フランツ・カフカ 城 (16〜20章)


「この客室づき女中の仕事はわたしにはふさわしくないのよ。こんなのはほかのどんな女の子だってやれますもの。寝床を上げたり、あいそのよい顔をしたりできる子ならだれでも、そして、客のわずらわしさをいやがらないで、そういうものを誘い出しさえするような子ならだれでも、そんな女の子ならだれでも客室づき女中になれます。でも、酒場ではいくらか事情はちがいますわ。わたしは今度すぐまた酒場へとられました。あのときはあまり名誉といえない飛び出しかたをしたんですけれど。むろん今度はわたしにはごひいきがありました。ところがご亭主は、わたしにごひいきがついていて、それでわたしをまたとることができたというので大よろこびでしたわ。その上、あの仕事を引き受けるように、とわたしはさんざんすすめられました。なぜすぐ引き受けなかったかというと、酒場がわたしに何を思い出させるかということを考えて下されば、その気持はよくわかるはずよ。最後にはわたし、その仕事を引き受けました。今こっちで働いているのは、臨時の手伝いとしてなんです。ペーピーが、すぐ酒場をやめなければならないようなひどい目にあわせないでくれ、って頼んだんです。わたしたちはあの人に、あの人がともかくよく働いていたし、万事を力の及ぶ限りやっていたので、二十四時間の猶予期間をあげたんです」
「万事すこぶるうまく手配がついているんだね。だが、君はわたしのために一度酒場を出たんだよ。そして、私たちが結婚式をすぐ眼の前にしている今となって、また酒場へもどるのかね?」
「結婚式なんかあるはずがないわ」と、フリーダがいった。
「私が不誠実だったからかい?」と、Kはたずねた。
 フリーダがうなずいた。
「いいかい、フリーダ」と、Kはいった。「このいわゆる不誠実というものについて私たちはもう何度も話し合ったじゃないか。そして、いつだって君は最後には、それはあたっていない疑いなんだって、みとめないわけにいかなかったじゃないか。ところで、あれ以来、私のほうでは何も変っていないんだよ。万事は潔白のままだよ。これまでもそうだったし、これからもそれ以外にはありえないよ。だから、他人がかげ口をささやいたか何かして、君のほうで変ってしまったにちがいないんだ。ともかく、君は私に対してまちがったことをやっているんだよ。というのは、あの二人の娘がどういうことになっているというんだね? 片っ方の色の黒い子は――こんなふうに一つ一つ弁解しなくちゃならないなんて、私はほとんど恥かしいくらいだけれど、君がこんなことをするように要求しているんだからね――で、あの色の黒い子は私にとってもおそらく君にとってと同じくらいにわずらわしい女だ。なんとかしてあの子から離れていられるのなら、私はそうするし、またあの子の人柄からいってそれはやさしいことだよ。あの子ぐらいひかえ目でいられる者はいないからね」
「そうよ」と、フリーダは叫んだが、言葉はまるで彼女の意に逆らうようにして出てきたのだった。Kは、彼女がそんなふうに気持をそらしたのを見て、よろこんだ。彼女は、自分でなりたいと思うのとは別なものになっていた。「あんな人のことをあなたはひかえ目だって考えているのね。あらゆる女のなかでいちばん恥知らずな女をあなたはひかえ目だなんていうのね。そして、まったく信じられないことだけれど、本気でそんなことをいっているんだわ。あなたがいつわっているんじゃないということは、わたしにはわかります。橋亭のおかみさんはあなたについてこういっているわ。『わたしはあの人が我慢できない。でも、あの人を見捨てることはできないわ。まだろくに歩けもしないくせに、遠くまで歩いていこうとする小さな子供をながめるときにも、やはりこちらは自分の気持を押えるわけにはいかないんだもの。手を出さないではいられないのよ』って」
「今度は、おかみの教訓を受け入れるんだね」と、Kは微笑しながらいった。「でも、あの娘は――ひかえ目なのか恥知らずなのかということは、もう別問題にしておいていいだろう――、私はもうあの子のことなんか何一つ知りたくないよ」
