フランツ・カフカ 城 (16〜20章)

第二十章


 Kが眼ざめたとき、まず、自分はほとんど眠らなかったように思った。部屋はさっきのまま人気がなく、暖かかった。どの壁もまっ暗で、ビールの栓の上のところについていた電燈は消えていた。窓の外も夜だった。ところが、彼が身体をのばし、枕が落ち、寝床と樽とががたがたいうと、すぐペーピーがやってきた。そして、もう夜であり、自分が十二時間以上も眠ったのだ、ということをこの子から聞いた。おかみが昼のあいだに二、三度彼の様子をたずねたし、ゲルステッカーもそのあいだに一度彼の様子を見にここへやってきた。ゲルステッカーは、Kがおかみと話していたとき、ここの暗がりのなかでビールを飲みながら待っていたが、もうKが眠っているのをじゃまする気にはなれなかったのだ。それに、最後にフリーダもやってきたということで、彼女は一瞬間彼のそばに立っていたが、ほとんど彼のためにやってきたのではなく、ここでいろいろと準備をしなければならなかったのだ。というのは、今晩から彼女はまた以前の勤めにつくはずだからだ。そんなことをペーピーはしゃべった。
「あの人はきっとあなたのことをもう好きじゃないようね?」と、ペーピーはコーヒーと菓子とを運んできながら、たずねた。しかし、そのききかたは前のように悪意がこもったものではなく、悲しげな調子で、まるであれからこの世のなかの悪意を知ってしまい、それに比べては自分のどんな悪意もむだで、意味がないといわんばかりであった。彼女はまるで苦しみをともにする人に話しかけるような調子でKに話しかけてきた。そして、Kがコーヒーを味わってみて、どうも甘味がたりないと思っているらしいのを見て取ると、すぐ走っていって、彼のために砂糖のいっぱい入った砂糖入れをもってきた。彼女の悲しい気分は、今晩のほうがおそらくこの前のときよりももっと飾り立てているということにさまたげにはなっていなかった。髪の毛の編み目や髪に編み入れたリボンがたくさんあって、額にそった生えぎわとこめかみのあたりとでは髪に念入りにこてをあて、首には小さな鎖をかけていて、それがブラウスの深い襟ぐりに垂れ下がっていた。とうとう十分に眠ったし、よいコーヒーも飲めるのだ、という満足から、Kがそっと髪の編み目の一つに手をのばし、それをときほぐしてみようとすると、ペーピーは疲れたように「かまわないでちょうだい」といい、彼と並んで樽の上に腰を下ろした。Kは彼女の悩みについてたずねる必要はなかった。彼女のほうから自分ですぐ語り出したのだった。眼をじっとコーヒーのポットに向けたまま、話しているあいだも気をそらす必要があるとでもいうように、また自分の悩みにかかりきりになっていてもそれにすっかり没頭するわけにはいかないのだ、というのはそれは自分の力を超えるものなのだ、といわんばかりであった。まずKは、ほんとうは自分がペーピーの不幸に責任があるのだ、でも彼女のほうはそれをうらみには思っていない、ということを聞かされた。そして、Kに反対なんかさせまいとして、話のあいだにも熱心にうなずいて見せるのだった。まず彼がフリーダを酒場からつれ出し、それによってペーピーの出世を可能にした。それ以外に、フリーダの心を動かして彼女の地位を捨てるようにさせることができるものは何一つ考えられない。フリーダはあの酒場でまるで巣のなかのくものように坐りこみ、いたるところに彼女の知っている限りの糸を張っていた。彼女を彼女の意に反して引き抜くことはまったく不可能だったろう。ただ身分の低い者への愛だけが、つまり自分の地位にふさわしくはない何ものかだけが、彼女をその地位から追い立てることができたのだ。で、ペーピーのほうはどうだろう? いったいペーピーは、あの地位を自分の手に入れようなどと、かつて考えたことがあったろうか。彼女は客室つきの女中で、重要でない、ほとんど先の見込みもない地位にいたのだった。どの娘とも同じようにすばらしい未来の夢を見ていたことは見ていた。夢はだれにだって見るなというわけにはいかないものだ。けれども、それ以上に進むことなんか、本気で考えたことはなかった。彼女はすでに手に入れたもので満足しきっていたのだった。ところが、フリーダが突然、酒場から消えてしまい、それがあまりに突然だったものだから、亭主はすぐ適当な者を手に入れることができず、探したところ、むろん相応に前へのり出していたペーピーが眼にとまった。あのころ彼女は、それまでにどんな人も愛したこともないくらいにKのことを愛していた。彼女は何カ月ものあいだ、下のちっぽけな暗い部屋に坐ったきりで、そこで何年でも、また運が悪ければ一生のあいだでも人の眼につかずに暮らすつもりでいた。すると、そこへKが現われた。そんなKはまるで一人の英雄で、娘を解放してくれる人間というわけだった。そして、実際に彼女のために出世の道をあけてくれたのだ。とはいっても、Kのほうでは彼女のことなど何も知らず、彼女のためを思ってそんなことをしたわけでもなかった。だが、それは彼女の感謝の気持をさえぎるものではなかった。彼女があの地位につけられる前の晩に――あの地位につくことはまだきまったわけではなかったが、大いにありそうなことだった――彼女は心のなかで彼と話し合い、自分の感謝を彼の耳にささやいて、何時間かを過ごしたのだった。そしてさらに、彼が自分の身に引き受けた重荷がほかならぬフリーダであるということが、彼女の眼に彼の行為をいよいよすばらしいものに見えさせた。彼がペーピーを引き出すために、フリーダを自分の恋人としたということのなかには、何か理解できないほど無私のものが含まれていたのだ。フリーダときたら、きれいでもない、少しふけてしまった、やせた女の子で、短い、毛の少ない髪をしており、その上気心の知れぬ女で、いつも何かしら秘密をもっている。そのことはたしかにあの人の容貌ともぴったり合っている。顔にも身体にもみじめさが疑いの余地なく現われているんだから、少なくとも、たとえば彼女のいわゆるクラムとの関係といったような、だれにもたしかめることのできない秘密をほかにもいろいろともっているにちがいない。そして、ペーピーにはあのとき、次のような考えさえも頭に浮かんだのだった。つまり、いったい、ほんとうにKがフリーダを愛しているなんていうことがあるんだろうか、あの人は思いちがいしているんじゃないだろうか、あるいはただフリーダだけをだましているんじゃないだろうか、そしておそらくこうしたすべてから生まれるただ一つの結果はペーピーの出世ということだけになるのだろう、そうなればKはそのあやまちに気づくか、それともそのあやまちをもう隠そうとはしないで、もうフリーダのことは見ずに、ペーピーだけを見るのではないだろうか、と。このことはペーピーの気ちがいじみた空想であるはずがなかった。というのは、彼女はフリーダと、一人の娘と一人の娘という関係で十分に張り合うことができたからだ。このことはだれだって否定はしないだろう。Kが一瞬のあいだに眼をくらまされてしまったのは、何よりもまずフリーダの地位だったのだし、フリーダがその地位に与えることを心得ていた輝きだったのだ。そこでペーピーはこんなことを夢見たのだった。Kは、もし彼女があの地位を手に入れたら、嘆願せんばかりに彼女のところへくることだろうし、そうしたら彼女は、Kの願いをきき入れて地位を失うか、それとも彼をこばんでさらに出世をつづけるか、どちらかを選ばなければならないだろう、と。そして彼女は、いっさいのものをあきらめ、身を落して彼のところへいき、彼がフリーダのところではけっして知ることができないような、そして世のなかのどんな名誉ある地位にも依存しないような、ほんとうの愛を彼に教えてやる気構えでいたのだった。ところがそれからちがったことになってしまった。それはなんのせいなのだろう? 何よりもKのせいで、次にはむろんフリーダのずるさのせいなのだ。何よりもKのせいだ、というのは、彼は何を欲しているのだろう、なんという変った人間なんだろう? いったい、何を得ようと求めているのであり、彼に心を傾けさせ、彼にいちばん身近かなもの、いちばんよいもの、いちばん美しいものを忘れ去らせるような、どんな大切なものがあるというんだろう? 彼女こそその犠牲で、万事はばかげており、万事がだめになってしまったのだ。そして、だれかこの紳士荘の全体に火をつけ、それを燃やしてしまう、しかもなんの跡かたもないくらい完全に燃やし、まるでストーブで紙を燃やすように燃やしてしまう人があったら、その人こそ今ではペーピーにとってはいちばん選り抜きの大切な人なのだ。そんなふうにしてペーピーは酒場に出るようになったのだった。四日前、昼食のちょっと前のことだった。ここの仕事はけっしてやさしいものでなく、ほとんど殺人的な仕事だが、それによって手に入れることのできるものも、けっして小さくはないのだ。ペーピーは以前にも、一日でもむだに過ごしたことはなかった。そして、どんなに大胆なことを頭のなかで思っても、この地位を自分のために要求するなどということは一度だってなかったけれども、それでも彼女は十分に観察していたのであり、この地位がどんな意味をもっているかを知ってはいた。けっしてなんの準備もなしでこの地位を引き受けたわけではなかった。そうでなければこの地位を引き受けて何時間とたたぬうちに失ってしまうことだろう。ここで客室つき女中のやりかたでやろうなどとしたら、それこそすぐくびになってしまう。