「あなたは、きのうだったと思うけど、わたしの服のことについて何かいうなんて厚かましいことをやりましたっけね」
Kは思い出すことができなかった。
「思い出せないのね? 厚かましさがあとでは臆病になるっていうわけね」
Kは、きのうは疲れていたのだ、と弁解した。きのう自分が何かつまらぬおしゃべりをしたということは十分にありうることだが、ともかくも今はもう思い出すことができない。いったい、おかみさんの服についてどんなことをいうことができたのだろうか。その服は自分がこれまでに見たこともないほど、きれいだというのに。少なくとも自分はまだどこかのおかみさんがこんな服を着て働いているのを見たことがない。
「そんなことをいうのはやめなさい!」と、おかみは早口にいった。「わたしはあなたの口からもう一ことだって服について聞きたくはないのよ。あなたはわたしの服について心配してくれる必要なんかありません。そんなことは永久に禁じます」
Kはもう一度お辞儀をして、ドアのところへいった。
「いったい、どういう意味なの」と、おかみは彼のうしろから叫んだ。「どこかのおかみさんがこんな服を着て働いているのを見たことがない、って? そんな意味のない言葉が何になるんです? まったく意味がないことですよ。いったい、どういうつもりでいったんです?」
Kは振り向いて、どうか興奮しないでくれ、と頼んだ。もちろん、そんな言葉は意味がない。それに自分は服のことなんか全然わからないときている。自分のような境遇にある者は、つぎのない清潔な服であれば、なんだってりっぱに見える。自分が驚いたのは、ただ、おかみさんが、あそこの廊下に、夜なか、ほとんど服を着ていないあらゆる男たちのあいだに、あんなに美しい夜会服を着て現われたというだけのことで、それ以上のことではないのだ。
「それじゃあ」と、おかみはいった。「やっとあなたはきのうの自分の言葉を思い出したらしいわね。そして、それに余計なばかばかしいことをいいたしたのね。あなたが服のことなんか全然わからない、ってことはそのとおりですよ。それならば、余計なことをいうのはやめて下さいな。――そのことはわたしがあなたに本気で頼んだじゃありませんか――りっぱな服だとか、似合わない夜会服だとか、なにやかやと、品さだめなんかして……いったい……」ここで、彼女には悪寒(おかん)がしたようだった、「あなたはわたしの服について少しだって世話なんかやくべきではないんですよ。いいですか?」
そして、Kが黙ってまた向きなおろうとしたとき、こうたずねた。
「いったい、あなたはどこから服の知識なんか仕入れたんです?」
Kは肩をすぼめて、自分はそんな知識なんかもっていない、ということを示した。
「あなたはそんな知識をもってはいません」と、おかみはいった。「でも、厚かましくもそんな知識をもっているような顔をするもんじゃありません。下の帳場へいらっしゃい。見せてあげるものがあります。そうすれば、あなたはそんな厚かましい真似はおそらく永久にやらなくなるでしょうからね」
おかみは先に立ってドアを出ていった。ペーピーがKから勘定をもらうという口実でKのところへ跳んできた。二人は急いで申し合わせた。Kが内庭を知っているので、話は簡単だった。内庭の門はわきの道へ通じていて、門のそばに小さなくぐり戸がある。そのうしろにペーピーはおよそ一時間ぐらいあとになったら立っていて、三度ノックしたら開ける、という取りきめだった。
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