フランツ・カフカ 城 (16〜20章)


 本筋を離れた観察をいろいろとやったあと、Kはすぐまた従僕のほうへ注意をもどすのだった。この従僕については、Kがほかのときに従僕一般について語り聞かされていたこと、つまり彼らの無為なこと、彼らの安楽な暮し、彼らの高慢さなどということは、ほんとうにあてはまらなかった。従僕たちのあいだにはきっと例外があるのか、それとも、これはもっとありそうなことだが、彼らのあいだにはさまざまなグループがあるのかもしれなかった。というのは、Kが気づいたところでは、従僕たちのあいだには多くの境界があって、Kはこれまでそうした限界について暗示するものをほとんど見ることができなかったのだった。ことにこの従僕の人に譲らぬところが彼にはひどく気に入った。これらの小さくて頑固(がんこ)な部屋部屋との闘いにおいて――Kにはしばしば部屋部屋との闘いのように思われるのだった。なぜなら、部屋の住人たちはほとんど見られなかったからだ――この従僕は少しもあとへはひかなかった。彼は疲れきってしまっていたが――だれがこんなことをやって疲れきってしまわないだろうか――すぐまた元気を回復し、車からすべるように降りると、身体をまっすぐに立て、歯をくいしばって、征服すべきドアめがけてふたたび突進していくのだった。そして、彼は二度、三度と、しかもきわめて簡単に、ただいまいましい沈黙によって、撃退されるような結果にはなったが、しかも全然敗けはしなかった。公然たる攻撃によっては何一つなしとげられないと見てとると、彼は別なやりかたで試みるのだった。たとえば、Kが見あやまったのでなければ、計略によって攻撃を試みるのだった。その場合には、彼は外見上はドアを見捨てて、いわばそのドアの沈黙に疲れきらせてしまい、ほかのドアへ向っていて、しばらくするとふたたび問題のドアへもどり、もう一人の従僕を呼ぶ。こうしたすべてをわざとらしく、大きな声でやるのだ。そして、閉ざされたドアのしきいのところに書類を積み重ね始めるのだった。それはまるで、自分は自分の考えを変えてしまった、この人からは何も取り上げないで、むしろ配分することが正当なのだ、といわんばかりである。それから彼は先へ進むが、たえずドアに眼をとめていて、やがてそこの人が(普通はそういうことになるのだが)書類を部屋のなかへ引きずりこもうとして用心深くドアを開けると、その従僕は一跳びか二跳びでそこへ走りより、足をドアとドアの柱とのあいだにさしこみ、こうやって部屋の者が少なくとも面と向って自分と談判しないではいられないようにする。これは普通は半ば満足すべき結果を生むのだった。そして、もしこれが成功しなかったり、あるいはあるドアのところではこんなふうにやることが正しいやりかたではないように思われたりすると、別なやりかたで試みるのだった。そうなると彼はたとえば、書類を要求する人をもっぱら相手にする。そういうときには、まったく価値のない手伝いであるもう一人のいつもただ機械的に働いている従僕はわきに押しやって、ささやき声で、こっそりと、頭を部屋へ深く突っこんで、みずから部屋の人に説得し始める。おそらく部屋の人にいろいろ約束をして、次回の配分のときには別な人を相応に罰してやるなどと受け合っているらしいのだ。少なくともしばしば相手の人物のドアを指さし、彼の疲れが許す限りにおいては、笑っても見せる。それでも一度や二度は、むろんいっさいの試みをやめてしまうような場合もあった。しかし、そういう場合にもKは、それはただ外見上だけやめてしまうのか、それとも少なくとも正しい理由からやめるのか、そのどちらかである、と思った。というのは、彼は落ちついて先へ進むし、あたりを見廻すこともしないで隣りの人のさわぎを我慢しているのだった。ただ、ときどきかなり長く眼をつむることだけが、彼がそのさわぎに苦しめられているのだ、ということを示すのだった。しかし、やがてその部屋の人もだんだんとおとなしくなる。