりゆきに乱暴に干渉するわけにはいかない。簡単に、ただ個人の利害関係に奉仕するというだけの目的で、干渉なんかするわけにはいかないのだ。城の役人たちを派遣してもらいたいというのか? またその役人たちに君のお顧客のあとを追いかけ、君のところへ無理につれもどしてくれというのか? こんな調子でした。ところが、父はそういうときにこう異論を申し立てました――わたしたちはこうしたことについて、いく前にもいってきたあとでも、うちで片隅に集ってはくわしく話し合っていたのでした。その相談は、まるでアマーリアの眼を逃がれようとするような様子でやったのでした。アマーリアは万事を知ってはいるけれど、なるがままにほっておくのでした。――で、父はこう異論を申し立てたのです。自分は何も貧乏になったことを嘆いているんではありません。自分がこの村で失ったものはたやすく取りもどして見せるつもりです。自分を許してさえいただけたら、そんなものはどうでもいいんです。すると、相手のほうでは答えます。『いったい、君に何を許してあげたらいいんだ?』今までのところ報告はとどいていない。少なくともまだ調書には書かれていない。少なくとも弁護士の仲間の手に入る調書には書かれていないのだ。したがって、確認されている限りでは、君に対して何ごとかが企てられていることもないし、何ごとかが進行しているということもないのだ。君に関して出された役所の指令がどういうものかいうことができるかね? 父はそんなことをいえるはずがありません。それとも役所の機関が干渉を加えたのかね? 父はそんなことを全然知りません。それなら、君は何も知らないし、何ごとも起こらなかったとすれば、いったい君はどうしようというのだ? こちらも何を許してやれるのだ? 許してやるといったって、せいぜいのところ、君が今、まじめな用件もないのに役所に迷惑をかけていることを許してやるぐらいのものだ。だが、それこそまさに許すことができぬものなのだ。こういう調子ですの。父はやめませんでした。あのころはまだとても元気があり、無為をしいられていたものですから、時間はたっぷりありました。『おれはアマーリアの名誉を取りもどしてやるぞ。もうすぐだ!』と、バルナバスとわたしとに向って一日に何回かいいました。でも、ほんの低い声でいうだけでした。というのは、アマーリアにそれを聞かせてはいけなかったんです。それにもかかわらず、それはただアマーリアのためにいわれたのでした。というのは、父はほんとうは名誉の回復なんかのことは考えていず、ただ許してもらうことを考えていたんです。ところが、許しを得るためには、まず罪をはっきりさせねばならず、罪は役所で否定されたのです。そこで父はこんな考えに陥ってしまいました。――そして、このことは父がすでに精神的に弱りきっていたことを示すものでした――自分が十分にお金を払わないために相手は罪のことを隠しているのだ、って。つまり、父はそれまではただきまりの料金しか払っていませんでした。それだって、少なくともわたしたちの境遇からすればとても高くつくお金でした。ところが、父は今度は、もっとたくさん払わなければならないのだ、と信じたのでした。それはきっとまちがいでした。というのは、わたしたちの役所では、事を簡単にして不必要な話なんか避けるために賄賂(わいろ)を取るには取りますけれど、それによって得るところなど何もないんです。しかし、それが父の希望であるとするなら、わたしたちはその点で父のじゃまをしたくはありませんでした。わたしたちは、まだもっているものを売り払いました。――それもほとんど欠くことのできぬものばかりでしたけれど――父がいろいろ調べ歩く費用をつくるためでした。長いこと、わたしたちは毎朝、父が出かけるときに、いつでも少なくともいくらかのお金をポケットのなかでじゃらじゃらいわせることができるようにしてやることで満足をおぼえていたのでした。むろん、わたしたちは一日じゅう飢えていました。こうやってお金をつくることでわたしたちがほんとうに実現することができたことといえば、ただ父がある種の希望を抱いてよろこんでいられるということだけでした。ところが、これがほとんど利益にはならぬことだったのです。こんなふうに歩き廻ることで、父は骨身をけずりました。お金がなければすぐにうまく終ってしまったはずのことが、こうやって永びかされたのでした。相手はこんな過分な支払いに対してほんとうは何も特別なことをやることができないのですから、ある書記はときどき少なくとも見たところ何かやっているようによそおおうとして、調査すると約束したり、ある種の見当はもうついているのだ、それを追いかけるのは何も義務からではなく、ただ父に対する好意からやっているのだ、とほのめかしたりするのでした。父は疑い深くなってもよさそうなものなのに、かえっていよいよ信用するようになりました。こうした無意味な約束をもって、まるでまたもや完全な祝福を家へもちこみでもするかのような様子でもどってくるのでした。父がいつもアマーリアの背後で、ゆがんだ微笑を浮かべ、大きく見開いた眼をアマーリアに向けながら、アマーリアを救うことも(そうなればだれよりもあの子自身がいちばん驚くだろうが)、自分の努力のおかげでごく近いうちにうまくいくことになった、でもこれはすべてまだ秘密で、その秘密を厳重に守らなければいけないのだ、とわたしたちにほのめかそうとする様子をながめることは、いかにも心苦しいことでした。もしわたしたちがついに、父にお金をそれ以上渡すことがどうしても不可能にならなかったならば、きっとこんなことがもっと長いあいだつづいたことでしょう。そのあいだに、バルナバスはさんざ頼みこんでやっとブルンスウィックによって職人として採用されました。とはいっても、それはただ、晩の暗闇にまぎれて注文を取りにいき、また暗闇にまぎれて出来上がった仕事をもっていくというやりかたでした。――ブルンスウィックがこの場合、自分の商売にとってのある種の危険をわたしたちのために引き受けたのだ、ということはみとめるべきですが、そのかわりバルナバスに対してとても少ししかお金を払わず、しかもバルナバスの仕事は欠点がないくらいりっぱなものでした――けれど、こうした仕事の手間賃は、わたしたちが完全に飢え死してしまうことから守るのにやっとたりるだけでした。父を大いにいたわりながら、またいろいろ下相談をやったあとで、わたしたちはもうお金の援助をやめるということを父に告げました。ところが、父はそれをとても落ちついて聞き入れました。父はもう分別によっては、自分のやっているいろいろなことには見込みがないのだ、ということを見抜けなくなっていました。つぎつぎの失望に疲れ切っていたのでした。なるほど、こんなことをいってはいました。――父はもう以前のようにはっきりとはものをいわなくなっていたのです。以前はほとんどはっきりしすぎるくらいにものをいっていたものですが――自分がもう少し金を使いさえしたなら、あしたには、いやきょうのうちにでもなんでも知ることができただろうに。これで万事はむだになってしまった。ただ金のことで挫折してしまったんだ、などというのです。でも、父がそれをいう調子は、そんなことはみんな信じてはいないのだ、ということを示していました。そうかと思うとすぐ、突然、新しいいろいろな計画を抱きさえするのでした。罪をはっきり証明することがうまくできなかったものだから、したがってこれ以上は役所を通じての手段ではなしとげることができなかったのだから、これからはもっぱら嘆願にたよって、役人たちに個人的に近づかなければならない。役人たちのなかにはたしかに親切で同情的な心の持主もいる。そんな人も役所ではそういう気持に負けることはできないけれど、役所のそとで、適当なときに突然訪ねていったら」
