フランツ・カフカ 城 (16〜20章)


「私がおわかりにならないんですか」と、男がたずねた。「あなたの古くからの助手のイェレミーアスですよ」
「そうか」と、Kはいって、すでに背中に隠していた柳の枝を少しだけ引き出した。「でも、君はまったく別人のように見えるね」
「それは、私がひとりっきり[#「ひとりっきり」では底本では「ひとりきりっ」]だからですよ」と、イェレミーアスはいった。
「ひとりでいると、楽しい青春もなくなってしまうんです」
「いったい、アルトゥールはどこにいるんだい?」と、Kはまたたずねた。
「アルトゥールですか?」と、イェレミーアスのほうもたずねてきた。「あのかわいいやつですか? あいつは勤めをやめてしまいました。あなたはわたしたちに対して少しばかり手荒できつかったですからね。気のやさしい者には我慢できなかったんです。あいつは城へ帰って、あなたのことで苦情を申し立てていますよ」
「で、君はどうなんだ?」と、Kはたずねた。
「私は残ることができました」と、イェレミーアスはいった。「アルトゥールが私のかわりにも苦情を申し立てていますんで」
「いったい、君たちはなんについて苦情をいっているんだ?」と、Kがたずねた。
「それは」と、イェレミーアスがいった。「あなたが冗談というものを理解しないということをです。いったい、私たちが何をやったというんです? 少し冗談をいい、少し笑い、少しあなたの婚約者をからかっただけじゃありませんか。そのほかのことは命令でやったんです。ガーラターが私たちをあなたのところへ送ってよこしたとき……」
「ガーラターだって?」と、Kはたずねた。
「そうです、ガーラターです」と、イェレミーアスはいった。「あのころちょうどクラムの代理をしていたんです。あの人が私たちをあなたのところへ送ってよこしたときに、こういいました。――私はその言葉をはっきりおぼえておきました。何しろそれを引合いに出せるくらいですからね――『君たちは測量技師の助手としていくんだ』そこで、私たちはこういいました。『でも、そんな仕事のことはさっぱりわかりません』すると、ガーラターは、『それはたいしたことじゃない。必要となれば、あの男がそれを教えてくれるだろう。ところで、いちばん大切なことは、君たちがあの男を少し朗らかにしてやることだ。私が報告を受けているところによると、あの男は万事をひどくむずかしく取るらしい。あの男は今、村へやってきたのだが、それがたちまちあの男にとっては大きな事件なのだ、実際そんなことは全然なんでもないことなのだが。君たちはそのことをあの男に教えてやらなければいけない』って、いいました」
「で」と、Kはいった。「ガーラターのいうことはもっともだったかね? そして、君たちはその命令を実行したのかね?」
「それはわかりません」と、イェレミーアスがいった。「こんなに短いあいだではできるはずがありませんでしたよ。私が知っていることはただ、あなたがとても乱暴だったということだけで、そのことで私たちは苦情をいっているんです。でも、ただの使用人にすぎず、けっして城の使用人ではないあなたが、こうした勤めがつらい仕事であって、あなたがなさったように勝手気ままに、そしてほとんど子供じみたやりかたで、働く者の仕事をむずかしくすることがどんなに不正なことか、をどうして見抜けないのか、私にはうなずけないんですよ。こんな分別のないやりかたによって、あなたは私たちを格子塀のところで凍(こご)えさせたり、毒を含んだ言葉をたった一ついわれただけで何日でも傷めつけられるような人間であるアルトゥールを、拳でふとんの上にほとんどのしてしまったり、あるいは私をきょうの午後、雪のなかをあちこちと追い廻し、そのために私が息をほっとつくのに一時間もかからなければならないようにしてしまったりするんですからね! 私はもう若くはないんですからねえ!」
「イェレミーアス」と、Kはいった。「そういうことはみんな、君のいうのがもっともだよ。ただ、君はそれをガーラターにもち出すべきなんだよ。あの男は君たちを自分の意志で送ってよこしたんだし、私があの男に頼んで君たちを助手としてもらったわけじゃないんだからね。それに、私は君たちのことを要求したんじゃないから、君たちをまた送り返すことだってできたんだ。私は力ずくなんかよりむしろおだやかにそれをやりとげたかったんだけれど、君たちはどうも力ずくでやられることを望んだようだね。ところで、君たちが私のところへやってきたときに、なぜ今のように率直にものをいわなかったんだね?」
