フランツ・カフカ 城 (16〜20章)


「でも、自分はいったい何をやったというんです?」と、Kはくり返してたずねたが、長いあいだその答えを得ることはできなかった。なぜならば、その罪は亭主とおかみとの二人にはあまりにもわかりきったことで、それゆえKの誠意などは少しも考えなかったのだった。Kはひどく手間をかけてやっといっさいをのみこむことができた。彼は不当にも廊下へ出た、というのだ。だいたい彼には、せいぜい酒場へいけることぐらいのもので、それでさえもただお情けだし、禁止に逆らってのことなのだ。もし彼が城のある人から呼び出しを受けたら、もちろん呼び出しの場所へ出頭しなければならないが、いつでも次のことを意識していなければならないのだ。――彼にもきっと普通の常識ぐらいはあるはずではないか?――つまり、自分はほんとうはいてはならないところにいるのであって、そこに彼が城のある人に呼ばれたことは、ただおおやけの用件が要求するからであり、またそれを許したからであるにすぎない。それゆえ、彼は事情聴取を受けるためにすみやかに出頭しなくてはならないし、しかもできるだけすみやかに帰ってしまわなくてはならない。いったい、あの廊下で自分はここではひどく場ちがいなのだという感じを全然もたなかったのだろうか。もしそういう感じをもっていたなら、どうしてあそこで牧場の羊や牛馬のようにうろつき廻ることなどできたのだろう? あなたは夜間聴取に呼び出されたのではないのか。それなのに、なぜ夜間聴取が行われているのか、知らないのか。夜間聴取というものは――と、ここでKは改めてその意味についての説明を聞かされた――ただ、城の人たちにとって昼間見るのは耐えがたい陳情人たちを、すみやかに、夜間、人工の光の下で聴取し、しかも聴取のすぐあとであらゆるみにくさを眠りのうちに忘れ去るかもしれないという可能性を期待して聴取する、ということだけを目的としている。ところが、Kの示した態度はこうしたあらゆる用心のための処置を嘲笑するようなものだった。亡霊だって朝になると消えるというのに、Kはそこにとどまり、両手をポケットに突っこんで、自分は立ち去らないので、部屋部屋とそこにいる人びともろとも、廊下全体が立ち去るだろう、と期待しているような態度だった。そして、そういうことだって――これは確信してもらっていいが――もしなんとかしてできるものなら、きっと起ったことだろう。何しろ、あのかたたちのやさしい気持というのは限りがないものなのだ。だれだってKを追い立てたり、あるいは、あなたは結局立ち去らなければならない、などとわかりきったことをいったりしないだろう。あの人たちはKがいるあいだおそらく興奮のために身体をふるわせており、そしてあの人たちのいちばん好きな朝の時間が台なしになってしまうけれど、けっしてKを追い立てたり、立ち去れなどといったりはしないだろう。Kに対して断固とした処置に出るかわりに、あの人たちは苦しむことのほうを選ぶのだ。とはいってもその場合にこういう期待が働いていることはたしかだ。つまり、Kは最後にはこの明白な事実をだんだんと知るにちがいないし、またあの人びとの苦しみに対応して、自分でもこんなにひどく場ちがいに、衆目を浴びながら、朝っぱらからこんな廊下に突っ立っていることが我慢できなくなるほど苦しくなるにちがいない、という期待だ。ところがそれがむなしい期待というものだ。あの人たちは、無感覚な、かたくなな、どんな畏敬の気持によってもやわらげられない心があるものだ、ということを知らないし、また親切でへり下った気持をもっているあの人たちとしてはそんなことを知ろうとは思わないのだ。あのあわれな生きものである夜の蛾(が)でさえも、朝がくれば静かな片隅を探し、小さくなって、できれば消えてしまいたいと思いながら、それができないことを不幸と感じているではないか。それに反してKは、いちばん目につくあそこに立っている始末だ。そうすることによって朝の訪れを妨げることができるとするなら、おそらく彼はそれをやることだろう。