フランツ・カフカ 城 (16〜20章)


「だれですか?」
 そこでKは、もうそのまま立ち去るわけにいかなかった。不満そうに彼は、ふかぶかとしているが残念なことに空ではないベッドをながめ、それから相手の質問を思い出して、自分の名前をいった。これがいい効果をもたらしたようで、ベッドの男は少しばかりふとんを顔から引き払ったが、ベッドの外で何か都合が悪いことがあるならば、すぐにまたすっかりもぐってしまおうと不安そうに構えているのだった。だが、つぎにふとんをためらうことなくはね返し、身体をまっすぐに起こした。それはきっとエルランガーではなかった。小柄な、なかなかりっぱそうに見える紳士で、その顔は一種の矛盾を浮かべていた。つまり、頬は子供のようにまるまるとして、眼は子供のようにうれしげだが、ひいでた額、尖(とが)った鼻、唇がほとんど合おうとしない細い口、ほとんど消えてなくなるように見える顎(あご)は、全然子供らしくなく、すぐれた思考の能力を表わしていた。健康な子供時代のこの人の顔に、強い名ごりをとどめさせているものは、その思考力に対する満足と自分自身に対する満足とであるらしかった。
「フリードリヒをご存じですか?」と、その人がたずねた。
 Kは、知らない、といった。
「でも、あの人はあなたを知っていますよ」と、その人は微笑しながらいった。Kはうなずいた。彼のことを知っている人びとには事欠かなかった。このことが彼の進んでいく途上の主な障害の一つだったくらいだ。
「私はそのフリードリヒの秘書です」と、その紳士はいった。「名前はビュルゲルです」
「失礼しました」と、Kはいって、ドアの取手のほうへ手をのばした。「申しわけないことに、あなたのドアをほかの人のと取りちがえてしまいました。つまり、私は秘書のエルランガーのところへ呼ばれているのですが」
「それは残念です」と、ビュルゲルはいった。「あなたがよそへ呼ばれているということではなく、あなたがドアをまちがえられたということです。つまり、私は一度起こされると、もう二度と眠りこむことができないのです。でも、あなたはそんなことをそれほど残念に思われる必要はありません。それは私の個人的な不幸ですからね。なぜここのドアはみんな閉めきりにできないんでしょうね? それにはむろん理由があります。ある古い格言によると、秘書の扉はいつも開かれていなければならない、と申しますからね。もっとも、これも文字どおりに受け取られる必要はないでしょうがね」
 ビュルゲルは、たずねるように、またうれしそうに、Kを見つめた。彼の不幸とは反対にむしろすっかり休息しているように見えた。今のKほどに疲れているということは、このビュルゲルにはおよそなかったにちがいない。
「いったい、あなたはどこへいらっしゃるつもりですか」と、ビュルゲルはたずねた。「四時ですよ。あなたのいこうと思われる人を起こさなければなりませんね。だれでも私のようにじゃまされることに慣れているわけではないでしょうし、だれでも私のように我慢強くじゃまを耐え忍んでくれるわけでもないでしょう。秘書たちは神経質な連中ですから。だからしばらくここにとどまりなさい。ここでは五時ごろに起き始めます。そうすれば、あなたはあなたの呼び出しにいちばんよく応ずることができるでしょう。ですから、どうぞもう手をドアの取手からお放しになって、そこいらにおかけ下さい。むろんここは場所が狭いので、あなたはここのベッドのはじに坐って下さるのがいちばんよろしいでしょう。ここには椅子もテーブルもないので、あなたはびっくりしていらっしゃるんですか? そうなんです、私は幅の狭いホテル用ベッドのある完全な室内設備の部屋を手に入れるか、あるいはこの大きなベッドと洗面台以外には何もない部屋を手に入れるか、どちらかを選ぶことになりましてね。私は大きなベッドのほうを選びましたよ。なにしろ寝室ではベッドがいちばん大切なものですからね! ああ、のびのびと手足をのばし、よく眠れる人だったらねえ。