客室つき女中をやっていると、時とともに自分がまったく失われ、忘れ去られてしまっていくように思われるのだ。その仕事は鉱山での仕事のようなもので、少なくとも秘書たちが泊まるあの廊下ではそうだ。あそこでは何日ものあいだ、急いであちこち歩いていて、あえて眼も上げようとはしない少数の昼間の陳情人を除いては、二、三人のほかの客室つき女中のほかに一人の人間だって見かけることがなく、その二、三人の客室つき女中たちはみな同じように不機嫌な顔つきをしている始末だ。朝には、およそ部屋から出ることが許されない。朝には秘書たちは自分たちだけで安心していたいからだ。食事は下僕たちが台所から運んでいく。そこで客室つき女中たちは普通はなんの用事もないのだ。食事のあいだも、彼女たちが廊下へ現われることは許されてはいない。ただ城のかたたちが仕事をしているあいだだけ、客室つき女中たちは掃除をやってもいいことになっている。しかし、もちろん人がいる部屋ではなく、ただちょうど人がいない部屋だけなのだ。しかも、あのかたたちの仕事のじゃまにならないように、まったく静かにやらなければならない。しかし、あんな部屋をどうして静かに掃除するなんていうことができるだろうか。なにしろ、城のかたたちが数日のあいだも泊ったあとで、その上、あの汚ない下僕の連中がそのなかを歩き廻った部屋であり、やっとのことで客室つき女中にまかされたときには、ノアの洪水だってそれを洗い清めることがけっしてできないだろうと思われるような状態にあるんだから。たしかに、あの人たちは身分の高い人びとではあるが、よっぽど強く自分の嫌悪感に打ち勝たなければ、あのかたたちのいたあとを片づけるなんていうことはできはしない。客室つき女中はけっしてひどく多すぎる仕事をもっているわけではないけれど、それはなかなかがっちりした仕事なのだ。けっしてほめ言葉などもらうことはなく、いつでもただしかられるだけだ。ことにいちばん苦しくて、いちばんしょっちゅう聞かされるのは、掃除のときに書類がなくなった、というおしかりだ。ところが、ほんとうは何一つなくなったりなどしたわけではなく、どんな紙切れだって亭主に渡すのだが、それでもむろん書類はなくなってしまう。ただそれはけっして女中たちの責任ではないのだ。ところで、そういうことになると、委員の人たちがやってきて、女中たちは部屋から出なければならない。委員たちはベッドを引っかき廻して探す。女中たちは所有物なんかもっていないのだから、彼女たちの数少ない品物は背負い籠一つでいっぱいになるくらいなのに、それでも委員たちは何時間でも探すという始末だ。もちろんあのかたたちは何一つ見つけはしない。どうしてそんなところに書類が入りこむなどということがあるだろうか。女中たちが書類をどうしようというのだろう? ところが結果はいつでも、失望した委員たちの側からの、亭主の口を通じて伝えられるののしりの言葉とおどかしだけだ。そして、昼も夜も少しも静かなときなんかなく、夜の半分はさわがしく、朝は夜明けからさわがしい始末だ。少なくともあそこに住まなくていいならどんなにいいかもしれないのだが、しかし住まないわけにはいかないのだ。というのは、合間のときに注文に応じてちょっとしたものを台所から運んでいくのは、やはり客室つき女中の仕事で、ことに夜間はそうだ。いつでも、突然、客室つき女中の部屋のドアが拳でたたかれる。注文を書き取る。台所へかけ下りていく。料理人の若衆たちをゆすり起こす。注文の品をぼんにのせて、客室つき女中の部屋のドアの前に置く。するとそこから下僕たちがもっていく。こういうことはすべて、なんて悲しむべきことだろう。しかし、そんなことはまだいちばん悪いことではない。いちばん悪いことは、むしろ注文が全然こないとき、つまり、みんながもう眠っているはずの、そしてたいていの人びとがとうとうほんとうに眠っている真夜中に、ときどき客室つき女中の部屋のドアの前を忍び歩きする音が聞こえ始めるときだ。そんなとき女中たちはベッドから下りて――ベッドは上下に重なっているのだ。あそこはどこでもひどく場所が狭く、女中たちの部屋の全体はほんとうは三つの仕切りをもった大きな戸棚以外の何ものでもないのだ――ドアに耳をあてて聞き、ひざまずき、不安のあまりたがいに抱き合うのだ。すると、ドアの前にたえず忍び歩きしている物音が聞こえてくる。その人がついに入ってきてくれるなら、みんなはどんなにありがたいかわからないのだが、何も起こりはしないし、だれも入ってなんかこないのだ。そうなると、ここに危険が迫っているときまっているわけではない、あれはただ、だれかがドアの前をあちこちと歩き廻って、注文をすべきかどうか考えこみ、それなのに決心がつかないでいるのだ、と自分にいって聞かせないではいられない。おそらくそれだけのことかもしれないし、おそらくそれとはまったくちがったことなのかもしれないのだ。ほんとうのところ、女中たちはあのかたたちのことを全然知らないし、ほとんど彼らを見たことさえない。ともかく、女中たちは部屋のなかで不安のあまり死にそうになっている。そして、部屋の外がとうとう静かになると、彼女らは壁によりかかって、もうふたたびベッドの上へ上がる気力もなくなっている。こんな生活がまたペーピーを待っているのだ。今晩のうちにも、彼女はまた女中部屋のなかの彼女の場所へ移っていかなければならない。そして、どうしてこんなことになったのだろう? Kとフリーダとのためなのだ。彼女がやっとのがれたばかりのそんな生活にまたもどっていくのだ。なるほどKの助けを借りはしたが、自分の最大の努力によってもやっとのがれた生活なのに。というのは、あそこの勤めでは、そのほかのところではこの上なく気をくばっている女中たちでも、身だしなみをおろそかにしてしまうのだ。いったい、だれのために身を飾るというのだろうか。だれ一人として彼女らのことなど見はしない。せいぜいのところ、台所にいる使用人たちぐらいのものだ。そんなことで満足な女なら、身を飾ることをやるかもしれないが。それ以外には、いつでも自分たちの小さな部屋にいるか、あのかたたちの部屋部屋にいるかするのだ。そして、あのかたたちの部屋にきれいな服で入っていくだけでも、軽率で浪費というものだ。そして、いつでも人工の光のなか、こもった空気のなかにいて――いつも暖房しているためだ――ほんとうはいつでも疲れきっている有様だ。週に一回の休みの午後も、せいぜいのところ、台所のどこかの仕切り部屋で静かに、不安もなく眠りこけて過ごすくらいのものだ。だから、なんのために身を飾るのだろうか? それどころか、服もろくには着ていない始末なのだ。ところが、ペーピーは突然、酒場へ移されたのだった。そこでは、自分をひけらかそうとするところだとしてだが、下とはまったく反対のことが必要であり、人びとの視線をいつでも浴び、そのなかにはひどくぜいたくな、注意深い人たちもいて、それゆえいつでもできる限りりっぱに、人に好感を与えるように見せなければならないのだ。そこで、これは一つの転機だった。そして、ペーピーは、何一つ取り逃がさなかった、といっていいはずだ。あとでどういうことになるだろうか、などということは気にもかけはしなかった。自分がこの地位に必要なさまざまな能力をもっていることを、彼女は知っていた。そのことをまったく確信していた。今でもこの確信はもっているし、だれだってこの確信を彼女から奪うことはできはしない。今でも、この彼女の敗北の日でも、そんなことはできないはずだ。ただ、いちばん最初の日にその能力をどうやって証明するかということは、むずかしいことだった。なぜなら、彼女は着るものも身を飾るものももたない、一人の貧しい客室つきの女中だったからだ。そして、あのかたたちはこちらがどういうふうにしてりっぱになっていくか、ということを待つ忍耐なんかもってはいないで、その移り変りの時期もなしにすぐ、ふさわしい酒場の女給仕を見ようと思っているからだ。さもないと、あのかたたちは背を向けてしまうことになる。フリーダだってそういう要求を満足させることができたのだから、あのかたたちの要求はそれほどたいしたものではないだろう、などと人は思うかもしれない。しかし、それは正しくはないのだ。ペーピーもしばしばそのことを考えてみた。またフリーダともしょっちゅう会っていたし、しばらくのあいだはあの人といっしょに寝さえしていた。しかしフリーダのやり口に手がかりをつけることは、やさしいことではない。そして、よほど注意を払うのでないと――そして、どんな男の人たちがそんなに注意を払うだろうか――あの人にはすぐだまされてしまう。あの人がどんなにひどく見えるか、ということは、フリーダ自身以上によく知っている者はいないのだ。たとえば、あの人が髪をといているのをはじめて見れば、同情のあまり手を打ち合わせてしまうことだろう。こんな娘は、事がきちんといっているなら、けっして客室つきの女中にだってなれないだろう、と思うことだろう。あの人はそれを自分でも知っていて、多くの晩に、身体をペーピーに押しつけ、ペーピーの髪を自分の頭のまわりに置きながら、そのことを泣いたものだった。ところが、あの人が勤めにつくとなると、あらゆる疑いは消えてしまい、あの人は自分をいちばん美しい女だと思い、それをうまいやりかたでだれにでも吹きこんでしまうことを心得ているのだ。