フランツ・カフカ 城 (16〜20章)


 イェレミーアスはすでに遠ざかり始めていた。Kは彼を呼びもどした。
「イェレミーアス」と、Kはいった。「私は君に対してまったく率直になろうと思うが、君のほうも正直に一つ答えてくれたまえ。実際、私と君とはもう主従の関係にはないので、君がそのことをよろこんでいるばかりでなく、私もよろこんでいるんだ。だから、私たちはたがいに嘘をいい合う理由なんか一つだってない。君の眼の前のここで、君のために使うことにきまっていたこの鞭を折るよ。というのは、私は君に対する不安の気持から庭を通る道を選んだんじゃなくて、君をおどかし、二、三度、鞭を君にめがけて打ってやろうと思ったためだ。ところで、このことでもう私を悪く取らないでくれたまえ。もう万事はすんでしまったんだからね。もし君が役所から無理に押しつけられた従僕でなく、ただ一人の知合いにすぎないのであったら、私たちはきっとすばらしく仲がよかったことだろう。もっとも君の外見はときどきぼくの気にさわったろうがね。で、私たちがこの点で取り逃がしていたものを、今、遅ればせながら取りもどせるわけだよ」
「そう思いますか」と、助手はいって、あくびをしながら疲れた両眼を押えた。「私はあなたに事情をもっとくわしく説明できるんですが、暇がありませんからね。私はフリーダのところへいかなきゃなりません。あの子は私を待っています。まだ勤めを始めてはいないんです。あそこの亭主は私の説得で――あの子はおそらくすべてを忘れようとしてなんでしょうが、すぐ仕事へ飛びこもうとしましたが――ちょっと休養期間をあの子にくれました。そのあいだは少なくともいっしょに過ごしたいと思うんです。あなたの提案についていうと、何も私はあなたをだますいわれなんかたしかにもっていませんが、かといってあなたを信用するいわれももってはいません。つまり、私とあなたとでは事情がちがうわけです。私があなたに対して仕える関係にあったときには、あなたは私にとってはもちろんとても重要な人物だったわけですが、それは何もあなた自身がもっている性質のためじゃなくて、勤めの命令のためだったんです。あのときには、あなたの欲することをなんでもあなたのためにやったでしょうが、今ではあなたは私にとってどうでもいい人です。鞭を折ったことだって、私の心を動かしたりなんかしませんね。それで思い出すことといえば、ただ、私がなんて乱暴な主人をもっていたか、ということぐらいのもんで、そんなものは私の心をつかむのには適当じゃありませんね」
「君は私に対して」と、Kはいった。「まるで二度ともう私を恐れる必要はない、と確信しているようじゃないか。でも、ほんとうはそうはいかないんだよ。君はおそらくまだ私からそれほど自由じゃないんだ。事の決着というものは、この土地ではそんなに早くはつかないんだ……」
「ときとしては、もっと早くつくことがありますよ」と、イェレミーアスが異論をはさんだ。
「ときどきはね」と、Kはいった。「けれど、今の場合にそうなるなんていうことは、何一つ暗示なんかしていないよ。少なくとも君も私も文書の上の解決をまだ手に入れてはいないんだからな。つまり、手続きはやっと始ったばかりで、私は私のいろいろなつながりを通じてそれに手を出すことはまだしてはいないけれど、これから、そうするだろうよ。もしその結果が君にとって都合が悪いものになれば、君は自分の主人にかわいがられるような準備があまりできてはいないということになるんだ。そして、柳の枝の鞭を折るということも、おそらく余計なことだったんだな。そして、君はフリーダをつれ出して、そのことをひどく得意がっているね。でも、私は君という人間にいくら敬意を抱いていても――敬意は私ももっているよ。どうも君は私に対してはもう敬意なんかもっていないようだけれどね――私がフリーダに一こと二こといってやれば、それで君があの子をひっかけた嘘の皮をはぐのに十分なんだ。そして、嘘だけがフリーダを私から引き離すことができたにちがいないんだ」
「そんなおどかしにはびっくりはしませんよ」と、イェレミーアスがいう。「あなたは私を助手にもちたいなんて全然思っていないんです。あなたは助手としての私を恐れているんです。あなたはおよそ助手というものを恐れているんですよ。ただ恐れからあの善良なアルトゥールのことをぶったんです」
「おそらくそうだろう」と、Kはいった。「それだからといって、痛みが少なくなったのかね? おそらく私はこれからもこんなふうにして君に対する恐れをしょっちゅう見せつけてやることができるだろうよ。君には助手の役目がうれしくないことは、私にもわかっているが、君を無理に助手にしておくことが、あらゆる恐れなんか通り越してまた私にいちばんの楽しみなんだよ。しかも、今度は、アルトゥールなしで、君だけを手に入れることが私の仕事となるわけだ。そうなれば私は君にもっと注意を向けることができようからね」
「あなたは」と、イェレミーアスがいった。「そうしたすべてをほんの少しでも私が恐れていると思うんですかい?」