「でも、あなたはなぜあの人をひかえ目だなんていうんです」と、フリーダは負けてはいないでたずねた。Kはこうやって自分の話にのってくるのを自分にとって都合がいいしるしだと考えた。「あなたはためしにそういったの、それともそんなことをいって、ほかの女の人たちをさげすもうと思っているの?」
「どちらでもないさ」と、Kはいった。「私があの子のことをそんなふうにいったのは、ありがたいからだよ。あの子のことを気軽に無視できるし、たといしばしば私に誘いかけたって、また出かけていく気にはなれないんだからね。でも、出かけていかないと、私にとって大きな損害になるんだ。というのは、君も知っているように、私たちの共通の未来のために私は出かけていかないわけにはいかないんだよ。そして、そのために私はもう一方の娘とも話さなければならないんだよ。この娘のほうは、その有能さ、慎重さ、無私の態度のために私は買っているんだが、でも、あの娘が男を迷わすなんて、だれだって主張することはできないはずだよ」
「下僕たちはそれとはちがった意見よ」とフリーダはいった。
「この点でも、またほかの多くの点でも」と、Kはいった、「君は下僕たちの欲情をもとにして私が不誠実だという結論を下そうというんだね?」
 フリーダは黙っていた。そして、Kが彼女の手からぼんを取り、それを床の上に置いて、自分の腕を彼女の腕の下にさし入れ、そこの狭い場所を彼女といっしょにあちこちと歩き始めても、されるままになっていた。
「あなたは誠実さというものがどんなものか、ご存じないのよ」と、彼女は彼の身体が近すぎるのを少し避けるようにして、いった。「あなたがあの人たちにどんなふうにふるまおうと、それはいちばん大切な点ではないんです。そもそもあの一家に入りこんで、あの人たちの部屋のにおいを服にしみこませてもどってくるということが、すでにわたしに対する耐えがたい侮辱です。そして、あなたは何もいわずに学校から抜け出していき、夜の半分もあの人たちのところにいたんですわ。そして、あなたのことをたずねていく者がいると、あの子たちによって居留守を使わせる始末です。むきになって、あなたはいない、っていわせるんですわ、しかもあのたぐいまれなひかえ目な女にですわ。あなたが秘密の通り道を伝わってあの家からこっそり出るのは、おそらくあの人たちの評判を心配してやってのことなんでしょう、あの人たちの評判をね! いいえ、もうこんなことを話すのはやめましょう!」
「このことはやめよう」と、Kはいった。「でも、別なことは話さなければならないよ、フリーダ。このことについては何も話さなければならないことはないからね。私がなぜいかなければならないか、君も知っているはずだ。これは私にとってはたやすいことじゃないけれど、私は自分の気持に打ち勝ってやっているんだよ。君はそれを実際以上に私にとってむずかしくしてはいけないはずだ。きょう私が考えたことは、ほんのちょっとのあいだだけあそこへいって、バルナバスがもう帰ったかどうか、聞こうということだけだったんだよ。なにしろ、あの男はある大切な知らせをもうとっくにもってくるはずだったんだからね。あの男は帰ってきていなかった。でも、あの人たちが私にうけ合い、またほんとうにそうだろうと思われたんだが、あの男はすぐ帰ってくるはずだった。あの男に私を訪ねて学校へこさせたくはなかったのだ。あの男が現われることで君を悩ませるようなことのないためにね。何時間かたったが、残念なことにあの男はもどってこない。ところが、私が嫌いな別な男がやってきたんだ。その男にスパイなんかされては面白くないんで、隣りの庭を通っていったが、あの男から身を隠すようなことをしようと思ったわけでもなく、それから国道の上を大手を振ってあの男のほうに近づいていった。正直にいうと、とてもしなやかな柳の枝の鞭を一本もってね。それだけの話だよ。だから、このことについてはもうこれ以上何もいうことはないよ。だが、ほかのことについてはいうことがあるんだ。あの助手たちのことはいったいどうなんだ? 君にとってはあの一家のことを口にするのがいやでたまらぬように、私にはあいつらのことを口にするのはいやでたまらないんだが。君のやつらとの関係を、私があの一家にとっている態度と比較してみたまえ。