あの人は人びとの心をよく知っていて、それがあの人のほんとうの腕前というものなのだ。そして、人びとがあの人のことをよくながめるひまもないように、すばやく嘘をいい、あざむいてしまうのだ。もちろんそれだけでは長いあいだには十分というわけにはいかない。人びとは見る眼をもっているし、その眼がついには勝つことになるからだ。しかし、こうした危険に気づくと、その瞬間にあの人は別な手段をもう用意しているのだ。最近のことをいうならば、たとえばクラムとの関係がそれだ。ああ、あの人とクラムとの関係! もしあなたがそんなことを信じないなら、あなたはそれを今からでも調べることができます。クラムのところへいって、たずねてごらんなさい。なんてずるいんでしょう、なんてずるいんでしょう。そして、あなたがこんなことをたずねるためにクラムのところへあえていったりしてはならないとしても、そしてもっと限りなく重要なことをたずねるためにクラムのところへいってもあの人の前には出ることはおそらく許されないとしても、そしてクラムはあなたには完全に閉ざされてさえいるとしても――ただあなたとかあなたと似た人たちとかにだけ閉ざされているんですわ。というのは、たとえばフリーダはいつでもいこうと思うときに、あの人のところへ跳(と)んで入っていくんですもの――、そんなふうになっているとしても、それでもあなたはその事柄を調べてみることができますわ。あなたはただ待っていさえすればいいんです! だってクラムは、そんなふうなまちがった噂に長いこと我慢してはいられないでしょう。なにしろあの人は、自分について酒場や食堂で語られていることを、たしかにひどく熱心に追求するんです。そうしたすべてはあの人にとってはいちばん大切なことなんです。そして、それがもしまちがっていると、あの人はそれをすぐ訂正するでしょう。ところがあの人は訂正しません。そうとすると、何も訂正することなんかないんですし、みんなほんとうのことばかりですわ。人が見ていることは、なるほどただ、フリーダがビールをクラムの部屋へもっていき、勘定をもってまた出てくるということだけではあります。しかし、人が見ていないことは、フリーダが話すのですし、あの人のいうことを信じないわけにはいきません。そして、あの人はそんなことを全然話しません。あの人はそんな秘密をけっしてもらしたりしないでしょう。いいえ、そうじゃなくて、あの人のまわりでいろいろな秘密がたがいに自然としゃべり合うんです。そして、それらの秘密が一度しゃべりつくされたとなると、あの人はもうむろん自分からそれらの秘密について話すことをはばかってはいないのではあるけれど、つつましやかに話して、別に何かを主張するというわけではなく、ただどっちみち一般に知られていることだけを引合いに出すんです。それもけっして全部じゃありません。たとえば、あの人が酒場に出るようになって以来、クラムが以前ほどにはビールを飲まなくなった、ずっと量が少なくなったというわけではないけれど、それでもはっきり量が少なくなったということなど、そういうことについてはあの人は話しません。それにはまたいろいろと理由がありうるわけです。ビールがクラムにとっては前ほどうまくない時期がやってきているのだとか、フリーダのことでビールを飲むことをまったく忘れてしまったのだとかいう理由です。ですから、ともかくも、これがどんなに驚くべきことであろうとも、フリーダはクラムの恋人のわけです。でも、クラムを満足させる人だったら、どうしてその人をほかの人たちだって感嘆しないでいるでしょうか。それで、フリーダはたちまちのうちに大変な美人ということになってしまいました。酒場が必要とするとおりそっくりそのままの性質をそなえた女の子ですわ。いいえ、それどころか、ほとんど美しすぎ、勢力がありすぎ、もう酒場なんかにはほとんど満足しないくらいですわ。そして事実――あの人がまだ酒場にいることは、人びとの眼にも奇妙に見えています。酒場の女給仕であることは、大変なことです。そのことからもクラムとの関係は大いに信じるに価することです。しかし、一度酒場の女給仕がクラムの愛人となったのなら、どうしてクラムはあの人を、しかもあんなにも長く、酒場にほっておくのでしょう? なぜクラムはあの人をもっと高いところへ引き上げないのでしょう? この点には何も矛盾はないのだとか、クラムがそんな態度をとるのには一定の理由があるのだとか、あるいは突然、おそらくごく近いうちに、フリーダの出世が行われるのだろうとか、そんなことを千回でも人びとにいって聞かせることができるでしょうが、そんなことはすべてたいした効果がありません。人びとはひとたび一定の観念を抱くと、どんな手を使っても長いあいだそうした観念から引き離すことはできません。たしかに、フリーダがクラムの愛人であることをだれ一人として疑ってはいなかったんです。ほかの人びとよりも事情をよく知っているらしい人びとでさえ、もう疲れてしまって、それを疑うなんていうことはありませんでした。『ちぇっ、クラムの愛人になっているがいいさ』と、人びとは考えました。『でも、お前がもう愛人となっているのなら、そのときはお前の出世によってもそのことを見せてもらいたいものだ』って。ところが、人びとは何一つ変化をみとめませんでした。フリーダはこれまでどおり酒場にとどまっていましたし、そのままでいることをひそかにとてもよろこんでいました。ところが、人びとのあいだではあの人は声望を失ってしまいました。そのことがむろんあの人に気づかれないでいるはずがありません。あの人は実際、まだ何ごとかが存在する以前からそれに気づくんです。ほんとうに美しい、かわいらしい娘だったら、ひとたび酒場に住みつくようになったからには、腕前なんて振るう必要なんかありません。美しいあいだは、何か特別な不幸な偶然が起こらなければ、酒場の女給仕でいられることでしょう。ところが、フリーダのような娘はいつでも自分の地位のことを心配していなければならないんですわ。むろんあの人はそれを人にわかるように見せはしませんし、むしろいつでもこぼしたり、あの地位を呪ったりはしています。しかし、心ひそかに人びとの気分をたえず観察しているんです。こうして、人びとが冷淡になったことをあの人は見て取りました。フリーダが現われても、もう何ごとでもなく、ただ眼を上げてちょっと見るぐらいの値打しかないものとなってしまいました。下僕たちもけっしてあの人に気を使ったりはしなくなりました。下僕たちはだれの眼にもわかるほどオルガやオルガのような子たちにしがみついていました。あの人はご亭主の態度からも、自分がだんだんなくてはならない人間ではなくなっていくことに気づきました。クラムについてもたえず新しい話を見つけることができるものではなし、ものには限度というものがありますもの。そこであのフリーダは、何か新しいことをやろうと決心したのでした。だれがすぐにそのことを見抜くことができたでしょう! ペーピーはそれに勘づいてはいたが、残念ながらそれを見抜くことはできなかった。フリーダはスキャンダルを起こす決心をしたのだった。クラムの愛人であるあの人が、だれか任意の男の人、できるならいちばんつまらぬ男に身を投げ出すというわけだ。これは衆目を集めることだろうし、長いあいだ人の口にものぼるだろう。そして、ついには人びとはまた、クラムの愛人であるということはどういうことなのか、ということを思い出すだろう。そして、この名誉を新しい愛の陶酔のなかで捨て去ってしまうということが何を意味するか、を思い出すだろう。ただ、このりこうな芝居を演じることのできる適当な男を見つけるのは、むずかしかった。それはフリーダの知っている男であってはならないし、けっして下僕たちの一人であってもならない。そんな男であれば、おそらく眼をむいて彼女を見つめ、通り過ぎていってしまうことだろう。何よりも、そんな男では十分まじめさを保つことができないだろうし、フリーダがそんな男に襲われ、身を守ることができないで、思慮を失った瞬間にその男に征服されてしまったのだ、などといくらうまく話したって、そんな噂をひろめることはできなかったことだろう。そして、その男はどんなにつまらぬ者であっても、その鈍重で下品なやりかたにもかかわらず、ほかならぬフリーダだけにあこがれていて、――なんということだろう!――フリーダと結婚するということよりも高い望みを抱いていないのだ、と人びとに信じさせることができるような男でなければならなかった。でも、その男はどんなに卑しい、できるなら下僕よりも身分の低い、下僕よりもずっとずっと身分の低い者であっても、その男のことでどんな娘にも自分が嘲笑されるようなことのない男、ほかの判断力をそなえた娘たちでさえもいつかは何か心をひかれるものをもっている男でなければならなかった。しかし、そんな男をどこで見つけることができるだろうか。ほかの娘ならおそらく一生かかってもそんな男を見つけることができなかったろう。ところが、フリーダの幸運が彼女のために土地測量技師を酒場へつれてくることになった。しかも、おそらくはその計画があの人の心にはじめて浮かんだ日にである。土地測量技師! ああ、いったいKは何を考えているんだろう? どんな奇妙なことを頭のなかで思い描いているんだろう? 何か特別なことでも手に入れようというのだろうか。地位だろうか、特別の待遇をだろうか。何かそういったものを欲しているのだろうか。