 ここで、これまでまったくオルガの話に耳を傾けきっていたKが、つぎのようにたずねてオルガの話を中断した。
「それで、君はそれを正しいと思わないんですか」その返事は話をつづけていくうちに出てくるにきまってはいたのだが、彼はそれをすぐに知りたかったのだ。
「正しいとは思わないわ」と、オルガはいう。「同情とかあるいはほかのそういった気持などは全然問題にはならないのです。わたしたちはどんなに若く、どんなに無経験であったとしても、そんなことは知っていましたし、父もむろんそれを知ってはいたのです。ところが父はたいていのことと同じようにこのことを忘れてしまったんです。父は、役人たちの馬車が通りすぎる国道につっ立って、とにかく通る車があれば、許してくれるように嘆願を申し出る、という計画を立てていました。正直に申しますと、まったく分別を欠いた計画です。たといほんとうは不可能なはずのことが起こり、嘆願がほんとうにある役人の耳に達したとしても、分別を欠いた計画といわなければなりません。いったい、一人一人の役人が許すなんていうことをできるものでしょうか。許すということができるのはせいぜい役所全体のこととしてでしょうが、それだっておそらく許すのではなくて、裁くだけです。でも、一人の役人が車から降りて、かかり合ってきたとしたところで、貧しくて、疲れ切って、老いぼれてしまった父がつぶやくことを聞いて、事の全体の姿を思い描くことがいったいできるものでしょうか。役人たちはとても教養があるのですが、ただひどく片よっていて、自分の専門ならば一こと聞いただけですぐこちらの考えていることを全部見抜きますが、ほかの課のことになると、何時間でも説明して聞かせなければなりません。それで、おそらくはていねいにうなずいて聞いているでしょうが、一ことだってわかってはいないのです。こんなことはみんなあたりまえのことですわね。まあ自分で、自分に関係のある小さな役所仕事を取り出してみてごらんなさい。一人の役人が肩をすぼめるだけで片づけてしまうようなちっぽけなことでいいのです。そして、それを根本から理解しようとしてごらんなさい。そうすれば、一生のあいだそれにかかわらなければならないし、けっして終わるということがないでしょう。ところで、もし父が係の役人にぶつかったとしても、その役人は書類もなしには何一つ片づけることはできません。ことに国道の上なんかではできっこありません。その役人は許すことはできず、ただ職務上片づけることができるだけです。そして、そのためにただ役所の手続きを教えることができるでしょうが、そういう手段で何かを手に入れるということこそ、まさに、父がすでに完全に失敗したことなのです。こんな新しい計画をなんとかやり抜こうなどと、父はなんということまで考えるようになっていたのでしょう! もし何かそんなたぐいの可能性がほんの少しでもあったならば、あそこの国道の上は嘆願者でうようよすることでしょう。でも、そんなことは不可能なことだぐらいは小学校下級の教育でだって教えられていますから、あそこにはだれ一人として立ってなんかいないんですわ。おそらくあそこに人がいないということが、父の希望を強めたのでしょう。父はどんなことにも希望を見出そうとするたちだったのです。また、それがこの場合には必要でもあったのです。まともな分別がある人間はあんな大げさな考えにかかわったりするはずはなく、またいちばん外面的なことを見ただけで不可能なことをはっきりみとめるにちがいありませんでした。役人たちが村へきたり、城へもどったりするのは、遊山(ゆさん)なんかじゃありません。村でも城でも仕事があの人たちを待っています。そのため、あの人たちはきわめて早い速度で車を走らせるのですわ。また、車の窓から外をながめたり、外に請願者を探すなんていうことは、あの人たちには思いつきません。馬車は役人たちが調べる書類でいっぱいつまっているんです」
「でも」と、Kはいった。「役人のそりのなかを見たことがあるけれど、そのなかには書類なんかなかったですよ」
 オルガの話を聞いているうちに、彼にはあまりに大きな、ほとんど信じがたい世界が開けてきたので、Kは自分の小さな体験でその世界にふれ、その世界の存在と自分の存在とをいっそうはっきりと確信したいという気持を捨て去ることはできなかったのだ。
「それはありうることです」と、オルガはいった。「でも、そうなるともっと事情は悪いんですわ。そういうときには、役人はとても大切な用件をもっているので、書類があまりに貴重であるか、あまりにかさが大きいかであり、もっていくことができないのです。そういう役人は馬車を早がけで走らせます。ともかく、父のために時間をさいてくれることのできる役人はいません。その上、城へいく馬車道はいくつもあるのです。一つの道がはやるとなると、たいていの役人はそこを走ります。また別な道がはやると、みんながそこへ押しかけます。どういう規則によってこの交代が行われるのかは、まだわかってはいません。あるとき、朝の八時にみんながある道を走るとすると、三十分後には今度はみんな別な道を走り、その十分後には第三の道を走り、その三十分後にはおそらく最初の道を走って、それからは一日じゅうそこを走るということになります。でも、どの瞬間にも、変更が行われる可能性があるのです。村の近くでどの馬車道も一つに合わさりますが、そこではもうあらゆる馬車が疾走しています。城の近くでは速度がもっとおだやかなんですが。それから車の出てくるきかたがそれぞれの道についてまちまちで全体を見通すことができないのと同じように、車の数についてもまちまちなのです。馬車が一台も見られない日がしばしばあるかと思うと、そのあとでは大変な数が走るのです。ところで、こうしたすべての条件を考え併せて、父のことを想像してみて下さい。いちばんいい服を着て――それが父のただ一枚の服なのですが――毎朝、わたしたちの祝福を受けながら、家から出ていきます。ほんとうはもうもっていてはいけないはずの消防隊の徽章(きしょう)をもっていくのです。