ファウスト ゲーテ(下巻)







  宮殿



広き遊苑。真直に穿(うが)ちたる大溝渠(こうきょ)
老いさらぼひたるファウスト沈思しつゝ歩めり。



  望楼守リンケウス


(通話筒にて話す。)

日は入り掛かる。
遅れた舟が面白げに港に這入って行く。
大きな舟が一艘、
掘割(ほりわり)をこちらへ来掛かっている。
(いろど)った旗が心地好く靡(なび)いて、
強い檣(ほばしら)がいつでも用に立つように聳えている。
お前に乗り込んでいる船長は嬉しい事だろう。
(ふく)がお前を待ち兼ねているだろう。

(沙原(すなはら)にて撞く鐘の声す。)



  ファウスト


(耳を欹(そばだ)つ。)

また咀(のろ)われた鐘の音(ね)がする。
不意に矢を射掛けるように、ひどく己を傷(きずつ)けおる。
目の前には己の領地が果(はて)もなく横わっているのに、
背後(うしろ)からは懊悩(おうのう)が己を揶揄(からか)う。
物妬(ものねたみ)の声がこんな事を思い出させる。
己の立派な領地は不浄だ。
あの菩提樹の岡、茶いろの家、朽ちそうになった、あの寺は
己のではないと思い出させる。
保養にあそこへ行って見ようと思うと、
余所々々しい影が己に身顫(みぶるい)をさせる。
あれは目に刺された刺(とげ)、足の蹠(うら)の刺(とげ)だ。
ああ。こんな所にはもういたくない。


  望楼守(同上。)

あの彩った舟が、
爽かな夕風に気持好く帆を揚げて近寄ること。
どんなにか堆(うずたか)く、大箱、小箱、嚢などを積み上げて、
急いで持って来るだろう。

外国の産物を、豊富に、雑駁に積みたる華麗なる舟。
メフィストフェレス。三人の有力者。



  合唱の群

それ、陸揚(りくあげ)だ。
それ、もう著いた。
わが保護者に、
わが主(しゅ)に幸(さいわい)あれ。

(陸に上りて、荷を陸に運ぶ。)



  メフィストフェレス

これで運験(うんだめし)をしたと云うものだ。
檀那さえ褒めてくれれば、万歳だ。
たった二艘の舟で出て、
二十艘にして港へ帰った。
大した為事(しごと)をしたと云うことは、
積荷を見れば分かるのだ。
自由な海は人の心を解放する。
思案なんぞを誰がしているものか。
なんでも手ばしこく攫(つか)むに限る。
肴も捕(と)れば舟も捕る。
舟三艘の頭(かしら)になると、
四艘目の舟も、鉤索で引き寄せる。
お気の毒だが、五艘目も助からない。
暴力のある所に正義は帰する。何を持っているかが問題だ。
どうして取ったかは問題にならぬ。
舟軍(ふないくさ)と貿易と海賊の為事(しごと)とは、
分けることの出来ない三一同体だと云うのが嘘(うそ)なら、
己は航海業の白人(しろうと)だ。


  三人の有力者

礼も言わねば挨拶もせぬ。
挨拶もせねば礼も言わぬ。
檀那に臭い物でも
持って来て上げたようだ。
檀那は厭(いや)
顔をなさる。
王者の獲(えもの)
お気には入らない。


  メフィストフェレス

此上御褒美を貰おうと
思っているなら、間違だ。
てんでに取るだけの物は
取っているじゃないか。


  有力者

あれはその折々の
退屈凌ぎだ。
割前は平等にして、
もらわなくては。


  メフィストフェレス

何より先に
宝物(たからもの)
(うえ)の座敷々々に
並べるのだ。
そこで檀那が数々の品物を、
お出になって御覧になって、
そこで一々何もかも
精しく当って見なさるが、
なかなかごまかさせては
お置(おき)なさらぬ。
さてその上で乗組員に
御馳走は何度もあるのだ。
五色の鳥はあした来る。
その世話は己がしっかり引き受ける。

(荷物を運び去る。)



  メフィストフェレス(ファウストに。)

あなたは顔を蹙(しか)めて、陰気な目をして、
(すぐ)れた好運の話をお聴取(ききとり)になりますね。
雄大な智謀が功を奏して、
岸と海との和親は成就した。
岸を離れる舟を、海は喜んで引受けて、
脚早く遠方へ持って行く。
ここにいる、この御殿にいる、あなたの手が
全世界を抱擁しておいでになると仰ゃっても好(い)い。
最初手を著けたのはこの場所でした。
ここに始て小屋掛をしました。
そしてあの時溝を掘った所に、
今は忙しいろが波を切っています。
あなたの智略と、御家隷(けらい)の骨折とで、
水と土(つち)との利を収めたのです。
丁度ここから。


  ファウスト

そのここが咀(のろ)われている。

それがひどく己を悩ましているのだ。
気の利いたお前に己は打明けるが、
それが己の胸を断えず刺して、
もう辛抱が出来なくなった。
どうも口に出すのも恥かしい事だ。
実はあの岡の上にいる爺婆(じじばば)を逐い除けて、
あの菩提樹の蔭に己は住みたい。
あの何本かの木が我物でないのが、
世界を我物にしている己の興を損ずる。
己はあそこから四方を見渡されるように、
枝から枝へ足場を掛けさせ、
十分に展望の利くようにして、
己のしただけの事を見渡し、
土着した人民共の安堵するように、
賢く政治をして遣りながら、
未曾有の人為の大功を
一目に眺めていたいのだ。
富を得ていながら、闕けた事を思う程、
苦しい事は世間にない。
あの鐘を聞き、菩提樹の花を嗅げば、
寺の中か、墓の中にいるような気がする。
物毎に自由になる威勢が
あそこの砂に挫かれる。
どうしたらこれを気に掛けずにいられよう。
あの鐘が鳴れば、己は気が狂いそうだ。


  メフィストフェレス

そうでしょうとも。そんな気になる事があっては、
面白くなく日をお暮しになるのは当前(あたりまえ)だ。
誰も無理とは云いません。あの鐘の音(おと)は、
誰の上品な耳にも厭に聞えます。
あの咀われた、ぼおん、ぼおんが
晴れた夕空をも曇らせて、
産湯から葬式までの、
あらゆる世間の出来事に交って聞える。
まるで人生と云うものが、ぼおんとぼおんとの間の、
消えてしまった夢のようだ。


  ファウスト

どうも人の片意地と反抗とが
どんな立派な成功をも萎(いじ)けさせるので、
大きい、恐ろしい苦痛の中に、
正義の心さえ倦み疲れてしまうようになるのだ。


  メフィストフェレス

ここでなんの遠慮がいるものですか。
(と)っくの昔新開地へお遣(やり)になっても好かったのだ。


  ファウスト

そんなら往って、あれを立ち退かせてくれい。
爺婆のために己の見立てた、立派な地所は、
お前、前から知っているはずだ。


  メフィストフェレス

なに。そっとさらって行って、据えて置けば、
見返る隙に起き上がっています。
圧制も、受けた跡で、立派な住いを見れば、
我慢が出来るものですよ。

(鋭く口笛を吹く。)
三人の有力者登場。

さあ、来い。殿様の御沙汰がある。
それからあしたは乗組員の宴会だ。


  有力者

随分まずいお待受でした。
御馳走位あっても好(い)い。

(退場。)



  メフィストフェレス


(見物に。)

やっぱりここでも昔あった事がまたあるのです。
ナボトの葡萄山と云うのがありましたっけね。







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