新版 放浪記 林芙美子



     第三部



(三月×日)
(からす)が光る

都会の上にも光る

烏が白く光る

花粉の街 電信柱のいただき

ゆれますよ ゆれてるよ

停るところがない

肺が歌う 短い景色の歌なの。

茶色の雨の中を

私は耳をおさえて歩く

耳が痛い 痛いのよ

雨中の烏が光る

もがきながら飛ぶ

(はる)かな荒野の風の夢

肺が歌う 短い景色の歌なの。

私は何故歩くのだろう

烏の命数だ

烏のようにどこかで私は生れた

停るところのない夜

光って飛ぶ

自分が光るのではない

四囲の光線がわっと笑うのだ

私の肺が歌う それだけなの……。

独り住いの猫 独り住いの犬

誰もいない路(みち)の石ころ

露が消える

烏の空 光る烏

(くぎ)を抜くようなすべっこい光

よろめき よろめき 只光る烏

肺が歌う 肺だけが歌うだけなのよ。


 二つの肺の袋だけが私のような気かする。郵便がもどって来たので、ああそうかと思う。

 読売新聞に送った「肺が歌う」と云う詩、清水さんと云うお方が長くて載せられぬと云う手紙だ。花柳病の薬の広告はいやにでっかく出ているけれども、貧乏な女の詩は長くて新聞には載せられないのだ。

 たった八頁の新聞は馬鹿な詩なぞよちがないのだ。

 ピアレスベッドの広告が出ている。私はこんな丈夫な、ハイカラなベッドに一度も寝たことがない。タイガー美人女給募集。白いエプロンをかけて、長い紐(ひも)を蝶々のように背中で結んで、ビールの栓抜きに鈴をつけた洒落(しゃれ)た女給さんが眼に浮ぶ。新聞を見ていると、どろんこの轍(わだち)の中へ、牛の糞(ふん)をにじりつけたような気持ちの悪さになって来る。

 さて、どっこいしょ!

 いやに躯(からだ)が重たいな。バナナのたたき売りが一山十銭。ずるずるにくさりかけたのを食べたせいか躯中に虫がわいたようになる。朝っぱらから、何処(どこ)かで大正琴を無茶苦茶にかきならしている。

 肺が歌うなぞと云う、たわけた詩が金になるとは思わないけれども、それでも、世間には一人位はものずきな人間がありそうなものだ。

 寝床をかたづけて髪結いに行く。

 金鶴香水を一瓶(びん)もつけたような、大柄な女が髪を結ってもらっていた。あんまり匂いがはげしいので、袖で鼻をおさえていたいような気がする。頭が痛くなる。奥では髪結さん一家が、そうがかりで桜の造花つくりの内職だ。眼がさめるようだ。

 もうじき花見なのだ。

 桃割れに結って貰う。安いかもじなので、どうにも工合が悪く、眉も眼尻も吊(つ)りあがるほどだ。二階で、急に、女の声で、「助平だねえッ」と云った。みんなびっくりして、天井をみあげる。
「また昼間っからやってるよ。どったんばったん角力(すもう)ばかりやってンですよ。――なあにね、酔っぱらって、おかみさんをいじめるのが癖なンで……」

 髪結さんがびんまどに、筋槍をつきたてながらくすくす笑っている。みんなも笑った。御亭主は株屋で、細君は牛屋(ぎゅうや)の女中だそうだ。朝から酒を飲んで、寝床をたたんだ事がないと云う夫婦だそうだ。

 白いたけながをかけてもらう。結い賃が三十銭、たけながが二銭、三十五銭払う。

 まるで頭の上は果物籠をのっけたような感じ、十五日ぶりでさっぱりとする。

 肺が歌うがつっかえされたのだから、今度は品をかえて童話を持って行く事にする。

 茅町(かやちょう)から上野へ出て、須田町行きの電車に乗る。埃(ほこり)がして、まるで夕焼みたいな空。何だか生きている事がめんどうくさくなる。黒門町からピエロの赤い服を着たちんどん屋の連中が三人乗り込んで来る。車内はみんなくすくす笑い出した。若いピエロが切符を切って貰っている。青と紅のだんだら縞の繻子(しゅす)の服で、顔だけは化粧をしていないので、なおさら妙だ。

 あんなかっこうをして生きてゆく人もある。日当はいくら位になるのかしら……。私は知らん顔をして窓の外を見ていたけれど、段々、むちゃくちゃになってもいいような気がしてきた。一人位、私と連れ添う男はないものかと思う。

 私を好きだと云うひとは、私と同じようにみんな貧乏だ。風に吹かれる雨戸のようにふわふわしている。それっきりだ。

 銀座へ出て滝山町の朝日新聞に行く。中野秀人と云うひとに逢う。花柳はるみと云う髪を剪(き)ったはいからな女のひとと暮しているひとだと風評にきいていたので、胸がどきどきした。世間のひとと云うものは、なかなかひとの貧乏な事情なぞ判ってはもらえない。詩をそのうち見ていただきますと云って戸外へ出る。

 中野さんの赤いネクタイが綺麗(きれい)だった。

 紹介状も何もない女の詩なんか、どこの新聞社だって迷惑なのだ。銀座通りを歩く。

 広告に出ていたタイガーと云う店があった。並んで松月と云う店もある。みとれるように綺麗なひとがきどった小さい白まえだれをしてのぞいている。胸まであるエプロンはもう流行(はや)らないのかしら。

 砂まじりの強い風が吹いた。

 四丁目で、コック風な男が、通りすがりの人に広告マッチを一つずつくれている。私も貰った。後がえりして二つも貰った。

 ものを書いて金にしようなぞと考えた事が、まるで夢みたいに遠い事に思える。表通りの暮しは、裏通りの生活とはまるきり違うのだ。十銭の牛飯も食えないなんて……。

(三月×日)

 ハイネとはどんな西洋人か知らない。

 甘い詩を書く。

 恋の詩も書く。ドイツのお母さんの詩も書く。そして詩が売れる。生田春月と云うひとはどんなおじさんかな……。ホンヤクと云う事は飯を煮なおして、焼飯にする事かな。ハイネと生田春月はどんなカンケイなのか知らないけれど、本屋の棚にハイネが生れた。ぽつんと立っている。

 私は無政府主義者だ。

 こんなきゅうくつな政冶なんてまっぴらごめんだ。人間と自然がたわむれて、ひねもす生殖のいとなみ……それでよいではございませんか。猫も夜々を哀れにないて歩いている。私もあんなにして男がほしいと云って歩きたい。

 箒(ほうき)で掃きすてるほど男がいる。

 婆羅門(バラモン)大師の半偈(はんげ)の経とやら、はんにゃはらみとは云わないかな……。

 蛆(うじ)が湧(わ)くのだ。私の躯に蛆が湧くのだ。

 朝から水ばかり飲んでいる。盗人にはいる空想をする。どなたさまも戸締りに御用心。いまのところ、私は立派な無政府主義者を自任している。ひどいことをしてみせようと思っている。

 夜。牛めしを食べて、ロート眼薬を買う。

(五月×日)

 夜、牛込の生田長江(ちょうこう)と云うひとをたずねる。

 このひとはらい病だと聞いていたけれど、そんな事はどうでもいい。詩人になりたいと云ったら、何とか筋道をつけてくれるかもしれない。

 私はもう七十銭しか持っていないのだ。

 蒼馬(あおうま)を見たりと云う題をつけて、詩の原稿を持ってゆく。古ぼけた浪人のいるような家だ。電燈が馬鹿にくらい。どんなおばけが出て来るかと思った。

 部屋の隅っこに小さくなっていると、生田氏がすっと奥から出て来た。何の変哲もない大島の光った着物を着ている、痩(や)せた人だった。顔の皮膚がばかにてらてら光っている。

 声の小さい、優しいひとであった。

 何も云わないで、原稿を見ていただきたいと云ったら、いま、すぐには見られないと云う。

 私は七十銭しか持っていないので、躯中がかあと熱くなる。
「どんなひとの詩を読みましたか?」
「はい、ハイネを読みました。ホイットマンも読みました」

 高級な詩を読むと云う事を、云っておかないと悪いような気がした。だけど、本当はハイネもホイットマンも私のこころからは千万里も遠いひとだ。
「プウシュキンは好きです」

 私はいそいで本当の事を云った。

 あなたも御病気で悲惨のきわみだけれど、私も貧乏で、悲惨のきわみなのです。四百四病の病より、貧よりつらいものはないと、うちのおっかさんが口癖に云います。だから、私はころされた大杉栄(さかえ)が好きなのです。

 広い部屋。暗い床の間に切り口の白い本が少し積み重ねてある。シタンの机が一つ。暑くるしいのに障子が閉めてある。傘のない電燈が馬鹿にくらい。

 遠くに離れて坐っているので、生田さんは馬鹿に細っこく見える。四十位のひとだと思う。

 何と云う事もなく、生田春月と云うひとを尋ねるべきだったと思う。婆やさんみたいなひとがお茶を持って来たので、私はがぶりと飲んだ。

 病気のひとをぶじょくしてはいけないと思った。

 詩の原稿をあずけて帰る。

 どうにかなるだろう。どうにもならないでもそれきり。

 上野広小路のビールのイルミネーションが暗い空に泡(あわ)を吹いている。宝丹の広告燈もまばゆい。

 おしる粉一ぱいあがったよのだみ声にさそわれて、五銭のおしる粉を食べた。夜店が賑(にぎ)やかだ。

 水中花、ナフタリンの花、サスペンダー、ロシヤパン、万能大根刻み、玉子の泡立器、古本屋の赤い表紙のクロポトキン、青い表紙の人形の家。ぱらぱらと頁をめくると、松井須磨子の厚化粧の舞台姿の写真が出て来る。

 福神漬屋の酒悦(しゅえつ)の前は黒山のような人だかり。インド人がバナナのたたきうりをしている。

 十三屋の櫛屋(くしや)の前に、艶歌師がヴァイオリンを弾いていた。みどりもふかきはくようの……ほととぎすの歌だ。随分古めかしい歌をうたっている。

 いっとき立ちどまってきく。年増(としま)のいちょうがえしの女がそばに立っていた。昔、佐世保にいた頃、私はこの歌をきいた事がある。誘われるようななつかしさを感じる。

 艶歌師がうたってくれるようないい小説が書きたい。だけど、小説は長ったらしくてめんどうくさい。ルパシカを着て、紐を前で長く結んでいる艶歌師の四角い顔が、文章倶楽部(クラブ)の写真で見た、室生犀星(むろうさいせい)と云うひとに似ている。

 路地をはいってゆくと、湯がえりの階下のおばさんに逢った。おばさんは洗濯物を夜干していた。
「部屋代、何とかして下さいよ。本当に困るンですからね……」

 はいはい、私だって本当に困るンですよ。じっさいのところ、私だって苦労しつづけたのですよと云いたかった。

 明日は玉の井に身売りでもしようかと思う。

(五月×日)

 地虫が鳴いている。

 ぷちぷち音をたてて青葉が萌(も)えてゆくような気がする。夜中だ。おいなりさんを売りに来る。声が近くになり、また遠くなってゆく。狐寿司はうまいだろうな。甘辛い油揚げの中にいっぱいつまった飯、じとじと汁がたれそうなかんぴょうの帯。

 階下ではばくちが始っている。
魚の骨の骨

水流に滴(したた)る岸辺の草

魚の骨の骨

蕨色(わらびいろ)の雲間に浮ぶ灰

今日(こんち)はと河下のあいさつ

(もん)と云う字 女の字

悶は股(また)の中にある

嫋々(じょうじょう)と匂う股の中にある

悶と云う字よ。

魚の骨の骨

弓をひいて奉る一筆

魚の骨の骨

(また)かえってくる情愛

(しゅう)と云う字 その字

天下の人々が口にする

(はらわた)のなかにある

愁いの海に沈む舟よ。

一切無我!

   ○

この街にいろいろな人が集ってくる

飢えによる堕落の人々

萎縮(いしゅく)した顔 病める肉体の渦

下層階級のはきだめ

天皇陛下は狂っておいでになるそうだ

患っているもののみの東京!

一層怖(おそ)ろしい風が吹く

ああ、何処(どこ)から吹く風なのだ!

情事ははびこる かびが生える

美しい思想とか

善良な思想と云うものがない

おびえて暮している

みんな何かにおびえている。

隙間から見える蒼(あお)ざめたる天使

不思議な無限……

神秘なことには陛下は狂っておいでになると云う。

貧弱な行為と汎神論(はんしんろん)者の鍋(なべ)

りくぞくと集ってくる人々

何かを犯しに来る人々の群

街の大時計も狂いはじめた。


(五月×日)

 雨。

 ユーゴーの惨めな人々を読む。

 ナポレオンは英雄で、ワーテルローの背景をすぐ眼に浮べるほど立派なおかたと思っていたのだけれど、共和制をくつがえして、ナポレオン帝国をたてた矛盾が、変に気にかかって来る。こうした世の中で、たった一片のパンを盗んだ男が十九年も牢(ろう)へはいっている事も妙だ。

 たった一片のパンで、十九年の牢獄生活に耐えてゆく、人間も人間。世の中も世の中なりか。

 駄菓子屋へ行って一銭の飴玉(あめだま)を五ツ買って来る。

 鏡を見る。愛らしいのだが、どうにもならぬ。

 急に油をつけて髪をかきつけてみる。十日あまりも髪を結わないので、頭の地肌がのぼせて仕方がない。

 脚がずくずくにふくらんできた。穴があく。麦飯をどっさりたべるといい。どっさり食べると云う事が問題だ。どっさりとね……。

 ナポレオンのような戦術家が生れて、どいつにもこいつにも十年以上の牢獄を与える。人民はまるでそろばん玉みたいだ。不幸な国よ。朝から晩まで食べる事ばかり考えている事も悲しい生き方だ。いったい、私は誰なの? 何なのさ。どうして生きて動いているんだろう。

 うで玉子飛んで来い。

 あんこの鯛焼(たいや)き飛んで来い。

 苺(いちご)のジャムパン飛んで来い。

 蓬莱軒(ほうらいけん)のシナそば飛んで来い。

 ああ、そばやのゆで汁でもただ飲みして来ようか。ユーゴー氏を売る事にきめる。五十銭もむつかしいだろう……。

 良心に必要なだけの満足を汲(く)み取りか、食慾に必要なだけの金を工面して生きてゆくことにも閉口トンシュでございます。

 ナポレオン帝政下の天才について。

 或る薬屋が軍隊のために、ボール紙の靴底を発明し、それを革として売出して四十万リーブルの年金を得たのだそうだ。或る僧侶(そうりょ)が、只、鼻声だと云うために大司教となり、行商人が金貸しの女と結婚して、七八百万の金を産ませた。十九世紀のさなかにある、フランスの修道院は、日に向っている梟(ふくろう)に過ぎないなんて……三度の革命を経てパリーはまた喜劇のむしかえし。

 私は今日はこれから、この偉大なユーゴーの「みぜらぶる」と別れなければならない。

 天才とは……ちっぽけな日本にはございません。気違いがいるだけ。だあれも、天才なんて見たことがない。天才とはぜいたく品みたいなものだ。日本人は狂人ばかりを見馴れて葬ることしか出来ない。

 おいたわしや、気が狂ったと云う陛下も、本当は天才なのかもしれない。くるくるとおちょくごをお巻きになって、眼鏡にして臣下をごらんになったと云う伝説ごとだけれど、哀れな陛下よ。あなたは哀(かな)しいばかりに正直な天才です。

 終日雨なり。飴玉と板昆布(いたこんぶ)で露命をつなぐ。

(五月×日)

 蒼馬を見たりを生田氏より送りかえして貰う。日光にさらす。陽にあたると、紙はすぐくるりと弾(は)ねあがる。

 詩は死に通じると云うところでしょうね。ええ御返事がないところはひきょうみれん……。
「少女」と云う雑誌から三円の稿料を送って来る。半年も前に持ちこんだ原稿が十枚、題は豆を送る駅の駅長さん。一枚三十銭も貰えるなんて、私は世界一のお金持ちになったような気がした。――詩集なぞ誰だってみむきもしない。

 間代二円入れておく。

 おばさんは急に、にこにこしている。手紙が来て判を押すと云う事はお祭のように重大だ。三文判の効用。生きていることもまんざらではない。

 急にせっせと童話を書く。

 みかん箱に新聞紙を張りつけて、風呂敷を鋲(びょう)でとめたの。箱の中にはインクもユーゴー様も土鍋も魚も同居。あいなめ一尾買う。米一升買う。風呂にもはいる。

 豚の王様、紅(あか)い靴、どっちも六枚ずつ。風呂あがりのせいか、安福せっけんの匂いが、肌にぷんぷん匂う。何と云う事もなく、せっけんの匂いをかいでいたら、フランスと云う国へ行ってみたいなと思う。

 日本よりは住み心地のいいところではないかしら……。夢にみるほど恋いこがれてみたところで仕方がない。猫が汽車に乗りたいと思うようなものだ。

 私のペンは不思議なペン。

 私は地図のようなものを書いてみる。まず、朝鮮まで渡って、それから、一日に三里ずつ歩けば、何日目には巴里(パリー)に着くだろう。その間、飲まず食わずではいられないから、私は働きながら行かなければならない。

 一寸(ちょっと)疲れて来る。

 夜、あいなめを焼いて久しぶりに御飯をたべる。涙があふれる。平和な気持ちになった。

(五月×日)
なまぐさい風が吹く

緑が萌え立つ

夜明のしらしらとした往来が

石油色に光っている

森閑とした五月の朝。

多くの夢が煙立つ

頭蓋骨(ずがいこつ)が笑う

囚人も役人も 恋びとも

地獄の門へは同じ道づれ

みんな苛(いじ)めあうがいい

責めあうがいい

自然が人間の生活をきめてくれるのよ

ねえ そうなんでしょう?


 夢の中で、わけもわからぬひとに逢う。宿屋の寝床で白いシーツの上に、頭蓋骨の男が寝ている。私をみるなり手をひっぱる。私はちっとも怖わがらないで、そばへ行って横になった。私は、なまめかしくさえしている。

 眼がさめてから厭(いや)な気持ちだった。

 寝床の中で詩を書く。

 納豆売りのおばさんが通る。あわてて納豆売りのおばさんを二階から呼びとめて、階下へ降りてゆくと、雨あがりのせいか、ぱあっと石油色に道が光っている。まだあまり起きている家もない。雀だけが忙(せ)わしそうに石油色の道におりて遊んでいる。何処からか、鳩も来ている。栗の花が激しく匂う。

 納豆に辛子をそえて貰う。

 私はこのごろ、もう自分の事だけしか考えない。家族のある、あたたかい家庭と云うものは、何万里もさきの事だ。

 こころのなかで、ひそかに、私は神様を憎悪する。こころやすく死んでしまいたいと唇(くち)にするような女がいる。それが私だ。本当に死にたいなんて考えないのだけれど、私はまるで、兎がひとねむりするみたいに、死にたいと云うことをこころやすく云ってみる。それで、何となく気が済むのだ。気が済むと云う事は一番金のかからない愉しみだ。

 死ぬと云えば、すぐ哀しくなってきて、何となくやりきれなくなる。

 何でも出来るような気がしてくる。勇気で頭が風船のようにふくらんで来る。

 昼から万朝報に行く。

 まだ係りのひとが来ていないと云うので、社の前の小さいミルクホールで牛乳を一杯飲む。人力車が行く。自動車が行く。自転車が行く。お昼なので、赤い塗りの箱を山のように肩にかついで、そばやが行く。かあっと照りつける往来を見ていると、肺が歌うなぞと云う詩を持ちあるいている自分が厭になって来た。誰も知らないところで、一人でもがいている必要はない。第一、大した駄作で、いまどき、肺のことなぞ誰も考えているものか……。空気を吸うことなぞどうでもいいのだ。

 ああ、金さえあれば、千頁の詩集を出版してやりたい。友達もない、金もない、只、亀の子のように、のこのこ日向(ひなた)を歩きまわっている。まるで私は乞食のような哀れさだ。だれもめぐんでなんかくれない。洟(はな)もひっかけやしない。ああ、わっと云うような景色のなかからお札は降って来ないかな。千頁の詩集を出してやる! 題は男の骨、もっとむざんな題でもいい。

 名もない女の詩なぞ買ってもらわなくてもいい。いまに千頁の詩集を出版しましょう。まるで仏壇のような金ピカ詩集! でこんでこんに塗りたくって、美しい絵を入れて、もう一つおまけに、詩集用のオルゴオルもつけてね、まず、きれいな音の中から、詩が飛び出して来るやつ……奇想天外詩集と云うものを出したい。どこかに、色気の深い金持ちの紳士はいないものかしら。千貢の詩集を出してくれれば、私は裸になってさかだちをしてみせてもいい。

 私はいつも、新聞社のかえり、悲しくなる。広い沙漠に迷いこんだみたいに頼りどころがないのだ。ぴゅうぴゅうと風の吹くなかを、私一人が歩いているような気がする。

 鬼でもいいから逢いたいものだ。慄(ふる)えてくる。歩きながら泣いている。涙と云うものは妙なものだ。ただの水、なまぬるい水、ぞっこん心がしびれてくる水、人の情のようになぐさめてくれる水、誇張の水、歩きながら泣くのはまことに工合がいい。風がすぐ乾かしてくれる。ハンカチもいらない。袂(たもと)も汚れない。

 鍋町の文房具屋でハトロンの封筒も買って、郵便局で封を書いて、肺は歌うを朝日新聞に送る。何とかなるだろうと云う空想だけの勇気だ。

 泣きながら歩いたので頬がつっぱるような気がする。匂いのいい文学的なクリームと云うやつはないかな。長い事、クリームもおしろいも塗った事がない。

 果物屋は桜んぼうの出さかり、皿に盛って金十銭。

 浅草に行く。

 やたらに食物店ばかりが眼につく。ひょうたん池のところで、茄(う)で玉子を二つ買って食べる。ハムスンの飢えと云う小説を思い出した。昼間からついているイルミネーションと楽隊、色さまざまなのぼりの賑(にぎ)わい。三館共通十銭也で、オペラに、活動に、浪花節(なにわぶし)。ここだけは大入満員のセイキョウだ。

 私は急に役者になりたいと思った。

 白いマントを着たイヴァン・モジュウヒン。なかなかよい男だ。泥絵具で、少々、イヴァン・モジュウヒンはにやけている。活動は久しくみた事がない。

 玉子のげっぷが出る。

 郵便局から出した詩はまだとどかないだろう。取りかえしに行きたくなった。詩を書くと云う事が、人生に何の必要があるのだろう……。早くかたづきそうらえ。何も云う事これなく候。ぽおっといつまでも明るい空。私は夜が好きだ。私は夜のように早く年をとりたい。早く三十になりたい。葬儀屋の女房になって、線香くさい飯を食うようになっているかもしれない。それとも、私は貧乏な外科医の若い学生と同棲(どうせい)して、もう生きたまま解剖してもらってもいい。私はねえ、この世が辛くなってしまったのよ。腹のなかを十文字に割って腸をつかみ出したら、蛆が行列していたって。私はどうせ、どぶのなかから誕生したのです。哀れまれる事はないのよ。何処にでもいる女なのよ。つまみぐいが好きで、悲劇が好きで、きどってる人間がしんからきらいで……だって、きどってる人間だって、女とも寝てるじゃないの。同じような事なんだけど、衣食住が足りれば、第一、品と云うものが必要になる。

 浅草はいいところだ。

 みんなが、何となくのぼせかえっている。躯じゅうでいきいきしている。イルミネーションが段々はっきりして来る。

 誰にでもある共通な、自然なこころの置場なのよ。三角の山盛りで、黄色に塗った五銭のアイスクリン。エエひやっこいアイスクリン! その隣りが壺焼。おでん屋は皿ほどもあるがんもどきをつまみあげている。

 十字の切りかたは知らないけれど、ああ神様と祈りたくなります。

 全心全霊をかたむけてエホバよ。

 プウシュキンは品のいい詩ばかりお書きになっていた。そして、人の魂をとろかすもの。私ときたら鼻もちならぬ。

 みんな自分が可愛いのだ。どなたさまも自分に惚(ほ)れすぎている。人の事はみえない。だから、私が、いくら食べたいと云う詩を書いても駄目なの。疲れてへとへとで、洗濯せっけんもないのよ。

 家へかえりたくない。

 一晩じゅう浅草を歩いていたい。

 鐘撞堂(かねつきどう)の後に、小さい旅館が沢山並んでいる。「あんた貫一さんはないのかい?」一人て呆(ぼ)んやり歩いている私に、旅館の番頭が声をかける。
「十七、八となってるかな?」

 私はおかしくなった。浅草に夜が来た。みんな活々と光る。楽隊は鳴りひびく。風はまことに涼やかで、私のおっぱいが一貫目もあるほど重い。感性の気違い。一目みただけで、この娘、売物と云う表情をしている、安来節(やすきぶし)の看板に凭(もた)れて休む。何とも陽気な只ならぬ気配で、床をふみならす音、口笛を吹きたてる群集。あらえっさっさアのソプラノ合唱。日本の歌は原始的で、肉体的だ。のぼせあがっている。何もかもすべて、すべてがのぼせあがっている。

 鯉のぼりのようなのぼせかただ。たしなみのいいずぼんをはく事がきらいで、下帯一つで歩いている。もともとは原始民族なのだけど、一寸かぶれて火ぶくれをおこして来たのだ。

 かんたんな火ぶくれなのよ、ねえ、塗り薬でかためて調法であろう……。苦悩を売りものにしてみたところで、もともと偽の文明。第一イルミネーションの光りの方がむじひだ。皮を剥(は)いだ、底の底まで見透せる妙な光りかたである。美人が少しも美人にはみえない。光りの空、息苦しい光彩の波の中に、人はひしめきあっている。私もひしめきあっている。

 なるほど、日本は黄金島!