ところで、そんなものを求めているのだったら、彼はほんの最初からもっとちがった処置をとらなければならなかったのだ。ともかく彼という人間は何ものでもなく、彼の状態をじっと見ていると、ひどく気の毒だといわなければならない。彼は測量技師ではある。それはおそらく何ものかにはちがいないのだ。そうだとすれば何かを学んだわけだ。ところが、それで何をやったらいいのかわからないとすれば、やはり何ものでもないわけだ。ところが彼は、少しも遠慮をしないで、いろいろ要求をする。けっして面と向ってあからさまにではないが、彼が何か要求をしているということは、だれにでも気づく。ところがこれが人を怒らせるのだ。いったい彼は、一人の客室つき女中でさえ、彼と長いあいだ話していると、いくらか自分の品位をおとしてしまうのだ、ということを知っているだろうか。そして、こんな変った要求をたずさえて、最初の晩にたちまちまったくひどいわなに引っかかってしまったのだ。いったい、彼は恥かしいと思わないのか。フリーダのどんなところが彼を魅惑したのだろうか。今では彼は白状することもできるだろう。あの痩せこけた、黄色い女が、ほんとうに彼の気に入ることができたのだろうか。いや、ちがう。彼はフリーダを全然見たことがなかったし、彼女はただ、自分はクラムの愛人だ、といっただけなのだ。彼にはそれが新奇なこととして深い感銘を与えたわけだ。そして、彼はだめになってしまったのだ! ところが、彼女のほうは今度は酒場を出なければならなくなった。今ではもうむろん彼女のための居場所は紳士荘になくなってしまったのだ。ペーピーはフリーダが出ていく前の朝のうちに彼女を見た。使用人たちはかけよってきた。だれだってこの光景が見たくてうずうずしていたのだ。そして、彼女の力はまだ大きかったので、人びとは彼女を惜しみ、みんな、そして彼女の敵さえも、彼女のことを惜しんだ。こんなふうに彼女の計算はすでに最初において正しかったことが証明されたわけだ。こんな男に身を投げ捨ててしまったことは、すべての者にとって不可解に思われた。一つの悲運であって、むろんどんな酒場の女給仕にだって感心する台所の小さな下女たちは、やるせない思いをしていたのだった。ペーピーでさえもそれに心を動かされてしまった。彼女の注意はほんとうは別なものに向けられていたのだったが、それでも彼女はけっしてその感動をすっかり抑えきることはできなかった。フリーダがほんとうはほとんど悲しんでいないことが、ペーピーにはとくに目立ったのだった。フリーダがぶつかったのは、じつのところ結局は恐ろしい不幸だったのだ。実際、フリーダも、あたかも自分がひどく不幸であるかのようにふるまってはいた。しかし、それは十分ではなかった。この演技はペーピーの眼をあざむくことはできなかった。それでは、何がフリーダにしゃんとした態度をとらせたのだろうか。新しい愛の幸福といったものだったのだろうか。そんな推察は問題外だった。としたら、そのほかのなんなのだろう? そのときすでに自分の後継者と見なされていたペーピーに対しても、いつもと同じように冷たく親切そうな態度でいる力を彼女に与えたものは何だったのだろうか。ペーピーには、そのときはそんなことを考えている十分なひまはなかった。彼女は新しい地位のための準備であまりにもたくさんやることがあったのだった。おそらく一、二時間以内には新しい地位につくはずであったのに、まだきれいに髪も整えてはいないし、優雅(ゆうが)な服も、上品な下着も、使える靴も、もってはいなかった。そうしたものを一、二時間のうちにそろえなければならないのだった。ちゃんとそろえることができないのなら、その地位なんかあきらめてしまうほうがましだった。というのは、そういうことであれば半時間とたたないうちにその地位を失うにきまっていた。ところで、それは一部分はうまくいったのだった。髪を整えることには彼女は特別な手腕をもっていたし、あるときはおかみの髪を整えるためにおかみのところへ呼ばれたことさえあった。彼女に恵まれているのは、特別な手の器用さというものなのだ。むろん、髪の毛がたっぷりあるので、自分のしたいとおりにすぐなるのだ。服についても助けがあった。彼女の二人の同僚が彼女に変わらない親切な態度を見せてくれたのだった。仲間のうちの一人の女中が酒場の女給になることは、一種の名誉でもあるのだ。そして、そうなるとペーピーはあとで、力をにぎるようになったら、いろいろ利益を授けてくれることができるはずだったからだ。女中の一人がずっと前から高い服生地(きじ)を使わないでしまっておいた。それはその子の宝物だった。その女中はしばしばそれをほかの子たちに見せびらかし、いつかそれを使ってすばらしく着飾ってやろう、と夢見ていたのだった。ところが――これはその子の美しい行為だったが――今、ペーピーがそれを必要とするということになったとき、その生地を犠牲にしてくれたのだった。そして、二人は進んで縫うことを手伝ってくれた。その子たちが自分のために縫うのだったとしても、二人はあれよりも熱心になることはできなかったことだろう。それはひどく楽しい、幸福を味わわされるような仕事でさえあった。みんな、上下のベッドにそれぞれ坐って、縫いながら歌を歌った。たがいにでき上がった部分と附属品とを上へ下へと渡し合った。ペーピーはそのことを考えると、万事がむだとなり、自分が手ぶらでまた友だちのところへ帰っていくことが、いつでも心に重くのしかかるくらいだ! なんという不幸で、なんと軽はずみな罪をつくったのだろう、だれよりもKのせいなのだ! あのときは、みんながなんと服のことをよろこんだことだろう。それはまるで成功の保証のように思われるのだった。そして、あとから小さなリボンをつける場所が見つかったようなときには、最後の疑惑さえも消えてしまうのだった。そして、この服はほんとうにきれいではないだろうか。もう今ではしわになって、しみも少しついている。ペーピーは着換えをもってはいないので、昼も夜もその服を着なければならなかったのだ。それでも今だって、それがどんなにきれいか、ちょっと見ただけでわかる。あのいまいましいバルナバスのところの女たちだって、これよりもりっぱなものはけっしてつくれないだろう。そして、好きなように上と下とをしめたり、ゆるめたりできるということ、つまり、一枚の服にはすぎないのだが、いろいろ変化を与えることができるということ、――これは特別の長所で、ほんとうはペーピーの発明なのだ。それにむろん、彼女にとっては服を縫うことはむずかしいことではなかった。ペーピーはそれを自慢しているわけではない。実際、若い健康な娘たちにはなんだって似合うものなのだ。下着類と靴とを用意することは、それよりもずっとむずかしかった。そして、ほんとうはここから失敗が始まるわけだ。この点でも友だちはできるだけのことをして助けてくれたのだが、彼女たちにはたいしたことはできなかった。ペーピーがよせ合わせ、つくろい合わせたのは、粗末な下着にすぎなかった。そして、ハイヒールの靴のかわりに、人に見せるよりも隠しておきたいような室内靴だった。二人の女中はペーピーを慰めていった。フリーダだってそんなにきれいな身なりをしていたわけではなく、ときどきはだらしない恰好で歩き廻っていた。そのため、客たちはフリーダにサービスしてもらうよりも、地下室の酒番の小僧たちにサービスしてもらいたがったほどではないか。それは事実だったが、フリーダだからこそ、そんなこともやれたのだ。あの人はもう人に大事がられ、もてはやされていたのだった。一人の貴婦人がふと汚れた、しどけない着つけで現われると、それだけいっそう魅惑的になるものなのだ。しかし、ペーピーのような新米の場合にはどうだろうか。それに、フリーダは全然うまく服が着られなかった。彼女はまったくあらゆる趣味から見離されているのだ。だれかが黄色い肌をもっているだけでも、むろんそれを隠しておかなければならない。フリーダのように、その上に襟ぐりの深いクリーム色のブラウスなんか着て、黄色一色で見る者の眼から涙があふれるほどの恰好をしてはならない。そして、それほどではなかったにしても、彼女はけちでありすぎて、いい身なりなんかできなかったのだ。かせいだ金はみんなとっておくのだ。なんのためなのかは、だれにもわからない。勤めでは金は全然いらない。うそや策略で事はたりるのだった。この模範をペーピーは真似しようとも思わなかったし、また、真似することもできなかった。それゆえ、自分の身を引き立たせるため、彼女がはじめにそんなに身を飾ったのは、正しいことだったのだ。自分がただもっと金を使ってやることさえできたなら、どんなにフリーダがずるかったとしても、どんなにKがばかであろうと、自分は勝利者でいることができただろう。実際、そんなふうではじめはよかったのだ。必要なわずかばかりの客扱いのしかたとかいろいろな知識とかは、すでに前もって知っていた。そこで酒場に身を置くやいなや、たちまちそこに住みついてしまった。仕事のことでは、だれもフリーダがいなくて残念だとは思わなかった、二日目になってやっと、いったいフリーダはどこにいるのだ、と何人かの客がたずねた。まちがいは起こらないし、ご亭主は満足していた。最初の日には心配でたまらずしょっちゅう酒場にきたが、あとになるとときどき顔を見せるぐらいで、それも最後にはペーピーに万事まかせきりにした。勘定が合ったからだ。