その人の叫び声も、とだえることのない子供の泣き声がだんだんととぎれとぎれのすすり泣きへと移っていくのと似ていた。しかし、まったく静かになってしまったあとでも、またときどきはばらばらの叫び声があがったり、そのドアが一瞬開けられたり、ばたんと閉められたりするのだった。ともかくも、この場合にもその従僕がおそらく完全に正しい処置をとった、ということは明らかであった。最後に、おとなしくしようとしない一人の人だけが残った。その人は長いあいだ沈黙していたが、それはただ元気を回復するためだけであった。次にまた、前にも劣らずはげしくどなり出すのだった。なぜその人がそんなふうに叫んだり、不平をいったりするのかは明らかではなかった。おそらくそれは書類の分配のためではまったくなかった。そうしているあいだに、従僕のほうは仕事をすませてしまっていた。ただ一つの書類、ほんとうは一枚の紙切れにすぎず、メモ帳の一片なのだが、それだけが手伝いの落度で車のなかに残ってしまった。今ではそれをだれに配分すべきか、わからなかった。「あれはほんとにおれの書類かもしれないぞ」という考えが、Kの頭をかすめた。村長はしょっちゅうこんなきわめて少ない場合のことを話していたのだった。そしてKは、自分でほんとうは自分のそんな仮定を勝手気ままで滑稽なものと思いはしたが、その紙片を考えこんだようにして調べている従僕のほうへ近づこうと試みた。それはあまりやさしいことではなかった。というのは、従僕はKの好意に対してひどい仕返しをするのだった。それまでどんなにむずかしい仕事をやっている最中でも、たえず暇を見つけては、悪意をこめてかいらいらしてか、神経質そうに頭を振り向けてKのほうをながめるのだった。配分の終った今になってやっと、彼はKを少し忘れてしまったらしかった。そのほかの点でも彼は投げやりになってしまっていたのだ。彼のひどい疲労を思えば、それも理解できることだった。その紙片についても彼はたいして骨を折っているわけではなく、おそらくその紙片を全然読んでなんかいるわけではなく、ただそんなふうによそおっているだけなのだ。ここの廊下でその紙片を配分してやることでおそらくどの部屋の人をもよろこばせたことだろうが、彼は別な決心をしたのだった。彼は配分にはもううんざりしていた。人差指を唇にあてて、つれの従僕に黙っているように合図をすると――Kはまだ彼のところからだいぶ遠くにいたが――その紙片をこまかく裂きちぎってしまい、それをポケットにしまいこんだ。これはたしかに、Kがここの事務のやりかたで見た最初の規則違反だった。もっとも、Kが規則違反というものをあやまって理解しているということは、ありうることではあった。そして、たといそれが規則違反であるとしても、それは許されるべきものであった。つまり、ここで支配している事情の下では、その従僕はあやまちなく仕事をすることはできなかったのだ。つもりつもった怒り、つもりつもった不安は、一度は爆発しないではいられなかったのだ。そして、それがただ一枚の紙片を引き裂くということで表わされたのであったのなら、それはいかにも罪のないことではある。あの何ものによってもしずめられない例の人の声は、廊下にまだかん高く響いていた。そして、ほかの点ではたがいにたいして仲のよい関係にはないほかの同僚たちは、このさわぎに関しては完全に同じ考えであるらしかった。だんだん、その人はただ自分に声をかけたり、うなずいて見せたりして自分をはげましてくれるあらゆる人びとにかわって、このことに固執する役目を引き受けたような恰好になっていった。ところが、その従僕はそんなことはもう全然気にもかけなかった。彼は自分の仕事を終えていた。車の取手を指さして、もう一方の従僕にそれをつかむように合図すると、二人はやってきたときと同じようにして去っていった。たださっきよりももっと満足げに、そして、車が彼らの前で跳ねるほどに足早に去っていくのだった。ただ一度だけ、ぎくりとして、うしろを振り返った。