君のあの一家に対する反感は私にもわかるし、それを君とともにすることもできる。ただ用事のためにだけ私はあの人たちのところへいくんだ。ときどきは、私があの人たちに不正を働いているように、そして、あの人たちをただ利用しているように思われるくらいだ。それに反して、君とあの助手とはどうだ! 君は、やつらが君をつけ廻していることを全然否定しなかったし、君はやつらにひきつけられるということを白状したんだ。私はそのために怒ったりなんかしなかった。ここには君がどうしようもないような力が働いていることを見て取ったんだ。君が少なくとも自分の身を守ろうとしているだけで、もう私は大いによろこんだ。そして、君を守ることを助けてあげた。ところが、ただ私が君の誠実さを信用してほんの一、二時間だけ君を守ることをおろそかにしたというだけで、(とはいっても、学校の建物がぴしんと閉められており、助手たちがもう最後的に敗れ逃げ去ったということを期待してだったが)――どうも私はあいつらのことをまだ見くびりすぎていたようだね――ただ私がほんの一、二時間それをおろそかにし、またあのイェレミーアスが(よく見ると、たいして健康でない、もうかなりな年の小僧だが)窓のところへ歩みよるという厚かましさをもっていただけで、ただそれだけで私は、フリーダ、君を失って、『結婚式なんかあるはずがないわ』なんていうご挨拶を聞かなくちゃならないんだ。私がほんとうは非難していい人間じゃないならば、私は非難はしないよ。いつまでだってしないよ」
 そして、フリーダの気を少しばかりそらしたほうがいい、というふうにKにはふたたび思えたので、何か食べ物をもってきてくれないか、昼から何も食べていないんだから、と彼女に頼んだ。フリーダは、自分でもこの願いごとに気を軽くさせられたらしく、うなずくと、何かを取りに走っていったが、Kが台所があると思ったほうへ向って廊下を走っていくのではなく、わきのほうへ階段を二、三段、降りていった。彼女はまもなく肉切れの一皿と一壜(びん)のぶどう酒とをもってやってきたが、それはどう見ても食事の残りものにすぎなかった。残りものとわからなくするために、肉切れの一つ一つをざっと並べなおしてあるが、ソーセージの皮さえ置き忘れられているし、壜は四分の三があけられていた。しかし、Kはそのことについて何もいわず、さかんな食欲で食べ始めた。
「台所へいってきたのかい?」と、彼はたずねた。
「いいえ、わたしの部屋ですわ」と、彼女はいった。「この下にわたしは部屋をもっているんです」
「私をそこへつれていってくれるといいんだが」と、Kはいった。「そこへ降りていって、そこでちょっと腰を下ろして食べようかな」
「椅子をもってきましょう」と、フリーダはいって、もう歩き出していた。
「いらないよ」と、Kはいって、彼女を引きとめた。「下へも降りていかないし、もう椅子もいらないよ」
 フリーダはすねたような様子で彼のこんなやりかたを我慢し、頭を深くたれて、唇をかんだ。
「そうよ、あの人が下にいるんですもの」と、彼女はいった。「そうではないとでも思ったの? あの人はわたしのベッドに寝ていますわ。外ですっかり凍えてしまい、寒けがしているんです。ほとんどものも食べなかったわ。みんな根本はあなたの罪よ。もしあなたが助手たちを追い払わなかったなら、そしてあんな人たちのところへかけつけていかなかったなら、わたしたち今ごろは無事に学校で腰を下ろしていられたんですわ。ただあなたがわたしたちの幸福をこわしてしまったのよ。イェレミーアスは、勤めについている限り、わたしを誘惑しようなどと思いはしなかったでしょうに。あなたはそんなことを考えているの? そうだったら、あなたはこの土地の秩序というものをまったく誤解しているんだわ。あの人はわたしのところへこようと望みました。苦しみました。わたしをつけ狙(ねら)っていました。でも、それはほんの戯れで、まるで飢えた犬が戯れながら、それでもテーブルの上に飛びのろうとはしないようなものです。わたしだってそれと同じでしたわ。あの人は子供のときからの遊び友だちでした。――わたしたちは城の山の坂でいっしょに遊びました。