彼には朝の訪れを妨げることはできないけれど、残念ながらそれを遅らせ、むずかしくすることはできる。書類の配分を見なかったか。あれは、いちばん近い関係者以外のだれも見てはならないことなのだ。亭主もおかみも自分たちの家のなかでありながら見てはならないことなのだ。亭主もおかみも、たとえばきょう従僕たちから聞いたように、ただ暗示的に話されるのを聞いていただけだ。あの書類配分がどんな困難の下で行われたか、気づかなかったのか。あれはそれ自体理解できないことだ。しかし、あの人たちのだれもがただ用件だけのために働いていて、けっして自分一個の利益のことなんか考えていない。それゆえ、全力をふるって、書類分配という重要で基本的な仕事がすみやかに、容易に、まちがいなく行われるように協力しないではいられないのだ。そして、Kはほんとうに次のようなことをかすかながら予感しなかったか。つまり、あらゆる困難の主な原因は、あの人たちのあいだの直接的な交渉の可能性なしで、配分がほとんど閉め切られたドアのところで行われなければならないということにある。あの人たちは直接の交渉をすればもちろん一瞬のうちにたがいに理解し合えるのだが、従僕たちの仲介によるとなるとほとんど何時間もかからなければならないし、けっして文句なしに行われるためしはない。これはあの人たちと従僕との両方にとって消えることのない悩みの種であり、おそらくはさらにあとの仕事に有害な結果を及ぼすことになるだろう。なぜあの人たちはたがいに交渉し合うことをしないか、というのか? それでは、Kにはまだわからないのか。そんな人間はおかみには――そして亭主のほうもそれを裏書きした――はじめてだ、自分たちはこれまでいろいろと扱いにくい人びととかかり合ってきたけれど。普通ならばけっして口に出していおうとしないことを、Kにはあからさまにいわなければならない。というのは、そうでないと、いちばん必要欠くべからざることさえもわからないのだ。まあいい、どうせ話してやらなければならないのだから。あなたがいたため、ただ、もっぱら、あなたがいるということのために、あの人たちは部屋から出られなかったのだ。なぜかというと、あの人たちは、朝、眼がさめた直後には、あまりに恥かしがり屋で、あまりに気持が傷つきやすいので、他人の眼に自分の姿をさらすことができないのだ。あの人たちは明らかに、たとい完全に身づくろいしていても、それでもまだあんまりあらわすぎて自分の姿を人に見せることはできないと感じている。なんであの人たちが恥かしがるのか、いうことはむずかしいけれど、おそらく永遠の働き手たちであるあの人たちは、ただ自分たちが眠ってしまったというだけのために恥かしがっているのだろう。だが、おそらくあの人たちは、自分の姿を人に見せること以上に、見知らぬ人びとに会うことを恥かしがっているのだろう。夜間聴取の助けを借りてあの人たちが幸いにも切り抜けてきたもの、つまりあの人たちにとってまことに耐えがたい陳情人たちをながめるということを、今、朝となって、突然、ありのままにむき出しの姿で改めてしいられたくはないのだ。あの人たちはそういうことをやれる人たちではない。このことを顧慮しないとは、なんという人間だろう! そうだ、そんなやつはKのような人間であるにちがいない。掟であろうときわめてありふれた人間的な思いやりであろうと、なんだってこんな鈍感な冷淡さと寝ぼけまなことですっかり見すごしてしまう人、書類配分をほとんど不可能にし、この家の名声を台なしにしてしまい、そしてこれまで起ったことがないようなことをやってのける人なのだ。あの絶望させられてしまったかたたちがみずから自分の身を守ろうとし始め、普通の人間たちには考えられないような自制のあとでついにベルに手をかけ、ほかの手段ではどうしても動じることのないKを追い払うために助けを呼ぶなどということは、それこそこれまでに起ったことがないようなことだ! あのかたたちが助けを呼ぶなんて! 