――収入は平均してフリーダがいたときよりいくらか多いくらいだった。彼女はいろいろと改革をやった。フリーダは勤勉からではなく、貪欲さや支配欲や、自分の権利のうちのいくぶんかをだれかに譲ることになるのではないかという不安から、下僕たちのことさえ(少なくとも一部分は、ことにだれかが様子を見ているときには)監視していたのだが、ペーピーはそれとはちがってそんな仕事を完全に地下室の酒番の小僧たちに割り当ててしまった。この連中のほうがこの仕事にはいっそうぴったりしているのだ。このやりかたで彼女は男のかたたちのためにいっそう時間を多くさくことができ、客は手早く給仕してもらうようになった。それでも彼女はだれとでも二こと三ことを話すことができた。自分の身体はすっかりクラムにあずけてあるのだといわんばかりに、クラム以外のだれかがどんな言葉をかけても、また近よってきても、クラムに対する侮辱と見なしていたフリーダのようではけっしてなかった。そんなフリーダのやりかたは、むろん賢明でもあった。というのは、彼女がだれかを自分に近よせると、それは途方もなくすばらしい好意ということになった。しかし、ペーピーはこんな技巧は嫌いだし、またそんなものははじめには使えるものではない。ペーピーはだれに対しても親切にし、まただれもがそれに対してペーピーに親切をもってむくいた。みんなは明らかにこの変化をよろこんでいた。仕事に疲れた人たちがちょっとのあいだビールを前にして坐ることができるときには、彼らはたった一こと、一つのまなざし、また一回の肩をすぼめる動作によって、彼女をまるで変えることができるのだ。みんなの手が熱心にペーピーのまき毛をなでるので、彼女は一日に十回も髪をなおさなければならなかった。このまき毛と編み目との誘惑にはだれだって抵抗できない。ふだんはぼんやりしているKでさえ、けっしてできないのだ。こういうふうにしてさわがしくて仕事の多い、しかし上首尾の日々が過ぎたのだった。その日々がこんなにすみやかに過ぎ去っていなかったら、もう少し多かったら! たとい疲れ果てるくらい緊張していたとしても、四日間とはあまりに少なすぎる。五日目があったらおそらく十分であったかもしれないが、四日間では少なすぎた。ペーピーは四日のあいだに早くもパトロンや友人を手に入れていた。もしみんなのまなざしを信用することができるのなら、彼女がビールのジョッキをもって人なかへ出ていくときは、まるで友情の海のなかを泳いでいるようなものであった。バルトマイアーという書記などは彼女にすっかり惚(ほ)れこんでしまって、この鎖と垂れ飾りとを贈ってくれ、その垂れ飾りのなかに自分の肖像を入れたほどだ。もっともこれは少し厚かましいやりかたではあったが。こんなことやそのほかのいろいろなことが起ったのだが、それでもたった四日間だった。四日間では、ペーピーがいくら力をつくしたところで、フリーダはほとんど人びとから忘れられてしまうにしても、完全に忘れ去られてしまうというわけにはいかない。しかし、もしフリーダが用心深く彼女の大きなスキャンダルによって人びとの口にのぼっていなかったなら、忘れ去られてしまったかもしれない。フリーダはスキャンダルによって人びとの眼に新鮮なものとなったのだった。ただ好奇心から人びとはフリーダをまた見たいと思ったのだ。人びとにとってはうんざりするほど味気なかったものが、ほかの点ではまったくどうでもいいようなKという男の功績によって、ふたたび人びとにとっての魅惑となったのだった。しかし、ペーピーがそこにいて、彼女がいるということで人びとに働きかけているあいだは、お客たちとしてもペーピーをフリーダの魅惑と引き換えにするようなことはやらなかったろう。ところがたいていは年配のかたたちで、酒場の新しい女給に慣れるまでは、自分たちのこれまでの習慣に鈍重にいすわっているのだ。この交換がとても有利であるとしても、それでももう二、三日つづいていたら、あのお客のかたたちの意に反してもう二、三日、おそらくは五日目だけでもつづいていたらよかったのだが、四日間ではいかにもたりない。ペーピーはどんなことがあるにせよやはりまだ臨時雇いでしかなかったのだ。それから、おそらく最大の不幸は、この四日間にクラムが、最初の二日間には村にいたにもかかわらず、下の食堂へ降りてこなかったことだ。もしクラムがやってきたら、それはペーピーにとっての決定的な試験となったことだろう。試験といっても、それは彼女が少しも恐れてなんかいない、むしろよろこんでいたものだ。彼女は――こんなことにはむろん口に出してふれないほうがいちばんいいのだが――クラムの愛人にはならなかったろうし、またそんなものに成り上がろうなどという気持にもならなかっただろうが、少なくともフリーダぐらいにはすばらしくビールのグラスをテーブルの上に置くことを心得ていたろうし、フリーダのような押しつけがましい態度でなく、かわいらしく挨拶をして、かわいらしく注文を受けたことだろうし、もしクラムがおよそ娘の眼のなかに何ものかを探している人間であれば、彼はペーピーの眼のなかに完全にあきるほどそれを見出したことだろう。だが、なぜクラムはやってこなかったのだろう? 偶然にだろうか? ペーピーはあのときにはそう思ったのだった。二日のあいだ、彼女はクラムをどんな瞬間にも待っていた。夜なかにも待っていた。『今、クラムがやってくる』と、彼女はたえず考え、ほかの理由からでなくただ期待をこめた不安と、彼が入ってくるときにまっさきにすぐさま彼を見ようという要求とから、あちこちと走り廻っていた。このたえまのない失望が彼女をひどく疲れさせたのだった。おそらくそのために、ほんとうはできるはずのことが全部はできなかったのだ。少しのひまがあれば、使用人が足を踏み入れることを厳禁されている廊下へこっそり忍んで出ていき、そこの壁の切りこみにぴったり身体を押しつけて、待っていた。『今、クラムが出てきたら』と、彼女は思った、『あのかたが部屋から出てくるところを迎え、わたしの両腕に抱えて下の食堂までつれていくことができたら! この重荷の下でわたしはくずおれたりはしないだろう、その重荷がどんなに大きくたって!』ところが、クラムはやってこなかった。あの二階の廊下は静まり返っていて、あそこにいったことのある者でないと想像することができないくらいだ。あんまり静かなので、全然長いこと我慢していられないくらいなのだ。静けさが人が追い払ってしまう。しかし、十度追い払われても、十度また上がってくるというように、ペーピーはくり返した。まったく無意味なことだった。クラムはくるつもりなら、くるだろうし、こないつもりなら、ペーピーが壁の切りこみに入って胸の鼓動のために半分窒息してしまうとしても、彼女がクラムをおびきよせることはできないだろう。それは無意味なことだったが、もし彼がこないのなら、いっさいがほとんど無意味だったのだ。そして、クラムはほんとうにやってこなかった。今では、クラムがなぜこなかったのか、ペーピーにはわかっている。フリーダは、もし上の廊下でペーピーが壁の切りこみに隠れ、両手を胸にあてている様子を見ることができたら、すばらしい楽しみをもったことだろうが。クラムが降りてこなかったのは、フリーダがそれを許さなかったからなのだ。彼女が頼んでそうさせたのではない。彼女の頼みはクラムの耳にまではとどかないのだ。けれどフリーダというこのくものような女は、だれも知らないようないろいろのつながりをもっている。ペーピーがお客に何かいうときには、隣りのテーブルの人たちにも聞こえるくらいだ。ところがフリーダは何もいうことがなく、ただビールをテーブルに置くと、立ち去ってしまう。ただ、彼女が金を出して買ったただ一つの品物である絹のスカートだけがさらさら音を立てるだけだ。ところで、いざ何かいうときにも、おおっぴらにはいわず、お客の耳にささやくだけで、隣りのテーブルの人たちが耳をそばだてるほどにかがみこむ。彼女のいうことはおそらくつまらぬことではあろうが、いつもそうとはきまっていない。彼女はいろいろなつながりをもち、一つのつながりを別のいろいろなつながりで支えているのだ。たいていのつながりは失敗するけれど――だれがいつまでもフリーダなんかにかまっているだろうか?――ときどきは一つのつながりをしっかとつかむ。こうしたいろいろなつながりを彼女は今や利用し始めた。Kが彼女にそういう可能性を与えたのだ。彼女のそばに坐り、彼女を見張っているかわりに、ほとんど家にとどまっていないで、うろつき廻り、そこかしこで話合いをし、あらゆることに注意を向けているのだが、ただフリーダに対してだけは注意を向けない。そして、最後には彼女にもっと多くの自由を与えるために、橋亭から人のいない学校へ移ってしまった。そういうことはみなまったく蜜月の結構なはじまりだったわけだ。ところで、ペーピーは、Kがフリーダのもとで我慢しなかったというので彼を非難するわけではないのだ。だれだってあの女のところで我慢できるものではない。だが、なぜ彼はフリーダをすっかり捨ててしまわなかったのだ。なぜくり返し彼女のところへ帰っていったのか。なぜうろつき廻ることによって、まるでフリーダのために闘っているような見かけをつくってしまったのか。まるでKはフリーダと関係をもつことによってはじめて自分の事実上のつまらなさを発見し、フリーダにふさわしくなろうとし、なんとかして成り上がろうとして、あとで人からじゃまされずに現在の不自由な生活のつぐないをつけることができるために、今のところは彼女といっしょにいることをあきらめている、とでもいうかのように見える。