楽しかった時代です。あなたは一度だってわたしの過去のことをきいてくれたことはありませんね――でも、そんなことは、イェレミーアスが勤めにしばられている限りは、決定的なことじゃなかったんです。というのは、わたしはほんとうにあなたの未来の妻としての義務をよくわきまえていました。ところが、それからあなたは助手たちを追い出してしまい、まるでそのことによってわたしのために何かやったようにそれを自慢しました。そう、ある意味では、わたしのために何かやったということはほんとうですわ。アルトゥールの場合にはあなたの仕事はうまくいきました。とはいっても、ほんの一時ですけれど。アルトゥールは心持のこまやかな人で、イェレミーアスのようなどんな困難も恐れない情熱はもってはいません。それなのにあなたはあの夜、拳(こぶし)でなぐって――あの一撃はわたしたちの幸福に対しても加えられたのですわ――ほとんどめちゃくちゃにしてしまいました。あの人は苦情をいうために城へのがれていきました。もっとも、もうすぐ帰ってくるかもしれませんけれど、ともかく今のところはここにはいません。しかし、イェレミーアスは残りました。勤めについているあいだはご主人の目の動き一つでも恐れていますが、勤めから離れればあの人は何一つ恐れはしません。あの人はやってきて、わたしをつかまえました。あなたからは見捨てられ、古い友だちのあの人に心をにぎられ、わたしは自分をもちこたえることができませんでした。わたしが学校の玄関口を開けたのじゃなくて、あの人が拳で窓を打ち破って、わたしをつれ出したのです。わたしたちはここへ逃げてきました。ご亭主はあの人のことを買っていますし、お客さんたちにとってもあの人のような客室つきのボーイをもつぐらい歓迎すべきことはありません。そこでわたしたちは採用されたんです。あの人がわたしのところに住んでいるんじゃなくて、わたしたちはいっしょの部屋をもっているんですわ」
「そういうわけだとしたところで」と、Kはいった。「私は助手たちを勤めから追い出したことを後悔なんかしていないよ。もし事情が君のいろいろ話してくれたとおりだったら、つまり、君の誠実さというものがただ助手たちが勤めにしばられているということに制約されていたのだったら、万事が終ったことはよかったわけだ。ただ革の鞭の下でだけおとなしくしている二匹の猛獣のまんなかの結婚生活の幸福なんていうものは、そう大したものじゃなかったろうからね。そうなると私のほうはあの一家にも感謝していいわけだ。あの一家は、わたしたちを別れさせるのにはからずも一役買ったんだからね」
 二人は黙ってしまい、ふたたびあちこちと歩き始めた。今度はどちらがそういう動作を始めたのかは、区別がつかなかった。フリーダはKに身体をよせて、彼がもう抱えてくれないことに腹を立てているように見えた。
「それじゃあ、万事が片づいたわけだね」と、Kは言葉をつづけた。「そして、私たちは別れることができるわけだ。君はご主人のイェレミーアスのところへいくさ。おそらくイェレミーアスは校庭から冷えきって帰ってきたままだろうし、そのことを考えると君はあの男をあまり長いあいだほっぽり放しにしておいたんだからね。私のほうは学校へいくか、それとも、君がいなければあそこで何もすることはないんだから、私を迎えてくれるそのほかのどこかへいくよ。で、それにもかかわらず私がためらっているのは、君が話したことを十分な理由から今でもまだ少し疑っているからだよ。私はイェレミーアスから正反対の印象を受けたんだよ。あの男が勤めについていたあいだは、君のあとを追い廻していたし、勤めがいつまでも、あの男がいつか本気で君に襲いかかることを抑えていた、とは私には思われないんだ。ところが、あの男が勤めはもう終ったと見なしている今となっては、事情は別なんだ。私が自分にこんなふうに説明しているのを許してくれたまえ。それはこうだ。君があの男の主人であるこの私の婚約者ではなくなって以来、君はもうあの男にとっては以前のような誘惑したい対象じゃないんだよ。君はあの男の幼ななじみかもしれないが、あの男は――ほんとうは今晩の短い対話によってしかあの男のことを知らないんだが――私の考えによるとそんな感情上のことには大して価値を置いてはいないんだ。