それを村の外に出るとつけるのです。村のなかではそれが人目にふれることを恐れているんです。ところがじつはそれはあんまり小さいので、二歩も離れるとほとんど見えないくらいなのです。でも、父の考えによると、それは車を走らせて通り過ぎていく役人たちの注意をひきつけるのに適当でさえある、というわけです。城への入口からほど遠くないところに商売のための野菜畑があって、それはベルトゥーフという人のもので、その人が城に野菜をおさめているんですが、その畑の格子塀(こうしべい)の狭い台石の上に父は場所を選びました。ベルトゥーフはそれを黙って許しました。なぜかというと、この人は以前には父と仲がよく、父のいちばんのお顧客(とくい)であったからです。つまり、この人は少し足がちんばで、父だけが自分のためにぴったり合う靴をつくることができるのだ、と思っているのでした。ところで父はくる日もくる日もそこに腰かけていました。うっとうしい雨の降る秋でしたが、天気は父にとってはどうでもいいのでした。朝はきまった時間にドアのハンドルに手をかけ、わたしたちに出かけるという合図をするのです。夕方には――父は日一日と腰が曲っていくように見えました――ぐしょぬれになってもどってきます。そして、部屋の片隅にぐったりと身体を投げるのです。はじめのうちは、父はその日の自分のちょっとした体験をわたしたちに話してくれました。たとえばベルトゥーフが同情と昔からの友情とから格子塀越しに毛布を投げてくれたとか、通り過ぎていく馬車のなかにだれそれの役人をみとめたように思ったとか、あるいは馭者(ぎょしゃ)がときどきむこうから自分に気づいて、ふざけて鞭(むち)の革でさわっていったとかいうことです。ところがあとになると、もうこうしたことを話さなくなりました。父はもうそこで何かを手に入れるという希望をもたなくなったようでした。すでに、あそこへ出かけていき、そこで一日を過ごすことを、自分の義務、自分のあじけない義務と考えているのでした。そのころに父のリューマチの痛みが始まりました。冬が近づいて、いつもより早く雪が降り出しました。このあたりでは冬がとても早く始まるんです。ところで父は、前には雨にぬれた石の上に坐っていたのですが、それと同じように今度は雪のなかに坐っているのでした。夜なかには痛みのためにうんうんうなっていました。朝は、出かけていくべきだろうか、ときめかねていることがよくありました。でも、自分の気持に打ち勝って、出ていくのでした。母は父にすがりついて、いかせまいとするのです。父はもう手足がいうことをきかなくなったためにおそらく気が弱くなっていたのでしょうが、母にいっしょにいくことを許しました。そのために、母までも苦痛にとらえられてしまったのです。わたしたちはしばしば両親のところへいきました。食事を運んだり、あるいはただ訪ねていったり、あるいは家へ帰るようにと説得しようと思ったりしたのでした。どんなにしばしばわたしたちは、両親があそこにくずおれてしまって、自分たちの狭い居場所にたがいにもたれ合い、自分たちの身体をほとんど包んでくれない薄い毛布をかけてうずくまっているのを見たことでしょう。まわりにはただ灰色の雪と霧のほかには何もなく、見渡す限り、そして何日でも、人間一人、車一台通らないのです。なんという光景でしょう、K、なんという光景でしょう! それからついに、ある朝のこと、父はこわばった両脚をもうベッドから運び出すことができなくなってしまいました。まったくみじめなものでした。熱に少しうなされながら、今、上のベルトゥーフのところに一台の馬車がとまるぞ、一人の役人が車を降りるぞ、格子塀のところで自分のことを探しているぞ、それから頭を振りながら、不機嫌そうにまた車のほうにもどっていくぞ、というような光景を眼の前に見ているように想像するのでした。そんな状態のなかで、ここから上にいる役人に向って自分のいることを気づかせ、自分がいないのはどうしてもやむをえない事情によるものなのだということを説明して聞かせようとするかのように、大変な叫び声を上げるのでした。そして、実際に長いあいだあそこにいくことができないということになってしまったのです。父はもうあそこへは全然もどっていきませんでした。何週間もベッドに寝ていなければならなかったのです。アマーリアは食事の世話をしたり、看病したり、手当てをしたり、あらゆる仕事を引き受けました。そして、中休みしたこともありますが、その仕事はじつは今日までつづけているのです。あの子は、痛みをしずめる薬草を知っていますし、ほとんど眠らなくてもすむし、けっしてものに驚くということがなく、どんなものも恐れず、けっしていらいらすることがありません。あらゆる仕事を両親のためにやりました。ところで、わたしたちは何も手助けすることもできずに、落ちつかずにうろうろ歩きまわっていましたが、アマーリアは万事に冷静でした。ところが、やがて病気の最悪状態が終わり、父が用心深く左右を支えられてまたベッドから出ることができるようになると、アマーリアはすぐ引っこんで、父をわたしたちにまかせました」



オルガの計画


 さて次の問題は、父のために父がまだできる何かの仕事をまた見つけるということでした。少なくとも父に、それは一家の罪を払いのけるのに役立つのだという信念を抱かせておくような仕事を何か見つけることでした。そういったものを見つけることはむずかしくはありませんでした。どんなことでも、根本のところではベルトゥーフの野菜畑の前に腰かけて過ごすくらいには有効なものでしたから。でもわたしは、わたしにもいくらかの希望を与えるようなことを見つけました。役所でも、書記たちのところでも、そのほかのどこでも、わたしたちのことが問題になるときは、いつでもソルティーニの使者を侮辱したということだけが語られて、それ以上のことはだれ一人としてあえて突っこもうとはしなかったのでした。そこで、わたしは自分にこういい聞かせたのです。もし一般の意見が、たとい外見上だけであれ、ただ使者の侮辱ということだけしか知らないならば、これもまたただ外見上だけのことであれ、もしその使者をなだめることができれば、万事をふたたびよくすることができるはずだ、って。実際、人びとのいうところでは、まだどんな報告も入ってはいず、したがってどの役所の手にもこの件は入っていないのですから、許すということはそれによって使者自身の自由にまかせられていることであって、それ以上の問題ではありません。そうしたことはすべてじつは少しも決定的な意味をもたず、ただ見せかけだけであって、それ以上の結果は何ももたらしませんが、それでも父をよろこばせることでしょうし、父のことをあんなにも苦しめてきたたくさんの情報屋たちをそれによっておそらく少しは手も足も出ないようにしてやり、父も満足することができるでしょう。そこで、むろんまずあの使者を見つけ出さねばなりませんでした。