ファウスト ゲーテ(下巻)







  半夜



灰色の女四人登場。



  第一の女

わたしの名は不足だ。


  第二の女



わたしの名は罪だ。



  第三の女

わたしの名は憂だ。


  第四の女

わたしの名は艱(なやみ)だ。



  三人諸共に

戸が締まっていて這入られませんのね。
(なか)には金持がいるから、這入りたくもないわ。


  不足

そんならわたし影になるわ。


  罪



 わたしなんでもなくなるわ。



  艱

奢っている人はわたしに顔を背けるのね。


  憂

お前方(まえがた)は這入られもしないが、這入ってもならないわ。
わたし錠前の穴から這入ってよ。

(憂消え失す。)



  不足

さあ、皆さん、一しょにここを逃げましょうね。


  罪

わたしお前さんの傍に引っ附いて行ってよ。


  艱

わたしお前さんの跡から食っ附いて行ってよ。


  三人諸共に

雲が出て来て、星が隠れたのね。
あの奥の、遠い、遠いところから、
兄弟が来ますのね。あれ、あそこに。兄弟の死(し)が。

(退場。)



  ファウスト(宮殿にて。)

四人来て、三人帰った。
話の意味は分からなかった。
なんだか艱(なやみ)と云うような後声(しりごえ)が聞えて、
その跡から陰気な死(し)と云う詞(ことば)が聞えた。
空洞(うつろ)な、怪物染みた、鈍い声であった。
まだ己は圏(わ)の外(そと)へ遁れずにいるが、
どうぞ己の生涯から魔法を除(の)けて、
呪文(じゅもん)と云うものを綺麗に忘れたいものだ。
そして自然の面前(めんぜん)に男一人になって立ったら、
人間として生きる甲斐があるだろうに。
己も、闇黒の中を探って、傲慢な詞で
身をも世をも咀(のろ)った、あの時までは、男一人であったのだ。
今は怪異があたりの空気に満ちて、
どうして避(よ)けて好いか、分からぬ。よしやある時
昼の日が真面目に、晴やかに笑ってくれても、
(よる)が己を夢の網に捕えてしまう。
心嬉しく新草(にいくさ)の野を見て帰れば、鳥が啼く。
なんと啼くか。凶事と啼きおる。
虚妄の糸が旦暮(あけくれ)この身に纏(まつわ)って、
形が見える。物を告げる。警戒を勧める。
そこで己はいじけて孤立している。
門ががたりと云う。そして誰も這入っては来ぬ。

(竦然として。)

誰かいるのか。


  憂



そのお尋には否(いな)とは申されませぬ。



  ファウスト

そしてお前は誰だ。


  憂



兎に角ここに参っているものです。



  ファウスト

下がれ。


  憂



  いえ。ここはわたくしのいて好(よ)い所です。


  ファウスト


(初め怒り、既にして自ら慰む。)

だがな、用心していろ。呪文なぞを唱えるなよ。


  憂

耳にはわたしの声が聞えなくても、
その方(かた)の胸にはしっかり響きましょう。
これでわたしは色々に姿を変えて、
人を随分こわい目に遇わせますの。
(おか)にいても、海にいても、
心配げなわたしは、いつもお連(つれ)になっています。
誰も来いとは申しませんが、わたしはいつも附いていて、
お世辞(せじ)も言われ、咀われもします。
あなた、憂をまだ御存じなかったの。


  ファウスト

己は世の中を駆けて通った。そしてあらゆる歓楽を、
髪を攫(つか)んで引き寄せるようにした。
意に満たないものは衝き放し、
手を脱(はず)れたものは勝手に逃がし、
ただ望を掛けては、望を遂げ、
また新しく望を掛け、そんな風に勢好く、
生涯を駆け抜けた。初は盛んに、押強(おしつよ)く遣ったが、
今では賢く、落ち著いて遣る。
この世の中はもう知り抜いた。
その埒の外(そと)へ出抜ける当(あて)は無い。
誰にもしろ、目映(まばゆ)そうに上(うえ)を向いて、
天の上に自分のようなものがいると思うのは、馬鹿だ。
それよりしっかり踏み止(と)まって、周囲(まわり)を見ろ。
えらい奴には世界が隠立(かくしだて)はせぬ。
何も永遠の境にさまようには及ばぬ。
自分の認識した事は、手に握ることが出来る。
そうしてこの世で日を送るが好(い)い。
よしや怪物が出ていても、自分は自分の道を行くが好(い)い。
そのゆくてには苦もあろう。楽もあろう。
どうせ、どの刹那にも満足はせぬのだから。


  憂

誰でもわたしが手に入れると、
その方(かた)には世界はなんにもなりませぬ。
永遠の闇が被さって来て、
日が出もせねば入りもせぬ。
目や耳は満足でいながら
心の内には闇が巣を食う。
世の中のどの宝をも
その方(かた)は手に入れることが出来ぬ。
(さいわい)も禍もその折々の気まぐれになって、
有り余る中(なか)で餓えている。
嬉しい事も、つらい事も、
次の日へ送って行(い)く。
よしや向うが見えていても、
物が出来上がると云うことはありません。


  ファウスト

(よ)せ。己はその手は食わぬ。
そんな無意味な事は聞きたくない。
そこを退(の)け。その称言(となえごと)には、どんな賢い男も
(ぼ)かされてしまいそうだ。


  憂

往こうか、来ようか、
決心がその方(かた)には附きません。
(ひら)けている道の途中を、探足(さぐりあし)で、
小股に、よろけながら歩いている。
次第に方角が立たなくなって、
見当(けんとう)が皆間違って来て、
小さくなりながら、人の邪魔になって、
溜息を衝いては、息苦しがる。
息は詰まらぬが、元気も無い。
絶望はせぬが、諦念(あきらめ)も附かない。
こう云う絶間のない経歴(へめぐり)
惜みながら措くこと、嫌いながらすること、
(らく)になったかと思っては、また悩されること、
おちおち寐ないで、気分の直らぬことが
体をその場に釘附にしていて、
地獄に堕ちる支度をさせます。


  ファウスト

咀われた悪霊奴(あくりょうめ)。お前達は人間を、
幾度となく、そんな風に扱うのだ。
当前(あたりまえ)の日をもお前達が、網に罹(かか)ったような煩悩の、
(いや)な混雑にしてしまうのだ。
(れい)の厳(きび)しい結托は引き放しにくくて、
附いた悪霊の退(の)かぬことは、己も知っている。
だが、こりゃ、憂、お前の密(ひそ)かな、強い力をも、
己は認めて遣(つかわ)さぬぞ。


  憂

いえ。わたしがすばやく咀って置いて、
あなたに背中を向けるとき、わたしの力をお験(ためし)下さい。
一体人間は生涯盲(めくら)でいるものです。
そこで、ファウストさん、あなたは盲に今おなりなさい。

(ファウストに息を嘘(ふ)き掛け、退場。)



  ファウスト(失明して。)

夜が次第に更けて来たらしい。
だが心の中には明るい火が赫(かがや)いている。
己の思っただけの事は早くしてしまわんではならぬ。
主人の詞の外に重いものはない。
家隷(けらい)共。一人も残らず、寝牀から起きい。
大胆に己の工夫した事を、面白く己に見せてくれ。
道具を手に持て。鋤鍬を使え。
(き)めた為事(しごと)をすぐしてしまえ。
掟を守って、急いで励めば、
無類の立派な功が立つ。
この大業を完成するには、千本の手を使う
ただ一つの心があれば十分なのだ。







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