なぜあの男が君には情熱的な性格のように見えるのか、私にはわからない。あの男のものの考えかたは、むしろとくに冷たいように私には思われるよ。あの男は私に関して、おそらく私にはあまり都合のよくないなんらかの命令をガーラターから受け取っていて、これを実行しようとして努めているのにちがいない。私もみとめてやるが、勤めに忠実であろうとする一種の情熱でね――この土地ではそういう情熱はそれほどまれなものじゃないからね――。そこで、あの男が私たちの関係をぶちこわすことが、その命令のなかに含まれているのだ。あの男はおそらくいろいろなやりかたでその命令を実行しようとしてやってみたんだ。その一つは、君をあの男の欲情のあこがれによって誘惑しようとしたことであり、もう一つは――この点でおかみはあの男の手伝いをしたわけだが――私の不誠実というものをでっち上げたことだ。彼のたくらみは成功したし、あの男を取り巻いているクラムをなんとなく思い出させるものが、その助けになったのだろう。あの男は地位を失いはしたが、それもおそらくはまさに地位を必要としなくなった瞬間においてなのだ。今あの男は自分の仕事の成果を刈り入れたわけで、君を学校の窓から引き出したのだ。ところが、これであの男の仕事は終ったわけで、今は勤めの情熱から解放されて、疲れきっている。全然苦情なんかいわないで人にほめられたり、新しい命令を受けたりしてくるアルトゥールに、あの男はむしろ取ってかわりたいのだ。だが、だれかが残って、事の今後のなりゆきを注視していなければならないわけだ。君の世話をすることなんか、あの男にとっては少しばかりわずらわしい義務でしかないんだよ。君に対する愛などというものは全然その形跡がないのだ。あの男は、君がクラムの愛人としてもちろん尊敬すべきものだ、といって、そのことを私にはっきりと告白したんだ。そこで、君の部屋に巣をつくり、自分が小クラムみたいだと感じることは、あの男にとってはきっとひどく気持がいいのだろう。だが、それだけの話さ。君そのものは今ではあの男にとっては何ものでもないんだよ。君をここに泊まるようにさせたのは、あの男の本務のつけたりにすぎないのだ。君を不安にさせないように、あの男は自分でもここにとどまったが、それもほんの一時的な話で、城から新しい知らせを受け取るまでのあいだ、自分がすっかり凍えきっていることを君に癒(いや)してもらうまでのあいだのことだよ」
「あなたはあの人のことをなんて中傷するんでしょう!」と、フリーダはいって、小さな拳を打ち合わせた。
「中傷だって?」と、Kはいった。「いや、私はあの男を中傷するつもりなんかないさ。でも、きっとあの男に対して不正を働いているんだろう。それはむろんありうることだ。あの男について私がいったことは、まったく率直に表面だけの問題じゃない。それは別なふうにも解釈されるだろうさ。でも、中傷だって? 中傷だったら、君のあの男に対する愛と闘うという目的だけをもっているはずだ。もしそういうことが必要であり、中傷が適切な手段であるならば、私はあの男を中傷することをためらいはしないだろう。そして、中傷したって、だれもそのために私に罪を着せることなんかできないだろうよ。なにしろ、あの男は命令を与える人の権威を借りて、私と比べてひどく有利な立場にいるんだから、まったく自分ひとりにたよっているこの私は少しばかり中傷したってかまわないくらいなんだ。中傷なんていうものは、比較的罪のない、結局はやはり無力な、防禦(ぼうぎょ)の手段なんだからね。だから、君の拳はおだやかにおさめてくれたまえ」
 そして、Kはフリーダの手を自分の手に取った。フリーダはその手を彼から引っこめようとしたが、微笑をもらしていたし、それほど力をこめて本気でやろうとしているのではなかった。