わたしがこの計画を父に話しますと、父ははじめはとても腹を立てました。つまり、父はとてもわがままになっていたのでした。一つには父はこう思いこんでいるのでした。――病気のあいだに父のこのまちがった思いこみはいよいよひどくなりました――つまり、わたしたちがいつでも父のまさに成功しようとするときにじゃまをした、というのです。まず最初はお金の援助をやめたこと、今度はベッドに寝かせておくことがそれだというわけです。でももう一つには、父はもう他人の考えを完全に受け入れる力がなくなっていただけの話でした。わたしがまだこの計画を終りまで話さぬうちに、早くもその計画は投げ出されてしまいました。父の考えでは、自分はこれからもベルトゥーフの野菜畑のところで待たねばならない、でもきっともう毎日そこまでいくことはできないのだから、わたしたちが父を手押車でつれていくように、というのです。でも、わたしも譲っていませんでした。父がだんだんこの私の考えと折れ合うようになっていきましたが、ただ一つ困ることは、父のこの計画を実行する場合にまったくわたしにたよらなければならない、ということです。というのは、ただわたしだけがあのとき使者を見たのであって、父はその使者を知らなかったんです。むろん、従僕というものは似たりよったりで、わたしがあの男を見わけられるということは、わたしも完全には確信できませんでした。そこでわたしたちは、紳士荘へいき、そこにいる従僕たちのあいだであの男を探すことを始めました。あの男はソルティーニの従僕であり、ソルティーニはあれからもう村へはきませんでしたが、城のかたたちはしょっちゅう従僕を変えますので、ほかのかたの従僕たちのあいだにきっと見つけ出すことができるはずでした。また、おそらくはほかの従僕たちからあの男についての知らせを手に入れることができるかもしれません。とはいえ、このためには毎晩、紳士荘へいかねばなりません。それに、どこへいっても人びとはわたしたちのことをいい顔をしては見ません。ましてあんな場所ではそうです。金を払うお客としてはわたしたちは入っていくことができませんでした。しかし、わたしたちを使うことができる、ということがわかりました。あなたもご存じのように、従僕たちはフリーダにとってなんというわずらわしいものだったことでしょう。でも、根はたいていおとなしい人びとなんですが、あんまりやさしい勤めに甘やかされ、血のめぐりが悪くされているんです。『従僕の暮しのようであるように』と、役人たちの祝福の言葉がいっていますが、事実、暮しのよさについていうと、従僕たちこそ城のほんとうの主人たちといえるくらいで、またあの人たちもそれにふさわしくふるまうことを知っており、城ではあの人たちは城の掟(おきて)の下で行動するわけですが、そこでは静かにして、品位を保っています。――わたしがいろいろ見たところでは、それはたしかです――そして、ここの村でも従僕たちのあいだにまだその残りが見出されます。でも、ただの残りだけですわ。それ以外、大部分は、城の掟が村ではもうあの人たちに完全には通用しないということによって、まるで人が変ったようになります。掟ではなくて自分たちの衝動によって支配される、あらあらしい、服従を知らない一団になってしまうのです。あの人たちの恥知らずは限度というものを知りません。でも、村にとって幸いなことに、あの人たちはただ命令を受けてはじめて紳士荘を立ち去ってよいということになっているんです。でも、紳士荘ではあの人たちと折れ合うように努めないわけにいきません。ところで、フリーダにとってはこれが重荷でした。そこで、従僕たちをしずめるためにわたしを使うことができたのは、フリーダにとってはとても歓迎すべきことでした。二年以上も前から、少なくとも週に二度は、わたしは従僕たちといっしょに馬小屋で夜を過ごしました。以前、まだ父がいっしょに紳士荘へいくことができたときには、酒場になっている部屋のどこかで眠り、そうやってわたしが朝もっていく知らせを待っていました。知らせることなんか、ほとんどありませんでした。探している使者はきょうまでまだ見つけ出していません。うわさによると、あの使者を高く買っているソルティーニにまだ仕えているということで、ソルティーニがさらに離れた事務局へ引っこんだときに、それに従っていったということです。従僕たちもたいていは、わたしたちと同じようにあれからその人と会っていないんです。そして、だれかがそのあいだにあの人のことを見たといい張るときには、それはきっとまちがいなのです。ですから、わたしの計画はほんとうは失敗してしまったのでしょうが、それでもまだ完全に失敗したわけではありません。あの使者はなるほど見つけ出しませんでしたし、父が紳士荘へかよったことや、あそこで夜を明かしたことや、わたしに同情したことは――父がまだ同情する力があったとしてのことですけれども――悲しいことにあとに悪い結果を残すことになり、もうほとんど二年も前から、あなたのごらんになったような状態でいるような始末ですが、それでも父のほうがおそらくまだ母よりも身体の工合がいいのです。母ときたら、毎日もう死ぬのではないかと思われるほどで、ただアマーリアの度を超えた骨折りのおかげだけによってやっと死ぬことが引きのばされているんです。でも、わたしが紳士荘で手に入れたものは、一種の城との結びつきなのです。わたしは自分のやったことを後悔しない、とわたしがいっても、軽蔑しないで下さいな。城とのなんというりっぱなむすびつきだ、とあなたはおそらく思われるでしょう。そして、それももっともです。それはりっぱなむすびつきなんかじゃありません。わたしは今、たくさんの従僕、ここ何年かのあいだに村へきたほとんどすべての城のかたたちの従僕を知っています。そして、もしわたしが城へいくようなことになれば、あそこではよそ者ではないでしょう。あれは村での従僕たちにすぎないので、城ではあの人たちはまったくちがってしまいます。城ではあの人たちにはおそらくもうだれの見わけもつかず、そして、村でつき合っていただれかなら、なおのことそうで、城での再会を楽しみにしている、などと馬小屋のなかで百度も誓ったって、見わけがつかないんです。それにわたしもすでに、こんな約束があの人たちのすべてにとってどんなに無意味なものか、ということを経験しました。しかし、そんなことはそうたいしたことではありません。わたしはただ従僕たちによって城とのつながりをもっているだけではなく、おそらく、そしてわたしの見込みでは、こんなふうな意味でも城とつながっているんですわ。つまり、だれかが上の城からわたしとわたしのやることを見ていて――大ぜいいる従僕たちの管理ということは、むろん役所の仕事のうちでもきわめて大切な骨の折れる部分ですが――、わたしをそんなふうにながめている人が、おそらくわたしに対してほかのかたたちよりも寛大な判断を下してくれることでしょうし、なるほどひどいやりかたではありますけれど、それでもわたしたちの一家のために闘っており、父の努力をつづけているのだ、ということをみとめてくれることでしょう。