そのあいだにもフリーダは時間をむなしく過ごしたりしてはいないで、おそらく彼女がKを引っ張っていったあの学校に坐り、紳士荘をじっと見守っており、Kをじっと見守っているのだ。使いの者といったら、彼女はすばらしいのを手のうちに収めている。つまり、Kの助手たちだ。あの二人を――だれにもどうしてかわからない。たといKのことを知っていても、どうしてかわからないが――Kはフリーダにまかせてしまった。彼女はあの二人を自分の昔の友だちのところへやり、自分のことを思い出させ、自分がKのような男によって囚(とら)われの身となったことを嘆き、ペーピーに対する敵意をけしかけ、自分がもうすぐ酒場へもどると告げ、助力を頼み、クラムに何も打ち明けないようにと哀願し、まるでクラムをいたわってやらねばならぬのだから、そのためにどうあっても酒場へ降りていかせてはならぬのだ、というふうにしむけるのだ。ほかの人びとに対してはクラムをいたわるのだといっているけれど、ご亭主に対してはこれは自分が手に入れた成果なのだといって利用し、自分がいなければクラムはもうこない、ということに注意を向けさせようとする。下の酒場でペーピーのような子しか給仕していないなら、クラムはどうしてここへくるだろう。なるほどご亭主には責任はない。あのペーピーはともかく、見つけ出せる最良の代用なんだから。しかし、どうしても代用では十分でない。ほんの一、二日でもそんなものではけっして十分でない、などというのだ。フリーダのこうした暗躍のすべてについてKは何一つ知っていない。その辺をうろつき廻っているのでなければ、のんきな顔をして彼女の足もとに寝そべっている始末だ。ところが、フリーダのほうはそのあいだも自分を酒場から距てている時間をちゃんと数えているのだ。ところで助手たちはこの使いの勤めをやっているだけでなく、Kにやきもちをやかせ、Kをのぼせさせておく役目もしているのだ。フリーダは子供のころから助手たちを知っていて、たがいにもう秘密などもち合わせているはずがない。だが、Kに敬意を表して、あの連中はつぎつぎにフリーダにこがれ始めたわけだ。そして、Kにとってはそれが大きな愛となるという危険が生まれている。そしてKは、これ以上の矛盾はありえないということでも、なんだってフリーダの気に入るようなことをして、助手たちによってやきもちをやかされているくせに、自分がひとりでうろつき廻りに出かけているあいだ、三人がいっしょに水入らずでいるということは我慢している。これではほとんど、Kはフリーダの第三の助手のようなものではないか。そこで、フリーダはついに自分の見守りつづけてきたところをもとにして、大きな一撃を下す決心をしたのだ。つまり、酒場へもどる決心をしたのだ。そして、それはほんとうに潮(しお)どきでもあった。フリーダというずるい女がこのことをよく知っていて、利用するやりかたは、ほんとうに感嘆に価するものがある。この観測の力と決心の力とは、他人には真似られないフリーダの腕前なのだ。もしペーピーがその能力をもっていたら、彼女の生活はどんなにちがったものとなったことだろう。もしフリーダがもう一日か二日、学校にとどまっていたら、ペーピーはもうけっして追い出されることはなく、みんなから愛され、支持されて、決定的に酒場の女給になっていたことだろう。そして、見すぼらしい嫁入り支度を眼がくらむほどすばらしく補うのに十分な金をもうけたことだろう。もう一日か二日かのことだったのだ。そうすれば、クラムはどんな策略を使ったって、もう食堂から遠ざけておくことができず、やってきて酒を飲み、くつろいだ気分になり、フリーダのいないことにおよそ気づいたとしても、この変化に大いに満足したことだろう。もう一日か二日だったのだ。そうすればフリーダは、彼女のスキャンダル、彼女のさまざまなつながり、二人の助手たち、そうしたいっさいのものといっしょにまったく忘れ去られてしまい、けっしてまた現われることがなかったろう。そうなれば、彼女はおそらく、それだけしっかりとKにしがみつき、彼女にそれができるとしての話だが――Kをほんとうに愛することを知るだろうか。いや、それもそうはいかないのだ。というのは、Kが彼女にあき、どんなにひどく彼女が自分をだましていたか、彼女の自称する美しさとかいわゆる誠実さとか、ことに何よりも自称するクラムの愛だとかいうものによって自分をだましていたか、ということを知るのにはもう一日とはかからなかったことだろう。もうほんの一日あれば、そしてそれ以上はいらないが、あの汚ならしい助手たちといっしょにあの女を家から追い出してしまったことだろう。考えてみれば、Kはけっしてそれ以上の時間はかからなかったはずだ。そして、この二つの危険のあいだに立たされ、明らかにあの女の頭上でもう墓穴が閉じ始めていたときに――Kは頭が単純なものだから、あの女のためになお狭くて細い道を開けておいたのだ――あの女は逃げ出したのだ。突然――そんなことはだれももう予期していなかった。そんなことは自然にそむいたことなのだ――、突然あの女はがらりと変って、まだ彼女を愛し、いつも彼女のあとを追い廻してばかりいるKを追い出し、友人や助手のあと押しのもとで救いの女神としてご亭主の前へ現われたわけだ。自分のスキャンダルによって前よりもずっと魅惑的となり、いちばん身分の低い人たちからもいちばん身分の高い人たちからも同じようにそれとわかるほども渇望されている有様だ。身分の低い者の手に入ったのもほんの一瞬で、すぐにしかるべくその男を突きのけてしまい、そしてその男にもほかのすべての男にも前にもまして手のとどかぬようになるのだ。ただ前とちがうところは、前にはこういうすべてのことを人が疑うのももっともなわけだったが、今度は確信されるようになった、という点だけだ。こうして彼女はもどってきた。ご亭主はちょっとペーピーを横眼にながめて、ためらっていたが――ご亭主は、あんなにもその資格があることを証明したペーピーを犠牲にしたものかどうか、考えたのだ――、やがてくどきおとされ、フリーダの味方をしてしゃべりすぎるほどしゃべり、ことに、フリーダがきっとクラムを食堂にくるようにさせるだろう、というのだった。わたしたちは今、この夕方、ちょうどそこまでの状態にいるわけだ。ペーピーは、フリーダがやってきて、この地位を引き受けてかちどきをあげるまで待っていないつもりだ。金入れはもうおかみに渡したし、もう出ていくことができる。下の女中部屋の仕切りベッドは彼女のために用意されている。泣いてくれる女友だちに迎えられながら、自分はそこへいくだろう。身体から服をむしり取り、髪からはリボンを引きちぎって、みんな部屋の片隅に突っこんでしまうだろう。そこにそんなものはうまく隠されつづけ、忘れたままでいたいあの酒場勤めの期間のことなんか不必要に思い出させることはないだろう。それから自分はあの大きなバケツと箒とを手に取り、歯をくいしばって、仕事に取りかかるのだ。でも、自分はその前にいっさいのことをKに話してやらないではいられなかったのだ。助けてやらなければ今でもこうしたことを知らなかったにちがいないKが、このペーピーに対してどんなに醜いふるまいをしたか、どんなに彼女を不幸にしたか、ということをさとるためにだ。むろん、Kだってこういうことにただ悪用されただけの話だ。
 ペーピーは語り終えた。彼女は息をつきながら一粒二粒の涙を眼と頬とから拭い、うなずきながらKを見つめた。まるで、根本においては問題は自分の不幸なんかにはないのだ、自分はこの不幸に耐えていくだろうし、そのためにはだれかの助力も慰めも全然いらないし、ましてKの助けや慰めなんかはいらない、自分はまだ年が若いが人生をよく知っている、自分の不幸はただ自分の知識を裏書きしているにすぎないのだ、だが問題はKだ、自分は彼の眼の前に彼のほんとうの姿を描いて見せてやろうとしたのだ、自分のすべての希望がこわれてしまったあとでも、そうしてやることは必要だと思ったのだ、といおうとするかのようであった。