        *

(七月×日)

 山のように厚いノートはないものか、枕のようにでっかいノート。

 頭のなかにたまっている、何もかも、きっちり挾(はさ)んで逃げないようにしておきたい。

 オカアサマ、私生児はへこたれませんよ。もうめんどうなことは考えないでいましょう。どんなに家柄がいいと云ったところで落ちぶれてどろどろになる貴族もいます。貴族とは紋のような紋。あおいの紋は立派だそうだけれど、私はやっぱり菊や桐の紋が好きです。

 私は折れた鉛筆のようにごろりと眠る。

 世の中はいろんなもので賑やかだ。

 十二社(じゅうにそう)の鉛筆工場の水車の音が、ごっとんごっとん耳に響く。爽やかな風が吹いているのに私は畳に寝ころんでいる。只、呆んやりと哀しくなるばかり。本当はちっとも死にたくはないのに、私はあのひとに、死ぬかもしれないと云う手紙を書きたくなった。

 少しも死にたくはないのに、死にたいと思うこともある。空想が象のようにふくらんで来る。象が水ぶくれになってよたよたと這(は)いまわって来る。

 何処かで鮭(さけ)を焼く匂いがしている。

 あのひとが走って来てくれるような、長い手紙を書きたかったけれど、紙もインクもない。新宿の甲州屋の陳列のなかの万年筆が、電信柱のようににゅっと眼に浮ぶ。二円五十銭だったかな。紙はつるつるしたのが自由自在だけれど、こちらは素かんぴん。ああどうよくではござりませぬか。

 森々とよく蝉(せみ)が啼(な)きたてている。

 部屋の中を見まわしてみる。かび臭い。床の間もなければ、棚も押入もない。この暑いのに、オッカサンはまだネルの着物を着ている。洗いざらしたネルの着物で、ことことさっきからキャベツを刻んでいる。部屋の隅に板切を置いて、まことにきれいな姿なり。

 私たちはキャベツばっかり食べている。ソースをかけて肉なしのキャベツをたべる。それはねえ、ただ、まぼろしの料理。夢のなかの出来事さ。粉挽(こなひき)も見た事がない。魚はもちろん、魚屋の前は眼をつぶって、息を殺して通る。あいなめに、鯛に、さばに、いさき、かつおの紳士。――フランセ・ママイといってね、時々私の処(ところ)へ夜噺(よばな)しに来る笛吹きの爺さんが、ああドーデーと云う方は金に困らぬ小説家なのであろう。風車小屋だよりは、ぜいたく至極な物語りで、十二社の汚ない風車小舎(ごや)とはだいぶおもむきが違うのであろう。俳句でもつくってみたくなるけれど、どうも、川柳もどきになってしまう。風に吹かれただけで俳句がつくりたくなる。蝉の声をきいただけで、ああと溜息(ためいき)まじり。

 さあ、そろそろ時間が来ました。

 神楽坂(かぐらざか)に夜店を出しに行く。藁店の床屋さんから雨戸を借りて、鯛焼き屋の横に店をひろげる。

(七月×日)

 朝から雨。

 仕方がないからオッカサンと風呂に行く。着物をぬぐと私は元気になって来る。富士山のペンキ絵がべろんと幕を張ったよう。松が四五本あって、その横に花王せっけんの広告。

 おなかの大きい不器量なおかみさんが一人、鏡の前で鼻唄をうたっている。どうして、あんなにむやみにおなかがふくれるのか私にはわからない。どうしたはずみで、あんなおなかになるのだろう。それでも、見ているととても愛らしい。何度も、まあるいおなかに湯をかけている。

 窓の外を誰か口笛をふいて通っている。養父さんは北海道へ行ってそれっきり。仲々思わしい仕事もないのであろう。私も口笛を吹いてみる。

 ああ、そはかのひとか、うたげのなかに、女学校時代のことがふっとなつかしく頭に浮んで来る。宝塚の歌劇学校へ行ってみたいと思った事もあった。田舎まわりの役者になりたいと思った事もあった。初恋のひとは、同級の看護婦といっしょになってしまった。

 ここから尾道は何百里も遠い。まるで、虫けらみたいな生きかただ。東京には、いっぱい、いい事があると思ったけれど何もない。

 裸になっている時が一等しあわせだ。

 オッカサンは流しの隅っこで円くなって洗濯をしている。私は風呂の中であごまでつかって口笛を吹く。知っているうたをみんな吹いてみる。しまいには出たら目な節で吹く。出たら目な節の方がよっぽど感じが出て、しみじみと哀しくなって来る。昨夜読んだ、ユジン・オニイルの「長いかえりの船路」の中の、イヴン、てめえ、娘っ子に会いたいって唸(うな)ってたんだぜ、そのくせ、娘っ子がやって来ると、てめえ、豚小舎の豚のように喉(のど)をならしてやがるんだと云うところを思い出した。

 私はもう娘ではないけれど、何だか、娘さんみたいな気持ちになって来る。

 夜、ひどい吹き降りになった。

 電気をひくくさげて、小さいそろばんをはじく。いくらそろばんをはじいたところで、金が出て来るものでもない。オッカサンは鉛筆をなめなめ帳面づけ。いくらそろばんをはじいても、根が呆んやりと、うわのそらでいるせいか、いっこうに勘定に身がはいらない。まちがえてばかりいる。それでも只ひとりの肉親がそばにいる事は賑(にぎ)やかでいいものだ。

 花ちゃんやア、はあい……私はろくろ首の女だ。どこへでも首がのびて自由自在。油もなめに行く。男もなめにゆく。

(八月×日)

 万世(まんせい)橋の駅に行く。

 赤レンガの汚れた建物。広瀬中佐が雨に濡れている。

 万惣(まんそう)の果物店で、西瓜(すいか)がまっかに眼にしみる。私は駅の入口に立って白いハンカチを持って立っている事になっている。どんな男が肩を叩くのかは知らない。双葉劇団支配人と云うのは、どんなかっこうで電車から降りて来るのだろう。

 古池や蛙(かわず)飛び込む水の音。私はその蛙さんなのよ。仕方がないから古池へどぼんと飛び込むのさ。むつかしい事なんか考えちゃいない。只、どぼんと飛びこむだけのこと。

 眼鏡をかけた背の高い男が私の前を通って、またふっと後がえりして立った。充分自信のあるいでたち。「広告を見たひと?」「ええそうです」その男は歩き出した。私も、犬のようにその男の後からついて行った。まさか、私が、夜店を出しているしがない女とは思うまい。私は今日は、びっくりするほど、おしろいを白くつけて来たのだ。田舎娘上京の図である。

 雨の中を須田町まであるいて、小さいミルクホールへはいる。この男も、あまり金があるのでもあるまい。

 双葉劇団と云うのは田舎まわりの芝居なのだそうだ。女優が少ないので、もうすぐからでもけいこにかかってもいいと云った。

 白いハンカチが胸ポケットからはみ出ている。何だか忘れそうな影のうすい顔だ、いやらしいものが直感で胸に来る。どんな事でもがまんはするけれど、こんな男にだまされるのは厭(いや)だ。サラリーは働き次第だと云う事だけれど、私は戸外の雨ばかり見ていた。

 五銭の牛乳を二杯御ちそうして貰う。私は牛乳をわざわざ飲みたいとは思わない、揚げたてのカツレツがたべたいのだもの。

 私が履歴書を出すと、その男は煙草で汚れた指で、ざっと拡げて、履歴書をポケットへしまった。履歴書よりも、この男は私の躯が必要なのかも知れない。

 ボイルの浴衣に雨傘を持ったよれよれの女の姿はこの男には却(かえ)って好都合なのだろう。神田の三崎町のホテルに事務所があると云うのでついて行ったけれど、出て来た女中は始めての客のような顔をしている。

 事務所と云うのは空想の事務所。何もない部屋のすがたは妙に落ちつきがない。

 その男は嘘ばかり云うので、私も嘘ばかり云う。世の中は味なものではございませんか。

 鉛筆工場の水車の音がごっとんごっとん耳について来る。どんな芝居をやってみたいかと云うので、皿屋敷の菊と云う役、どんどろ大師のお弓、それからカチュウシャのようなのとならべたててみる。きれいな幕が見える。お客さんが手を叩く。なんなら、二階から手紙を読むお軽もいい。菊次郎と云う女形の美しい姿をおぼえているので、私の空想は自由自在だ。菊次郎も松助も、左団次もこの男は何も知らない。

 いっしょに遊びたいと云ったけれど、私はもう、芝居者のような気持ちで、気が浮かないから厭だと云って立ちあがった。

 急に遊びたいなんておかしいじゃないのとさっさと階下へ降りると、女中が「あら、おそばが来ましたよ」と云った。ざるそばの赤うるしのまるい笊(ざる)が重ねてあったが、にっこり笑って戸外へ出た。傘をさすのも忘れて雨の中を歩く。ごうごうと電車の音ばかり。四方八方電車の唸りだ。

 いやに、赤うるしのざるそばの重ねたのが眼についてはなれない。四つもあの男はそばを食べるのかしら……。そばが食べたいな。

 巷(ちまた)に雨の降るごとく、何処かの誰かがうたった。重たい雨。厭な雨。不安になって来る雨。リンカクのない雨。空想的になる雨。貧乏な雨。夜店の出ない雨。首をくくりたくなる雨。酒が飲みたい雨。一升位ざぶざぶと酒が飲みたくなる雨。女だって酒を飲みたくなる雨。昂奮(こうふん)してくる雨。愛したくなる雨。オッカサンのような雨。私生児のような雨。私は雨のなかをただあてもなく歩く。

(八月×日)
うれいひめたるくちうたは

うたともなりぬ けむりとも


 長い行列のなかに立っていると、女と云うものは旗のように風まかせになって来る。早いはなしが、この長い行列の女たちだって。ただいい暮しさえあれば、こんな行列には立たなくても済むのだ。何か職がほしいと云う事だけでしばられているにすぎない。

 失業は貞操のない女のように荒(すさ)んでむちゃくちゃになって来る。たった三十円の月給が身につかないとは何とした事であろう。五円もあれば、秋田米のぱりぱりが一斗かえる。ほっこりとたきたてに、沢庵(たくあん)をそえてね。それだけの願いなのよ。何とかどうにかなりませんか。

 行列は少しずつちぢまり、笑って出て来るもの、失望して出て来るもの、扉の前に立っている私達は、少しずついらいらとして来る。

 菜種問屋の、たった二人ばかり入用の女事務員がざっと百人あまりも並んでいる。やっと私の番になった。履歴書と引きくらべて、まず、人品骨柄、器量がいいか悪いかできまる。しばらく晒(さら)しものになって、ハガキで通知をしますと云う返事。こんなのは毎度のことで馴れてはいるけれど何とも味気ない。ふしあわせな生れつきだと思う。飛びきりに美しいと云う事は、それだけでもけっこうな事であろう。私には何もない。ただ丈夫な身体があると云うだけ。

 生きていて、まず、何とか生活してゆくと云う人間の大切ないとなみが、いつも失敗むざんだ。堕落してゆくに都合のいいレディーメイド。やとい主は烱眼(けいがん)むるいだ。こんな女なぞはやとってくれない。

 だけど、もし、やとってもらって、三十円も月給を貰えたら、私は血へどを吐くほど一生懸命働きたいのだけど……。もう、お天気の日を選んで夜店を出すのは厭になった。

 ほんとに厭な事だ。土ぼこりをいっぱい吸って眼の前に立ちどまる人をそっと見上げて笑うしぐさにあきあきした。卑屈になって来る。私はまず何としても広いロシヤへ行きたいね。旦那(バーリン)、旦那(バーリン)。ロシヤは日本よりか広いに違いない。女の少ない国だったらどんなにいいだろう。
インキを買ってかえる。

何とかしておめもじいたしたく候。

お金がほしく候。

ただの十円でもよろしく候。

マノンレスコオと、浴衣と、下駄と買いたく候。

シナそばが一杯たべたく候。

雷門(かみなりもん)助六をききに行きたく候。

朝鮮でも満洲へでも働きに行きたく候。

たった一度おめもじいたしたく候。

本当にお金がほしく候。


 手紙を書いてみるがどうにもならぬ。あのひとにはもうお嫁さんがあるのだ。ただ、なぐさみに歌の文句を書いてみるだけ。

 夜。

 眠れないので、電気をつけて、ぼろぼろのユジン・オニイルを読む。家主の大工さんが、夜どおし、ろくろをまわして、玩具(おもちゃ)のコマをつくっている。どのひとも、夜も日もなく働かねば食えない世の中なり。蚊がうるさいけれど、蚊帳のない暮しむきなので、皿におがくずを入れていぶす。へやの中がいぶる。それでも蚊がいる。丈夫な蚊だ。うるさい蚊だ。オッカサンに浴衣を買ってやりたいと思うけど仕方がない。

(八月×日)

 爽やかな天気だ。まばゆいばかりの緑の十二社。池のまわりを裸馬をつれた男が通っている。馬がびろうどのような汗をかいている。しいんしいんと蝉が鳴きたてている。

 氷屋の旗がびくともしない。

 オッカサンも私も背中に雑貨を背負って歩いている。全く暑い。東京は暑いところだ。

 新宿までの電車賃をけんやくして、鳴子坂の三好野で焼団子を五串(くし)買ってたべる。お茶は何度でもおかわりして、ああ一寸だけしあわせ。

 オニイルは名もない水夫で、放浪ばかりしていて、子供の時は手におえぬ悪童で、大きくなって、ボナゼアリス行きの帆船に乗りこんで粗暴な冒険にみちた生活をしたのだそうだ。偉くなってしまえば、こんな身上話もああそうなのかと思う。私も芝居を書いてみようかな。きそう天外な芝居。それとも涙もなくなる奴。オニイルだって、いつも悲愴(ひそう)な時ばかりではなかったであろう。

 時には鼻唄まじりにいいごきげんな時もあったに違いない。

 よろよろと荷をかついで、小さいべっぴんさんは暑い街を歩く。どうでもいいのだ。もうやぶれかぶれなのだ。はっきりと路の上にうつした影はひきがえるのように這(は)っている。

 哀れなオッカサンが何故(なぜ)私を生んだのだろう。私生児と云う事はどうでもいい事だけれど、オッカサンには罪はない。何の咎(とが)める事があろう。世界のどこかのおきさきさまだって私生児を生む事もある。世の中と云うものはそんなものだ。女は子供をうむために生きている。むずかしい手つづきをふむことなんか考えてはいない。男のひとが好きだから身をまかせてしまうきりなのだ。

 神楽坂の床屋さんで水をのませて貰う。

 今日は縁日で夕方から賑やかなのだそうだ。

 きれいな芸者が沢山歩いている。しのぶ売りも金魚屋も出ている。今日は水中花を売るおばさんの隣りに場所割りがきまる。

 店を出して、私は雨傘を出してゴザの上に坐る。何とも暑い夕陽だ。夕陽は何処から来るのだろう。じりじりと照りつけるなぎのような暑さ。人通りが馬鹿に多いけれど、パンツも沓下(くつした)もステテコもなかなか売れそうにもない。オッカサンは下谷までお使い。

 市松の紙の屋根を張った虫売りが前の金物屋の店さきに出た。じょうさい屋が通る。

 みがきこんだおかもちをさげたてぬぐい浴衣の男が、自転車に片足かけて坂をすべってゆく。

 華やかな町の姿だ。一人だって、雨傘をさしてしゃがんでいる女には気にもとめない。
おえんまさまの舌は一丈

まっかな夕陽

煮えるような空気の底

哀しみのしみこんだ鼻のかたち

その向うに発射する一つのきらめき

別に生きようとも思わぬ

たださらさらと邪魔にならぬような生存

おぼつかない冥土(めいど)の細道から

あるかなきかのけぶり けぶり

推察するようなただよいもなく

私の青春は朽ちて灰になる、

本当の事を云って下さい

只それが知りたいだけだ

人非人と同様の土ぼこりの中に

視力の近い虹(にじ)の世界が

いっぱい蝸牛(かたつむり)をふりおとしている

一つ一つ転げおちて草の葉の露と化して

(ぼう)の世界に消えてゆく

悪企みは何もないもろい生き方

血と匂いを持たぬ蝸牛の世界

ああ夢の世界よ

夢の世のぜいたくな人達を呪(のろ)

何のきっかけもない暑い夕陽の怖ろしさ。


 私はぱりぱりに乾いてゆく傘の下で、じいっと赤い夕陽を眺めていた。

        *

(九月×日)

 飲食店にはいって、ふっと、箸立(はした)ての汚ない箸のたばを見ると、私には卑しいものしかないのを感じる。人の舌に触れた、はげちょろけの箸を二本抜いて、それで丼飯(どんぶりめし)を食べる。まるで犬のような姿だ。汚ないとも思わなくなってしまっている。人類も何もあったものではない。只、モウレツに美味(うま)いと云う感覚だけで鰯(いわし)の焼いたのにかぶりつく。小皿のなかの水びたしの菜っぱの香々。

 いつまでも私は不安だ。卑しくて犬のように這いずりまわっているくせに、もう、死んでしまいたいと思うくせに、誰かをだましてやろうと思っているくせに、私には何の力もない。袖口も、襟(えり)もとも垢(あか)でぴかぴか光っている。いっそ裸で歩きたい位だ。

 食堂を出て動坂(どうざか)の講談社に行く。おんぼろぼろの板塀(いたべい)のなかにひしめく人の群をみていると、妙にはいりそびれてしまう。講談社と云うところはのみの巣のようだと思う。文明も何もない。只、汚ないぼろぼろの長い板塀にかこまれている。昨夜一晩で書きあげた鳥追い女と云う原稿が金に替るとは思われなくなってくる。浪六(なみろく)さんのようなものを書くにはよほど縁の遠い話だ。

 私はねえ、下宿料が払えないのよ。この二三日、遠慮して下宿の御飯をなるべく食べないようにしているのよ。講談なんて書けもしないくせに、浪六さんを手本にして、眼を真赤にして書いてみたけれど、結局は一文にもならぬ。赤い郵便自動車が行く。とても幸福そうだ。あのなかには、沢山沢山為替がはいっているに違いない。何処から誰に送る為替か知らないけれど、一枚や二枚、ひらひらと舞い落ちて来ないものかしら。

 小石川の博文館へ行く。

 どうれと、玄関番が出て来そうだ。おばけ屋敷のようだ。田舎医者の待合室みたいな畳敷きの待合室に通される。いかにも疲れたような人達が思い思いに待っている。そのひとたちがじろじろと私を見ている。まるで子守っ子のような肩あげのある私を不思議そうに見ている。まさか鳥追い女と云う講談を書いているとは思うまい。

 私は一葉(いちよう)と云う名前がとてつもなく気に入っている。尾崎紅葉もいい。小栗風葉もいい。みんな偉いひとには「葉」の字がつくので、私も講談を書くときは五葉位にしてみようかと考えた。色あせた夏羽織を着た背の高いひとが出て来た。私は胸がどきどきしてくる。来なければよかったと思う。

 いずれ見てからお返事をしますと云う事で、私のみっともない原稿はみもしらぬ人の手に渡ってしまった。急いで博文館を出て、深呼吸をする。これでもまだ私は生きてるのだからね。あんまりいじめないで下さい。神様! 私は本当は男なんかどうでもいいのよ。お金がほしくってたまらないのよ。高利貸と云う人間はどこの町に住んでいるのだろう。植物園のなかにはいって行く。

 きれいな夕陽。つるべ落しの空あい。私もはずみを食ってまっさかさま。憂鬱な空想の花火。ああ講談なんて馬鹿なことを考えたものだ。

 木蔭(こかげ)で、麦藁(むぎわら)帽をかぶった、年をとった女のひとが油絵を描いている。仲々うまいものだ。しばらく見とれている。芳烈な油の匂いがする。このひとは満足に食べられるのかしら。芝生に子供が遊んでいる絵だ。四囲には人っ子一人いないけれど、絵のなかでは、二人の子供がしゃがんでいる。絵描きになりたいと思う。

 白い萩(はぎ)の花の咲いているところで横になる。草をむしりながら噛(か)んでみる。何となくつつましい幸福を感じる。夕陽がだんだん燃えたって来る。

 不幸とか、幸福とか、考えた事もない暮しだけれど、この瞬間は一寸いいなと思う。しみじみと草に腹這っていると、眼尻に涙が溢(あふ)れて来る。何の思いもない、水みたいなものだけれど、涙が出て来るといやに孤独な気持ちになって来る。こうした生きかたも、大して苦労には思わないのだけれど、下宿料が払えないと云う事だけはどうにも苦しい。無限に空があるくせに、人間だけがあくせくしている。

 夕焼の燃えてゆく空の奇蹟(きせき)がありながら、ささやかな人間の生きかたに何の奇蹟もないと云うことはかなしい。別れた男の事をふっと考えてみる。憎い奴だと思った事もあったけれど、いまはそうでもない。憎いと思うところはみんな忘れてしまった。

 いまは眼の前に、なまめかしい、白い萩が咲いているけれど、いまに冬が来れば、この花も茎もがらがらに枯れてしまう。ざまをみろだ。男と女の間柄もそんなものなのでしょう。不如帰(ほととぎす)の浪子さんが千年も万年も生きたいなんて云ってるけれど、あまりに人の世を御ぞんじないと云うものだ。花は一年で枯れてゆくのに、人間は五十年も御長命だ。ああいやな事だ。

 私は天皇さまにジキソをしてみる空想をする。ふっと私をごらんになって、馬鹿に私が気に入って、いっしょにいいところにおいでとおっしゃるような夢をみる。夢は人間とっておきの自由だ。天皇さまに冷酒とがんもどきのおでんをさしあげたら、うまいものだねとおっしゃるに違いない。私はなぜ日本に生れたのだろう。シチリヤ人と云うのがあるそうだ。音楽が大変好きなのだそうだ。私はシチリヤ人がどんな人種なのか見たことがない。

 不意にカナカナが啼きたてた。夕焼がだんだん妙な風に蒼(あお)ずんで来ている。

(九月×日)

 夜が明けかけて来たけれど、どうにもならない。

 昨夜は蒲団を売る事にきめて安心して眠ったのだけれど、こう涼しくては蒲団を売るわけにもゆかない。葛西(かさい)善蔵と云うひとの小説みたいにどうにもならなくなりそうだ。私は別に酒が飲みたいよくもないけれど、生きようがないではありませんか。

 らっきょうと、甘いうずら豆が食べたい。キハツ油も買いたい。朝がえりの学生があると見えて、スリッパを鳴らして二階へ上ってゆく足音がする。ここから吉原まではさほどの道のりでもあるまい。吉原では女をいくら位で買ってくれるものかと思案してみる。

 さて、朝になれば、いよいよまた活動出発の用意。雀がよく鳴いている。上々の天気。硝子(ガラス)窓から柿の葉が覗(のぞ)いている。台所の方で小さい唄声がきこえる。私はふっと思いついて、この下宿の女中になれぬものかと思う。客部屋から女中部屋に転落してゆくだけだ。給料はいらない。ただ食べさせてもらって雨露をしのげればいい。この部屋の先住の英文科の帝大生が壁にナイフで落書をしている。エデンの園とは? 私も知らない。この気取りやさんは、落第をして郷里に戻って行ったのだそうだけれども、私には戻ってゆく故郷もない。

 ダダイズムの詩と云うのが流行(はや)っている。つまらない子供だましみたいな詩。言葉のあそび。血が流れていない。捨身で正直なことが云えない。只、やぶれかぶれだけ。だから私も作ってみようと眼をつぶって、蝙蝠傘(こうもりがさ)と烏(からす)と云う詩をつくってみる。眼をつぶっていると、黒いものからぱっぱっと聯想(れんそう)がとぶ。おかしなことばかり考える。まず、第一に匂いの思い出が来る。それから水っぽい涙が鼻をならしに来る。わにに喰いつかれたような、声も出ない悲鳴が出て来る。私の乳房が千貫の重さで、うどん粉の山のようにのしかかっている。手の爪に白い星が出ている。いい事があるのだそうだけれど信じない。シーツなぞ長いこと敷いたことのない敷蒲団に、私はなまぐさく寝ている。これが本当のエデンの園です。蒲団は芝居ののぼりでつくった、まことにしみじみとするカンヴァスベッド。
感化院出の誰の誰

許して下さいと云う言葉を日にいくど

頂戴とか下さいとか

雨のなかに立って物乞う姿

不安な呻吟(しんぎん)

世の誰とも連絡がない。

感化院出の芙美子さん

人間ではない氷のかたまり

十九世紀の日本語の飴(あめ)

眼がまわりますね

道中があぶない?

何をおっしゃいますやら。

感化院は官立

帝国大学も官立さ

ただそれだけの違いだよ。


 襖(ふすま)が一寸ほど開いた。若い男がのぞいている。だれ? あわてて襖がしまる。ここは郵便局じゃございませんだ。

 私と寝たいのならさっさと這入っていらっしゃい。

 起きるなり、顔も洗わないで戸外へ出る。黄いろいペンキ車をひいて、意気な牛乳屋さんが通る。苦学生にしてはいやに清潔だ。西片町に出る。そろそろ暑い陽がのぼりはじめてきた。運送屋さんの前の共同水道で、顔を洗って、ついでに水をがぶがぶと飲んで満腹のほうえつ。ついでに、髪にも水をつけて手でなでつける。根津(ねづ)へ戻って恭次郎さんの家へ行ってみようかとも思うけれど、節ちゃんにまた泣きごとを云いそうなのでやめる。朝の新鮮な空気の中を只むしょうに歩く。大学の前へ行ってみる。果物屋ではリンゴにみがきをかけている男がいる。何年にも口にしたことのないリンゴの幻影が、現実ではぴかぴかと紅くまるい。柿も、ぶどうも、いちじくも、翠滴(すいてき)がしたたりそうな匂い。――さいやんかね、だっさ、さいやんかねえ、おんだぶってぶって、おんだ、らったんだりらああおお……タゴールの詩だそうだけれど、意味も判らずに、折にふれては私はつまらない時に唄う。

 高橋新吉はいい詩人だな。

 岡本潤も素敵にいい詩人だな。

 壺井繁治が黒いルパシカ姿で、うなぎの寝床のような下宿住い、これも善良ムヒな詩人。蜂(はち)みたいなだんだらジャケツを着た萩原恭次郎はフランス風の情熱の詩人。そしてみんなムルイに貧しいのは、私と御同様……。

 根津のゴンゲン様の境内で休む。

 ゴンゲン様は何様をおまつりしてあるのかしらない。ただあらたかな気がする。気がやすまる。鳩がいる。震災の時、ここで野宿をした事を思い出す。

 根津のゴンゲン裏にかつぶしを売っている大きい店がある。ここの息子が根津なにがしとか云う活動役者だそうだ。まだ一度も見たことがないけれど、定めしよい男なのであろう。千駄木町へ曲る角に、小さい時計屋さんがある。恭ちゃんの家の前を通って医専の方へ坂を上ってゆく。夜になるとここはお化けの出る坂。
昼の霧 香ばしき昼の霧

わがははの肩のあたりの霧

爪は語らず

陽もまばゆくて昼の霧よ

五里霧中のなかに泳ぐ

女だるまのすすりなく霧。

ああさんたまりあ

裸馬の肌えに巻く霧

昼の霧はバットの銀紙

すさのおのみことの恋の霧

金もなき日の埃の綿

つむぎ車のくりごとよ

昼の霧 哀しき昼の霧。


 急に四囲の草木が葉裏をかえしたような妙な空あいになり、霧のようなものが立ちこめてみえる。坂の途中の電信柱に凭(もた)れてみる。しんしんと四囲に湯茶の煮えるような音がする。真昼の妖怪(ようかい)かな。私はおなかが空いたのよ。

 急に体じゅうがふるえて来る。どうして生きていいのか腹が立って来る。声をたてて泣きたくなる。

 八重垣町の八百屋で唐もろこしを二本買って下宿へ帰る。ダットのいきおいで部屋へ行き、唐もろこしの皮をむく。しめった唐もろこしの茶色のひげの中から、ぞうげ色の粒々が行列して出て来る。焼きたいな。こつこつと焼いて醤油をつけて食べたい。

 下宿の箱火鉢に紙屑(かみくず)を燃やして根気よく唐もろこしを焼く。

(九月×日)

 ははより十円の為替が来る。

 ありがたや、かたじけなや。何もかもなむあみだぶつの心持ちなり。

 どしゃぶりの雨。下宿に五円入れる。昼飯が運ばれる。切り昆布に油揚げの煮たのに麩(ふ)のすまし汁。小さいお櫃(ひつ)に過分な御飯。雨を見ながら一人しずかに食事をする愉しさ。敵は幾万ありとてもわが仕事これより燃ゆると意気ごんでみる。食事のあと、静かに腹這い童話を書く。いくつでも出来そうな気がして仲々書けない。

 どしゃぶりの雨は西むきの硝子窓の敷居の中にまでいっぱい吹きこんで川のようにたまる。

 夜も下宿の飯。

 コンニャクとコロッケととろろ昆布のすまし汁。のこりの飯は握り飯にしておく。夜ふけて、野村吉哉さんが尻からげで遊びに来る。全身ずふぬれ。唇が馬鹿に紅い。中央公論に論文を書いたと云う。中央公論ってどんなのさ。千葉亀雄がおじさんだとかで、この人の紹介だそうだ。別にえらいとも思わないけれど、尊敬しなければ悪いのだと思って、感心してみせる。馬鹿に煙草を吸うひとだ。四畳半はもうもう。二階でマンドリンの音がしている。学生は金持ちでひま人ぞろいだ。吉原に行く学生もある。玉突きに行く学生もある。下宿で大事がられる学生は、いつも金だらいをさげて風呂に行っている。

 野村さんと握り飯を分けあって食べる。三角の月とか星とかの詩を読んでくれたけれども、さっぱり判らない。詩を書くには泣くことも笑うことも正直でなければならない。貧乏してまで言葉の嘘を書く必要はない。白秋が好きだと云ったら野村さんは笑った。白秋は溺(おぼ)れる詩人。人にうたわれる詩人だ。雀の好きな詩人。みみずくの家を持った詩人。九州の土から生れた詩人。

 十二時ごろ、恭ちゃんのところへ行くと云って野村さんまた尻からげで帰る。そっと襖を開けて廊下をうかがうあたり、うれしくなってしまう。馬鹿に脚の白いひとなり。

(十月×日)

 渋谷の百軒店(ひゃっけんだな)のウーロン茶をのませる家で、詩の展覧会なり。

 ドン・ザッキと云う面白い人物にあう。おかっぱで、椅子の間を踊り歩く。紙がないので、新聞紙に詩を書いて張る。
おそれながら申しあげます

わたしはただ息をしている女

百万円よりも五十銭しか知らない

牛めしは十銭

(ねぎ)と犬の肉がはいってるのね

小さくてだるまみたいで

よく泣いているおこりんぼ。

いいえもういいのよ

男なんかどうでもいいの

抱きあって寝るだけのこと

十五銭のコップ酒

皿においてるけど

馬鹿に尻だかで世間をごまかす

酔えばいい気持ち

千も万も唄いたくなるのよ。

いずくにか

わがふるさとはなきものか

葡萄(ぶどう)の棚下に寄りそいて

寄りそいて

一房の青き実をはみ

君と語ろう ひねもす

ひねもす……。


 かえり十時。道玄坂の古本屋で、イバニエスのメイ・フラワア号を買う。四十銭也。駅の近くの居酒屋で赤松月船と酒を飲む。昆布巻き二つとコップ酒。馬鹿に勇ましくなる。

 下宿へ御きかん十二時。森とした玄関に大きい金庫が坐っている。あの中に何かあるのだろう。洗面所へ行って水を飲む。冷々としている。こおろぎがないている。ふっとつまらなくなる。一日一日が無為なり。いったいどうなるのか判らぬ。一度、田舎へかえりたいと思う。下宿を出る必要がある。夜逃げをするには、逃げこむさきを考えねばならぬ。

 寝ころんで、メイ・フラワア号を読む。破船の酒場が馬鹿に気に入った。

(十月×日)

 詩人は共喰いの共産党だ。持ってるものは平等につかう。借金もそれ相当なもの。手近な目的はただ食べる事に追われるばっかり。人命終熄(しゅうそく)の一歩手前でうろうろしているばかりなり。天才は一人もいない。自分だけが天才と思っているからよ。それ故、私たちはダダイスト。只何となく感じやすく、激しやすく、信念を口にしやすい。何もないくせに、まずここんところから出発してゆくより仕方がない。

 風が吹くので、いろいろな男のことを考える。誰のところに逃げこんで行ったらいいのかと考える。だけど考える事は何もならない。勇気だけだ。何しろ、相手を驚かせる戦術なのだからはずかしい。またマンドリンがきこえて来る。籠の鳥の方がよっぽど羨(うらや)ましい。ああ狂人になりそうだ。

 こんなに童話を書き、講談を書いても一銭にもならないなんて。インキだって金がかかるのよ。

 昼から風の中を仕事さがしに歩く。

 何もない。人があまっている。美人はざくざく。只若いだけではどうにもならない。神田の古本屋でイバニエスを売る。二十銭にうれる。四十銭が二十銭に下落してしまった。九段下の野々宮写真館のとなりの造花問屋で女工募集をしている。何しろ手さきが不器用だから……薔薇(ばら)もチュウリップもまちがえて造りそうだ。日給八十銭は悪くない。不安の前には妙に嘔気(はきけ)が来る。嘔くものもない妙な不安な状態。やすくに神社はあらたか。まずていねいにおじぎをして一口坂の方へ歩く。