このことを見たら、わたしが従僕たちからお金を取り、それをうちのために使っていることを、おそらく許してくれるでしょう。そのほかにもわたしがやりとげたことはありますけれど、それはあなたがきっとわたしの受けた罰と思われることでしょう。わたしは下僕たちから、どうやったら廻り道をして、むずかしい、何年もつづくおおやけの採用手続きなしで、城の勤めにつくことができるか、ということをいろいろと聞き知りました。そういう者はおおやけの使用人ではなくて、ひそかに、半分だけみとめられた者というにすぎず、権利も義務ももっていません。義務をもっていないということは、いっそう悪いことですが、一つだけいいことがあります。それでもあらゆる人びとのそばにいられるからです。そこで、都合のいい機会を見つけ、それを利用することができます。使用人ではないけれど、たまたま何かの仕事を見出すことができます。つまり、ちょうど使用人がそばにいないので、人を呼ぶ。そこでかけつけていく。そうすればもう、一瞬間前にはまだそうでなかったものになるのです。つまり、もう使用人なのです。とはいっても、いつそういう機会があるのでしょう? ときどきはすぐに、つまり、入っていくかいかないうちに、またあたりを見廻すか見廻さないうちに、もうその機会が眼の前にきています。もっともだれでも、いわば新米(しんまい)としてそういう機会をつかまえるだけの心の落ちつきをもっているとは限りませんけれど。ところで、こんなに早く機会が訪れる場合でないと、今度はおおやけの採用手続きをするのよりももっと長い年月がかかります。そうなると、こんなふうな半分だけみとめられた者は正規に公式に採用されることはもうありません。そこで、この場合にはよく考えてみる必要が十分にあります。しかし、いくら考えてみたところで、公式の採用の場合には選択がとてもきびしく行われるという事実、また何か悪い評判を立てられている家庭の者ははじめからほうり出されてしまうという事実の前には、黙らないわけにいきません。たとえば悪評のある家庭の者がこの手続きを受けると、その結果が気になって何年でもふるえているということになります。まわりの人びとは驚いて、どうしてそんな見込みのないことをやってみる気になったのだ、なんて最初の日からたずねます。でもご当人は希望をもっているのです。そうでなければ、どうして生きることができるでしょうか。ところが、何年もたってから、おそらく老人になってしまったときに、拒否の返事を聞くのです。万事はだめになった、自分の一生はむだだった、ということを聞くのです。むろん、この場合にも例外はあります。そのために人は簡単にやってみようという気になってしまうんです。ほかでもない悪評高い人びとが最後に採用されるということがあるのです。明らかに自分たちの意に反してこうした獲物のにおいが好きでたまらぬというような役人たちがいて、採用試験のときに鼻でくんくん嗅(か)いでみたり、口をひん曲げたり、白眼をむき出したりします。こうした悪評のある者はそんな役人たちにとっては、いわばひどく食欲をそそる存在のように思われ、それに抵抗するためには、法令集にしっかとかじりついていなければならないほどです。とはいっても、ときどきはそういうことはその男の採用されるのになんの役にも立たず、ただ採用手続きが無限に引きのばされるだけです。そうなると、その手続きはおよそ終わるということがなく、その男が死んだあとでやっと中絶されるだけです。こういうわけで、法にのっとった採用もそのほかの採用もいろいろな表裏両面の困難にみちあふれているんです。で、そんなふうなことに手を出す前には、万事をくわしく考えることが得策です。ところで、バルナバスとわたしとは、そういうことをゆるがせにはしませんでした。わたしが紳士荘から帰ってくると、わたしたち二人はいっしょに坐って、わたしが聞き知ったいちばん新しいことを話し、二人で何日でもそのことを徹底的に話し合いました。そこで、仕事はしばしばバルナバスの手のなかでまずいくらい長く寝ていました。そして、この点ではあなたのおっしゃる意味での罪がわたしにあるのかもしれません。でも、下僕たちの話に信用が置けないということは、わたしは知っていました。わたしは知っていましたが、下僕たちはわたしに城のことをけっして話したがらず、いつでも話をそらし、どんな言葉もさんざ頼んだあげくにやっと話してくれるのでした。ところで、話し始めるとなると、むろん、ののしり合ったり、つまらぬおしゃべりをしたり、ほらを吹いたり、誇張やつくり話をきそったりするのですから、あの暗い馬小屋のなかで入れかわり立ちかわり叫ばれるとめどもない叫び声のなかには、せいぜい一つか二つの、真実をちょっぴり暗示する点があるくらいがせきの山でした。でもわたしは、自分の心にとどめておいたとおりになんでもバルナバスに話してやりました。弟はまだほんとうのことと嘘との区別をする力がなく、また、わたしたちの家庭の状態があんなふうであったために、そういうことを聞きたいという欲求にほとんど渇(かつ)えていたので、すべてを丸呑みにして、なおそれ以上のことを聞きたいという熱意に燃えていました。そして、事実、わたしの新しい計画はバルナバスの手のなかにあったのです。下僕たちのところでは、もう何も手に入れることができませんでした。ソルティーニの使者は見つからず、けっしてこれからも見つからぬだろうと思われました。ソルティーニも、またあの人といっしょに例の使者も、だんだん遠くのほうにいってしまうように思われ、しばしばあの人たちの外見や名前もすでに忘れられてしまい、わたしはしばしば長いことかかってあの人たちの様子をいって聞かせなければなりませんでしたが、それによって得られることといえば、下僕たちがやっとあの二人のことを思い出すだけで、しかもあの人たちについてそれ以上に話してくれることはできないのでした。そして、下僕たちといっしょのわたしの生活についていうと、それが人びとにどう判断されるかということについては、わたしはもちろんそれを左右するなんの力ももちませんでした。ただ、それが実際になされたままに受け取られること、また、そのかわりにわたしたちの家族の罪が少しでも取り除かれるということ、これだけを望むことができたのでした。でも希望がかなえられたという外面的な徴候は手に入れることはできませんでした。それでも、わたしはそれをつづけていました。なぜなら、わたしにとっては城でわたしたちの一家のために何かを実現する可能性はこれよりほかに何一つ見あたらなかったからです。ところが、バルナバスにとってはそういう可能性があるということをわたしは見ました。もしわたしがやる気があれば、そしてその気はわたしには十分ありましたが、下僕たちの話を聞くことができました。