「だが、私は中傷なんかしてはいけないんだ」と、Kはいった。「というのは、君はあの男のことなんか愛していないんだ。ただ、愛していると思っているだけで、私が君をそんな迷いから解放してあげたら、君はきっと感謝するにきまっているよ。いいかい、もしだれかが力ずくでなく、またできるだけ慎重な計算によって君を私からつれ去ろうと思うなら、その男はあの二人の助手たちの手を借りてやらなければならないだろう。見たところ善良そうで、子供らしく、陽気で、責任がなく、高いところ、つまり上のあの城からここへ吹き送られてきた若者たちではあるし、それに少しばかり幼時の思い出というものもあるとすれば、条件はそろっているわけで、万事はとても好ましいにきまっている。ことに、この私はそういったすべての逆のようなものであり、そういったもののかわりにいつでもいろいろな仕事のあとを追い廻しているばかりだとあってみれば、なおさらのことだ。しかも、私が追い廻しているいろいろな仕事というのは、君には全然理解できず、君には腹立たしいものであって、しかも君にとって憎悪に価するような人びと、そしてその憎悪のいくらかは私がまったく潔白であっても私にも及んでこさせるような人びと、そんな人びとと私が会わなければならないようにさせる仕事なのだ。事の全体は、ただ、私たち二人の関係の欠陥を悪意をもって、とはいえひどく賢明に利用しただけのことさ。どんな関係にだって欠陥はあるもので、私たち二人の関係だってそうだ。ほんとうに私たち二人はどちらもまったく別な世界から出てきて出会ったんだ。そして、たがいに知り合って以来、私たちのどちらもの生活がまったく新しい道を取ったので、私たち二人はまだ不安定なことを感じているわけだ。なにしろ私たち二人の関係はまだあまりにも新しすぎるんだからね。私は自分のことはいわないよ。これはそれほど重要じゃないからね。君が君の眼をはじめて私に向けて以来、私は根本ではいつだって君から好意を施されていたといっていい。人の好意を受けることに慣れてしまうことは、それほどむずかしいことじゃない。だが、君は、ほかのあらゆることは別問題としても、クラムから引き離されてしまったんだ。それがどんな意味をもつかということは、私には計り知れないのだけれど、それでもそのことの予感はもうだんだんとつくようになっている。人間は、よろめいたり、勝手がわからなくなったりするものだ。そして、私はいつでも君を迎える用意があったにしても、いつでもその場に居合わせたわけじゃない。さて私が居合わせたときには、君の夢想だとか、あのおかみのように夢想なんかよりももっといきいきしたものだとかが君をときどきしっかりつかまえたわけだ。要するに、君が私からよそ見をして、どこかはっきりとしないものにあこがれていた時期があったということだよ、君。そして、ただそういう合い間の時期に君の視線の方角にぴったりした連中が置かれていたのにちがいない。そこで、君はその連中に心を奪われてしまい、ただ瞬間、亡霊、昔の思い出、ほんとうは過ぎ去ってしまったし、ますます過ぎ去っていくかつての生活、こういったものにすぎないものが君のほんとうの現在の生活なのだ、という錯覚(さっかく)に負けてしまったんだよ。フリーダ、それはあやまりだよ。私たち二人の窮極の結合を妨げている、最後の、そして正しく見ればじつは軽蔑すべき困難にほかならないのだよ。ひとつ正気を取りもどしてみたまえ、気を落ちつけたまえ。助手たちはクラムから送られてきているのだ、と君は考えたとしても――それは全然ほんとうのことじゃない。あの二人はガーラターから送られてきているんだよ――、そして、あの二人が君のこの錯覚の力を借りて君の心をすっかり魅惑してしまって、そのために君自身があいつらの汚れとみだらさとのなかにクラムのおもかげを見出すように思ったとしても――これはちょうどだれかが堆肥(たいひ)のなかにいつかなくした宝石を見るように思うのと同じことだよ。たとい宝石がほんとうにそのなかにあったとしても、その人は実際にはその宝石を見出せるはずはないんだ――あの二人は馬小屋の馬丁のたぐいの小僧たちにすぎないんだよ。ただ、あいつらは馬丁のような健康はもっていないで、ちょっとばかりひやっとした空気にあたろうものならすぐに病気になり、ベッドに寝こんでしまう、というだけのちがいさ。とはいっても、あいつらときたら下僕らしいずるさで寝るベッドは探し出すことを心得ているというわけさ」