 あまてらすおおみかみの頃には、こんなに人もあまってはいなかったのだろう。美人もうようよいなかったのだろう。あまてらすおおみかみさまは裸で岩戸からのぞいておいでになる。かがみや、たまや、みつるぎは、どこでおもとめになったのか不思議だ。にわとりはどこで生れたのだろう。ああ昔はよかったに違いない。

 そのじせつになるとちゃんと秋の風が吹く。魚屋はみとれるほどの美しさ。しけであろうと嵐であろうと、魚は陸へどしどしあがって来る。胸に黄いろいあばらのついた軍服で、近衛(このえ)の騎馬隊が、三角の旗を立てて風の中を走ってゆく。馬も食っている。騎馬隊の兵隊さんも食っているのだ。何処かで琴の音がしている。豆腐屋では大鍋いっぱい油をはって油揚げを揚げている。荷車いっぱいにおからをバケツで積みこんでいる人夫がいる。酒屋の店さきの水道の水は出っぱなしで、小僧が一升徳利を洗っている。味噌樽(だる)がずらりと並び、味の素や福神漬や、牛鑵(ぎゅうかん)がずらりと並んで光っている。一口坂の停留場前の三好野では、豆大福が山のようだ。三好野へはいって一皿十銭のおこわと豆大福を二つ買って、たっぷりと二杯も茶をのんで、私は壁の鏡をのぞいている。

 おたふくさまそっくりで、少しも深刻味がない。髪の毛はまるでかもじ屋の看板のように房々として、びんがたりないので、まげがほどけかけている。世紀がふくらむごとに、大量に人がふえてゆく。悲劇の巣は東京ばかりでもあるまい。田舎の女学校では、ピタゴラスの定理をならい、椿姫(つばきひめ)の歌をうたい、弓張月を読んだむすめが、いまはこんな姿で、悄然(しょうぜん)と生きている。大福の粉が唇いっぱいにふりかかり、まるで子守女のつまみぐいの図だ。

 夜。また気をとりなおして童話の続きにかかる。風はますますひどくなって来た。酔っぱらいの学生が二階の廊下で女中をからかっている。時々声が小さくなる。誰かが二階から中庭へむけて小便をしていると見えて、女中がいけませんよッと叱っている。
罌粟(けし)は風に狂う

乾草(ほしくさ)の柩(ひつぎ)のなかに腹這う哀愁

(おとがい)の下に笑いを締め出して

じいと息を殺してみるのが人生

山の彼方(かなた)には雲ばかり

気の毒なやせ馬の雲に乗って

幸福なんか来ると思うのがまちがい

地獄におちよ生きながら

地獄におちて這いまわる

罌粟の範囲で散りかかる

強迫善意のごうもん台

運命のなかでの交渉

(とげ)だらけの青春

男が悪いのではない

みんな女が不器用だからだ

やたらに自由なぞあるものか

勝手にいじめぬく好奇心の勧工場

安物の手本ばかりが並んでいる


 夜が更けて来るにつれて風もしずかになり、あたり一面平野の如し。童話のなかの和製ハンネレが少しも動いてこない。第一、私はハンネレのような淋しい少女はきらい。それでも和製ハンネレを書かないことには、本屋さんはみとめてくれないのだ。一枚三十銭の原稿料とはいい気なものだ。十枚書いてまず三円。十日は満足に食べられます。

 えらい童話作家になろうとは思わぬ。死ぬまで詩を書いてのたれ死にするのが関の山。おかあさんごめんなさい。芙美子さんはこれきりなのよ。これきりで死んでしまうのよ。誰が悪いのでもない。なまける心はさらさらないのだけれど、どうにも一人だちの出来ぬ生れあわせです。貧乏は平気だけれど、死ぬのは痛いのよ。首をつるのも、汽車にひかれるのも、水に飛び込むのもみんな痛い。それでも死ぬ事を考えています。

 たった一度でいいから、おかあさんに、四五十円も送れる身分にはなりたいと空想して泣く事もあります。

 いろはと云う牛肉店の女中になろうかと思います。せめて、手紙の中へ、十円札の一枚も入れて送ってあげましょう。

 下宿住いはこりごり。収入の道もないのに、小さいお櫃の御飯がたべたいばっかりに下宿住いをしたら、こういん矢の如し。すぐ月日がたってゆくのには閉口頓首(とんしゅ)

 第一、何かものを書こうなぞとは妙なことです。でもね、私は小説と云うものを書いてみたいと思います。島田清次郎と云うひとも、あっと云うような長いものを書いたのだそうです。小説はむつかしいとは思いますけれど、馬がいななくような事を書けばいいのよ。一生懸命息はずませてね。

 おかあさん元気ですか。もう、じき住所はかえます。また、誰かといっしょになろうと思います。仕方がないんですよ。靴がやぶけて水がずくずくとはいって来るような厭な気持ちなのです。小説を書いたところでひょっとしたら大した事ではないかもしれません。いつも、何だって、つっかえされてがっかりすることばかりですからね。一人でいると張合いがないのです。

 自分で正しいと思う判断がまるきりつかない。自信がなくなると、人間はぼろくずのようになってしまう。はっきりと、これが恋だと思うような事をしたこともない。ただ、詩を書いている時だけが夢中の世界。

 下宿住いと云うものは、人間を官吏型にしてしまう。びくびくと四囲をうかがう。大した人間にはなれない。月末には蒲団を干して、田舎から来た為替を取りに行く。たったそれだけで下宿の月日は過ぎて行くのでしょう。私のことじゃないのよ。ここにいる学生達の事なの……。ハイネ型もいなければ、チエホフ型もいない。ただ、自分を見失ってゆくくんれんを受けるだけ。

 童話を書きあげて夜更け銭湯へ行く。

        *

(十月×日)
宵あかり 宵の島々静かに眠る

海の底には魚の群落

ひそやかに語るひめごと

魚のささやき魚のやきもち。

遠いところから落日が見える

地の上は紙一重の夜の前ぶれ

人間は呻(うめ)きながら眠っている

宵の島々 宵あかり

兵隊は故郷をはなれ

学生は故郷へかえる。

人ごとならずとささやきながら

人々は呻きながら生きる

この世に平和があるものか

岩おこしのべとべとの感触だ

人生とは何でしょう……

拷問のつづきなのよ

人間はいじめられどおし。

いつかはこの島々も消えてゆくなり

牛と鶏だけが生きのこって

この二つの動物がまじりあう

羽根のはえた牛

とさかをもった牛

角のはえた鶏

尻尾(しっぽ)のある鶏。

永遠なんぞと云うものがあるものか

永遠は耳のそばを吹く風なり

宵あかり 只島々は浮いている

乳母車のようにゆれている

考古学者もほろびてしまう……。


 律法(おきて)なくば罪は死にたるものなり。ああアブラハムもダビデも如何(いか)にも遠い神である。小説とはどんな形で書くのかわからない。只、ひたすら空想するばかりだけでもないのだろう。罪を書く。描く。善は馬鹿々々しいと鼻をかむ。悪徳だけに心をもやす……。月日がたてば忘れられ消えてゆく罪。じっと眼をすえていると、何のまとまりもなく頭が痛くなって来る。私の肉体は、だんだん焼かれる魚のようにこうふんして来る。誰かと夫婦にならなければ身のおさまりがつかなくなってしまう。

 下宿屋は男の巣でありながら、まことに落書のエデンの園の如く、森々とこの深夜を航海している。

 小説を書きたいと思いながら、何もかも邪魔っけでどうにもならない。雁(かり)が鳴いている。私は本当に詩人なのであろうか? 詩は印刷機械のようにいくつでも書ける。只、むやみに書けると云うだけだ。一文にもならない。活字にもならない。そのくせ、何かをモウレツに書きたい。心がその為(ため)にはじける。毎日火事をかかえて歩いているようなものだ。

 文字を並べて書く。形になっているのかどうかはぎもんだ。これが詩と云うものであろうか。――恋草を力車に七車、積みて恋うらく、わが心はも。昔のえらい額田(ぬかだ)なにがしと云う女のひとがうたった歌も出鱈目(でたらめ)なのであろうか……。私はかいこのように熱心に糸を吐く。只、何のぎこうもなく、毎日毎日糸を吐く。胃のなかがからっぽになるまで糸を吐いて死ぬ。

 一文にもならぬ事が、ふしあわせでもなければ、運の悪い者ときめてかかる事もない。希望のない航海のようなものだけれども、どこかに浮島がみえはしないかとあせるだけだ。

 オニイルの鯨取りの戯曲を読んで淋しくなった。

 本を読めば、本がすべてを語ってくれる。人の言葉はとらえどころがないけれども、本の中に書かれた文字は、しっかりと人の心をとらえてはなさない。
もうじき冬が来る

空がそう云った

もうじき冬が来る

山の樹がそう云った。

小雨が走って云いに来た

郵便屋さんがまるい帽子を被った。

夜が云いにきた

もうじき冬が来る

鼠が云いに来た

天井裏で鼠が巣をつくりはじめた。

冬を背負って

人間が田舎から沢山やって来る。


 童謡をつくってみた。売れるかどうかは判らない。当にする事は一切やめにして、ただ無茶苦茶に書く。書いてはつっかえされて私はまた書く。山のように書く。海のように書く。私の思いはそれだけだ。そのくせ、頭の中にはつまらぬ事も浮んで来る。

 あのひとも恋しい。このひともなつかしや。ナムアミダブツのおしゃか様。

 首をくくって死ぬる決心がつけばそれでよろしい。その決心の前で、私は小説を一つだけ書きましょう。森田草平の煤煙(ばいえん)のような小説を書いてみたい。

 夜更けて谷中(やなか)の墓地の方へ散歩をする。

 きらめくばかりの星屑の光。なんの目的で歩いているのかはわからないけれども、それでも私は歩く。按摩(あんま)さんが二人、笛を吹いては大きく笑いながら行く。下界は地とすれすれに、もやが立ちこめて秋ふけた感じだ。

 石屋の新しい石の白さが馬鹿に軽そうに見える。私は泣いた。行き場がなくて泣いた。石に凭れてみる。いつかは、私も墓石になるときが来る。何時(いつ)かは……。私はお化けになれるものだろうか……。お化けは何も食べる必要がないし、下宿代にせめられる心配もない。肉親に対する感情。恩返しをしなければならないと云うつまらぬ苛責(かしゃく)。みんな煙の如し。

 雨戸の奥で、石屋さんの家族の声がしている。まだ無縁な、誰の墓石になるとも判らない、新しい石に囲まれて、石屋さんは平和に眠っている。朝になれば、また槌(つち)をふるって、コツコツと石を刻んで金に替えるのだ。

 いずれの商売も同じことだ。

 石に腰をかけていると、お尻がしんしんと冷い。わざと孤独に身を沈めたかっこうでいると、涙があとからあとから溢れこぼれる。

 平和に雨戸を閉ざした横町が奥深くつづいている。省線の音がする。匂いのいい花の香がただようている。私はいつもおなかが空いている。少しでも金があれば、私は尾道へかえってみたいのだ。

 私は多摩川にいる野村さんと一緒になろうかと思う。

 どうにも、独りではやりきれないのだ。

 誰も通らない星あかりの昏(くら)い通りを、墓地の方へ歩いてみる。怖(おそ)ろしい事物には、わざと突きすすんでふれてみたいような荒びた気持ちだ。おかしくなければ、私は尻からげになって、四つん這いになって石道を歩きたい位だ。狂人みたいだと云うのは、こんな気持ちをさして云うのであろう……。

 結局はいったい、自分は何を求めているのだろうと考えてみる。金がほしい。ほんのしばらくの落ちつき場所がほしい。

 知らない路地から路地を抜けて歩く。まだ起きて賑やかに話しあっている家もある。ひっそりと眠っている家もある。

(十月×日)

 団子坂の友谷静栄さんの下宿へ行く。「二人」と云う同人雑誌を出す話をする。十円の金の工面も出来ない身分で、雑誌を出す事は不安なのだけれども、友谷さんが何とかしてくれるのに違いない。豊かな暮しむきでいる人の生活は不思議とも何とも云いようがない。

 友谷さんに誘われて、二人で銭湯へ行く。二人の小さい裸体が朝の鏡に写っている。マイヨールの彫刻のような二人の姿が、二匹の猫がたわむれているようだ。何と云う事もなく、私は外国へ行きたくなった。バナナをいっぱい頭にのせたインド人のいる都でもいい。何処(どこ)か遠くへ行きたい。女の船乗りさんにはなれないものかな。外国船のナースみたいな職業と云うものはないかな。

 詩を書いていたところで、一生うだつがあがらないし、第一飢えて干乾(ひぼ)しになるより仕方がない。私が、栗島澄子ほどの美人であるならば、もっと倖(しあわ)せな生き方もあったであろう……。友谷さんもきれいな御婦人だ。このひとには全身に自信がみなぎっている。浅黒い肌ではあるけれども、その肌の色は野性の果物の匂いがしている。私の裸は金太郎そっくり。只、ぶくぶくと肥っている。お尻の大きいのは、下品なしょうこだ。うまいものを食べている訳ではないけれど、よくふとってゆく。ぶくぶくによく肥る。

 友谷さんはかたねりの白粉(おしろい)を首筋につけている。浅黒い肌が雲のように淡く消えてゆく。久しく、白粉をつけた事がないので、私は男の子のように鏡の前に立って体操をしてみる。ふっと、このまま馳(はし)って電車道まで歩いたらおかしいだろうなと思う。

 裸で道中なるものか……何かの唄にあったけれども、誰も好きだと云ってくれなければ、私はその男のひとの前で、裸で泣いてみようかと思う……。

 風呂のかえり、友谷さんと、団子坂の菊そばに寄る。ざるそばの海苔(のり)の香が素敵。空もからりとして好晴なり。庭の大輪の白い菊の花が、そうめんのように、白い紙の首輪の上に開いている。不具者のような大輪の菊の花なり。――湯上りにそばを食べるなぞとは幸福至極。「二人」は五百部ばかりで、十八円位で出来る由なり。八頁で、紙は素晴しくいいのを使ってくれるそうだ。私は銘仙の羽織を質におく事を考える。四五円は貸してくれるに違いない。

 書く。ただそれだけ。捨身で書くのだ。西洋の詩人きどりではいかものなり。きどりはおあずけ。食べたいときは食べたいと書き、惚(ほ)れている時は、惚れましたと書く。それでよいではございませんか。

 空が美しいとか、皿がきれいだとか、「ああ」と云う感歎詞ばかりでごまかさない事だ。いまに私は本格的なダダイズムの詩を書きましょう。

 帰りの坂道で五十里(いそり)幸太郎さんに遇(あ)う。この涼しいのに尻からげ。セルの着物に角帯。私は下宿にもどる気もしないので、動坂へ出て、千駄木町の方へ歩く。涼やかな往来を楽隊が行く。逢初(あいぞめ)から一高の方へ抜けてみる。帝大の銀杏(いちょう)が金色をしている。燕楽軒の横から曲ってみる。菊富士ホテルと云う所を探す。宇野浩二と云うひとが長らく泊っている由なり。小説家は詩人のようでないから一寸(ちょっと)怖ろしい。鬼のような事を云いだされてはこっちが怖い。そのくせ何となく逢ってみたい気もする。

 小説を寝て書く人だそうだ。病人なのかな。寝て書くと云う事はむつかしい事だ。ホテルはすぐ判った。おっかなびっくりで這入(はい)って行くと、女中さんはきさくに案内してくれる。宇野さんは青っぽい蒲団の中に寝ていた。なるほど寝て書くひとに違いない。スペイン人のようにもみあげの長いひと。小説を書いている人は部屋のなかまで何となく満ちたりた感じだった。「話をするように書けばいいでしょう」と言った。仲々そうはいきませんねと心で私はこたえる。散らかった部屋。誰かがたずねて見えた由にて、早々に引きあげる。ああ、宇野浩二までに行くには前途はるかなりだ。宇野浩二とはいい名前なり。寝て書けると云う事は大したものだと思う。話をするように書くと云う事が問題だ。あのね、私はねと書いてみた所でどうにもなるものではない。

 作家の部屋と云うものは、なんとなく凄味(すごみ)があって気味が悪い。歩きながら、女子美術の生徒のむらさきの袴(はかま)の色の方が、ふくいくとしていると考える。小説とはつまらないものかも知れない。人々は活々と歩き、話し、暮している。街を歩いている方が、小説よりも面白い。

 夕方、下宿へ戻る。

 野村さん、日曜日には遊びにいらっしゃいと云う置手紙あり。がらんとした部屋の中に坐ってみる。落ちつかない。寝ている宇野浩二の真似でもしてみようかと思うけれども、ふとっているので、すぐ、両肘(りょうひじ)がしびれて来るに違いない。夕飯ごろの下宿は賑やかだ。みんな金を払っているから、煮物の匂いも羨(うらや)ましい。

        *

(十二月×日)

 朝から降り歇(や)まない雪のなかを、子供をおぶった芳ちゃんと出かける。積もるとみせかけて、牡丹雪(ぼたんゆき)は案外なところで消えてゆく。寛永寺坂の途中で、恭次郎さんに逢う。友人のところに泊ったのだと云って、見知らぬ二人連れの男のひとと並んで、寒い逢初の方へ降りて行った。

 恭次郎さんはいい男だな。あのひとは嘘を云わない。だけど、私は恭次郎さんの詩は一向に判らない。恭次郎さんを見ると、私はすぐ岡本さんのことを思い出す。私は岡本さんが好きだ。友谷さんの旦那さんだと云うことがめざわりで仕方がない。だけど、男のひとと云うものは、私のような女は一向に眼中にはいれてくれない。

 あんまり寒いので、坂の途中の寺の前のたいやき屋で、たいやきを十銭買う。芳ちゃんと歩きながら食べる。のこりの二つを一つずつ分けて、二人ともあったかい奴を八ツ口の間から肌へじかにつけてみる。
「おおあついッ」

 芳ちゃんが笑った。私はたいやきを胃のあたりへ置いてみる。きいんと肌が熱くていい気持ちだ。かいろを抱いているみたいだ。我慢のならない淋しさが胃のなかにこげつきそうになって来る。雪が降る寛永寺坂。登りつめると、うぐいすだにの駅にかかった陸橋。橋を越して合羽(かっぱ)橋へ出て、頼んでおいた口入(くちいれ)所へ行く。稲毛の旅館の女中と、浅草の牛屋の女中の口が一番私にはむいている。

 お芳さんは、子供づれで稲毛へ行くと云うし、私は浅草がいいときめた。何も遠い稲毛の旅館の女中にならなくてもいい筈だと思うのだけれど、お芳さんは、馬鹿に稲毛が気にいっている。子供が小児ぜんそくと云うので、海辺で働いている方が子供の為にいいと云うのだ。子供は私生児で、その父親は代議士なのだそうだけれども、それも本当なのか嘘なのか私には判らない。ぶきりょうなお芳さんに、そんな男があるとも思えなかったし、第一、それが本当ならば、何も稲毛まで行く事もあるまい。

 私は三円の手数料を払って損をしたような気がした。保証人がいらないと云うのが何よりの仕合せだ。

 浅草の古本屋で、文章倶楽部(クラブ)の古いのをみつけて買う。黄いろい色頁の広告に、十九歳の天才、島田清次郎著「地上」と云う広告が眼につく。十九歳と云う年頃は天才と云うにはふさわしい年頃かもしれない。――私だって天才位はいつも夢にみているのだけれども、この天才はひもじいと云う事にばかり気をとられて凡才に終りそうだ。

 いったい、どこに行ったら平和に飯が食えるのだ。飢えていては何を愛する気にもなれない。第一、こう寒くては何もかもちぢかんでしまう。単衣(ひとえ)の重ね着で、どろどろに汚れているメリンスの羽織と云うていたらくでは、尋常な勤め口もありよう筈がない。

 浅草へ行く。公園のなかで、うどんを一杯ずつ食べて、ついでに腹の上で冷くなった、たいやきも出して食べる。うどん屋の天幕の裾から、小雪まじりの冷い風が吹きぬけて来る。二ツの七輪から火の粉がさかんに弾(は)ぜている。熾(さか)んな火勢だ。熱い茶を何杯も貰う。おぶいばんてんをほどいて、お芳さんは子供に乳をふくませ、おしめをあてかえてやっているけれど、ずっくりと濡れたおしめの匂いが何となく不快で仕方がなかった。女だけがびんぼうなくじを引いていると云った姿なり。一生子供なンかほしくないと思う。子供は何度も可愛いくしゃめをしている。

 八銭で買った足袋にも穴があいている。私は若いのに、かさかさに乾いている。ずんぐりむっくりだ。今戸焼の狸(たぬき)みたいだ。どうせそんなものよ。ねえ、カンノン様。私はあんたなんか拝む気はないのよ。もっと苛(いじ)めて下さい。御利益と云うものは金持ちに進上して下さい。

 うどんのげっぷが出る。いやらしくて仕方がない。うどんに何の哲学があるのよ。天才はカステイラを食べているンでしょう? うどんの人生。そのくせ、私は、高尚だとか、文学だとか、音楽や、絵画と云うものに無関心ではいられない。――ポオルとヴィルジニイなんて、可愛らしい小説じゃあないの――。オブロモフもこの世にはいます。オネーギン様、あらあらかしこだ。いっぺんでいいから私と恋を語るひとはないものかしら……。明日から牛屋の女中だなんて悲しい。牛殺しがいっぱいやって来る。地獄の鍋(なべ)に煮てやる役はさしずめ鬼娘。ああ味気ない人生でございます。

 私は女優になりたい。

 浅草は人の波、ゆくえも知らぬさすらい人の巷なりけり。

(十二月×日)

 駒形(こまがた)のどじょう屋の近く、ホウリネス教会の隣りの隣り、ちもとと云う店。まず家の前を二三度行ったり来たりして様子をうかがってみる。昨夜の塩の山が崩れてみじん。薄陽の射した板塀。他人様の家は怖い。牛と云う文字が、急に眼の中に寄って来て、犇(ひしめ)くと云う文字に見えて来る。ああ私には絶好の機会と云うものがない。私は若い、若いから機会をつかみたいのだ。

 ちもとの裏口からはいって行く。台所の若い男がくすりと笑った。逆毛をたてた大きい耳かくしの髪がおかしいのかも知れない。流行と云うものは私には少しも似合わないのだけれども、やっぱり当世の真似はしてみたくなる。

 女中部屋からのぞいている顔。猿のように皺(しわ)だらけのお上さんが、可もなし不可もなしと云った顔つきで、「まア、働いてごらん」と至極あっさりしている。

 持ちものは風呂敷包み一つ。まず朝食に、丼(どんぶり)いっぱいの御飯にがんもどきの煮つけ一皿。ああ嬉しくて私は膝(ひざ)をつきそうにあわててしまう。
恋などとはたかのしれたものだ

散る思いまことにたやすく

一椀の飯に崩折れる乞食の愉楽

洟水(はなみず)をすすり心を捨てきる

この飯食うさまの安らかさ

これも我身なり真実の我身よ

哀れすべてを忘れ切る飢えの行

尾を振りて食う今日の飯なり。

無宿者の歩みつく道

一面の広野と化した巷の風

ああ無情の風と歎(なげ)く我身なり。


 脂の浮いた、どろどろに浸(し)みついた牛肉の匂い。吐気が来そうだ。女中達は全部そろえば八人になるのだそうだけれど、五人が通いで、ここに住み込んでいるのは三人。みなどの顔も大したことではない。耳かくしはおかしいと云うことで、さっそく髪結さんに連れて行って貰う。いちょうがえしに結うのだそうだ。私はまだ桃割れの似合う若さだのに、いちょうがえしでなければならないときいてがっかりしてしまう。

 かたねりの白粉も買わなければならない。何しろ、お風呂へ行って、首だけ白くつけると云う不思議さ。一緒に風呂へ行った澄さんと云うのが、御園白粉が一番いいと教えてくれたけれど、もういちょうがえしに結って、金はみんな出してしまったので、白粉は二三日借りる事にする。

 夕方から女中部屋は大変なにぎわいなり。

 赤ん坊に乳を呑ませている女もいる。みんな二十五六にはなっていそうな女ばかり。私が肩あげをしていると云うので、こそこそと笑いものになる。お芳さんから借りた着物のゆきが長いので、その説明をしようと思ったけれどめんどう臭くなってやめる。どんぐりの背くらべの身すぎ世すぎでいて、この仲間の意地の悪さに腹が立つ。

 朝、私をみてくすりと笑った料理番はヨシツネさんと云った。料理場へ火さげを持って火を取りに行くと、「お前さん、西洋まげより、その髪の方がずっといいよ」と云ってくれた。そして、「ほい、みかん食べな」と云って小さいみかんを二つ投げてくれる。

 ヨシツネさんは定九郎(さだくろう)みたいな感じ、与市兵衛(よいちべえ)を殺しそうな凄味のある顔をしている。

 二三日は座敷へも出ないで使い奴(やっこ)だ。火を運ぶ。下足も取る。ビールや酒も運ぶ。十二時がかんばん。足がつっぱって来る程、へとへとに疲れてしまう。枯れすすきや、かごの鳥の唄が賑(にぎ)やかだ。ああ、これでは私の行末は牛の犇きと少しも変らない。

 一行の詩一つ書く気力も失せそうだ。あんなに飯をたべたいと望みながら……。夕食は、丼いっぱい山盛りの飯に、いかの煮つけ。ありがたやと食べながら、パンのみに生きるに非ずの思いが湧く。

 誰も私の存在なぞ気にかけてくれる人もないだけに安楽な生活なり。ヨシツネさんは馬鹿に親切なり。
「お前さん、こんなとこ始めてかい?」
「ええ……」
「亭主はあるのかい?」
「いいえ」
「生れは何処だ?」
「丹波の山の中です」
「ほう、丹波たア何処だい?」

 さア、私も知らない。黙って煮込場を出て行く。まず、一カ月がせいぜいと云った勤め場所なり。

 夜、女中部屋へ落ちついたのが二時すぎ。私は呆んやりしてしまう。汚れた箱枕をあてがわれて、それに生がわきの手拭をあてて横になる。女達は、寝ながら賑やかに正月のやりくり話をしている。

 どの男から何をせしめて、この男から何を工面してもらって、ああ、こんなひとたちにも男のひとがいるのかと妙な気がして来る。お芳さんは今日は子供を連れて稲毛へ行ったかしら……。私はここにいられるだけいて、その上で、多摩川の野村さんのところへお嫁に行こうかと思う。考えてみたところで、あそこよりほかに行く当もない。

(十二月×日)

 ヨシツネさんが話があると云う。なんの話かと、ヨシツネさんについて、朝の街を歩く。

 泥んこに掘りかえされた駒形の通りから、ぶらぶらと公園の方へ行く。六区の中の旗の行列。立ちんぼうがぶらついているひょうたん池のところまで来ると、ヨシツネさんは、紙に包んだ薄皮まんじゅうを出して三つもくれた。
「お前いくつだ」
「二十歳……」
「ほう、若く見えるなア、俺は十七八かと思った」

 私が笑ったので、ヨシツネさんも頭をかいて笑った。筒っぽの厚司(あつし)を着て汚れた下駄をはいているところは大正の定九郎だ。

 話があると云って、なかなか話がない。ああそうなのかと思う。まんざら嬉しくなくもないけれど、何となくあんまり好きな人でもない気がして来る。朝のせいか、すきすきと池のまわりは汚れて寒い。ヨシツネさんはうで玉子を四ツ買った。塩が固くくっついているのが一ツ五銭。歯にしみとおるように冷いうで玉子を、池を向いて食べる。枯れた藤棚の下に、ぼろを着た子供が二人でめんこをして遊んでいる。
「俺、いくつ位にみえる?」

 背の高いヨシツネさんが、大きい唇に、玉子を頬ばりながら訊(き)いた。
「二十五ぐらい?」
「冗談云っちゃいけないよ。まだ検査前だぜ……」

 へえ、そうなのかと吃驚(びっくり)してしまう。男の年は少しも判らない。ああそんなに若いのかと、急に楽々した気持ちで、
「あんた生れは何処?」

 と、訊いてみた。
「横浜だよ」

 ああ海の見えるところだなと思う。
「どうして、あんな牛屋なンかにいるの?」
「不景気でどこにも一人前の口がないからよ。検査が済んだら、さきの事を考えるつもりだ」

 汚ない池の水の上に、放った玉子のからがきらきら反射している。別に話もない。物憂そうな楽隊の音がしている。石道は昨日の雪どけでべとついている。寒い。カンノン様を拝んで仲店(なかみせ)へ出る。ヨシツネさんがふっと小さい声で、
「俺のとこへ来ないか?」

 と、云った。
「何処?」
「松葉町に、おふくろと二階借りしてるンだよ。おふくろはよその家へ手伝いに出掛けていまいない」

 私はヨシツネさんがあんまり若いので行く気がしない。子供のくせにとおかしくてたまらない。
「どうだ?」と訊かれて、私は、「いやだわ」と云った。ヨシツネさんはまた歩き出す。私も歩く。只、寒いのでやりきれない。歩いているのは平気だけれど、私は恋をするなら、もう、心の重たくなるような男がいい。ヨシツネさんの二階借りに行く気はさらさらないのだ。