「君はなんていう乱暴な空想をもっているんだ、ペーピー」と、Kはいった。「君が今やっとそうしたことを発見したというのは、全然ほんとうのことじゃない。それは実際、ただ下の暗くて狭い女中部屋から生まれた夢にすぎないよ。それはあの女中部屋でならぴったりだろうけれど、ここのひろびろとした酒場じゃ奇妙に見えるね。そんな考えだから、君はここで自分というものを主張することができなかったんだ。それにきまっているよ。君が自慢する君の服と髪形にしたところで、君たちの部屋のあの暗がりとあのベッドとの産物なんだ。あそこではきっととてもきれいなのだろうが、ここではだれだって内心ひそかに、あるいはおおっぴらに、そんなものは笑っているんだ。それから、そのほかに君はどんなことを話したんだっけね? そうだ、この私が悪用され、だまされた、っていうことだったね? いや、ペーピー、私は君と同じように、悪用されたり、だまされたりしてはいないよ。フリーダが現在、私を見捨てたということ、あるいは、君がいったように、一人の助手と逃げ出したということは、ほんとうだ。君は真相をかすかながら見ている。それに、あの子が私の妻になるということは、ほんとうにありそうもないことだ。けれど、私があの子にあきあきしてしまったとか、あの子をつぎの日に早くも追い出してしまったことだろうとか、普通おそらく妻が夫をだますようにあの子が私をだましたとかいうのは、全然正しくないことだ。君たち客室つき女中というものは、鍵孔(かぎあな)を通してスパイすることに慣れていて、それによって、君たちが実際に見る小さなことから大げさにあやまって全体を推量するというものの見かたを身につけているんだよ。その結果が、たとえば私が今の場合に君よりもずっと少ししか真相を知らない、というようなことになるのだ。なぜフリーダが私を見捨てたのか、ということを私は君のように説明することはとてもできない。いちばんほんとうらしく思われる説明は、君がちょっとふれたけれど十分に利用はしなかった説明、つまり、私があの子のことをほっておいた、ということのように私には思われるね。残念ながらそれはほんとうだ。私はあの子をほっておいた。だが、それには特別の理由があるのだ。しかし、それはここでいう筋合いのものではないけれど。もしあの子が私のところへもどってきたら、私は幸福だろうけれど、でも私はまたすぐ、あの子のことをほうりぱなしにし始めることだろう。そういうことなんだ。あの子が私のところにいたので、私は君に笑われたようにああしてうろつき廻っていたのだよ。あの子がいなくなった今では、私はほとんどやることがなくなってしまい、疲れ、いよいよ完全にやることがなくなるように望んでいるんだ。私に対する忠告はもうないかね、ペーピー?」
「あるわよ」と、ペーピーは突然勢いづいて、Kの肩をつかんで、いった。「あたしたち二人はどちらもだまされた人間だわ。いっしょになりましょう。いっしょに下の女中たちのところへいきましょう!」
「君がだまされたことをこぼしているあいだは」と、Kはいった。「私は君と折れ合うことはできないよ。君がいつもだまされていたと主張しているのは、それが君にとって気持がいいし、君を感動させるからだ。だが、ほんとうのところは、君はこの地位にはふさわしくはなかったのだ。君の考えによるといちばん無知な人間であるはずのこの私がそれを見抜くんだから、君が不適任だということはなんとはっきりしているだろう。君はたしかにいい娘だ、ペーピー。でも、それを知ることはそんなにやさしいことではないんだよ。たとえば私も、はじめは君のことを残酷で高慢な女だと思ったんだ。でも、君はそんな女ではない。君の頭を混乱させているのは、ただこの地位なのだ。なぜなら、君はこの地位にふさわしくはないのだからね。この地位が君には高すぎるなんて、私はいおうとは思わない。これは実際のところ、何もかくべつな地位じゃない。おそらく、くわしく見るなら、君の以前の地位よりは名誉なものだろう。でも全体としてはその区別は大きくはないし、二つはむしろ取りちがえるくらいたがいに似かよったものだ。そうさ、ほとんどこういってもいいだろう。客室つき女中であるほうが酒場にいるよりもましだ、というのは、あっちではいつでも秘書たちのあいだにいるんだが、それに反してここでは、食堂で秘書たちの上役たちにサービスすることができるけれど、まったく身分の低い連中、たとえばこの私なんかともつき合わなくちゃならないからね。私なんかはどうも権利という点でこの酒場以外のどこにもとどまるわけにはいかないのだが、こんな私とつき合うことが、そんなに度はずれな名誉なのだろうか? まあ、君にはそう見えるらしいし、おそらく君としてはその理由があるのだろうね。しかし、まさにそのために君は不適任なんだ。こんな地位なんかほかのと同じようなものなんだが、君にとっては天国なんだ。そのために君は万事に度はずれな熱心さでかかり合い、君の考えによれば天使が身を飾っているように飾り立てるのだ。――天使というのはほんとうはそんなものとはちがうんだがね――地位のためにふるえ、いつも追いかけられているように感じ、君の考えによると自分を支えてくれることができると思われるようなすべての者を探し、過度の親切によってそういう者を手に入れようとするのだが、それによってそういう者のじゃまをし、突き放しているわけだ。というのは、その人たちは酒場ではのんびりしていたいので、自分の心配のほかに酒場の女給の心配までしたくはないのだからね。フリーダが出ていったあと、高い身分のお客たちのだれ一人としてほんとうはこのできごとに気づいていなかったらしいと思われるのに、今ではみんなそのことを知っているし、ほんとうにフリーダにこがれているんだ。というのは、フリーダはたしかに万事を君とはまったく別なふうにやっていたのだからね。たといあの子がほかの点ではどうあろうとも、またあの子は自分の地位を尊重することを心得ていたにせよ、勤めでは経験に富み、冷静で沈着だったからな。これは君もとくに強調しているところだが、ところが君はこの教訓を利用していないというわけだ。君はあの子のまなざしをよく見たことがあるかね? あれはもう酒場の女給のまなざしなんかじゃなくて、もうほとんどおかみのまなざしなんだ。あの子はなんでも見ていたし、しかもその場合に一人一人を見ていたんだ。そして、一人一人を見るために残されていたまなざしは、その見られる男を征服するにたるだけの力をもっていたんだ。あの子がちょっとばかりやせていて、ちょっとばかりふけているというようなこと、あの子よりもきれいな髪を想像することができたなどということは、あの子がほんとうにもっていたものに比べれば、ちっぽけなことなんだよ。そして、こんな欠点が気になってしかたがなかったような人間は、そのことによってただ、自分にはより偉大なものに対する感覚が欠けている、ということを示しただけだろう。クラムに対してはそんなことをたしかに非難するわけにはいかない。君がクラムのフリーダに対する愛を信じようとしないのは、ただ若い無経験な娘のまちがった見かたというものだ。クラムが君には――そして、これはもっともだが――手がとどかないように見えると、そのためにフリーダもクラムに近づくことはできなかったと思ってしまうのだ。君はまちがっているよ。たとい私はまちがいのない証拠をもってはいないにしても、私はその点ではただフリーダの言葉だけを信じるね。これがどんなに君には信じられないことに思われようとも、また世間や役人の本質や女性の美しさの高貴さと影響力とについての君の考えとどんなにぴったり合わないとしても、これはほんとうなんだ。ちょうど今、私たちがここに並んで坐り、私が君の手を私の両手のあいだに取っているように、おそらくクラムとフリーダとも、まるでこの世でもっともあたりまえのことのように、並んで坐っていたんだ。そして、自分から進んで下へ降りてきたのだ。いや、それどころか、急いで降りてきさえしたんだよ。だれも廊下でなんかうかがってはいなかったし、ほかの仕事をほうりぱなしになんかしなかったんだ。クラムは下へ降りてこようと自分で骨を折らなければならなかったんだ。君が驚いたというフリーダの服装の欠点なんか、クラムには全然苦にはならなかったのさ。君はフリーダのいうことを信じたくないんだよ! そして、それによって自分がどんなに自分をさらけ出しているのか、それによって君の無経験なことをどんなに示しているのか、知らないんだ! クラムに対する関係なんか全然知らない人だって、彼女の人柄を見れば、その人柄は君よりも私よりも村の人たちよりもすぐれただれかがつくりあげたものだということ、またあの二人の対話は、お客たちと女給たちとのあいだに普通交わされるような、そして君の人生の目標であるらしいような冗談をはるかに超(こ)えていたものだったということを、みとめないではいないだろうよ。でも私は君にどうも不当なことをいっているようだ。君は自分でほんとうによくフリーダの特徴を知っているし、あの子の観測の能力や決断力や人びとに対する影響力というものに気づいている。けれど、君はただむろん万事をまちがって解釈しているんだよ。そして、あの子がそうしたすべてをただ利己的に自分の利益のために、また人に対する悪意のために使っていて、君に対する武器としてさえも使っている、と信じているんだ。ちがうよ、ペーピー、たといあの子がそんな矢をもっていたところで、こんな近い距離ではそれを射ることはできないだろうさ。それに、利己的だって? むしろこういうことができるだろう。あの子がもっているもの、あの子が期待してもよいものを犠牲にして、私たち二人にもっと高い地位を保証する機会を与えたのに、私たち二人はあの子を失望させてしまい、あの子にまたここへもどってこざるをえないようにしてしまったんだよ。ほんとうにこのとおりなのか、私にはわからないし、また私の罪というのも私にはどうもはっきりはしないのだが、私自身を君と比べてみると、何かそういう考えが私には浮かんでくるんだ。まるで、たとえばフリーダの落ちつき、フリーダのてきぱきしていることによるならば、やさしく、また眼立つこともなしに手に入れることができるようなものを、泣いたり、引っかいたり、引っ張ったりして手に入れようとして、あまりにもひどく、あまりにもさわがしく、あまりにも子供っぽく、あまりにも無経験に骨折ってきたみたいだ。――まるで子供がテーブル・クロスを引っ張るが、何も手には入らないで、ただ上にのっているみごとな品物を全部落してしまい、永久に手に入らなくしてしまうようなものなのだ――ほんとうにこのとおりかどうか、私にはわからない。でも、君が話したことよりはむしろ私のいうとおりなのだということは、私はよく知っているよ」