「私は勤務に服していたからですよ」と、イェレミーアスはいった。「それは当然すぎることですよ」
「で、君はもう勤務についていないわけかね?」と、Kはたずねた。
「今はもうついていません」と、イェレミーアスはいった。「アルトゥールは城で勤務をやめたいと申し出たんです。あるいは少なくとも手続きが進行中で、その手続きは私たちを勤務から解放してくれるはずなんです」
「でも、君はまるで今もまだ勤務中のように私のことを探しているじゃないかね」と、Kはいった。
「いえ」と、イェレミーアスはいった。「私があなたを探しているのは、ただフリーダをなだめるためなんです。つまり、あなたがバルナバスのところの娘たちのためにフリーダを置き去りにしたとき、あの子はとても悲しがっていました。あなたを失ったというよりも、あなたの裏切りのためです。とはいってもあの子はすでにずっと前からこうなるだろうということを見抜いていて、前から大いにそのために苦しんでいました。私はちょうどそのときまた学校の窓のところへいって、あなたがおそらくもっと分別ある態度にもどったかどうかを見にいきました。ところが、あなたはあそこにはいないで、フリーダだけが生徒用の長椅子に坐って、泣いていました。そこで私はあの子のところにいき、意気投合したんです。もう万事をやってのけましたよ。私は紳士荘で客室つきのボーイです。少なくとも私の件が城で片づかないうちはこれが私の役目です。そして、フリーダはまた酒場へいっています。あなたの奥さんになるなんていうのは、あの子にとって分別あることじゃありませんでした。あなたも、あの子があなたに払おうとした犠牲を評価することを知らなかったんですからねえ。ところが、あの気のいい子は今でもときどき、あなたに何かひどいことが起こらないだろうか、あなたはおそらくバルナバスの一家のところへいかなかったんじゃないか、なんて心配していますよ。もちろん、あなたがどこにいたかということについては疑いの余地なんか全然ありえなかったんですが、それを今度だけはたしかめるために私はやってきたんです。というのは、いろいろ興奮したあとで、フリーダはもう落ちついて眠るのが当然ですからね。もっとも私だってそうですけれどね。そこで私はやってきたんですが、あなたを見つけたばかりでなく、ついでにまた、あの女たちがまるで紐(ひも)に引かれるようにあなたの言いなりになっているのを見ることができたっていうわけです。ことにあの色の黒い、ほんとうの野良猫といっていいやつが、あなたのために力を入れていましたね。ところで、人にはそれぞれ独特の趣味というものがありますからね。ともかく、あなたが隣りの家の庭を通って廻り道をする必要なんか全然なかったんです。私はあの道を知っていますんでね」
 これで、予想できたこと、しかし妨げることができなかったことが、とうとう起ったわけだった。フリーダは彼を見捨てたのだ。まだ何も決定的なことであるはずはない。そんなに事情が悪いわけじゃないのだ。フリーダは取りもどすことができるのだ。彼女は見知らぬ男たちによっても、こんな助手たちによってさえも、たやすく影響を受けるのだ。こいつらはフリーダの立場を自分たちの置かれた立場と似たものと考えて、自分たちがやめることを申し出た今、フリーダにもそうするようにしむけたのだ。だが、Kはただ彼女の前に歩み出て、自分にとって有利ないっさいのことを彼女に思い出させさえすればいいのだ。そうすれば、彼女はまた後悔して自分のものとなるだろう。ことに、あの娘たちを訪ねたということを、あの娘たちに負うている成功というもので正当化することでもできさえすれば、いよいよそうだ。しかし、こうしたことを考えてフリーダのことで気をしずめようと思っても、彼は心が安まらなかった。ついさっきも、彼はオルガに対してフリーダのことを自慢し、彼女を自分のただ一つの支えと呼んだのだった。ところが、今はこの支えもそれほどしっかりしたものではなく、Kからフリーダを奪うためには、力強い男の干渉などは必要でなく、このたいして食欲をそそりもしない食べもの、ときどきほんとうにいきいきとしてはいないような印象を与える肉の塊りといったやつで十分なのだった。



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