 仲店で、ヨシツネさんはつまみ細工の小さい簪(かんざし)を一つ買ってくれた。一足さきに私は店へかえる。

 まだ、通いの人達は来ていない。小さい簪が馬鹿に美しい。澄さんの鏡をかりて髪に差してみる。変りばえもしない顔だちだけれども、首の白いのが妙に哀れに思える。何だか玉の井の女になったような寒々しい気になって来るけれども、何とない自信も湧いて来る。
馬がかんざしを差した

よろけながら荷をひく馬

一斗も汗を流して

ただ宿命にひかれてゆく馬

たづなに引かれてゆく馬

時々白い溜息(ためいき)を吐いてみる

誰もみるものはない

時々激しい勢でいばりをたれ

尻っぺたにむちが来る

坂を登る駄馬

いったいどこまで歩くのだ

無意味に歩く

何も考えようがない。


 退屈なので、鉛筆をなめながら詩を書く。女達はあれこれとやりくり話をしている。誰かが私の簪をみて、
「あら、いいのを買ったじゃアないの」

 と、云った。私はみんなにみせびらかしているような気がしてきた。

 文章倶楽部を読む。生田春月選と云う欄に、投書の詩が沢山のっている。

 夜。ヨシツネさんがまたみかんをくれた。だんだんこの店も師走いっぱい忙(せ)わしい由なり。煮方の料理番が、私がヨシツネさんにみかんを貰っているのを見て冷かしている。

 漂いながら夢のかずかずだ。淋しい時は淋しい時。ヨシツネさんと云うのは、義経と書くのだそうだ。

 ヨシツネさんは善良そのものに見えるけれど、どうにも話が合いそうにもない。私がこのひとの二階へ行って寝たところで、私の人生に大したこともなさそうだ。このひとと一緒になったところで、私はすぐ別れてしまうに違いない。ヨシツネさんは平和なひとだ。

(十二月×日)

 歳末売出しの景気だけは馬鹿にそうぞうしい。――私はやっと客の前へ出るようになった。チップはかなりあるけれど、時々女たちに意地悪をされて取られてしまう事もある。ヨシツネさんが云った。
「お前、馬鹿に本を読むのが好きだな。あんまり読むと近眼になるよ」

 私はおかしくて仕方がない。もう、とっくに近眼になっているのだもの。稲毛のお芳さんから手紙。思わしくないので、正月前に、また東京へ戻りたい由。子供は風邪ばかり引いて、百日咳(ぜき)のひどいのにかかっている。お芳さんは大工さんと夫婦になる由なり。どうにもくってゆけないので、連子でいいと云われたのを倖(さいわ)い、大工さんと一緒になって住むから、勉強するのだったら、一部屋位は貸して上げると景気のいい話だ。

 私は、正月には野村さんのところへ行きたい。野村さんは、早く一緒になろうと云ってくれている。あのひとも貧乏な詩人。

 ここで始めて紫めいせんを二反買う。金五円也。暮までには、裾まわしと、羽織の裏が買えそうだ。

 今日は髪結さんのかえり、ヨシツネさんに逢った。また話があると云う。ヨシツネさんは突然「これはプラトニックラブだよ」と云った。私はおかしくなって、くすくす笑いこける。
「プラトニックラブってなによ?」
「惚れてると云うことだろう……」

 私は何と云うこともなく、何も、野村さんでなくてもいいと思った。ヨシツネさんと一緒になってもいいような気がした。寒いのでミルクホールにはいる。

 大きなコップに牛乳を波々とついで貰う。ヨシツネさんは紅茶がいいと云う。今日は私が御馳走する。ケシの実のついたアンパンを取って食べる。紫色のあんこが柔らかくて馬鹿にうまい。金二十銭也を払う。

 ヨシツネさんは、月々五六十円位にはなるのだそうだ。子供が出来てもやってゆけない事はないと云う。私は、お芳さんの汚ない子供を思い出してぞっとしてしまう。
「私は、お嫁さんになる気はないのよ。勉強したいのよ。ヨシツネさんはもっと若い、十七八のお嫁さんがいいでしょう……」

 ヨシツネさんは黙っていた。しばらくして、「何の勉強だ」と訊く。

 何の勉強だと云われて私は困る。
「私は女学校の先生になりたいのよ」

 ヨシツネさんは妙な顔をしていた。私も妙な気がした。何だか、罪を犯したようなやましい気になる。

 夕方から雨。ヨシツネさんは馬鹿にていねいだ。プラトニックラブと云った顔が、急に中学生のように見えて来る。

 澄さんの客に呼ばれて、随分酒をのまされた。少しも酔わない。客は帝大の学生ばかり。ヨシツネさんと同じ位だけれど、馬鹿に子供子供してみえる。
「このひとは、本ばかり読んでいるのよ」と、澄さんが云った。
「何の本を読んでいるンだ?」

 ずんぐりした、小さい学生が私に杯をさしながら尋ねた。私は「猿飛佐助よ」と大きい声で云った。みんなわアっと笑った。猿飛佐助がどうしておかしいのか私には判らない。酔ったまぎれに、紺屋高尾(こんやたかお)を唸(うな)ってみせる。みんな驚いている。

 学生とはそんなものだ。あんまり酔ったので、女中部屋へ引っこんだのだけれど、苦しくてもどしそうになる。ヨシツネさんがのぞきに来たのを幸い、洗面器を持って来て貰った。酢っぱいものがみんな出る。すべてを吐く。
「ヨシツネさん!」
「何だよ……」
「そこへつっ立ってないで、塩水でも持って来てよ」

 ヨシツネさんはすぐ塩水をつくって来てくれた。帯をとくと、五十銭玉がばらばらと畳にこぼれる。
「無理して飲む奴はないよ」
「うん、プラトニックラブだから飲んだのよ。あんた、そう云ったじゃないの……」

 ヨシツネさんが急にかがみこんで、私の背中をいつまでもなでてくれた。

        *

(十二月×日)

 火を燃やしたくなったので、からになった炭俵や、枯葉をあつめてどんどを燃やす。私はこうした条件のなかで生きる元気がない。少しもない。大切なものを探し出して燃やしてやりたくなる。部屋のなかへはいって、大切なものを探してみる。野村さんの詩の原稿を三枚ばかり持ち出して火の上にあぶってみる。焼けてしまえばこの詩は灰になるのだと思うと、憎さも憎しだけれども、何となく気おくれして、いけない事だと思い、またもとのところへしまう。

 私は何も出来ない。勇気のない女になりさがってしまっている。今朝、私たちは命がけであらそった。そして、男はしたいだけの事をして街へ行ってしまった。あとかたづけをするのは私なのだ。障子は破れ、カーテンは引きちぎれ、皿も茶碗も満足なのはない。貧乏をすると云う事が、こんなに私達の心身を食い荒してしまうのだ。残酷なほどむき出しになるのだ。私は男をこんなに憎いと思ったことはない。私は足蹴(あしげ)にされ、台所の揚け板のなかに押しこめられた時は、このひとは本当に私を殺すのではないかと思った。私は子供のように声をあげて泣いた。何度も蹴られて痛いと云う事よりも、思いやりのない男の心が憎かった。

 毎日のように、私は男の原稿を雑誌社に持って行った。少しも売れないのだ。何だかもう行きたくなくなったのよと冗談に云った事が、そんなに腹立たしいのだろうか……。私は、どんなに辛い時だってにこにこしている事なんかやめようと思う。どうしても行きたくない事も時にはある。わけのわからぬところへ使いに行くのはがまんがならないのだ。自分で行ってくればいいのだ。私はもう、そんな辛い使いにはあきあきした。

 飯も食えないのに一人前の事を云うなッと怒った。飯が食えないと云って、物乞いのような気持ちには私はなれないのだ。

 火を燃やしながら、私は今度こそ別れようと思う。そのくせ、一銭も持たないで家を飛び出した男の事を考えて無性に泣けて来る。どうしているかと哀れなのだ。

 道の下の鯉の池が、石油色に光っている。大家さんの女中さんらしいのがかれすすきの唄をうたって横の道を通っている。大家さんは宮武骸骨さんと云う人なのだそうだ。家からずっと離れた丘の上に邸があるので、ここの人達を見た事がない。私の家は六畳一間に押入れに台所。土壁のないバラックで、昔は物置であったのかもしれない。私はここへ引越して来ると、新聞紙を板壁に二重に張った。蒲団は野村さんので充分だと云うので、下宿屋の払いの足しに売り払って、三円ばかし残しておいたので、私はカーテンや米を買ってお嫁入りして来たのだけれども……。火を燃やしながら、私はいろいろな事を考える。もう、これが私の人生の終りなのかもしれない。私は死にたいと思う。もう、こんな風な生きかたがめんどうくさいのだ。独りでいるには淋しいし、二人になればもっと辛いのだと思うと、世の中が妙にはかなくなって来る。

 夜、破れたカーテンを繕いながら、いろいろな空想をする。火の気のない凍るような夜ふけ。あしおとがする度、きき耳をたてる。遠くで多摩川電車のごうごうと云う音がする。あんまり静かなので、耳の中がしんしんと鳴る。行末はどんなになるのか見当がつかない。どうにかなるだろうと思ってもみる。朝から飯をたべていないので、躯(からだ)じゅうが凄(すご)んで来る。虎のようにのそのそと這いまわりたいような烈しい気持ちになる。

 部屋の中を綺麗(きれい)にかたづけて寝床を敷く。ここにも敷布のない寝床。寝巻きがないので裸で私はおやすみ。水へ飛びこむような冷たさ。こっぽりと着物を蒲団の上にかける。着物の匂いがする。時々、枕もとで鯉がはねる。夜更けの街道をトラックが地響きをたてて坂を降りて行く。
冒涜(ぼうとく)はおつつしみ下され

私には愚痴や不平もないのだ

ああ百方手をつくしても

このとおりのていたらく

神様も笑うておいでじゃ

折も折なれば

私はまた巡礼に出まする

時は満てり神の国は近づけり

(なんじ)ら悔い改めて福音を信ぜよ

ああ女猿飛佐助のいでたちにて

空を飛び火口を渡り

血しぶきをあげて私は闘う

福音は雷の音のようなものでしょうか

一寸おたずね申し上げまする


 どうにも空腹にたえられないので、私はまた冷い着物に手を通して、七輪(しちりん)に火を熾(おこ)す。湯をわかして、竹の皮についたひとなめの味噌を湯にといて飲む。シナそばが食べたくて仕方がない。十銭の金もないと云う事は奈落の底につきおちたも同じことだ。トントン葺(ぶ)きの屋根の上を、小石のようなものがぱらぱらと降っている。ここは丘の上の一軒家。変化(へんげ)が出ようともかまわぬ。鏡花(きょうか)もどきに池の鯉がさかんにはねている。味噌湯をすする私の頭には、さだめし大きな耳でも生えていよう……。狂人になりそうだ。どうにもならぬと思いながら、夜更けの道を、あのひとがあんぱんをいっぱいかかえてかえりそうな気がして来る。かすかにあしおとがするので、私ははだしで外へ出て見る。雪かと思うほど、四囲は月の光りで明るい。関節が痛いほど寒い。ぱったりと戸口で二人が逢えばどんなに嬉しかろう……。

 遠いあしおとは何処かで消えてしまった。硝子戸(ガラスど)を閉ざして、また七輪のそばに坐る。坐ってみたところで、寒いのだけれども、横になる気もしない。何か書いてみようと、机にむいてみるのだけれども膝小僧が破れるように寒くてどうにもならない。少し書きかけてやめる。かんぴょうでもいいから食べたい。

(十二月×日)

 朝。思いがけなく母がまっかな顔をしてたずねて来る。探し探しして来たのだと云って小さい風呂敷包みをふりわけにかついで、硝子戸のそとに立っていた。私はわっと声をあげた。ああ、何と云うことでございましょう。浜松で買ったと云う汽車のべんとうの食い残しの折りが一ツ。うで玉子が七ツ。ネーブルが二ツ。まことにまことにこれこそ神の国の福音のような気がする。私へのネルの新しい腰巻きに包んだちりめんじゃこ。それに、母の着がえと髪の道具。顔も洗わないで、私は木の香のぷんと匂うべんとうを食べる。薄く切った紅(あか)いかまぼこ、梅干、きんぴらごぼう。糸ごんにゃくと肉の煮つけ、はりはり、じゅうおうむじんに味う。

 田舎も面白いことがない由なり。不景気は底をついとるぞなと母は歎く。いくら持っているのと聞くと、六十銭より持っておらぬと云う。どうするつもりなのと叱ってみる。四五日泊めて貰えれば、お父さんも商売の品物を持って来ると云う。

 霜のきつい朝だったのだけれど、ぽかぽかとした陽が部屋いっぱいに射し込む。泊めたくても蒲団がないのよと云ってはみたものの、このまま何処へこのひとを追い出せると云うのだろう……。三枚の座蒲団をつないで大きい蒲団を一枚ずつ分けて何とか工夫をして寝て貰うより仕方がない。

 陽のあたる処へ蒲団を引っぱって来て母に横になって貰う。母はもう部屋の様子で、私の貧しい事を察したとみえて、何も云わないで、水ばなをすすりながら羽織をぬいで、寝床の中へはいった。私は小さい火鉢に、昨日のどんど焼きの灰を入れて火を入れる。やがて、湯がしゅんしゅんとわく。茶の葉もないので、べんとうの梅干を入れて熱い湯を母へ飲ませる。

 父は輪島塗りの安物を仕入れたので、それを東京で売るのだそうだ。東京には百貨店と云う便利なものがあるのを知らないのだ。夜店で並べて売ったところで、いくらも売れるものではない。私は困ってしまう。うで玉子を一つむいて食べる。あとは男へ食べさせてやりたい。
「東京も不景気かの?」
「とても不景気ですよ」
「どこも同じかのう……」

 梅干をしゃぶりながら母が心細い顔つきをしている。今度の男さんは、どのような人柄で、何の商売かとも母は聞かない。非常に助かる。聞かれたところでどうしようもないのだ。母はからの茶筒に手拭をあて、暫(しばら)く眠った。口を開けて気持ちよさそうに眠っている。昼過ぎになって野村さん戻って来る。

 母を引きあわせようとする間をすりぬけて、机へ向いて本を読み始める。母と私は台所の板の間に座蒲団を敷いて坐った。湯をわかしてうで玉子を四つにネーブルを二つ、机のそばへ持って行って、おみやげですよと云うと、只、ほしくないよッときつく云って、みむきもしない。私はかあっとして、うで玉子を男の頭にぶちつけてやりたい気になった。何と云うひねくれたひとであろうかとやりきれなくなって来る。まだこのひとは怒っているのだろうか……。このえこじな、がんこなところが私には不安なのだ。私の書きかけの詩の原稿がくしゃくしゃにまるめられて部屋のすみに放ってある。私はそれを拾ってしわをのばしているうちに、何とも切なくなってきて、誰にもきこえないように泣いた。どうしたらいいのか自分でもわからない。母は息をころしたように台所の七輪のそばにうずくまっている。泣くだけ泣くと、すぐからりと気持ちが晴れて、私はもうどうでもいいと云う思いにつきあたって気が軽くなった。母がしょんぼりしたかっこうで、私を見るので、私はにゅっと舌を出してみせた。涙がこぼれぬ要心のために、舌を出していると、こめかみと鼻の芯(しん)がじいんと痛くなる。

 台所の土間へ降りて、縁の下にかくしてある風呂敷の中に、しわをのばした原稿をしまう。見られては悪いものばかりはいっている。長い間書きためた愚にもつかないものばかりだけれども、何となく捨てかねて持ち歩いている私の詩。これこそ一文にもならぬものだ。焼いてしまいたいと何度か思いながら、十年もたったさきへ行って、こんなこともあった、あんなこともあったと思うのも無駄ではないとも思える。

 どうにもやりきれないので、外出をする支度をする。何処と云って行くあてはないのだけれども、一応母を連れ出してよく話をしなければならぬ。私は粉炭(こなずみ)を火鉢の中に敷いて、火をこっぽりと埋めて、やかんをかけておいた。二つある玉子を母にもむいてやる。母は音もさせないで玉子をのみこむように食べた。
「一寸、そとへお母さんと出て来ます」

 と、机のそばへ行ったのだけれど、男は相変らずみむきもしない。二人で外へ出た時は、腹の底から溜息が出た。私は何度も深呼吸をした。私がそんなに厭(いや)な女なのだろうかと思う。まるで自信がなくなってしまう。ごみくずのような気がして来る。只、私は若すぎると云うだけだ。何も知らないのかも知れない。それでも自分には何の悪気もないのよとべんかいめいた気持ちにもなるのだ。

 たまにささやかな金がはいって、五銭で豆腐を買い、三銭でめざしを買い、三銭でたくあんを買って、三色も御ちそうが出来たと云うと、つまらんことを自慢にすると小言が出るし、たまに風呂へ行って、よその女のように首へおしろいを塗って戻ると、君の首はいくびだから太くみえてみにくいのだと云う。どうしたらいいのか私にはわからない。この男と一生連れそってゆくうちには、はがねのようにきたえられて、泣きも笑いもしない女に訓練されそうな気がして来る。私はふところへいれて来た玉子をむいて、母へもう一つ食べなさいと口のそばへ持って行ってやった。もうほしゅうないと云うので厭な気持ち。むりやり食べさせる。

 私は歩きながら、ふっと、前に別れた男のところへ行って十円程金をかりようかと思った。芝居をしていたひとなので、旅興行にでも出ていたらおしまいだと思ったけれども、運を天に任せて渋谷へ出て、それから市電で神田へ出てみる。街は賑やかで、何処も大売出し。明るい燈火が夜空にほてっている。停留所のそばには、団扇(うちわ)だいこを叩いてゆく人達がいた。レディメイドの洋服屋が軒なみに並んでいる。母は茶色のコオールテンの上下十五円の服を手にして、お父さんに丁度よかねと、いっとき眺めていた。金さえあれば何でも買えるのだ。金さえあればね。

 私は洋服を見たり、賑やかな神保町(じんぼうちょう)の街通りを見たりして、仲々考えがさだまらなかった。やっとの思いで母を通りに待たせて、そのひとの家へ行ってみる。路地をはいると魚を焼く匂いがしていた。台所口からのぞくと、そのひとのお母さんがびっくりして私を見た。お母さんはあわてた様子でどもりながら、風呂へ行っているよと云った。私はすうっとあきらめの風が吹いた。どうでもいいと思った。急いでさよならをして路地を出ようとすると、そのひとが手拭をさげて戻って来た。私は逢うなり十円貸して下さいと云った。もやの深い路地の中に、男は当惑した様子で、家へ戻って行った。そしてすぐ何か云いながら五円札を持って来て、これだけしかないと云って、私の手にくれるのだ。私は息が出来ないほど体が固くなっていた。罪を犯しているような気がした。あなたの平和をみだしに来たのではないのよ。美しいおくさんと仲良くお暮し下さいと云いたかった。私はまるで雲助みたいな自分を感じる。芝居に出て来るごまのはいのような厭な厭な気がして来た。走って路地を出ると、洋服屋の前で母はしょんぼり私を待っていた。私の顔を見るなり母は、「何処か便所はなかとじゃろか? どうしようかのう、冷えてしもて、足がつっぱって動けん」と云う。私は思いきって母をおぶい、近くの食堂まで行った。食堂の扉を開けると、むっとするほどゆげがこもって、石炭ストーヴがかっかっと燃えてあたたかい部屋だった。母を椅子にもおろさないで、私はすぐ、はばかりを借りて連れて行った。腰が曲らないと云うので、男便所の方で後むきに体をささえてやる。何と云う事もなく涙があふれて仕方がないのだ。涙がとまらないのだ。男達の残酷さが身にこたえて来るような気がした。別に、どの人も悪いのではないのだけれども、こうした運命になる自分の身の越度(おちど)が、あまりに哀れにみじめったらしくてやりきれなくなるのだ。

 私は今日から、ものを書く男なぞ好きになるのはやめようと心にきめる。俥夫(しゃふ)でも大工でもいいのだ。そんな人と連れ添うべきだ。私も、もう、今日かぎり詩なぞ書くのはふっつりやめようときめる。私の詩を面白おかしく読まれてはたまらない。ダダイズムの詩と人は云う。私の詩がダダイズムの詩であってたまるものか。私は私と云う人間から煙を噴いているのです。イズムで文学があるものか! 只、人間の煙を噴く。私は煙を頭のてっぺんから噴いているのだ。

 母をストーヴのそばの椅子に腰かけさせる。座蒲団を借りて、腰を高くして楽にしてやる。
「御飯に、よせなべに、酒を一本頂戴」

 酒が十五銭、よせなべが二人前六十銭。飯が一皿五銭。私は熱い酒を母のチョコと私のチョコについだ。酒が泡を吹いている。盃(さかずき)がまた涙でくもってぼおっと見えなくなる。私はたてつづけに三四杯飲む。酒が胸に焼けつくようだ。壁の鏡のそばで、学生が二人夕刊を読みながら、焼飯を食べている。母も眼をつぶって盃を口へ持って行っている。二本目の酒を註文(ちゅうもん)して、また独りで飲む。心の中がもうろうとして来る。母はよせなべのつゆを皿盛りの御飯にかけてうまそうに食べている。

 空腹に酒を飲んだせいか、馬鹿に御めいてい。私は下駄をぬいで椅子に坐った。両手の中に顔を伏せていると部屋のなかがシーソーのようにゆらゆらとゆれる。何も思う事はない。只、ゆらりゆらり体がゆれているきり。不ざまな卑しい女は私なのよ。ええ、そうなの……まことにそうなンです。蛆(うじ)が降りかかって来そうだ。

 盃に浮いた泡をふっと吹く。煮えたぎった酒。おっかない酒。しどろもどろの酒。千万の思いがふうっと消えてなくなってゆく酒。背中をなでて貰いたい酒。若い女が酒を飲むのを、妙な顔で学生が見ている。世間から見ればおかしなものに違いない。だいぶあたたまったのか、母も椅子の上にちょこんと坐った。私はおかしくてたまらない。
「大丈夫かの?」

 母は金の事を心配している様子。私は現在のここだけが安住の場所のような気がして仕方がない。何処へも行きたくはない。

 〆(しめ)て一円四銭の払いなり。四銭とはお新香だそうだ。京菜の漬けたのに、たくあんの水っぽいのが二切れついている。

 あかね射す山々、サウロ彼の殺されるをよしとせり。その日エルサレムに在る教会にむかいて大いなる迫害おこる……。ああ、すべては今日より葬れ。今日よりすべてを葬るべし。

 瀬田へ戻ったのが十時。湯気のたっている熱いシュウマイをまず主にささげん。――野村さんはもう蒲団の中に寝ていた。机の横に、私の置いたままのかっこうで、玉子とネーブルがまだ生きている。私は部屋に立ったまま恐怖を感じる。足もとが震えて来る。壁の方をむいたまま動かない人を見てはもうろうとした酔いもさめ果てる。私は破れた行李(こうり)を出して、その中に座蒲団を敷き母をその中に坐らせる。早く夜明けが来ればいいのだ。七輪に木切れを焚(た)き部屋をあたためる。

 新聞紙を折りたたんで、母の羽織の下に入れてやる。膝にも座蒲団をかけ、私も行李の蓋の中へ坐る。まるで漂流船に乗っているようなかっこうだ。

 七輪の生木がぱちぱちと弾けて、何とも云えない優しい音だ。来年は私も二十一だ。はやく悪年よ去れ! 神様、いくらでも私をこらしめて下さい。もっとぶって、打ちのめして下さい。もっと、もっと、もっと……。私は手が寒いので、羽織の肩あげをぷりぷりと破って袖口で手を包んだ。血へどを吐いてくたばるまで神様、ぶちのめして下さい。

 明日はカフエーでも探して、母を木賃宿(きちんやど)にでも連れて行こうと思う。あったかいシュウマイを風呂敷に包んで母の下腹に抱かせる。しんしんと寒いので、私は木切れを探しては燃やす。涙の出るほどけぶい時もある。駅の待合所にいるつもりになれば何でもないのだ。寝ているひとは死人のように動かない。全身で起きていて、あのひとも辛いのに違いないと思う。辛いからなおさら動けないのだ。

(十二月×日)

 夕焼のような赤い夜明け。炭がないので、私は下の鯉屋の庭さきから、木切れを盗んで来る。七輪にやかんをかけて湯をわかす。机のそばのネーブルを一つ取って来て、母へミカン汁をしぼってそれに熱い湯をさして飲ませる。

 さて、私もいよいよ昇天しなければならぬ。駅の近くの荒物屋へ行って、米を一升買う。雨戸がまだ一枚しか開いていない。暗い土間にはいって行くと、台所の方で賑やかな子供達のさわぐ声がして、味噌汁の香りが匂う。人々のだんらんとはかくも温く愉しそうなものかと羨ましい気持ちなり。男の為にバットを二箱買う。福神漬を五十匁買う。

 帰ってみると、母は朝陽の射している濡れ縁のところで手鏡をたてて小さい丸髷(まるまげ)をなでつけていた。男は、べっとりと油ぎった顔色の悪さで、口を開けて眠っている。

        *

(一月×日)

 侮辱拷問も……何もかも。黙って笑っている私の顔。顔は笑っている。つまんで捨てるような、ごみくその、万事がうすのろの私だけれども、心のなかでは鬼のような事を考えている。あのひとを殺してしまいたいと云う事を考えている。私の小さい名誉なぞもう、ここまでにいたれば恢復(かいふく)の余地なしだ。

 奇怪な悶絶(もんぜつ)しそうな生きかた! そして一文の金もないのだ。

 獰猛(どうもう)な、とどろくような思いが胸のなかに渦巻く。今夜の雪のように。雪よ降れッ。降りつもって、この街をうめつくして、ちっそくするほど降りつもるがいい。今夜も、この雪の夜も、どこかで子供を産んでいる女がいるに違いない。

 雪と云うものはいやらしいものだ。そして、しみじみと悲しいものだ。泥んこの穴蔵のなかの道につらなる木賃宿の屋根の上にも雪が降っている。荒(す)さんで眼のたまをぐりぐりぐりぐりと鳴らしてみたい凄(すご)んだ気持ちだ。

 只、男のそばから逃げ出したと云う事だけがかっさい拍手。いったい、神様、私にどうしろとあなたは云うのよ。死ねばいいの? 生きてどうしようもない風に追いこむなんてつれないではございませんか! 追込み部屋の暗い六畳の部屋。まず、ごみ箱のような匂いがする。がいこつのようなよぼよぼの爺さんが一人と、四人の女。私だけが肩あげをして若い。只、若いと云うのは名ばかり。女の値打ちなぞ一向にありませんとね……。一升ばかり飲んで酔っぱらって、雪の街を裸で歩いてみたいものだ……。ええ飲まして下さるなら、一升でも二升でも飲んでみせます。

 私は、じいっと台の上の豆らんぷを頼りに、自分の詩を読んでみる。

 みんな本当の、はらわたをつかみ出しそうな事を書いているのに一銭にもならない。どんな事を書けば金になるのだッ。もう、殴る事なンかしない優しい男はいないのだろうか? 下手くそな字で、何がどうしたとか書いたところで、誰もああそうなのと云ってくれる者は一人もない。

 鯖(さば)のくさったのを食べてげろを吐いたようなもンだ……。おっかさんは私に抱きついてすやすやおやすみだ。時々、雪風が硝子戸に叩きつけている。シナそば屋のチャルメラの音色がかすかにしている。ものを書いてみようなぞとは不思議せんばん。お前のようなうすのろに何が出来るのだ。

 明日は場末のカフエーにでも住み込んで、まずたらふくおまんまを食べなければならぬ。まず食べる事。それから、いくばくかの金をつくる事。拷問! 拷問! 私にもそれ位の生きる権利はあろう……。

 みんなしたり顔で生きている。

 お爺さんが起きて、煙管で煙草を吸いはじめた。寒くておちおち眠っていられないとこぼしている。問わずがたりのお爺さんの話。二日ほど前までは四谷の喜よしと云う寄席の下足番をしていたのだそうだ。心がけが悪くて子供は一人もない由なり。時には養老院にはいる事も考えるけれど、何と云ってもしゃばの愉しみはこたえられぬ。一日や二日は食わいでも、しゃばの苦労は愉しみだと爺さんが面白い事を云う。もう六十五歳だそうだ。私の半生はあんけんさつ続きで、芽の出ないずくめだと笑っていた。あんけんさつとは何なのか判らん。卑劣な生きかたとは違うらしい。さしずめ、私達はさんりんぼうの続きをやっていると云うものだろう。毎日、心の中で助けてくれッ、助けてようと唄のように唸(うな)ってばかりいる。電気ブランを飲んでるような唸りかたなり。
「お爺さん、玉の井って知ってる?」
「ああ知ってるよ」
「前借さしてくれるかしら?」
「ああ、それゃアさしてくれるねえ」
「私のようなものにもさしてくれるかしら?」
「ああ、さしてくれるとも……お前さん行く気かい?」
「行ってもいいと思ってるのよ。死ぬよりはましだもン」

 爺さんは両手で禿(は)げた頭を抱えこむようにさすりながら黙っていた。

(一月×日)

 からりとした上天気。眼もくらむような光った雪景色。四十年配のいちょうがえしの女が、寝床に坐ってバットを美味(おい)しそうに吸っている。敷布もない木綿の敷蒲団が垢光(あかびかり)に光っている。新聞紙を張った壁。飴色(あめいろ)の坊主畳。天井はしみだらけ。樋(とい)を流れる雪解け。じいっと耳を澄ましていると、ととん、とんとん、ととんと初午(はつうま)のたいこのような雪解けの音がしている。皆は起き出してそれぞれ旅人の身づくろい。私は窓を開けて屋根の雪をつかんで顔を洗った。レートクリームをつけて、水紅を頬へ日の丸のようになすりつける。髪にはさか毛をたてて、まるでまんじゅうのような耳かくしにゆう。耳がかゆくて気持ちが悪い。