「そりゃあ、そうでしょうよ」と、ペーピーはいった。「フリーダがあなたから逃げてしまったので、あなたはあの人に首ったけになっているんだわ。あの人が去ってしまったら、あの人に首ったけになることはむずかしいことではありませんからね。でも、あなたのいいたいと思っているとおりだとしても、そしてあなたのいうことがもっともであり、あなたがあたしを笑い者にしている点でももっともだとしても、あなたはこれからどうしようというの? フリーダはあなたを見捨ててしまったのだわ。あたしの説明によっても、あなたの説明によっても、いずれにしたってあの人があなたのところへもどってくるという望みはあなたにはないのよ。そして、たといあの人がやってくるとしても、それまでのあいだ、あなたはどこかで過ごさなければならないんだわ。外は寒いし、あなたには仕事もなければ寝床もないわけよ。あたしたちのところへいらっしゃいな。あたしの友だちはあなたの気に入るでしょう。あたしたちはあなたをくつろがせてあげるわよ。あなたは実際女手だけではむずかしいような仕事を助けてくれるんだわ。あたしたちは自分たちだけをたよりにしていなくてもいいようになるし、夜なかにもう不安に苦しめられることもなくなるわ。あたしたちのところへいらっしゃいな! あたしの友だちもフリーダのことは知っているのよ。あたしたちは、あなたがあきあきしてしまうまで、あの人のことを話してあげるわ。さあ、いらっしゃいよ! あたしたち、フリーダの写真もいろいろもっているから、あなたにそれを見せてあげるわよ。あのころはフリーダはまだ今よりももっとつつましやかだったわ。あなたはほとんどあの人だとは見わけられないでしょうよ。せいぜいあの人の眼ぐらいのものでしょう。あのころもう何かをじっとうかがっていたあの眼ね。ねえ、あなた、いらっしゃるでしょう?」
「いったい、そんなことが許されているのかい? きのうも、君たちの廊下で私がつかまったというので、大変なスキャンダルがあったんだよ」
「あなたがつかまったからよ。でも、あたしたちのところにいれば、つかまらないわ。だれも、あなたのことを知りっこないわよ。知っているのはあたしたち三人だけよ。ああ、それはきっと愉快よ。もうあたしには、あそこの生活がついさっき思われたよりもずっと我慢ができるもののように思われてきたわ。今ならもう、わたしがここを去らなければならないということで、それほど多くのものを失うことにはならないわ。ねえ、あたしたちは三人きりでも退屈なんかしなかったわ。にがい人生を甘く楽しいものにしなければいけないのよ。人生はあたしたちにとってすでに小さいときからにがくされていたのよ。で、あたしたち三人はいっしょになって、あそこでできる限りすばらしく暮らしているんです。とくにヘンリエッテがあなたの気に入ることでしょうよ。でも、エミーリエもきっとそうだわ。わたしはあなたのことをもうあの人たちに話しておいたわ。あそこではこんな話をしても、信じてくれないわ。まるで部屋の外ではほんとうは何ごとも起こるはずがないっていうようなの。あそこは暖かくて狭いの。そして、あたしたちはたがいにもっとぴったりと身体をくっつけ合っているのよ。いいえ、おたがいにたよりにしてはいるけれど、けっしてたがいにあきることなんかないわ。反対に、あの友だちのことを考えると、あそこへもどっていくことがほとんど正しいことのようにあたしには思われるわ。なぜあたしはあの人たちよりも出世しなければならないでしょう? そんなことはないわ。あたしたち三人のだれにも未来がふさがれていたっていうことが、あたしたちをいっしょにさせていたものなんだわ。ところが、今はあたしだけがあそこから抜け出して、あの人たちから離れたんだわ。むろん、わたしはあの人たちのことを忘れはしなかったわ。どうしたらあの人たちのために何かしてあげられるかということが、あたしのいちばん気がかりなことでした。あたし自身の地位がまだ不安定なときに――どんなにそれが不安定なものであるか、あたしは全然知らなかったの――もうあたしはご亭主とヘンリエッテやエミーリエのことを話しました。ヘンリエッテについては、ご亭主はまったく譲れないというわけでもなかったけれど、そうはいってもあたしたち二人よりずっと年上で、およそフリーダぐらいの年のエミーリエについては、ご亭主はあたしに全然希望を与えてくれなかったの。でも、考えてもみてちょうだい、あの人たちは全然あそこを去りたがらないんですよ。自分たちがあそこで送っているのがみじめな生活だ、ということはあの人たちも知っているけれど、あの人たちはもう順応してしまったのよ。やさしい人たちだこと。あの人たちが別れのときに流してくれた涙は、なによりもあたしがいっしょの部屋を去らなければならないこと、そして寒いとこへ出ていくということ――あそこでは部屋の外のものがなんでも冷たく思われるんです――、そして知らない大きな部屋部屋のなかで、知らない偉い人たちと闘わなければならないこと、しかもその目的が何かというと、ただ命をつないでいくというだけなんだということ(そんなことはあの人たちといっしょに暮らしていたってあたしにはできたんだわ)、そのことを悲しんでくれたんだと思うわ。あたしが今、帰っていっても、あの人たちはおそらく全然驚かないでしょう。そして、ただあたしの機嫌を取ってくれるために、少し泣いて、あたしの運命を嘆いてくれるでしょう。でも、それがすむと、あの人たちはあなたを見て、あたしがあそこを去ったことはやはりよかったんだ、と気づくでしょう。わたしたちが今では一人の男の人を助け手と守り手としてもつということは、あの人たちを幸福にするでしょうし、すべてを秘密にしておかなければならないということ、そしてあたしたちがこの秘密によってこれまで以上に固く結ばれるんだということに、あの人たちをとくに有頂天(うちょうてん)にすることでしょう。いらっしゃいよ、ねえ、あたしたちのところへいらっしゃい! あなたにはどんな責任も生じることなんかないわよ。あなたはあたしたちのように永久にあたしたちの部屋に結びつけられてしまうわけじゃないのよ。やがて春になって、あなたがほかのどこかに宿を見つけ、あたしたちのところがもう気に入らなくなったら、出ていくことができるんだわ。そうはいっても、秘密だけはそうなってもまだ守らなければいけないし、あたしたちを裏切ったりなんかしてはいけないけれど。というのは、そんなことがあったら、あたしたちは紳士荘を出なければならないでしょうから。それからまた、そのほかのときでも、あなたがあたしたちのところにいるあいだは、用心していて、あたしたちが安全だと見なさないようなところにはどこにも姿を見せてはならないし、およそあたしたちの忠告に従わなければならないわ。これがあなたをしばるただ一つのことです。そして、そのことはあなたにとってもあたしたちにとってと同じように大切なことなんです。でも、そのほかの点ではあなたは完全に自由で、あたしたちがあなたに割り当てる仕事はそれほどむずかしいことじゃないのよ、そんなこと、心配しないでちょうだい。で、あなた、いらっしゃる?」
「春までまだどのくらいあるんだろうね?」と、Kはたずねた。
「春まで、ですって?」と、ペーピーはきき返した。「ここでは冬は長いわ。とても長い冬で、単調なの。でも、下ではあたしたちはそんなことをこぼしはしないわ。冬に対してはあたしたちは安全なのよ。でも、いつか春もくるし、夏もきて、きっとそのさかりのときをもつでしょうね。でも、今、思い出のなかでは、春も夏とは短く、まるで二日以上はないみたいよ。そして、その短い日々のあいだにさえ、いちばんすばらしい天気の日に、ときどき雪が降るのよ」
 そのとき、ドアが開いた。ペーピーはぎくっとした。彼女は頭のなかで酒場からあまりに遠ざかっていたのだった。でも、それはフリーダではなく、おかみだった。おかみは、Kがまだここにいるのを見て、驚いた様子だった。Kは、自分はおかみさんを待っていたんだ、と弁解し、同時に、自分がここに泊まることを許してくれたことに感謝した。なぜKが自分を待っていたのか、わからない、とおかみはいった。そこでKは答えた。自分はおかみさんがまだ自分と話そうと思っているような感じをもったのだ。それがもしあやまりであるなら、お許しを願いたい。それはそうとして、自分はもう出ていかなければならない。自分が小使をやっている学校をあまりに長いあいだほっぽりぱなしにしていた。こういうすべてに責任があるのはきのうの呼出し状なのだ。なにしろ自分はまだこういうことにほとんど経験がないのだ。おかみさんをきのうのような不快な目にあわせることは、きっともう二度とは起こらないだろう。Kはこういって、お辞儀をして出ていこうとした。おかみはまるで夢を見ているような眼つきをして、Kをじっと見つめた。そのまなざしによってKのほうも、望んだ以上に長くとらえられていた。それから、おかみはなお少し微笑したが、Kのびっくりした顔によってやっとある程度目ざめさせられたのだった。まるで彼女は自分の微笑に対する返事を待っていたのだが、その返事がこないのでやっと今、目がさめた、といわんばかりだった。



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