亭主もおかみもこの宿のすべての雇い人たちも、ずっと前にかけつけていたら、もし呼ばれもせずに、朝、ただ手伝いしてすぐ立ち去るためだけであっても、あのかたたちのとこへ思いきって現われていさえしたら、どんなにかよかったことだろうに。Kに対する怒りに身体をふるわせながら、また自分たちの無力に絶望しながら、彼らはここの廊下の入口に待っていたのだ。そして、ほんとうはけっして期待していなかったベルの音が自分たちにとって一種の救いとなったのだ。ところで、最悪のことはもう過ぎ去ってしまった! あなた、つまりKが、ついにあなたから解放されたあのかたたちのよろこばしげな仕事ぶりを一眼でも見ることができたらいいんだが! むろん、Kにとっては万事もう終ってしまったわけではない。自分がひき起こしたことに対してきっと責任をとらなければならないだろう。
 こうしているうちに、三人は酒場へきていた。亭主がひどく怒っているのにもかかわらず、なぜKをここまでつれてきたのかは、まったく明らかでなかった。おそらく亭主は、Kがひどく疲れていて、この家から出ていくことはさしあたりできない、と見てとっていたのだろう。そこに坐るようにとすすめられることも待たずに、Kはすぐ樽(たる)の一つに文字どおりくずおれてしまった。その暗がりのなかでは、彼は気持がよかった。その大きな部屋には、今はただ光の弱い電燈一つだけがビールの栓(せん)の上で輝いていた。外もやはりまだ深い暗闇で、吹雪(ふぶき)のようだった。ここでこんなに暖かくしていられることは、ありがたいと思わなければならないし、追い出されないように用心をしなければならない。亭主とおかみとはなおも彼の前に立っていた。まるで、Kという人間が今でもまだ一種の危険を意味するかのようであり、この男はまったく信用できないのだから、突然起き上がって、また廊下へ侵入していこうとすることもありえぬことではない、というようであった。また彼ら自身も夜なかに驚かされたこと、早く起きてしまったことで、疲れていた。ことにおかみはそうで、絹のようにさらさら音を立てる、スカートの広い、茶色の、少ししどけなくボタンをかけてリボンをつけた服を着ていたが――あの火急の場合にどこからそんなものを取り出してきたのだろう?――頭を折られてしまったように夫の肩にもたれかけ、きれいなハンカチで両眼をたたき、そうしながらも子供らしい悪意のこもった視線をKに向けていた。この夫婦をなだめるため、Kは、二人が自分に今語ってくれたことはすべて自分にはまったく耳新しいことだ、だがそういうことは知らなかったけれどもそう長く廊下にいたわけではない、実際、あの廊下に何も用事があったわけではなく、またけっしてだれかをわずらわそうなどと思ったのではなくて、あんなことはすべて過度の疲れから起ったことなのだ、といった。彼はこの夫婦があの不快きわまる場面にけりをつけてくれたことに感謝し、もし自分に釈明が要求されるならば、それはとても歓迎すべきことだ、というのは、そうすることによってだけ自分のふるまいに対する一般的な誤解を防ぐことができるのだ、と述べた。ただ疲れのせいで、それ以外のことに責があるわけではない。ところでこの疲れは、自分が事情聴取の緊張にまだ慣れていないということからきている。自分はなんといってもこの土地へきてからまだいくらにもなっていない。これからこの点でいくらか経験をつめば、あんなことはもう二度とは起こるはずがないだろう。おそらく自分は事情聴取をあまりにまじめに考えているのかもしれないが、それはきっとそのこと自体としてけっして欠点ではないはずだ。自分は二回の聴取をつづけざまに受けなければならなかったのだ。一回はビュルゲルのところで、二度目のはエルランガーのところでだった。ことに最初のですっかり疲れてしまった。もっとも二度目のはあまり長くかからなかった。エルランガーは自分にちょっとしたことをやるようにと頼んだだけだ。