それは、たえず叫んでいる例の人が(その人のドアの前をKはちょうどうろついていた。なぜなら、その人がほんとうは何を欲しているのか、知りたく思ったからだ)叫ぶことではもう間に合わなくなったらしく、叫ぶかわりに今度はベルをたえまなく鳴らし始めたのだった。その人はおそらくベルのボタンを前もって見つけていたのであろうが、それを鳴らして手数をはぶけることにきっとよろこんでいるのだ。すると、ほかの部屋部屋ではがやがやいう大さわぎが始った。それは賛成を意味するものらしかった。その人は、みんながずっと前からしたいと思いながらも、どういうわけかさし控えなければならなかったことをやっているように思われるのだ。その人がベルで呼ぼうと思ったのは、ボーイのたぐい、おそらくはフリーダなのだろうか。そうやって長いこと鳴らしているがいいのだ。フリーダは、イェレミーアスの頭を冷やすためにぬれた布をあてることにかかりきりなのだし、たといイェレミーアスがもうなおっているとしても、フリーダには暇なんかないのだ。というのは、そうなれば彼女はイェレミーアスの腕のなかにいるはずだ。ところが、ベルはたちまち効果があった。早くも紳士荘の亭主自身が、黒い服を着て、いつものようにボタンをきちんとはめ、遠くのほうから走りよってきた。しかし、亭主は自分の品位を忘れているようだった。そんなふうにして走ってきたのだった。両腕を半ば拡げ、まるで大きな事故のために自分が呼ばれ、その事故をつかまえ、自分の腕に抱きかかえてすぐその息の根をとめてやろう、とするような恰好だった。そして、ベルの鳴り方が少しでも不規則になるたびに、ちょっと跳び上がり、なおいっそう急ぐように見えた。彼のずっとうしろからおかみも現われ、彼女も腕を拡げて走ってくるのだが、彼女の歩みは歩幅が狭く、いかにも気取っているようだった。彼女は遅れてしまうだろう、亭主がそのあいだに万事必要なことをやってしまっているだろう、とKは思った。亭主が走るのに場所をあけてやるため、Kはぴたりと壁にくっついた。ところが亭主は、まるでKが自分のめざす相手だといわんばかりにまさしくKのところで立ちどまり、すぐおかみもそこへやってきて、二人はKに非難を浴びせかけるのだった。Kはあわてているし、驚いてもいるので、その非難がなんのことやらわからなかった。ことに例の人のベルの音がそれにまじり、おまけにほかのベルも鳴り出したため、いよいよKには何がなんだかわからなかったのだ。それらのベルは、もう必要からではなく、ただ遊びのため、あふれるばかりのよろこびのために鳴り出したようだった。Kは、自分の罪なるものをよく理解することが自分にとって大いに関心のあることだったので、亭主が彼を腕に抱え、彼をつれてこのさわぎのなかから立ち去ろうとすることに、大いに賛成だった。そのさわぎはいよいよひどくなるばかりだった。というのは、彼らのうしろでは――Kは全然振り返らなかった。なぜならば、亭主が、そしてそれ以上にもう一方の側からおかみが、彼に向って話しかけてくるからだった――今やすべてのドアがまったく開けられ、廊下は活気づき、そこではにぎやかな狭い小路でのように人のゆききがくりひろげられていくようだった。彼らの前方にあるドアのほうは、なかにいる人びとを出してやることができるように、Kが早く通り過ぎていくのをいらいらしながら待ち構えていた。そして、こうした状態のところへ、まるで勝利を祝うためのように、ベルの音が鳴り響き、いよいよ音を重ねていくのだった。そしてとうとうKは――Kたちはすでに、二、三台のそりが待っている静かな、雪で白い内庭へふたたびきていたが――問題になっているのはどういうことなのかを、だんだんと聞かされた。亭主もおかみも、どうしてKがあんなことをやる気になれたのかわからない、というのだった。



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