 烏(からす)が啼(な)いている。省線がごうごうと響いている。朝の旭町(あさひまち)はまるでどろんこのびちゃびちゃな街だ。それでも、みんな生きていて、旅立ちを考えている貧しい街。

 私のそばに寝た三十年配の女は、銀の時計を持っている。昔はいい暮しをしていたと昨夜も何度か話していたけれど、紫のべっちん足袋は泥だらけだ。

 役にもたたぬ風呂敷包みを私達は三つも持っている。別にどうと云うあてもなく、多摩川を逃げ出して来て、この木賃宿だけが楽天地のパレルモなり。

 洋々たり万里の輝(ひか)りだ。曖昧(あいまい)なものは何一つない。只、雪解けの泥々道を行く気持ちが心に重たい。痩(や)せた十字架の電信柱が陽に光っている。堕落するには都合のいい道づればかりだ。裸の生活はあきあきした。華族さんの自動車にでもぶちあたって、おお近うよれと云うようなしぎには到らぬものか。若いと云う事は淋しい事だ。若いと云う事は大した事でもないのだもの……。私の手はまんじゅうのようにふくれあがっている。短い指のつけ根にえくぼがある。女学校のころ、ディンプル・ハンドだと先生に云われた。笑った手。私の手は今だに笑っている。

 山出しの女中さんよろしくの姿では誰も相手にしようがあるまい。玉の井で前借もむつかしいに違いあるまい。

 まず、おっかさんを宿へ残して、角筈(つのはず)を振り出しに朝の泥んこ道を、カフエーからカフエーへ歩いてみる。朝のカフエーの裏口は汚なくて哀しくなってしまう。勇気を出せ、勇気を出せと唸ってみたところでどうしようもない。金の星と云う店に勤める事にする。金の星とは名ばかり、地獄の星とでも云いたいような貧弱な店。まず、ここから花火をどおんと打ちあげる事につかまつる。お女郎屋が軒なみなので、客は相当ある由なり。台所で女の子が、私に塩せんべいを一枚くれた。ふっと涙があふれそうになる。ほてい屋で、十五銭の足袋を一足買う。

 宿賃は一人三十五銭。当分は二人七十銭の先払いでこの宿が安住の場所。本郷バアでカキフライと、ホワイトライスを一人前取っておっかさんと私の昼飯とする。

 夕方、金の星に御出勤。女は私を入れて三人。私が一番若い。ネフリュウドフはみつからぬものかと思う。心配なしに表情だけで「ねえ」と云ってみなければならぬとなれば、少々下ぶくれであっても、ひとかどの意地の悪さでチップをかせがねばならぬ。ああ、チップとは何でしょうかね。お乞食さんと少しも変らない。全身全力で「ねえ」と云わなければならぬ商売。ものを書いてたつきとなるなぞ、ああ遠い。もう眼がみえませぬと臭い便所の中で舌を出してやる。ものを書くなぞと云う希望なぞはない。何も出来っこはない。詩を書くなぞとは愚の骨頂だ。ボオドレエルが何だって? ハイネのぶわぶわネクタイは飾りものなのよ。全く、あのひと達は何で食べていたのかしら……。

 ヌウザボン、ブウサベエだ。パルドン、ムッシュウ。ちょいとごめんなさいねと云う言葉だそうですね。

 おかみさんに、羽織をかたにして二円借りる。一円五十銭をおっかさんにやって、電車道の富の湯へ行く。大きい鏡にうつったところはまず健康児。少しも大人らしくない、くりくりとした桃色の裸。首から上だけがお釜(かま)をかぶったようないでたち。女給さんがうようよとはいっている。しゃべっている。三助が忙(せ)わしそうに女の肩をぽんぽんと叩いている。滝のあるペンキ絵。白粉(おしろい)や産院の広告が眼につく。何日ぶりで湯にはいったのかとおかしくなる。

 街は雪解けで仄明(ほのあか)るい街のネオンサインが間抜けてみえる。かりの名をまず淀君(よどぎみ)としようか。蝙蝠(こうもり)のお安さんとしようか……。左団次の桐一葉(きりひとは)の舞台が瞼(まぶた)に浮かぶ。ああ東京はいろんな事があったと思う……。辛いことばかりのくせに、辛い事は倖せな事にはみんな他愛なく忘れてしまう。どんどろ大師の弓ともじって、弓子さんと云う名にする。弓は固くてせめてもの慰めだ。はっしとまとを射て下さい。

 わけのわからぬ客を相手に、二円の収入あり。まず大慶至極。泥んこ道の夜店の古本屋で、チエホフとトルストイの回想を五十銭で買う。大正十三年三月十八日印刷。ああいつになったら、私もこんな本がつくれるかしら……。

≪誰でも物を書いた時は、始めと終りとを削らなければならないと思いますよ。そこで、我々小説家は、嘘を云い勝ちですからね。そして短かく書かなければいけません。出来るだけ短かく……≫

 チエホフがこんな事を云っている。

 十一時頃客が一寸(ちょっと)途絶える。店の隅っこで本を読んでいると、勝美さんと云う大きい女が、「あんた近眼なのね」と云った。もう一人はお信さん。子供が二人もあって、通いなのだそうだ。勝美さんは色が黒いので、オキシフルを綿につけては顔を拭いている。私は白粉をつけない事にする。顔をいじくる気はもうとうないのだ。勝美さんだけが住み込みでいる。朝、塩せんべいをくれた女の子が、メリンスのちゃんちゃんこを着て店へ出て来た。痩せた病身な子供だ。

 明日は太宗寺にサーカスがあるから一緒に行こうと私に云う。ろくろ首のみせものもあるのだそうだ。

 旭町へ戻ったのが二時。くたくたに疲れる。今夜も同じ顔ぶれ。

 何だか少しも眠れないので、豆ランプを枕もとに置いて読書。

(一月×日)

 まア驚いた。トルストイと云う作家は、伯爵だったンだ。――いわゆるトルストイの無政府主義と呼ばれるものは、主要的にかつ基礎的に、我々スラヴの反国家主義を表現しているものであり、それは真実の国民的特徴であり、往時から我々の肉の中に沁(し)みこみ、漂浪的に散ろうとする我々の慾望でもあります。――ロシヤの歴史の雄なる作家トルストイが、伯爵さまであったとは今日の日まで私は知らなかった。伯爵さまでものたれ死にをするのだ。

 おかあさん、ロシヤ人のトルストイは華族さんなんですよ。驚いたものだ。私は妙な気がして躯じゅうがぞおっと寒くなった。
「えらい勉強だね」

 銀時計のおばさんが髪をかきつけながら笑っている。

 まことに御勉強ですとも……。トルストイが華族の出だって事は始めて知った事なンだもの、吃驚(びっくり)してしまう。私はトルストイの宗教的なくさみは判りたくないけれども、トルストイの芸術は美しく私の胸をかきたてる。あなたは、蔭(かげ)ではひそかに美味(うま)いものを食っていたンでしょう? アンナ・カレニナ、復活、ああどうにもやりきれぬ巨(おお)きさ……。

 しおしおとして金の星に御出勤。

 別れた人なぞは杳(はる)かにごま粒ほどの思い出となり果てた。せめて三十円の金があれば、私は長いものを書いてみたいのだ。天から降って来ないものかしら……。一晩位は豚小舎のような寝かたをしてもかまいません。三十円めぐんでくれる人はないものか……。

 卓子(テーブル)を拭き、椅子の脚を拭く。ああ無意味な仕事なり。水を流し、ドアのシンチュウをみがく。やりきれなくなって来る。手が紫色にはれあがって来る。泣いているディンプル・ハンド。女の子が鳩笛を吹いている。お女郎が列をなして店の前を通っている。みんな蒼(あお)い顔をして首にだけ白粉を塗った妙ないでたち。島田にかのこの房のさがったような髪かたち。身丈(みたけ)の長い羽織なので、田舎風に見える。暗い冬の荒れ模様の空の下を奇妙な列が行く。誰も何とも思わない。こうした行列を怪しむものは一人もないのだ。

 今日はレースのかざりのあるエプロンを買う。女給さんのマークだ。金八十銭也。

 東京の哀愁を歌うにふさわしい寒々とした日。足が冷いので風呂をやめて、椅子に坐って読書。全く寒い。新しいエプロンののりの匂いが厭(いや)になる。

 夜。

 四五人の職人風の男が私の番になる。

 カツレツ、カキフライ、焼飯、それに十何本かの酒。げろを吐いて泣くのもおれば、怒ってからむのもいる。じいっと見ていると仲々面白い。一時間ほどして女郎屋へ出征との事だ。

 ああ世の中は広いものだと思う。どんな女がこの男達のあいてになるのかと気の毒になって来る。玉の井に行かなくてよかったと思う。在所から売られて来た娘の、今日の行列のさまざまが思い出されて来る。

 勝美さんはもう、相当酔っぱらって歌をうたい始めた。客は二人。二人ともインバネスを着た相当ないでたち。お信さんは時々レコードをかけながらするめをしゃぶっている。今夜は商売繁昌なので、やっと奥から火鉢が出る。

 勝美さんの客は、私にも酒を差してくれた。美味しくも何ともない。五六杯あける。少しも酔わない。年をとった眼鏡の男の方が、お前は十七かと尋ねる。笑いたくもないのに笑ってみせる。ここのところが自分でも何ともいやらしい。

 夕飯を八時頃食べる。いかの煮つけを食べながら、あのひとはいまごろ、何を食べているのだろうかと哀れになって来る。欠点のない立派なひとにも考えられる。お互いの気まずさは別れて幾日もしないうちに消えてきれいになるものだ。惚々(ほれぼれ)とするような手紙でも書いて、ほんの少しの為替でも入れてやりたいような気がして来る。

 一時のかんばん過ぎにも客があった。

 勝美さんはすっかり酔っぱらって、何処(どこ)から私は来たのやら、何時(いつ)また何処へかえるやらと妙な唄をうたっている。狭い店の中は煙草の煙でもうもう。流しや花売りが何度も這入(はい)って来る。わあっと狂人のように叫びたくなって来る。勝美さんは酔って火鉢の中へ、焼飯をあけている。油のいぶる厭な匂いがする。

 かえり二時半。

 今夜はお爺さんはいないかわりに子供づれの夫婦者が寝ている。収入三円八十銭也。足袋がまっくろで気持ちが悪い。

 豆ランプを引きよせて読書。ますます眠れない。

 みんなが単純なことを書かなければならぬ。いかにして、ピータア・セミョノヴィッチが、マリイ・イワノヴナと結婚したか、それだけで充分です。そしてまた、なぜ、心理的研究、様子、珍奇などと小見出しを書くのでしょう。みんな単なる偽りです。見出しは出来るだけ簡単に、あなたの心の浮かんだままがよく、外のものはいけません。括弧やイタリックや、ハイフンも出来るだけ少く使うこと、みんな陳腐です。――なるほどね。私もそう思いますが、若い気持ちの中には、仲々そうはゆかない珍奇さに魅力を持つものです。でも、いまに何時(いつ)か私もチエホフの峠にかかりましょう。いまに……。

 思いだけが渦をなして額の上を流れる。ごうごうと音をたてて流れて行く。そしてせんじつめるところは焦々(いらいら)として何も書けないと云うこと。このままでは何も出来やしない。まさか、年を取ってからもカフエーの女給さんでいようとは思わない。何とか神様にお助けを願いたいものだ。ノートを出して何か書こうと鉛筆を握ってはみるけれども何一つとして言葉が浮かんで来ない。別れたひとの事が気にかかるだけだ。

 さきの事は一切夢中。あのねえ、私はこんな事考えるのよと云うような小説でも書けないものかと思う……。

 田舎へ帰りたくなったとおっかさんは云う。ごもっともな事です。私だって、田舎へ行って、久しぶりに、晴々とした田舎の空気を吸いたいのだけれども、こんなしがない小銭をかせいでいてはどうにもなるものではない。

        *

(二月×日)
朝霧は船より白く

遠き涙の硝子石

酷い土中のなかの石

(かん)の花も凍るよと

つれなき肌の一色は

高き声して巷(ちまた)の風に

独りは歩く只歩く。

汚水の底のどろどろと

この胃袋の衰弱を

笑いも出来ぬ人ばかり

おのが思いも肩掛けに

はかなき世なりと神に問う。

人の世は灰なりとこそ

こもれる息もうたかたの

そのうたかたの浮き沈み

男こいしと唄うなり

地獄のほむら音たてて

荒く息するかたりあい。

せめてと頼むひともなく

いつかと待てど甲斐(かい)もなく

うき世の豆の弾(は)ぜかえり

はかなきは土中の硝子

吹かれて光る土中の硝子。


 善悪貴賤(きせん)、さまざまの音響のなかに私はひっそり閑と生きている一粒のアミーバアなり。母を田舎へ戻して二日。もう、何事もここまでで程よい生き方なりと心にきめる。死ぬのはどうしても厭! それなのにどうしても生きてゆかなければならない人間の慾。――野村さんよりハガキが来る。表記に越した。どうやら活気のある生活をとり戻した。一度来られたし。先日の手紙ありがとう。金はたしかに受取った。

 やにわに、ただ心だけが走る。牛込の肴町で市電を降りて、牛込の郵便局の方へ歩く。昼夜銀行の横を曲って、泡盛(あわもり)屋の前をはいった紅殻(べんがら)塗りの小さいアパート。二階の七番と教えられて扉を叩く。何もないがらんとした部屋なり。

 何処かへ出掛けるところとみえてあのひとが帽子をかぶって立っていた。私はやみくもに笑った。あのひともにやにや笑った。とてもいいところへ引越したのねと云うと、詩集を一冊出したので、これからは大変景気がよくなるだろうと云う。それにしても、部屋の中はがらんとしている。野村さんは、これから食堂へ飯を食いに行くのだが、五十銭貸してくれと云う。一緒に戸外へ出る。

 泡盛屋の前で、はんてん着のお爺さんが酔ってたおれている。繩のれんの中にはひしめくような人だかり。銭湯のような繁昌ぶりだ。

 飯田橋まで歩いて、松竹食堂と云うのにはいる。卓子は砂ぼこり。丼飯にしじみ汁、鯖の煮つけで、また、夫婦のよりが戻ったような気になる。このひとといることは身のつまる事だと思いながら、私はまた陽気な気持ちになり、うんうんといい返事ばかりしてみせる。このひとといて泣く事ばかりだったと云う事はみんな忘れてしまう。

 このごろは詩の稿料も幾分かよくなったよと野村さんの話なり。新潮社と云うところは詩一つに就いて六円もくれるのだそうだ。羨(うらや)ましい話だ。食堂を出て、また牛込まで歩く。郵便局のところで、野村さんは、とてもひげの濃いずんぐりした男のひとと丁寧なあいさつをした。佐々木俊郎と云うひとで、新潮社にいるひとだそうだ。ああそれで、あんなに丁寧なあいさつをしなければならなかったのかと思う。

 私は心のうちでごおんと鐘の鳴るような淋しい気持ちになった。ものを書くと云うことはみじめなものだと思った。一年に一度位六円の稿料を貰っては第一食べてはゆけないではないのと云うと、あのひとは、むっとしたそぶりで、風のなかへぺっぺっとつばきを吐いた。

 アパートの前でさよならと云うと、あのひとは私なぞみむきもしないでさっさと二階へ上って行った。私はどうしたらいいのか途方にくれる。朝ぎりや、二人起きたる台所。多摩川にいた頃の二人の侘(わび)しい生活を思い出して、私は下駄をにぎったまま二階へ上って行く。扉を開けると、野村さんは、帽子をかぶったまま本を読んでいる。私は、本当にこの人が好きなのかきらいなのか自分でも判らなくなっている。じいっと坐っているとカフエーに帰りたくて仕方がない。「じゃア、帰ります。またそのうち来ます」と云うと、あのひとはそばにあったナイフを私に放りつける。小さいナイフは畳に突きささった。私はああと心のなかに溜息(ためいき)が出る。まだこのひとは、この厭な癖が抜けないのだ。瀬田の家でも、私は幾度かナイフを投げつけられた。このまま立ちあがると、野村さんは私の躯を足で突き飛ばすに違いないので身動きもならない。寒々とした雨もよいの空がぼんやり眼にうつる。

 誰かが扉をノックしている。私は立ちあがって、扉を開けた。見知らぬ若い男のひとが立っている。私はそのひとを救いの神のように思い、どうぞおはいり下さいと云って、そっと下駄をつかんで廊下へ出て行った。野村さんが何か云って廊下へ出て来たけれども、私は急いで表へ出て行った。風邪をひきそうに頭の痛い気持ちだった。

 横寺町の狭い通りを歩きながら、私は浅草のヨシツネさんの事をふっと思い浮べた。プラトニックラブだよと云ったヨシツネさんの気持ちの方がいまの私にはありがたいのだ。

 独りでいると粗暴な女になる。

 夜。

 酔っぱらって唄をうたっているところへ、にゅっと野村さんが這入って来た。私は客の前で唄をうたっていた唇をそっとつぼめて、黙ってしまった。私の番ではなかったけれども、あのひとに金のない事は判りきっている。胸のなかが酢っぱくなって来る。

 勝美さんがほおずきを鳴らしながら酒を持って行った。私は腰から下がふわふわとして来る。そっと勝美さんを裏口へ呼んで、あのひとは私の知ってるひとで金がないのだからと云うと、勝美さんはのみこんで表へ出て行った。私はそのまま遊廓(ゆうかく)の方へ歩いて行く。畳屋の管(かん)さんに逢う。何処へ行くンだと云うから、煙草買いに行くンだと云うと、管さんは、寿司をおごろうと云って、屋台寿司に連れて行ってくれた。管さんは新内のうまいひとだ。西洋洗濯屋の二階に、お妾(めかけ)さんを置いていると云う風評だった。

 ゆっくり時間をとって、帰ってみると、まだ野村さんはいた。そばへ行って話す。酒を飲み、焼飯を食って、平和な表情だった。私は、どんな犠牲もかまわないと思った。

 十時頃野村さん帰る。

 土のなかへめりこんで行きそうな気がした。愛情なぞと云うものはありようがないのだと自分で気づく。

(二月×日)

 朝、大久保まで使いに行く。家賃をとどけに行くのだ。いくらはいっているのか知らないけれど、ふくらんだ封筒を見ると、これだけあれば一二カ月は黙って暮らせるのだと思う。大久保の家主は大きい植木屋さん。帳面に受取りの判こを貰って、お茶を一杯よばれて帰る。

 新宿の通りはがらんとしている。花屋のウインドウに三色すみれや、ヒヤシンスや、薔薇(ばら)が咲き乱れている。花はいたって幸福だ。電車通りのムサシノ館はカリガリ博士。久しく活動もみないので、みたいなと思う。街を歩きながらうとうととした気持ちなり。平和な気配。森閑と眠りこけている遊廓のなかを通ってみる。どの家の軒にも造花の桜が咲いている。
裏町の黄色い空に

のこぎりの目立ての音がしている

売春の町にほのめく桜 二月の桜

水族館の水に浮く金魚色の女の写真

牛太郎が蒲団を乾している

はるばると思いをめぐらした薄陽に

二階の窓々に鏡が光る。

売春はいつも女のたそがれだ

念入りな化粧がなおさら

犠牲は美しいと思いこんでいる物語

(あぶみ)のない馬 汗をかく裸馬

レースのたびに白い息を吐く

ああこの乗心地

騎手は眼を細めて股(もも)で締める

不思議な顔で

のぼせかえっている見物客

遊廓で馬の見立てだ。


 雑貨屋で大学ノート二冊買う。四十銭也。小さいあみ目のある原稿用紙はみるのもぞっとしてしまう。あのひとを想い出すからだ。あのひとは小さいあみ目の中に、月が三角だと書き、星が直線だと書く。生きて血を噴くものにおめにかかりたいものだ。ふわふわと鼻をふくらませて第一に息を吸うこと。口にいっぱいうまいものを頬ばること第二。千松は厭で候。誰とでも寝るために女は生きている。今はそんな気がする。

 ふっと気が変って、また牛込へ尋ねてゆく。野村さんは不在。神楽坂の通りをぶらぶら歩く。古本屋で立読み。このぐらいの事は書けると思いながら、古本屋の軒を出ると、もう寒々と心の中が凍るように淋しくなる。何も出来ないくせに、思う事だけは狂人のようだ。また本屋に立ち寄ってみる。手あたり次第にぱらぱらと頁をめくる。何となく気が軽くなる。そしてまた戸外へ出ると心細くなって来る。歩いていることがつまらなくなって来る。すべては手おくれになった手術のようで、死を待つばかりの心細さ……。

 店へ戻ると、もう掃除は出来ていた。

 医学生が三人で紅茶を飲んでいる。二階へあがって畳に腹這いごろごろと転ぶ。口のなかからかいこの糸のようなものを際限もなく吐き出してみたくなる。悲しくもないのに涙があふれる。

(二月×日)

 雨。風呂のかえり牛込へ行く。

 襟(えり)おしろいをつけているので、如何(いか)にも女給らしいと野村さんが叱る。はい、私は女給さんなのだから仕方がないでしょうと云う。女給さんがどうして悪いのよ。何でもして働かなくちゃ、他人さまは食わしてくれないのだもの……。もう、私の働いている場所へ来ないで下さいねと云うと、野村さんは灰皿を取って、私の胸へ投げつけた。眼にも口にも灰がはいる。肺の骨がピシッと折れたような気がした。扉口へ逃げると、野村さんは私の頭の毛をつかんで畳へ放り出した。私は死んだ真似をしていようかと思った。眼が吊(つ)りあがって、猫にくいつかれた鼠のような気がした。何か二人の間にはまちがい事があるのだと思いながら、男と女の引力がつながっている。腹の上を何度か足で蹴られた。もう、金なぞビタ一文も持って来るものかと思う。

 千葉亀雄さんが親類だと云うのだから、あのひとに話してみようかと思ったりする。私は動けないので、羽織を足へかけて海老(えび)のように曲って眠る。

 夕方になって眼が覚める。あのひとはむこうむきで机へ向いている。何か書いている。金だらいの手拭を取ると手拭がかちかちに凍っている。呆(ぼ)んやりと裸電気を見ていると、お母さんのところへ帰りたくなった。

 肺の骨がどうにも痛い。灰皿は破れたまま散らかっている。

 早く店へ戻りたいとも思わない。このまま朝まで眠っていたいのだ。寒さで、躯がぶるぶる震えている。風邪を引いたのか、馬鹿に頭の芯(しん)がずきずきと音をたてている。

 そっと起きて髪を結いなおす。

 その夜、起きられないので、財布を出して、あのひとに、カレーなんばんを二つ取って来て貰って二人で食べた。何も話がないので二人で仲よく寝てしまう。

(二月×日)

 朝、まだ雨が降っている。みぞれのような雨。酒でも飲みたい日だ。寝床のなかで、いつまでもあれこれと考えている。野村さんは紅い唇をして眠っている。肺病やみの唇だ。肺病は馬の糞(ふん)を煮〆(にしめ)た汁がいいと誰かに聞いた事がある。このひとの気性の荒さは、肺病のせいなのだと思うとぞっとして来る。多摩川で一度血を吐いた事がある。一つしかない手拭を、私が熱湯で消毒したのを見て、野村さんはとても怒った事がある。

 もう、これが最後で、本当にお別れだと思う。何処からか味噌汁の匂いがする。むらさきのさむるも夢のゆくえかな。誰かの句をふっと思い出した。何となく、外国へ行ってみたくなる。インドのような暑い国へ行ってみたいのだ。タゴールと云う詩人もインドのひとだそうだ。

 野村さんは、通いにして、また一緒に住めばいいと云ってくれたのだけれど、私は心のなかにそんな気のない事をはっきりと自覚している。私は殴られる相手として薄馬鹿な顔をしているのは沢山だ。楽天家ぶっているのには閉口。あなたが、殴りさえしなければ戻って来たいのよと嘘を云う。

 店へ戻ったのがお昼。がんもどきの煮つけと冷飯。息をもつかずのどを通る。近所の薬屋で桜膏(さくらこう)を買って来てこめかみへ張る。胸の骨が痛いので、胸にも桜膏をいく枚も張りつける。
あわれこもりいのヒヤシンス

むらさきのはなびら

うす紅のべん

におう におう

尼ぼとけの肩。

うなばらにただよう屍

根株のひげ根の波よせて

におう におう

(しお)ざいの遠鳴り

波がしらみな北にむく。

伏せていこうはは

屍の炬燵(こたつ)

ほのかににおう

うつつ世のつかれ念仏

あくびまじりの或日の太陽。


 自由に作曲が出来たら、こんな意味をうたいたい。

(三月×日)

 うららかな好晴なり。ヨシツネさんを想い出して、公休日を幸い、ひとりで浅草へ行ってみる。なつかしいこまん堂。一銭じょうきに乗ってみたくなる。石油色の隅田川、みていると、みかんの皮、木裂(こっぱ)、猫のふやけたのも流れている。河向うの大きい煙突からもくもくと煙が立っている。駒形橋のそばのホウリネス教会。あああすこはやっぱり素通りで、ヨシツネさんには逢う気もなく、どじょう屋にはいって、真黒い下足の木札を握る。籐畳(とうだたみ)に並んだ長いちゃぶ台と、木綿の薄べったい座蒲団。やながわに酒を一本つけて貰う。隣りの鳥打帽子の番頭風な男がびっくりした顔をしている。若い女が真昼に酒を飲むなぞとは妙な事でございましょうか? それにはそれなりの事情があるのでございます。久米(くめ)の平内(へいない)様は縁切りのかみさんじゃなかったかしら……。酒を飲みながらふっとそんな事を思う。鳥打帽子の男、「いい気持ちそうだね」と笑いかける。私も笑う。

 ささくれた角帯に、クリップで小さい万年筆の頭がのぞいている。その男もお酒を飲んでいる。店さきにずらりと自転車が並び、だんだん客がふえて来る。まるで天井にかげろうがまっているような煙草のもうもうとした煙。少しの酒にいい気持ちになって来る。どじょう鍋になまずのみそ椀、香のものに御飯、それに酒が一本で八十銭。何が何だってとたんかの一つもきりたいようないい気持ちで戸外へ出る。広い道をふらふらと歩く。二天門の方へまわってみる。ごたごたと相変らずの人の波だ。裸の人形を売っている露店でしばらく人形を眺めてみる。やっぱりきりょうのいいのから売れてゆく。昼間のネオンサインがうららかな昼の光りに淡く光っている。鐘つき堂の所から公園のなかへぶらぶら歩く。

 誰一人知った人もない散歩でございます。少々は酔い心地。まことに、なつかしい浅草の匂い。淡嶋(あわしま)さまの、小さい池の上の橋のところに出て少し休む。鳩が群れている。線香屋さんの線香の匂いがする。ああ何処を向いても他国のお方だ。埃(ほこり)っぽい風が吹いている。あらゆる音がジンタのように聞えて来る。

 池の石の上に、甲羅の乾いた亀がもそもそと歩いている。いまにいいことがあるぞと云ってくれているのではないかと、にゅっと首をあげている亀の表情をじいっとあきずに眺めている。少しはねえ、いいことがあるように、私のことも考えて下さいなと亀に話しかけてみる。慾ばってはいかん。はい、承知いたしました。何が慾しい? はい、お金がどっさりほしいです。毎日心配なく御飯がたべられるほどお金がほしいです。男はいらぬか? はい、男はいりません。当分いりません。それは本当かね? はい、本当の事でございます。男はやっかいなものです。辛くて一緒にはおられません。私は何をしたら一番いいでしょう? それは知らん。あんまり薄情な事は云わないで下さい。――亀と話をしているのは面白い。一人で私はぶつくさと亀と話をしている。

 足もとの小石を拾って、汚れた池へどぽんと投げる。亀の首が縮む。その縮みかたが何だかいやらしい。わあっと笑い出したくなって来る。

 こんなに賑やかなところにいて、亀も私も到って孤独だ。かんのん様が何だよと呶鳴(どな)りたくなる。巨きなお堂のなかへ土足でがたがたと這入る。暗い奥に燈がいさり火のようにゆらゆらと光っている。

 夕方新宿へ帰る。行くところもないので店へ戻る。二階で勝ちゃんが大きな声で浪花節(なにわぶし)を歌っている。電気もつけないで薄暗い所で歌をうたっている。あああれがけいせいけいこくと云い、金さえあれば自由になるものか、わしもやっぱり人の子じゃア……。気持ちの悪い声なり。

 疲れたので、毛布を出して横になる。

 ああこれでは一生このままで終ってしまう。どうにもならぬ。ぱっとした事はないのだろうか……。何かがバクハツするような事はないのでしょうかね、神様……。毛布が馬鹿に人間臭い。暗い戸外を、「別嬪(べっぴん)さん」と男がどこかの女を呼んでいる声がしている。今日は主人夫婦は子供を連れて成田さんにお参り。おかみさんのおふくろさんが留守番に来ている。コックの大さんと云う爺さんが、私達にいりめしをつくってくれている。

 勝ちゃんが階下からウイスキーを盗んで来た。私製ジョニオーカア。暗がりで二人でウイスキーをビンの口から飲みあう。一丈位も躯がのびたような気がする。文明人のする事ではないでしょうけれど、まあ、この女達を哀れにおぼしめして下さい。私は酔うと鼻血の出るような勇ましい気になる。