で、そういう下僕たちの話から、城の勤務に採用されただれかは、自分の一家のためにとてもたくさんのことをやりとげることができる、ということを聞きました。もちろん、こうした話で信じる値打のあるものはどんなことだったのでしょうか。それをたしかめることは不可能で、ただ、信じる値打のあるものなんかとても少なかったということだけははっきりしていました。というのは、たとえば一人の下僕がわたしにこんなことをいかめしそうに保証しました。(その下僕にわたしは二度と会うことはないでしょうし、またたとい会うようなことになっても、もうほとんど見わけることはないでしょう。)弟に城の何かの地位を世話してやろう。あるいは少なくとも、バルナバスが何かほかのやりかたで城へくるようなことがあれば、弟を助けてやろう、つまり、弟を元気づけてやろう、というのでした。なんでも下僕たちの話によると、地位を得ることを待っている人たちは、待つ時間が長すぎるので、友人たちがそういう人たちの心配をしてくれないと、待っているあいだに卒倒したり、困りきったりしてしまい、つぎにはだめになってしまうようなんです。で、こんなことやそのほかの多くのことを下僕に聞かされると、そういう話はおそらくは正しい警告であったのでしょうが、そういう話につけ加えられた約束というものは完全に空(から)約束だったんです。ところが、バルナバスにとっては、それは空約束ではありませんでした。下僕のいうことを信じないように、とわたしは弟をいましめたのですが、わたしがその約束のことを弟に話しただけで、もう弟の心をわたしの計画にひきつけるのに十分でした。計画を実現するためにわたし自身が挙げたことは、弟の心をほとんどひきつけず、主として下僕たちの話が弟の心をひきつけたのでした。そこで、わたしはほんとうはまったく自分自身をたよりにするだけでした。両親と話が通じる者は、アマーリア以外にはだれもいません。わたしが父の古い計画をわたしのやりかたで実施しようとすればするほど、アマーリアはいよいよわたしから離れていきました。アマーリアはあなたとかほかの人びととかの前ではわたしと口をききますが、自分ひとりだけだと、もうけっして口をきかないんです。紳士荘の下僕たちにとってはわたしはおもちゃで、このおもちゃをこわそうとあの人たちはひどく一生懸命になっているのでした。二年間にわたしはあの人たちのうちのだれかとうちとけた言葉なんか一ことでも話したことはありません。ただ底意のある話とか、嘘の話とか、気ちがいじみた話だけでした。そこでわたしに残されたのはバルナバスだけでしたが、バルナバスはまだとても若すぎました。私はいろいろバルナバスに話してやっているうちに、弟の眼のなかに輝きを見ると(あの輝きはあれ以来弟がもちつづけていますが)、わたしはびっくりしましたが、それでも自分の計画を捨てませんでした。あまりに大きなものが賭(か)けられているようにわたしには思われたのでした。むろん、父のむなしいけれども大きな計画がわたしにあったわけではありません。わたしには男の人たちのこんな決断というものはありませんでした。わたしは使者の侮辱をつぐなうことだけを考えつづけていましたし、さらに、人びとがわたしのこんな謙虚さをほめるに価するものと考えてくれることさえ願っていました。ところが、わたしひとりではできなかったことを、今度はバルナバスによって別なふうに確実になしとげようと思いました。わたしたちは一人の使者を侮辱し、その人をもよりの事務局へ追い払ってしまったのでした。だとしたら、バルナバスという人間で新しい使者を提供し、バルナバスに侮辱された使者の仕事をやらせる以上に自然なことがあるでしょうか。そして、あの侮辱された使者が、いくらでも望むだけの期間、また侮辱を忘れるために必要なだけの期間、静かに遠く離れたところにいられるようにしてやるのです。この計画はひどく謙虚であっても、そのなかには不遜(ふそん)さも含まれており、これではまるでわたしたちが役所に対して、役所は人事問題をどういうふうに解決すべきであるかということを指示しようと思っているような印象をひき起こしかねないことにわたしは気づいてはいました。また、役所は自分の意志で最善の手配をできるし、この点では何かをやることができるはずだなどとわたしたちが考えつくよりも前に、とっくにそんな手配はしてしまっていることを、わたしたちが疑っているような印象を与えかねないことも気づいていました。けれども次にはまた、役所がわたしをそんなふうに誤解するはずはないし、あるいは、誤解するようなことがあっても、わざと誤解するはずはない、つまり、わたしがやるすべてのことが、いっそうくわしく調べもしないではじめから斥(しりぞ)けられるはずはない、と思いました。そこでわたしは自分の計画を捨てず、バルナバスの野望も折れませんでした。この準備期間のあいだに、バルナバスはひどく高慢になり、靴屋の仕事なんか自分にとって、つまり未来の事務局要員にとっては汚なすぎるものだと考えるようになりました。それどころか弟は、アマーリアがまれにですが何か一こと弟にいうと、アマーリアに反対しようとさえしました。しかも、根本的に反対しようとするのです。わたしは弟にこの短いよろこびを心から許してやりました。というのは、弟が城へ入っていった最初の日とともに、そうしたよろこびも高慢さも、たやすく予想されたように、たちまち過ぎ去ってしまったのでした。今や、わたしがすでにお話ししたあの見かけの勤めが始ったのでした。バルナバスが城へ、あるいはもっと正確にいうといわば弟の仕事部屋となったあの事務室へ、なんの苦もなくはじめて入っていったことは、驚くべきことでした。あのとき、この成功はわたしをほとんど気ちがいのようにしました。バルナバスが晩に家へ帰ってきながらこのことをささやいたときに、わたしはアマーリアのところへ走っていき、妹をつかまえ、部屋の片隅へ押えつけ、唇と歯とで妹に接吻しましたので、妹は痛いやら驚いたやらで泣きました。興奮のあまり、わたしは何もいうことができませんでしたが、事実、わたしたちはそれまですでに長いことたがいに話し合うことがなかったのでした。わたしは話すことを何日かあとにまでのばしました。けれども、そのあとの何日かのあいだにはむろんもう話すことなどはありませんでした。それからは、あんなに早くなしとげたところにとまりきりなのです。二年間、バルナバスはこの単調で胸をしめつけるような生活をつづけました。下僕たちはまったく役に立ちませんでした。わたしはバルナバスにちょっとした手紙をもたせてやって、そのなかで下僕たちに対してバルナバスに目をかけてくれるように頼み、同時にあの人たちの約束を思い出させるようにしました。そして、バルナバスは下僕さえ見れば手紙を取り出し、それをその下僕の前にさし出しました。