フランツ・カフカ 城 (16〜20章)


「エルランガーです」と、ビュルゲルはいったが、エルランガーが隣室にいるということは、彼にとっては少しも驚くようなことではないらしかった。
「すぐあの人のところへいらっしゃい。あの人はもう腹を立てていますから、なだめてやるようにしてごらんなさい。あの人はよく眠るんですが、私たちはあまり大きな声で話しましたからね。人はある種のことを話すときには、自分自身も自分の声もどちらも抑えることができないものです。さあ、あちらへいらっしゃい。あなたは眠りからまだ全然抜けきれないようですね。いらっしゃい。いったい、この上にどんな用があるというんです? いや、あなたは眠いということの弁解なんかする必要はありません。なぜそんな必要なんかあります? 肉体の力はある限界までにしか及びません。この限界がほかの場合でも意味が大きいものだ、ということに対してだれが責任なんかとれますか? いや、だれだってそんな責任はとれません。世界そのものがそうやって自分の運行を正し、つり合いを取っているんですからな。これは、ほかの点に関しては慰めのないものであっても、すばらしい、どう考えても想像もつかないくらいすばらしい仕組みですからな。さあ、もういらっしゃって下さい。なぜあなたが私をそんなに見つめるのか、私にはわかりませんね。もしあなたがこれ以上ぐずぐずしていらっしゃると、エルランガーが私に腹を立てますからね。そんなことは避けたいんです。どうか、もういらっしゃって下さい。向うで何があなたを待っているかはわかりません。ここでは万事が機会にみちあふれていますけれどもね。ただ、むろんのこと、ある意味で大きすぎて利用のできかねる機会というものがあります。ほかならぬ事柄自体において挫折するものごとというものがあるものでしてね。まったく、これは驚くべきことです。ところで、私は今度は少し眠れる気がします。むろん、もう五時ですし、まもなくさわぎが始まります。少なくとも、あなたはもうあちらへいらっしゃっていただくと、ありがたいんですが」
 深い眠りから突然眼をさまされて頭がぼうっとして、まだ際限もなくねむけをおぼえ、きゅうくつな姿勢をしいたために身体のふしぶしが痛むのを感じながら、Kは長いあいだ立ち上がる決心がつきかねており、額を抑え、自分の膝の上をながめていた。ビュルゲルがたえず別れの挨拶をいって彼を追いたてても、彼を去らせるようにもっていくことはできなかったろう。ただもうこれ以上この部屋にとどまっていても完全にむだだという感情だけが、だんだんとここを出ていく気にさせたのだった。彼にはこの部屋がなんともいえぬほど荒涼としているように思われた。この部屋がそんなふうになってしまったのか、それとも以前からそうであったのかは、彼にはわからなかった。また眠りこむというようなことは、この部屋では成功しないだろう。この確信こそ決定的な感情だった。そのことに少し微笑しながら、彼は立ち上がり、支えさえあれば手あたり次第にベッドとか壁とかドアとかに身体を支えて、まるでずっと前にビュルゲルに別れを告げたもののように、挨拶もしないで出ていった。







この本を、全文縦書きブラウザで読むにはこちらをクリックしてください。
【明かりの本】のトップページはこちら

 
 
 
以下の「読んだボタン」を押してツイッターやFacebookを本棚がわりに使えます。
ボタンを押すと、友人にこの本をシェアできます。
↓↓↓ 

Facebook Twitter Email
facebooktwittergoogle_plusredditpinterestlinkedinmailby feather

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">