        *

(六月×日)
肥満(ふと)った月が消えた

悪魔にさらわれて行った

帽子も脱がずにみんな空を見た。

指をなめる者

パイプを咥(くわ)えるもの

声を挙げる子供たち

暗い空に風が唸る。

咽喉笛(のどぶえ)に孤独の咳(せき)が鳴る

鍛冶屋(かじや)が火を燃やす

月は何処かへ消えて行った。

(さじ)のような霰(あられ)が降る

(いが)みあいが始まる。

(か)け金で月を探しに行く

何処かの煖炉(だんろ)に月が放り込まれた

人々はそう云って騒ぐ。

そうして、何時の間にか

人間どもは月も忘れて生きている。


 スチルネルの自我経。ヴォルテエルの哲学。ラブレエの恋文。みんな人生への断り状だ。生きていることが恥かしいのだ。労働は神聖なり、誰かがおだてて貧乏人にこんな美名をなすりつける。鼻もちもならぬほど、貧民を軽蔑(けいべつ)し、無学文盲をあなどりたい為(ため)に、いろんな規則ががんじがらめに製造される。貧民は生れながらの私生児のようなものに落ちこんで行く。

 幸福の馬車は、いちはやくこうした徒輩の間を一目散に走り去ってゆく。みんな見送る。ただ、ぼんやりとわめき散らす。月が盗まれたような気がして来る。虚空に浮いている幸福な金貨のような月の光りは消えた。月さえも万人の所有物ではないのだ。――私は貴族は大嫌い。皮膚に弾力のない不具者だ。

 今日も南天堂は酔いどれでいっぱい。辻潤(つじじゅん)の禿頭(はげあたま)に口紅がついている。浅草のオペラ館で、木村時子につけて貰った紅だと御自慢。集まるもの、宮島資夫(すけお)、五十里(いそり)幸太郎、片岡鉄兵、渡辺渡、壺井繁治、岡本潤。

 五十里さん、俺の家には金の茶釜がいくつもあると呶鳴っている。

 なにかはしらねど、心わあびて……渡辺渡が眼を細くして唄っている。私はお釈迦(しゃか)様の詩を朗読する。人間、やぶれかぶれな気持ちになると云うものは全く気持ちのいいものだ。やぶれかぶれの気持ちの中から、いろいろな光彩が弾ける。黒いルパシカを着た壺井繁治と、角帯を締めた片岡鉄兵がにやにや笑っている。

 辻潤訳のスチルネルがいくら売れたところで、世の中は大した変りばえもしない。日本と云うところはそう云ったところだ。がんじがらめの王国。――帰り、カゴ町の若月紫蘭邸へ寄る。東儀鉄笛の芝居の話あり。

 岸輝子さん黒い服を着ている。私はこのひとの音声が好きだ。――俳優とは如何なるものであろうか……。私には何の自信もないのだけれども、只、こうして通って来るだけだ。そして、ヨカナアンを覚え、オフェリヤを猿真似のように私は朗読する。詩人にもなってみたい、俳優にもなってみたい、そして、絵描きにもなってみたい。

 若い周囲には、魔法のように様々な本能が怖(おそ)れ気もなくうごめいている。この、若い人達の中から、どれだけの名優が生れて来るのかは判らないけれども、この座に坐っている時だけは幸福の門の前に立っているような気がする。紫蘭邸を一歩外へ出ると、何とない自分の将来に対して幻滅を感じるのだけれども、朗読をしている間は倖せな思いがする。

 今夜はストリンドベリイの稲妻に就いての講義あり。

 帰り、カゴ町の広い草っぱらで螢(ほたる)が飛んでいた。かえり十二時。白山(はくさん)まで長駆して歩いてかえる。

 炭屋の二階四畳半が当座の住居。部屋代は四円。自炊するのには一山二十銭の炭を買って燃料にはことかかない。蜜柑(みかん)箱の机に向ってまた仕事。童話をいくつ書けば、いったいものになるのか判らない。シンデレラめいたもの、イソップめいたもの、そのどれもこれもが一向に何の反響もない。

 四囲がわあっと炭臭い。炭臭くてどうにもならない。――神様、神様と云うもの……。まるい、ふわふわ、三角のとげとげ、どんな形をしているのだ、貴方(あなた)は? 髯(ひげ)をはやして眼をつぶって、白い羽根をシダのように垂れさげているのですかね。もやもやの真空なのか? 神よ! いったい、貴方は、本当に私のまわりにも立っているのか云って下さい。きっと、私のようなもののところには来ないのでしょう? 神様! 本当に貴方は人間のところに存在しているのですかどうですか? 神様よ。私には一向に見えない。そのくせ、私は見えない貴方に手を合わせる。誰も見ていないから、甘ったれ、涙を流して、じいっと、貴方に祈る。何とかして、このイソップが明日の糧になりますように。あの編輯者(へんしゅうしゃ)の咽喉もとを締めつけてやって下さい。パイプを咥えて気取って、二時間も、あの暗い狭い玄関に待たされる。下手くそな、自分の童話を巻頭に乗せて威張っているようなあの編輯者をこらしめて下さい。たまに買ってくれれば上前をはねてしまう。一日じゅうお椀のようなナイトキャップをかぶって、パイプを咥えているのがハイカラだと思っている男。

 あまり無名なものの作品は載せたくないんだと云う。読者の子供が、無名も有名も知った事ではない筈だ。一生懸命に書いてみたンですけど駄目でしょうかと必死になる。私は何時間も待たされてなぶり者になってしまう。一枚三十銭でなくてもいい、二十銭でもいいから取って下さいと頼んでみる。では特別ですよとこの間も十枚で一円五十銭くれて、まアよく勉強するンだな。アンデルゼンでも読み給え。はい、アンデルゼンを読みます。玄関を出るなりわっと割れるような息をする。

 あの編輯者メ、電車にはねられて死なないものかと思う。雑誌も送って来やしない。本屋で立読みをすると、私の童話が、いつの間にか彼の名前で、堂々と巻頭を飾っている。頭も尻尾(しっぽ)も書きかえられて、私の水仙と王子がちゃんと絵入りで出ている。

 次の原稿を持って行く時は、私は、そんなものは何も知らない顔で、にこにこと笑って行かなければならない。また二時間も待たされて、笑顔をつづけている事にくたびれてしまう。ああ、厭な仕事だと溜息が出る。神様! これでも悪人をはびこらせておくのですか。

 童話が厭になると詩を書く。だけど、詩もてんから売れやしない。見ておきましょうと云って、みんなかすみのように忘れられてしまう。

 神様よ。いったい、どうして生きてゆけばいいのか私は判らない。貴方は何処に立っているんですか。

(六月×日)

 朝、重い頭をふらふらさせて、本郷森川町の雑誌社へ行く。電車道でナイトキャップの男に会う。笑いたくもないのに丁寧に笑って挨拶をする。その男は社へ行く道々も、詩集のようなものを読みながら歩いている。

 玄関の暗い土間のところに、壁に凭(もた)れてまた待つ用意をする。小さい女の子が出て来て、厭な眼つきをして私を見ては引っこむ。
「赤い靴」と云う原稿を拡げて、私はいつまでも同じ行を読んでいる。もう、これ以上手を加えるところもないのだけれども、何時までも壁を見て立っているわけにはゆかないのだ。

 ああ、やっぱり芝居をしようと思う。

 時計は十二時を打っている。二時間以上も待った。いろんな人の出入りに、邪魔にならぬように立っていることがつまらなくなって、戸外へ出る。何だって、あの男は冷酷無情なのかさっぱり判らない。無力なものをいじめるのが心持ちがいいのかも知れない。

 歩いて根津権現裏の萩原恭次郎のところへ行く。

 節ちゃんは洗濯。坊やが飛びついて来る。

 朝も昼も食べないので、躯(からだ)じゅうが空気が抜けたように力がない。坊やに押されると、すぐ尻餅をついてしまう。恭ちゃんのところも一銭もないのだと云う。恭ちゃんは前橋へ金策の由なり。

 銀座の滝山町まで歩く。昼夜銀行前の、時事新報社で出している、少年少女と云う雑誌は割合いいのだと聞いたので行ってみる。

 係の人は誰もいないので、原稿をあずけて戸外へ出る。四囲いちめん食慾をそそる匂いが渦をなしている。木村屋の店さきでは、出来たてのアンパンが陳列の硝子をぼおっとくもらせている。紫色のあんのはいった甘いパン、いったい、何処のどなたさまの胃袋を満すのだろう……。

 四丁目の通りには物々しくお巡りさんが幾人も立っている。誰か皇族さまのお通りだそうだ。皇族さまとはいったいどんな顔をしているのだろう。平民の顔よりも立派なのかな。ゆっくり歩いてカフエーライオンの前へ行く。ふっと見ると、往来ばたの天幕小屋に、広告受付所、都新聞と云うビラがさがって、そのそばに、小さく広告受付係の婦人募集と出ている。天幕の中には、卓子が一つに椅子が一つ。そばへ寄って行くと、中年の男のひとが、「広告ですか?」と云う。受付係に雇われたいのだと云うと、履歴書を出しなさいと云うので、履歴書の紙を買う金がないのだと云うと、その男のひとは、吃驚した顔で、「じゃア、これへ簡単に書いて下さい。明日から来てみて下さい」と親切に云ってくれた。ざらざらの用紙に鉛筆で履歴を書いて渡す。

 この辺はカフエーの女給募集の広告が多いのだそうだ。皇族がお通りだと云うので街は水を打ったように森閑となる。どの人もうつむいて動かない。巡査のサアベルが鳴る。

 人々の列の向うをざわざわと自動車が通る。自動車の中の女の顔が面のように白い。ただそれだけの印象。さあっと民衆は息を吹きかえして歩きはじめる。ほっとする。

 明日から来てごらんと云われて、急に私は元気になった。日給で八十銭だそうだけれども、私には過分な金だ。電車賃は別に支給してくれる由なり。その男のひとの眼尻のいぼが好人物に見える。
「明日早く参ります」と云って歩きかけると、そのひとが天幕から出て来て、私に何も云わないで十銭玉を一つくれた。おじぎをするはずみに涙があふれた。神様がほんの少しばかりそばへ寄って来たような温い幸福を感じる。執念深い飢がいつもつきまとっている私から、明日から幸福になる前ぶれの風が吹いて来たような気がする。今朝、私は米屋で貰った糠(ぬか)を湯でといて食べた事がおかしくなって来る。躯を張って働くより道はないのだと思う。売れもせぬ原稿に執念深く未練を持つなんて馬鹿々々しい事だ。「赤い靴」の原稿は、あのままでまた消えてゆくに違いないのだ。

 あの皇族の婦人はいかなる星のもとに生れ合せたひとであろうか? 面のように白い顔が伏目になっていた。どのようなものを召上り、どのようなお考えを持たれ、たまには腹もおたてになるであろうか。あのような高貴の方も子供さんを生む。只それだけだ。人生とはそんなものだ。

 夕方から雨。

 傘がないので、明日の朝の事を考えると憂鬱になって来る。

 夜更まで雨。どこかであやめの花を見たような紫色の色彩の思い出が瞼の中を流れる。

(六月×日)

 前はライオンと云うカフエーで、その隣りは間口一間の小さいネクタイ屋さん。すだれのようにネクタイが狭い店いっぱいにさがっている。

 今日で四日目だ。

 三行広告受付で忙がしい。一行が五十銭の広告料は高いと思うけれども、いろんな人が広告を頼みに来る。――芸妓募集、年齢十五歳より三十歳まで、衣服相談、新宿十二社何家と云う風に申込みの人の註文(ちゅうもん)を三行に縮めて受付けるのだ。浅草、松葉町カフエードラゴン、と云うのが麗人求むなのだから、私は色々な事を空想しながら受付ける。

 かんかんと陽の照る通りを、美しい女達が行く。私はまだ洗いざらしたネルを着ている。暑くて仕方がないけれど、そのうち浴衣の一反も買いたいと思う。

 眼の前のカフエーライオンでは眼の覚めるような、派手なメリンスを着た女給さんが出たりはいったりしている。世の中には、美しい女達もあるものだと思う。まるで人形のようだ。第一等の美人を募集するのに違いない。

 こうした賑やかな通りは、およそ、文学と云うものに縁がない。金さえあれば、いかなる享楽もほしいままなのだ。その流れの音を私は天幕の中でじいっとみつめている。たまには乞食も通る。神様らしきものは通らない。そのくせ、昼食時のサラリーマンの散歩姿は、みんな妻楊枝(つまようじ)を咥えて歩いている。ズボンのポケットに一寸手をつっこんで、カンカン帽子をあみだにかぶり、妻楊枝をガムのように噛(か)んでいる。

 私は天幕の中で色々な空想をする。卓子のひき出しの中には、ギザギザの大きい五十銭銀貨が溜(たま)ってゆく。これを持って逃げ出したらどんな罪になるのだろう……。広告主はみんな受取を持って来るから、広告がいつまでたっても出ないとなれば呶鳴りこんで来るかもしれない。これだけの金があれば、どんな旅行だって出来る。外国にだって行けるかも知れない。これだけの金を持って何処かへ行く汽車に乗る。そして、それが罪になって、手をしばられてカンゴクへ行く。空想をしていると、頭がぼおっとして来る。この半分を母へ送ってやれば、どんないいひとがみつかったのかと田舎では驚くかもしれない。あのひと達を二人そろって呼びよせる事も出来る。

 理想的な同人雑誌を出す事も出来るし、自費出版で美しい詩集を出す事も出来る。卓子の鍵(かぎ)をじいっとみつめていると、心がわくわくして来る。ひき出しをあけて金を数える。百円以上も貯(たま)っている。大したものだ。銀貨の重なった上に掌をぴたりとあててみる。気が遠くなるような誘惑にかられる。私以外にはここには誰もいない。四時になれば、あの眼尻にいぼのあるひとが金を取りに来る。

 罪人になる奇蹟(きせき)

 何と云う罪になり、どの位カンゴクにはいるものだろう……。

 神様がこんな心を与えるのだ。神がね。
「朝から夜中まで」の銀行員の気持ちにもなる。

 プロシャのフレデリックは「誰でも、自分自身の方法で自分を救わなければならぬ」と云ったそうだ。ああ、誰かが金を持って、この天幕を訪れる。私は鉛筆をなめながら、註文主の代筆で三行の文章を綴る。みんな美しい奴隷を求める下心だ。その下心を三行に綴るのが私の仕事。もう、私の頭の中には詩も童話も何もない。

 長い小説を書きたいと想う事があっても、それは只、思うだけだ。思うだけの一瞬がさあっと何処かへ逃げてゆく。

 花柳病院の広告を頼みに来る医者もいる。まことに、芸妓募集、花柳病院とは充実したものだ。私は皮肉な笑いがこみあげて来る。あらゆるファウストは女に結婚を約束して、それからすぐ女を捨てる。三行広告にもいろいろな世相が動いている。

 それが証拠には、産婆の広告も毎日やって来る。子供やりたしとか、貰いたしとか、いかようにも親切に相談とか。広告を書きながら、私は私生児を産みに行く女の唸り声を聞くような気がする。

 そして、私は、毎日、いぼさんから八十銭の日給を頂戴してとことこ本郷まで歩いて帰るのだ。

 感化院。養老院。狂人病院。警察。ヒミツタンテイ。ステッキガール。玉の井。根津あたりの素人淫売宿。あらゆる世相が都会の背景にある。

 或る作家曰(いわ)く、三万人の作家志望者の、一番どんじりにつくつもりなら、君、何か書いて来給え……。ああ、怖るべき魂だ。あの編輯者が、私を二時間も待たせる根性と少しも変りはない。

 私は生涯、この歩道の天幕の広告取りで終る勇気はない。天幕の中は六月の太陽でむれるように暑い。ほこりを浴びて、私はせいぜい小っぽけな鉛筆をくすねるだけで生きている。

 北海道の何処かの炭坑が爆発したのだそうだ。死傷者多数ある見込み……。銀座の鋪道(ほどう)はなまめかしくどろどろに暑い。太陽は縦横無尽だ。新聞には、株で大富豪になった鈴木某女の病気が出ている。たかが株でもうけた女の病気がどうであろうと、犯罪は私の身近にたたずんでいる。

 株とは何なのか私は知らない。濡手で粟(あわ)のつかみどりと云う幸運なのであろう。人間は生れた時から何かの影響に浮身をやつしている。

 三万人の尻っぽについて小説を書いたところで、いったい、それが何であろう、運がむかなければどうにも身動きがならぬ。

 夜、独りで浅草に行く。ジンタの音を聴くのは気持ちがいい。誰かが日本のモンマルトルだと云った。私には、浅草ほど愉しいところはないのだ。八ツ目うなぎ屋の横町で、三十銭のちらし寿司をふんぱつする。茶をたらふく飲んで、店の金魚を暫(しばら)く眺めて、柳さく子のプロマイドをエハガキ屋でいっとき眺める。

 どの路地にもしめった風が吹いている。

 ふっと、詩を書きたくなる一瞬がある。歩きながら眼を細める。何処からも相手にされない才能、あの編輯者のことを考えるとぞおっとして来る。まんまと人の原稿をすり替えた男。この不快さは一生忘れないぞと思う。私にだって憎悪の顔がある。何時も笑っているのではありません。笑顔で窒息しそうになる気持ちを幸福な人間は知るまい。私は、そんな人間の前で笑っていると、胸の中では呼吸のとまりそうな窒息感におそわれる。

 一つの不運がそうさせるのだ。

 残酷な人の心。チエホフの、アルビオンの娘みたいなものだ。

 寿司屋では茶柱が二本も立ったので、眼をつぶってその辻占(つじうら)をぐっと呑みこんでしまった。だから、お前はいやしいと云うのだ。ほんの少しの事にでもキタイを持ちたがる。たかが広告取りの女に、誰が何をしてくれると云うのだねと、神様みたいなものがささやきかける。また、あの糠。いやな、日向(ひなた)臭い糠――。帰り合羽橋へ抜けて、逢初町の方へ出るところで、辻潤の細君だと云うこじまきよさんに逢う。

 逢初の夜店で、ロシヤ人が油で揚げて白砂糖のついたロシヤパンを売っていた。二つ買う。

 現実に戻ると、日給の八十銭は仲々ありがたい。

        *

(七月×日)
薄曇り四年にわたる東京の

隙間をもれて

思い出はこの空気の濁り

午後にやむ雨

(せみ)の声網目の如し

胸の轟(とどろ)き小止(おや)みめぐる血

西片町のとある垣根の野薔薇(のいばら)

其処(そこ)ここに捉(とら)われる風

小さき詩人よ

所在(ありか)なくさまよう詩人

窮して舞う銭なしの詩人

寂寞の重さにひしがれ

彷徨(さまよ)うは旅の夢跡

何処(どこ)やらに琴のきこゆる

消える音 消える夢

西片町の静かなる朝

金魚屋のいこう軒

浸み渡る円(えん)の水

赤い尾ひれのたまゆらの舞い

咽喉(のど)がかわく

真白な歯は水くぐる

歓びは枇杷(びわ)の果のしたたり

盗みて食う庭かげ

酢くしわめる舌は

英吉利(イギリス)語の如し

不愉快なバイブルの革表紙

しめって臭く犬の皮むけ

西片町の邸の匂い

枇杷の実はくさったまま

木もれびの下のキジ猫

森閑と静もれる西片町

金魚屋のバッカン帽子が呟く

詩人もしゃがむ

円にうつす水鏡

雲に浮く金魚の合唱

生死のほどはいまもわからぬ

ただこの姿あるうちに召しませ

西洋洗濯のペンキ車

白い陶の表札と呼鈴

時間のとどまる一瞬の朝

この家々が澄まして悪を憎む

ペンキ車は後追う詩人

どこやらでうその鳴き声

世に叫ぶ何ものも持たざる詩人

開闢(かいびゃく)とは今日のことなり

昨日はもうすでに消え

あるは今日のみ今の現実

明日が来るのか……

明日があるのか詩人は知らぬ


(七月×日)
斑々(まだらまだら)に立つ斑々

人生の青さの彼方(かなた)

重く軽く生きる斑々

燈火によるかげろう

只ひきずられて生きる

忽然(こつぜん)と消えるも知らず

希望らしげな斑々の顔

悪念怨恨(えんこん)その日暮し

どうせ死ぬ日があるまでは

ムイシュキン様の憤怒(ふんぬ)絶望。

よりにもよって暗い顔

楽しい月日の人生なぞとは

あわあわとたわけたことだ

辛抱強くよくも飽きずに

Mボタンをはずしたり閉めたり

(ひらめ)き吹きあげる焔(ほのお)の息

斑々の辛抱強さの厚顔

(しき)りと雷同する斑々

時々はあじさいの地位名誉

下碑が鍋尻を洗う容貌(きりょう)

軽く重く衝突する斑々

床の間には忠孝

欄間には洗心

壁間には欲張った風流

ああ私は下婢となって

毎日毎日鍋尻を洗うのだ

斑々の偽善!


 自分が何故こんなところにいるのか判らない。只、何となく家庭らしさをあこがれて来たようなあいまいな気持ちばかり。五円のおてあてではどうにもならぬ。――旦那さまは大学の先生だと云う。何を教えているのかさっぱり判らない。英国へ行っていたけいれきはあるのだそうだ。毎朝パン食。牛乳が一本。ひげをそって、水色裏の蝙蝠傘(こうもりがさ)を持って御出勤になる。大学までは、ほんの眼と鼻のところだのに、蝙蝠傘の装飾が入用なのだ。暑くても寒くても動じぬ人柄なり。歴史を語るのだそうだけれども、私は一度も講義を聞いたことはない。奥さんは年上で、もう五十位にはなっているのだろう。彫の深い面のような顔、表札の陶に似た濃化粧だ。奥さんの姪(めい)が一人。赤茶色の艶(つや)のない髪を耳かくしに結って鏡ばかり見ている。額が馬鹿に広くて、眼の小さいところがメダカに似ている。三十を過ぎたひとだそうだけれども、声が美しい。この暑いのにいつも足袋をはいたかたくるしさ。私は、この民子さんの素足を見た事がない。

 喜びにつけ、悲しみにつけ、私は私の人生に倦怠(けんたい)を感じはじめた。偶然から湧(わ)いて来る体験、そンなものにほとほと閉口頓首(とんしゅ)、男といっしょにいるのも厭(いや)、夜の酒場勤めも長続きするものではないとなれば、結局は女中にでもなるより仕方がないけれど、これも私の柄にはあわない。今日で三日になるけれど、何となく居辛い。ここの雨戸の開閉がむずかしいように、何とも不馴れなことばかりなり。

 己惚(うぬぼ)れの強さがくじけてしまう。何とも楽なことではないけれども、楽をしようなぞとは思わぬかわりに、ほんの少々のひまがほしい。女中ふぜいが、深夜に到るまで本を読んでいるなぞとは使いづらいに違いない。こちらも気の引けることだけれども、今夜こそは早く電気を消して眠りにつこうと思いながら、暗いところではなおさらさえざえとして頭がはっきりして来る。越し方、行末のことがわずらわしく浮び、虚空を飛び散る速さで、瞼(まぶた)のなかを様々な文字が飛んてゆく。

 速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて忘れてしまうのだ。

 仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る。段々疲れて来る。いつの間にかうとうとと夢をみる。天幕のなかで広告とりをしていた夢、浅草の亀。物柔らかな暮しと云うものは、私の人生からはすでに燃えつくしている。自己錯覚か、異様な狂気の連続。ただ、落ちぶれて行く無意味な一隅。ハムスンの飢えのなかには、まだ、何かしらたくらみを持った希望がある。自分の生きかたが、無意味だと解った時の味気なさは下手な楽譜のように、ふぞろいな濁った諧音(かいおん)で、いつまでも耳の底に鳴っているのだ。

(七月×日)

 暑いので、胸や背中にあせもが出来る。帯をしっかり結んでいるので、何とも暑い。蝉がジンヤジンヤと啼(な)きたてている。台所で水を何杯も飲む。窓にかぶさっている八ツ手の葉が暑っくるしい。明日は一応ひまを取って、千駄木へ帰ろうと思う。

 こうしていてはどうにもならないのだ。五円の収入では田舎へ仕送りも出来ない。心の籠(こも)った美しい世界は何処にもない。自分で自分を卑しむ事ばかりだ。己惚れと云うものが、第一に自分を不遇のなかに追いこんでいるのだ。ものを書きたい気持ちなぞ何もなるものではないくせに、奇抜なことばかり考えては、自分で自分をあざけり笑うのみ。人には云えないけれど、自分がおかしい。何もまともなものは書けもしないくせに、文字が頭の芯にいつも明滅していると云う事はおかしい事なのだ。たかが田舎者のくせに、いったい文学とは何事なのでございましょうか? 神様よ。屡々(しばしば)、異様な人生が私にはある。そして、それに流されている。何かをやってみる。そして、その何かがすぐ不成功に終る。自信がなくなる。

 失敗は人をおじけさせてしまう。男にも、職業にも私はつまずいてばかりいる。別に、誰が悪いと恨むわけではないのだけれども、よくもこんなに、神様は私と云うとるにたらぬ女をおいじめになるものだ。神様と云うものは意地の悪いものだ。あなたは、戦慄(せんりつ)と云う事を感じた事はないのだろう……。

 やかましい音をたててジョウサイ屋が路地口に来る。物売りの男を見るたびに、行商をしている義父の事を思い出す。たまには五十円位もぽんと送ってやれないものかと思う。隣家の垣根に、ひまわりが丈高く後むきに咲いているのが見える。

 来世は花に生まれて来たいような物哀しさになる。ひまわりの黄は、寛容な色彩。その色彩の輪のなかに、自然だけが何とない喜びをただよわせている。人間だけが悩み苦しむと云ういわれを妙な事だと思う。――奥さんは近いうち新潟へ帰郷の由。早くこの家を出なければならぬ。

 夕方、八重垣町の縫物屋へ奥さんの夏羽織の仕立物を取りに行く。戸外を歩いていると吻(ほっ)とする。どの往来も打水がしてある。今日は逢初の縁日だと、とある八百屋の店先きで人が話しあっている。バナナがうまそうだし、西瓜も出ている。久しく西瓜も食べた事がない。

 ふっと、田舎へ帰りたい気がする。赤い袴(はかま)をはいた交換手らしい女が三四人で私の前をはしゃぎながら行く。大正琴の音色がしている。季節らしさのこもった夕暮なり。金さえあれば旅行も出来よう、この季節らしさが口惜しくなって来る。いつまでも、仕事探しで、よろよろと、二十歳の私の青春は朽ちてゆくのかもしれない。漂うに任せての生活にも本当に厭になってしまう。自分らしい落ちつき場所と云うものは仲々みつからぬものだ。

 人生と云うものはこんなに何かしらごちゃごちゃと寄り添っていながら、わざと濁った方へ、苦しい方へ、退屈な方へ流されて行ってしまっている。そして、人々は不用意に風邪を引く。何処で引いたのかは気がつかない。夜、メダカ女史が泣いていた。どのような原因なのかは知らないけれども、取りみだして泣いている。白いカバーのかかった座蒲団の重ねてある暗いところで泣いている。書斎は森閑としている。

 台所で一人で食事。来る日も来る日も、なまぬるい味噌汁と御飯。ぬか漬の胡瓜(きゅうり)を一本出してそっと食べる。ああ、たまにはジャムつきのパンが食べたい。

 奥さんが、小さい声で叱っている声がする。恩を仇(あだ)で返されたようなものよと云う声がする。学者の家と云えどもいろいろな事あり。――メダカ女史の見栄坊がねこそぎ失脚してしまった。その後は声をたてて泣く。女の泣き声が美しいのに心が波立つ。やぶれかぶれで、またぬか漬けの茄子(なす)を出して食べる。

 酢っぱい汁が舌にあふれる。

 凪(なぎ)に近い暑さ。風鈴が時々ものうく鳴る。明日はこの家を出たいものだ。何しろ、蚊が多いのはやりきれない。台所をかたづけて、水道で躯を拭いていると、ひどい藪蚊(やぶか)にさされる。皮膚が弱いのですぐぷっとふくれる。浴衣を水洗いして夜干しをして置く。いい月夜なり、写真のような白と黒の影で、狭い庭のそこここに白い人が立っているような錯覚がする。

(七月×日)

 濁った水を走る、小さい魚の眼にも、澄んだ真夏の空が光っている。およそ、模範的だなぞと云う人間ぐらい厭なものはない。歩いている人間がみんなそうだ。二本の足をかわりばんこに動かして、まるで、目の前に希望がぶらさがっているような、あくせくした行進だ。

 この世の中にどんな模範があるのだろう。人いじめで、いやらしくて、大嘘つきで、自分ばかりをおたかく考えている人間。口に人類だの人道主義だなぞと云って、あのメダカ女史をうまいことだましたに違いない。その恋人は一生足袋をはいて暮さなければ格が落ちるとでも教育されたのに違いない。

 女には反抗する姿勢がないのだ。すぐ、じめじめと泣き出す。

 夜、上野の鈴本へ英子さんと行く。

 猫八の物真似、雷門助六のじげむの話面白し。ああすまじきものは宮づかえ、千駄木へ戻って、井戸で水を浴びる。

 物干に出て涼んでいると、星が馬鹿に綺麗だ。地虫が啼いている。蚊が唸っている。夜更けまで、何処かで木魚を叩くような音がしている。長い月日を西片町で暮していたような気がする。英子さんは、二三日して大阪へ戻る由なり。その後のことはまた考えればいいのだ。せめて、二三日、黙ってぐっすり眠りたいものなり。

(七月×日)