「思っているとも」と、Kはいった。「君はたしかに少しばかり恐れてはいるけれど、もし君がりこうだったら、大いに恐れることだろうさ。いったい、君はもうフリーダのところへいかないのかね? どうだ、君はあの子が好きなのか?」
「好きか、ですって?」と、イェレミーアスはいった。「あの子は気のいい、りこうな娘ですし、クラムのかつての恋人です。だから、ともかく尊敬すべきものです。そして、もしあの子が、あなたから自由にしてくれるようにって私にたえず頼むときには、どうして私があの子に親切にしてやっていけないんですかね? ことに、私はそのことによってあなたに対しても少しだって苦しみを与えるようなことはないんですからね。あなたはあの呪わしいバルナバスのところの女どもを相手にしてお楽しみだったんですからね」
「その言葉で君の不安がわかるよ」と、Kはいった。「まったくみじめな不安というもんだ。君は嘘をついて私をひっかけようとしているな。フリーダはただ一つのことだけを頼んでいたのだ。さかりのついた犬みたいに狂暴になった助手たちから自分を自由にしてくれということだったんだ。残念なことに、私にはあの子の頼みを完全にかなえてやる暇がなかった。そこで今、私の怠慢の結果がいろいろ現われたんだ」
「測量技師さん、測量技師さん!」と、だれかが通りの上を叫んできた。バルナバスだった。彼は息せききって彼のところまでやってきたが、Kの前でお辞儀をすることを忘れなかった。
「うまくいきました」と、彼はいった。
「何がうまくいったんだい?」と、Kはたずねた。「君は私の請願をクラムにもっていってくれたんだろうね?」
「それはだめでした」と、バルナバスはいった。「とても骨折ってみたんですが、それは私にはできませんでした。私は出しゃばっていき、命じられないのに、机のすぐ近くのところに一日じゅう突っ立っていました。それで、私の影になっていた一人の書記は一度、私のことを押しのけたくらいです。クラムが眼を上げると、こんなことをするのは禁じられているんですが、私は手を挙げて自分のいることを知らせました。私はできるだけ長く事務局に残って、そこで従僕たちとだけになりました。もう一度だけ、クラムがもどってくるのを見てよろこびました。だが、それは私のためにではなく、ただ急いで一冊の本を調べようとしたのでした。そして、すぐまたいってしまいました。私がまだ動こうともしないものですから、ほとんど箒(ほうき)で掃き出すようにして従僕が私をドアから掃き出しました。私がいっさいのことを打ち明けて申し上げるのは、あなたがまた私の仕事ぶりに不満をもたれないようにというためなんです」
「君の勤勉さも私にはなんの役に立つだろう、バルナバス」と、Kはいった。「もし成果が全然ないのならね」
「でも成果があったんです」と、バルナバスがいった。「私が私の事務局から出たとき――私はあの部屋を私の事務局と呼んでいるんです――奥のほうの廊下から一人の紳士がゆっくりと出てきました。そのほかには人影が見えませんでした。もうとても遅くなっていました。私はその人を待とうと決心しました。あそこにまだ残るためのいい機会でした。あなたに悪い報告をもってこなければならぬようなことのないため、私はほんとうはおよそあそこに残っていたくなかったくらいです。でも、そのほかに、その紳士を待ったかいはありました。それはエルランガーでした。あの人をご存じありませんか? あの人はクラムの第一秘書の一人です。弱そうな小柄な人で、少しびっこをひいています。あの人はすぐ私がわかりました。記憶がいいことと人間をよく知っていることとで有名な人で、ただ眉毛をよせるだけで、どんな人間でも見わけがつくのに十分なんです。しばしば、一度も会ったことがなく、ただ何かで読んだり人から聞いたりしただけの人びとでも見わけられるのです。たとえばこの私のこともあの人はほとんど一度だって見たことがないはずです。でも、あの人はどんな人間でもすぐ見わけますけれども、もし確信がもてないとなると、まずたずねます。『君はバルナバスじゃないかね?』と、あの人は私にいいました。それからたずねるのです。『君は土地測量技師を知っているね?』そして、こういいました。『それはいい。私はこれから紳士荘へいく。測量技師にあそこへ私を訪ねてきてもらいたい。私は第十五号室に泊っている。ともかく、あの男は今すぐこなければならない。私はあそこでただいくらか話合いがあるだけで、朝の五時にはまた城へもどるんだから。あの男と話すことは私にはとても重要なんだといってくれたまえ』」
 突然、イェレミーアスが走り出した。興奮のあまりそれまで彼に全然気づかなかったバルナバスが、Kにたずねた。
「いったい、イェレミーアスはどうしようっていうんです?」と、たずねた。
「私よりも先にエルランガーのところへ着こうっていうんだよ」と、Kはいうと、もうイェレミーアスのあとを追いかけ、彼をひっつかまえ、彼の腕にすがって、いった。
「君の心を突然捉えたのは、フリーダに恋いこがれる気持かね? 私だってその気持では君に劣らないよ。だから、足並みをそろえていこうじゃないか」







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