 フリーダは頭をKの肩にもたれかけ、二人は腕をたがいにからみ合わせながら無言のままあちこちと歩いていた。
「もしわたしたちが」と、フリーダはゆっくりと、おだやかに、ほとんど気持よさそうにいった。まるで、自分にはKの肩で安らうごくわずかな時間しか与えられていない、ということを知っていて、それでもこの短い時間を最後まで味わいつくそうとしているようであった。「もしわたしたちが、あの夜のうちにすぐ村を出ていったならば、わたしたちはどこかで安全な位置にいたことでしょう。いつでもいっしょにいて、あなたの手はいつでも私の手を捉えることができるほど近くにあったことでしょう。わたしはあなたが身近かにいてくれることをどんなに必要としていることでしょう。あなたという人を知って以来、あなたが身近かにいないと、どんなに打ち捨てられたような気持になることでしょう。あなたが身近かにいてくれることは、わたしの夢見るただ一つの夢なんだ、と思うわ。ほかの夢なんか見やしないことよ」
 そのとき、わきの廊下で叫ぶ声がした。それはイェレミーアスだった。彼はそこのいちばん下の階段に立っていた。ただ下着だけ着た恰好だが、フリーダのショールを身体に引っかけていた。髪をくちゃくちゃにし、薄い髭(ひげ)はまるで雨にぬれたようで、嘆願するように、非難をこめたように、眼をやっとの思いで見開き、黒い頬(ほお)をまっ赤にし、だがその頬といったらひどくたるんだ肉でできているようで、素足を寒さのためにふるわせ、そのためにショールの長いふさがいっしょにふるえるほどだが、そんな恰好で立っているのだ。その有様はまるで病院を抜け出してきた病人のようだ。こんな病人と向かい合っては、すぐまたベッドにつれもどす以外のことを考えてはならないのだ。フリーダもそう考え、Kから離れると、すぐ下のイェレミーアスのところへいった。彼女が身近かにいてくれること、ショールをしっかりと身体にかけてくれるいきとどいた彼女のやりかた、彼女が自分を部屋にすぐつれもどそうとして急いでいる様子、こういったことがイェレミーアスを早くも元気づけたらしかった。今やっとKに気づいたようであった。
「ああ、測量技師さんですね」と、彼はいって、もう話なんかさせておくまいとするフリーダの頬をなだめるようになでている。「とんだおじゃまをして申しわけありません。どうもひどく身体の調子が悪いんで、ごかんべん願います。熱があるように思われ、お茶を一杯飲んで、汗を出さなければなりません。校庭のあのいまいましい格子塀、あのことはきっとこれからも思い出さないでいられないでしょうよ。そして、今も、すっかり凍えながら、この夜なかに走り廻ったんです。人は、すぐに気づかずに、ほんとうはそんなことをやる値打のないことのために健康まで犠牲にするものですね。でも、測量技師さん、私にじゃまなんかされていてはいけません。私どもの部屋へお入り下さい。病人の見舞いをやって下すって、ついでにフリーダにはまだおっしゃることをいってやって下さい。たがいに慣れ合った二人が別れるときには、もちろん最後の瞬間にいうべきことがあんまりたくさんあるものですから、第三者はたといベッドに寝ていて、約束してもらったお茶を待っていても、理解できないほどですよ。だが、どうぞお入り下さい。私はほんとに静かにしていますから」
「もうたくさん、たくさんよ」と、フリーダはいって、彼の腕を引っ張った。「この人は熱があって、自分がしゃべっていることがわからないんですわ。でも、K、あなたはいっしょにこないで下さい、どうか。あそこは私の部屋であり、イェレミーアスの部屋でもあります。いや、むしろ私の部屋ですわ。だから、あなたがいっしょに入ることを禁じます。あなたはわたしのあとを追ってくるのね、ああ、K、なぜわたしのあとを追ってくるの。けっして、けっして、わたしはあなたのところへもどりはしません。そんな可能性を考えると、ぞっとします。あなたのあの娘たちのところへいらっしゃい。わたしが聞いたところによると、あの人たちはストーブのそばの長椅子に下着だけの姿で坐っているっていうじゃないの。そして、あなたを迎えにだれかがくると、うなるっていうじゃないの。