 昼近く、読売新聞に行き、清水さんに面会に行くが、とうとう詩を返される。帰り、恭ちゃんのところへ寄る。ここも、不如意な暮しむきなり。節ちゃんと縁側で昼寝。氷水を十杯も飲みたい気持ちで眼が覚める。節ちゃんは子供を柱へくくりつけて洗濯。

 何処へも行き場のない、行きくれた気持ちで縁側で足をぶらぶらさせていると、路地の外をものうい唄をうたってジンタが通る。籠の鳥でもちえある鳥は、人目しのんで逢いに来る。……何だかその唄が身につまされて心のなかが味気なくなって来る。庭のすみに、小さい朝鮮朝顔の桃色の花がいっぱい咲いている。久しぶりで、しみじみと花の咲いたのをみた。恭次郎さん仲々戻らない。財布をはたいて、釜あげうどんを二つとって節ちゃんと食べる。金は天下のまわりもの、いずれは、のろのろとした速度で、また金のはいる事もありましょう。
逢初の縁日は

香具師(やし)がいっぱい

粉だらけの白い朝鮮飴(あめ)

螢売(ほたるう)りに虫売り

大道手品は喝采(かっさい)でいっぱい

カーチンメンドの冷し飴

臆病者の散歩

カアバイトの臭い燈火

バナナ屋のねじり鉢巻

ええあの太いのがくさるのよ

ゴム管で聴く蓄音機

ホーマーの詩でもあるのかな

深山の薄雪草にも似た宵

綿の水を吸って絹糸草が青い

水中花はコップの中で一叢(ひとむら)

アルペンの高山植物らしく

男を売る店は一軒もない

乾いた海ほうずきの紅色

心臓が黙って歩いている

ああ五時間もすれば

またどんな人生がやって来るのだろう

不可能のなかに後退してゆく脚

少しずつ思いの色が変化する

ゴマ入りの飴玉をしゃぶる

縁には紐(ひも)のない玉手箱。


(七月×日)

 英子さんが一緒に大阪へ行かないかと云う。大阪へ行く気はしないけれど、岡山へは帰りたい。久しぶりに、母にも逢いたいものなり。英子さんの旦那さんより十円かりる。岡山まで行きさえすれば、帰りは何とかなるだろう。昼、西片町に荷物を取りに行く。メダカ女史が荷物と、五十銭玉六つくれる。この本は、貴女のではないでしょうと云って、伊勢物語を出して来る。はい、私のですと云うと、いいえ、これはうちの本ですと云う。何だかシャクゼンとしないので、これは、私が夜店で買ったのだからと、台所にいつまでも立っていた。メダカ女史しらべて来ると云って引っこんでいったけれど、暫(しばら)くして黙って、「勉強家ね」と云って持って来る。本と云うものは女中風情の読むものではないと思っていたのに違いない。ありましたかと尋ねると、メダカ女史は返事もしない。ああやれやれだ。昔男ありけりだ。大した事でもない。

 夜、英子さんと、英子さんの子供と三人で東京駅へ行く。汽車へ乗る事も久しぶりだけれども、何となく東京へなごりおしい気持ちなり。別れた人が急になつかしくなって来る。八十銭のボイルの浴衣がお母さんへの土産。

 プラットホームはひっそりとして、洋食の匂いがしている。見送りの人もまばら。ホームを涼しい風が吹いている。流暢(りゅうちょう)な東京言葉にもお別れ。横浜を過ぎる頃から車内がひっそりして来る。山北の鮎(あゆ)寿司を英子さんが買う。半分ずつ食べる。英子さんの旦那さんは大工さんだが無類にいいひとなり。

 何ものにもとらわれる事なく、何時までも汽車旅をつづけていたいようなのんびりさだ。汽車に乗って、岡山へ帰るなぞとは昨日まで考えつかなかった事だけに愉しくて仕方がない。さきの事はさきの事で、また、何とか、人生のおもむきは変ってゆくであろう。譜面台のない人生が未来にはある。私はそう思う。自分の運命なンか少しも判ってはいないけれども、運命の神様が何とかお考えになっているのには違いない。ぞっとするような事も度々だけれど、この汽車に乗れる幸福はまことに有難いことだ。東京へ再び来る事があったら十円は身を粉にしても返さなければならない。西片町はさよなら。

 何事もおぼしめしのままなる人生だ。えらそうな事を考えてみたところで、運命には抗しがたい。昔男ありけりではないが、ああ、あんな事もあった、こんな事もあったと、暗い窓を見ていると、田園の灯がどんどん後へ消えてゆく。少しも眠れない。一つのささやかな遍歴の試みが、私をますます勇気づけてくれる。何でも捨身になって働くにかぎる。詩なぞはもうこんりんざい書くまい。詩を書きたい願望や情熱は、ここのところどうにもならない。大詩人になったところで、人は何とも思わぬ。狂人のようになれぬ以上は、このみじめな環境から這い出すべしだと思う。夜の雲がはっきりみえる。

        *

(八月×日)

 岡山の内山下へ着いたのが九時頃。橋本では、まだみんな起きて涼んでいた。一カ月程前に、お義父(とう)さんもお母さんも尾道へ戻っていると云うので、私はがっかりする。一晩やっかいになって、明日の早い汽車で尾道へ行くことにする。橋本は、義父の姉の家なり。女学校へ行っている娘が二人。小さい時に逢ったきりだったので、久しぶりに会ったせいか、二人とも背の高い娘になっていた。

 姉娘の清子と銭湯に行き、風呂から上って、銀行のそばの屋台でショウガ入りの冷し飴を飲む。金がないと云う事が何としても辛い。尾道までの汽車賃を明日朝云い出す事にする。

 何をして働いているのか、誰も尋ねてはくれない。それも助かる。岡山は静かな街だとおもう。どおんとしたなぎ。むし暑くて寝る気がしない。いつでも、屠殺(とさつ)される前の不安な状態が胸を締めつける。金の百円も持って帰ったのなら、こんな白々しい人達ではあるまいと思える。

 女学校二年の光子が、二階で遅くまで英語の歌をうたっていた。トィンクル、トィンクル、リトルスター、ハオアイ、ワンダア、ホアツユウアール、ホエン、アップアバウト、インザスカイ。私もこの歌はならった事がある。何だか、遠い昔のことのような気がして来る。義父が岡山の鶴の卵と云う菓子を買って来てくれた事を思い出した。

 朝。台所で朝飯をよばれたけれど、金の話を云い出しそびれる。折角来たのだから、友達を尋ねると云って戸外へ出る。

 学校時代の友達に逢いに行ったところで、別にもてなして貰えると云うあてもない。暑い街の反射で汗びっしょりになって、賑やかな街に出る。狭い商店街の通りには天幕がずっと張り渡されて、昏(くら)い涼しい影をつくっていた。どの店も奥深い感じなり。青木と云う西洋食器店を何となく探してみる。転落して無一文となり果てた級友の訪問ぐらい迷惑な事はあるまいと思える。

 ふっと、青木と云うハイカラな西洋食器店をみつけた。暫く陳列の前に立って、コオヒイ茶碗や、アヒルの灰皿や、スカートを拡げた西洋人形の辛子入れなぞを眺めている。緑のペンキ塗りの陳列のなかのぴかぴか光る金色、赤、コバルト、陶の涼しさ。メリンスの着物に白いエプロンをした美しい子供が店さきに出て来たので、中根慶子さんはいますかと聞いてみる。

 子供はすぐ奥へはいって行った。私は陳列の硝子に顔をうつしてみる。水の底の昏い皿の上に私のむくんだ顔がのっている。髪はちぢれた耳かくし。おお暑い、暑いだ。水車の音が耳に来る。洗いざらした鳴戸ちぢみの飛白(かすり)。袂(たもと)はよれよれでござんす。帯は赤と白のナッセンのメリンス。洗うと毛羽だってむくむくと溶けてしまいそうな安物。足袋と下駄は英子さんに大阪の梅田駅で貰ったもの。

 中根さん出て来るなり、ンまアと云って驚く。尾道の学校を出て四年。一度も相逢うことなく今日に到る。紺飛白を着てきちんとした姿。何とも落ちぶれた姿の自分が、荷車にひかれた昆布のような気持ちなり。中根さん、地味な色のさめた柄の長いパラソルを持って出て来る。公園へ行こうと云う。

 日本でも有名な公園の由なり。公園になぞ行く気はないのだけれども仕方なく、公園へついて行く。中根さんは無口なひとなり。まだかたづかない由にて、私に小説を書いているのかと聞く。小説の話なぞは、夢のような事なのでやめる。東京での様々を打明けたらこのひとは驚くであろう。

 公園は暑くてつまらないところであった。

 景色を眺める事に何の興味もない。若いせいかも知れないけれども、蝉の焙(あぶ)られるようなそうぞうしさ。池のほとりを高等学校の生徒が灰色の服を着て下駄ばきで歩いている。みんなりりしく見える。中根さん、カインの末裔(まつえい)を読んだかと云う。私は東京の生活が荒れているので、そんな静かなものは読んではいられない。

 赤松の樹蔭(こかげ)に茶店がある。中根さんはそこへ這入る。水潰けになっているラムネを二本註文する。みぞれをかいてもらって、それへラムネをかけて飲む。舌の上がぴりぴりとしてその醍醐味(だいごみ)は蒼涼(そうりょう)。蝉取りの少年が沢山遊んでいる。どおんと眠ったような公園の景色なり。

 締め合わせられる、つなぐ、断れる。心がきれぎれで、ラムネのびんの玉を、からからとゆすぶっているだけ。尾道へ行く旅費。二円五十銭もあれば、羊かんも買って帰れる。きらきらと向うは陽が射している。こちらは深い蔭になって、長い縁台に眼鏡をかけた男が口を開けて昼寝をしている。氷の旗のゆれる色彩。眼をこらして四囲をみているのだけれども、この景色も、汽車の中では忘れてしまうに違いない。袂の中へがまぐちを落して、ひそかに氷とラムネ代を勘定する。

 中根さんも東京へ行きたいとぽつりぽつり話しているけれども、私はうわのそらで、銅貨を数える。昔は仲が良かったと云うだけで、意味もなく公園の景色なぞを眺めていなければならないつまらなさに哀しくなって来る。

 氷とラムネ代を払って、四銭残る。みえ坊で嘘つきで、ていさいのいいことばかりで、中根さんに旅費を借りる事を断念。――昼前に橋本へ帰り、勇気を出して、借銭を申し込んで二円五十銭おばさんより借りる。二人の女学生は急に軽蔑(けいべつ)したような眼で私を見ている。この眼が一等いやなのだ。私はまるで犯罪人になったようなうらぶれた気持ちで昼の駅へ行く。

 羊かんを買わないで、弁当を買う。三等の待合室で弁当を食べる。売店で青いバナナを二本買う。五銭也。

 少しばかりの金が、こんなに勇気づけてくれる。公園でのびのびとラムネを飲めばよいものを、銭勘定をしながらびくびくして飲んだ事に腹立たしくなる。中根さんは別に厭な女でもないのに、吐気がする程厭に思えて来る。御馳走をした上に、びくびくして、中根さんにへりくだってものを云っている自分にやりきれなくなっていた。小説はうれるの? いいえ売れないのよ。どんなものを書いているの? どんなものって、童話みたいなものよ。一々あやまって返事をしていたようなみじめさが話していながら、ああ駄目だ駄目だと中根さんに押されて来る。奴隷根性。いつもぺこぺこ。何とかして貰うつもりもないのに笑顔をつくってへりくだってみせる。

 詩や小説を書くと云う事は、会社勤めのようなものじゃありませんのよと心の中でぶつくさ云いわけしている。

 尾道へ着いたのが夜。

 むっと道のほてりが裾の中へはいって来る。とんかん、とんかん鉄を打つ音がしている。汐臭い匂いがする。

 少しもなつかしくはないくせに、なつかしい空気を吸う。土堂の通りは知ったひとの顔ばかりなので、暗い線路添いを歩く。星がきらきら光っている。虫が四囲いちめん鳴きたてている。鉄道草の白い花がぼおっと線路添いに咲いている。神武天皇さんの社務所の裏で、小学校の高い石の段々を見上げる。右側は高い木橋。この高架橋を渡って、私ははだしで学校へ行った事を思い出す。線路添いの細い路地に出ると「ばんよりはいりゃせんかア」と魚屋が、平べったいたらいを頭に乗せて呼売りして歩いている。夜釣りの魚を晩選(ばんよ)りと云って漁師町から女衆が売りに来るのだ。

 持光寺の石段下に、母の二階借りの家をたずねる。びちょびちょの外便所のそばに夕顔が仄々(ほのぼの)と咲いていた。母は二階の物干で行水(ぎょうずい)をしていた。尾道は水が不自由なので、にない桶(おけ)一杯二銭で水を買うのだ。

 二階へ上って行くと母は吃驚(びっくり)していた。

 天井が低く、二階のひさしすれすれの堤の上を線路が走っている。黄いろい畳が熱い位ほてっている。見覚えのある蓋のついた本箱がある。本箱の上に金光(こんこう)様がまつってある。行水から出て来ると、たらいの水に洗濯物を漬けながら、母は首でもくくりたいと云う。

 義父は夜遊びに行って留守。ばくちに夢中で、この頃は仕事もそっちのけで、借銭ばかりで夜逃げでもしなければならぬと云う。

 私は、帯をといて、はだかで熱い畳に腹這う。上りの荷物列車が光りながら窓のさきを走っている。家がゆれる。

 押入れも何もない汚ない部屋。

(八月×日)

 愛する者よ。なんじらこの一事を忘るな。主の御前には一日は千年のごとく、千日は一日のごとし。壁に張りつけてある古い新聞紙にこんな宗教欄がある。愛する者よ。か、汚穢(おえ)にまみれ、いっこうにぱっとしない人生、搗(つ)き砕かれた心が、いま、この天井の低い部屋の中で眼をさます。一晩中、そして朝も、休みなく汽車が走っている。魚の町と云う小説を書きたくなる。階下の親爺(おやじ)さんと義父は連れだって出たまま今朝も戻っては来ない。

 朝日が北の壁ぎわにまで射し込んで暑い。線路の堤にいちめんの松葉ぼたんの花ざかり。煎(い)りつくように蝉が鳴きたてている。

 昼過ぎの汽車で宮様が御通過になる由にて、線路添いの貧民窟(くつ)の窓々は夜まで開けてはならぬ、と云うお達しが来る。干し物も引っこめるべし、汚れものを片づけるべし。母は物干台を片づけ、ぞうりをはいて屋根瓦の掃除をしている。宮様とはいったい何者なのか私達は知らない。何も知らないけれども尊敬しなければならないのだ。昼頃から、線路の上を巡査が二人みまわっている。

 障子を閉めて、はだかで、チエホフの退屈な話を読む。あまり暑いので、梯子(はしご)段の板張りに寝転んで本を読む。風琴(ふうきん)と魚の町、ふっとこんな尾道の物語りを書いてみたくなる。

 母は掃除を済ませて、白い風呂敷包みの大きい荷物を背負って商売に出掛ける。

 階下のおばさんが、辛子のはいったところてんを一杯ごちそうしてくれる。そろそろ、宮さんがお通りじゃンすでエ……近所の女衆が叫んでいる。

 轟々(ごうごう)と地ひびきをたててお召列車が通る。障子の破れからのぞくと、窓さきの堤の上に巡査が列車に最敬礼をしている。巡査の肩に大きいトンボがとまっている。羽根が白く透けてふるえている。汽車の窓の中に白いカヴァがちらちらして、赧(あか)い顔の男が本を読んでいたのがすっと過ぎ去る。

 真実な一つのフイルムが、線路をすっとかき消えて行く。巡査が頭を挙げる。すばやく障子の破れから私は頭を引っこめる。

 忍耐づよい貧民。力が抜ける。それきりの為に、また固く障子を閉めておく。負担になってもにこにこ笑って土下座している。只、それきりの生き方。何の違いが、一瞬の宮様にあるのだろう……。宮様は涼しい汽車で本を読んでいる。私は暑い部屋の中で、チエホフの退屈な話を読んでいるだけだ。

 本箱の中に、古い私のノートあり。学生の頃の日記。大した事もなし。エルテルにのぼせあがっている感想。伊藤白蓮(びゃくれん)のかけおちをノラの如しと書いている。

 当分はこのままで必死に小説を書いてみようと思う。

 夕方より雨。母が、油紙を頭からかぶって戻って来る。手籠に、いちじくのはじけたのを土産に買って来てくれる。尾道では、いちじくの事をとうがきと云うなり。

 義父帰らず。

 母は警察へあげられたのではないかと心配している。雨で涼しいのでノートに少しばかり小説めいたものを書きつけてみるけれども、すぐ厭になってしまう。大した事もないのだ。伊勢物語読了。

 ものを書いて暮すなぞと云う事はあきらめる方がいい。どうにもものにはならぬ。作曲家が耳のないのを忘れていて、音色を空想するだけ……。孤独に流されているだけでは、一字も言葉は生れて来ない。海辺の町へ戻って、まだ私は海を見ない。

 夜更けて義父が戻って来た。

 クレップシャツの上に毛糸の腹巻きをしている風采(ふうさい)がどうもいやらしい。金もないくせに敷島をぷかぷかふかしていた。

 東京は景気はどうかの。東京は不景気です。俺も今度こそ、何とかしようとは思うンじゃが、うまくゆかん……。

 あんまり暑いので、母と夜更けの浜へ涼みに行き、多度津(たどつ)通いの大阪商船の発着所の、石段のところで暫く涼む。露店で氷まんじゅうや、冷し飴を売っている。暑いので腰巻一つで、海水へはいる。浮きあがる腰巻きのはじに青い燐(りん)がぴかぴか光る。思い切って重たい水の中へすっとおよいでみる。胸が締めつけられるようでいい気持ちだ。

 暗い水の上に、小舟が蚊帳を吊って、ランプをとぼしているのが如何(いか)にも涼しそうだ。雨あがりのせいか、海辺はひっそりしている。

 千光寺の灯が、山の上で木立の中にちらちらゆれて光っている。

(八月×日)

 風琴と魚の町少しはかどる。

 小説と云うものはどんな風に書くものかは知らない。只、だらだらと愚にもつかぬ事をノートに書きながら自分で泣いているのだからいやらしくなって来る。蚊が多いので夜は一切書けない。第一、小説と云うものを書く感情は存在していないのだ。すぐ詩のようなうたいかたになってしまう。物事を解剖してゆく力がない。愍(あわれ)むがよい。只、それきりだ。観察が甘く、まるで童話的だ。

 東京へ帰るには、二十円も工面しなければならぬと云う事が頭にちらつく。人よりに非ず、人に由(よ)るに非ず、イエス・キリスト及びこれを死人の中より甦(よみが)えらせ給いし父なる神に由りて使徒となれるパウロ。小説を書く筆者の琴線がたかなることなくしては、神は人のうわべをとり給わずである。自分にそのような才能があるとは思えない。書いても、書いても突き戻されていることに赤面しないあつかましさ。しりめつれつな心理の底をくぐる。小さい魚の影を追うようなものだ。まことしやかに活字が並ぶ。血へどを吐いたものはみるにも読むにもたえぬ。警察の眼も光る。無政府主義とは唄ではないのだ。それを願う願いは、この世の何処かにあるのだけれども……。お伽(とぎ)の世界をねらう平和な獣だけの理想の天地。宮様がお通りになるからと云って、一日じゅう障子を閉ざして息を殺していなければならぬ私は階級なのだ。そして、宮様は一瞬にして雲の彼方(かなた)に消えてゆく人である。どうして、そのような人を尊敬しなければ生きてゆけないのだろう。

 警備の巡査も生きている。肩にとまったトンボも生きている。障子の中には、無作法なはだかで、チエホフをぶらさげている女が立っている。

 尾道へ戻った事を後悔する。

 ふるさとは遠くにありて想うものなり。たとい異土(いど)の乞食(かたい)となろうともふるさとは再び帰り来る処に非ずの感を深くするなり。

 死にたくもなし、生きたくもなしの無為徒然の気持ちで、今日もノートに風琴と魚の町のつづきを書く。

 母も、もう一度、東京へ出て夜店を出したいと云う。義父と別れてさえくれれば、私はどんなに助かるだろうと思うけれども、母はこれもなりゆきの事故、いましばらく辛抱しなさいと云う。義父はまた今朝からばくちに出掛けてゆく。母だけが、躯をすりへらしてこっぱみじんの働きぶりなり。

 只、母も私も、長い苦痛の連続のみにすがって生きているようなものなり。せめて、私が男に生れていたならばと思う。母の働いた金はみんな父のばくちのもとでに消えてしまう。

 夜は母と二人で、夜の浜辺へ出て、露店でうどんを食べて済ませる。家にいると借金取りがうるさいと云うので、また、暗い海水浴。

 海水は汚れてどろどろ、葬式の匂いがする。そのうち、ええこともあろうぞ……母がふっとそんな事を云う。私はさんばしの方までおよぐ。燐が燃える。向島のドックで、人の呼んでいる声がしている。こんなことでは、何の運命もない、風琴と魚の町の原稿を東京へ持って行ったところで、ぱっと華咲くようないい日が来るとは信じられぬ。いまひといき、いまひといきと暗い冷い水の方へおよいで行く。

 やがて、石段に戻って、素肌にぬるい着物を着る。濡れたものをしぼっていると、うどんのげっぷが出て来る。肌がぴいんと斂(しま)って来た気がする。自然な温かい気持ちになり、モウレツに激しい恋をしてみたくなる。いろんな記憶の底に、男の思い出がちらちらとする。

 家へ戻ると、階下はみんな出掛けて留守。階下のおばさんも、このごろは昆布巻きの内職をなまけて遊び歩いているとの事なり。

 荒破屋(あばらや)同然の二階。裸電気の下で、母と私ははだかになって涼む。燈火の賑やかな上り列車が走って行く。羨(うらや)ましい。

 どうしても東京へ行きたいのだけれども、いまがいま、二十円の金つくりは出来かねると母はしょげている。十円でも出来ればいいのだと思う。蚊いぶしを燃やして、小さい茶餉台(ちゃぶだい)にノートを拡げる。もう、あとを続けて書くより仕方がない。甘くてどうにも妙な小説だ。幻影だけでまとまりをつけようとするプロット。暑いせいかも知れない。たらふく食わないせいかも知れない。頭の上にさしせまった思いがあるせいかも知れない。風琴と魚の町と云うタイトルだけのものだ。生活の疲労に圧倒されて、かえって幻影だけがもやもやと眼の先をかすめるプロット。

 どうして、いつまでも、こんな暮しなのかと思う。母はエンピツをなめながら帳面をつけている。別に大した金高でもないのに、帳面をつけているかっこうは大真面目なもの。粘土に足をとられて、身動きもならぬ暮しだ。――別れなさいよ。うん、別れようかのう。別れなさいよ。そして、二人で東京へ行って、二人で働けば、毎日飯が食べられる。飯を食う事も大切じゃが、義父さんを捨ててゆくわけにもゆくまい。別れなさいよ。もう、いい年をして、男なぞはいらないでしょう……。お前は小説を書いておってむごかこつ云う女子じゃのう……。私は、黙ってしまう。心配も愉しみの一つで、今日まで連れ添って来た母と義父とのつながりを自分にあてはめて考えてみる。母は倖せな人なのだ。

 一生懸命、ノートに私ははかない事を書きつけている。もう、誰も頼りにはならぬのだ。自分の事は自分で、うんうんと力まなければ生きてはゆけぬ。だが、東京で有名な詩人も、尾道では何のあとかたもない。それでよいのだと思う。私は尾道が好きだ。ばんよりはいりゃんせんかのう……魚売りの声が路地にしている。釣りたてのぴちぴちした小魚を塩焼きにして食べたい。

 その夜、義父たちは、階下の親爺さんもいっしょに警察へあげられた。夜更けてから、母は階下のおばさんと、何処かへひそかに出掛けて行った。

        *

(十一月×日)

 百舌鳥(もず)が、けたたましく濠(ほり)の向うで鳴いている。四谷見附から、溜池(ためいけ)へ出て、溜池の裏の竜光堂という薬屋の前を通って、豊川いなり前の電車道へ出る。電車道の線路を越して、小間物屋の横から六本木の通りへ出て、池田屋干物店前で池田さんに声をかける。

 池田さんがぱアと晴れやかな顔で出て来る。今日は珍らしく夜会巻きで仲々の美人なり。店さきには、たらこや、鮭(さけ)、棒だらなぞの美味(おい)しそうなものがぎっしり並んでいる。

 二人は足袋屋の横町を曲って、酒井子爵邸の古色蒼然(そうぜん)とした門の前を歩く。

 今日は新富座で寿美蔵の芝居がある由なり。いかにも江戸ッ子らしい池田さんの芝居ばなし。今日は寿美蔵が手拭を撤く日だから、どうしても、早い目に社を出て行くのだと大いに張りきっている。赤坂の聯隊(れんたい)が近いのだということで、会社へ着くころには、いつも喇叭(らっぱ)が鳴りひびいている。

 小学新報社というのが私たちの勤めさき。旧館の二階の日本間に、机を八ツ程あわせて、私たちは毎日せっせと帯封書きだ。今日は、鹿児島と熊本を貰う。まだ時間が早いので、窓ぎわで池田さんと、宮本さんと三人で雑談。日給をなんとかして月給制度にして貰いたいと話しあう。日給八十銭ではなんとしてもやってゆけないのだ。四谷見附から市電の電車賃を倹約してみたところで、親子三人では仲々食べてはゆけない。池田さんは親がかりなので、働いた分がみんな小遣いの由なり。羨しい話だ。八時十分前、みんな集る。私は例によって、一番暗い悪い席に坐る。頭株の富田さんが指図をするので、窓ぎわの席へは仲々坐れない。

 小学校便覧の活字も小さいので、眼の近い私には、人の二倍はかかってしまう。眼鏡を買いたくても、八十銭の日給では、その日に追われて眼鏡を買うどころのさわぎではない。

 もうじき一の酉(とり)が来る。

 富田さんは今日はいちょう返しに結っている。このひとは大島伯鶴(はっかく)というのが好きだとかで、飽きもせずに寄席の話ばかりしている。

 宛名を書くのがめんどう臭くなって来る。ぼんやりとしてしまう。ふっと横の砂壁にちらちらと朝の陽が動いている。幻燈のようなり。池田さんも、富田さんも大島の羽織で、日給八十銭の女事務員には見えない。池田さんは眼は細いけれども芸者にしてみたいような美人なり。干物屋の娘のせいか、いつもにきびがどこかに出来ている。

 何という事もなく、夫婦別れというものは仲々出来ぬものなのかと思う。夫婦というものが、妙なつながりのように考えられて来る。昨夜も義父と母は、あんなに憎々しく喧嘩(けんか)をしあっていたくせに、今朝は、案外けろりとしてしまっていた。義父と母が別れてさえくれたなら、私は母と二人きりで、身を粉にしても働くつもりなのだけれども、私は、義父が本当はきらいなのだ。いつも弱気で、何一つ母の指図がなければ働けない義父の意気地のなさが腹立たしくなって来る。義父は独りになって、若い細君を持てば、結構、自分で働き出せる人なのであろう……。母の我執の強さが憎くなって来るのだ。

 また琵琶(びわ)の音が聴える。別にこの仕事に厭気がさしているわけではないけれども、長く続けてゆける仕事ではないと思う。それにしても、このあたりの森閑とした邸のかまえは、いかなる幸運な人々の住居ばかりなのかと不思議に思える。朝から琵琶を鳴らし、ピヤノを叩いているひっそりした階級があるのだと思うと、生れながらの運命をつかんでいる人達なのであろう。――昼から新聞の発送。

 新聞の青インクが生かわきなので、帯封をするたびに、腕から手がいれずみのように青くなる。大正天皇と皇太子の写真が正面に出ている。大正天皇は少々気が変でいらっしゃるのだという事だけれども、こうしてみると立派な写真なり。胸いっぱいに、菊の花のようなクンショウ。刷りが悪いので、天皇さまも皇太子も顔じゅうにひげをはやしたような工合に見える。

 のりをつけるもの、帯封を張るもの、県別に束ねるもの、戸外へ運び出すもの、四囲はほこりがもうもうとして、みな、たすきがけで、手拭の姉様かぶり。発送が手間取って、全部済んだのが五時過ぎ。そばを一杯ずつふるまわれて昏(くら)い街へ出る。池田さんは芝居に遅れたとぷりぷりして急いで戻って行った。

 四谷の駅ではとっぷり暗くなったので、やぶれかぶれで、四谷から夜店を見ながら新宿まで歩く。

 家へ帰る気がてんでしないのだ。家へ帰って、夫婦喧嘩をみせられるのはたまらない。二人とも貧乏で小心なのだけれども、悪人よりも始末が悪いと思わないわけにはゆかない。夜店を見て歩く。焼鳥の匂いがしている。夜霧のなかに、新宿まで続いた夜店の灯がきらきらと華やいで見える。旅館、写真館、うなぎ屋、骨つぎ、三味線屋、月賦の丸二の家具屋、このあたりは、昔は女郎屋であったとかで、家並がどっしりしている。太宗寺にはサアカスがかかっていた。

 行けども行けども賑やかな夜店のつづき、よくもこんなに売るものがあると思うほどなり。今日は東中野まで歩いて帰るつもりで、一杯八銭の牛丼を屋台で食べる。肉とおぼしきものは小さいのが一きれ、あとは玉葱(たまねぎ)ばかり。飯は宇都宮の吊天井(つりてんじょう)だ。