このベッドはよく眠れる人にはほんとうに貴重なものであったにちがいないんですが。でも、眠ることができないでいつでも疲れているこの私にも、これは気持がいいですよ。このなかで一日の大部分を過ごし、このなかであらゆる通信を片づけ、ここで陳情者の事情聴取をやっています。まったく工合がいいですよ。とはいっても陳情人たちには坐る場所はありませんがね。けれど、陳情人たちはそんなことは我慢しますし、それに彼らにとっても、自分たちが立ったままでいて、調書作成者が気持よくしていてくれるほうが、自分たちが安楽に坐って、それでどなりつけられるのよりも気持がいいですからね。それに、私は坐り場所としてベッドのはじのここしかありませんが、これはけっして職務をやる場所じゃありませんからね。そして、ただ夜間の話合いに使うことにきめてあるんです。でも、測量技師さん、あなたはひどく黙りこくっていらっしゃいますな」
「とても疲れているんです」と、Kはいった。彼は相手のすすめに従ってすぐ、乱暴に、遠慮なしにベッドに腰かけ、ベッドの柱によりかかっていた。
「ごもっともです」と、ビュルゲルは笑いながらいった。「ここではだれもが疲れています。たとえば、私がきのう、それにきょうもやったのはけっして小さな仕事じゃありません。私が今、眠りこむなんてまったくできないことなんですが、それでもこのおよそありそうもないことが起って、あなたがここにいらっしゃるあいだに私が眠りこむようなことになったら、どうか静かにして下すって、ドアを開けるようなこともなさらないで下さい。でも、ご心配なく。私はきっと眠りこんだりなんかしないでしょうし、うまくいって眠ったとしても、ほんの一、二分間のことですからな。つまり、おそらく陳情者との交渉にすっかり慣れてしまっているからでしょうが、お客がいてくれると、ともかくいちばん眠りやすい、というわけなんです」
「どうぞ眠って下さい、秘書さん」と、Kは相手がそういうことによろこんで、いった。「あなたが眠られたら、もしおよろしかったら、私も少し眠りましょう」
「いや、いや」と、ビュルゲルはまた笑った。「ただ人にすすめられるだけでは、残念ながら私は眠りこむことはできません。ただ人と話しているあいだにそういう機会が訪れるんです。人と話すことがいちばん早く私を眠りこませるんです。まったくの話、われわれの仕事では神経が疲れますからなあ。たとえば、私は連絡秘書です。それがどんなものか、あなたはご存じないんですか? それなら教えてあげますが、私がいちばんさかんに連絡をやっているんです」――こういいながら思わず知らずうれしそうな顔をして、急いで両手をこすり合わせるのだった――「フリードリヒと村とのあいだでです。私はあの人の城にいる秘書と村の駐在秘書とのあいだの連絡をやっていて、たいていは村にいますが、いつもというわけじゃありません。いつでも、城へ車で登っていくつもりでいなくちゃなりませんでしてね。旅行鞄をごらんでしょう。落ちつかぬ生活でして、だれにでも向くというわけにはまいりませんな。しかし、その一面、私はもうこの種の仕事なしではいられないということも正しいのでして、ほかの仕事は私には貧弱に見えるんです。いったい、あなたの土地測量のお仕事はいかがなもんで?」
「私はそんな仕事をやっていません。私は土地測量技師として使われているんじゃないのです」と、Kはいった。そんなことを彼はほとんど考えてはいなかった。ほんとうはただ、ビュルゲルが眠りこむことだけをじれるほど望んでいるだけだ。しかし、それさえもただ自分自身に対する一種の義務感情からやっているのであって、心のいちばん奥では、ビュルゲルが眠りこむ瞬間はまだ見当もつかぬくらい遠い先のことである、と知っているように思うのだった。



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