そんなにあそこにひきつけられるのなら、あなたはきっとあそこで自分の家にいるような気持がするにちがいありません。わたしはあなたをいつもあの家から遠ざけていました。それももう過ぎたことです。あなたは自由ですわ。楽しい生活があなたの前にあるのよ。あのうちの一人のために、あなたはおそらく下僕たちと少しばかり闘わなければならないでしょうが、もう一人のほうについていえば、天にも地にもあの人をあなたに与えたがらない者なんて一人もいないわ。あなたがたの縁ははじめから祝福されていますわよ。文句なんかいわないでちょうだい。そうよ、あなたはあらゆることに反駁(はんばく)することができるんだわ。でも、結局は何一つとして反駁なんかできてはいないのよ。ねえ、イェレミーアス、そうでしょう、この人はあらゆることに反駁したのね」
 二人はうなずいたり、微笑したりして、たがいに気持を通じ合っている。
「でも」と、フリーダは言葉をつづけた。「この人がかりにあらゆることを反駁したとしても、それで何が得られたというの? それがわたしとどんな関係があるの? あの人たちのところでどんなことになろうと、それはあの人たちのことであり、この人のことであって、わたしには関係なんかないわ。わたしのことというのは、あなたを看病することだわ、あなたがまた元気になるまでのあいだ、まだKがわたしのことであなたを苦しめたりしなかったころと同じように元気になるまでね」
「それでは、あなたはほんとうにいっしょにいらっしゃらないんですね、測量技師さん?」と、イェレミーアスはたずねたが、もう全然Kのほうを振り向こうともしないフリーダによって、決定的につれ去られてしまった。下に小さなドアが一つ見えた。ここの廊下にあるドアよりも低く――イェレミーアスばかりでなく、フリーダのほうも入っていくときに身体をこごめなくてはならなかった――部屋のなかは明るく、暖かい様子だった。なお少しのあいだ、ささやく声が聞こえた。おそらく、イェレミーアスをベッドにつれていくため、いろいろあやして説得しているらしかった。それからドアが閉じられた。
 そのときやっと、Kは廊下がどんなに静かになってしまっているかということに気づいた。彼がフリーダといっしょにいた廊下のこの部分は、事務室に附属しているものらしかったが、ここばかりではなく、さっきはあんなににぎやかであった各室についている長い廊下もそうだった。それでは、城の人びともとうとう眠りこんでしまったのだ。Kもひどく疲れていた。おそらく疲れのために、イェレミーアスに対して、ほんとうはやるべきであったほどに自分の身を守らなかったのだった。おそらくイェレミーアスを模範にしたほうがもっと賢明だったのだろう。あの男は明らかに凍えているということを誇張したのだ。――あの男のみじめな様子は身体が凍えていることからきているんではなく、生まれつきのものであり、茶を飲んで養生することなんかでは追い払うことはできないものだ――すっかりイェレミーアスに見ならって、実際ひどく疲れている様子をあの男と同じように表面に出し、ここの廊下に倒れてしまい(これだけでもひどく気持がよかったにちがいないのだ)、少しまどろみ、それからおそらく少しばかり看病してもらったほうが、もっと賢明なやりかたであったろう。ただ、イェレミーアスの場合のように都合のよい結果にはならなかったことだろう。あの男は、同情を求めるこの競争ではきっと、そしておそらく、それももっともなのだが、勝利を収めたことだろうし、さだめしほかのどんな闘いにおいてだって同じ結果になったろう。Kはひどく疲れていたので、たいていは空部屋らしいこれらの部屋の一つに入って、りっぱなベッドのなかで十分に眠るようにやってみないことはできないものか、と考えた。これは彼の考えによると、多くのことの埋め合せとなるかもしれないのだ。寝酒も用意ができていた。フリーダが床の上に置いたままにしていった食器ぼんには、小さなガラス壜一本のラム酒があった。Kはその場所までもどっていく努力をいとわなかった。そして、その小壜を飲みほしてしまった。



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