 角筈のほてい屋デパートは建築最中とみえて、夜でも工事場に明るい燈がついている。新宿駅の高い木橋を渡って、煙草専売局の横を鳴子坂(なるこざか)の方へ歩く。しゅうしゅうと音をたてて夜霧が流れているような気がする。南部修太郎という小説家の夜霧という小説をふっと思い出すなり。

 家へ帰ったのが九時近く。義父は銭湯へ行って留守。台所で水をがぶがぶ飲む。母は火鉢でおからを煎りつけていた。別に遅かったねと云うわけでもない。自分の事ばかり考えている人なり。鼻を鳴らしながらおからを煎っている。鍋を覗(のぞ)くと、黒くいりついている。何をさせても下手な人なり。葱も飴色になっている。強烈な母の我執が哀れになる。部屋の隅にごろりと横になる。谷底に沈んで行きそうな空虚な思いのみ。卑屈になって、何の生甲斐(いきがい)もない自分の身の置き場が、妙にふわふわとして浮きあがってゆく。胴体を荒繩でくくりあげて、空高く起重機で吊りさがりたいような疲れを感じる。お父さんとは別れようかのと母がぽつんと云う。私は黙っている。母は小さい声でこんななりゆきじゃからのうとつぶやくように云う。私は、男なぞどうでもいいのだ。もっとすっきりした運命と云うものはないのかと思う。義父の仕入れた輪島塗りの膳が、もういくらも残ってはいない。これがなくなれば、また、別のネタを仕入れるのだろう。

 次から次から商売を替えて、一つの商売に根気のないと云う事が、義父と母を焦々(いらいら)させているのであろう。十二円の家賃が始めから払えもしないで、毎日鼻つきあわせてごたごたしている。第一、まともに家なぞ借りたがるよりも、田舎へ帰って、木賃宿で自炊生活をして、二人で気楽に暮した方がよさそうに思える。折角、どうにか、私が私一人の暮しに落ちつきかけると、二人は押しかけて来て、いつまでも同じ事のくりかえしなのである。東京で別れたところで、お義父さんはさしずめその日から困るンじゃからのうと、また、ぽつりと母が云う。私は煎りついて臭くなってきた鍋を台所へ持って行った。母は呆気(あっけ)にとられている。何をさせても無駄づくりみたいな母の料理が気に入らない。私は火鉢のかっかっと熾(おこ)った火に灰をかぶせて、瀬戸引きのやかんをかける。
「何を当てつけとるとな、お前の弁当のおかずをつくってやろうと思うて焚(た)いとるんじゃが……」

 私はそんな真黒いおからのおかずなんかどうでもいいのだ。黙って寝転んで、袖の中へすっぽりと頭も顔もつっこんでいると、母は急に鼻を荒くすすりながら、わし達が邪魔なら、今夜にでも荷造りをして帰ると云い始めた。木綿裏の袂の中に秋の匂いがする。おおこの匂い。季節の匂い、慰めの匂い。袂の中で眼を開けると、真岡絣(もうかがすり)の四角い模様が灯に透いてみえる。お前はお父さんをどうして好かんとじゃろか? と母が泣きながら云う。あンたよりも二十歳も若い男をお父さんなぞと云わせないでよとはんぱくする。母は呻(うな)ってつっぷしてしまう。お前じゃとてなりゆきと云うものがあろうがの……。男運が悪いのはお前も同じことじゃないかのと云う。
「お前は八つの時から、あの義父さんに養育されたンじゃ。十二年も世話になって、いまさらお父さんはきらいとは云えんとよ」
「いいや、私はそだてられちゃいないッ」
「女学校にも上がっつろがや……」
「女学校? 何を云うとるンな、学校は、私が帆布の工場に行きながら行ったンを忘れんさったか。夏休みには女中奉公にも出たり、行商にも出たりして、私は自分で自分の事はかせいだンよ。学校を出てからも、少しずつでも送っとるのは忘れてしもうたンかな?」

 云わでもの事を、私は袂の中で呶鳴(どな)る。
「お前はむごい子じゃのう……」
「ああ、もう、こう、ごたごたするンじゃ、親子の縁を切って、あんたはお義父さんと何処へでも行きなさいッ。私は、明日からインバイでも何でもして自分のことは自分で始末つけるもン」

 袂の中で涙が噴きあげる。父の下駄の音がしたので、私はぷいと裏口から川添の町を歩く。白い乳色のもやが立ちこめて、畑のあっちこっちにちらちらと人家の灯がまたたく。川添町と云ったところで、東京もここは郊外の郊外、大根畑の土の匂いが香ばしく匂う。

 何処へ行くと云うあてもない。

 東中野のボックスのような小さい駅へ出て、釣り堀の藪(やぶ)の道の方へ歩く。駅前の大きな酒屋だけが明るい燈火を夜霧の中に反射している。星がちかちかとまばたいている。辛抱強く。何事も辛抱強くだ。いざという時には、甲府行きの汽車にひかれて死ぬ事も賑やかな甘酢っぱい空想。だが、神様、いまのところはこのままでは死にきれぬ。

(十一月×日)

 豪雨。土肌を洗い流す程の大雨なり。尻からげになって会社へ行く。池田さんは、紺飛白のビロード襟(えり)のかかった雨ゴートを着て来る。仲々意気な雨ゴートなり。今日は弁当なし。昼は雨の中を、六本木まで出て、そば屋でそばを食べて、ふんだんにそばづゆを貰って飲む。どろりとしたそばづゆに、唐辛子を浮かしてすする。

 六本木の古本屋で、大杉栄の獄中記と、正木不如丘(まさきふじょきゅう)編輯(へんしゅう)の四谷文学という古雑誌と、藤村の浅草だよりという感想集三冊を八十銭で求める。獄中記はもうぼろぼろなり。

 富田さん、麻布(あざぶ)のえち十と云う寄席へ行かないかとみんなを誘うけれど、私は雨なので断って早く家に帰る。沛然(はいぜん)とした雨が終日つづく。この雨があがれば、いよいよ冬の季節にはいるのであろう。足袋を洗い、火鉢にかざしてあぶる。義父も母も雨音をきいてつくねんとしている。
左右いずれとも決しがたき宿命

悲劇は只の笑い話なり

御返事を待つまでもなく

只今は響々の雨

雨量は桝(ます)ではかりがたく

ただ手をつかねてなりゆきを見るのみ。

犠牲は払っているわけではない

不可能の冬の薔薇

孤独と神秘を頼みとする貧乏暮し

人は革命の書をつくり

私はあははと笑う

只、何事もおかしいのだ

真面目に苦しむ事の出来ぬ性分。

自分の運命を切りひらけと云われたところで

運命は食パンではないのです。

どこからナイフをあててよいのか

人生の狩猟は力のかぎり盛大に

鼻うごめかし

涙をすすり

つばを飲み

脚をふんばりだ。

秩序の目標は青(ブルウ)と黒(ブラック)

仮説の中でひっそりと鼠を食う

その霊妙なる味と芳香

ああロマンスの仮説

誰にも黙殺されて自分の生血をすする

少しずつ少しずつの塩辛い血。

革命とは水っぽい艶々の羊かん

かんてん かんてん かんてんの泥

人間一人が孤独で戦う

群勢はいりません

家柄やお国柄では飯は食えぬ。


 講談を書こうと思い始める。漱石調で水戸黄門。藤村調で唐犬ゴンベエ。鴎外調で佐倉ソウゴロ。はっしはっしと切り結ぶと云う陰惨ごとはどうにも性分にはあわないながら、売りものには花をそえて、変転自在でなければならぬ。芥川の影燈籠(かげどうろう)も一つの魅力なり。

 今夜からは、寒いので、親子三人どうしても一つの寝床にはいらねばならぬ。蒲団の後からぬっと脚をさしこむ気がしない。ああ、せめて二枚の蒲団よ、どこからか降って来ないものか。しんしんと冷える。母と義父はもう寝床で背中あわせに高いびきなり。

 電気をひくくさげて、ペン先きにたっぷりとインキをふくませて、紙の上にタプタプとおとしてみる。いい考えも湧いて来そうな気がしていながら、仲々神霊は湧いて来ない。

 行きくれた、この貧しい老夫婦の寝姿を横にしては胸もつまってしまう。壁ぎわに電気を吊りかえて、小さい茶餉台に向う。

 二三頁も詩ばかり書きつらねて、講談は一行も書けない。トタン屋根にそうぞうしくあたる雨脚に、頭はこっぱみじんに破れそうなり。運命尽きぬオタアロオなり。

 お前もわしも男運がないと云った母の言葉を想い出して、ふっと「男運」と云う小説らしきものを書いてみたき気持ちがするけれども、それもものうく馬鹿馬鹿しく、やめてしまう。

 根が雑草の私生子で、男運などとは口はばたきいいなり。伊勢物語ではないけれども、昔男ありけり、性猛々(たけだけ)しく、乞食を笑いつつ乞食よりもおとれる貧しき生活をすとて、女に自殺せばやと誘う。女、いなとよと叫び、畳をにじりて、ともに添寝せばやと、せめてその事のみに心はぐらかさんものとたくらみ、紐(ひも)と云う紐、刃物と云う刃物とりあげてたくみたり……。

 雨は少々響々の鳴りをひそめる。

(八月×日)

 高架線の下をくぐる。響々と汽車が北へ走ってゆく。

 息せき切って、あの汽車は何処へ行くのかしら、もう、私は厭だ。何もかも厭だ。なまぬるい草いきれのこもった風が吹く。お母さんが腹が痛くなったと云う。堤に登って、暫(しばら)くやすみなさいと云ってみる。征露丸を飲みたいと云うけれど、大宮の町には遠い。

 じりじりと陽が照る。

 よくもこんなに日が照るものだと思う。何処かで山鳩が啼いている。荷物に凭(もた)れて、暫く休む。今夜は大宮へ泊りたいのだけれども、我まんして帰れば帰れない事もないのだが、何しろ商売がないのには弱ってしまう。眼をつぶっていると、虹(にじ)のような疲れかたで、きりきりと額が暑い。手拭を顔へかぶる。お母さんは、少ししゃがんでいきんでみようかと云う。三日もべんぴしているのだそうで、どうも頭が割れるようでのうと云う。
「おおげさな事を云うてるよ。少しそのへんでゆっくりしゃがんでなさい」
「うん、何か紙はないかの」

 私は荷物の中から新聞紙を破ってお母さんへ渡した。よわりめに、たたりめ。幽霊みたいな運命の奴にたたられどうしだ。いまに見よれ。そんな運命なんか叩き返してみせる。あんまりいじめるなよ、おい、ぞうもく野郎! 私は青い空に向って男のように雑言を吐いてみる。私は、こんな生きかたは厭なんだよ。みずみずしい風が吹く。それもしみったれて少しずつ吹いている。

 お母さんは裾をくるりとまくって、草の中へしゃがんだ。握りこぶし程に小さい。死んじまいなよ。何で生きてるんだよ。何年生きたって同じことだよ。お前はどうだ? 生きていたい。死にたくはござらぬぞ……。少しは色気も吸いたいし、飯もぞんぶんに食いたいのです。

 蝉(せみ)が啼(な)きたてている。まあ、こんなに、畑や田んぼが広々としているというのに、誰も昼寝の最中で、行商人なぞはみむきもしない。草に寝転んでいると、躯ごと土の中へ持ってゆかれそうだ。堤の上をまた荷物列車が通る。石材を乗せて走っている。材木も乗っている。東京は大工の書きいれ時だ。あんな石なんかを走らせて、あの石の上に誰が住むのだろう。

 寝ながら口笛を吹く。
「まだかね?」

 時々、お母さんへ声をかけてやる。人間がしゃがんでいるかっこうというものは、天子様でも淋しいかっこうなんだろう。皇后さまもあんな風におしゃがみなのかねえ。金の箸(はし)で挾(はさ)んで、羽二重の布に包んで、綺麗な水へぽちゃりとやるのかもしれない。

 俺とお前は枯れすすき、花の咲かない枯れすすき……。大きい声で唄う。全く惚々(ほれぼれ)するような声なり。おいたわしやのこの人なき真昼。窒息しそうだなぞと云っても、こんなに沢山空気があっては陽気にならざるを得ない。只、空気だけが運命のおめぐみだ。

 絶世の美人に生んでくれないのがあなたの失策さ……。何処にでもあるような女なんか、世の中はみむいてもくれないのさ。
「ああ、やっと出た」
「沢山かね?」
「沢山出たぞ」

 お母さんは立ちあがって、ゆっくり裾をおろした。
「えらい見晴しがいいのう」
「こんなところへ、小舎をたてて住んだらいいね」
「うん。夜は淋しいぞ……」

 用を達して気持ちがいいのか、母は私の横へ来て、セルロイドの歯のかけた櫛(くし)で髪をときつける。

 大宮の町へ行って銭湯にはいりたくなった。下駄をぬぐと、鼻緒のところをのこして、象の足のように汚れた足。若い女の足とも思えぬ。爪はのび放題。指のまたにごみがたまっている。私も用を達しに行く。股(また)の中へすうすうと風がはいって来る。裸の脚はいい気持ちだ。ふとってふとって、まず、この両の腿(もも)で五貫匁(かんめ)というところかな。眼の下を自転車が走ってゆく。玄米パンのほやほや売りだ。私が股を拡げているのも気がつかないで、玉転がしのように往かんを走って行ってしまった。草が濡れてゆく。

 また、背中を汽車が来る。地響きが足の裏にぶきみだ。

 大宮の町へ出たのは三時。どおんと暑い。八百屋の店先きに胡瓜の山。美味(うま)そうなのを二本買って、母と二人で噛(かじ)る。塩があればもっと美味いだろう。二人で、手分けして、両側を軒並みに声をかけて行く。
「クレップの襯衣(シャツ)と、すててこはいりませんか、お安くしときますけどね」

 何処も返事もしてくれない。母が建具屋さんの店先きに腰を掛けている。何か買ってくれるらしい。三十軒も歩いた。やっと、製材所で見せてみなと云われる。

 ねじり鉢巻きの男が三人、汗を拭きながら寄って来る。私は手早く材木の上へ荷物をひろげた。おが屑(くず)の匂いが涼しい。
「大阪から仕入れてるんでとても安いんですよ。輸出の残りなンですよ」
「ねえさんは、美味そうにふとってるな。旦那もちかい?」

 私は心のうちでえっへ、と笑う。何持ちなんだか、さっぱり自分で自分の生態がわからないですとね。上下三円五十銭を五十銭もまけさせられて、三組売る。一寸(ちょっと)、神様に感謝する。犬も歩けば棒にあたるだ。また荷を背負って町角を曲る。お母さんは影もかたちも見えぬ。どうせ大宮の駅で逢えばいいのだ。

 大宮は少しも面白くない町なり。

 東京へ戻ったのが七時頃。雨が降っていた。

 ざんざ降りのなかを金魚のようにゆられて川添いに戻る。今日は十五日。豆ローソクのお光りをあげる。蛙(かえる)が啼いている。炭がないので、近所の炭屋で一山二十銭の炭を買って来て飯を焚く。隣りの駄菓子屋の二階の学生が大正琴(たいしょうごと)をかきならしている。何処からともなく蕎麦(そば)のだしを煮出している匂いがする。胃袋がぶるぶる顫(ふる)えて仕方がない。この世の中に奇蹟(きせき)はないのだ。皇族に生れて来なかったのが身のあやまり……。私は総理大臣にラブレターを出してみようかと思う。夜、ゴオゴリの鼻を読む。鼻が外套(がいとう)を着てさすらってゆく。そして、しょうことなく、だらしなく読者に媚(こび)を呈して、嘘をとりまぜた考えが虚空に消えてゆく。

 苦しめば苦しむほど、生甲斐のある何かだ。吻(ほっ)とする人生を得たいために、時には厭なこともやりかねない。このままな無頓着ではいられない。私にだって、そんな馬鹿馬鹿しい程の時がめぐって来るのだろうか……。このまま何でもなく通りすぎる貧窮のつづきかな。金さえあれば、もっと、どうにかなるのか、浅はかな世の中だ。――その癖、何を考えているのか。自分で自分がさっぱり判らない。正直で誠実で、人情深くて、それが貧乏人のけちな根性さね……。何もないから、せめて正直で、おずおずして、銭勘定ばかりしている。隣りの大学生は大正琴を弾きながら、親から金が送って来て、肉屋の女と恋をしている。結構な生れあわせだ。

 上月の夜に小菜(こな)の汁に米の飯、べんけいさんは理想が小さい。ねえ、それなのに、私はべんけいさんの理想も途方もないぜいたくに思ってます。他人さまとは縁も由縁(ゆかり)もないのよ。私は私こっきりの生きかた。五貫匁もある重い腿をぶらさげて、時には男の事も考える。誰かいいひとはいないかしら、せめて、十日も満足に食わせてくれる男はいないものかと考える。だって、ねえ、こんなに貧乏して、躯(からだ)じゅうをのみに食わしているンじゃアやりきれない。全く、私は生れなきゃよかった部類の女なンだから……。私は馬と夫婦になったっていいと思う。全く邪魔っけな重たい躯なンて不用そのもの、鼻だけで歩きたい位のものだ。ゴオゴリもこんな気持ちで長ったらしい小説なんかでかきくどいたのに違いない。
何時寝るともなく

静かに眠り夢をみる

ただ食べる夢男の夢

特別残酷な笑い事の夢

耳の奥で調子を取る慾

びいんびいんと弓を鳴らす

茶碗つぎの中国人の夢

走って行って追いかえされて

けろりとして烏(からす)のように啼く

太々しいくせに時には泣きたくなる

(か)み傷一つ誰にもつけた事のない

よぼよぼの鼠のくりごと

畸形(きけい)で、男と寝たがる意地ぎたなさ

その日その日が食ってゆければ

まず学者は論文を書く

そんなものなのだろうけれど

私は陳列を見ているといいのだ

みんな手に取ってみせる力が湧く


(八月×日)

 下谷の根岸に風鈴を買いに行き、円い帽子入れに風鈴を詰めて貰って、大きなかさばった荷物を背負って歩く。薄い硝子(ガラス)の玉に、銀のメッキをしたのがダースで八十四銭。馬鹿馬鹿しい話なンだけど、これを草しのぶの下に吊して、色紙のタンザクをつけて売るにはね。汗びっしょりで、何とも気持ちが悪い。からりと晴れた空。まるで、コオボウ大師を背中にしょってるような暑さなり。

 夜、一銭なしで、義父上京。

 広島も岡山も商売は不景気な由なり。

 私はこの人達から離れて暮したいと思う。一緒に暮していると、べとべとにくさってしまいそうだ。心のなかでは、何時でも気紛れな殺人を考えている。少しずつ犯人になった恐怖におそわれる。自分も死んでしまえばいいと思いながら、人間はこうした稀(ま)れな心理のなかには仲々飛び込めないものだと思う。穏かに暮してゆくには、日々の最少の糧がなくては生きてゆけない。頻繁(ひんぱん)に心理的なしゃっくりになやまされる。考える果ては金が欲しい事だ。金さえあれば、単純な生き方が何年かは続けられる。このさきざき、珍らしい事が起きようとは思わない。充分満足する心が与えられない。前の荷馬車屋で酔っぱらいの歌がきこえる。火の粉のように爆発したくなる。もう一度、あの激しい大地震はやって来ないものだろうか。何処を歩いても、美味そうなパンが並んでいる。食べた事もないふわふわなパンの顔。白い肌、触れる事も出来ないパン。

 夜更けて、ハムスンの「飢え」を読む。まだまだこの飢えなんかは天国だ。考える事も自由に歩く事も出来る国の人の小説だ。進化(エヴオリュウション)と、革命という言葉が出て来る。私にはそんな忍耐もいまはない。泥々で渇望の渦のなかに、何も考えないで生きているだけだ。窒息から、かろうじて生きているだけだ。口惜しくなると、そこいらへ小刀で落書きをしたくなる生き方を神様よ御ぞんじですか……。只、こうして手をつかねて風鈴をしのぶ草にくくりつけている。馬鹿に涼しそうだと云って買ってゆく人間の顔が眼に浮ぶ。いまに何とか人生を考えなければなるまい。

 夜更けの川添の町を心を竦(すく)めて私は歩く。尻からげで、只、黙って歩いている。星なんぞは眼にもはいらない。星なんか、みんな私は私の眼から流してしまう。それきりだ。私が尻からげをして歩いているので、狂人女かと、歩く人が、そっとよけて通ってゆく。私はにやにや笑う。男が来ると、わざと、その方へすたすたと歩いてみる。男は大股に、私の方から逃げてゆく。心のなかでは、疾風怒濤(どとう)が吹きつけていながら、生きて境界のちがう差異が私には判って来る。自分以外の人間が動いていて、その人間たちが、みんな、それぞれに陰鬱にみえる。

 私は、いつでも、売春的な、いやらしい自分の心のはずみに驚く。何も驚く事はないくせに、一寸した動機で、何時でも自分をやけくそに捨ててしまえる根ざしはあるものなり。暑いせいか、私はますます原始的になり、せめて、今夜だけでも平凡ではいられないと苛々(いらいら)して来る。迷惑は何処にもころがっていると思いながら、窓の燈を見ると、石を投げたくなるのはどうした事だろう。

 小さい制限のなかで生きているだけなのよ。そこから、出る事も引っこむ事も出来ない。イエス・キリストのたまわくだ。キリストがベツレヘム生れだなんて怪しいものだ。いったい、イエス・キリストなんて、大昔に生きていましたのかね。誰も見た人はないし、誰も助けられたものはない。おシャカ様にしたって怪しいものだ。

 太陽や月を神様にしている孤島の人種の方がはるかに現実的で、真実性があるのに、神様だなんて、たかが人間の形をしているだけの喜劇。この環境の息苦しさを誰一人怪しむものもない。

(八月×日)

 今日はさんりんぼうで、商売に出ても、大した事もないと、お母さんも義父も朝寝。みいんみいんと暑くるしく蝉が啼きたてている。前の牛小舎では、荷車に山のように白い豆腐のおからが盛りあげて、蠅(はえ)がゴマのようにはじけている。おからが食べたくなる。葱を入れて油でいったら美味いな。

 家にいるのが厭なので、また、荷物を背負って一人で出掛ける。別に大した事もないけれど、何時もさんりんぼうのような暮しで、今日のようないい天気をとりにがすのも変な話だと、大久保へ出て、浄水から、煙草専売局へ出て、新宿まで歩く。油照りのかあっとした天気だ。抜弁天(ぬけべんてん)へ出て、一軒一軒歩いてみるが、クレップの襯衣なぞ買ってくれる家もない。

 余丁(よちょう)町の方へ出て、暑い陽射しのなかに、ぶらぶら歩く。亀が這っているような自分の影が何ともおかしい。三宅やす子さんの家の前を通る。偉い女の人に違いない。門前の石段に一寸腰を降して休む。三宅さんは、朝飯も食べない女が、自分の門前に腰をかけているとも思うまい。門の中で、男の子供が遊んでいる。頭のでっかい子供だ。

 若松町へ出て、また、わけもわからずに狭い路地の中を歩いてみる。腹がへって、どうにも歩けやしない、漠然とした考えにとらわれる。第一、暑いので、気が遠くなりそうだ。ところてんでも食べたいものだ。

 背中は汗びっしょり、脚の方へ汗が滴になって流れる。下宿屋をのぞいてみるが、学生はみんな帰省していてひどく閑散。

 何の為に、こんなとこへまで歩いて来たのかさっぱり判らない。真実を云えば、商売をする事よりも、只、己れのセンチメンタルに引きずられて歩いていたい下心なのかも知れない。歩いて、いい事もないとなれば、それがまた、自分を悲しくやるせなくしていると、私は甘くなって、下駄を引きずりながら歩く。家にいて、親の顔なぞ見たくもないと云う、そんなわけと云うものなり。一つ蒲団に何時までも抱きあって寝ている親の姿はいやらしい。上品になりたくても上品にはなれない。親の厄介さがたまらない。何処かへ一人で行って、たった一人で暮したい。ああ、そんな事を考えて歩くと、また、べたべたと涙が溢れる。塩っぱい涙を舌のさきでなめているかと思うと、もう、けろりとして、また背中の荷物をゆすぶりあげて歩く。蝸牛(かたつむり)のような私のずんぐりむっくりした影。風呂へはいって、さっぱりと髪を洗う夢想。首筋から、胸へかけて、ぶつぶつとあせものかさぶたではどうにもなりません。

 小石川の博文館に、いつか小説を持って行ったが、懸賞小説はいまやっていないと断わられてしまったが、島田清次郎は、どんなに工合のいい頭をしているのかしら……。行商も駄目、書く事も駄目となれば、玉の井に躯を売り込むより仕方がないね。三好野で、三角の豆餅を一皿取って食べる。ぬるい茶がごくごくと咽喉(のど)を通る。

 相変らずの下等な趣味。臆病で、弱気で、そのくせ、何かのほどこしを待っているこの精神だ。ほどこしを受けたい一心で生きているようなものだ。ねえ、私は、ねえと云う小説を書きたし。ウエルテルの嘆きと少しも変らぬ、そんなものだ。快適な地すべりをして、ウエルテルの文字は流れている。甘い事この上なしの惚れ文(ぶみ)なり。私はもっと、憎悪を持って、男の事を考える。嘘ばかりで、文学が生れている。みせかけの図々しさで、作者は語る。淫蕩(いんとう)で、仁慈のあるスタイルで、田舎者の読者をたぶらかす。厭じゃありませんか。

 いっその事、神田の職業紹介所まで行って、また、あの桃色カードの女になってみようかと思う。月三十円もあれば、また、静かに書きものは出来る。畳に腹ばって、二十枚八銭の原稿紙を書きつぶす快味。たまには電気ブランの一杯もかたむけて、野宿の夢を結ぶジオゲネスの現実。面白くもないこの日常から、きりきりと結びあげたい気にもなる。

 蒸気をシュッシュッと吐いて生きなければなりませんとも……。おてんとうさまよ。どうして、そんなに、じりじりと暑く照りつけて苦しめるのですか? 暑い。全く、暑くて悶死(もんし)しそうだ。どっかに、巨(おお)きな水たまりはありませんかね。鯨の如く汐を噴いてみたいのですよ。

 一銭の商売にもありつけず、夕方御きかん。

 キャベツにソースをふりかけて、麦飯にありつく。義父はしのぶ売りに出掛けて留守。お母さんは腰巻一枚で洗濯。私も裸になって、井戸水をかぶる。

 少女画報から、原稿返っている。

 舌を出して封を切る。

 奇蹟の森なぞと気取った題をつけても、原稿は案外戻って来る。何も、奇蹟なぞありようがない。信心家の貧しい少女が、パレスチイナでの地を支配する物語なぞ、犬に食われてしまうのは必定、のぼせあがって、世界一の作文なぞに思った事も束(つか)の間(ま)。ああ、この心のほこりも蝶の如く雨の中にかきつけられてしまいましたである。

 井戸水を浴びて、かっかっと火照(ほて)る躯で畳に腹這い、多少なりとも先途の事を考える。燈をしたって、蛾(が)やかなぶんぶんが飛んで来る。何よりもうるさいのは蚊軍の責め苦なり。

 古い文章倶楽部を出して読む。相馬泰三の新宿遊廓(ゆうかく)の物語り面白し。細君はとり子さんと云うのだそうだが、文章では美人らしい。

 ああ、世の中は広いものだ。毎日、何とか、美味いものを食って、夫婦でのんびり夜店歩きの世界もある。

 あれもこれも書きたい。山のように書きたい思いでありながら、私の書いたものなぞ、一枚だって売れやしない。それだけの事だ。名もなき女のいびつな片言。どんな道をたどれば花袋(かたい)になり、春月になれるものだろうか、写真屋のような小説がいいのだそうだ。あるものをあるがままに、おかしな世の中なり。たまには虹も見えると云う小説や詩は駄目なのかもしれない。食えないから虹を見るのだ。何もないから、天皇さんの馬車へ近よりたくもなろう。陳列箱にふかしたてのパンがある。誰の胃袋へはいるだろう。

 裸でころがっているといい気持ちだ。蚊にさされても平気で、私はうとうと二十年もさきの事を空想する。それでも、まだ何ともならないで、行商のしつづけ。子供の五六人も産んで、亭主はどんな男であろうか。働きもので、とにかく、毎日の御飯にことかかぬひとであれば倖(さいわい)なり。

 あんまり蚊にさされるので、また、汗くさいちぢみに手を通して、畳に海老(えび)のようにまるまって紙に向う。何も書く事がないくせに、いろんな文字が頭にきらめきわたる。二銭銅貨と云う題で詩を書く。
青いカビのはえた二銭銅貨よ

牛小舎の前でひらった二銭銅貨

大きくて重くてなめると甘い

蛇がまがりくねっている模様

明治三十四年生れの刻印

遠い昔だね

私はまだ生れてもいない。

ああとても倖せな手ざわり

何でも買える触感

うす皮まんじゅうも買える

大きな飴玉が四ツね

灰で磨いてぴかぴか光らせて

歴史のあかを落して

じいっと私は掌に置いて眺める

まるで金貨のようだ

ぴかぴか光る二銭銅貨

文ちんにしてみたり

裸のへその上にのせてみたり

仲良く遊んでくれる二銭銅貨よ。




底本:「新版 放浪記」新潮文庫、新潮社


   1979(昭和54)年9月30日初版発行

   1983(昭和58)年7月30日9刷

底本の親本:「林芙美子作品集第一巻」新潮社

   1955(昭和30)年12月初版発行

初出:「女人藝術」

   1928(昭和3)年10月号〜1930(昭和5)年10月号

※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。

入力:任天堂株式会社

校正:松永正敏

2008年6月8日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
[#…]は、入力者による注を表す記号です。「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。



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