たといバルナバスがときどきはわたしのことを知らない下僕たちに出会ったのであっても、また、わたしを知っている人びとにとってはその手紙を無言のままさし出すやり口が――というのは、弟は上の城では口をきこうとしなかったのです――腹立たしいものであっても、だれも弟を助けてくれなかったことはあんまりでした。それで、ある下僕が、おそらく手紙をもう二、三回も突きつけられた人でしょうが、その手紙を丸めて、紙くず籠へ投げこんだときには、救いでさえありました。そんな救いはむろん、わたしたちが自分の手で、そしてずっと前に、手に入れることができるものでした。わたしにはこう思われたのですが、その人は手紙を捨てるときに、こういうことができたでしょう、『お前たちもいつだって手紙をこんなふうに扱っているじゃないか』って。この時期の全部がそのほかの点ではまったく効果のないものであったとしても、それはバルナバスにいい影響を及ぼしました。弟が早く年をとり、早く一人前の大人になったことを、いいことだといえるとしての話ですが。それどころか、多くの点で弟は大人以上にまじめで見識があるようになりました。弟をじっと見て、今の弟をまだ二年前の少年であったときの弟と比べると、わたしはしばしば悲しい気持になってしまいます。しかも、弟が大人としておそらくわたしに与えてくれることができるはずの慰めや支えというものを、わたしは全然もたないのです。わたしなしでは、弟は城へいくことはほとんどありえなかったでしょうが、城へいくようになってからは、弟はわたしにたよってはいません。わたしは弟のただ一人の信用できる人間ですけれど、弟はそのわたしに自分が心で思っていることのほんの一部分しか語ってくれていないにちがいありません。わたしに城のことをたくさん話してはくれますが、弟の話からは、そして弟が伝えてくれる小さな事実からは、どうしてこれが弟をあんなに変えてしまったか、ということが少しもわかりません。ことにわからないのは、弟が少年のときにはわたしたちすべてを絶望させるくらいであった元気のよさを、どうして今、大人になって、あの上の城ではあんなにすっかり失ってしまったか、ということです。むろん、あのように無益に立ちつづけていること、毎日ただ待ちつづけて、しかもいつもそれをくり返し、変わるという見込みも全然ないことは、人間を疲れ切らせ、懐疑的にし、ついにはああやって絶望して立ちつづけること以外には何もできなくしてしまいます。でも、なぜ弟は以前にも全然抵抗というものをしなかったのでしょうか。ことに弟は、わたしのいったことが正しかったのだ、あそこの城では野心を満足させるようなものを何も得られないのだ、でもおそらくわたしたち一家の状態をよくするためには何か得るものがあるのだ、とまもなくさとったはずですから。というのは、あそこでは――従僕たちの気まぐれというものを除いては――万事がとても謙虚に行われているんです。野心はあそこでは仕事のうちに満足を求めます。そして、その場合に事柄自体が重きをなしますから、野心は消えてしまい、子供らしい願望などの生まれる余地はないのです。けれど、バルナバスがわたしに話したところによると、弟は自分が入ることを許された部屋にいるほんとうにいかがわしい役人たちでさえもどんなに大きな権力と知識とをもっているか、はっきり見とどけたように思ったのでした。どんなふうにしてこれらの人たちが、早口で、半分眼をつぶり、小さく手を動かしながら、口述をやるか。どんなふうにしてあの人たちが、ただ人差指を動かすだけで、一こともものをいわずに、ぶつぶついう従僕たちを遠ざけてしまうか。そして、従僕たちはこんな瞬間には、息を重くしながら、幸福そうにほほえむのです。また、どんなふうにしてあの人たちは、自分たちの本のなかに大切な個所を見つけ、その上を勢いよくたたくか。そして、どんなふうにしてほかの役人たちが、あの狭い場所でできる限り、その本のところへよっていき、首を突っこむか。こんなこととか、それに似たこととかが、バルナバスにこれらの人びとを偉いものだと思わせてしまったのでした。そして、もし自分がこうした人びとの注意をひき、その人びとと一こと二こと話すことができるならば――よその者としてでなく、事務局の同僚として、とはいってもむろん下っぱの種類ですが、ともかく口をきけるなら――わたしたちの一家のために思いがけぬことが手に入るかもしれない、という印象をもったのでした。けれども、まだ今までにはそこまではいっていません。そして、バルナバスは自分をそこまで近づけることができるかもしれないものを、あえてやってみようとはしないのです。もっとも弟は、自分は若いのにもかかわらず、わたしたちの一家のなかでは不幸な事情のために家長の責任ある地位へみずから押し上げられているのだ、ということをよく知ってはいるんです。ところで、ここで最後の話を打ち明けますと、一週間前にあなたがやってきたのです。紳士荘でだれかがそのことをいっているのを聞きましたが、わたしはそれを気にもかけませんでした。土地測量技師がやってきたというけれど、それがどんなことなのかも、わたしにはわかりませんでした。ところが、次の夕方、バルナバスが[#「バルナバスが」は底本では「バルバナスが」]ふだんより早く家へ帰ってきて――わたしはふだんはいつでもきまった時間に途中まで迎えにいくのです――、アマーリアが部屋にいるのを見ると、そのためにわたしを通りへつれ出して、そこで顔をわたしの肩に押しつけ、何分かのあいだ泣いていました。弟はまた前の少年にかえっているのでした。弟の手には負えないようなことが何か起ったのでした。まるで弟の前に突然、まったく新しい世界が開け、こうした新しい世界の幸福や心配に耐えきることができなかったのです。しかも、その場合に起ったことといえば、ただ弟はあなた宛の一通の手紙をまかされたということだけなのです。でも、これは弟がおよそまかせられた最初の手紙で、最初の仕事なんですわ」
 オルガは語り終えた。両親の重苦しい、ときどきごろごろいう呼吸の音のほかは、あたりは静かだった。Kは、まるでオルガの話を補うためというように、ただ軽やかにいった。
「あなたがたは私に対して仮面をかぶっていたんですね。バルナバスは手紙をまるで古くから勤めているとても忙しい使者のような態度でもってきましたし、あなたも、また今度はあなたと一つになっていたアマーリアも、まるで使者の勤めと手紙なんか何か片手間のことのように話しましたよ」