しかし、二回の事情聴取を同時に受けるということは、一度にもちこたえることができる以上のものだ。おそらくあんなふうなことは、ほかのだれか、たとえばご亭主にだってやりきれたものではなかったことだろう。二度目の事情聴取を自分はやっとの思いでふらふらになって終えたのだ。あれはほとんど一種の酔ったような状態だった。実際のところ、自分はあのお二人にはじめて会い、はじめてお話を聞いたのだが、あの人たちに答えることさえしなければならなかった。万事は、自分の知っている限りでは、ほんとうにうまく終ったのだが、それからあんな事故が起ってしまった。しかし、その前に起ったことを考えてもらえれば、そんなことをだれもほとんどこの自分の罪には数えることができないはずだ。残念なことに、ただエルランガーとビュルゲルとだけしか自分のそんな状態を知っていなかった。あの二人の人ならそういうこちらの状態を考えてくれ、あれから起ったようなすべてのことを防いでくれたことだろうが、エルランガーはおそらく城へいくためだろうが、聴取のあとですぐ出かけなければならなかったし、ビュルゲルはおそらくあの聴取に疲れて果てて――だから自分もまいってしまわないで頑張り抜くことがどうしてできただろうか――眠りこんでしまい、あの書類配分のあいだもすっかり寝過ごしてしまったくらいなのだ。もし自分がそれと同じように眠ってもよかったならば、自分はその機会をよろこんで利用して、禁じられているのにあんなふうにかいま見るというようなことはすべて断念したことだろう。断念するということは、自分はほんとうはねぼけまなこで全然ものを見ることができなかったくらいだから、いっそうたやすかったのだ。だから、あの神経質な人びとも何一つはばからずに自分の前に姿を見せてもよかったのだ。
 二度の聴取――エルランガーのも――について語ったこと、またKがあの人たちのことを尊敬をこめて話したことは、亭主に好感を与えた。亭主はもうKの頼み、つまり樽の上に一枚の板をしき、そこで少なくとも明けがたまで眠りたいという頼みを、かなえてやろうとしているように見えた。ところが、おかみのほうは明らかに反対らしく、彼女は今やっと自分の服とそのしどけない様子とに気づき、ところどころを無益に引っぱりなおして、くり返し頭を振るのだった。この宿の清潔に関する昔からの懸案らしい争いが、またもや突発しているらしかった。疲れきっているKにとっては、夫婦の対話は非常に大きな意味を帯びていた。この宿からふたたび追い出されるということは、これまでに体験したいっさいのことを越えるような不幸であるように彼には思われた。亭主とおかみとが自分に向って一致して反対してくるようなことがあっても、そんなことが起ってはならないのだ。Kは樽の上にかがみこんで、うかがうように二人を見つめていた。とうとうおかみは、Kがずっと前から気づいていた例のなみなみならぬ神経質さをもって、突然わきへどき――おそらく彼女は亭主ともう別なことを話していたのだった――こう叫んだ。
「この人ったら、なんてわたしを見つめているんでしょう! もうこれでこの人を追っ払ってちょうだい!」
 しかしKは、機会をつかんで、自分がここにいることになるだろうと、完全に確信し、ほとんどどうでもいいのだというような態度で確信して、こういった。
「あなたを見ているんじゃなくて、あなたの服を見ているんです」
「なぜわたしの服を見るんです?」と、おかみは興奮してたずねた。Kは肩をすぼめて見せた。
「いきましょう!」と、おかみは亭主に向っていった。「この人は酔っ払っているんです、ろくでなしめが。酔いがさめるまで、ここに眠らせておきなさい」
 そういって、さらにペーピーに、何か枕になるものをKに投げてやるように命じた。ペーピーはおかみの呼び声で暗がりから姿を現わしたが、髪は乱れ、疲れており、だらしなく箒を手にしていた。







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