「あなたはわたしたちの区別をしなければならないんですよ」と、オルガはいった。「バルナバスは、自分の仕事についていろいろと疑いを抱いているにもかかわらず、あの二通の手紙でまた幸福な子供にかえってしまったのです。弟の疑いはただ自分とわたしとだけのものなんです。ところが、あなたに対する場合には、弟がほんとうの使者たちというのはこうだと考えているような使者としてあなたの前に現われることに、自分の名誉を求めているんです。そこで、たとえば、わたしは、今では役所の制服がもてるのではないかという弟の期待は強まってはいるのですが、二時間以内に弟のズボンをなおして、役所の制服のぴったり身体についたズボンに似るようにしてやらなければならなかったのです。そして、弟はそのズボンをはいて、こうした服装などの点ではもちろんだましやすいあなたの前に立ち現われることができるというわけです。これがバルナバスです。ところが、アマーリアはほんとうに使者の勤めを軽蔑していますし、弟が少しばかり成功を収めているように見える今は――妹がバルナバスとわたしとを見、わたしたちがいっしょに坐り、こそこそ話し合っているのを見れば、妹にもたやすく見わけられるはずですが――、使者の勤めを以前よりももっと軽蔑しているんです。そこで、あの子はほんとうのことを話しているわけで、あなたはそのことを疑って思いちがいしないで下さい。でも、K、もしわたしがときどき使者の勤めをおとしめていたのであれば、あなたをだまそうという下心からそうなったことではなくて、不安の気持からなのです。バルナバスの手でこれまでにもってこられたその二通の手紙は、三年来、わたしたちの一家が手に入れた、まだ十分疑わしいものではありますけれど、最初の恩寵(おんちょう)のしるしなのです。この転機は、それがほんとうの転機で、けっしてまやかしでないのならば――ほんとうの転機であるよりもまやかしである可能性のほうが大きいのですわ――、それはあなたがここに到着したことと関連していて、わたしたちの運命はある意味であなたの手にゆだねられることになってしまったのです。おそらくこの二通の手紙はほんのはじまりにすぎず、バルナバスの仕事はあなたについての使者の勤めを超えて大きくなっていくことでしょう。――わたしたちに許される限りは、それを望もうと思います――でもさしあたっては、万事はただあなただけを目あてにしています。上の城ではわたしたちは自分たちに割り当てられるもので満足しなければなりませんが、この下の村では自分で何かをすることができるでしょう。つまり、あなたの好意を確保すること、少なくともあなたに嫌われないように努めること、あるいは、いちばん大切なことですが、あなたをわたしたちの力と経験とで守って、あなたが城とのつながりを――そのつながりによってわたしたちはおそらく生きることができるでしょうけれど――失わないようにすることです。ところで、こうしたすべてをどんなことから始めたらいちばんいいのでしょうか。わたしたちがあなたに近づくときに、あなたがわたしたちに対して疑いを抱いたりしないためには、どうしたらいいでしょうか。というのは、あなたはここの事情はご存じでないし、そのためきっとあらゆる方向へ向って疑いを十分にもっていらっしゃるのですから。その疑いももっともなものですけれど。その上、わたしたちは軽蔑されていますし、あなたは村の人たちの意見の影響を受けており、ことにあなたの婚約者によって影響されています。たとえば、わたしたちには全然そんな意図はないんですか、あなたの婚約者と対立して、それであなたの気持を傷つけることなしに、どうやってあなたに近づいたらいいのでしょうか。あなたが受け取る前にわたしがくわしく読んでしまったあの知らせは――バルナバスはそれを読みませんでした。弟は使者としてそんなことはやろうとしませんでした――古びてしまっていて、一見したところたいして重要ではないように見えましたが、それが村長のところへいくようにとあなたに指示していたことで、重要さを増しました。では、この点についてわたしたちはあなたに対してどんな態度を取るべきだったのでしょうか。もしわたしたちがあの手紙の重要さを強調したなら、わたしたちが重要でもないらしいものを過大に評価し、これらの知らせを伝える者としてあなたにその価値をほめちぎり、あなたの目的ではなくてわたしたち自身の目的を追求しているのだ、という疑いをかけられてしまったでしょう。そればかりか、それによってあなたの眼にあの知らせそのものの価値を低く見させ、まったく意に反してあなたをごまかすということになったでしょう。しかし、もしわたしたちはあの手紙にたいして価値をおかなかったとしても、同じように疑いを受けていたことでしょう。というのは、なぜわたしたちはこの重要でない手紙を渡すという仕事に没頭しているのか、なぜわたしたちのやることということとは矛盾しているのか、なぜわたしたちは名宛人であるあなたばかりでなくわたしたちに手紙を頼んだ人もだますのか、こんないろいろな疑いが出てくるはずです。ところで、わたしたちに手紙を頼んだ人は、たしかにわたしたちが名宛人のところでいろいろ説明を加えてあれらの手紙の価値をなくすように、というので手紙をまかせたのではないはずです。そこで、いずれにせよこうしたいきすぎのあいだで中間を保つことは、つまり、手紙を正しく判断することは、ほんとうに不可能なのです。手紙はそれ自身でたえず価値を変えますし、手紙がひき起こすいろいろなもの思いは果てしがなく、そういうもの思いの場合はどこでとまるかということは、ただ偶然によってきめられるだけであり、そこで意見というのも偶然の意見ということになります。そして、さらにあなたに対する不安もそのあいだに入りこんでくるとなると、万事は混乱してしまいます。でも、わたしのこんな言葉をあまりにきびしく判断してはいけませんわ。たとえば、この前起ったように、バルナバスが、あなたは弟の使者としての勤めに不満であって、弟がこれを聞いてびっくりしてしまい、また残念なことに使者特有の神経質さもないわけでなく、自分の勤めをやめてもいいなどと申し出た、というような知らせをもって帰ってくるならば、わたしはむろんその失策をつぐなうためですが、それが役に立つとなったら、あざむくことでも、嘘をいうことでも、だますことでも、なんでもできます。でも、わたしがそんなことをやるのは、少なくともわたしが信じているところでは、あなたのためにもわたしたちのためにもなるんですわ」
 ドアをノックする音がした。オルガはドアのところへ走っていき、鍵(かぎ)を開けた。暗闇(くらやみ)のなかでランタンから一すじの光が床へ落ちていた。深夜の訪問者はささやくような声で何かたずね、やはりささやくような返事をもらっていたが、それで満足しないで部屋へ入りこもうとした。オルガはもうその男を押しとどめられなくなったらしく、そこでアマーリアを呼んだ。アマーリアが、両親の眠りを守るために、この訪問者を遠ざけようとしてあらゆることをやってくれるだろう、と期待しているらしかった。事実、アマーリアは急いでやってきて、オルガをわきへ押しやって、通りへ出ると、ドアを閉めて外に立った。ほんの一瞬たっただけで、彼女はもどってきた。オルガのできなかったことを、そんなに早くやりとげたのだった。



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